【アルバイト募集:郷土資料・民間伝承に関する現地調査補助】 作:内山田
僕らは忍野さんに案内され、屋敷の門を出た。そのまま裏手へ回ると、母屋の陰に隠れるようにして、小さな祠が建っていた。
僕の身長よりも低い、木でできた祠だった。
小さな祠にもかかわらず、その前には石造りの鳥居が立っている。鳥居の柱にはところどころ苔がついていて、長い間そこに立っていることが分かる。
屋根の隅には、わずかに赤い塗料が残っていた。もともとは、全体が鮮やかな朱色に塗られていたのだろう。
近くで見ると、祠そのものもかなり古い。木材は黒ずみ、表面には細かなひびが入っている。それでも完全に朽ちてしまっているわけではなく、大事にされてきたことがうかがえた。
「これが、例の祠です」
忍野さんが言った。
「こうして見ると、普通の祠みたいですね」
僕がそう言うと、二階堂さんが小さく頷いた。
「ああ。ただ、普通の祠なら、何を祀ってるかくらいはだいたい分かるもんなんだがな」
二階堂さんは祠の周りを一周するように歩き始めた。
僕もそのあとについていく。
祠の横には、一つだけ奇妙なものがあった。
石である。
丸く平べったい形をした、両手で抱えられるくらいの大きさの石が、鳥居と祠の間に置かれている。
なぜか、ひどく目についた。
「それが気になりますか」
僕が石を見ていると、忍野さんが言った。
「ええ。こういうところに、あまりこういう形の石ってない気がして」
僕が答えると、二階堂さんがしゃがみ込み、石の表面に手を触れた。
「自然にできたにしては、いやに平らだな」
僕も隣にしゃがみ込む。
表面には細かな傷こそあるものの、指で撫でるとつるりとした感触が返ってくる。上面は特に平らで、まるで何かを置くために削ったようにも見えた。
「川の石とかだったら、水に流されるうちにこんなふうに丸くなることもあるんですかね」
「あるだろうな」
二階堂さんは答えながら、石の横面を指で叩いた。
「だとしても、上面までこんなに平らになるか? それに見ろ」
石を少し傾ける。
「こっちはざらざらしてるだろ」
確かに、上面と比べると側面はずっと粗い。
「間違いなく人の手が入ってるだろうな」
「その石は、私が幼い頃からありました」
忍野さんが言った。
「祠の様子も、その頃からほとんど変わっていません。この鳥居も、祠も、それからその石も、昔から今ご覧になられているままです」
「祠の中は見たことがありますか?」
二階堂さんが立ち上がって尋ねる。
「ございます。ただ、何も入っていませんでしたわ」
「何も?」
「ええ。よろしければ、どうぞ」
忍野さんは祠の前に回り、扉に指をかけた。
古い木が軋む音を立てる。そっと扉が開く。
二階堂さんが中を覗き込んだ。
「確かに、何もないな」
僕も隣から覗いてみる。
中は思っていたより狭かった。木で囲まれた小さな空間の底に細かな砂が少し溜まっているだけで、それ以外には何もない。
「こういうものは、たいていご神体になるものが何かしら入ってるんですがね」
二階堂さんが言った。
「でしょう?」
忍野さんは困ったように笑った。
「ですから、不思議なんです。私自身も、『大事にしなければいけないものだから』としか教わっていませんから」
二階堂さんは扉をそっと閉じた。
僕はもう一度、先ほどの石へ目を向けた。
こうして見ると、神社で見かける狛犬などの像が置かれている台座にも見える。
「……ここに、何か置かれていた可能性はありませんか」
僕が言うと、二人がこちらを見る。
「どうかしら」
忍野さんは首を傾げた。
「そういう話は、聞いたことがありません」
二階堂さんが石を見下ろした。
「確かに、物を置くにはちょうどいいな」
僕は祠から目を離し、周囲を見回した。
正面には道路が走っている。その向こうには田んぼが広がり、さらに遠くには山々の稜線が見えた。
近くにある建物は、僕たちが今いる屋敷だけだ。風が田んぼの上を吹き抜け、まだ細い稲の葉を一斉に揺らした。
「髙森」
二階堂さんの声に振り向く。
二階堂さんは鞄からデジタルカメラを取り出し、僕に差し出した。
「これで写真を撮ってくれ。落とすなよ」
「わかりました」
受け取ったカメラは、ところどころボディに傷がついていた。長いこと使われているものらしい。電源を入れると、短い電子音が鳴る。
「正面から一枚。それから左右、裏側。石もいろんな角度から撮っとけ」
「分かりました」
僕は言われた通りにカメラを構えた。
ファインダーの中に鳥居と祠を収める。
一枚。角度を変えて、もう一枚。
石だけを近くから撮り、上面と側面もそれぞれ記録する。
「あと、周りも撮れ」
「周り?」
「祠だけあっても意味がない。どこに、何と一緒にあるのかも残しとけ」
言われた通り、道路、田んぼ、屋敷の位置関係が分かるように何枚か撮る。シャッターを切るたびに、小さな電子音が静かな空間に響いた。
*
祠の調査を終えて、僕らは屋敷に戻っていた。
忍野さんが入れなおしてくれたお茶を一口飲んで、二階堂さんが話し出す。
「一通り見てみた感想ですが、現時点では、あれが何を祀っていたものなのかは分かりません」
「やはり、そうですか」
忍野さんが苦笑する。
「ご主人からは、祀っているものの正体について聞いたことはない、というお話でしたね」
「ええ」
「何か、他に思い出せることはありませんか。些細なことでも構いません」
「そうですね……」
忍野さんは頬に手を当てて考える。
「そういえば、主人は毎年、秋になるとあそこへ何か持って行っておりました」
「何か、とは?」
「果物とか、お菓子とか……その時によってばらばらだったと思います。私も何度か一緒に行ったことがありますが、何をお供えしていたかまでは、はっきりとは……」
「祠の前で、ご主人は何か特別なことをしていましたか?」
「いいえ。お供えものをして、手を合わせるくらいだったと思います」
聞いた限りでは、日本人がよくやる普通の習慣に見える。どこの神社や祠でも、大体似たようなものだろう。
二階堂さんが顎に手を当てたまま言った。
「せめて、お供え物の内容が決まっているとかであれば、見当もつけやすかったんですがね」
確かに、祀っているものの正体が分かっていれば、お供え物にする品物が決まっていてもおかしくない気がする。
「ごめんなさいね。私もあまり覚えているわけではありませんの。何しろ、昔からそこにあるのが日常だったものですから」
忍野さんが申し訳なさそうに言った。
「いえ。ああいった類のものは、たいていそんなものですよ」
二階堂さんはそう言って、お茶をもう一口飲んだ。
「なんにせよ、もう少し調べてみます。この近くに住む人から話を聞くことで、何かヒントが得られるかもしれません」
立ち上がる二階堂さんに続いて、僕はお茶を飲み干した。
*
屋敷を出た僕らは、村の中を歩いていた。
「正体が分かるまでには、なかなか骨が折れそうですね」
隣を歩く二階堂さんに僕が言うと、二階堂さんは田んぼの方へ目を向けたまま答えた。
「まあな。何しろ、こういう習慣ってやつは、紙とかでキチンと記録されてるものじゃない」
「そうなんですか?」
「大抵は、さっきのばあさんみたいに『親から教わった』だとか、『子供のころ、大人たちからそう言われてきた』っていう、口での継承だ。そうなると、『やらなきゃいけないこと』は伝わってても、肝心の理由までは伝わってないことがある」
「……確かに。でもそれだと、いくら調べても答えは分からないんじゃないですか?」
不安になって僕は言った。
二階堂さんは、少しも気にした様子がなかった。
「別に、分からなくたっていいんだよ」
「え?」
思わず立ち止まり、二階堂さんの顔を見る。
二階堂さんは僕が止まったことにも気づかず、田んぼを眺めながら続けた。
「分からないものを、無理に分かったことにする必要はない。俺たちが調べたいのは、何百年前の人間が何を考えてたか、そのものじゃないからな」
「じゃあ、何を調べるんです?」
二階堂さんは少しだけこちらを見た。
「今そこにあるものが、これまでどう扱われてきたのかだ」
「扱われてきた……?」
「誰が、何のために、何をしてきたのか。それが分かれば、大体の形は見えてくる」
「形、ですか」
「ああ」
二階堂さんは前を向いた。
「何て呼ばれてたのか。何をするものだと思われてたのか。何をすればいいのか。そういうのが分かれば、それで十分なこともある」
それ以上、二階堂さんは何も言わなかった。
僕は歩きながら、さっき見た祠を思い返した。
何を祀っているのか分からない。
名前も分からない。
それでも、昔から「大切にしなければならないもの」とだけ伝わってきた。
それなら、確かに何か一つくらい、残っているものがあるのかもしれない。
「……まずは、聞き込みですね」
「ああ。行くぞ」
*
最初に話を聞いたのは、納屋の前で農具を手入れしていた老人だった。
年は七十を過ぎたくらいだろうか。僕らが声をかけると、手にしていた鎌を置いて、快く話を聞いてくれた。
「あの祠は、ずいぶん昔からあったからねえ」
老人はそう言って笑った。
「儂が物心ついた時にはもう、あそこにあったよ。親からはよく、『神様だから大事にしないとだめだ』と言われていたものさ」
「神様、ですか?」
二階堂さんが尋ねる。
「ああ。あの道はこの村から出る唯一の道につながってるからな。昔は村の外へ出るときは、みんなあの祠の前を通ったんだよ」
村に走る唯一の道。
そう考えると、あの祠は道祖神のようなものなのだろうか。
「その頃も、みなさんお供え物をしていましたか?」
続けて二階堂さんが尋ねる。
「時々だけどね。儂も子供のころ、親について行ったことがあるよ。『神様、今日も無事に帰れますように』ってな。まあ、そんなことを言ってた覚えがある」
老人は懐かしそうに笑った。
「なんの神様なんでしょう?」
気になって僕が口を挟む。
老人は少し考えてから首を振った。
「さあ、そこまでは分からないねえ」
「祠の横には石がありました。まるで、何かを乗せる台座のようにも見えます。あそこに何かが置かれていたのかは、ご存じないですか?」
「いやあ、あの石も昔からああだったよ」
老人は少し考えるように目を細めた。
「ただ、昔の人があの石の上に座って休んでるのは見たことがあるな。今みたいに車もなかったからね。歩いて街まで行くとなると、あそこで一息つく奴もいたんだ」
「なるほど」
祠の前で人が休んでいた。それなら、あの平らな石も単なる台座ではないのかもしれない。
僕がそう考えていると、老人がふと思い出したように言った。
「そういや、子供の頃はあの辺で遊ぶなって言われたこともあったな」
「どうしてですか?」
「さあ。神様の近くで騒ぐなってことだったんじゃないかねえ」
老人は笑った。
「昔の大人は、そういうのにうるさかったからな」
「ありがとうございました」
二階堂さんがお礼を言い、僕らは老人と別れた。
歩きながら、僕はさっきの話を頭の中で整理する。
祠は神様を祀ったもの。昔は村の外へ出る人たちが、その前を通っていた。それから、子供は近づくなと言われていた。
分かったことは増えた気がする。けれど、肝心の「何の神様なのか」というところだけは、やはり何も分からない。
*
次に僕らが話を聞いたのは、道端で井戸端会議をしていた二人組の女性だった。
二人とも僕らよりずっと年上で、一人は買い物かごを下げている。
「ああ、あの祠。あれはお稲荷さんだって聞いたわよ」
その女性がそう言った。
「お稲荷さんということは、狐ですか?」
二階堂さんが聞く。
「ええ。私のお父さんはそう言っていたけれど」
すると、もう一人が横から割り込んでくる。
「あら、あたしは今まで狸だと思っていたわ」
最初に答えてくれた女性が、驚いたようにそちらを向く。
「狐じゃないの? だから私、毎年秋に油揚げをお供えしてあげてたわよ」
「あら、そうなの。あたしは干し柿をお供えしてたわ」
「狸って干し柿食べるのかしら」
「それを言ったら、狐も本当は油揚げなんか食べないじゃないの」
「あら、そうだったわね」
二人は顔を見合わせて笑った。
話はいつの間にか、どちらが正しいのかという話に変わっている。
狐なのか、狸なのか。でも、どちらの話にも一つだけ共通しているものがあった。
「とにかく」
二階堂さんが二人の会話を区切る。
「お二人とも、あそこには動物が祀られていると教わっていたわけですね」
そう言うと、女性たちはほとんど同時にうなずいた。
「ええ。だから、お供え物をしないとだめだって聞いたわ」
「なぜ祀られたかはご存じなんですか?」
今度は僕が尋ねる。
二人は顔を見合わせた。
「そうねえ。そこまでは分からないわ」
「子供の時からずっとあるから、理由なんて考えたことなかったもの」
まただ。
昔からそこにあって、日常の一部になっているもの。理由が分からないまま、習慣だけが残っている。
「分かりました。どうもありがとうございます」
二階堂さんがお礼を言って、僕たちは女性たちと別れた。
「狐と狸、ですか……」
歩きながら僕が呟く。
「まあ、どっちも珍しくない話だ」
二階堂さんはそう言った。
「こういうのは、話が変わっていくもんだからな」
「じゃあ、どっちかが間違ってるんでしょうか」
「さあな」
二階堂さんはそれだけ言った。
*
その次に話を聞いたのは、畑の脇で草むしりをしていた老人だった。
僕らが声をかけると、老人は腰を伸ばし、背中を軽く叩いた。
「昔は、あそこに若い女が出たんだって」
「女、ですか?」
「そうだ」
「何をするんでしょう?」
「人を迷わせるらしいよ」
「迷わせる、ですか」
思わず僕が聞き返す。
老人はうなずいた。
「道を歩いてると、前に若い女が立ってるんだと。声をかけると、そのままついて来いって言われる。それで後をついていくと、いつの間にか道が分からなくなってる」
「どこまで連れて行かれるんですか?」
「さあなあ。人によって話が違うんだよ。山に入ったっていう奴もいれば、気がついたら村の反対側にいたっていう奴もいる」
「それは……怖いですね」
僕がそう言うと、老人は苦笑した。
「まあ、昔の話だよ。今はそんな話、する人も少ないけどな」
狐、狸ときて、次は若い女である。
しかも、人を迷わせる。
さっきの女性たちの話と、どこか繋がっているようにも思える。
「あの祠とは、何か関係があるんでしょうか」
僕が尋ねると、老人は首を傾げた。
「祠? ああ……そういや、あそこに祀られた神様と、何か関係があるって聞いたような気もするな」
「それは、どういう?」
「そこまでは覚えてないよ」
老人は頭を掻いた。
「悪いね。儂も子供の頃に聞いた話だから」
「いえ、十分です。ありがとうございました」
二階堂さんが礼を言い、僕らはその場を離れた。
「ずいぶん話が変わってきましたね」
僕が言うと、二階堂さんは少しだけ笑った。
「そういうもんだ」
「結局、狐なのか狸なのか、それとも女なのか……」
「まだ決まってないんだろ」
「決まってない?」
僕が聞き返すと、二階堂さんはそれ以上何も言わなかった。
*
最後に話を聞いたのは、道路脇の小さな家の縁側に座っていた、おばあさんだった。
僕らの姿を見ると、おばあさんはゆっくり顔を上げた。
「あの祠のところはねえ、昔から夜になると道を間違える人が多かったんですよ」
「今もそういったことがありますか?」
二階堂さんが尋ねると、おばあさんは少し考えてから答えた。
「最近は、そういう人も減ったように思いますね。道も広くなりましたし」
「昔は、もっと多かった?」
「ええ。車も今ほど多くありませんでしたからね。歩いて帰る人も多かったでしょう」
おばあさんは道路の先へ目を向ける。
「夜になると、あの辺りだけ道が分からなくなるって言う人がいたんですよ。真っ直ぐ歩いてるつもりなのに、気がつくと違う道に出ているとか」
「それは、いつ頃の話でしょう?」
「私が子供の頃にも、そういう話はありましたねえ」
「若い女を見た、という話を聞いたことはありませんか?」
僕が聞くと、おばあさんは少し驚いた顔をした。
「……ええ」
短い返事だった。
「昔は、そういう話もありました」
「何か覚えていることはありますか?」
おばあさんはしばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「道の先に女の人が立っていて、その人についていくと、帰れなくなるんだって」
「帰れなくなる?」
「ええ。だから、夜はあの辺りを一人で歩くなって、子供の頃はよく言われたものですよ」
それだけ言うと、おばあさんは道路の先を見つめた。
僕もつられて、同じ方向を見る。
昼間の今は、ただ田んぼの間を一本の道が走っているだけだ。
「ありがとうございました」
二階堂さんが礼を言う。
おばあさんも小さく頭を下げた。
そのまま僕らは歩き出した。
「……これで、だいたい話は揃いましたかね」
僕が言う。
「いや」
二階堂さんは首を振った。
「むしろ、分からんことが増えたな」
「ですよね」
狐、狸、若い女。
神様。
道に迷う。
そして、何年も前からそこにあり続ける祠。
ばらばらの話なのに、なぜか一つのものを指しているような気がする。
「次は図書館だ」
「図書館?」
「ああ。こういう話が残ってるなら、村誌くらいには何か載ってるかもしれん」
二階堂さんはそう言って歩き続けた。
僕もその後を追った。