◆
世の中には、どう取り繕っても褒め言葉が見当たらない類いの男がいる。
佐古歳三、四十七歳。前科あり。
およそ世間の陽だまりとは無縁の人生を歩んできた男だ。神が人を創り給うた際、意図的に幾つかの美徳を配分し忘れたのではないかと疑いたくなるほど、その風貌には華がない。
だが神が唯一、この男に過剰なまでに与えてしまったものがある。
すなわち、
もっとも、それとて生まれつきの恩寵などではない。四半世紀もの歳月を『ダンジョン』と呼ばれる異界に入り浸り、魔を屠り、生き血を啜って生き延びてきた結果にすぎなかった。人間、二十五年も朝から晩まで命のやり取りに明け暮れていれば嫌でも化け物の域に足を踏み入れる。本人が望むと望まざるとにかかわらず。
そのしょぼくれた化け物は今、生涯最強の敵と向き合っていた。
場所は青木ヶ原樹海ダンジョン最深部。
対峙するは、その主たる『千獣千眼真如寂滅観音』。
迷宮の怪異というものは、通常、己の縄張りに引き籠もる陰気な習性を持つ。だが、この尊大極まる異形は違った。樹海を際限なく押し広げ、地上の生けるものすべてをその胎内へ飲み干そうと目論んだのだ。
だがおかしなことに、その動機は「滅亡」ではなく「慈悲」であった。
愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦──現世の泥濘に喘ぐ哀れな人間どもを、苦患なき魔の眷属へと創り変えることで救済しようというのである。不死の肉体を得れば、飢えもせず、裏切りに胸を痛めることもなく、老いて朽ちる恐怖からも解放される。
怪物なりの、誠に結構至極な「極楽往生」の押し売りであった。
だがあいにくそこに、余計な世話だと唾を吐きかける男がいた。
佐古歳三である。
動機は正義の為か? ──否。
友のためだ。
◆
寂滅観音がおもむろに腕を持ち上げる。
その異形の手に握られていたのは、一本の剣であった。
本来は煩悩を断ち斬るための聖なる仏具であったはずのそれは、今や禍々しく反転し、柄と刃の境すら定かでない漆黒の魔剣と化している。錆びた鉄のような斑点が浮き沈みし、まるでそれ自体が呼吸しているかのように微かに脈打っていた。
それは肉を裂くための道具ではない。
ただ“死”という結果を、強引に因果の俎上に載せるための呪具であった。滅ぼすと定めた瞬間、その結論を問答無用で現実に刻みつける。
漆黒の刃が歳三の網膜に焼きついた刹那──不可視の断頭台が落ちたかのように、歳三の左腕がぼとりと地面に落ちた。
「あがッ……!」
渇いた呼気が喉から漏れる。
痛みよりも先に訪れたのは、唐突な喪失感だ。傷口から血飛沫すら上がらず、ただ焼け付くような熱塊が肩口に居座っている。存在そのものを因果の根底から削ぎ落とされたのだ。
普通ならここで腰を抜かすか、神仏に縋るかの二者択一だろう。
だが、この不細工な中年男は違った。
「やるねぇッ!」
笑っていた。引き攣った顔のまま、吠えていた。
無様な人生の中で、唯一この男を裏切らなかったのが「殴り合い」という原始の対話だ。その過程で腕の一本を喪った事など何度もある。ならば足を止める理由にはならない。
右拳を固め、全身の腱を軋ませて地を蹴る。
狙いは観音の胸門。
手負いの野獣が放つ、捨て身の突撃。
仁王立ちする怪異は、わずらわしそうに魔剣を再度掲げた。
二度目の“確定”。だが──落ちたのは歳三の首ではなく、腰の佩刀であった。古びた鞘ごと、無残に両断されて宙を舞う。
観音の動きが一瞬、止まった。
どうやら仕損じたらしい。
──からぶっちまったな。プレッシャーに弱い口かい? 俺もだぜ!
内心で悪態を叩きながら、歳三は摩擦熱で陽炎を纏う右拳を、怪異の胸板へと叩き込んだ。
一撃では終わらない。
「まだだァッ!」
歯を剥き出しにし、狂気と諧謔の入り混じった笑みを浮かべて、殴る、殴る、殴る。
連打の雨を棒立ちで受け止めながら、寂滅観音は混乱していた。
なぜ結果がズレたのか──先ほど、一瞬だけ見えた“何か”。肩を肌脱ぎにした厳めしい侠客の残影が、男の身代わりとなったのか。だがその幻影はとうに消えている。
ならば三度目の断罪を──そう試みた観音の手の中で、魔剣は音もなく折れ曲がっていた。
因果の酷使に耐えかねたのか、あるいは。
理由を測る暇はなかった。泥臭く、しかし致命的な重みを持った拳の連打が、観音の存在核を容赦なく軋ませていたからだ。
殺す殺す殺す殺す壊す壊す壊す──歳三の想いが、意が拳に乗っている。この純然たる殺滅の希求が、ダンジョンという異界の特性によってより高まっている。
そう、ダンジョンにはそういう特性があるのだ。
探索者たちの純なる願いに応え、叶えるという特性が。
強くなりたい、美しくなりたい、病を癒したい──そういった願いはだれしもが持つが、ダンジョンで死線をこえれば超えるほど、
事ここにきて、歳三の拳は物理的破壊力のみならず、概念的破壊力を帯びる様になった。 誰よりも、何よりもダンジョンを愛してきた男の願いに、ダンジョンが応えたのだ。
◆
壊れるならば、癒せばよい──観音の背後で法輪が鋭く光を放ち、逆回転を始めようとする。
この法輪の回転はすなわち、万物の流転を示す。
回れば廻るほどに観音の受けた傷は癒えていくだろう。
虚空から伸びた白く細い腕が、ぬるりとその輪を押し止めた。
黒髪に黒い着物を纏った少女の半透明な姿。その身から立ち込める濃厚な魔気。
人間ではない。それは観音自身と同質の気配──すなわち、“ダンジョンの意志”そのもの。
かつてある男の矮小な欲望から歪な形で産み落とされ、巡り合わせの妙で歳三という不器用な男を気に入り、密かに肩入れし続けてきた小さな神格。
だが──格が違いすぎた。
強大な青木ヶ原の主に対し、彼女ができたのはほんの一瞬、その再生を阻むことだけ。法輪の余波を浴びた少女の思念体は、瞬く間に輪郭を失い、ただの希薄な魔力の霧へと還っていった。
だが、その一瞬の「贔屓」があれば、この卑屈な喧嘩屋には十分すぎた。
「
返り血で右腕の肉が焼け爛れようとも、骨が軋もうとも知ったことかとばかりに──
歳三の爪先が、美しい月輪を描いて跳ね上がった。
◆
戦闘の後、歳三は泥の上に腰を落とし、ポケットの底から皺くちゃの煙草を取り出した。親指と人差し指を擦り合わせ、小さな火種を灯して吸い口に近づける。紫煙を深く吸い込んでみるが、舌に残るのは灰の苦味ばかりで、美味いとも不味いとも思えない。
煙草が身体に毒であることくらい、歳三だって承知している。単にニコチン切れの苛立ちを誤魔化しているだけの、自慰のような習慣だ。だが、今の彼にはその僅かな気休めが必要だった。少しばかり、頭を冷やして考えねばならぬことがあったからだ。
「……どうしたもんかねぇ」
手持ち無沙汰に左肩を回そうとして、「ああ」と自虐的な溜息が漏れた。回すべき肩は、もうどこにもない。魔剣に切り落とされた傷口から、男の存在を規定する因果がじわじわと解れ出していた。このまま放っておけば、死ぬどころか、誰の記憶からも消え失せて最初から存在しなかったことになる。完全なる忘却。それが魔剣の呪いだった。額の無い歳三にはそういった理屈は分からないが、戦闘者としてある種の極点に至った者として、自身がどういう状況にあるのかはよくわかる。
だが、諦めるにはまだ早い。
観音の頭蓋を叩き割った瞬間、脳内に直接流れ込んできた不可思議な“意志”の残滓があったからだ。迷宮の理を超えた何者かが、この死に損ないの奮闘に免じて、一つの「選択」を持ちかけてきたのだ。
一つは、この世界において男の記憶を固定化すること。
肉体は消滅しようとも、世界を救った無名の英雄として人々の胸に刻まれ、その栄誉は未来永劫語り継がれるという。
……悪くない話だった。
この社会に自分の居場所が欲しかった。誰かに認めてもらいたくて、泥に塗れて拳を振るい続けた二十五年だった。この手を選べば、男の人生はようやく“満点”の幕引きを迎えられる。
もう一つは、生き延びること。
ただし、この世界では因果の修復が利かないため、全く別の世界へと男の魂を放り出すのだという。煙を細く吐き出しながら、歳三は目を細めた。
英雄として散るか。
それとも──見知らぬ地で、再び生き汚く泥を啜るか。
正直に言えば、もう疲れていた。やれるだけのことはやったという、奇妙な清々しさすらあった。
だが、ふと脳裏を掠めたのは、これまで出会ってきた幾多の阿呆どもや、恩人たちの顔だった。
──俺は馬鹿だから、小難しいこたぁ分からねぇが。
ここで綺麗サッパリお別れを決め込むのは、なんだか違う気がするのだ。言語化できない何か尊いものを穢すような行いであるような気もする。
それに、と歳三は口元を歪めた。
今なら──この歳になってようやく、以前よりはもう少しだけマシに生きられるような、そんな根拠のない予感がしたのだ。
とはいえ、歳三の懸念は尽きない。なにせ外出時、ガスはとめたか、ちゃんと鍵は閉めたかといったような事で心の平穏を大きく乱される子ネズミが如き性根の中年であるからして。
──向こうにも、ダンジョンってやつはあるのかねぇ。
職にあぶれたら目も当てられない、という実に世俗的な心配が胸を突く。歳三は自分が戦う事しか出来ぬ男だとよぉく知っているため、これはまあ当然の心配であった。
すると、脳裏の奥底から、ぽこりと『是』という肯定の響きが返ってきた。
──じゃあ、潜り続ければ、いつか“ご褒美”でこっちに戻って来られるのかねぇ。
少し間があって──『是』。
ただ、伝わってくる何か奇妙な意思の波動のようなものは、単純にダンジョンに潜れば良いというわけではないことも告げている。なにやら偉業を達成しなければならず、それはなかなか難しい事のようだ。
──俺の腕を切ってくれやがったアイツを倒すより難しいってことかい?
歳三が心中で尋ねるが、応えはない。無視というより、判じかねているといった風情であった。歳三は小さく息を漏らし、煙草の煙を肺腑の奥まで吸い込む。
「同じくらいってことかい? だったら──決まりだ」
指先からぽとりと吸い殻が落ちる。
吹き抜けた風が、小さな火種を静かに掻き消した。
その場にはもう、片腕の男の姿は残されていなかった。
◆
さて、あるところに、どうしようもないおじさんがいた。
佐古歳三、四十七歳。前科あり。
相も変わらず見栄えのしない、しょぼくれた中年男である。
その男が今、どこで何をしているかといえば──赤茶けた土と乾いた岩が果てしなく続く荒涼たる鉱山で、せっせと懲罰労働に精を出していた。
見渡せば、周囲でツルハシを振るう連中は、揃いも揃って地獄の釜の底から這い出してきたような極悪人ばかり。魔術を封じ込める鈍色の首錠を嵌められ、殺気立った視線を交わし合っている。
この世界において、意思を現実に上書きする根源的な力たる「
そんな荒くれ者たちの中心で、歳三は素手であった。
首には囚人と同じ首錠が嵌まっている。
だが、歳三は貸与された道具すら使わず、無造作に拳を振り下ろしていた。
──どごぉんッ!
腹の底を揺るがす轟音とともに、人間大の岩塊が熟れすぎた西瓜のように四散する。
土煙が舞い散る中、周囲の悪党どもは息を呑み、化け物を見る目で立ち尽くしていた。魔力を封じられた人間がなぜ素手で巨岩を粉砕できるのか。彼らの知る物理法則も世界の理も、このしょぼくれた東洋人には一向に通用していなかった。
だが肝心の歳三はといえば、その人間離れした膂力とは裏腹に、世の終わりを迎えたかのような陰鬱な顔で溜息をついていた。
──やっちまったもんは、しょうがねぇけどよ、でも俺って奴はなんてダメなんだ。屑だ……カスだ。望月君、すまねえ、俺は何も変わってねえ……
双眸の奥には、深い自己嫌悪の澱が沈んでいる。
新天地に渡って早々、この男は罪を犯したのだ。
罪状は──殺人!!
如何なる理由があれど、法を破ったからには償わねばならない──それが前科持ちの染み付いた倫理観であった。もっとも、なぜ殺人犯が処刑台ではなく鉱山で岩を割っているのかについては、少々込み入った事情があるのだが。
歳三の思考は、この世界に落ちてきた“最初の日”へと遡る。
◆
大いなる転移の果て、歳三が目を覚ましたのは、見渡す限りの緑が波打つ広大な大草原の真ん中だった。天は吸い込まれそうなほどに青く、吹き抜ける風は驚くほど清純で、草の葉ずれが耳をくすぐる。
「……ん?」
上半身を起こした歳三は、あまりにも絵画めいた牧歌的な風景に眉をひそめた。ダンジョンの血生臭さとも、都会の排気ガスとも無縁のどこまでも長閑な世界。
歳三にとってこれは些か居心地の悪すぎる空間であった。歳三はどちらかといえば混沌を好む。床に無造作に放り出されたストロングゼロの空き缶、その他諸々──そんないわゆる「汚部屋」が歳三の心落ち着く空間なのだ。
「……どこだ、ここ。ああ、そうか俺は……」
ぽつりとこぼした独白は、誰に拾われることもなく風に消える。
立ち上がり、砂漠でオアシスを探す旅人のように目を凝らすと、地平線の彼方に太陽を浴びて白く輝く巨大な壁が見えた。
街か、あるいは城か。
それがこの地最大の要衝「城塞都市ベルグリット」の外壁であることなど、知る由もない。
「……とりあえず、行ってみるかねぇ」
当てもなければ、頼れる知人もいない。
かくして佐古歳三は見知らぬ世界の真っ只中をとぼとぼと歩き始めたのであった。