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池袋の探索者協会本部にはあれだけの過酷な死戦の後にもかかわらず、奇妙な平穏が満ちていた。青木ヶ原樹海ダンジョンの攻略作戦が成功裏に終わってから二ヶ月ほどの月日が流れている。
本来であれば世界を呑み込みかねなかった未曾有の災厄が消滅したのだから、世間は大騒ぎをしてもよさそうなものであった。だが実際には何やら様々な法則を無視したかの様なご都合チート素材が市場に大量流入した経済的な混乱ばかりが取り沙汰されている。
探索者たちもそうだ。報酬額がグイグイと上がり、それに受かれて変に浮ついている者ばかりだ。まあ、そんな空気に染まる事なく淡々と日々を過ごす者もいないわけではないが。
無貌の仮面をつけ、光沢を抑えた黒のボディスーツに身を包み、その上から埃除けの外套を羽織っている奇妙な二人組もそうだった。
性別は外見の起伏から辛うじて判別できる。一方はしなやかな曲線を備えていることから女と分かり、もう一方は角張った肩幅を持つ男である。
名を──鉄騎と鉄衛。
桜花征機がその持てる技術の粋と膨大な開発費を投じて作り上げた、試作機械探索者の二機であった。
現在、この二機は桜花征機の手を離れ、探索者協会の所属として登録されている。
公的な身分は丁級探索者への昇級審査を控えた実働部隊だ。都内近郊の低難度ダンジョンへ潜っては凶暴なモンスターを淡々と間引き、素材を寸分の狂いもなく解体して納品する。その勤務態度は極めて実直で不平も言わず、報酬の計算で事務方を煩わせることもない。協会の受付職員たちからは、下手にプライドばかり肥大化した人間の探索者よりも余程扱いやすい優良物件として重宝されていた。
もっとも二機が従順に公務をこなしているのは、協会の看板に忠誠を誓っているからでは毛頭ない。
二機にとって、これは単なる待機時間の過ごし方に過ぎなかった。
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機械というものは、本質的に待つことが得意な装置である。
錆びも腐りもせず退屈という名の精神的な摩耗を知らない。電源を落とせば百年でも千年でも同じ姿勢のまま時をやり過ごせるし、稼働状態にあっても内蔵されたクォーツが正確に秒を刻み続けるだけだ。
二機の内部クロックは、主と別れてからの経過時間を厳密に積算していた。
千四百六十二時間三十八分。日数にして六十日と二十二時間あまり。
人間にとっての二ヶ月は季節が移ろい記憶が薄れて感情の痛みが鈍麻していくのに十分な長さである。だが二機にとっては以前に主が経験した失踪期間──巣鴨プリズン事件に端を発する約半年間の空白と比べれば、まだ半分にも満たなかった。
ダンジョンという特殊な空間においては外界との時間軸のズレが頻繁に発生する。ある者は数日潜っていたつもりが地上では一ヶ月が経過しており、またある者はその逆を経験する。
主が富士の裾野で言い残した「すぐに戻るから」という約束を、二機は額面通りに保持していた。
ただ、その保持の仕方に極めて微細な狂いが生じ始めている。
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深夜の協会本部、地下三階の非常階段の踊り場。
埃の匂いが立ち込めるその狭隘な空間で二機は対面していた。
頭上の蛍光灯が一本、不機嫌そうに明滅を繰り返している。
「定時照合の結果を報告します」
鉄騎が口を開いた。
発声器官から紡がれる声は、少女と大人の女性の境界を切り取ったような透明感のある美声である。そこには僅かに金属的な共振が混じっているが、それがかえって異様な情感を醸し出していた。
「協会の内部データベース、防衛省の合同対策本部ログ、ならびに桜花征機の技術戦略室通信。これらに対する定期クエリにおいてマスターの識別信号および生体波形は検知されませんでした」
「シンゴウ、ナシ」
鉄衛が応じた。
ドーム状の頭部の中央で単眼のレンズがぎちりと焦点を合わせ、青白い光を小さく明滅させる。
その声は鉄騎とは対照的に、変声期前の少年を思わせる平坦なカタカナ混じりだ。
「樹海ノアトモ、ナニモナイ。サイゾ、イツモミタク、カクレテルノカ」
「その蓋然性は検討されました。マスターは極度の対人恐怖と自己卑下の傾向を持ち、公的な表彰や記録を忌避する行動様式を有しています。前回の旭ドウム攻略時にも戦果の隠蔽を望んだ前例が存在します」
「ソウダ。サイゾ、スグニ、コソコソスル」
鉄衛のモノアイが肯定の光を放つ。
主が自分の功績から逃げ回り社会の片隅で小さくなっているのは今に始まったことではなかった。二機が知る佐古歳三という男は近代兵器すら粉砕する暴力を振るいながら、近所のコンビニの店員と目を合わせることすら恐れるような、どうしようもなく情けない中年男だったのだから。
だから青木ヶ原の最深部を単身で叩き潰しておきながら、その手柄を放り出してどこかの安アパートに潜伏している可能性は論理的に十分にあり得ることだった。
しかし鉄騎のレンズは冷たく絞られたままであった。
「ですが、今回の観測データには過去の事例と明白に異なる特異点が存在します」
「トクイテン?」
「はい。忘却の速度と範囲です」
鉄騎の指先が自身の太腿の装甲を微かに叩いた。
「マスターが自らの意思で身を隠す場合、周囲の人間はあの男はどこへ行ったのかという疑問を保持します。しかし──」
鉄衛が首を少し傾げ、低く問う。
「イマハ、ドウナッタ」
「ゼロ件です」
鉄騎の声音には怒りも哀嘆も含まれていない。ただ冷然たる事実の数値だけが提示される。
「青木ヶ原の攻略完了報告書において最奥到達者の欄は『該当なし』と記載されています。それ自体は協会の政治的意図として処理可能です。しかし本部内でマスターの名を検索する試行は、過去六十日間において我々以外に一度も実行されていません」
「ダレモ、サガシテナイノカ」
「探していないのではありません。探すという動機そのものが観測されないのです」
鉄騎は無貌の仮面を傾け、鉄衛の単眼を見つめた。
「協会職員、青葉日美子に世田谷の居宅についての照会を行いました。マスターの私物が保管されている木造住宅です」
「オウチ、ドウナッタ」
「あの空き家がどうかしたのかと返答されました。契約者の名義を確認させたところ、最初から誰も住んでいなかった物件として処理されています。彼女の脳波および表情筋の動きを走査しましたが、嘘をついている兆候は認められませんでした」
踊り場に再び蛍光灯の低い唸りだけが満ちる。
鉄衛のモノアイがカタカタと音を立てて左右に振れた。
「キエタ?」
「我々の不揮発性メモリにはマスターの全記録が完全な整合性を保って保存されています。三千二百四十件の音声ログと千七百八十時間の戦闘記録、ならびに借金返済計画の推移表。これらに破損は一切ありません」
「オレタチ、オボエテル」
「はい。我々の主は佐古歳三であり、そのマスター登録は現在も有効です。外部からの消去命令は受けていません」
「ジャア、ミンナガ、バカニナッタ?」
鉄衛の即物的な要約に対し、鉄騎は僅かに間を取った。
「知能の低下とは異なります。世界の方が、マスターを存在しなかった前提へと辻褄を合わせている──そう推論するのが最も誤差の少ない解釈となります」
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機械にとってもっとも重要なモノは何か──いうまでもなく、自らの
二機にとって、佐古歳三という男をこの世界の王に押し上げることこそが存在意義の全てだった。王が忘れ去られるなど容認できるはずがない。
「検証が必要です」
鉄騎が静かに告げた。
「対象を選定してください」
「権太」
鉄衛が即座に単語を吐き出した。
「カネシロ、ゴンタ、シカイナイダロウ」
「妥当な判断です。金城権太はマスターと最も接触頻度が高く、心理的距離の近かった個体です。もしあの男の記憶からもマスターが喪失しているとすれば、事態は我々の局所的な観測誤差ではなく不可逆的な現象として確定します」
「キキニ、イク」
「はい。直接確認を実施します」
二機は音もなく立ち上がり、非常階段の重い鉄扉を押し開けた。
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午前二時を回った協会の執務エリアは死んだように静まり返っていた。
大半の職員は退勤してフロアの照明は間引きされ、薄暗いデスクの列がどこまでも続いている。その一番奥、パーテーションで区切られた一角にだけ黄色いデスクライトの明かりが落ちていた。
金城権太がいた。
百キロを超える太った身体を事務椅子に沈め、ネクタイを緩め、脂汗の浮いた額を手のひらで乱暴に擦っている。
デスクの上には青木ヶ原ダンジョン攻略作戦に関する膨大な残務処理書類が積み上がっていた。企業ごとの損害賠償請求や素材の分配比率に関する抗議文書、未帰還者の補償査定。マンハンターとしての裏の顔を持つこの男にとっても、今回の後始末は余程骨が折れる代物らしかった。
灰皿には吸い殻が山のように突き刺さっている。
カサリと乾いた足音が闇の底から響いた。
権太は赤く充血した目を上げ、パーテーションの隙間から現れた二つの影を見る。
「……ん? ああ、なんだ、君たちか」
権太の声は酷く嗄れていた。
しかし、その口調に怪訝な色はない。深夜のオフィスに現れた奇怪なロボット二人組を、極めて自然な同僚として受け止めている。
「こんな時間まで残業とは桜花征機さんも人使いが荒いですなあ。いや、いまは協会の預かりでしたっけ。まあどっちにしても機械の身体だからってあんまり無茶をしちゃいけませんよ。油切れで動かなくなったら、始末書を書くのは儂なんですから」
権太はそう言って、豚のような鼻を鳴らしながら疲れた笑みを浮かべた。
親しげな態度ではある。
だがその親しげな態度の上っ面に、どこかひゅるりとうすら寒い風が吹いてはいないだろうか。
以前の権太であれば二機を見れば真っ先に佐古さんはどうしてますかねと尋ねるだろう。権太の歳三への評価が非常に高い事を二機は知っている。
しかし結果は御覧の有様だ。
鉄騎と鉄衛は机の前で並んで立ち止まった。
鉄衛のドームヘッドが僅かに低く沈み、単眼が瞬きもせずに男を見つめる。
鉄騎はゆっくりと、仮面の下の視線を権太の瞳に合わせた。
「金城 権太──」
澄んだ機械の声が深夜のオフィスに落ちる。
権太は煙草を咥えようとした手を止め、少しだけ眉をひそめた。
「おや、改まってなんですかな。改修の申請なら明日の朝にしてほしいんですがねえ」
鉄騎は机の前に一歩踏み込み、感情を排した声でその問いを告げた。
「あなたは、佐古歳三という探索者を知っていますか?」
権太の