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旅の準備──それは佐古歳三という男の手には、やや余る。
地図と金は手元にある。だが、それらをどう使えば「準備」が終わるのかという肝心な部分が、この男にはすっぽり抜け落ちていた。
そもそも『準備とは何か』が歳三には判然としないのだ。
準備という作業は、これから起きる面倒事をある程度見通せる人間にしか務まらない。元の世界にいた頃からして、歳三は計画性という言葉と無縁に生きてきた男である。空模様も見ずに出かけてはずぶ濡れになり、トイレットペーパーが切れてから初めて買い置きがないことに気づく。ましてやここは相場も常識も分からぬ異世界だ。そんな土地へ放り出された中年男に二十日間の旅の支度をしろというのは、猫に確定申告をさせるような無理難題であった。
とはいえ一つだけ明確で、切実な欲求がある。
煙草である。
あるいは煙草に類する嗜好品だ。生来が何かしらに依存しないとマトモに生きていけないような男であるから、この異世界でも真っ先に紫煙を追い求めてしまうのは仕方がないのかもしれない。
歳三は宿屋『銀杯亭』を後にし、再び城塞都市ベルグリットの喧騒の中へと足を踏み出した。
午後の陽射しは強く、歳三の肌感覚ではやや夏寄りの春といった所か。
大通りは相変わらず、人や荷馬車や得体の知れない荷駄獣でごった返していた。重そうな荷を背負った行商人の横を、軽薄な笑みを浮かべた吟遊詩人や腰に剣を吊るした冒険者連中が肩で風を切って歩いていく。別に何か悪事をしでかしたわけでもないのに歳三はなるべく目立たぬよう、道の端を縮こまるようにして歩いた。目的のブツを求めておどおどと辺りを見回す。
そうしているうちに見つけたある露店では、奇妙な色をした乾燥葉が山と積まれていた。店主らしき男がそれを刻み、紙に巻いて客に渡しているのを見てピンとくる。
──パイプ巻きってやつかな? マーク・ロワイヤルみたいな奴かもしれねえな。
『マーク・ロワイヤル』とは、元の世界で売られていた紙巻き煙草の銘柄である。本来はパイプ用の香り高い葉を紙で巻いた品で、火をつけるとバニラや紅茶めいた甘い匂いが立ち昇るのが売りであった。歳三はこれでいてミーハーな所もあるので、『パイプ葉を使った洋モク』という洒落臭い触れ込みに惹かれて一度だけ手を出したことがある。もっとも、普段から何の変哲もないきつい煙草ばかり吸っていたこの男の趣味には合わず、あの甘ったるさに閉口して数本で放り出してしまったのだが。
とはいえ、それしかないのであれば歳三としては吸う所存である。そういうわけで店に近づこうとした──その時だった。
「っと……」
不意に横から現れた人影と肩がぶつかる。
「おっと、すまねえ」
反射的に謝罪の言葉が口をついて出た。現代日本ならそれで済むのだが、あいにくここは異世界だ。
「おいおいおい、おっさんよぉ、『すまねえ』ってなんだ?」
低く粘りつくようなだみ声が飛んでくる。
見れば、荒々しい風体の男女が三人立っていた。いずれも冒険者と思しき連中である。
中央で仁王立ちしている筋骨隆々の大男は、顔中に無数の傷跡が走り、血の気の多さと知性の乏しさを絵に描いたような酷薄な目つきをしていた。名をチマミレといい、下級上位の冒険者である。その両脇を固めるのは、チマミレをアニキと慕う痩せた弟分のアオタンに、ケバケバしい化粧を施した女のハニトラ。どこの世界にも一定数は湧いて出る、実に分かりやすい三下チンピラの一団であった。
チマミレはぶつかった相手がどこからどう見ても冴えない、妙な黒い服を着た中年男であることを見て取り、にやりと口元を歪める。
一方の歳三は困惑していた。謝罪の言葉が通じないとはどういうことか。この世界の言葉は問題なく聞き取れているはずなのに。貧弱な社会経験の引き出しをひっくり返してみても該当する事例は見当たらず、結果としてひねり出された答えは実に馬鹿正直なものであった。
「え、と……すまねえってのは、悪かったなって意味だ」
直後、乾いた破裂音が響き渡った。
チマミレの分厚い掌が、歳三の左頬をまともに張り飛ばしたのである。常人であれば脳が揺さぶられ、首の骨が軋んでその場に昏倒していてもおかしくない強烈な一撃であった。
だがこの時、佐古歳三という男の思考は実に奇妙な方向へと流れていた。
歳三の超人的な動体視力からすれば、チマミレの平手打ちなどスローモーション映像と大差ない。避けようと思えば欠伸をしながらでも避けられた。何せこの男は至近距離から放たれる銃弾を空手の回し受けで全て叩き落としてしまえるのだから、いわんや素人の平手打ちなどどうという事もないのだ。
しかし、歳三は避けなかった。
──もしかして、この世界では謝罪の仕方も日本とは違うのか?
そんな実に間抜けなことを考え込んでいたせいである。常ならばこういった行為を歳三は『攻撃』と見做すのだが、異世界に来て日が浅い身ではこの地の常識や慣習がさっぱり分からないし、ついでに言えば……。
──遅ぇ、な。これはあれか、肩パンみたいな感じか?
肩パンとは肩パンチの略で、意味はそのまま肩を殴る行為なのだが、これは小中学校などで時に制裁やら罰ゲームやらに用いられることもある。つまるところ、
そんな益体もない事を考え込んでいるうちに、掌が吸い込まれるように頬に当たってしまったのだ。
そして、その衝撃は──皆無であった。痛くもなければ痒くもない。
チマミレの平手打ちは、歳三に痛みと恐怖を与えるにはあまりにも、あまりにも弱すぎた。単純威力もしょぼく、更に精神的にもなんら衝撃を受けていなければ、歳三の脳はそれを攻撃とは見做さない。かくして、殴った側のチマミレだけが一方的に割を食う羽目になった。
「……?」
チマミレは歳三を引っ叩いた右の掌を呆然と見つめている。
「アニキ、どうしたんですかい?」
弟分のアオタンが訝しげに尋ねた。その横ではハニトラと呼ばれている女が、品定めするような細めた目で歳三をじろじろと観察している。
「いや……その……」
チマミレは歯切れ悪く言葉を濁し、引っ叩いたばかりの右手を僅かに引き寄せた。洒落にならないほど痛むのだ。
人間の頬を張った感触では到底なかった。中身のみっしり詰まった鉄の塊か、さもなければ巨大な岩盤でも素手で全力で引っ叩いたかのような、理不尽極まる手応えである。右手がじんじんと痺れ、手首の奥まで嫌な鈍痛が響いていた。下手すれば骨に罅が入ったかもしれない。
──なんだ、こいつは……?
チマミレの混乱を他所に、当の歳三はといえば実に呑気なものであった。これがこの世界の流儀なのだとすっかり納得してしまっている。ならば礼には礼を返さねばなるまい。歳三は一歩前に進み出ると、生真面目な顔でチマミレに問いかけた。
「なあ兄さん、俺も同じようにあんたの頬っぺたを叩いていいのかい? ここらじゃそれが挨拶代りなんだろ? 俺はよそ者でね、あんまりこの辺の事に詳しくねえんだ」
その言葉を聞いた途端、チマミレの顔からさっと血の気が引いた。
「いや……」
生返事しか出てこない。
チマミレという男、生来、血の気は足りてもオツムは足りない。言葉より先に手が出る根っからの荒くれ者気質であり、人間を人間たらしめている要素が知性だとすれば、ちょっと人間未満といってもいいくらいである。だがそういう単細胞な男だからこそ、野生の勘というものが人より少し多めに備わっていた。頭で理屈をこねるより先に、チマミレの背筋がぞわりと粟立ったのだ。
──駄目だな。
チマミレは即座にそう判じた。見た目こそ妙な恰好をした冴えないおっさんだが、この男の“挨拶”だけは死んでも受けてはならない。
もしこの男が自分と同じように平手打ちを放ったらどうなるか。先程の鉄塊を殴ったかのような硬さ。あの化け物じみた肉体から全力で張り手が飛んできたなら、自分の頭蓋骨など熟れすぎたトマトのように弾け飛ぶのではないか。こちらが殴ろうが蹴ろうが、この男には痛くも痒くもないだろう。だがそれ以上に、この男にだけは絶対に叩き返されてはならない──理屈抜きの恐怖で、チマミレの背中には嫌な脂汗がどっと噴き出していた。
だが、ここで無様に怯むわけにもいかない。背後には弟分のアオタンと女のハニトラが控えているのだ。二人の前で尻尾を巻いて逃げ出すなど、アニキとしての面子が許さなかった。どうすれば己の威厳を保ったままこの場を丸く収められるのか。生まれてこの方、これほど頭を使ったことはなかったかもしれない。
「……いや、これは、そうだな……おっさんはよそ者だろ?」
「ああ」
歳三は素直に頷く。
「よそ者なら知らねえかもしれねえな」
引きつりそうになる頬を無理やり緩め、チマミレは努めて平静を装った。もっともらしい口調で語り始める。
「さっきおっさんは俺の肩にぶつかった。結構痛かったんだぜ? だから俺はムカついた。普通なら喧嘩だ」
そこで一度言葉を切り、わざとらしく周囲を見回す。
「だがな、一発叩くことでチャラにした。これが冒険者の流儀ってやつさ。恨みは後には残さない。結局のところ、俺たちは皆仲間なんだからな!」
「仲間……?」
「ああ、仲間だ! おい、そうだろ? アオタン! ハニトラ!」
チマミレは振り返り、凄まじい形相で二人に同意を迫った。YESと答えねば今すぐ縊り殺す──そんな圧すら滲む鬼相である。
「え、あ、はい、そうっすね。仲間っす……」
「え!? そうねぇ……仲間、仲間? 仲間よね、うんうん……」
アオタンとハニトラも必死に空気を読み、冒険者は皆仲間だというチマミレの暴論へ頷いた。実に苦しい言い訳であることはチマミレ自身が一番よく分かっている。だが命と面子を同時に守るには、もうこれしか手はなかったのだ。
「で、だ。おっさんも冒険者だったりするんだろ?」
チマミレは改めて歳三の全身を上から下まで眺め回した。
この世界の基準からすれば、歳三の服装は珍妙そのものである。鎧でもなければローブでもない。最先端の技術が注ぎ込まれたバトルスーツという防具は、この異世界に存在しない概念だ。もっとも、世の中には風変わりな装いの冒険者も珍しくはない。遺跡やらダンジョンやらから奇妙な意匠の武具を掘り出して身につける連中もいるため、これもその類いだろうとチマミレは当たりをつけた。
歳三はこくりと頷く。
「ああ、俺は冒険者だぜ。故郷では、その、まあ似たような事をしてたんだけどよ。こっちでは新米としてやらせてもらってる」
新米という言葉に、一瞬だけチマミレの胸に侮りが蘇りかけた。だが続く「故郷では似たような事を」の一言で、すぐさま合点がいく。
──なるほどな、このおっさんは故郷ではそれなりに名の通った戦士ってわけか。
その見立ては、まあ当たらずとも遠からずといった所だろう。
「そうかい、そうかい。なら話は早え。新米ならこの街の流儀を覚えておくんだな。ちっとムカついても一発殴ればチャラだ! その後は恨みっこなし! 俺たちはみんなこれで上手くやっている。そういうわけでじゃあな、おっさん!」
チマミレは早口でそれだけまくしたてると、逃げるように足早に立ち去った。アオタンとハニトラも訳が分からぬまま慌ててその後を追う。
残された歳三は、しばし往来の真ん中で立ち尽くしていた。
──なるほど、一発殴ってチャラにする、か。随分と荒っぽい流儀だな。でもスカッとしていいじゃねえか。
そんな間抜けな──だがある意味ではとてつもなくおっかない勘違いを胸に抱きながら、歳三はさきほど見つけた店へと再び足を向けたのであった。