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歳三が茫然と眺めていた巨大な壁は一歩また一歩と歩みを進めるにつれ、その圧倒的な存在感を否応なく増していった。
仰ぎ見れば首の後ろが痛くなるほどの高さである。
継ぎ目など微塵も見出せぬほど滑らかに磨き上げられた石造りの壁面が右を見ても左を見ても視界の尽きるところまで延々と続いてゆく。そのあまりの規模に歳三は自分がつい今しがたまで歩いてきた草原のことなど、もう遠い昔の夢の中の出来事のように感じられた。
やがて巨大な城門が目の前に姿を現した。
門の前には明らかに歳三がいた世界とは異なる意匠の衣服をまとった人々が長大な列を成している。麻や革で仕立てたのであろう簡素な服を身に纏う者もいれば、きらびやかな装飾の施された鎧を着込んだ者もいる。荷馬車を引きながら何やら仲間と談笑している商人らしき男があり、腰に剣を吊るした屈強な傭兵風の男がある。まるでファンタジー映画のセットにでも迷い込んでしまったかのような、およそ現実味というものを欠いた光景であった。
門を守るのは揃いの鎧に身を固めた兵士たちである。彼らは入場者一人一人に対して何事か短い言葉を交わし、身分証らしきものをあらためている様子であった。一種の検問なのであろう。
歳三は特に深く考えることもなく、その行列の最後尾にちょこんと並んだ。
──さて、どうしたものか。
並びはしたものの、果たしてそれでいいのかどうかも歳三には分からない。ただ、この場を離れてまたぞろどこかへ歩き去っていく事が正しいとも思えなかった。歳三が並んだのは、多くの者が並んでいるから自分もそうしてみようという極めてレベルの低い思考に依るものだ。
──ちっ! やべえな……ピンチってやつか?
歳三が内心で煩悶していると、背後から不意に声をかけられた。
「よう! あんた、どこから来たんだい?」
振り返れば、そこに立っていたのは自分と同じくらいの背丈の中年男であった。日に焼けた肌にあちこちが擦り切れた粗末な衣服。どことなく貧相ななりをしているがその目には人懐っこい光が浮かんでいる。
しかし歳三はその目の光に金城権太と似たモノを見た。金城権太とは以前の世界──日本で歳三の友人だった中年男である。ダンジョン探索者協会の職員であり、如何にも悪徳金融屋といった風情の外見をしていて、そして風俗狂いのネチネチ親父であった。あれと同じ光がこの男の目にもある、と歳三は思った。
「富士の樹海から」
馬鹿正直にそんな事を答える歳三。
まあよく考えればもう少し状況に合った返答というものが出来るはずなのだが、歳三には少し難しい。男のほうの反応だが、やはりフジノジュカイなるものは知らないようで
「フジノジュカイ? なんだいそりゃあ……どっかの国の名前かい?」
などと心底不思議そうに首を傾げる。話が全く通じていない。
歳三はわずかに焦りを覚え、小学生程度の語彙力で補足説明を試みた。
「ええと、森なんだ」
「ははあ、なるほどねぇ! フジノジュカイっていう森の民かい。そりゃあ大変だったろう」
男はあっさりと納得した。
どうやら歳三のことを森の奥深くで暮らす未開の部族の一員だと判断したらしい。しょうもない男のしょうもない説明は控えめに言ってもカスのような解像度であったが、幸いにも相手の豊かな想像力によって補完された。
「それにしてもあんた、妙な恰好をしてるねえ」
男の視線が歳三の全身を覆う黒いボディスーツに向けられる。探索者にとっては馴染み深いその服装もこの世界の住人から見れば奇異の極みに映るのであろう。
「部族の戦衣装みたいな感じかい?」
「あ、ああ。そうなんだ……」
もはや訂正するのも面倒くさい。歳三は力なく頷いた。こうして一つの嘘がまた一つの嘘を呼ぶのである。
男はカラリと笑い、自分の胸を叩いた。
「俺はヘンダーソン。見ての通り、世界を股にかける偉大な男さ。あんたは?」
「歳三だ。佐古 歳三──四十七歳」
「サコサイゾウ? 変わった名前だなあ、年齢はまあ、そんなとこだろうとは思ったけどよ」
「あ、いや……ええと、サイゾウで、いいぜ」
そんな頭が痛くなるようなやり取りの後、ヘンダーソンは歳三にしきりと話しかけた。雑談内容としては、極めて有益なものである。
この城塞都市ベルグリットが王国で最も栄えている商業都市であること。通貨はゴルダと呼ばれ、銅貨、銀貨、金貨の三種類があること。冒険者と呼ばれる者たちが幅を利かせていること。彼らはギルドに所属し、様々な依頼をこなして生計を立てていること。
ヘンダーソンの口からは歳三にとって貴重な情報が次から次へと溢れ出てくる。無論、覚えきれるわけもない。だが歳三はそのことを申告しなかった。聞き返す事で相手を不機嫌にさせるのを恐れたからである。
気弱な者に特有の保身術なのだがヘンダーソンのほうは歳三が話をしっかり理解したものだと思い込んでしまった。
◇
行列は思いのほかスムーズに進んでいく。
歳三の順番が近づくにつれ、彼の心臓はみっともない音を立てて早鐘を打ち始めた。社会経験の乏しいこの中年男性にとって、未知のルールとはすなわち死刑宣告に等しい。何を言われるのか、何を求められるのか。それに答えられなかったらどうなるのか。不安が歳三の胃をキリキリと締め付ける。その顔色は傍目にも明らかに優れぬものであった。列が一人分進むたびに歳三の足はほんの少しだけ、後ろへ下がりたがった。
やがて順番がやって来た。
鎧姿の衛兵が無感動な目で歳三を見下ろし、手にした槍の石突きで地面を軽く叩く。その乾いた音が歳三の鼓膜に鋭く突き刺さった。
「なんだ、旅の者か? 入場税五十ゴルダだ。さっさと出せ」
──ゴルダ。
聞いたことのない単語に歳三の思考は完全に停止した。ちなみに聞いた事のない、というのは無論歳三の思い違いである。歳三はゴルダとは何かをついさっき聞いたはずだ。聞いた上で忘れているのだ。まあこれは歳三が白痴である事を意味しない。単に知っておくべき情報が多すぎてテンパったまま話を聞いたのでド忘れしてしまっただけである。
「あっあっ……おおれはお俺は……」
言葉はどもり、視線は定まらず、額からは脂汗が滝のように流れ落ちる。その様は如何にも哀れだ。そして怪しい事この上ない。衛兵の眉が訝しげに吊り上がった。彼は隣の同僚に低く囁く。
「おい、こいつ、妙じゃないか?」
「その格好……魔帝国の斥候兵に似てやがる。吐かせろ」
「魔帝国」、「スパイ」──そんな物騒な単語が周囲から聞こえ始め、ざわめきが波のように広がっていく。衆目に晒される感覚。
それは歳三の古傷──SNSでの大炎上というトラウマを容赦なく抉った。あの時の記憶が脳裏に生々しく蘇る。無数の匿名の言葉が画面越しに自分を打ち据えたあの悪夢。逃げ場のない、窒息するような恐怖。あれ以来、歳三は人の目というものが集まる場所をどれほど避けて生きてきたことか。
──まずい、まただ。また俺は笑いものに……ああっ……望月君、望月君……助けてくれよう……
血の気が引き、世界がぐにゃりと歪む。
歳三が意識を手放しかけた、まさにその時であった。
「まあまあ、旦那方、待ってくれよ」
ひょいと横から現れたのはヘンダーソンである。彼は慣れた様子で懐から革袋を取り出すと、じゃらりと銅貨を掌に広げてみせた。
「こいつはフジノジュカイとかいう森の奥から出てきたばかりでな。世の中のことを何一つ知らねえんだ。俺の分とこいつの分、それからこれは旦那方への心付けだ。これで勘弁してやってくれや」
ヘンダーソンは銅貨を数え、衛兵へと手渡す。その数、百五十枚。五十枚多い。衛兵は値踏みするような目でヘンダーソンと、未だに「あぅ……」などと呻いている歳三とを見比べ、やがて渋々といった体で銅貨を受け取った。
「……ふん、森の民か。面倒な奴を連れてきやがって。まあいい、行け」
吐き捨てるような許可の言葉。
歳三は助かったという安堵と、見知らぬ他人に金を払わせたという強烈な申し訳なさ、そして何より己の不甲斐なさとで顔を上げることができないでいた。情けなさと羞恥が胸の奥で渦を巻いている。はっきり言えば今すぐ死にたい気分であった。四十七にもなって、初対面の男に金を立て替えてもらった上にその男に「世の中のことを何一つ知らねえ」と紹介されている。まったくもってその通りなので反論の余地すらない。
そんな歳三の肩をヘンダーソンがぽんと軽く叩く。
「気にするな、サイゾウ。これも旅の縁ってもんだ。街に入れば何とかなるさ!」
その底抜けに明るい声に引かれるように歳三はようやく顔を上げた。
そうして二人は喧騒と活気に満ちた城塞都市ベルグリットの中へと、その第一歩を踏み出したのであった。