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城塞都市ベルグリットの門をくぐり抜けた先は、まさに異世界そのものであった。
石畳の道には人や荷馬車がひしめき合い、あちこちから威勢のいい呼び声が飛んでくる。嗅いだことのない香辛料の匂い、焼けた肉の匂い、そして人々の体臭。それらが混然一体となって鼻腔に押し寄せ、この世界が少なくとも日本ではないことを雄弁に物語っていた。
そんな活気の中、佐古歳三は殺処分を察した保護犬が如き様子で縮こまっていた。
理由は劣等感である。
異世界だ、ワァ──というような小さくて可愛い、しかし抱いて当然の感想すら抱けない。異世界最初の街で、歳三はまず劣等感を抱いたのだ。
歳三の目には行き交う人々が皆イキイキとしているように見えた。生きるために生きているというか、活力を感じる。歳三はこの活力にどうにも弱いのだ。歳三が好きなものは申し訳なさである。湿気である。倦怠感と厭世感である。すなわち、都心で二十四時間営業しているような店にはびこる「俺たちは社会の隅っこを生きているんです、決して主役ではありません」みたいな客層が放つ、あの一種いわれぬ陰の気を好むのだ。確かに歳三は青木ヶ原樹海、そしてそこに至るまでの戦いを経て精神的にもかつてよりは大分マシになったが、それは例えるならば軟便が固形便に変じた程度のことである。まあ、相手が女であるからという理由だけで何も話せなくなり、絶望でブルブルと震えていた頃よりは大分成長はしている。
だが、いつまでもそうしているわけにはいかない。
借りはすぐに返さねばならないのだ。
歳三は意を決し、隣を歩く恩人──ヘンダーソンに向き直った。そして、深く、それこそ腰が九十度に折れ曲がるほどの勢いで頭を下げる。
「あ、あの……さっきは、その、助かった。ありがとう」
絞り出すような声である。
他人に迷惑をかけ、あまつさえ金まで出させたという事実は、歳三の自尊心を容赦なく削り取っていた。感謝の表明というよりは、謝罪に近い響きがあった。歳三はこれでいて律儀なところがある。借りたものは返す、迷惑をかけたら頭を下げる。この辺は彼の美徳の一つと言えるだろう。
ヘンダーソンは、そんな歳三の様子に一瞬目を丸くしたが、すぐに快活な笑い声を上げた。
「はっはっは! 堅苦しいな、サイゾウ! 言ったろ? 気にすんなって。旅の縁だ」
そう言って歳三の背中をバシバシと叩く。その後一瞬、奇妙な表情を浮かべて自分の手を眺めたが。まるで何か変なものでも叩いたような、そんな顔であった。
とまれ、その言葉に偽りはなかったであろう。だが、ヘンダーソンという男、ただの善人というわけでもない。彼は世の中を渡り歩く術というものを心得ている。善意で人を助け、ついでにその善意の元を取る。それを矛盾だとは露ほども思わぬ手合いであった。
彼は人懐っこい笑みをすっと引っ込めると、代わりに少しばかり悪ぶったような、それでいて相手の値打ちを測るような笑みを浮かべてみせた。
「ま、実を言うとだな。ちょいとばかし魂胆があって助けたってのもあるんだ」
──魂胆。
その言葉に、歳三の心臓がギュッと縮み上がる。
やはり、タダより高いものはない。何を要求されるのか。臓器か、それとも奴隷労働か。このしょうもない中年男性の脳裏を、物騒なイメージが次から次へと駆け巡った。この辺は一種の防衛本能だ。なにか不穏な事が起きそうだと感じると、より悪い状況を想定することでいざという時のショックを和らげようとする弱者仕草である。
そんな歳三の内心を知ってか知らずか、ヘンダーソンは核心を突く。
「サイゾウよ」
「……」
「あんた、強いだろ?」
その問いは、歳三にとって予想外のものであった。
強いか、弱いか。
そんな単純な二択が、今の歳三にはひどく難しい問題に思える。
歳三はぎゅっと眉間に皺を寄せ、唇をわななかせた。どう答えたものか、皆目見当がつかなかったのである。
──どう答えたモンかなぁ。
もし、ここで「はい、強いです」などと答えたらどうなるか。
調子に乗っていると思われるかもしれない。四十路も後半の男が、初対面の相手に強さをアピールするなど、傲慢不遜で痛々しいにも程がある。歳三はこの手の痛々しさというものに、人一倍敏感な男であった。自分がそう見られることを、何よりも恐れて生きてきたからである。
だが、かといって「いいえ、弱いです」と答えるのも、それはそれで違う気がした。
なぜならば、歳三はかつての世界で、その強さを見込まれた事が何度もある。それはつまり、誰かに期待してもらったということだ。探索者としての二十五年。数多の死線を潜り抜け、化け物どもを屠ってきたその拳。それこそが、社会からはみ出した歳三が唯一すがることのできた拠り所なのだ。
だからこそ、ここで「俺は弱い」などと言ってしまえば、自身に期待してくれた者たちを裏切る事になるのではないか。望月の顔が、金城のにやけ面が、そして自身を慕ってくれた鉄身のともだちや、探索者としての後輩である飯島 比呂らが脳裏をよぎる。ちなみに飯島 比呂とは元は男性だったが、歳三の恐るべき強さに「漢」を見出し、自身の男性性を喪失した結果、雌と化した哀れな青年だ。(前作「しょうもなおじさん、ダンジョンに行く」参照)
それに、歳三がぶち殺してきた恐るべきモンスター共の事だってある。自身の手で命を奪ってきた「自分より弱かった相手」の事を考えると、自分が弱いなどと卑下すればそれは死闘を繰り広げてきたモノ全てを愚弄することになるのではないか。
そんな風に、歳三はウダウダと考え込む。
己の強さを誇示するのは恥ずかしいが、否定するのは不誠実。そんな二律背反の狭間で、歳三の思考はいつものようにグルグルと空転を始めた。言葉は出ず、ただ難しい顔で腕を組むばかりである。
葛藤は数十秒か、あるいは数分か。沈黙が続いた。
やがて、その沈黙を破ったのはヘンダーソンであった。
「……さすがだな」
彼は感服したように、深く頷いた。
「てっきり、自分の力に酔ってるような手合いかと思ったが……そうじゃないらしい。強さに溺れてるってわけじゃあないようだ」
ヘンダーソンの目には、歳三の沈黙が「謙虚さ」と「思慮深さ」の表れとして映ったのである。
己の力を軽々しく口にせず、慎重に言葉を選ぶその姿勢。それは真に力を持つ者が纏う風格であると、ヘンダーソンは解釈した。実際はただコミュ障を発揮してフリーズしていただけなのだが……。
当の歳三はといえば、相手が勝手に納得してくれたことに安堵し、内心で胸を撫で下ろしていた。
──よくわかんねぇが、なんか上手くいったみてぇだ。
そんな間抜けなことを考えているとは露知らず、ヘンダーソンは話を続けた。
「よし、決まりだ。実はな、俺は行商人もしててよ。これからこの街で商品を仕入れて、また旅に出るつもりなんだが……最近、街道筋が物騒でな」
ヘンダーソンはニヤリと笑い、人差し指を立てた。
「盗賊やら、魔物やらがウヨウヨしてる。そこでだ、サイゾウ。あんたに俺の護衛を頼めねえか?」
護衛。
「俺が……護衛?」
「おうよ。腕の立つ護衛がいるといないとじゃ、商売の成功率が段違いなのさ。あんたはまあ……その、所作としては、アレよ。こう、オドオドしている。なんかちょっとダメな感じがする……おっと、そんな捨てられた犬みたいな目で見るなよ。だが俺の勘が言ってるのよ、“こいつは頼りになる”ってな。俺はヘンダーソン……俺の名前はな、古い言葉で『先を見通す者』って意味なんだ。こう見えても眼力には自信があるンだぜ」
話はとんとん拍子に進んでいく。
歳三としては願ってもない展開であった。
この世界に来て右も左も分からぬ状態。金もない、知識もない、身分証もない。そんな状況で仕事の依頼が舞い込んできたのだ。しかも、それは自分の得意分野を活かせる仕事である。
誰かに必要とされる感覚。それは歳三にとって一種の快楽ですらある。二十五年、この男が泥に塗れて拳を振るい続けてきたのは、煎じ詰めればこの感覚のためであった。
「……いいぜ、承った」
歳三の返答に、ヘンダーソンは満足げに笑みを深める。
「よし、交渉成立だ! まずは飯でも食いながら、今後の予定を話そうじゃねえか。ついてきな。いい店があるんだ」
そう言って歩き出すヘンダーソンの背中を、歳三は少しだけ希望を抱きながら追いかけるのであった。