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陽は中天を過ぎ、街は昼下がりの倦怠と衰えぬ活気とが混在した空気に包まれている。
要するにカオス!
歳三はそんな空気にひたすら落ち着かない思いを抱いていたが、よほど旅慣れているのだろう、隣を歩くヘンダーソンは平然としたものだ。
「さて、と。まずは今夜の寝床を確保しねえとな」
ヘンダーソンはそう言うと、慣れた足取りで大通りから一本入った路地へと分け入っていく。
表通りの喧騒が遠のき、代わりに生活の匂いが色濃く漂ってきた。
どこかの家から漏れ聞こえる子供の声に、洗濯物がはためく音。歳三はその響きを、遠い異国の音楽でも聴くようにぼんやりと耳に入れていた。
やがてヘンダーソンは、入り組んだ路地の一角に佇む一軒の宿屋の前で足を止めた。
軒先には『銀杯亭』と看板が掲げられている。
石と木材を組んだ三階建ての建物だ。外壁こそ長年の風雨に晒されてやや煤けているものの、造り自体はどっしりしており手入れも行き届いている。
豪奢でもなければ貧相でもない、まさに中庸。旅人が一時の安息を得るには十分な、堅実な佇まいであった。
「悪くはないだろ?」
ヘンダーソンは満足げに宿を見上げ、得意そうに胸を張った。
「ここは俺の定宿でな。値段もそこまで高くはねえ。鉄貨一枚あれば三食、清潔な寝床と湯がついてくるぜ」
「そ、そうなのか……ほ~……」
実に空々しい感嘆の声である。
歳三はいま、ちんちくりんな脳みそを必死にこねくり回し、鉄貨一枚がどれほどの価値なのかを推し量っていた。
ただ──。
──カップラーメン三食分として、だいたい千円くらいか……? いや待てよ、そんな高かったか?
いまいち実感が湧かないなら素直に訊けばいいものを、この男は決してそうしない。
これを愚か極まりない、あるいは自意識過剰の極致と断ずる向きもあるかもしれないが、実情はもう少しばかり複雑である。
歳三はたしかに頭の回転が鋭敏とは言い難いが、白痴というほどでもない。だからこの男なりに周囲を警戒しているのだ。
何を警戒しているのかといえば他者の視線、すなわちヘンダーソンから自分がどう見られているかという一点に尽きる。
もしあまりの無知さにヘンダーソンが呆れ果て、見捨てられたらどうなるか。
歳三としてはそれが一番怖い。
右も左も分からぬ異世界で、唯一の頼みの綱であるヘンダーソンに見限られることのヤバさくらいは、歳三にも骨身に染みて分かっている。
だからこそ知ったかぶりをするわけだが──その場しのぎの嘘というやつは、いつだって相応の代償を伴うものだ。
この時、歳三の脳裏に遠い昔日の記憶が蘇った。
埃っぽい図書室の片隅。窓から差し込む午後の光。そして自分よりも幾分か背の高い、利発そうな少年の横顔。
──『良いかい、佐古君。嘘はなるべくつかない方が良いよ』
それは歳三が中学生の頃、唯一心を開いていた同級生、望月の言葉であった。
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望月は歳三にとって、言ってみれば信仰の対象であった。
頭脳明晰にして容姿端麗、おまけに運動神経も抜群。天が二物も三物も与えたような完璧な少年である。
そんな彼がなぜクラスの最底辺にいた歳三に目をかけていたのかは分からない。歳三自身もそれを問うたことはなかった。理由を聞くのが怖かったのである。
真実が常に優しいとは限らないことくらい、当時の歳三にも分かっていた。だが望月が事あるごとに歳三へ語りかけ、様々な知識や教訓を授けてくれたこともまた事実であった。
あの日もそうだった。
望月は一冊の古びた文庫本を手にしていた。太宰治の『東京八景』である。
「これはね、太宰治という作家が自身の過去の過ちや、それをごまかすために重ねた嘘について苦悩しながら語る作品なんだ」
望月は静かな口調で語り始めた。
「彼はね、自分の弱さや見栄からたくさんの嘘をついた。だが、その嘘が彼自身を追い詰めていったんだ」
そう言って、彼は本の一節を指差した。
「ここにね『苦しいから、のがれたい。怠けたい。楽になりたい。それだけだ』とある。人間は苦しい状況から逃れるためにいとも簡単に嘘をつく。そしてその嘘を正当化するために、さらに嘘を重ねる。虚飾の弁解だ」
望月の語る言葉は、当時の歳三にはひどく難解であった。
それでも真っ直ぐに向けられた真剣な眼差しから、何か大切なことを伝えようとしている熱量だけは伝わってくる。歳三は意味の半分も分からぬまま、ただ曖昧に頷いていた。
「嘘というのはね、佐古君。麻薬のようなものなんだ。一度使えばその便利さに溺れてしまう。けれど使い続ければ、やがて本当の自分を見失ってしまう」
望月はそこで言葉を切り、歳三の目を正面から見つめた。
「太宰はそれを『虚構の城』と呼んだ。自分で作り上げた偽りの自分だ。その城の中に閉じこもってしまえば、最後には城ごと脆く崩れ落ちてしまうんだよ」
望月は静かに文庫本を閉じ、歳三の肩にそっと手を置いた。
「だからどんなに苦しくても、自分の弱さから目を逸らしてはいけない。嘘で塗り固めた人生など何の価値もない。強く、そして誇り高く生きるんだ。それが真の男の生き方だよ」
◆
──なんだかよう、情けねぇなあ……。
そんなことを思い出し、路地裏で勝手に凹んでいる歳三へ、ヘンダーソンは一瞬だけ奇異の目を向けた。
だが考えても埒が明かないと割り切ったのか、そのまま宿屋の扉をガラリと開け放つ。
「さあ、入った入った! まずは部屋に荷物を置いて、それから今後の予定を立てようじゃねえか」
威勢のいい声に引かれるように、歳三は重い足取りで宿の敷居を跨いだ。
内部は外観から想像した通りの、古めかしいが清潔な空間であった。一階は酒場兼食堂となっており、昼間からすでに何人かの客がジョッキを傾けている。
カウンターの奥から、恰幅の良い女将が顔を出した。
「おや、ヘンダーソンじゃないか。久しぶりだねえ」
「よう、マルタ! 元気そうだな! また世話になるぜ」
ヘンダーソンが親しげに応じると、マルタと呼ばれた女将は、品定めするような目で隣の歳三をじろりと見た。
「そちらは?」
「俺の連れだ。サイゾウってんだ。ちょいと訳あってな」
「そうかい。まあ、ゆっくりしておゆきよ」
マルタはそれ以上何も訊かず、カウンターの上に古びた鍵を二つ置いた。ヘンダーソンはその一つを歳三に手渡し、店奥の階段へと向かっていく。あてがわれた部屋は二階の奥だ。
「サイゾウの部屋はそこだ。じゃあ俺も荷物を置いてくるから、終わったら下で合流しようぜ」
そう言ってヘンダーソンは隣の部屋へと消えていった。
歳三も自分の部屋へ入ってみると──簡素なベッドと小さなテーブルがあるだけの、実に殺風景な空間が広がっていた。だが窓からは柔らかな陽光が差し込み、雰囲気は悪くない。ベッド自体も、少なくとも歳三が日本で使っていたせんべい布団よりはよほどマシそうだ。まあ、それは世の大半の寝具に言えることではあるが。なにせ恐るべきことに、歳三は布団を干さないのだ。ボロボロに擦り切れるまで万年床で使い続ける。八年間洗濯なし、日干しなしというのがこれまでの最高記録であった。
歳三はベッドの端に腰を下ろし、深くため息をつく。
無意識のうちに胸元をまさぐっていた。煙草を探したのだが、当然そんなものはない。
──ああ、異世界にも煙草ってあるのかなぁ。
そんな事を思う歳三なのだった。