◆
銀杯亭の二階、その奥まった一室。
歳三は改めて室内を見回した。
広さは六畳あるかないか。調度品といえば簡素な木製のベッドと小さなテーブル、そして椅子が一脚あるきりだ。壁には風景画らしきものが掛けられているが、煤けていて何が描かれているのか判然としない。実に殺風景で、飾り気というものがない。
「随分と綺麗じゃねえか」
誰に聞かせるでもない呟きが漏れる。
床には埃一つ落ちておらず、窓枠も丁寧に拭き清められている。少なくとも、歳三が長年住み慣れた池袋の賃貸マンションの一室──あの、万年床と空き缶と、得体の知れない染みが混在した汚濁の空間とは比べ物にならない。
いわゆる汚部屋というやつである。
住環境が居住者の精神に与える影響を雑にいってしまえば、それは個人の内面が外界に投影された結果だ。
自己肯定感が著しく毀損され、社会との接続を断たれた者は、往々にして自らの生活空間を管理することを放棄する。それは怠惰ゆえか、あるいは己という存在を取り巻く環境すべてへの無関心の表れか。歳三の汚部屋は、まさに彼の内面に巣食う諦念が物理的な形となって現れたものに他ならなかった。片付けようという気は、年に二度か三度は起きるが実行に移した事はない。
まあとある事情で引っ越しをすることにはなったが、引っ越し先にはろくに住んでいなかったため、歳三にとってのマイルームとは今もあの東池袋の古びたマンションなのだ。
歳三は掌でさらりとベッドの布団を撫でてみる。
湿ってもいない、清潔なシーツの感触が伝わってきた。
当時使っていた歳三のベッドは、汗やら何やら、あるいは社会に対しての申し訳なさが発汗という形で滲みだしたか、常に何というか、じめっとしていたものだ。
──異世界のシーツって何で出来てるんだろうなあ。
そんな益体もない事を考えていると、不意に扉が叩かれる。
「おーい、サイゾウ。ちょっといいか?」
ヘンダーソンの声だ。
歳三は一瞬身を強張らせた。おずおずと扉を開ければ、そこには案の定、人懐っこい笑みを浮かべたヘンダーソンが立っていた。
「よう、部屋はどうだい? 気に入ったか?」
「あ、ああ。いい部屋だと思うぜ、旦那」
旦那? と一瞬訝し気な風のヘンダーソンだったが、まあいいやと話を続ける。
「そりゃ良かった。さて、今後の話だがな」
ヘンダーソンは指を五本立ててみせた。
「言った通り、出発は五日後だ。それまでは好きに過ごしてくれて構わねえ。街を見て回るもよし、部屋でゴロゴロするもよしだ。飯は心配いらねえ。朝昼晩、三食出る。一階の食堂で食ってくれ。ただし時間は決まってる」
ヘンダーソンは窓の外、遥か彼方に見える巨大な塔を指差した。
それは都市の中心部に聳え立つ大時計台だ。
「あの鐘が鳴ったら飯の時間だ。あの鐘は一日を通して二十四回なるんだけどよ。朝は十回目、昼は十五回目、夜は二十回目。それぞれ鳴り終わると飯は下げられちまうから気をつけな」
──朝十、昼十五、夜二十までに……。五の倍数か。五の段は得意だぜ。
歳三は内心でにやりとする。七の段と三の段は若干怪しいが、五の段だけは自信がある。
「ま、三食以外で何か飲んだり食ったりしたけりゃ、自分で金を出してくれよな。前金で渡した銀貨があるだろ?」
ヘンダーソンはそう言うと、話を続けた。
「五日後、俺たちはこのベルグリットを出て、おおよそ二十日間の行商に出る。だからこの五日間の間に旅の準備をしておくんだ」
「準備?」
「おうよ。行商中の食事については、一日一食までは俺が保証する。だが、それだけじゃ足りねえだろ? 保存食を買っておくとか、水筒を用意するとかな。色々あるだろうが」
旅の準備。保存食。金──いわゆる段取りという奴だ。何が必要で、どこでそれを手に入れればいいのか。そして、手持ちの金でそれが買えるのか。不安が歳三の胃をキリキリと締め付けるが、今更「よく分からない」などと言えるはずもない。
──いや、そんなんじゃ駄目だ。ここでいうんだ。俺は何もわからねぇ、助けてくれ、と。いまだ! 言え! ……なんで言えねえんだ……
口を開きかけては閉じる、開いたはいいが、やはり閉じる──まるで死にかけた鯉の様なブザマな姿たるや。だがヘンダーソンは、歳三の懊悩をまるで見透かしたかの様に懐から一枚の折り畳まれた紙を取り出した。黄色味を帯びた、変色したその紙には歳三が欲しかった情報が書かれているではないか!
「ほらよ、街の地図だ。これがあれば迷うこたぁねえだろ」
そう言って、彼はそれを歳三へと手渡す。
「じゃあ、俺はちょっと用事があるから出てくるぜ。俺がいないときは何かあったら女将のマルタに言ってくれ。それじゃあベルグリットを楽しんでくれよ」
ヘンダーソンはそう言い残し、ひらひらと手を振りながら部屋を出ていった。
残された歳三はしばしその場に立ち尽くし、部屋を見渡す。
そして窓に近づき、外を眺めた。
窓の外には、歳三がこれまで生きてきた世界とは全く異なる理で構築された街並みが広がっている。
甍(いらか)の波、と表現するには屋根の連なりはあまりに不規則で、材質も色もてんでんばらばらである。赤茶けた煉瓦造りの家々の間に、青白い石を積み上げた塔が突き出し、かと思えば蔓草に覆われた木造の建物が寄り添うように建っている。統一感という概念がこの街の設計思想から抜け落ちているかのようだ。
道行く人々の姿もまた、奇妙な活気に満ちていた。
逞しい腕を剥き出しにした男が、牛とも蜥蜴ともつかぬ生物に引かせた荷車を御し、その横を猫の耳を生やした小柄な少女が身軽に駆け抜けていく。空を見上げれば時折、翼を持った爬虫類のような生物が建物の間を縫うようにして飛翔していた。
それら全てが、途方もない異物感と共に歳三の目に映る。
何もかもがそうだ。
何を見ても、何度見ても変わらぬこの、“異世界”の味。
・
・
・
ふと歳三の脳裏に、埃っぽい図書室の片隅で読んだある放浪の俳人の一句が浮かび上がる。それは確か、種田山頭火とかいう、やたらと酒を飲み、生涯を通じて旅を続けた男の句であったはずだ。
「分け入っても分け入っても青い山──か」
ぽつりと呟くと、昔日の記憶が蘇る。
『へえ、佐古君はこの詩を気に入ったのかい? うん、僕も好きだよ。……え? どんな人だったかって? そうだねえ……この作者、種田山頭火という男はね、ただの旅人じゃない。彼は放浪者なんだ』
それはまたしても中学時代の親友、望月の言葉であった。放課後の図書室、西日が差し込む窓際で、望月は歳三に静かに語りかける。
『旅と放浪、この二つは似て非なるものだよ。旅には多くの場合、目的がある。どこかへ行き、何かを見て、そして帰る場所がある。だが放浪は違う。そこには明確な目的も帰るべき場所もない。ただ歩き続けること、それ自体が目的となる』
望月は山頭火の句集を指差した。
『この「分け入っても分け入っても青い山」という句は、彼の孤独と、そして終わりのない旅路そのものを象徴している。進んでも進んでも、目の前にはただ同じような風景が広がるばかり。それは絶望のようでもあり、同時に全てを受け入れた者の静かな諦念でもあるんだ』
『山頭火はね、社会の規範やしがらみから逃れるようにして歩き続けた。だが、それは単なる現実逃避じゃない。彼は歩く中で、自分という存在と向き合い続けたんだ。孤独の果てに彼は何を見つけたのか──それは誰にも分からない。だがその歩みそのものに、人間の業(ごう)のようなものが凝縮されているんだよ』
──放浪、か。
今の自分はまさにそれではないか、と歳三は思う。帰る場所も目的もなく、ただ知らぬ街の窓辺に立っている。分け入っても分け入っても、目の前にあるのは知らぬ屋根と知らぬ生き物ばかりだ。
いや、とすぐに首を振った。
「俺が帰る場所は決まってる。日本だ。待ってくれている人たちもいる」
ダンジョンだ、と歳三はようやく目的を思い出した。
“あの声”は言っていたではないか。
この世界にもダンジョンがあると。そしてその先に、“ご褒美”があると。
ならば
「ちょっとした、旅行ってやつだな」
口に出して呟き、歳三はふっと笑う。
そのニヒルなワイルドウルフめいた笑みをもし歳三を慕う女や、元男の現雌などが見れば股座を濡らした──かもしれない。