談話室の扉が開くたび、細い風が床を渡っていく。
ロドスの艦内では、吹き抜ける風にすら機械の匂いが混じる。乾いた金属の冷たさと、遠くで回り続ける換気機の熱。だが今朝だけは、たっぷりと水を吸った枝葉の青い匂いが、その無機質な空気を塗り替えていた。
長机の上には、大小さまざまな花器が並ぶ。白磁の端正な器、黒く焼き締められた浅鉢、鈍い光を宿す灰色の壺。床に敷かれた防水シートの上には、すでに切り落とされた葉が幾片も散っていた。
サガは大きな桶から一本の枝を引き上げた。
葉先から、清らかな水滴がぽたりと落ちる。
「おお。これは実によく水を吸っておるな」
枝元を指先で挟み、ゆっくりと回す。樹皮の張り、重み、先端までみなぎる弾力。山寺で仏花を調えていた朝も、こうして枝の質感を確かめたものだった。花を飾るという行為そのものより、まずは器を洗い、水を替え、傷んだ葉を払い、光の差し込む角度を測る――そうした地道な手順のほうこそが、身体の奥深くへと刻まれている。
「サガ、それこっち!」
「うむ!」
談話室の中央から飛んできたマトイマルの声に、サガは枝を抱えて歩き出した。長い枝先が天井の照明を擦らぬよう、自然と腕の位置を下げる。狭い山門を、薪束を抱えてすり抜けていた頃と同じ身のこなしだった。
床に膝をついたマトイマルは、大ぶりの花器と向き合っていた。
「そこ、ちょっと押さえてて。少し傾けたいんだ」
「このあたりでござるか」
「もうちょい右。そう、そこで止めて!」
サガが器の胴へ両手を添える。ずっしりとした手応え。だが、重みを腕だけで受け止めず、すんなりと腰へ落とせば揺るがない。息をひとつ整え、器の底が滑らぬよう指の腹を開いた。
マトイマルは受け取った枝を、迷いなく器の中へと差し入れる。長い一筋が、斜め上へ向かって力強く伸びた。
無機質な天井を射抜くように、濃緑の葉が跳ねる。その足元には、すでに淡い花をつけた二本の細枝が生けられていた。一本ずつなら互いに素直な佇まいを見せていたはずなのに、三本がひとつに合わさった瞬間、途端に互いの居場所を奪い合ってせめぎ合い始める。
「……ふむ」
器を押さえたまま、サガは首を傾げた。
「どう?」
「勢いがある」
「だろ?」
「されど、こちらの花が半分隠れてしもうたな」
「そうなんだよなあ」
マトイマルはからからと笑った。困り果てた顔ではない。むしろ厄介な枝を前にしたときほど、彼女の双眸は澄んだ輝きを増す。稽古で手強い間合いを見出した武芸者のそれと同じだと、サガは思った。
マトイマルが腰から花鋏を抜く。
刃を開くと、かちりと硬質で澄んだ音が響いた。
「ここまで落とす」
指先が示したのは、枝の中ほど――あまりにも思い切った位置だった。
「ほう」
「この長さを残しちゃうと、どうしても花が負ける。なら、一発で決めるしかないだろ」
サガは枝先へ視線を戻す。
今の姿には、確かに抗いがたい力強さがある。遠くから眺めても、真っ先に目を引くのはこの枝だろう。だがその強さゆえに、足元で咲く花は暗い影の中へと沈み込んでいた。
切れば、すべてが美しくまとまる。
それはサガにも理解できた。
寺の供花も、野にある姿をそのまま投げ入れただけでは形を成さない。枯れ葉を落とし、茎を削ぎ、ときには青々とした葉すら間引く。ありのままを放置することだけが、命への敬意というわけではない。
それでも、と喉元で言葉が揺れる。
「マトイマル殿」
「ん?」
「ひとつ、問うてもよいか」
「いいぞ」
鋏を構えたまま、マトイマルが振り返る。
「この枝は、花のために切るのでござるか」
「……ん?」
鋏を持つ手が止まった。
「いや、花っていうか……全体のため、かな?」
「全体」
「ひとつの作品として、ってこと」
「なるほど」
サガは器から静かに手を離した。底はもう、揺らぐことなく据わっている。
「拙僧も、人の手を入れねば花を飾れぬことは弁えている。されど――」
青い枝をもう一度見つめる。
「作品のために花を生かす、と口にする時。その『花のため』とは、いったい誰の望みをそう呼んでいるのでござろうな」
マトイマルは何度かまばたきを繰り返し、手元の花鋏を見下ろした。
「難しいこと言うなあ」
「難しくしたつもりはないのでござるが」
「そこがサガらしいんだけどさ」
彼女は快活に笑い飛ばしたが、すぐに鋏を振り下ろすことはしなかった。
少し離れた机で麻紐を整えていた若い職員が、作業の手を止めて遠慮がちに口を挟む。
「じゃあ……自然のままが一番ってことなのか? それなら、生け花なんてしないほうがいいんじゃないかって思えるんだが……」
「いや」
サガは即座に首を振った。職員が小さく目を見張る。
「自然という言葉に甘えるだけでは、この器ひとつ選ぶことも叶わぬ。水へ生けることすら、人の手による所行でござるからな」
換気口からの風を受け、桶の水面が細かく波立つ。
「山に根を張る枝と、ここへ運ばれた枝は、もはや同じものではない。ゆえに『ただ手を加えるな』という理屈にはならぬと思うのだ」
「じゃあ、切っていいのか?」
マトイマルが尋ねる。
「それを今、拙僧なりに思索しておる」
「お前が言うのかよ」
マトイマルが吹き出し、サガも釣られて白い歯を見せた。鋏の切っ先が纏っていた硬い緊張が、ふわりとほどけていく。
ふたりは安易に鋏を入れず、まずは別の可能性を模索し始めた。
器の向きを変える。
枝の挿し込みを深くする。
可憐な花を前に押し出す。
長い枝の軌道を壁際へと逃がしてみる。
「こっちならどうだ?」
「む。先ほどよりは花が顔を出したな」
「でも、枝が寝すぎて締まらないんだよな」
「では、こちらはどうでござる」
サガが枝元に二本の指を添え、わずかに角度をひねる。緑の葉が扇のようにふわりと広がった。
「お、いいじゃん――いや待て、裏から見るとダメだ」
ふたり揃って器の反対側へと回り込む。
「誠にその通りであった」
「だろ?」
「見事なまでに花が隠れてしもうたな!」
「笑いごとじゃないって!」
文句を言いながらも、マトイマルの表情には笑みが絶えない。
試行を重ねるうち、防水布の上には間引かれた小枝や葉が増えていった。幹そのものは断ち切っていないが、余分を払うたび、最初にあった野放図な姿は確実に失われていく。
それを惜しむ心と、輪郭が研ぎ澄まされていく面白さ。そのふたつは、サガの胸の中で矛盾することなく同居していた。どちらも偽らざる本心だった。
「なあ、サガ」
「うむ」
「お前なら、どうしたい?」
不意にマトイマルが問いかけてきた。サガは顔を上げる。
「拙僧なら、でござるか」
「そう。さっきから残したらどうなるか、切ったらどうなるかをずっと一緒に見てきただろ」
「うむ」
「だから聞きたい。お前なら、どっちを選ぶ?」
サガは口を開きかけ――ふと
残しても美しい。切ってもまた美しい。
そうした言葉なら、いくらでも口にできる。それは嘘ではない。だが、いま目の前のマトイマルが求めているのは、どちらへも逃げられるような無難な評ではないのだ。
サガは静かに一歩後退し、談話室の入り口に立った。
ここへ足を踏み入れた者が、最初に目にする景色を思い描く。
無地の白い壁。
黒い陶器。
ひそやかに咲く淡い花。
そして、その天へと奔放に伸びる緑の枝。
いまの枝には、確かに圧倒的な力がある。だが、もしもこれを断ち落としたなら。
サガは目を細め、切り落とされたあとの空間を頭の中で組み上げた。
花が見える。
枝の暴れ回る勢いは削がれるだろう。
けれど、短く残された枝は、もはや花を圧迫する邪魔者ではない。背後からそっと花を支え、押し出す力へと変わるはずだ。
「拙僧は」
静かに、言葉を紡ぎ出す。
「この花の細さを、しかと見たい」
マトイマルは何も言わず、耳を傾けている。
「弱々しく見える細さではない。この豪快な枝に守られずとも、ただ己の力で凛と立っておる――その真の姿を見たいのでござる」
「じゃあ」
マトイマルが花鋏を掲げた。
「切るんだな?」
冷たい刃先が、枝の木肌を挟み込む。サガは一瞬だけ、今まさに失われようとしている枝先を瞳に映した。
今ならまだ、止められる。
刃を閉じれば、二度とは戻らない。
「マトイマル殿」
「ん?」
「花のため、と名分を掲げれば、鋏を振るう者は痛まずに済むのでござろうか」
マトイマルは目を細めた。
浮かんでいた笑みは消えていない。だが、その面差しは武人のように真っ直ぐなものへと引き締まっていた。
「なら、我輩がこの形を見たいから切る」
柄を握り込む指に、ぐっと力が籠もる。
「それでも、手伝ってくれるか?」
サガは静かに頷いた。
「うむ。その選び取った業を、拙僧も見届けよう」
かちん、と。
思っていたよりも乾いた音が響いた。
切り離された長い枝が落ちる。床へと触れる寸前、サガの伸ばした手がそれを抱きとめていた。
腕の中に残された枝は、なお瑞々しい青さを放っている。命を断たれたからといって、その瞬間に美しさまで失われるわけではないのだという事実が、かえってサガの胸へ微かな痛みを残した。
「……よし」
マトイマルは断面を確かめると、小さく息を吐いた。
「サガ、仕上げを頼めるか?」
「お任せあれ」
抱えた枝を脇へ下ろし、サガは器の前へと回った。
切り口を整え、水を吸い上げやすいよう鋭角に刃を入れる。葉の向きを指先で微調整し、器の角度をごくわずか、左へと傾けた。
「そこで止めて」
「ここか」
「そう、そこ!」
ふたり同時に手を離す。
そこには、ただ花が立っていた。
先ほどまで影に沈んでいた淡い花弁が、天井の光を一身に浴びている。その背後を斜めに走る短い枝は、花を囲い込むのではなく、外の世界へとそっと押し出しているかのように見えた。
「……うむ」
サガは腕を組み、深く息を吐いた。
「実に良い。拙僧は好きでござる」
「おっ」
マトイマルが得意げに眉を上げる。
「どのへんが?」
「花が細いままで、堂々と前を向いておるところだ。枝の庇護のもとにあるのではなく、自らの足で立っておるように見える」
「へえ」
「それに、もうひとつ」
「まだあるのか?」
「切られた跡が、隠されずに残っておるところでござる」
マトイマルが断面へと視線を落とす。
「隠したほうがよかったか?」
「いや」
サガは穏やかに頭を振った。
「拙僧は、このままでよいと思う。切ったという事実を無かったことにせぬまま、なお美しい。それは、思っていた以上に尊いことに思えるのだ」
午後の光が差し込む頃、艦内での展示が始まった。
談話室を行き交うオペレーターたちの多くが、ふと足を止める。
「すっきりと整っていて綺麗ですね」と微笑む者がいた。
「もっと大きな枝振りのほうが、迫力があったんじゃないか?」と呟く者もいた。
マトイマルはそのどちらに対しても、「だろ?」と胸を張ることも、「何も分かってないな」と憤ることもなかった。
「あんたには、そう見えたんだな」
ただ朗らかに、そう言葉を返していた。
その隣で、サガは作品へと注がれる人々の視線を静かに追っていた。同じ器を前にしても、誰ひとりとして同じ場所を見てはいない。であるならば、万人が同じ賛辞を口にするまで均すことなど、そもそも正解ではないのだろう。
机の隅には、先ほど切り落とされた長い枝が、別の水桶へと差されていた。手伝いの職員が、他の小さな一輪挿しに使えるかもしれないと気を利かせたらしい。
だが、それを見て「ならば何も失われてはいない」と片付けてしまうのは違う、とサガは思う。
一度分かたれた枝が、元の一本へと戻ることはない。残すはずだったもうひとつの景色を、いま試すことも叶わないのだ。切り捨てたものを別の場所で活かせることと、選ばれなかった姿が存在し続けることとは、決して同じではないのだから。
「サガ」
「む?」
いつの間にか、マトイマルが足元に水桶を抱えて立っていた。
「明日の朝、水替えやるけど……付き合えるか?」
「無論だ。拙僧も朝の勤めとして参じよう」
「朝、早いぞ?」
「山寺の早起きを侮るでない!」
「知ってるよ。だから言っとくけど、我輩より先に来てひとりで全部終わらせるなよ? 半分は残しとけよ」
「なぜでござるか」
「これ、我輩の展示でもあるんだからさ」
サガは一瞬だけ丸く目を見張り、それから腹の底から笑い声を響かせた。
「なるほど、違いあるまい! では、水桶ひとつだけをしかと残しておこう!」
「桶だけ残してどうすんだよ! 花を半分残せっての!」
ふたりの軽やかな笑い声が、金属張りの談話室に心地よく跳ね返る。
展示台の上の花は、何も答えない。
断ち切られた枝も、誇らしげに残された花も、人の紡ぐ言葉に相槌を打つことはない。
けれど、それでよいのだとサガは思う。
花器の水位を指先で確かめる。
今日、己の手で選び、形を調えた。
そして明日もまた、冷たい水を替えるのだ。
美しいと讃えることで、振るった刃の責任が消えるわけではない。
切り落とさずに見守るだけで、背負うべき重みから免れるわけでもない。
ならばせめて、自分はいったい何を見たくてその枝へと手を伸ばしたのか――その心の輪郭だけは、決して忘れずにいよう。
明日目覚めたとき、この掌が今日とまったく同じ形を選ぶとは、誰にも限らないのだから。