声というものは、壁にぶつかって必ず跳ね返ってくる。
だからこそ、広い本堂で読経に臨むとき、ただ大声を張り上げればよいというものではなかった。
息を深く吸い込む。
言葉をそっと置く。
わずかに間を待つ。
返ってきた残響が次の音を濁らせぬ絶妙な潮時を見極め、また声を送り出す。
談話室の中央にすっくと立ったサガは、手元のメモ用紙を目の高さまで掲げた。
「――長きにわたり、ロドスのために力を尽くされた、その献身に深い感謝を――」
「はい、そこまで」
「む?」
壁際のパイプ椅子に腰掛けていたミッドナイトが、ひらりと片手を挙げた。
「悪くないよ。声の通りもいいし、滑舌も完璧だ」
「ならば何ゆえ止めたのだ?」
「悪くないからさ」
「合点がいかぬ!」
「悪くないものってね、一番手直しが難しいんだよ」
ミッドナイトは艶めいた笑みを浮かべ、身軽に立ち上がった。
明日の夕刻、この談話室でささやかな送別会が開かれることになっていた。
主役は艦内設備の保守を長年一手に担ってきた整備職員、ジョン。ロドスを離れ、故郷に近い移動都市の小さな工房へ転職するという。
サガも彼とは幾度となく顔を合わせていた。通路で配管の漏水が起きた際には工具箱を抱えて真っ先に駆けつけ、真冬に暖房系統が不調をきたした折には、夜更けまで埃にまみれて復旧作業に当たっていた。
寡黙で、よく働く男だった。
そうした縁から、送別会の冒頭で贈る言葉を頼まれたのである。
当初は型通りの短い挨拶で済ませる手筈だった。だが、草案を用意するはずだった総務の職員が急な外勤で艦を離れてしまい、ならば自分で調えようとサガが紙を引き受けたところへ、なぜかふらりとミッドナイトが現れたのだった。
「こういうのはね、俺の専門分野だから」
本人の弁である。サガとて、夜の街で無数の言葉を扱ってきた彼の腕前を疑ってはいなかった。
「では、どこに不備があるというのだ?」
「不備がある、なんて言ってないよ」
「ならば直さずともよいではないか」
「サガ、君はこれを誰に聞かせたいんだい?」
「皆にでござる」
「そうじゃなくて」
ミッドナイトは歩み寄り、サガが握る原稿の端を指先で軽く弾いた。
「これは、誰を送るための言葉だ?」
「ジョン殿でござる」
「なら一番大事なのは、ジョン本人が耳にしたとき、どう心に届くかだろう?」
「当然であろう」
「本当にそう思ってる?」
「む……」
整った笑みで真っ向から返されると、どこか気圧されてしまう。
サガは手元の紙へ視線を落とした。
そこには、いかにも祝辞らしい立派な美辞麗句が並んでいる。長年の献身。惜しみない労苦。同僚たちへの多大な貢献。過酷な環境にあっても職務を全うし続けた不屈の精神――。
どれひとつとして、嘘ではないはずだった。
「まず、俺が読んでみせようか」
「うむ」
ミッドナイトがすんなりと紙を受け取り、目の高さに構えた。
「長きにわたり、ロドスのために力を尽くされた――その献身に、深い感謝を」
柔らかな、耳に心地よい響きだった。わずかに低く、ゆったりとした速度。聞いているだけで自然と、ひとりの男が重ねてきた年月の重みが脳裏に浮かび上がってくる。
「ほう……」
「もう一回いくよ」
ミッドナイトは視線を落としたまま、同じ一節を口にした。
「長きにわたりロドスのために力を尽くされた、その献身に――深い感謝を」
サガの耳がぴくりと動いた。
「違うな」
「何が違った?」
「最初は『力を尽くされた』の後に息を置いた。二度目は『その献身に』の後に置いた」
「ご名答」
「ゆえに最初は、ジョン殿が成してきた具体的な働きへと目が向いた。だが二度目の読みでは、『献身』という言葉そのものの重苦しさが際立って聞こえた」
ミッドナイトは口笛を吹く真似をして、紙をサガへ返した。
「さすがだね。間の取り方を心得ているなら話が早い。言葉そのものは同じでも、声の置き所ひとつでスポットライトの当たる場所はガラリと変わる」
「うむ」
「逆も然りさ。どれほど美しい言葉であっても、置き場所を誤ればただの邪魔な飾りになる」
「邪魔……」
「その『献身』って言葉」
ミッドナイトは肩をすくめた。
「ジョン自身は、あんまり気に入ってないみたいだよ」
サガは目を丸くした。
「なぜそれを知っておる?」
「昨日、会場の下見に来ていた彼と少し立ち話をしたのさ。『頼むから、最後まで働き詰めで倒れそうだった奴みたいに送り出さないでくれよ』って苦笑いしてた」
「……ほう」
サガは改めて原稿を見つめ直した。
先ほどまで整然と見えていた墨の文字が、急に座りの悪いものに思えてくる。
「献身とは、人を称えるに相応しい誉れ言葉であろう」
「世間一般ではね」
「実際、ジョン殿は艦内の皆のために尽くしてくれた」
「それも紛れもない事実さ」
「ならば、なぜ本人はそれを疎ましがるのだ?」
「本人に聞いてみたらどうだい?」
「よし」
「え、今から?」
「主役について語る言葉だ。本人が艦におるのなら、直接胸の内を訊ねるのが一番早いに決まっておろう!」
「道理だけど、本当に行動が早いね君は」
ミッドナイトは楽しげに喉を鳴らした。
「ちょうどこの後、彼が私物を引き取りにここへ寄る段取りになってるよ」
「ならばここで待とう!」
*
三十分ほどして、談話室の自動ドアが開き、小柄なジョンが姿を現した。使い込まれた金属の工具箱をひとつ提げ、肩からは私物を詰めた布袋を提げている。
「……明日使うはずの部屋で、ふたりして何やってるんです?」
「貴殿を送り出す言葉を思案しておったのだ!」
「うわ、本人に真っ向から言うんだ」
ジョンは困ったように眉を下げて苦笑した。
サガは丸椅子を引き、腰掛けるよう手で促した。
「単刀直入に問いたい。『献身』と呼ばれるのは、それほど嫌なものなのでござるか」
「ああ……ミッドナイトさん、バラしましたね?」
「男同士の内緒話にする約束はしてなかっただろ?」
「まあ、隠すことでもないですけど」
ジョンは重い荷物を足元へ下ろし、浅く腰をかけた。少し宙を睨んでから、慎重に言葉を探す。
「嫌悪してる、ってほどじゃないんですよ。ただ……俺、ロドスのために身を削って我慢しながら働いてたわけじゃないんです」
サガは口を挟まず、その言葉の先を待った。
「仕事だからやったのもあるし、直すのが面白くて夢中になったこともある。誰かに頼まれて無下に断れなかっただけの時もあるし、忙しすぎて悪態をつきながらレンチを握ってた夜なんて数え切れませんよ」
「うむ」
「それを最後の最後にぜんぶひと括りにされて『身を粉にして献身してくれた人』なんて言われちゃうと……」
ジョンは頭を掻きむしった。
「なんだか俺が、ずっと耐え忍ぶこと自体を喜んでた奇特な人間みたいに聞こえるじゃないですか」
「耐えることが好きだったわけではない、と」
「好きなわけないでしょう! 夜中の冷たい泥水の中で配管のボルト回すのが好きだったら、そいつはただの変わり者ですよ」
サガは思わず吹き出した。
「それは確かに、違いあるまいな!」
「でもね」ジョンの口元がわずかに緩んだ。「作業が終わって、翌朝にみんなが談話室で普通に温かい飯を食ってたり、シャワーがちゃんと出たって笑ってたりするのを見ると……ああ、直してよかったなとは心底思いましたよ」
「なるほど」
「だから、感謝されるのが嫌なわけじゃないんです。ただ――」
ジョンはふっと視線を上げ、どこか遠くを見るような明るい光を瞳に宿した。
「これからの話をしてほしいんです」
「これから、でござるか」
「ええ」
ジョンの声が弾んだ。
「次の職場は小さな工房なんです。設備の修理だけじゃなくて、一から道具の改造や設計もやらせてもらえるらしくて。昔からずっと、そういう物作りにどっぷり浸かりたかったんですよ」
「おお!」
「まあ、個人工房ですから忙しいのは変わらないでしょうけどね」
「楽しみなのでござるな?」
「そりゃもう、めちゃくちゃに」
迷いのない即答だった。
サガは手元の紙を見つめた。
そこには過去のことしか書かれていない。長く留まり、支え、耐え、尽くした――まるで、明日でその歩みがすべて終わってしまう人間への墓碑銘のように、美しく整いすぎていた。
「相分かった」
サガは紙を二つに折り畳んだ。
「一から書き直そう」
「え、そこまでしなくても……全部が悪いわけじゃ」
「承知しておる。ゆえに、貴殿の誠をすべて捨てるわけではない」
サガが力強く応えると、ジョンは憑き物が落ちたようにほっと息をついた。
「……じゃあ、サガさんにお任せします」
「任されよ!」
「怖いなあ」
「なぜだ!」
「サガさん、気合が入ると声がやたらデカくなるから」
「祝う場なのだから、声は朗々たる方が――」
「ほら、それ」
横からミッドナイトがすかさず口を挟んだ。
「いま教わったばかりの間の取り方、もう頭から抜け落ちてないかい?」
「忘れておらぬわ!」
三人の笑い声が、談話室の空気を温かく揺らした。
*
ジョンが去った後、机の上の原稿は見る見るうちに削ぎ落とされていった。
ふたりで笑い合いながら、真っ白な用紙にジョンが実際に果たしてきた具体的な仕事を書き出していく。
定期点検。突発的な漏水の修理。配管の引き直し。新人オペレーターへの安全講習。深夜の凍結対応。
誰にでも情景が浮かび、なおかつジョンという職人の体温が通う場面を厳選する。
「これなどどうだ」
サガが指を置いた。
「『多くの故障を直し、艦内の暮らしを陰ながら支えた』」
「悪くはない。でも、ちょっと言葉の風呂敷が広すぎるかな」
「ならば、もっと焦点を絞るべきか」
「君自身の目で見た、具体的な景色はないかい?」
サガは記憶の糸を手繰り寄せた。ジョンと四六時中行動を共にしていたわけではない。だが、深く胸に刻まれた光景がひとつだけあった。
「……あの日があったな」
「いつだい?」
「去年の冬、東側の主暖房が完全に沈黙した夜があった」
「ああ、冷え込みが酷かった時期だね」
「うむ。拙僧も毛布を担いで走り回った。ジョン殿は、凍てつく天井裏で夜を徹して配管の弁を叩いておったのだ」
「それだよ。すごくいい」
「されど、それだけではジョン殿ひとりの手柄のように聞こえぬか? 他にもエンジニア部の者たちが泥だらけで付き添っておったぞ」
「なら、そのまま書けばいいのさ」
サガは筆を執り、迷いなく走らせた。
『真冬に東側居住区の暖房が止まりし夜、ジョン殿は整備班の仲間とともに、夜明けまで復旧の作業にあたられた。翌朝、いつもと変わらぬ暖かさが部屋を満たしていたことを、拙僧は今も鮮明に覚えておる』
覗き込んだミッドナイトが、満足そうに頷いた。
「うん、血が通ったね」
「少々、地味に過ぎはせぬか?」
「昨日のウタゲみたいなことを言うね、君は」
「なぜそれを知っておるのだ!?」
「艦内の風通しを舐めちゃいけないよ。それに、送別会なんだからこれくらい素朴なほうがいい。華やかさを添えたいなら、読む側の声の艶でいくらでも演出できる」
「なるほど……」
サガは自らの右袖、昨日に縫い付けた朱の端切れにそっと触れた。
布も、当てる場所によってその輝きを変える。言葉もまた、置くべき場所があってこそ生きるのだろう。
「拙僧はな、定まった型通りの言葉を、すべて無駄だとは思わぬのだ」
「おや?」
「経文もそうであろう」
筆を置き、腕を組む。
「何百年と受け継がれてきた同じ文句を、無数の僧が唱え、無数の民が耳を傾ける。己ひとりのために誂えられた言葉でなくとも、その揺るぎなき型にすがって魂を救われる夜もある」
「あるだろうね」
「祝いも、弔いも同じはずだ。何をどう口にしてよいか分からぬほど心が乱れた時、先人が遺してくれた型があるからこそ、人は辛うじて唇を開くことができる」
「型があるから、踏み出せる一歩もある。……それは俺も同意見だよ」
ミッドナイトはパイプ椅子の背もたれに深く体重を預けた。
「夜の街で初めて会う相手に、いきなりその人だけの完璧なオーダーメイドの言葉なんて投げられないからね」
「ならば貴殿は、いかなる時に型を崩し、いかなる時に声の色を変えるのだ?」
「相手が今、何を受け止められる状態か……それを見極めた時、かな」
サガは顔を上げた。
「受け止められる、か」
「自分が言いたいことを全部ぶちまけたって、相手の器が塞がってたらこぼれ落ちるだけだからね」
「それは道理だ。されど――」
サガは少し眉を寄せた。
「本人が聞きたいと言い募る言葉と、その者が真に聞かねばならぬ言葉が、食い違っておる時はどうする?」
ミッドナイトの指が止まった。
机上の紙を押さえていた指先が、わずかに強張る。
ほんの一瞬、彼は視線を落としたまま沈黙した。談話室の静寂の中に、遠くの換気機の唸りだけが低く響く。
サガは急かすことなく、ただ静かに待った。
「……難しいね」
やがてミッドナイトが、いつになく平坦な声音で呟いた。
「正しい言葉を、正しい瞬間に差し出せるとは限らない」
「うむ」
「聞いてほしいと願う相手ほど、こちらの言葉に耳を塞いでいることもあるしね」
その声には、夜の街でどれほど美辞麗句を重ねても届かなかった誰かの影が、かすかに滲んでいるようだった。
「それに……こっち側にだって、どうしても上手く言葉を紡げない相手がいる」
サガは彼を見つめた。
それがかつて仕えた誰かなのか、あるいは二度と会えぬ過去の誰かなのか、サガには知る由もない。詮索するための材料もないし、軽々しく踏み込むべき領域ではないことも弁えていた。
「それでも貴殿は、言葉を選び続けるのだな」
「それが俺の生業だからね」
ミッドナイトはふっと顔を上げ、いつもの完璧な笑みを張り直した。
「俺の極上の話術を渇望しているレディたちが、艦内にも星の数ほどいるんだから」
「己でそこまで言うか!」
「紛れもない事実さ」
「ほう。ならば明日の宴では、その見事な腕前を存分に振るってもらわねば困るな」
「おや、いつの間にか俺も巻き込まれてる?」
「ここまで手塩にかけておいて、ただの客面で座っていられると思うたか!」
「参ったな、完全に一本取られたよ」
肩を竦め合うと、ふたりは再び原稿の推敲へと戻った。
最後まで悩んだのは、同僚たちから寄せられた「ジョンの昔の失敗談」だった。長く現場を共にした者だけが知る鉄板の笑い話。これを入れると絶対に盛り上がる、と何人かの整備員が太鼓判を押していたエピソードだ。
「拙僧には、その光景が肌感覚として分からぬ」
「俺も半分くらいしか実感が湧かないな」
「ならば削ろう」
「賛成」
誰にでも流用できそうな、当たり障りのない美辞麗句もすべて削ぎ落とす。
「……ずいぶんと短くなったな。削りすぎではあるまいか?」
「いいのさ」ミッドナイトが涼やかに微笑んだ。「挨拶なんて短いほうが、主役も客も早く美味い酒にありつける」
「なるほど!」
「半分冗談だけどね」
「されど、確固たる真理でござるな!」
結局、仕上がった祝辞は、最初の三分の一ほどの長さにまで研ぎ澄まされていた。
*
翌日の夕暮れ。
談話室には二十名ほどのオペレーターが集まっていた。
決して大規模な式典ではない。長机の上には色とりどりの軽食と飲み物が並び、壁には色画用紙で作られた簡素な輪飾りが揺れている。
主賓席の丸椅子には、少し気恥ずかしそうに背筋を伸ばしたジョンが座っていた。
司会に促され、サガが中央へ歩み出る。あちこちから温かな拍手が湧き起こった。
「では――!」
いつもの癖で肺腑の底から声を張り上げようとして、サガはすんでのところで息を止めた。
部屋の広さを測る。壁の反響を確かめる。
昨日、ミッドナイトと共に確かめた「届く声」の大きさを思い出す。全力をぶつける必要はない。言葉が波のように広がるのを待てばよいのだ。
深く息を吸い、穏やかに息を吐いた。
「ジョン殿」
ただ、名を呼ぶ。
ジョンが顔を上げ、サガをまっすぐに見つめ返した。
「長きにわたるロドスでの務め、誠にご苦労さまでござった」
会場から小さく笑い声が漏れた。サガの古風な口調が、この砕けた宴の席では妙に改まって響く。だが、その場の空気が柔らかくほぐれていくのが分かった。
「拙僧がこの胸に留めておる光景を、ひとつだけ語らせてほしい」
サガは、あの凍てつく冬の夜の話を始めた。
東側居住区の暖房が突然落ちたこと。
冷え切った廊下を、オペレーター総出で毛布を抱えて走ったこと。
そして整備班の面々が、夜を徹して冷たい金属配管にしがみついていたこと。
「翌朝、拙僧が部屋の扉を開けたとき、そこにはいつもと変わらぬ暖かな空気が流れておった」
サガは言葉を切り、静かに間を置いた。
部屋の中のざわめきがすっと引いていく。
「その朝、拙僧はただ『ああ、直ったのだな』と安堵した。されど――ひとりでに直る機械など、この世のどこにもありはしない。直ったものの陰には、凍える指先で鉄を握り続けた者がおったのだ」
ジョンが膝の上で両手を組み、照れくさそうに視線を落とした。
「ジョン殿もまた、その誇り高き職人のひとりであった」
華々しい功績ではない。
勲章が授与されるような武勇伝でもない。
だがサガは、この地道な一夜の記憶を選び取った。
「長く尽くしてくれたからとて、次の場所でも耐え忍べなどと野暮なことは申さぬ」
ジョンが弾かれたように顔を上げた。
「新天地の工房では、道具の改造にも腕を振るうのであろう?」
「……それ、誰から聞いたんですか!」
客席からどっと笑いが起きた。ジョンもつられて吹き出す。
「貴殿自ら、嬉々として語ったではないか!」
「言いましたけど! ここでバラさなくてもいいでしょう!」
「めでたい門出なのだ、皆に自慢して何が悪い!」
「サガさん、そういうとこだけ妙に強引なんだから!」
あたたかな笑い声が波のように広がり、サガも満面の笑みを浮かべた。
そして、最後の一節を告げようと息を吸い込み――。
ふと、サガは唇を閉じた。
笑いが引き、次の言葉を待つ静寂が部屋に満ちる。
以前のサガであれば、空白を埋めるように間髪を入れず声を張り上げていたはずだった。だが、いまは静かに待つ。
一呼吸。
二呼吸。
部屋の隅に立つミッドナイトと視線が交錯した。
彼もまた、口元に薄い笑みを浮かべたまま動かない。普段の彼なら、絶妙な合いの手を入れて場をさらに沸かせることもできただろう。だが彼は沈黙を守り、ただ空のグラスを置こうとした隣の同僚へ、目線だけで「少し待って」と合図を送っていた。
清らかな静寂が、損なわれることなくそこにある。
サガはジョンの目をまっすぐに見据えた。
「新しい地で、貴殿が心から『面白い』と思える仕事に、たくさん巡り合えることを祈っておる」
ジョンは胸元を押さえ、深く、深く頷いた。
「……ありがとうございます」
祝辞は、それで過不足なく幕を閉じた。
*
宴が佳境に入ると、ジョンの周りには代わる代わる同僚たちが押し寄せた。
サガたちが原稿から削ったはずの昔の失敗談も、結局はジョン本人の口から面白おかしく語られ、周囲を大いに沸かせていた。
苦労して削った意味はなかったのかとサガは一瞬首を傾げたが、すぐに思い直した。他人が勝手に他人の過去を切り売りするのと、本人が自らの意志で笑い話として手渡すのとでは、天と地ほどの開きがあるのだ。
ジョンは酒を片手に、これからの工房の話を熱っぽく語っていた。
どんな旋盤が置いてあるのか。どんな道具を作りたいのか。住む部屋はまだ決まっていないが、近くに美味い飯を出す市場があるらしい、と。
過去の労苦を振り返る声よりも、明日の輪郭を描く声のほうが、ずっと熱を帯びていた。
やがて宴はお開きとなり、人が引いた談話室で後片付けが始まった。
ミッドナイトが器用に脚立に乗り、壁の飾りを外している。
「ミッドナイト殿」
サガが空いた大皿を重ねながら歩み寄った。
「ん、お疲れさま。大盛況だったね」
「先ほどは助かった」
「俺、何か特別なことしたっけ?」
「あの、静まり返った間隙のことでござる」
ミッドナイトの指先が止まり、ゆっくりと脚立から下りてきた。
「君なら、あそこで洒落た軽口をいくらでも挟み込めたはずだ。されど、貴殿はあえて口を開かなかった」
「……サガが自分で、次の言葉を見つけられそうだったからね」
「それだけの理由か?」
「それだけで十分すぎる理由だよ」
ミッドナイトは外した紙の輪飾りを、丁寧に折り畳んでサガの手元へ置いた。
「誰かが口籠もったからって、何でもかんでも助け舟を出すのが親切とは限らない。待っていれば、本人の口から一番いい言葉が出てくることもあるんだからさ」
「なるほどな」
「もちろん、こっちから助けに入ったほうがいい場面もある。……その引き際を見極めるのが、俺たちのプロの技術ってやつさ」
自慢げでもなく、卑下するでもなく。
ただ日々の仕事をこなす職人のように、ミッドナイトはさらりと言ってのけた。
サガは深く頭を下げた。
「実に見事な手腕であった」
「おや」
「何がだ?」
「サガからそんな、真っ向勝負の賛辞をもらえるとは思わなかったな」
「不服ならば取り消すが?」
「とんでもない! もっと盛大に褒めてくれて構わないよ」
「つくづく欲の深い男だ!」
「正当な評価は余さず受け取る主義なのさ」
ミッドナイトは胸元に掌を当て、優雅に一礼してみせた。
「今後とも司会進行、祝辞の添削、会場の空気作り、その他諸々の華やかな催しには、ぜひこのミッドナイトをご指名あれ」
「急に商売を始めるでない!」
「初回の無料相談期間はこれにて終了です」
「最初からそう申せ!」
ふたりの笑い声が、ガランとし始めた談話室に高く響き渡った。
サガは動かされていた長机の端を掴み、元の位置へと引き戻す。
同じ言葉であっても、息を置く場所ひとつで響きはまるで違ったものになる。
先人たちが遺した型があるからこそ、救われる瞬間もある。
だが、その型を誰彼構わず押し付ければよいというものでもない。
目の前に立つ者が、いま人生のいかなる場所に立ち止まっているのか。
何を終え。
何を背負い。
そしてこれから、いかなる光へ向かって歩み出そうとしているのか。
その道筋に心を寄せずして、心に届く言葉を選ぶことなど叶わないのだ。
「サガ、それ一緒に持とうか」
「うむ、頼む!」
ミッドナイトが長机の反対側を抱え込んだ。
「せーので持ち上げるよ」
「承知!」
「せーの」
ふたりで息を合わせ、重い机を持ち上げる。
宴が終わった部屋には、もう割れんばかりの拍手も、晴れがましい祝辞も残っていない。
それでも、為すべき仕事は手元に残されている。
机を戻し、椅子を拭き、散らばった紙屑を掃き集める。
どれほど華やかな言葉を自在に操る者であっても、最後には己の掌を使ってパイプ椅子を片付けるのだ。
サガはその飾らない泥臭さが、どうしようもなく気に入っていた。