光のパレット   作:息抜き

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1話

私には、前世の記憶がある。

そう言うと何かすごいことができそうだけど、残念ながらそういう便利なものではない。

前の私は男だった。

勉強も運動も人並みで、人に自慢できるような実績もなく、何かの才能を見込まれた覚えもない。悪い人生だったとは思わないけど、私でなければできなかったことを挙げろと言われると、ちょっと困る。

そんな人生の記憶を持ったまま、気づいたら、私はもう一度赤ん坊になっていた。

なぜそうなったのかは知らない。

説明してくれる相手もいなかったし、誰にも言わない方がいいことは分かっていた。

小さな子供が急にそんなことを言い出したら、どんな事態になるか分かったものじゃないだろう。

ただ、前の人生を何でも思い出せるわけではない。

忘れていることも多いけど、強く印象に残ったことは、今の人生の思い出と同じように浮かんでくる。

 

そして現在。

白瀬真琴。高校二年生。もうすぐ十七歳。

今度の人生では、女子高生をやっている。

 

「真琴。これ、どっちがいいと思う?」

 

昼休みの教室で、目の前にスマートフォンが差し出された。

私は食べかけの卵焼きを弁当箱に戻す。

 

「何のどっち?」

 

「終わり方。二つ作った」

 

「先に言っておくけど、難しいことは分からないよ」

 

「大丈夫。分からない人の感想が欲しい」

 

堂々と言われると、少し引っかかるものがある。

前の席の椅子をこちらへ向けている佐伯由佳は、そんな私の顔を見て笑い、画面を横向きにした。

映っているのは、薄暗い廊下だった。

低い音が響く。画面がゆっくり曲がり角へ近づく。向こう側で、何かが動く気配がする。

思わず身構えたところで、小さな丸い掃除機が現れた。

壁に当たり、向きを変え、また同じ壁に当たった。

 

「……これが犯人?」

 

「違う。ホラーっぽく編集する練習」

 

「すごく困ってるけど」

 

「掃除機が?」

 

「出口のない場所に閉じ込められてぐるぐるしてるし」

 

由佳が吹き出した。

つられて私も笑う。掃除機はその間にも、律儀に壁へ挑み続けていた。

由佳は映画を見るのが好きだ。正確には、見るだけでは物足りないらしい。

私が登場人物の選択に納得したりしなかったりしている横で、由佳は「あそこの場面、どうやってつないだんだろう」なんて言っている。

そんな彼女は、スマートフォンで短い動画を撮り、編集し、休日には学校外の映像ワークショップへ参加したりしているらしい。

ワークショップというものを私も最初は知らなかったけど、映像制作会社や現場のスタッフが、学生向けに開いている講座だとかなんとか。

カメラの使い方だけを習うのではなく、何人かで短い映像を撮って、音を入れて、編集して、一つの形にするところまで実際にやる。

高校生でも申し込めて、由佳は同じところへ何度も通っていた。

進路希望も映像やメディアを学べる学部で、こちらはかなり早い時期から決まっている。

ただし、画面に映る側になりたいわけではないらしい。

 

「で、もう一つは?」

 

「掃除機が出てくる直前で終わる」

 

「それだと普通に怖い」

 

「じゃあ、そっち?」

 

「でも私は、この掃除機の続きが見たい」

 

「趣旨が変わるんだよなあ」

 

そう言いながらも、由佳はもう一度動画を再生した。

 

「白瀬、英語のプリントって明日までだっけ?」

 

通りかかった男子に声をかけられて、私は顔を上げた。

 

「明後日。裏もあるから気をつけて」

 

「うわ、裏あるの?」

 

「私もさっき気づいた」

 

「助かった。ありがと」

 

軽く手を上げた彼に、私も小さく頷く。会話はそれで終わった。

少し離れた席からは、女子が由佳を呼んでいる。

 

「由佳、今日帰りに寄ってく? 真琴も」

 

「私は今日は帰る。誘ってくれてありがとう」

 

「了解。由佳は?」

 

「行く。ホームルーム終わったらそっち行くね」

 

それぞれの話へ戻っていく声を聞きながら、私は卵焼きを口へ運んだ。

何も起こらない。

ただ話しかけられて、返事をして、相手が離れていく。

それだけのことが普通に続くようになるまで、私には少し時間がかかった。

 

今の自分が女であること自体には、もう慣れている。

十七年近くもこの身体で生きていれば、朝、鏡を見るたびに驚いたりはしない。

制服のリボンもスカートも日常の一部だし、お父さんとお母さんは、ちゃんと私の両親だ。

男が女の身体を借りて暮らしている、という感覚ではない。

私は白瀬真琴で、今は女だ。ただ、普通なら持っていないはずの人生の記憶が、一つ余分にある。

 

そこは、もう自分の中で折り合いがついていた。

もっとも、生まれ直したばかりの頃からそうだったわけではない。

今度の私は女の子なのだと理解したときには、まず、どうすればいいのか分からなくなった。

女の子のふりをする、というより、この年齢の子供なら何を知っていて、どう喋り、どう動くものなのかが分からなかったのだ。

前の人生で知っていることを、そのまま口にしていいはずもない。

 

だから、周りを見た。

大人に話しかけられたときの返事。嬉しいときの笑い方。

椅子への座り方。友達と遊ぶときの声の大きさ。

自分が同じようにしたら、どう見えるか。

変ではないか。何か余計なものが出ていないか。

そうやって一つずつ確かめ、うまくいったものを使い続けた。

最初はいちいち考えていたことも、繰り返すうちに考えずにできるようになった。

小学校の低学年くらいまでは、それで何とかなっていたと思う。

 

でも、学年が上がるにつれて、分からないことが増えていった。

男子とは、ゲームの話なら案外気楽に話せた。

くだらないことで笑う感覚も分かったし、わざわざ仲間に入れてもらおうと考えなくても、会話に入れた。

ところが、向こうが私をはっきりと「女子」として意識し始めると、同じ距離ではいられなくなった。

昨日まで普通に話していた相手が、急に友達にからかわれる。私に聞こえるところで、好きなのかと尋ねられる。

こちらはただ、ゲームの話をしていただけなのに。

 

女子の輪にも、別の難しさがあった。

当時一緒にいた子たちの間では、誰と誰が仲がいいとか、誰が誰を好きだとか、昨日まで仲のよかった子を今日はどう扱うとか、そういうことに細かな決まりがあった。

私にはその切り替わりが、うまく分からなかった。

急に腕を組まれると身構えてしまう。着替えるときに距離を取りすぎる。

恋愛の話で、期待されていたのとは違う返事をする。

そのたびに、一瞬だけ場の空気が変わった。

さらに、私は身体の成長が早かった。

 

周りより先に体つきが変わり、体育着の上からでも分かるようになった頃には、自分の身体について、自分の知らないところで話をされるようになっていた。

男子と話せば、男子にばかり愛想がいいと言われた。

女子から離れれば、すましていると言われた。

見られたくなくて隠せば、意識しすぎだと笑われた。

何をすればいいんだ、と本気で思った。

悪口が聞こえても、最初は無視した。会話に入れてもらえなくなっても、気にしていない顔をした。

反応しなければ、そのうち飽きるだろうと思っていた。

 

少なくとも、自分まで怒って揉めるよりは、その方がましだと。

だけど、小学校を卒業しても、それは都合よく終わってくれなかった。

中学では、知っている顔も、知っている話も、そのままついてきた。

前の人生の記憶があるからといって、今いる教室で過ごす一日が短くなるわけではない。

聞こえていないふりをしても、聞こえた言葉までなくなるわけではなかった。

子供のすることだ、と距離を置いて考えようとしたこともある。

昔の感覚で他人事みたいに片づけられたら、その方が楽だった。

でも、その教室にいる私も、同じ年の子供だった。

投げつけられた言葉は、どうにか周りに馴染もうとしていた私の胸に、痛いほど突き刺さっていた。

 

それでも家に帰れば「大丈夫」と言った。

眉を下げすぎない。返事は少し早めにする。夕食は普通に食べる。

心配されないようにするための工夫だけは、ずいぶん上達した。

結局、両親にも学校にも知られることにはなったけど、何を言われ、どんなことを考えていたのかまで、全部話したわけではない。

まして、いちばん根っこにある記憶のことは、一度も。

 

 

 

高校に入るとき、私はやり方を変えた。

うまく馴染もうとするのを、少しやめた。

男子とは普通に話す。ただし、必要以上に長く二人きりにならない。

女子とも普通に話す。ただし、誰かの隣を自分の決まった場所にはしない。

誘いは全部断らず、ときどき参加する。分からない話には、無理に詳しいふりをしない。

人の悪口には乗らず、かといって、その場で正論を振りかざしたりもしない。

 

感じは悪くないけど、それほど近くもない。

そんな場所を、男女どちらに対しても保つようにした。

それがよかったのか、単に周りの人に恵まれたのかは分からない。

とにかく、高校では前のようなことは起こらなかった。

話しかければ返事がある。班を作るときにも困らない。昼休みに一人でいても、何か言われることはない。

これで十分だった。

 

そう思っていた私に、一人だけ、何度でも話しかけてきたのが由佳だ。

一年生のとき、私が読んでいた本を見て、それの映画を見たかと聞かれたのが最初だった。

見ていないと答えたら、翌日には別の映画の話をされた。その次には自分で撮った動画を見せられた。

よくそんなに話題があるな、と感心した覚えがある。

何度か、帰り道の誘いを断った。

そのたびに由佳は、「了解。また今度」で終わった。

 

そして本当に、別の日にはまた誘ってきた。

断った理由を聞かれない。次の日に機嫌が悪くなっていない。

昨日断ったから、今日は応じなければいけないということもない。

それに慣れてきた頃には、私は由佳の隣で昼食を食べるようになっていた。

由佳が知っているのは、私が中学であまりうまくやれていなかったらしい、という程度だ。

それ以上を知りたがらないので、私も話していない。

 

「真琴、止まってる」

 

「え?」

 

「お箸。もうすぐ予鈴」

 

由佳に言われて時計を見る。

確かに、残り時間はあまりなかった。

 

「掃除機の人生について考えてた?」

 

「……出口は用意してあげて」

 

「だから、そういう作品じゃないって」

 

また笑ってから、私は残っていたご飯を口へ運んだ。

こういうときにまで、自分がどう見えるかを考えることは、前より少なくなった。

 

————

 

それから数日後の放課後だった。

駅へ向かう途中で、由佳が鞄からスマートフォンを取り出す。

 

「今度の土曜日って、空いてる?」

 

「午後なら。何?」

 

「撮影。前に話した、外の現場のお手伝い」

 

「由佳が行ってるやつ?」

 

「そう。今、短いドラマを作ってて。同年代の女子がもう一人必要になったんだって」

 

私は由佳の方を見た。

由佳もこちらを見る。

 

「……私?」

 

「うん」

 

「撮られる方?」

 

「そう」

 

そんな経験は、前の人生にも今の人生にもない。

 

「私、演技なんてできないけど」

 

「エキストラだから。後ろで座ってたり、歩いたりする感じって聞いてる」

 

「本当にそれだけ?」

 

「聞いてる範囲では」

 

「その言い方、ちょっと怖いんだけど」

 

「私が勝手に保証して違った方が怖くない?」

 

それはそうだ。

由佳は画面を見ながら、撮影の予定を説明してくれた。

制作しているのは、ノートフィルムという小さな映像制作会社。

若いスタッフの経験を積む機会も兼ねた、インターネット公開用の短編だという。

由佳が通っているワークショップも、そこが開いているものだった。

何度か参加している人の中から、希望すれば小規模な撮影の手伝いに入れることがあるらしい。

もちろん高校生だけで作品を作るわけではなく、監督や撮影スタッフは仕事でやっている人たちで、由佳たちはその指示を受けて準備や片付けを手伝う。

 

「それで、なんで私なの?」

 

「私と同じくらいの年の女子をもう一人探してるんだって。知り合いでいないかって、私たちにも聞かれたから」

 

「それで私?」

 

「うん。同じくらいの年で、ちゃんと連絡取れて、時間守ってくれそうな知り合い」

 

「すごく実用的な理由」

 

「大事でしょ」

 

特別に私を映したいわけではない。

条件に合う人を探していて、たまたま私がいた。

それなら、まあ、分からなくもなかった。

 

「人、足りなくて困ってるの?」

 

「探してるところ。でも、真琴が嫌なら別の人に聞くよ」

 

「……とりあえず、詳しい内容を見てからでもいい?」

 

「もちろん。紹介していい?」

 

「うん」

 

 

 

その晩には、制作会社から撮影内容と参加条件の説明が届いた。

作品名は『帰り道のフレーム』。

日時、場所、公開先、服装、交通費について。私が思っていたより、確認することがいろいろあった。

両親にも見せると、母は最初に私の顔を見た。

 

「撮られるの、平気?」

 

「真ん中にいるわけじゃないみたい。後ろを歩いたりするだけだって」

 

「そう。じゃあ、内容は一緒に確認しようか」

 

父が終了予定時刻を確かめ、母が同意書に目を通した。

私自身も制作の人と連絡を取り、当日の流れを聞いた。

そうして土曜日の予定が一つ埋まった。

一日だけ、画面の背景になる。

そのときは、それ以上のことを考えていなかった。

 

————

 

撮影に使われていたのは、営業前の時間を借りた喫茶店だった。

入口を入ると、床に貼られたテープと、思っていたより太いケーブルが目に入った。

見慣れた形の椅子やテーブルの間に、大きな照明や機材が置かれている。どこを歩いていいのか一瞬迷ったところで、奥から由佳が手を振った。

 

「真琴、こっち」

 

「おはよう。……すごいね」

 

「でしょ」

 

由佳が嬉しそうだったのもあって、私まで少し笑ってしまった。

受付で名前を伝え、担当の人に挨拶をする。

 

「今日はよろしくお願いします」

 

「はい、こちらこそよろしくお願いします。こちらが本日の台本です。該当部分まで少し時間があるので、読んで待っていてくださると助かります」

 

「分かりました」

 

私の役は、主人公たちと同じお店にいる女子高校生だった。

指定された席で本を開く。合図があったら閉じて、鞄を持ち、店の奥へ歩く。

最初に説明された仕事は、本当にそれだけだった。

主演の俳優さんのことを、私は知らなかった。

ただ、普通にスタッフと話していた人が、撮影開始の声で別の人に見えるのには、素直に感心した。

声を張り上げているわけでもないのに、話している内容がすっと耳へ入ってくる。カメラの向こうに誰かが見るものなのだと、ようやく実感が湧いた。

由佳はそんな中でスタッフの一人について小道具を運んだり、次に使うものを揃えたりしていた。

ワークショップの時とは違って、今日は教えてもらいながら作品を作る側ではなく、仕事として撮影している人たちの手伝いをする側らしい。

 

最初の撮影で、私は少し早く歩きすぎた。

 

「白瀬さん、もう少しゆっくりで大丈夫です」

 

「すみません。分かりました」

 

次は歩幅を小さくした。

今度は別のところでもう一度になった。

席に戻り、同じページを開き、同じ合図を待つ。

見えるのはほんの短い時間なのに、同じことを何度も繰り返す。

由佳がこういう現場を面白がる理由は、何となく分かった。

私は多分、完成したものを見る方が好きだけど。

何度目かの撮影で、主人公たちの会話に少しおかしな間ができた。

相手の言葉を真面目に受け止めた主演さんが、妙にずれた返事をする。

台本にあるやり取りだと分かっていても、少しだけおかしかった。

声を出さないよう、私は本へ目を戻した。

 

「カット」

 

監督の声がして、私は顔を上げた。

モニターを見ていた監督が、こちらへやってくる。

 

「白瀬さん、少し相談してもいいですか」

 

「はい」

 

歩くタイミングを間違えたのかと思った。

だけど、そうではなかった。

 

「今の、会話を聞いて笑いそうになったところ、よかったので。主人公たちの友達として、もう少し近くの席で反応を撮らせてもらえませんか」

 

思わず、監督の顔を見た。

 

「私の、顔をですか?」

 

「はい。台詞はありませんが、今よりはっきり映る短いカットになります」

 

制作の人も来て、変更になる撮り方を説明してくれた。

急なお願いなので、難しければ断って大丈夫だと言われる。

私は一度だけ由佳の方を見た。

目が合うと、由佳もわずかに眉を上げた。

そちらも初耳らしい。

 

「演技の経験がないので、うまくできるかは分からないんですけど」

 

「まず一度、こちらから説明します。それでできそうか考えてもらっていいですか」

 

「……はい。お願いします」

 

返事をするときには、もう普通に笑えていた。

戸惑っているのは内側だけで、相手が困らない顔をするのは、慣れている。

機材の位置を変える間に、由佳が近づいてきた。

私は声を落とす。

 

「話、違うじゃん」

 

「私もびっくりしてる」

 

「座ってるだけって言った」

 

「座ってはいる」

 

「そこだけ守られても」

 

由佳が口を押さえた。

私も少し笑って、それから監督の方へ向き直る。

 

「どんなふうにすればいいですか?」

 

内容は難しくなかった。

友達のやり取りがおかしくて、笑いそうになる。

でも、相手は真面目に話しているので、あまり笑ってはいけない。

まず一度やってみると、監督はモニターを見て首を傾けた。

 

「もう少し、笑いたいのを我慢してる感じでいきましょうか」

 

なるほど。

今のは、普通に笑っているように見えたらしい。

 

「相手に、笑ってるって気づかれたくない感じですか?」

 

「そうですね。でも、ちょっとだけ漏れちゃう」

 

「分かりました」

 

相手の顔を見続けると、笑っているのが伝わりすぎる。

だから途中で視線を外す。口元は完全には戻さない。笑う息が出そうになったところで、少しだけ止める。

声を出すほどではなく、隣にいる人なら気づくくらい。

どの程度ならどう見えるかを、一度頭の中で確かめた。

 

「本番いきます」

 

同じ台詞が始まる。

私は相手を見て、目を伏せた。

 

下を向いたまま、口元だけで笑う。息を一度飲み込み、何でもない顔に戻そうとする。

 

「カット。はい、それで」

 

顔を上げると、監督はまだモニターを見ていた。

 

「今の感じ、もう一回できます?」

 

「はい」

 

同じ位置を見て、同じ言葉のところで息を止めた。

二度目も、それでよかったらしい。

少し安心した。

何を求められているのか分かれば、合わせることはできる。

普段と違うのは、何をしてほしいのか、相手がちゃんと言ってくれることだった。

後半の、主人公たちの会話がこじれる場面でも、私の顔を短く撮ることになった。

そこで、もう一つ注文が増えた。

 

「怒ってるんだけど、本当は泣きそうな感じにできますか」

 

私は少し考えた。

 

「泣かないように、我慢はしてるんですよね」

 

「そうです。悲しいって言う代わりに、怒ってる」

 

「……やってみます」

 

さすがに、本当に涙を出すことはできない。

でも、泣きそうなのを隠そうとする顔なら、何となく分かる気がした。

まず相手を見る。何か言い返したくて、口元に力が入る。

だけど、見続けているのはつらい。目をそらす。

それでは負けたような気がして、もう一度見る。

息を吸って、言葉になる前に止める。

 

「カット」

 

監督が、すぐには次の指示を出さなかった。

何か違っただろうか。

私は表情を戻し、返事を待った。

 

「……いいですね。最後、目を戻すところだけ、もう少しゆっくりできますか」

「はい」

 

今度は一呼吸だけ長く待ってから、視線を戻した。

監督が頷いたのが見えた。

モニターのそばでは、見覚えのない人が制作の人に何か話しかけていた。

二人とも一度こちらを向いたので、私は軽く頭を下げた。

向こうも小さく会釈を返した。それだけだった。

撮影が終わると、私は椅子の背に掛けていた上着を手に取った。

誰かに大声で褒められたわけでも、拍手が起こったわけでもない。

スタッフは次の準備をしていて、私には制作の人から「ありがとうございました」と声がかかった。

 

「こちらこそ、ありがとうございました」

 

邪魔にはならずに済んだらしい。

それで十分だった。

出口で由佳を待っていると、鞄を抱えた彼女が小走りでやってきた。

 

「お疲れ。大丈夫だった?」

 

「何とか」

 

「真琴、ああいうのできるんだね」

 

「言われたようにしただけだよ」

 

「それができるの、普通にすごくない?」

 

「由佳だって、言われたところ切って動画つなげるでしょ」

 

「それは練習してるから」

 

私は少しだけ返事に迷った。

 

「……とにかく、急に喋ってって言われなくてよかった」

 

「そこは最後まで守られたね」

 

「ほかも守ってほしかった」

 

由佳が笑う。

私も笑って、マフラーを巻き直した。

外の空気は冷たくて、さっきまで照明を向けられていた顔に気持ちよかった。

月曜日にはまた学校だ。

英語の課題もあるし、受験のこともそろそろ本気で考えないといけない。

ちょっと変わった撮影に参加した土曜日だったけど、それだけだ。

そう思っていた。

 

————

 

月曜日、帰宅して制服から着替えたところで、由佳から連絡が来た。

 

『ノートフィルムの人が、真琴と少し話したいって』

 

続けて、制作担当の人からの文面が転送されてくる。

撮影へのお礼と、都合のよいときに連絡をもらえないか、という短い文章だった。

 

『何の話?』

 

『私も詳しくは聞いてない。土曜日のことで、って』

 

何か書類が足りなかっただろうか。

撮り直しだったら、今度こそ背景だけにしてもらいたい。

そんなことを考えながら、撮影前のメールに記載されていた電話番号へかけた。

 

「お世話になっております。土曜日の撮影に参加した、白瀬真琴です。佐伯さんから、ご連絡をいただいて」

 

『白瀬さん。ありがとうございます。先日は助かりました』

 

「いえ、こちらこそ、ありがとうございました」

 

電話の向こうは、現場で説明をしてくれた制作の人だった。

その声を聞いて少し安心したところで、思ってもいなかった質問が来た。

 

『念のため確認なんですが、白瀬さんは今、芸能事務所などには所属されていませんよね?』

 

私はベッドの端へ座った。

 

「……はい。していません」

 

『演技を習ったり、活動されていた経験もないということで、間違いないですか』

 

「はい。土曜日が初めてです」

 

何だろう。

やっぱり、何かまずかったのだろうか。

 

『実は、あの日、現場に来ていた芸能事務所の担当者から、白瀬さんと一度お話ししたいという相談がありまして』

 

耳に入った言葉を、頭の中で並べ直す。

芸能事務所。担当者。

私と、話したい。

 

「……私と、ですか」

 

『はい。FOLIO ENTERTAINMENTという会社なんですが、ご存じですか?』

 

「フォリオ……。いえ、すみません。詳しくなくて」

 

『先日の撮影の主演の方が所属している事務所です。土曜日は新人開発の担当者も現場に来ていたんです』

 

主演の人。

モニターのそばにいた、見覚えのない人のことを思い出した。

あの人だったのだろうか。

 

「お話というのは、また撮影を手伝うとか、そういうことでしょうか」

 

『いえ。芸能活動に興味があるかどうかも含めて、お話をしてみたいそうです』

 

私は、膝の上に置いた手を見た。

指先が、着替えたばかりの部屋着の布をつまんでいる。

 

「それって……」

 

『いわゆる、スカウトのお声がけですね。ただ、すぐに所属を決めてくださいという話ではありません』

 

スカウト。

今度は、言い換えようがなかった。

私が。どうして。

 

「何か、別の方と間違えていませんか」

 

口にしてから、少し失礼だったかもしれないと思った。

だけど、向こうは穏やかに答えた。

 

『白瀬真琴さんです。お間違いありませんよ』

 

フルネームを言われてしまった。

逃げ道が一つなくなる。

 

「……でも、私、演技も何もできないんですけど」

 

『カメラの前での感覚に、かなり素質があるんじゃないかとおっしゃっていました』

 

「素質、ですか」

 

『はい。監督から指示があったあと、表情や視線の変え方がとても早かったでしょう。あれを見て、経験のある方なのかと尋ねられたんです』

 

土曜日のことを思い返した。

笑いたいのを我慢する。

怒っているけど、泣きそうになる。

少し待ってから、目を戻す。

それだけだった。

少なくとも、私にとっては。

 

『誰でもいいから声をかけたい、というお話ではなくて。白瀬さんならではのものがあると思うので、一度ご本人とお話をしたい、と』

 

布をつまんでいた指が、止まった。

私ならではのもの。

電話の向こうでは、説明が続いていた。

私が希望するなら、FOLIOの正式な窓口と担当者の連絡先を送ってくれること。

まだ未成年なので、話を聞きに行く場合は保護者と一緒に、ということ。

興味がなければ断って構わないし、この電話で返事をする必要もないこと。

どれも大事な話だったから、机からノートを引き寄せて、できるだけ書き留めた。

 

「ありがとうございます。まず両親に話して、確認してみます。連絡先も、送っていただけると嬉しいです」

 

『はい。ご家族とゆっくり相談してください』

 

通話を終えても、しばらくスマートフォンを耳から離せなかった。

画面が暗くなって、ようやく手を下ろす。

部屋はいつもと同じだった。

机の上には英語のプリント。椅子の背には、明日また着るブレザー。

廊下の向こうからは、母が夕食の支度をしている音がする。

その中で、ノートに書いた会社名だけが目についた。

 

「……なんで?」

 

声に出してみても、誰も答えてくれない。

私は芸能人になりたいと思ったことがない。

人に見られる仕事なんて、自分から選ぶものではないと思っていた。

そもそも、知らない会社については調べないといけないし、正式な話かどうかも確かめる必要がある。

落ち着け。まだ何も分かっていない。

そう思いながら、私はノートへ目を落とした。

会社名と連絡事項の脇に、話を聞きながら書いた言葉があった。

 

——素質がある。

 

自分の字なのに、何度も読み返してしまう。

前の人生でも、今の人生でも、褒められたことくらいはある。

きちんとしているとか、いい子だとか、助かったとか、よくできたとか。

そういう言葉は、ちゃんと嬉しかった。

でも、私にしかない何かを見つけたから話したいと、何の義理もない相手に言われたことはなかった。

あの日必要だったのは、同じくらいの年の女子だった。

決まりや約束を守って、言われた席に座り、背景を歩ける人。

別に私でなくてもよかったはずだ。

なのに、その中から、私の名前を覚えて帰った人がいる。

 

スマートフォンが震えた。

制作の人から、連絡先を記したメールが届いていた。

メールを、何度も見返してしまう。

用件はもう分かっている。同じ文章を読んだところで、新しいことは増えない。

それでも、すぐに画面を消す気にはなれなかった。

 

「……私、なんでこんなに……」

 

誰にも聞かれない声で言う。

自分でも、少し呆れた。

あれだけ目立たないようにしてきたのに。

見られない方が楽だと思っていたのに。

 

あなたには、他の人と違うものがあるかもしれない。

 

たったそれだけで、こんなにも胸が騒いでいる。

私はノートの端に指を置いた。

まだ何も決まっていない。相手の勘違いかもしれないし、実際に会えば、やっぱり違ったと言われるかもしれない。

だけど。

本当に、あるのだろうか。

私にしかないものが。

そう考えた途端、勝手に口元が緩んでいた。

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