光のパレット 作:息抜き
私には、前世の記憶がある。
そう言うと何かすごいことができそうだけど、残念ながらそういう便利なものではない。
前の私は男だった。
勉強も運動も人並みで、人に自慢できるような実績もなく、何かの才能を見込まれた覚えもない。悪い人生だったとは思わないけど、私でなければできなかったことを挙げろと言われると、ちょっと困る。
そんな人生の記憶を持ったまま、気づいたら、私はもう一度赤ん坊になっていた。
なぜそうなったのかは知らない。
説明してくれる相手もいなかったし、誰にも言わない方がいいことは分かっていた。
小さな子供が急にそんなことを言い出したら、どんな事態になるか分かったものじゃないだろう。
ただ、前の人生を何でも思い出せるわけではない。
忘れていることも多いけど、強く印象に残ったことは、今の人生の思い出と同じように浮かんでくる。
そして現在。
白瀬真琴。高校二年生。もうすぐ十七歳。
今度の人生では、女子高生をやっている。
「真琴。これ、どっちがいいと思う?」
昼休みの教室で、目の前にスマートフォンが差し出された。
私は食べかけの卵焼きを弁当箱に戻す。
「何のどっち?」
「終わり方。二つ作った」
「先に言っておくけど、難しいことは分からないよ」
「大丈夫。分からない人の感想が欲しい」
堂々と言われると、少し引っかかるものがある。
前の席の椅子をこちらへ向けている佐伯由佳は、そんな私の顔を見て笑い、画面を横向きにした。
映っているのは、薄暗い廊下だった。
低い音が響く。画面がゆっくり曲がり角へ近づく。向こう側で、何かが動く気配がする。
思わず身構えたところで、小さな丸い掃除機が現れた。
壁に当たり、向きを変え、また同じ壁に当たった。
「……これが犯人?」
「違う。ホラーっぽく編集する練習」
「すごく困ってるけど」
「掃除機が?」
「出口のない場所に閉じ込められてぐるぐるしてるし」
由佳が吹き出した。
つられて私も笑う。掃除機はその間にも、律儀に壁へ挑み続けていた。
由佳は映画を見るのが好きだ。正確には、見るだけでは物足りないらしい。
私が登場人物の選択に納得したりしなかったりしている横で、由佳は「あそこの場面、どうやってつないだんだろう」なんて言っている。
そんな彼女は、スマートフォンで短い動画を撮り、編集し、休日には学校外の映像ワークショップへ参加したりしているらしい。
ワークショップというものを私も最初は知らなかったけど、映像制作会社や現場のスタッフが、学生向けに開いている講座だとかなんとか。
カメラの使い方だけを習うのではなく、何人かで短い映像を撮って、音を入れて、編集して、一つの形にするところまで実際にやる。
高校生でも申し込めて、由佳は同じところへ何度も通っていた。
進路希望も映像やメディアを学べる学部で、こちらはかなり早い時期から決まっている。
ただし、画面に映る側になりたいわけではないらしい。
「で、もう一つは?」
「掃除機が出てくる直前で終わる」
「それだと普通に怖い」
「じゃあ、そっち?」
「でも私は、この掃除機の続きが見たい」
「趣旨が変わるんだよなあ」
そう言いながらも、由佳はもう一度動画を再生した。
「白瀬、英語のプリントって明日までだっけ?」
通りかかった男子に声をかけられて、私は顔を上げた。
「明後日。裏もあるから気をつけて」
「うわ、裏あるの?」
「私もさっき気づいた」
「助かった。ありがと」
軽く手を上げた彼に、私も小さく頷く。会話はそれで終わった。
少し離れた席からは、女子が由佳を呼んでいる。
「由佳、今日帰りに寄ってく? 真琴も」
「私は今日は帰る。誘ってくれてありがとう」
「了解。由佳は?」
「行く。ホームルーム終わったらそっち行くね」
それぞれの話へ戻っていく声を聞きながら、私は卵焼きを口へ運んだ。
何も起こらない。
ただ話しかけられて、返事をして、相手が離れていく。
それだけのことが普通に続くようになるまで、私には少し時間がかかった。
今の自分が女であること自体には、もう慣れている。
十七年近くもこの身体で生きていれば、朝、鏡を見るたびに驚いたりはしない。
制服のリボンもスカートも日常の一部だし、お父さんとお母さんは、ちゃんと私の両親だ。
男が女の身体を借りて暮らしている、という感覚ではない。
私は白瀬真琴で、今は女だ。ただ、普通なら持っていないはずの人生の記憶が、一つ余分にある。
そこは、もう自分の中で折り合いがついていた。
もっとも、生まれ直したばかりの頃からそうだったわけではない。
今度の私は女の子なのだと理解したときには、まず、どうすればいいのか分からなくなった。
女の子のふりをする、というより、この年齢の子供なら何を知っていて、どう喋り、どう動くものなのかが分からなかったのだ。
前の人生で知っていることを、そのまま口にしていいはずもない。
だから、周りを見た。
大人に話しかけられたときの返事。嬉しいときの笑い方。
椅子への座り方。友達と遊ぶときの声の大きさ。
自分が同じようにしたら、どう見えるか。
変ではないか。何か余計なものが出ていないか。
そうやって一つずつ確かめ、うまくいったものを使い続けた。
最初はいちいち考えていたことも、繰り返すうちに考えずにできるようになった。
小学校の低学年くらいまでは、それで何とかなっていたと思う。
でも、学年が上がるにつれて、分からないことが増えていった。
男子とは、ゲームの話なら案外気楽に話せた。
くだらないことで笑う感覚も分かったし、わざわざ仲間に入れてもらおうと考えなくても、会話に入れた。
ところが、向こうが私をはっきりと「女子」として意識し始めると、同じ距離ではいられなくなった。
昨日まで普通に話していた相手が、急に友達にからかわれる。私に聞こえるところで、好きなのかと尋ねられる。
こちらはただ、ゲームの話をしていただけなのに。
女子の輪にも、別の難しさがあった。
当時一緒にいた子たちの間では、誰と誰が仲がいいとか、誰が誰を好きだとか、昨日まで仲のよかった子を今日はどう扱うとか、そういうことに細かな決まりがあった。
私にはその切り替わりが、うまく分からなかった。
急に腕を組まれると身構えてしまう。着替えるときに距離を取りすぎる。
恋愛の話で、期待されていたのとは違う返事をする。
そのたびに、一瞬だけ場の空気が変わった。
さらに、私は身体の成長が早かった。
周りより先に体つきが変わり、体育着の上からでも分かるようになった頃には、自分の身体について、自分の知らないところで話をされるようになっていた。
男子と話せば、男子にばかり愛想がいいと言われた。
女子から離れれば、すましていると言われた。
見られたくなくて隠せば、意識しすぎだと笑われた。
何をすればいいんだ、と本気で思った。
悪口が聞こえても、最初は無視した。会話に入れてもらえなくなっても、気にしていない顔をした。
反応しなければ、そのうち飽きるだろうと思っていた。
少なくとも、自分まで怒って揉めるよりは、その方がましだと。
だけど、小学校を卒業しても、それは都合よく終わってくれなかった。
中学では、知っている顔も、知っている話も、そのままついてきた。
前の人生の記憶があるからといって、今いる教室で過ごす一日が短くなるわけではない。
聞こえていないふりをしても、聞こえた言葉までなくなるわけではなかった。
子供のすることだ、と距離を置いて考えようとしたこともある。
昔の感覚で他人事みたいに片づけられたら、その方が楽だった。
でも、その教室にいる私も、同じ年の子供だった。
投げつけられた言葉は、どうにか周りに馴染もうとしていた私の胸に、痛いほど突き刺さっていた。
それでも家に帰れば「大丈夫」と言った。
眉を下げすぎない。返事は少し早めにする。夕食は普通に食べる。
心配されないようにするための工夫だけは、ずいぶん上達した。
結局、両親にも学校にも知られることにはなったけど、何を言われ、どんなことを考えていたのかまで、全部話したわけではない。
まして、いちばん根っこにある記憶のことは、一度も。
高校に入るとき、私はやり方を変えた。
うまく馴染もうとするのを、少しやめた。
男子とは普通に話す。ただし、必要以上に長く二人きりにならない。
女子とも普通に話す。ただし、誰かの隣を自分の決まった場所にはしない。
誘いは全部断らず、ときどき参加する。分からない話には、無理に詳しいふりをしない。
人の悪口には乗らず、かといって、その場で正論を振りかざしたりもしない。
感じは悪くないけど、それほど近くもない。
そんな場所を、男女どちらに対しても保つようにした。
それがよかったのか、単に周りの人に恵まれたのかは分からない。
とにかく、高校では前のようなことは起こらなかった。
話しかければ返事がある。班を作るときにも困らない。昼休みに一人でいても、何か言われることはない。
これで十分だった。
そう思っていた私に、一人だけ、何度でも話しかけてきたのが由佳だ。
一年生のとき、私が読んでいた本を見て、それの映画を見たかと聞かれたのが最初だった。
見ていないと答えたら、翌日には別の映画の話をされた。その次には自分で撮った動画を見せられた。
よくそんなに話題があるな、と感心した覚えがある。
何度か、帰り道の誘いを断った。
そのたびに由佳は、「了解。また今度」で終わった。
そして本当に、別の日にはまた誘ってきた。
断った理由を聞かれない。次の日に機嫌が悪くなっていない。
昨日断ったから、今日は応じなければいけないということもない。
それに慣れてきた頃には、私は由佳の隣で昼食を食べるようになっていた。
由佳が知っているのは、私が中学であまりうまくやれていなかったらしい、という程度だ。
それ以上を知りたがらないので、私も話していない。
「真琴、止まってる」
「え?」
「お箸。もうすぐ予鈴」
由佳に言われて時計を見る。
確かに、残り時間はあまりなかった。
「掃除機の人生について考えてた?」
「……出口は用意してあげて」
「だから、そういう作品じゃないって」
また笑ってから、私は残っていたご飯を口へ運んだ。
こういうときにまで、自分がどう見えるかを考えることは、前より少なくなった。
————
それから数日後の放課後だった。
駅へ向かう途中で、由佳が鞄からスマートフォンを取り出す。
「今度の土曜日って、空いてる?」
「午後なら。何?」
「撮影。前に話した、外の現場のお手伝い」
「由佳が行ってるやつ?」
「そう。今、短いドラマを作ってて。同年代の女子がもう一人必要になったんだって」
私は由佳の方を見た。
由佳もこちらを見る。
「……私?」
「うん」
「撮られる方?」
「そう」
そんな経験は、前の人生にも今の人生にもない。
「私、演技なんてできないけど」
「エキストラだから。後ろで座ってたり、歩いたりする感じって聞いてる」
「本当にそれだけ?」
「聞いてる範囲では」
「その言い方、ちょっと怖いんだけど」
「私が勝手に保証して違った方が怖くない?」
それはそうだ。
由佳は画面を見ながら、撮影の予定を説明してくれた。
制作しているのは、ノートフィルムという小さな映像制作会社。
若いスタッフの経験を積む機会も兼ねた、インターネット公開用の短編だという。
由佳が通っているワークショップも、そこが開いているものだった。
何度か参加している人の中から、希望すれば小規模な撮影の手伝いに入れることがあるらしい。
もちろん高校生だけで作品を作るわけではなく、監督や撮影スタッフは仕事でやっている人たちで、由佳たちはその指示を受けて準備や片付けを手伝う。
「それで、なんで私なの?」
「私と同じくらいの年の女子をもう一人探してるんだって。知り合いでいないかって、私たちにも聞かれたから」
「それで私?」
「うん。同じくらいの年で、ちゃんと連絡取れて、時間守ってくれそうな知り合い」
「すごく実用的な理由」
「大事でしょ」
特別に私を映したいわけではない。
条件に合う人を探していて、たまたま私がいた。
それなら、まあ、分からなくもなかった。
「人、足りなくて困ってるの?」
「探してるところ。でも、真琴が嫌なら別の人に聞くよ」
「……とりあえず、詳しい内容を見てからでもいい?」
「もちろん。紹介していい?」
「うん」
その晩には、制作会社から撮影内容と参加条件の説明が届いた。
作品名は『帰り道のフレーム』。
日時、場所、公開先、服装、交通費について。私が思っていたより、確認することがいろいろあった。
両親にも見せると、母は最初に私の顔を見た。
「撮られるの、平気?」
「真ん中にいるわけじゃないみたい。後ろを歩いたりするだけだって」
「そう。じゃあ、内容は一緒に確認しようか」
父が終了予定時刻を確かめ、母が同意書に目を通した。
私自身も制作の人と連絡を取り、当日の流れを聞いた。
そうして土曜日の予定が一つ埋まった。
一日だけ、画面の背景になる。
そのときは、それ以上のことを考えていなかった。
————
撮影に使われていたのは、営業前の時間を借りた喫茶店だった。
入口を入ると、床に貼られたテープと、思っていたより太いケーブルが目に入った。
見慣れた形の椅子やテーブルの間に、大きな照明や機材が置かれている。どこを歩いていいのか一瞬迷ったところで、奥から由佳が手を振った。
「真琴、こっち」
「おはよう。……すごいね」
「でしょ」
由佳が嬉しそうだったのもあって、私まで少し笑ってしまった。
受付で名前を伝え、担当の人に挨拶をする。
「今日はよろしくお願いします」
「はい、こちらこそよろしくお願いします。こちらが本日の台本です。該当部分まで少し時間があるので、読んで待っていてくださると助かります」
「分かりました」
私の役は、主人公たちと同じお店にいる女子高校生だった。
指定された席で本を開く。合図があったら閉じて、鞄を持ち、店の奥へ歩く。
最初に説明された仕事は、本当にそれだけだった。
主演の俳優さんのことを、私は知らなかった。
ただ、普通にスタッフと話していた人が、撮影開始の声で別の人に見えるのには、素直に感心した。
声を張り上げているわけでもないのに、話している内容がすっと耳へ入ってくる。カメラの向こうに誰かが見るものなのだと、ようやく実感が湧いた。
由佳はそんな中でスタッフの一人について小道具を運んだり、次に使うものを揃えたりしていた。
ワークショップの時とは違って、今日は教えてもらいながら作品を作る側ではなく、仕事として撮影している人たちの手伝いをする側らしい。
最初の撮影で、私は少し早く歩きすぎた。
「白瀬さん、もう少しゆっくりで大丈夫です」
「すみません。分かりました」
次は歩幅を小さくした。
今度は別のところでもう一度になった。
席に戻り、同じページを開き、同じ合図を待つ。
見えるのはほんの短い時間なのに、同じことを何度も繰り返す。
由佳がこういう現場を面白がる理由は、何となく分かった。
私は多分、完成したものを見る方が好きだけど。
何度目かの撮影で、主人公たちの会話に少しおかしな間ができた。
相手の言葉を真面目に受け止めた主演さんが、妙にずれた返事をする。
台本にあるやり取りだと分かっていても、少しだけおかしかった。
声を出さないよう、私は本へ目を戻した。
「カット」
監督の声がして、私は顔を上げた。
モニターを見ていた監督が、こちらへやってくる。
「白瀬さん、少し相談してもいいですか」
「はい」
歩くタイミングを間違えたのかと思った。
だけど、そうではなかった。
「今の、会話を聞いて笑いそうになったところ、よかったので。主人公たちの友達として、もう少し近くの席で反応を撮らせてもらえませんか」
思わず、監督の顔を見た。
「私の、顔をですか?」
「はい。台詞はありませんが、今よりはっきり映る短いカットになります」
制作の人も来て、変更になる撮り方を説明してくれた。
急なお願いなので、難しければ断って大丈夫だと言われる。
私は一度だけ由佳の方を見た。
目が合うと、由佳もわずかに眉を上げた。
そちらも初耳らしい。
「演技の経験がないので、うまくできるかは分からないんですけど」
「まず一度、こちらから説明します。それでできそうか考えてもらっていいですか」
「……はい。お願いします」
返事をするときには、もう普通に笑えていた。
戸惑っているのは内側だけで、相手が困らない顔をするのは、慣れている。
機材の位置を変える間に、由佳が近づいてきた。
私は声を落とす。
「話、違うじゃん」
「私もびっくりしてる」
「座ってるだけって言った」
「座ってはいる」
「そこだけ守られても」
由佳が口を押さえた。
私も少し笑って、それから監督の方へ向き直る。
「どんなふうにすればいいですか?」
内容は難しくなかった。
友達のやり取りがおかしくて、笑いそうになる。
でも、相手は真面目に話しているので、あまり笑ってはいけない。
まず一度やってみると、監督はモニターを見て首を傾けた。
「もう少し、笑いたいのを我慢してる感じでいきましょうか」
なるほど。
今のは、普通に笑っているように見えたらしい。
「相手に、笑ってるって気づかれたくない感じですか?」
「そうですね。でも、ちょっとだけ漏れちゃう」
「分かりました」
相手の顔を見続けると、笑っているのが伝わりすぎる。
だから途中で視線を外す。口元は完全には戻さない。笑う息が出そうになったところで、少しだけ止める。
声を出すほどではなく、隣にいる人なら気づくくらい。
どの程度ならどう見えるかを、一度頭の中で確かめた。
「本番いきます」
同じ台詞が始まる。
私は相手を見て、目を伏せた。
下を向いたまま、口元だけで笑う。息を一度飲み込み、何でもない顔に戻そうとする。
「カット。はい、それで」
顔を上げると、監督はまだモニターを見ていた。
「今の感じ、もう一回できます?」
「はい」
同じ位置を見て、同じ言葉のところで息を止めた。
二度目も、それでよかったらしい。
少し安心した。
何を求められているのか分かれば、合わせることはできる。
普段と違うのは、何をしてほしいのか、相手がちゃんと言ってくれることだった。
後半の、主人公たちの会話がこじれる場面でも、私の顔を短く撮ることになった。
そこで、もう一つ注文が増えた。
「怒ってるんだけど、本当は泣きそうな感じにできますか」
私は少し考えた。
「泣かないように、我慢はしてるんですよね」
「そうです。悲しいって言う代わりに、怒ってる」
「……やってみます」
さすがに、本当に涙を出すことはできない。
でも、泣きそうなのを隠そうとする顔なら、何となく分かる気がした。
まず相手を見る。何か言い返したくて、口元に力が入る。
だけど、見続けているのはつらい。目をそらす。
それでは負けたような気がして、もう一度見る。
息を吸って、言葉になる前に止める。
「カット」
監督が、すぐには次の指示を出さなかった。
何か違っただろうか。
私は表情を戻し、返事を待った。
「……いいですね。最後、目を戻すところだけ、もう少しゆっくりできますか」
「はい」
今度は一呼吸だけ長く待ってから、視線を戻した。
監督が頷いたのが見えた。
モニターのそばでは、見覚えのない人が制作の人に何か話しかけていた。
二人とも一度こちらを向いたので、私は軽く頭を下げた。
向こうも小さく会釈を返した。それだけだった。
撮影が終わると、私は椅子の背に掛けていた上着を手に取った。
誰かに大声で褒められたわけでも、拍手が起こったわけでもない。
スタッフは次の準備をしていて、私には制作の人から「ありがとうございました」と声がかかった。
「こちらこそ、ありがとうございました」
邪魔にはならずに済んだらしい。
それで十分だった。
出口で由佳を待っていると、鞄を抱えた彼女が小走りでやってきた。
「お疲れ。大丈夫だった?」
「何とか」
「真琴、ああいうのできるんだね」
「言われたようにしただけだよ」
「それができるの、普通にすごくない?」
「由佳だって、言われたところ切って動画つなげるでしょ」
「それは練習してるから」
私は少しだけ返事に迷った。
「……とにかく、急に喋ってって言われなくてよかった」
「そこは最後まで守られたね」
「ほかも守ってほしかった」
由佳が笑う。
私も笑って、マフラーを巻き直した。
外の空気は冷たくて、さっきまで照明を向けられていた顔に気持ちよかった。
月曜日にはまた学校だ。
英語の課題もあるし、受験のこともそろそろ本気で考えないといけない。
ちょっと変わった撮影に参加した土曜日だったけど、それだけだ。
そう思っていた。
————
月曜日、帰宅して制服から着替えたところで、由佳から連絡が来た。
『ノートフィルムの人が、真琴と少し話したいって』
続けて、制作担当の人からの文面が転送されてくる。
撮影へのお礼と、都合のよいときに連絡をもらえないか、という短い文章だった。
『何の話?』
『私も詳しくは聞いてない。土曜日のことで、って』
何か書類が足りなかっただろうか。
撮り直しだったら、今度こそ背景だけにしてもらいたい。
そんなことを考えながら、撮影前のメールに記載されていた電話番号へかけた。
「お世話になっております。土曜日の撮影に参加した、白瀬真琴です。佐伯さんから、ご連絡をいただいて」
『白瀬さん。ありがとうございます。先日は助かりました』
「いえ、こちらこそ、ありがとうございました」
電話の向こうは、現場で説明をしてくれた制作の人だった。
その声を聞いて少し安心したところで、思ってもいなかった質問が来た。
『念のため確認なんですが、白瀬さんは今、芸能事務所などには所属されていませんよね?』
私はベッドの端へ座った。
「……はい。していません」
『演技を習ったり、活動されていた経験もないということで、間違いないですか』
「はい。土曜日が初めてです」
何だろう。
やっぱり、何かまずかったのだろうか。
『実は、あの日、現場に来ていた芸能事務所の担当者から、白瀬さんと一度お話ししたいという相談がありまして』
耳に入った言葉を、頭の中で並べ直す。
芸能事務所。担当者。
私と、話したい。
「……私と、ですか」
『はい。FOLIO ENTERTAINMENTという会社なんですが、ご存じですか?』
「フォリオ……。いえ、すみません。詳しくなくて」
『先日の撮影の主演の方が所属している事務所です。土曜日は新人開発の担当者も現場に来ていたんです』
主演の人。
モニターのそばにいた、見覚えのない人のことを思い出した。
あの人だったのだろうか。
「お話というのは、また撮影を手伝うとか、そういうことでしょうか」
『いえ。芸能活動に興味があるかどうかも含めて、お話をしてみたいそうです』
私は、膝の上に置いた手を見た。
指先が、着替えたばかりの部屋着の布をつまんでいる。
「それって……」
『いわゆる、スカウトのお声がけですね。ただ、すぐに所属を決めてくださいという話ではありません』
スカウト。
今度は、言い換えようがなかった。
私が。どうして。
「何か、別の方と間違えていませんか」
口にしてから、少し失礼だったかもしれないと思った。
だけど、向こうは穏やかに答えた。
『白瀬真琴さんです。お間違いありませんよ』
フルネームを言われてしまった。
逃げ道が一つなくなる。
「……でも、私、演技も何もできないんですけど」
『カメラの前での感覚に、かなり素質があるんじゃないかとおっしゃっていました』
「素質、ですか」
『はい。監督から指示があったあと、表情や視線の変え方がとても早かったでしょう。あれを見て、経験のある方なのかと尋ねられたんです』
土曜日のことを思い返した。
笑いたいのを我慢する。
怒っているけど、泣きそうになる。
少し待ってから、目を戻す。
それだけだった。
少なくとも、私にとっては。
『誰でもいいから声をかけたい、というお話ではなくて。白瀬さんならではのものがあると思うので、一度ご本人とお話をしたい、と』
布をつまんでいた指が、止まった。
私ならではのもの。
電話の向こうでは、説明が続いていた。
私が希望するなら、FOLIOの正式な窓口と担当者の連絡先を送ってくれること。
まだ未成年なので、話を聞きに行く場合は保護者と一緒に、ということ。
興味がなければ断って構わないし、この電話で返事をする必要もないこと。
どれも大事な話だったから、机からノートを引き寄せて、できるだけ書き留めた。
「ありがとうございます。まず両親に話して、確認してみます。連絡先も、送っていただけると嬉しいです」
『はい。ご家族とゆっくり相談してください』
通話を終えても、しばらくスマートフォンを耳から離せなかった。
画面が暗くなって、ようやく手を下ろす。
部屋はいつもと同じだった。
机の上には英語のプリント。椅子の背には、明日また着るブレザー。
廊下の向こうからは、母が夕食の支度をしている音がする。
その中で、ノートに書いた会社名だけが目についた。
「……なんで?」
声に出してみても、誰も答えてくれない。
私は芸能人になりたいと思ったことがない。
人に見られる仕事なんて、自分から選ぶものではないと思っていた。
そもそも、知らない会社については調べないといけないし、正式な話かどうかも確かめる必要がある。
落ち着け。まだ何も分かっていない。
そう思いながら、私はノートへ目を落とした。
会社名と連絡事項の脇に、話を聞きながら書いた言葉があった。
——素質がある。
自分の字なのに、何度も読み返してしまう。
前の人生でも、今の人生でも、褒められたことくらいはある。
きちんとしているとか、いい子だとか、助かったとか、よくできたとか。
そういう言葉は、ちゃんと嬉しかった。
でも、私にしかない何かを見つけたから話したいと、何の義理もない相手に言われたことはなかった。
あの日必要だったのは、同じくらいの年の女子だった。
決まりや約束を守って、言われた席に座り、背景を歩ける人。
別に私でなくてもよかったはずだ。
なのに、その中から、私の名前を覚えて帰った人がいる。
スマートフォンが震えた。
制作の人から、連絡先を記したメールが届いていた。
メールを、何度も見返してしまう。
用件はもう分かっている。同じ文章を読んだところで、新しいことは増えない。
それでも、すぐに画面を消す気にはなれなかった。
「……私、なんでこんなに……」
誰にも聞かれない声で言う。
自分でも、少し呆れた。
あれだけ目立たないようにしてきたのに。
見られない方が楽だと思っていたのに。
あなたには、他の人と違うものがあるかもしれない。
たったそれだけで、こんなにも胸が騒いでいる。
私はノートの端に指を置いた。
まだ何も決まっていない。相手の勘違いかもしれないし、実際に会えば、やっぱり違ったと言われるかもしれない。
だけど。
本当に、あるのだろうか。
私にしかないものが。
そう考えた途端、勝手に口元が緩んでいた。