TS少女は演じたい 作:息抜き
五月十二日、火曜日。
母と一緒に書類の提出を終え、更衣室で制服から着替えた。
いつもと同じTシャツと、動きやすいパンツ。鏡を見ながら髪をまとめ、鞄の中を確かめる。
飲み物。タオル。ノート。
一度確かめたところを、もう一度見た。
忘れ物はない。
少なくとも、持ってくるように言われたものは全部ある。
だからといって、準備ができた気は全然しなかった。
「じゃあ、終わったら連絡してね。適当なところで時間を潰してるから」
更衣室を出ると、母が書類の控えを鞄へしまいながら言った。
「うん」
「私のことは気にしないでいいか——」
「分かってる」
少し笑うと、母も笑った。
そこで別れ、早川さんについて廊下を歩く。
何度も来ている施設だった。受付の場所も、更衣室への曲がり角も、もう分かる。
それでも今日は、廊下が長く感じた。
「今日は、最初に皆さんと顔合わせをします。そのあと、身体やリズムの基礎を一緒にやって、途中からは別室でのレッスンです」
「はい」
「移動のときはこちらから声をかけますね」
私は頷いた。
五人と同じ練習を、最初から全部するわけではない。
土曜日にも説明を受けたし、送られてきた予定にも書いてあった。
分かっている。
ただ、その手前のことばかりが気になって、先の予定が頭から抜けそうになっていた。
何を言えばいいだろう。
自己紹介は、名前と学年だけでいいのだろうか。
今まで何をしていたのか。どうして来たのか。どこまでできるのか。
聞かれそうなことを考えてみても、うまく答えられる気がしない。
早川さんが、一つのドアの前で足を止めた。
中から声が聞こえた。
言葉までは分からない。何人かが話して、そのあと、少し大きな笑い声がした。
動画で聞いたことがある声だった。
「入りますね」
早川さんがノックをした。
私は、鞄の持ち手を握り直した。
————
「お疲れさまです。お待たせしました」
ドアが開いた。
壁一面の鏡。床に貼られた色の違うテープ。隅にまとめられたマットと、壁際に置かれた鞄や飲み物。
見慣れたものばかりの部屋に、五人がいた。
長い髪を低い位置でまとめた人が、手元の資料から顔を上げる。
神谷玲奈さん。
少し奥で、短い髪が動いた。床に座っていた桜庭夏希さんが、こちらを見て立ち上がる。
飲み物の蓋を閉めているのは、雨宮澪さん。
入口に近いところで、小日向ひよりさんが身体の向きを変えた。
それに——
「あっ」
高い位置で結ばれた髪が、大きく揺れた。
「やっぱり!前に入口で会った子!」
美月さんだった。
そう言ったときには、もうこちらへ歩いてきていた。
「会ったよね?私が出るところで、挨拶した」
「……はい」
あのときと同じだった。
目が合って、笑って、それから声をかけられた。
私が名前を思い出したのは、橘さんがもう外へ出ていったあとだった。
「やっぱり。そうかなって思った!」
「覚えて、いらっしゃったんですか」
「うん。レッスンに来てる子かなって思ってた」
私の顔を見て、美月さんが笑う。
覚えていてくれた。
それは、考えていなかったことだった。
私にとっては、テレビで見る人と挨拶をした日だ。
向こうにとっては、知らない誰かとすれ違っただけだったはずなのに。
「改めてご紹介しますね」
早川さんが、私の隣で言った。
「こちらが、今日から合同レッスンに参加する白瀬真琴さんです」
「真琴ちゃんかー」
美月さんが、すぐに名前を口にした。
「あ、真琴ちゃんって呼んでもいい?」
「あ、はい」
「よかった。私、橘美月です。よろしくね!」
「よろしくお願いします」
「荷物、こっちに置けるよ」
橘さんが、私の横へ回り込むように動いた。
案内しようとしてくれたんだと思う。
こちらへ向いた身体と一緒に、彼女の手が上がった。
肩か、腕に触れようとしたのかもしれない。
近い。
そう思ったときには、右足が半歩、後ろへ下がっていた。
笑いながら近づいてくる顔。
返事をする前に縮まる距離。
昔、教室で急に腕を組まれたときのことが浮かんだ。
驚いて身体を引いた。
それだけだったのに、相手の顔から笑みが消えた。
——なんで避けるの。
その言葉のあと、周りの子たちが顔を見合わせた。
嫌がったことにされた。感じが悪いと言われた。
何と返せば元に戻るのか分からなくて、結局、こちらが謝った。
その後にも、男にばかりいい顔をして女子は避ける尻軽と密かに言われていたのも知っていた。
ただ、記憶のせいで男相手の方が趣味があっただけなのに。
嫌でも、あの時のことが頭をよぎってしまった。
「美月、近い」
静かな声がした。
小日向さんだった。
橘さんの手が止まる。
「あ、ごめん」
すぐに、一歩下がった。
「急に来すぎたね」
「いえ、すみません。ちょっと、びっくりしただけで」
「うん。ごめんね」
橘さんは、上げかけていた手を下ろした。
それから、さっきより離れたところから壁際を示す。
「荷物はあそこね。置き場所の決まりとかはないから。邪魔にならない位置に置けばよし!」
「美月説明雑過ぎ。えっと、白瀬さん……真琴って呼んでもいい?」
「はい」
「ありがと。それで、今日は撮影してないけど、このレッスン室だと私たち、練習風景撮影してることあるから……あっちの壁際に置くのを癖にしておくと、荷物写り込んだりしなくなるよ」
「確かに!ごめんなさいひより先輩!」
「ありがとうございます」
小日向さんはそう言って……恐らく自分の鞄が置いてある方を指さしてくれた。
私はそこまで歩いて、鞄を置いた。
持ち手から指を離すのに、少し力が必要だった。
……だいぶ、緊張しているらしい。
「立ったままより、少し座って自己紹介しましょうか」
神谷さんが、壁際のベンチを示した。
五人が座るのを待とうとして、私は立ち止まる。
ひよりさんが、隣の空いた場所に手を置いた。
「ここ、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
座ると、正面に神谷さんと雨宮さんがいた。桜庭さんはその少し横で、床に腰を下ろしている。
橘さんは、小日向さんの向こう側へ座った。
五人が一列に並んで、こちらを見ているわけではない。
それだけで、少し息がしやすくなった。
神谷さんが、持っていた資料を脇へ置く。
何が書いてあるのかは、ここからでは見えなかった。
————
「改めまして、神谷玲奈です。Lumière Paletteのリーダーをしています。今日から、よろしくお願いします」
神谷さんが、こちらを向いた。
「白瀬真琴です。……17歳、高校三年です。よろしくお願いします」
反射的に名乗り返してから、さっき紹介してもらったばかりだったことを思い出す。
神谷さんは、特に気にした様子もなく頷いた。
近くで見ると、やっぱり綺麗な人だった。
背が高くて、姿勢がよくて、こちらを見るときに顔だけを向けない。
画面越しに見ていたときと、印象はあまり変わらない。
だから余計に、緊張した。
「じゃあ、私も改めて。小日向ひよりです。よろしくね」
隣から聞こえた声は、柔らかかった。
「よろしくお願いします」
「うん。呼び方は好きにして。19だけど、夏希なんかは私のことひよりちゃんって呼んでるし」
「は、はい」
小日向さんは、私より小さかった。
私は、女子の中でも小柄寄りだ。
その私よりもだいぶ小さい。
これで大学生……なんだか不思議な気分だった。
「ここ、前にも使ったことある?」
小日向さんが、部屋を見ながら尋ねた。
「いえ。いつもは、もう少し手前の部屋で」
「ああ、あっちね。まぁこの部屋は私たちの誰かしらが使ってることが多いし、あんまり使うことはないか」
「じゃあ、次、私!」
夏希さんが片手を上げた。
「桜庭夏希!高校三年!同い年だよね?」
「はい。十七歳です」
「美月もだし、これで高三が三人だ!」
言ってから、夏希さんは少し首を傾げた。
「あ、今日、一緒にいる中でってことね」
「はい。分かってます」
私が頷くと、夏希さんが笑った。
「これで大学生組と高校生組、綺麗に3人ずつ!色々企画も捗りそうだよね!」
「確かに、勝負が捗りそう!」
「気が早い」
雨宮さんが、静かに加わった。
美月さんが笑った。
私は、そのやり取りを見ていた。
誰かが言い返しても、話は止まらない。
夏希さんも笑って、それから、またこちらへ顔を戻した。
「今日は学校から?」
「はい。授業が終わってから来ました」
「移動、大丈夫だった?学校ってどの辺り?」
……ぐいぐい来るな。
橘さんとは別の距離の近さを感じる。
「埼玉です。電車は、もう何度も来てるので慣れました」
「埼玉!?そんな遠くから来てるの!?」
「私と美月も神奈川だし、夏希だって千葉じゃん。そんなに変わらないよ」
「まあそうなんだけど」
小日向さんのツッコみに、桜庭さんがそう言って頬をかいた。
人気アイドルなのに、結構皆遠くから来てるのか。
「次、澪先輩」
美月さんに促され、澪さんは小さく頷いた。
「雨宮澪です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
静かな人だった。
声はちゃんと届くのに、こちらへ押し寄せてこない。
挨拶が終わると、少し間が空いた。
何か言った方がいいだろうか。
そう考えたところで、雨宮さんが口を開いた。
「演技のレッスンを、受けてたんだよね」
「はい。二月の終わり頃からです」
「映画、好き?」
「あ……はい。好きです」
「どういうのを見るの?」
「いろいろですけど。最近は、読んだ本が映画になっているものを見たり……」
「結末、知ってても?」
「はい。同じ場面でも、映像だと違って見えるので」
そこまで言って、少し迷った。
「あと、最近は、俳優さんがどこで相手を見るのかとか、そういうのが気になって」
雨宮さんは、そのまま聞いていた。
「前は、そんなに見てなかったんですけど」
「習うと、気になるところが変わるよね」
「……はい」
「私は音が気になる。そういうものだよね」
短く、そう言った。
その返事には、何を付け足せばいいか、すぐには思いつかなかった。
でも、さっきほど困らなかった。
雨宮さんは、私が返事を探している間に、飲み物を一口飲んでいた。
「真琴ちゃん、本もよく読むんだ?」
美月さんに聞かれ、頷いた。
「はい。ミステリーとか」
「玲奈さんも好きですよね」
「ええ。でも、初対面で結末の話をしてしまわないようにします」
玲奈さんが答えた。
「前に、私が読んでるところを聞いてから黙った」
雨宮さんが言った。
「言わないようにしたの」
「すごく黙った」
「……何を言っても、ヒントになりそうだったから」
橘さんが声を上げて笑い始めていた。
「それ、もう何かあるって分かっちゃうやつじゃないですか」
神谷さんも笑っている。
……多分、というか、明らかに気を遣ってくれている。
私は、五人を順番に見た。
動画でも、こういう場面は見たことがあった。
でも、そのときは、次に誰が映るかをカメラが決めていた。
今は、誰かが喋っている横で別の人が笑っている。
話していない人が、飲み物の蓋を開ける。
どこを見ても、五人がいた。
画面の向こうではない。
私が返事をすると、その返事に、また言葉が返ってくる。
「私、ちゃんと自己紹介してないよね」
橘さんが言った。
「名前は言ったでしょ」
「名前しか言ってないです」
小日向さんへの返事のあと、美月さんはこちらを向いた。
今度は、座っている場所からだった。
「橘美月。高三です。よく喋ります。お喋りはもちろん、友達と出かけたりするのも好きだしSNSで色々共有するのも好き!」
「それはわざわざ言わなくても分かってたと思う」
桜庭さんが言った。
「まだ分からないかもしれないじゃん」
「分かるよ」
私まで見られて、返事に迷った。
橘さんの目が、楽しそうに細くなる。
「……少し、分かりました」
そう答えると、橘さんが笑った。
「よかった。よろしくね、真琴ちゃん」
「よろしくお願いします」
言ってから、もう一つ、伝えたいことを思い出した。
「あの。母が、美月さんの出ていた街歩きの番組を見ていて」
「えっ、ほんと?」
「はい。この間、私も一緒に見ました」
「嬉しい!『週末ひと駅』だよね?」
「はい」
番組名を答える前から、美月さんの顔が明るくなっていた。
「玲奈さん聞きました?お母さんが見てくださってたって」
「聞いてました」
「全員聞いてたよ」
小日向さんが付け足した。
「でも、言いたかったんです——あ、そうだ真琴ちゃん、私のこと、美月って呼んでくれていいので!」
「あ、それなら私も!同い年だし、夏希でいいよ!」
「……え、っと」
「私たちも含めて、好きに呼んでくれて大丈夫ですよ。自分のペースでいいので。この二人はいつもこれなんですよ」
「そ、そうですか」
二人の申し出に、神谷さんがそう補足してくれた。
正直、距離感に困るのは確かだからとても助かる。
相手はアイドルで、私自身もともと距離を詰めるのも得意ではない。
私は自分の膝に置いた手を見た。
まだ、指先に少し力が入っている。
橘さん……美月さんが怖い人だと思っているわけではない。
覚えていてくれたのは嬉しかったし、今の話も、普通に楽しかった。
それでも、急に近づかれると身体が先に動いてしまう。
そのことを説明しようとしたら、きっと、ずいぶん長くなる。
だけど美月さんは、私が下がった理由を尋ねなかった。
————
「では、白瀬さん……真琴も。話せる範囲で、改めてお願いしてもいいですか」
神谷さんに言われ、私は背筋を伸ばした。
「はい」
一度、息を吸う。
「白瀬真琴です。二月から、こちらで演技や身体の基礎のレッスンを受けています」
五人が、こちらを見ていた。
美月さんだけではなく、全員が。
「歌とダンスは、まだ、習い始めたばかりで」
ここから何を言うかは、来る前にも考えていた。
ご迷惑をおかけすると思いますが。
足を引っ張らないように。
期待に応えられるように。
どれも、頭の中にはあった。
「……分からないことも多いですけど、教わったことを、ちゃんとできるようにしたいです。今日から、よろしくお願いします」
頭を下げた。
何人かの声が重なって、よろしくお願いします、と返ってきた。
顔を上げる。
夏希さんが、自分の膝の上で手を組み直していた。雨宮さんは、小さく頷いている。
「演技以外のレッスンも少しずつ受けてたんだね」
小日向さんが言った。
「はい。でも、一つずつだとできても、二つ一緒になると、どっちも分からなくなったりして」
「ああ」
夏希さんが、すぐに声を出した。
「私は歌いながら動くのが最初そうだったな。動くと、歌詞がどっか行っちゃうんだよね」
「夏希は、歌詞より先に動きが出るから」
神谷さんが言った。
「今は大丈夫ですよ」
「今も、新しいものを同時に入れると一度はあるでしょう」
「……一度は」
夏希さんが認めると、美月さんが笑った。
私も、少しだけ笑った。
できないことを話したら、そのまま五人の話になった。
何か見せてとか言われたら、どうしよう。
どうして来ようと思ったのかと聞かれたら、何と答えればいいだろう。
来る前には、そんなことばかり考えていた。
だけど、美月さんが次に尋ねたのは、別のことだった。
「ここに来る日は、いつも学校の鞄も一緒?」
「平日はそうです」
「重くない?」
「今日はちょっと重いです」
「教科書?」
「それと、着替えと、靴と……本も入れてきたので」
「本まで?」
「電車で読もうと思って」
「読めた?」
澪さんに聞かれて、私は首を横に振った。
「同じところを、何回も読んでました」
一瞬のあと、美月さんが「ああ」と頷いた。
「分かる。頭に入ってこないやつ」
「はい」
「私、文字じゃなくてもあるよ。動画見てたのに、今何見たっけってなる」
夏希さんが言う。
「それは違う話じゃない?」
小日向さんが返した。
「違うか」
「頭に入らないんじゃなくてボケてない?」
「んー……そんなはずは……」
夏希さんは、真面目に考えるような顔をした。
その顔がおかしくて、私はまた少し笑った。
今度は、笑ってから口元へ手をやった。
神谷さんが時計を見る。
つられて私も顔を上げると、早川さんがこちらへ歩いてきた。
「そろそろ、始めましょうか」
「はい」
五人の返事が、ほとんど同時に重なった。
さっきまで、それぞれ違う速さで話していたのに。
美月さんが立ち上がる。夏希さんも同じだった。
小日向さんが、私に向かって壁際を指す。
「水、今のうちに出しておくといいよ」
「はい」
私は鞄を開けた。
Tシャツの下で、背中に少し汗をかいていた。
まだ、何も動いていなかった。
————
この前ダンスを見てもらった、高瀬先生が部屋に入ってきた。
先生は、部屋の前方で音源を確かめている。
四月に見てもらった時と、同じように挨拶をする。
「よろしくお願いします」
「よろしく。今日は最初の基礎だけ一緒に。途中で分かれて、それぞれの課題に移る。白瀬専用のメニューも組んであるから、そこは安心してくれていい」
「はい。ありがとうございます」
先生は、五人にも目を向けた。
「同じ動きをやっても、見るところは別。五人はいつもの課題を落とさないこと。白瀬は、前にやった足運びと重心から確認する」
私は頷いた。
鏡の前に立つ。
端へ寄りかけたところで、高瀬先生に位置を示された。
「白瀬、そこだと見えにくい。もう少しこっちに」
「はい」
……自然と、五人から少しだけ距離を取っていた。
半歩横へ動く。
鏡の中に、自分と五人が映っていた。
同じような練習着を着ている。同じ床に立っている。
それなのに、自分だけ、どこに手を置けばいいのか考えていた。
隣の少し前に、小日向さんがいる。
「先生の足、見える?」
振り向いて、小さな声で聞かれた。
「はい。見えます」
「うん。緊張しなくていいから、自分のペースで、先生を見て真似しながらやってみて」
それだけ言うと、小日向さんは前へ向き直った。
最初は、身体をほぐすところからだった。
肩を回す。足首を動かす。膝を緩め、音に合わせて身体を上下させる。
やったことのある動きだった。
説明を聞いても、意味の分からない言葉ばかりではない。
それに、少し安心した。
安心できたのは、音が流れ始めるまでだった。
同じように膝を曲げているはずなのに、隣の小日向さんは、頭の位置が余計に揺れない。
夏希さんは、大きく動いていないのに、一つ一つの音が身体に見えるようだった。
私は膝を曲げることを意識すると、肩まで一緒に下がった。
肩を戻そうとすると、今度は音より少し遅れた。
「白瀬、動きを大きくしなくていい。まず拍の中に収めて」
「はい」
小さくする。音を聞く。膝を曲げる。
それだけで、考えることが三つあった。
「雨宮、肩。そこは残す」
「はい」
「橘、戻る方を急がない」
「はい」
五人にも、次々と指示が飛ぶ。
できているように見えたところに、直す場所があった?
しかも、五人は止まらずに変えていた。
美月さんの動きが、次の繰り返しでは少し違って見える。
何が変わったのか考えているうちに、自分の動きが遅れた。
慌てて足元を見る。
「白瀬、顔を上げて」
先生の声で、視線を戻した。
「すみません」
「下を向くと、上半身も持っていかれる。足を確認するなら鏡で」
「はい」
自分の足を、直接見ない。
それだけでも、落ち着かなかった。
次は、左右へ足を出し、反対の足を寄せる動きだった。
右へ出る。寄せる。左へ出る。寄せる。
習ったことがある。
足の順番も分かる。
でも鏡の中では、私の身体だけがあとからついてきていた。
……簡単なことなのに、五人と比べて明らかに私だけ崩れていた。
「白瀬、右足を出したあと、まだ左に残ってる」
先生が、自分でも同じ形を作って見せた。
「足だけ置かない。右へ乗ってから、左を寄せる」
私は一度、音を追うのをやめた。
右足へ身体を移す。
それから、左を寄せる。
「あ……はい」
「今の幅で。広げすぎない」
もう一度。
さっきより、戻りやすかった。
何を直せばいいのか分かると、少しだけ動けるようになる。
それが嬉しくて、顔を上げた。
五人は、同じ足の動きに腕を重ねていた。
右へ出るときの腕の位置。
戻るときの角度。顔の向き。
足が止まらないまま、その全部が動いている。
つい、腕も同じように動かそうとした。
足の順番が分からなくなった。
「白瀬は、まず足だけでやろうか」
「……はい」
腕を下ろした。
また、右から始める。
さっき直された幅を守る。
それだけを繰り返す私の隣で、五人はもっと先のことを練習していた。
同じ動きをやる。
その言葉を、どこかで、同じことができるという意味で受け取っていたのかもしれない。
————
短く水を飲む時間になった。
壁際へ戻り、ペットボトルを取る。
息は切れるほどではない。
だけど、普段の基礎レッスンより、ずっと頭が忙しかった。
蓋を回しながら鏡を見ると、夏希さんがさっきの動きを小さく繰り返していた。
先生に何かを尋ねている。
自分でも一度やって見せ、返事を聞いて、もう一度。
終わると、そのまま美月さんの方へ歩いていった。
「今の、こっちの方が戻りやすかった」
「見てた。最後のところでしょ?」
「そう」
二人が、足元を見ながら話す。
何が違ったのか、私には分からなかった。
「白瀬さん、水、飲めてますか」
早川さんに声をかけられて、ペットボトルを持ったままだったことに気づいた。
「はい」
返事をしてから、一口飲む。
「このあと、短い発声を一緒にやったら移動します」
「分かりました」
予定どおりだった。
私ができないから、ここで終わりになったわけではない。
それをもう一度、頭の中で確かめた。
鳴海先生が、電子ピアノの前に座った。
呼吸を整え、小さく声を出すところから始まる。
短い音の並びを聞いて、同じように声にする。
これも、初めてではなかった。
なのに、声を重ねた瞬間、自分の声がどこにあるのか分からなくなった。
少し大きく出す。
すると今度は、自分だけが強く出すぎている気がする。
「白瀬、周りの音量を追わなくていい。今は、鳴らした音を自分の声で取って」
「はい」
もう一度、音が鳴った。
聞く。息を吸う。声にする。
すぐ近くから、雨宮さんの声が聞こえた。
さっきまで、静かに映画の話をしていた人だった。
大きな声を出しているようには見えない。
それでも、音の始まりがはっきり分かった。上がるところも、下がるところも、迷いがない。
私は同じ音を出そうとしてから、少し探していた。
合ったと思う頃には、もう次へ進んでいる。
小日向さんの声には、話すときと似た柔らかさがあった。
神谷さんも、美月さんも、夏希さんも、音が変わる前に準備をしているように聞こえた。
どう準備をしているのかまでは分からない。
ただ、自分とは違うことだけが分かった。
「最後、息で押し切らない。もう一回」
鳴海先生の指示に、五人が頷く。
私も頷いた。
今度は、最後まで大きく出そうとしない。
短い音を、一つずつ。
さっきよりは、探す時間が少なかった気がした。
でも、隣の声とは、まだ全然違っていた。
難しい曲ではない。
歌詞もない。
五人が普段していることの、いちばん手前だった。
————
「はい。共通の基礎はここまで」
高瀬先生が言った。
「五人は、このあと六月の前半ブロックを確認する。準備して」
返事が重なる。
私は、すぐには動けなかった。
隣で小日向さんがタオルを取る。
神谷さんが、脇へ置いていた資料を持ち上げる。
夏希さんと美月さんは、さっきまで立っていた場所から移動していた。
澪さんが、鳴海先生に短く何かを確かめている。
全員が、次にすることを知っていた。
「白瀬さん」
早川さんが、私のところへ来た。
「別室へ移りましょう。タオルと飲み物、それからノートを持ってきてください」
「はい」
壁際へ戻る。
鞄を開け、ノートを取り出した。
同じページを何度も読んでいた文庫本が、その下にあった。
来る前に考えていたことを、少し思い出した。
何を聞かれるのだろう。
何を言えば、悪く思われないだろう。
そんなことばかり心配していた。
実際には、本の話をした。
学校から来たことや、鞄が重いことを話した。
美月さんは、前に挨拶した私を覚えていた。
神谷さんは丁寧に対応してくれたし、小日向さんは飲み物を置く場所を教えてくれた。
雨宮さんとの間には、黙っている時間もあった。
夏希さんの話には、少し笑ってしまった。
それでも。
同じ部屋で話せることと、同じように動けることは、全然違った。
「真琴ちゃん」
名前を呼ばれ、顔を上げた。
美月さんが、少し離れたところから手を振っている。
「またあとでね」
近づいてくるわけではなかった。
今いる場所から、こちらを見ていた。
「あ……はい。また、あとで」
「休憩、重ねてくれるらしいし、後でまた話そう」
夏希さんも言った。
私は頷いた。
神谷さんと目が合うと、小さく会釈が返ってきた。
雨宮さんも、こちらを見て頷いた。
小日向さんは、私の手元を見ている。
「飲み物、忘れてる」
「あ」
ノートとタオルは持っていた。
ペットボトルだけ、床に残っていた。
慌てて拾うと、小日向さんが少し笑った。
「それで全部?」
「はい。ありがとうございます」
私も、少し笑った。
それから、早川さんのところへ向かった。
ドアの前で、一度だけ振り返る。
鏡の中には、五人がいた。
さっきとは違う位置へ動き、それぞれ足元のテープを確かめている。
「最初、入りだけ確認するぞ」
高瀬先生の声がした。
五人の顔が、前を向く。
その続きを見たいと思った。
でも、今は、さっき教わった足の動きも、まだ確かなものではなかった。
廊下へ出ると、部屋の中より少し空気が冷たかった。
早川さんが、少し先のドアを示す。
「こちらです。予定通り、いつも見てもらっていた先生と一緒に、基礎レッスンになります」
「はい」
ノートを持ち直した。
右足へ乗ってから、左足を寄せる。
さっきできた方の感覚を、忘れたくなかった。
背後で、五人の練習に使う音楽が流れ始めた。
私はその音を聞きながら、別室へ入った。