TS少女は演じたい 作:息抜き
五月十四日、木曜日。
椅子に座るとき、机の端に手をついた。
太腿のあたりが、引っ張られるような痛みが走る。
昨日も痛かった。今日もまだ痛い。
端的に言ってしまえば、筋肉痛だった。
座ってしまえばそれほど気にならないのに、立ったり、階段を下りたりすると、ちゃんと残っていることを思い出させられた。
鞄を机の横へ掛け、もう一つの袋を足元へ寄せる。
室内用の靴と練習着が入っていて、教科書の鞄より大きく膨らんでいた。
予定表を思い浮かべる。
今日は、放課後にレッスンがある。
週末には土日両方入っている。
今週だけでも、火木土日の4日間。
以前なら、今日できなかった分は明日やればよかった。
だけど、今はサボればサボった分だけ、そのままやらなければいけないことが残って積み重なっていく。
もうすぐテストもある。
三年生になったんだから、普段の授業についていくだけでなく、受験のことも考えないといけなかった。
前世の記憶があるからといって、高校の勉強を覚えているわけではない。
むしろ、ほとんど忘れていた。
公式の名前に見覚えがあっても、それを使って問題が解けるとは限らない。
英単語も、古文も、今の私が勉強して覚えた分しか使えなかった。
前にも習ったはずなのに、なんて考えたところで、空欄は埋まらない。
勉強しなくなれば、普通についていけなくなる。
それくらいは、分かっていた。
「ここも、試験範囲に入りますからね」
先生の声で、黒板へ目を戻した。
ノートへ線を引く。
その途中で、ふと、火曜日のレッスンを思い出した。
右へ乗ってから、左を寄せる。
足だけ先に置かない。
幅を広げすぎない。
頭の中では、順番にできた。
……頭の中なら。
顔を上げると、先生は次の説明へ進んでいた。
慌てて、黒板の続きを写す。
授業中に考えることではなかった。
私はシャーペンを持ち直した。
————
休み時間になって、ようやくノートを閉じた。
背中を伸ばす。
今度は、肩のあたりが重かった。
火曜日は脚のことばかり気にしていたけれど、使ったのは脚だけではなかったらしい。
「真琴、今日の放課後って空いてる?」
顔を上げると、由佳がいた。
隣の机へ、片手を置いている。
「皆で駅前で買い物して、どっか寄って帰ろうって話してるんだけど。真琴もどう?」
「あ……ごめん。今日は用事があって」
「そっかぁ、残念」
由佳は頷いてから、私の足元へ目をやった。
机の下へ寄せたつもりの袋が、少しはみ出していた。
教科書の入った鞄とは別に、靴や練習着で膨らんだ袋がある。
それを見て、由佳は納得したように小さく頷いた。
「ああ、今日もそっちか」
「……うん」
「了解。また今度ね」
それ以上は聞かなかった。
ちょうど後ろを通った子に場所を空けてから、由佳は私へ顔を戻した。
「じゃあお昼は一緒に食べよ。ちょっと外行かない?」
「外?」
「中庭の方。今日はあったかいし」
「ああ……うん。いいよ」
返事をすると、由佳は自分の席へ戻っていった。
私は袋を、もう少し机の下へ押し込んだ。
その動きでも、太腿が痛かった。
次の授業の準備を終えてから、レッスン用のノートを少しだけ開いた。
————
特別教室のある棟の裏は、教室より静かだった。
中庭の端にあるベンチへ、二人で座る。
少し離れたところから話し声は聞こえたけれど、近くには誰もいなかった。
弁当の包みをほどいていると、由佳がこちらを見る。
「レッスン、増えた?」
「うん」
「やっぱり。前はそんなに何日も行ってなかったもんね」
「前は週に一、二回くらいだったから」
蓋を外し、膝の上で置き直す。
「受けるレッスンが変わったの。今週から」
「へえ。どれくらい?」
「週に四日か五日くらいになるって」
「……結構増えるね」
「うん。一回も、前より長くて」
由佳の箸が止まった。
私の顔を見て、それから、朝と同じように鞄の方を見る。
「だから、荷物も増えたんだ」
「着替えとか、タオルとか。前より使うから」
「今日座るのゆっくりだったのも?」
「……筋肉痛」
「ふふ、真琴が筋肉痛とか初めて見たかも」
納得したように頷かれた。
特に隠していたつもりはなかったけれど、見られていたらしい。
「一昨日のレッスンが原因なんだけど、まだ残ってて」
「それで今日も行くんだ」
「うん。調子は先生にも伝えるけど、筋肉痛で休んでたらいつまでたっても負荷あげられないから」
「そっか」
由佳は一口食べてから、また聞いた。
「それって、正式に所属になったってこと?」
「ううん。違う」
「あ、そこはまだなんだ」
「うん。今は、レッスンを受けながら見てもらってるところで……」
どこまで説明していいのか、一度考えた。
受ける内容が変わったことは言える。
でも、誰と一緒に、何のために受けているのかは、言えない。
そういう契約だったはず。
「詳しいことは、まだ話せなくて」
「うん。分かった」
由佳は、あっさり頷いた。
「何やってるのかは気になるけど、話せないなら今はいいよ」
「ごめん」
「謝らなくていいって。忙しくなったのは分かったし」
そう言って、また弁当へ箸を伸ばす。
私も、ご飯を一口食べた。
言えることだけを選んで話していると、隠しごとをしているような気分になる。
まぁ、実際隠してはいるんだけど。
由佳は、その続きを待つような顔をしていなかった。
「じゃあ、今日のことは皆には適当に誤魔化しとくね」
「うん。ありがとう」
「しばらく予定詰まってるみたい、っていうのもついでに。ま、私のトーク力を信じなさいな」
「由佳のトーク力云々は置いておくとして……いいの?」
「おっとぉ?聞き捨てならないことを言われた気がするぞー?……とまぁ冗談は置いておいて、気にしないでいいよ。レッスンのことは言わないし。用事が重なってるとか、テストもあるし忙しいんだよとか、その辺で」
私は、由佳を見た。
由佳は弁当の端に寄せていたおかずを取ろうとして、少し箸を持ち直した。
「毎回何の用事って聞かれるのも困るでしょ」
「うん」
「遊びたくないわけじゃないでしょ?」
「うん。行きたいのは、行きたい」
「じゃあ、空いてるときにまた行こ」
何度も誘いを断って、そのたびに用事があるとだけ答える。
これからは、そういうことが増える。
行きたくないのだと思われるかもしれない。
でも、そうではないと説明しようとすると、話せないところへ近づいてしまう。
雑に断りすぎるとそれはそれで色々諍いの原因になる。
距離感が難しかったのは確かだった。
「由佳も、色々聞かれたりしない?」
「知らないことは知らないって言うよ。実際、知らないし」
「……そうだけど」
「そこは私に任せて。大きい話にはしないから」
由佳が、こちらへ顔を向けた。
「その代わり、お昼の予約は取れる?」
「予約制じゃないよ」
「週に四日も五日も埋まってる売れっ子さんだから、早めに押さえとこうと思って」
「売れっ子って……学校には普通に来てるから」
「じゃあ大丈夫だ」
ドヤ顔に近い満面の笑みがおかしくて、少し笑ってしまった。
————
放課後、二つの鞄を持って電車に乗った。
埼玉の高校から東京のFOLIOの事務所まで、徒歩や乗り換えの時間もあわせて概ね一時間三十分。
いい加減慣れてはきたけど、それでもやっぱり長い。
今日は普通に座れたから、東京の方の駅に着くまでは英単語帳を見て勉強して過ごした。
FOLIOの事務所がある建物の前を通り、すぐ近くの養成所へ向かう。
入口へ着いたところで、後ろから名前を呼ばれた。
「真琴?」
振り返ると、彩花がいた。
「あ、彩花」
「お疲れ。今日、一緒?」
「お疲れ。えっと……今日は、違うと思う」
「そうなんだ?」
「今週から、受けるレッスンが変わって」
彩花は、そうなんだ、と頷いた。
「最近も、あんまり同じじゃなかったもんね」
「うん」
「私、今日もいつもの方だから。じゃあ別かな」
一緒に入口を入る。
彩花は受付の方を見てから、何かを思い出したように、もう一度こちらを向いた。
「あ、そうだ。真琴に勧めてもらった小説、読み終わったよ」
「ほんと?」
「うん。話したいところあったんだけど……ここで始めると長くなりそう」
「そんなに?」
「ちょっと、最後の方の話をしたくて」
それを聞くと、どこだろうと思った。
いくつか、思い当たるところはあった。
「じゃあ、感想はメッセで送るね」
「うん。楽しみにしてる」
「長くなったらごめん」
「大丈夫。その本に関しては、私も話し始めたら長い」
彩花が笑った。
私も笑って、受付を済ませた。
その先で、向かう方が分かれる。
「じゃあ、またね」
「うん。またね、彩花」
小さく手を振ってから、更衣室へ向かった。
会う日が同じでも、レッスンまで同じとは限らない。
でも、本の感想を聞くために、次に一緒になる日を待つ必要はなかった。
————
着替えを済ませ、指定された部屋のドアを開けた。
「お疲れさまです」
「お疲れ、真琴」
小日向さんが、ノートから顔を上げた。
その少し奥で、雨宮さんもこちらを見る。
「お疲れさま」
部屋にいるのは、二人だけだった。
前回より、鏡の前が広く見える。
「今日はしばらく三人だよ。玲奈さんたち、外のお仕事が終わってから合流するって」
「そうなんですね」
「うん。だから、三人で出来る範囲の基礎を長めにやる予定だって」
私は頷いて、前に教えてもらった壁際へ向かった。
鞄を置こうとして、その向かいにあるものに気づいた。
三脚。
その上に、小さなカメラが載っている。
鏡の横にも、もう一台あった。
奥の方にもある。
部屋の端では、スタッフの人が機材を確かめていた。
……撮影。
鞄を下ろしかけた姿勢のまま、少し止まった。
「あの」
「うん?」
「今日は、撮影があるんですか」
小日向さんが、私の見ている方を見た。
「うん。レッスンの記録。私たちがレッスンするときはいつも大体撮ってるから」
「いつも……」
「ほとんど毎回かな。この間は真琴が初日だったからなしにしてたの。だから、むしろこの間の状況の方が珍しかったり」
私は、カメラから小日向さんへ目を戻した。
「初めて会う人も多いし、覚えることも多いでしょ。まずはレッスンに慣れてもらおうって」
「そうだったんですね」
前回は、五人と同じ部屋にいるだけで、十分に緊張していた。
そこへカメラまであったら、たぶん、もっと気にしていたと思う。
今も、気にしている。
「前に、荷物を置く場所の話をしてくださったのって……」
「うん。これのこと」
小日向さんは、自分の鞄がある方を示した。
「そっちの壁際は、いつもの撮り方だと入らないようにしてもらってる。だから私物はそこにまとめておくといい感じ」
「ここで大丈夫ですか」
「うん。飲み物とタオルは、出しておいて大丈夫」
「鏡に映る方も、カメラには入るから」
雨宮さんが、鏡の端を見ながら言った。
私は、置きかけていた鞄を壁へ寄せた。
自分の姿も、鏡の中にある。
当然、それも映るのだろう。
「これで撮ったものが、練習動画になるんですか」
「そう。『PRACTICE LOG』とか。全部じゃないけどね」
見たことのある動画の名前だった。
五人が同じところを何度も繰り返していたり、先生の話を聞いていたりする映像。
ここで撮っているのだろうとは思っていた。
でも、動画を撮る日が、別にあるのだと思っていた。
これから私も参加する練習が、そのまま、あの動画の材料になるらしい。
そう考えたところで、別のことが気になった。
「でも、私も映っちゃうんじゃ……」
「記録には映るよ。公開する方には出ないように、スタッフさんが確認して編集するから大丈夫」
「私、まだ……」
「うん。今は、外に出せないからね。それに、公開に関しては真琴自身の同意も取ってないし。……取られてないよね?」
「えっと、はい」
「だよね」
小日向さんは、そこで一度頷いた。
「FOLIO、その辺細かいから安心していいよ。内部確認用の撮影と公開でちゃんと別で同意取るし、公開前にも実際の映像確認させられて、嫌なら本当に使わないでもらえるから。真琴、多分私たちと練習するっていう同意書のあたりで、内部確認用の撮影同意はしてたんじゃないかな?」
「たし、かに……言われてみれば、そういう説明はされましたし、沢山の同意書の中にあった書類の中に、内部確認用とか資料用としての映像撮影の同意はあった気がします」
父と母とともに確認した書類の中にあったはず。
カメラテストとかの時にも同じような同意は取られていたから、特に疑問に思っていなかった。
「編集も、真琴が入ってるところは切ったり、別のカメラの映像を使ったりしてくれると思う。無理だったら、その場面は公開には使わないんじゃないかな」
「声とか、鏡も見てくれるから」
雨宮さんが付け足した。
「だから、映らないところへ避けながら練習しなくて大丈夫」
ちょうど、自分だけ端にいた方がいいのだろうかと考えていた。
私は、置いた鞄から手を離した。
「皆さんの動画が、使えなくなったりしませんか」
「元々撮ったもの全部出してるわけじゃないしね。練習が先だから」
「見直す時には、撮ってある方が助かるよ」
雨宮さんが言った。
「動いているときは、自分の足とか、ずっと見てられないから。先生に言われたことも、あとで映像を見て、これかって分かることがある」
「あ……はい」
それは、少し想像できた。
足を動かすので精一杯だった火曜日には、自分がどうなっているのか、鏡を見ていても分からないところがあった。
「この間、腕が上がってるつもりだったって話をしたでしょ。ああいうのも、記録があると確かめられるから」
小日向さんが言った。
「撮られてる間、何か話したりしないといけないんですか」
「しなくていいよ。というか、ないものとして扱っていい。本当に置いてあるカメラでずっと撮ってるだけだから」
「カメラの方も、向かなくていい」
「……そうなんですね」
雨宮さんの言葉に頷いた。
見ていた動画でも、確かに、誰もカメラを見ていない時間が長かった。
そういうものなのだと、分かっていたはずだった。
自分が映る側になると、急に何かしなければいけない気がしていた。
「どうしても不安なら、あとで早川さんに確認してみるといいかも。美月とか、むしろいつも怒られるくらい細かく同意確認しろってお小言言われてるから。その辺曖昧には絶対にしないはず」
「……そうですね。あとで確認してみます」
「このくらいの慎重さが美月にもあれば、いつもあそこまで言われないんだろうけどねぇ」
「いつも、そんなに酷いんですか?」
「隙あらば写真撮ってる」
「そ。一番一緒に撮ってるの私だし、私はいいけど。ただ、そういうのを嫌がってそうな雰囲気とかが分からない子ではないから、心配もしなくて大丈夫」
「なるほど……」
言われてみれば、確かにそういう感じの人か。
とても明るくて、SNSとかも好きそう。
あくまでここまで関わった感じからの推測だけど。
そんなことを考えながら、靴の紐を確かめるために、腰を下ろした。
その動きも撮られるのだろうかと考えてから、また、カメラを見てしまった。
カメラをすぐに忘れるのは、難しそうだった。
————
「白瀬、調子はどうだ」
高瀬先生が来て、準備をしている私へ声をかけた。
「肩と太腿、ふくらはぎに筋肉痛が残っています」
「歩くのは?」
「大丈夫です。座ったり、階段を下りたりするときに、少し」
「分かった。まず動かして確認しよう。途中で痛みが強くなるようなら言うように」
「はい」
今日は三人で基礎を進め、他の三人が揃ってから、そのあとの練習へ移る。
先生からも、そう説明があった。
スタッフの人が、撮影を始めることを伝える。
カメラの小さなランプがついた。
二人と間隔を空け、鏡の前に立った。
肩を回す。足首を動かす。
先生の指示に合わせて身体をほぐしている間も、視界の端に三脚があった。
ただ、膝を曲げる深さや、背中の位置を気にし始めると、そちらを見ている余裕はなくなった。
「じゃあ、横への移動から。白瀬は前回と同じように。足だけでいい」
「はい」
音が流れた。
右足を出す。
右へ乗ってから、左を寄せる。
今度は、左。
頭の中で何度も繰り返した順番を、実際の身体で確かめる。
最初は、少し硬かった。
でも、足を置いてから身体が追いかけてくる感じは、前より少なかった。
「白瀬、その幅を維持して。……前より遅れなくなったな」
「はい」
嬉しくて、顔を上げた。
鏡の中の自分は、まだ、滑らかには動いていなかった。
それでも、右へ出たあとに慌てて戻ることはなかった。
次に動かす足も、分かる。
隣の二人は、同じ足運びへ腕の動きを重ねていた。
腕を戻す位置。
顔の向き。
途中からは、身体の向きも変わる。
目に入ると、つい、そちらもやりたくなる。
でも、今日は勝手に足さなかった。
今の足を、同じように続ける。
何度か繰り返したところで、先生が音を止めた。
「白瀬、前回言ったこと、覚えてるか」
「右へ足を置くだけじゃなくて、身体も移してから、左を寄せることです。あと、幅を広げすぎないように」
「そう。今は残ってる。そのまま腕を一つつけようか」
先生が、ゆっくり見せてくれた。
足を出すところで腕を上げ、寄せるところで戻す。
二人がやっていたものより、簡単な動きだった。
それでも、腕を上げようとした途端、左足を寄せるのが遅れた。
「あ……」
「止めなくていい。次から戻せるように意識して」
次の右。
足へ意識を戻す。
今度は腕の方が遅れた。
両方を一緒にやると、やっぱり、忙しかった。
一度音を止めてもらい、腕を下ろす。
足だけで確かめると、さっきの動きへ戻れた。
「今、腕を上げる方に合わせて足まで大きく出てた」
「……はい」
「腕の大きさと、足の幅は別。足はさっきのまま」
「分かりました」
もう一度。
腕を上げる。
足の幅は変えない。
今度は、寄せられた。
左も。
次の右で少し迷ったけど、足は止まらなかった。
「そう。今の。もう一回」
言われて、続けた。
一つ増えたら全部できなくなる、というほどではなかった。
まだ気をつけないと崩れる。
でも、前に教わったところまで、なくなってはいなかった。
————
一人ずつ動きを見てもらう時間になった。
私が横で水を飲んでいる間、小日向さんと雨宮さんは、横への移動から向きを変える動きを繰り返していた。
同じところから始め、同じところへ戻る。
多分、やってることは基礎ではあるんだろうけど、フォーメーションに関わる動きの練習、なのかな。
二人の足は、床のテープの近くへ、ほとんど同じように着いた。
「先生、右へ出たところ、もう一回見ていただいてもいいですか」
小日向さんが言った。
「どこ?」
「少し前に入っている気がします。次で戻さないと、止まる位置が合わなくて」
私は、床を見た。
今も、合っているように見えた。
「最後で戻してるから、そこは合う。出した右じゃなくて、その前の左を見て」
「左ですか」
「踏み出す前に、身体が開いてる。だから右が斜めへ出る」
先生が、一つ前のところから動いて見せた。
小日向さんは頷き、同じところへ足を置く。
「向きを変えるのが早いんですね」
「そう。足幅は変えなくていい」
「はい」
もう一度、音が流れた。
小日向さんが動く。
さっきとの違いは、私にはすぐには分からなかった。
けれど、最後に位置を直すような小さな動きがなくなったことは、見ていると分かった。
そのまま、次の向きへ移っていく。
「今のですか」
「今のでいい」
「もう一度、確認してもいいですか」
「二回続けてやろう」
小日向さんは、同じ動きを繰り返した。
二回とも、同じところへ戻った。
「ここのあと、曲だとすぐ横へ移るので。前に入ると、そっちも遠くなっていて」
「じゃあ、次はその入り方でもやろう」
「はい。あと、腕を戻すときに——」
「足のところはもう直ってる。そこは触らずに次」
「はい」
小日向さんが、小さく笑った。
それから、すぐに鏡へ向き直る。
私はペットボトルの蓋を閉めた。
足を置く位置だけなら、最初から合っているように見えた。
でも、小日向さんは、そこへ着くまでに自分が何を足していたのかを気にしていた。
最後だけ合わせればいい、ということではないらしい。
雨宮さんも、同じ移動を繰り返していた。
こちらは、止まったあとに短く声を出す。
何度目かで、先生が手を上げた。
「雨宮、最後の一歩で上がりすぎ。歌い始める前に身体を戻してる」
「止まってから、落ち着かせようとしてました」
「その前で収めよう。声を出す方は変えなくていい」
「はい」
雨宮さんが、声をつけずに足だけ確かめる。
それから、同じところへ声を戻した。
足の動き自体は、複雑には見えなかった。
それでも、その先に何をするのかが変わると、気にするところも変わっていた。
二人は、私と同じことができるかを確かめているわけではない。
私が足を止めずに動くために繰り返している間に、小日向さんは次の移動へ、雨宮さんは次の声へ、つながるように直している。
前回の休憩で聞いた、今でも基礎をやる、という話を思い出した。
本当に、今もやっていた。
「白瀬、入れるか」
「はい」
ペットボトルを置き、鏡の前へ戻った。
————
前回なら、もう五人が曲の練習へ移っていたくらいの時間になっていた。
今日は、まだ三人で同じ部屋にいた。
短く水を飲み、また動く。
先生が二人を見ている間、私は教わった足運びを繰り返す。
私を見てもらっている間も、二人は、それぞれ確かめたいところを小さく動いていた。
小日向さんは、向きを変える一つ前から。
雨宮さんは、声を出す直前のところから。
私は、右へ乗って、左を寄せるところから。
同じ音を聞いていても、見ているところは違った。
腕をつけた動きは、何度か続けると、また崩れた。
疲れてくると、顔も下がった。
鏡で確かめようとしているつもりなのに、いつの間にか、本当の足元を見ている。
「白瀬、顔を上げて。足を見るために身体まで曲げない」
「はい」
顔を上げる。
前回よりできるところは増えた。
だからといって、楽になったわけではなかった。
今は、できた動きを、何度も同じようにするのが難しい。
「次、八カウント。そのあとも止めずに、もう一度」
先生の声に頷いた。
右へ出る。腕を上げる。
左を寄せて、戻す。
足を大きくしない。
左も、同じ。
一度目が終わった。
そのまま、次へ入る。
腕のことを考えたところで、足が広がりそうになった。
気づいて、次の一歩を戻した。
最後まで、止まらずに動けた。
音が止まる。
「今のはよかった。途中、自分で幅を戻せたな」
「……はい」
「前回より、腕をつけても足が残るようになってる。その幅は覚えておこう」
「はい」
返事をしてから、息を吐いた。
背中が汗で湿っていた。
太腿も重い。
それでも、火曜日とは違うことが一つあった。
腕をつけても、足が止まらなかった。
それを、自分でも分かる形で、できた。
「じゃあ、一度水分を取ろう」
壁際へ戻ると、雨宮さんも飲み物を取っていた。
「今の、続けられてたね」
「はい。最後までいけました」
答えると、雨宮さんが頷いた。
小日向さんも、タオルで額を押さえながらこちらを見た。
「最初より、足の幅も揃ってたよ」
「……ありがとうございます」
私は水を飲んだ。
少し落ち着いてから、部屋の端を見る。
カメラは、まだ同じところにあった。
さっき動いている間には、一度も、そちらを見なかった。
「あの。今日の映像って、あとで見せてもらえるんですよね」
「うん。早川さんに、見たいところを伝えれば大丈夫だと思う」
小日向さんが言った。
「最後のところ、見てみたくて。自分で戻せたって言われたところが、どうなっていたのか」
「じゃあ、今の時間を書いておくと、探してもらいやすいよ」
示された時計を見る。
私はノートを開き、端に時刻を書いた。
その下へ、腕をつけても足を止めずにできた、と書き足す。
気をつけることばかり並んでいたページに、その一行が増えた。
カメラに向かって何かをしたわけではない。
いつもより上手に見せられたかどうかも、分からない。
ただ、さっきできたところを、もう一度確かめたかった。