TS少女は演じたい 作:息抜き
木曜日のレッスンは、特に問題なく終わった。
もちろん、できなかったことや、直されたところは沢山ある。帰りには疲れていたし、翌朝も身体は重かった。
ただ、途中で動けなくなったり、予定を変えなければいけなくなったりはしなかった。
金曜日は学校へ行って、帰ってから課題を片づけた。
そして、土曜日になった。
五月十六日。
私はベッドの上に置いた鞄を見下ろしていた。
いつものレッスン用の荷物とは別に、もう一つ、大きめの鞄がある。
「一泊よね?」
部屋の入口から、母が言った。
「一泊だけど、明日もレッスンだから」
「それは分かってるけど」
母の視線が、まだ鞄へ入っていないポーチへ向く。
今日は、レッスンが終わっても家へ帰らない。
FOLIOが用意している宿泊用の部屋を、初めて使うことになっていた。
早川さんから聞いた話では、遠くから通う所属者や社員が、仕事やレッスンのあとに無理をして帰らなくてもいいよう、会社で借りている部屋があるらしい。
マンションの中に、そういう部屋をいくつか確保しているとかなんとか。
簡単な仮眠室のようなものを想像していたけど、二つの寝室とリビングがある、普通に生活できる部屋だと説明された。
寝具や家電も揃っていて、予約や鍵の管理は会社の担当の人がしてくれる。
私の場合は、土曜日の夜に泊まり、日曜日もレッスンを受けてから帰る。
家まで一時間半かけて戻って、翌朝、また一時間半かけて来る。
実際、その往復が一回なくなるだけでも、かなり違う。
『泊まれるからその分遅くまで練習する、ということではありません』
早川さんにはそう念を押された。
減らした移動時間は、夕食やお風呂や、ちゃんと眠るために使う。
両親にも説明してもらって、まずは今週末、利用してみることになった。
詳しい場所や行き方、鍵の使い方、部屋の中のことは、今日のレッスンが終わってから、実際に案内してもらう予定だった。
なので、今の私が知っているのは、そのくらいだ。
分かっているのは、いつもの荷物だけでは足りない、ということだった。
今日と明日の練習着。帰りに着る服。寝るときの服。下着と靴下。
タオルに、歯ブラシ。充電器。
それだけなら、もう少し簡単に収まったと思う。
問題は、その横にあるものだった。
クレンジングと洗顔料。小さな容器へ移した化粧水と乳液。
明日の朝に使う日焼け止めと、いつもの化粧ポーチ。
髪を留めるものと、ブラシも入れた。
一つずつは小さいのに、集めるとそれなりの場所を取る。
前世なら、こんなに顔の周りのものを持っていかなかったと思う。
着替えと歯ブラシがあれば、とりあえずどうにかなっていたような気がする。
今は、そうはいかなかった。
薄くても化粧をすれば落としたいし、顔を洗ったあとに何もつけずに寝るのも落ち着かない。
明日の朝、髪を整えたり、いつものように顔を整えたりするものも欲しい。
誰かに持っていきなさいと言われたわけではない。
自分で、これは使う、と思って集めた結果だった。
女子として馴染むために習慣にしたことは、今はもうやらないと落ち着かないくらいにはなっている。
持ち運びは面倒ではあるけど。
「タオルとかは、向こうにもあるんじゃなかった?」
「あるって。でも、最初だから一応」
「その一応が多いのね」
言い返せなかった。
母はベッドの端にあった薄い袋を取り、私へ渡した。
着たあとの服を入れるために出しておいて、忘れていたものだった。
「これも」
「……ありがとう」
また一つ増えた。
まぁ、これは必要だ。
ポーチの向きを変え、服の隙間へ収める。
最後に英単語帳を入れると、ようやくファスナーが閉まった。
「着いたら連絡してね」
「うん」
「明日の朝、起きられるようにしておくのよ」
「それは大丈夫」
「いつもは呼びに行く日もあるのに?」
「……流石に一人の時は大丈夫」
私は、スマホのアラームをもう一つ増やした。
————
この日のレッスンは、午後からだった。
FOLIOへ着くと、早川さんがいつもより大きい荷物を見て、置いておける場所を教えてくれた。
宿泊先への案内は、予定通りレッスンのあと。
その確認をしてから着替え、まずはダンスレッスンへ向かった。
身体をほぐして、重心の移し方を確認する。
短く区切った足の動きを繰り返し、できるところにだけ腕をつける。
ボーカルレッスンでは呼吸と発声、それから短いフレーズの入りと終わりを見てもらった。
足だけ先に出さない。
息を吸うときに肩を上げない。
終わったと思って、最後の音を雑にしない。
火曜日や木曜日にも言われたことを、今日も直された。
前よりできたところもあったけど、その分だけ別のことまでできるようになったわけではない。
動きを一つ増やすと、さっきまで気をつけていたことが抜ける。
それでも、最初から最後まで何も分からない、という感じではなくなっていた。
少なくとも、何を直そうとしているのかは、前より分かる。
少し休憩を挟んで、次がビジュアルのレッスンだった。
私は水を飲みながら、ノートを開いていた。
身体の方の注意を書いたところへ、声関連で言われたことも足す。
書いている間にも、肩のあたりがじんわり重かった。
「真琴ちゃん、今日すごい荷物だったね」
隣から、美月さんが覗き込んできた。
「あ、はい。今日、泊まるので」
「ああ、そっか。明日もあるもんね」
「初めてなので、何を持っていけばいいか、少し迷って」
「分かる。使うかもしれない、って思うと増えるよね」
「……はい。一応って思ったら、どんどん膨らんでいって」
小日向さんが言った。
「美月は泊まらない日も増えるけどね」
「それは必要なものが多いだけです」
「今日の鞄にも、使うかもしれないレベルのものも入ってるでしょ」
「入ってます。夜にひより先輩と遊ぶためのものまで完備!」
「明日仕事なの忘れてない……?」
「えっと、美月さんと小日向さんも、泊まるんですか?」
「うん。私と美月、明日ちょっと公式チャンネル用の収録の予定あるから」
会話を聞いていて気になったことを聞いてみたら、すぐにそう返された。
「……?あ、そういうことか。安心していいよ。別の部屋だから。同室に泊まるかどうかって泊まる人全員の同意の上で決まるから、勝手に同室にされたりはしないよ。場所は普通に隣の部屋とかにはなるけど」
「な、なるほど……?」
「真琴ちゃんも泊まりなら夕飯とか一緒に——」
「だから気が早いって。あんまりぐいぐいいかないの」
勢いよく顔をあげた美月さんを、小日向さんが抑えるようにして止めてくれていた。
小日向さんの方が凄く小さいのに、美月さんの身体を慣れた手つきで抑えている。
……公式プロフィールだとこの二人、二十センチ差とかだったかな。
それはそれとして、夕飯の話はどうしよう。
そんなことを考えていたら、三枝さんが入ってきた。
挨拶をして、ノートを閉じる。
部屋の前にはカメラがあり、少し斜めの位置にも、もう一台置かれていた。
モニターには、床の印と、まだ誰も立っていない場所が映っている。
「今日は六月のライブに向けて、動きの中での見せ方を詰めます。客席への目線と、カメラに顔を渡すところ。それから今回の曲同士のつながりも含めた曲中での表情」
三枝さんが、手元の資料を置いた。
私はタオルとノートをまとめ、早川さんの方を見た。
これまでなら、五人が本番の曲を使うところで、私だけ別の部屋へ移ることが多かった。
「白瀬さんも、そのままで」
「え」
三枝さんに言われ、手を止める。
「今日は、移動しなくていいんですか?」
「ええ。最後まで六人でやります。私からそうお願いしました」
五人の方を見る。
夏希さんが、もう床の印へ向かっていた。
「動きは、今できるものに減らします。ただ、ライブで何を見られるのかは、一緒に見ておいてほしいので」
三枝さんは、私の立つ場所を示した。
「一人で分けると、今はどうしても、足や姿勢を直す時間が中心になるでしょう」
「……はい」
「それも必要なことではある。でも、それだけだと、表現のレッスンなのに全部身体のレッスンになってしまう。動けるようになった先で、何をするのかも知っておいてほしいの」
私は頷いた。
「それに、動きに気を取られて表情が崩れたのか、表情そのものを変えた方がいいのかは、分けて見たい。そこは、今日は私が直接見ます」
同じように前を向いていても、三枝さんが止めるところは細かい。
顔の向きではなく、その前にどこを見ていたか。
笑ったあとの顔ではなく、笑う直前に何が見えていたか。
ほかの先生に見てもらっていた時には、そのまま次へ進んだところで、もう一度、と言われることもあった。
何を見ているのか分からないまま終わるのではなく、映像を戻して、違いを見せてくれる。
それを、今日は五人と同じ場所で受けるらしかった。
私はノートを壁際へ置いた。
持っていくつもりだったタオルも、その上に重ねた。
————
最初は、短い動きだった。
二歩移動して、身体の向きを変える。
腕を動かし、指定された音で正面へ視線を出す。
そのまま次の動きへ入る。
説明だけなら、難しそうには聞こえなかった。
「白瀬さん、顔を向けるときに、胸まで全部戻さないで」
一度目で止められた。
「はい」
もう一度、元の位置へ戻る。
身体は斜めに残す。顔だけを正面へ。
そう思ってやると、今度は最後の足がうまく収まらなかった。
「歩幅を少し狭く。今はそこまで進まなくていい」
「はい」
「顎はそれ以上引かない。下から目だけ上げようとしなくていいから」
一つ直すたびに、別のところが出てくる。
隣では、夏希さんが同じ動きをしていた。
移動して、身体を止める。
顔は正面にあるのに、肩まで無理にこちらへ向いてはいない。
次の音が来ると、そこから自然に動き始める。
止まっているところと、次へ行くところの間が、私とは違った。
私の場合は、一度全部を止めて、それから次を探している感じになる。
「桜庭、今の止まり方はそのまま。顎だけ少し柔らかく」
「はい」
次の一回では、そこだけが変わった。
……身体のことになると、この人は本当に早い。
美月さんは肩の開き方を、小日向さんは顔を戻すタイミングを直されていた。
神谷さんにも、雨宮さんにも指示が入る。
誰も、ただ一度やって終わりではない。
ただ、直されているところの細かさが違った。
私がまず形へ辿り着こうとしている間に、五人は、その形から何を見せるかを調整していた。
表情演技がどうとかっていう前に、まずそこを見てもらえる段階まで辿り着けていない。
それが、素人目にも分かってしまった。
映像を見ても、その差は分かった。
正面のカメラでは、私の顔が一度、腕の後ろへ隠れていた。
斜めからの映像では、隠れてはいない代わりに、次の足を探している目がよく見えた。
「……こっちだと、下を見たのが分かりやすいですね」
「そう。正面だけで確認していると、気づきにくいところ」
三枝さんが映像を戻す。
「分かっているとは思うけど、六月は遠い席から見る人も、スクリーンや配信で見る人もいます。カメラに目線を入れるところだけ頑張って、その前後で崩れるなんてことにならないように。まして、カメラにいつ抜かれるか分かれば苦労しない。いつ、どこから抜かれてもいいように完成させることを意識して」
画面の中の私は、正面へ目を向けた瞬間だけ、少し落ち着いた顔をしていた。
そこへ行くまでは忙しく、終わったあとは、ほっとしている。
見せたい一瞬の前後に、準備と片づけがついていた。
「……私の場合、カメラを見る、が一個の作業になってるのも悪いですよね」
「今はそうね。白瀬さんの場合は、まず動きの中へ表情演技を入れていかないといけない」
私は頷いた。
カメラの場所が分かればいい、という話ではなかった。
次に使われたのは五人の楽曲の一つ、『透明な合図』だった。
家でMVも見たことはある。
曲も、聴けば分かる。
うろ覚えだけど物語性が強い歌詞で、MVもそういう形でやっていたはずだ。
まず五人が、本番用の位置で短い部分を確認する。
私は同じ部屋の端で、その動きと、モニターを交互に見ていた。
全員で試すときには、五人の動線から外れた印へ入り、教わった短い動きに置き換える。
五人の立ち位置を、六人用に変えているわけではない。
六月にあの場所へ立つのは、五人だ。
私は、そのために何を揃えているのかを、一緒に教わっていた。
曲が流れると、さっきまで隣で水を飲んでいた人たちの見え方が変わった。
美月さんが動くと、その先を見たくなる。
小日向さんは、位置を変えても、こちらへの顔が途切れにくい。
神谷さんの視線は、次にどこを見るのかまで繋がっている。
雨宮さんは、大きく動かないところでも、曲から離れない。
夏希さんの動きには、迷いがなかった。
そこへ、三枝さんの指示が入っていく。
「橘、そこは正面へ戻しすぎない。今、斜めのカメラに渡したところでしょう」
「はい」
「神谷は、次の入りまで目線を残して。雨宮、今の顔の向きはそのままでいい」
私には、既にできているように見えるものが、まだ変わっていく。
何度目かで、三枝さんが音を止めた。
「じゃあ、次はここの表情。歌い終わって、次のサビへ入るまで」
ほんの短い部分だった。
大きな移動が落ち着き、顔が見えやすくなるところでもある。
「ここを寄りで見せるなら、ただ笑顔を置くだけにはしたくない。相手に気づいてもらえた嬉しさはある。でも、同じ気持ちかどうかまでは、まだ分からない」
三枝さんが、歌詞のある紙へ指を置く。
「確かめたい、というところを残して、サビへ繋げましょう」
五人が頷いた。
私も、紙と映像を見比べた。
もう一度、曲が流れる。
夏希さんは、身体の向きが変わるところで、表情を少し抑えた。
動きは綺麗だった。
ただ、さっきまであった明るさが、その部分だけ、すっと消えた。
「桜庭、そこまで感情を抑えなくていい。嬉しいのが分からないくらいまで表情がなくなった」
「……はい」
夏希さんが口元へ手を当てた。
「まだ分からない、をやろうとすると、考えてる顔になるんですよね」
「何を考えるかがなくて、考えている形だけ作ると、そうなりやすいよね」
今度は美月さんが同じところを試した。
笑みを弱めても、綺麗だった。
カメラの位置も外していない。
「橘は、最初から答えありきで用意してる」
「えっと、どういう?嬉しいのが強すぎたとかですか?」
「強さより、順番。相手を見る前から、その笑顔が用意されているから。ちゃんと見る演技をして、その後に表情を変えないといけないの」
三枝さんがモニターを示すと、美月さんが顔を近づけた。
「……あ、本当だ。見る前に笑ってる」
「そういうこと」
美月さんがもう一度やる。
今度は笑い始めるのを遅らせた。
だけど、目線を出したあと、笑顔になるまでに、少し空白ができた。
「待っている間も、ちゃんと見ていて。笑うタイミングの音が来るのを待たない」
美月さんが頷き、元の位置へ戻った。
私は、ノートを持つ手を少し緩めた。
言われていることは、分かる気がした。
私も、前のレッスンで似たことを言われていた。
相手の返事を聞く前に、そのあとにする顔を決めてしまう。
五人は、さっきからお互いに指摘し合っている姿も見える。
でも、私が分かる気がすることと、五人に何かを言えることは違った。
口を挟める気はしなかった。
「白瀬さん」
「は、はい」
顔を上げた。
三枝さんが、私を見ていた。
「ここ、あなたはどう見せたいと思った?」
一瞬、返事が遅れた。
五人も、こちらを向いていた。
見ていたことを、見られていた。
「……私、ですか」
「ええ。今、何か考えていたでしょう。聞かせて」
私は歌詞の紙へ目を落とした。
それから、もう一度、止まった画面を見る。
「笑うのを、我慢するところなのかなって、思いました」
「我慢?」
「はい。嬉しくないんじゃなくて……嬉しいって顔に出したら、自分が待っていたのも分かってしまうので」
自分でも、少し言葉を探した。
「相手がこっちを見たから、見返す。でも、それがどういう意味かは、まだ分からない。だから、すぐには全部笑えない、というか」
夏希さんが、画面へ目を戻した。
「嬉しいのは、最初からある?」
「あると思います。ただ、最初から見せようとはしてない感じで」
言ってから、少し不安になった。
「……私は、そう読んだんですけど」
「ええ。その読み方で、一度やってみましょう」
三枝さんが、カメラの前を示した。
私は、ノートを持ち直した。
「動きも、ですか?」
「足は止めて。それに、歌わなくていい。顔の向きと目線だけ。さっき話した順番を、音の中で見せて」
……それなら、多分出来る。
口には出さなかったけど、そう思った。
ノートを置き、印の上へ立つ。
足元を一度確認してから、カメラを見た。
音が、少し前の部分から流れ始めた。
私は、レンズより少し外側へ視線を置いた。
見たい相手は、そちらにいる。
相手が目の前にいるわけではない。カメラ越しに私を見ている、架空の相手がそこにいる。
そう考えて、タイミングを図る。
それでも、ずっと見ていたことまでは、知られたくない。
向こうがこちらを見た気がして、目を戻す。
そこで、すぐに笑わない。
目が合ったことを、先に受け取る。
息が少し緩む。
口元もつられて動きかけるけど、全部は出さない。
まだ、こちらだけが喜んでいたら、少し恥ずかしい。
それでも、視線までは逃がしたくなかった。
次の音が来るところで、ほんの少しだけ笑った。
三枝さんの手が上がり、曲が止まった。
「はい。OK。白瀬さんもこっちに」
私は印から下がって、指示通りそっちに移動する。
五人が、モニターの前へ寄る。
誰もすぐには話さなかった。
自分の映像を見るより、その沈黙の方が気になった。
画面の中の私は、足を動かしていなかった。
腕も、難しいことは何もしていない。
それなのに、さっきの二歩の練習より、ずっと余裕があるように見えた。
まあ実際、足のことを考えていない分だけ余裕はあったのだけど。
「……今、何か返ってきた感じがした」
小日向さんが言った。
私は、そちらを見た。
「相手は映ってないのに。こっちを見てから、顔が変わったからかな」
再生が終わる。
美月さんが、画面の方へ片手を出した。
「最後だけじゃなくて、そこに行く前も、もう一回見たいです」
三枝さんが少し戻した。
私が、レンズへ目を向ける。
まだ笑っていないところで、美月さんが小さく頷いた。
「ここ。笑ってないけど、もう嬉しいんだ」
雨宮さんも画面を見たままだった。
「言おうとして、言わなかったみたい」
「……はい。そういう感じで、やりました」
そう答えると、雨宮さんは私を見て、一度頷いた。
三枝さんが再生を止める。
「白瀬さん、もう一度。目を合わせたときの嬉しさと、そこまでの流れは今のまま。最後の笑みだけ、出しかけて止めて」
「サビの前まで、ですか?」
「そう。目は逸らさない。嬉しさをなくすんじゃなくて、大きく口元に出すのをやめるように」
「分かりました」
印へ戻る。
相手を見るところは、変えない。
目が合って嬉しいことも、そのあとに少し息が緩むところも。
ただ、最後は笑い切らない。
出かけた笑みを、唇のところで留める。
音が止まった。
「……あ」
夏希さんの声がした。
今度は、私もすぐにモニターを見た。
最初のものと、二つ目のものが続けて再生される。
同じように相手を見ている。
でも、終わり方は違った。
一つ目は、少しだけ気持ちを渡している。
二つ目は、まだ自分のところへ残していた。
「今の、終わりだけ変えたんだよね?」
夏希さんに聞かれ、頷く。
「はい」
「その前は、変えないで?」
「同じようにしたつもりです」
夏希さんが、もう一度画面を見た。
「私、最後に何をするか変えると、その前も変わる」
「私も、待ってる顔から変わっちゃう」
美月さんが言った。
さっきまで自分の映像を見ていたときと、同じ真剣な顔だった。
三枝さんが、私へ顔を向ける。
「……じゃあ、最初の方に戻してみて。最後に、少し伝わる方に」
「はい」
もう一度、音が流れた。
今度は、止めない。
相手を見て、確かめて、隠し切らずに少し笑う。
終わると、神谷さんが画面と私を見比べていた。
「戻るんですね」
「……え?」
「さっきの形に。ただ似た顔をするんじゃなくて、途中の流れごと」
私は、少し考えた。
「どこで何を見たかを、同じにしたので」
「そこを覚えているんですか」
「はい。口元だけ覚えると、その前がなくなるので……私は、見てからどうなったかの方が、やり直しやすいです」
神谷さんは、すぐには返事をしなかった。
もう一度映像へ目を向け、それから三枝さんを見る。
「久世さんが話していたのは、こういうことだったんですね」
「ええ」
三枝さんが頷いた。
「表情を変えられるだけではなくて、どこを変えたかを自分で分かっている。他を残したまま、必要なところだけ変えられる。ここは、五人にも見てもらいたかったところです」
私は、置いてきたノートの方を見た。
何か書いた方がいい気がしたのに、何を書けばいいのか、すぐには分からなかった。
「真琴ちゃん、これ、毎回こうやって考えてるの?」
美月さんが聞いた。
「全部、言葉にしているわけではないです。でも、何を変えてくださいって言われたら、そこは考えます」
「考えて、その通りに変えられるんだ」
「まだ、できないときも、あります」
言いながら、さっきの足の動きを思い出した。
あれは、考えてもその通りにはならなかった。
美月さんは笑ってごまかすような顔をしなかった。
私を見て、それから、また画面へ目を戻した。
「うん。でも、今のはできてた」
その言い方が、妙に耳に残った。
三枝さんに褒めてもらうことは、今までもあった。
でも、その隣で五人が私の映像を見て、自分たちのものと比べている。
できなかったところを教えてくれようとしているのではなく、できたところを、もう一度見ようとしている。
それが、少し不思議だった。
「今の顔を、全員がそのまま真似する必要はありません」
三枝さんが、五人へ向き直る。
「笑顔の形ではなく、変わるまでの順番を見て。それぞれの見せ方へ調整して、自分なりのやり方に調整してほしいの」
五人が頷いた。
三枝さんは、引きの映像も出した。
画面の中で、私が少し小さくなる。
「それから、今のは寄りの画面で見える細かさです。遠い客席へ伝えるなら、身体の向きや動きの流れも必要になる。小さくやればいい、という話ではない。白瀬さんも、その点を踏まえて調整していく必要がある」
さっきまでよく分かった口元の違いが、引くと見えにくくなった。
その代わり、身体をほとんど動かしていないことが目についた。
顔だけならできることがあっても、それだけでライブができるわけではない。
そのことも、同じ画面の中にあった。
「白瀬さんは、まず今の流れを、最初の短い動きに乗せること。歩幅は広げないで」
「はい」
私も、元の場所へ戻った。
————
夏希さんの動きが、少し変わった。
足の運び方ではなかった。
身体の向きが変わったあと、正面を見るまでのところ。
そこに、相手を確かめるような間ができた。
次の動きへ入る速さは、変わっていない。
止まって待つのではなく、動きながら見ていた。
「うん、今の方がいい。今の表現なら、寄りで撮られても嬉しいのが伝わる」
「はい。笑っちゃ駄目、って思わない方がうまくできました」
夏希さんが、こちらへ顔を向ける。
「真琴が言ってた、待ってたのがばれるっていうの。あれだと、すっごい分かりやすい」
「……そうですか」
「うん、ありがと!」
もう一度、音に合わせてやってみせる。
さっき私が言ったことが、夏希さんの動きの中に入っていた。
でも、私と同じには見えなかった。
私にはできない動きで、夏希さんの表情になっていた。
美月さんも、最初から笑顔を置かなくなった。
相手を見たあとで、目元が明るくなる。
笑みを小さくしていたときより、ずっと美月さんらしいのに、前とは違うものが見えた。
小日向さんが、その映像を指さす。
「今の、気づいた感じがする」
「さっきまでは、最初から見つけてたんですよね」
「うん。見つける前から、こっちに手を振ってる感じだった」
美月さんが、自分の映像を見て笑った。
神谷さんは、笑みを残す長さを確かめていた。
雨宮さんは顔の向きを少し変えただけだったけれど、その分、目がどこへ向いているのかが分かりやすくなった。
五人が、同じ課題を、それぞれ別のやり方で直していく。
その横で、私はまた、最後の足を置き直していた。
「白瀬さん、今は正面を見ようとして、身体まで戻った」
「……はい」
さっき言われたことだった。
顔をどうするかが分かると、今度はそちらへ意識が寄りすぎる。
身体を残そうとすると、目を向けるタイミングが遅くなる。
足を止めてやったときの自分と、同じ曲の同じ部分なのに、随分違う。
私は一度、息を吐いた。
「今、顔の方を先にやろうとしてました」
「そうね。移動を終えてから表情を始めようとすると、間に合わなくなる。まず歩幅を戻しましょう」
足を確認する。
二歩だけ動く。
そこへ、顔の向きをつける。
当たり前だけど、五人に見てもらえたからといって、急にできるようにはならなかった。
ただ、足を直されている間にも、さっきの映像の顔は思い出せた。
できないことばかりで、全部なくなってしまったようには思わなかった。
休憩の合図が入ると、私は壁際へ戻った。
水を飲んでから、ノートを開く。
歩幅。胸を戻さない。
その下へ、少し迷ってから、表情を変える前に何を見るか、と書いた。
隣に、小日向さんがしゃがんだ。
「さっきの、最後を変えた方」
「はい」
「あれ、笑うのをやめても、目の方は嬉しいままだったよね」
「そのつもりでした」
「そこ、もう一回見たい。口元を止めると、私、目も一緒に止まりそうだから」
私はペンを持ったまま、小日向さんを見た。
少し離れたところで、神谷さんも頷いた。
「次の確認で、最初のものと続けて見せてもらえますか。違うところだけではなくて、残っているところも見たいので」
「あ、私も見たいです」
美月さんが近づいてきた。
雨宮さんも、水の蓋を閉めてこちらを見ている。
夏希さんは、さっきの目線の動きを小さく試してから、私へ向き直った。
「今度、顔の方をちゃんと見る。最初、何が変わったのか分かんなくて、全部見ちゃった」
三枝さんが、カメラの位置を確かめながら頷いた。
「じゃあ次はそこから。見たあと、それぞれの動きへ戻しましょう」
私は、ノートへ視線を落とした。
書きかけのところで、ペンが止まっていた。
もう一度見せてください。
それは、この部屋へ来てから、私がトレーナーの先生たちに何度も言っていた言葉だった。
今日は、五人が私に言っている。
「……はい」
返事をして、ノートを閉じた。
まだ、踊れないところは沢山ある。
歌も、動きも、五人には全然追いついていない。
でも、今、もう一度見たいと言われているものは、私にもあった。
私は立ち上がり、カメラの前へ戻った。
足の位置だけ、一度確かめる。
それから、顔を上げた。