TS少女は演じたい   作:息抜き

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18話

五月三十日、土曜日。

レッスンが始まる前にノートを開いて、四月の終わりのページまで戻ってみた。

高瀬先生と鳴海先生に、それぞれ初めて見てもらった頃の記録だった。

 

あれから、およそ一か月。

五人と一緒にレッスンを受け始めてからも、もうすぐ三週間になる。

学校へ行って、レッスンへ来て、帰ってから教わったことを整理する。

次に来た日に、分からなかったところを聞く。

そうしている間は、次までに何を直すかを考えるので忙しかった。

 

木曜日にも、うまくいかないところはあった。

今日も間違いなくある。

まだできないことなら、ノートを開かなくてもいくつか思い浮かぶ。

でも、最初の方に書いてあることを読むと、今はそこまで困らなくなったものもあった。

 

習った短いステップなら、鏡の中の先生をずっと追いかけなくても続けられる。

片方へ体重を移してから次の足を出すところも、毎回止まって確かめなくてよくなった。

腕をつけると遅れる、と書いた隣には、足だけならできた、と小さく付け足してある。

今なら、慣れた組み合わせは腕も一緒に動かせる。

腕のことを考えた途端に、足が止まってしまうわけではない。

もちろん新しい動きになると話は別だけど……

前は、先生に説明してもらうまで、何が起きたのか分からないことの方が多かった。

うまくできなかった、で終わらずに、その先を少し話せるようになったのも、この一か月のことだった。

 

歌のページへ移る。

息を吸う場所。

最後の音を決められた長さまで伸ばすこと。

こちらは、最近のページにも似たような注意がある。

ただ、四月の私は息を吸うところを指示してもらっても、最後まで声を残せなかった。

途中で足りなくなって終わりだけ押し出そうとしたり、言葉を言い終えたところで勝手に短くしたりしていた。

今は無理なく出せる高さの短い旋律なら、途中で慌てずに歌い終えられることが増えた。

 

最初の音を探りながら入ることも前よりは減っている。

動かずに、歌うことだけに集中していれば、なんて条件をつければだけど。

歌いながら別のことまでできるようになったわけではない。

 

でも、一か月前は、動かずに歌っていても難しかったのだ。

古いページと木曜日のページを、もう一度見比べた。

神谷さんにアドバイスしてもらってからは、注意されたことの横に、どこまでならできたかも書いている。

ゆっくりならできたこと。足だけで確かめたこと。途中で先生に声をかけてもらえば、最後まで続けられたこと。

その時は、まだこれだけしかできない、と思って書いたものもある。

 

読み返してみると、今は毎回ゆっくりにしてもらわなくてもいい動きがあった。

途中で声をかけてもらわずに、最後まで続けられるものもあった。

できた時にはほっとして、それからすぐ、次に注意されたことを気にしていた。

だから、自分で思っていたよりも、前のページに残したままになっていたらしい。

前にうまくいかなかったところは、今日も確かめたい。

ただ、その前にできたところまで、できなかったことにしなくてもよかった。

私は今日のページへ戻り、日付を書いた。

 

顔を上げると、高瀬先生が鏡の前へ来ていた。

五人も、それぞれノートや飲み物を置いて立ち上がっている。

私もノートを閉じて、鞄へ戻した。

 

————

 

休憩を挟んで、歌の時間になった。

いつものハミングと短い音階を終えると、鳴海先生が譜面台に紙を置いた。

 

「今日は白瀬も四小節まで一緒にやろう。木曜日に確認したもの」

 

「はい。お願いします」

 

鞄から、同じ紙を取り出す。

二小節目の休符と、最後の音を切るところに、鉛筆で印がついていた。

歌詞の上には、以前注意されたことが小さく書いてある。

四月に初めて見てもらった時は、最後の言葉を言い終えると、歌まで終わったつもりになっていた。

今は、どこまで伸ばすのかは分かる。

その長さを、途中で慌てずに出せることも増えた。

 

「最初は歌詞を外して、『ナ』で。白瀬は入りと最後の長さ。五人は、後半を少し弱めても響きがばらけないように」

 

先生が最初の音を弾く。

隣では、雨宮さんが紙を一度見てから顔を上げた。

私も、譜面台へ置いた紙から視線を上げる。

四つ、カウントが入った。

声を出す。

最初の音を長く弾いてもらわなくても、入れた。

途中の休符で息を吸い、後半へ進む。

 

隣の声が、少しずつ柔らかくなった。

雨宮さんだけではない。

五人の声が、最後の音へ向かって細くなる。

私もつられて同じようにしそうになってしまう。

でも、今日はまだそこまで求められていない。

自分の声をそのまま残して、先生の手に合わせて終えた。

 

「白瀬、今のでいい。次、一人で。伴奏だけで」

 

「はい」

 

今度は、旋律を一緒に弾いてもらえない。

音の高さも、隣からは聞こえてこなかった。

それでも、歌い始める場所は分かる。

息を吸って声を出す。

途中でまた吸い直して、最後まで。

終わる直前に声を押し出さなくても、決められたところまで残った。

 

「うん。木曜日の最後より、入りが落ち着いてる」

 

少しほっとした。

一回ごとに出だしの強さが変わって、最後に足りなくなっていた頃とは違う。

少なくとも、何も変えずに歌うなら、前より同じことができるようになっていた。

 

「じゃあ歌詞ありで」

 

同じ伴奏が鳴る。

言葉をつけても、最後までいけた。

鳴海先生が頷き、そのまま続けた。

 

「もう一回。今度は感情表現も載せる。向こうの椅子に友人がいるつもりで。最初の言葉で、少し笑いかけてみよう。声の出し方と息の場所は、今のまま」

 

椅子を見る。

そこに誰が座っているのかを考えるより先に、どういう顔を向ければいいかは分かった。

音を聞いて、歌い始める。

最初の言葉で、目元を少し緩めた。

相手に向ける声も、自然に柔らかくなる。

 

変えないようにと言われたばかりなのに。

二つ目の言葉の終わりで、声が薄くなった。

そこから先を残そうとして、最後だけ少し力が入る。

歌い終えると、鳴海先生が鍵盤から手を離した。

 

「声も変えたね」

 

「……はい」

 

「最後は少し低くなった。今、自分ではどこが難しかった?」

 

「柔らかくしたところから、声がなくなりそうになりました」

 

「うん。まず、そこの二小節だけ戻ろう。歌詞なしで」

 

また、『ナ』で歌う。

今度は、最後が苦しくならなかった。

 

「そのまま、さっきと同じところで相手を見て」

 

もう一度。

顔を向ける直前、少し息を止めかけた。

声が途切れそうになって、慌てて続ける。

 

「今、顔を向ける前に待った?」

 

「……一瞬、止まった気がします」

 

「そこは声を続けたまま。顔を向ける動きは、今より小さくていい」

 

先生の手が、一定の速さで拍を取る。

それに合わせて、もう一度歌った。

今度は、途中で声が抜けなかった。

顔も、向けられた。

 

「そう。その大きさで、歌詞へ戻してみよう」

 

戻すと、最後の言葉がまた少し弱くなった。

 

全部ではない。

さっきより、そこへ来るまでは楽だった。

でも、言葉の終わりで相手に笑いかけると、一緒に声まで終わらせたくなる。

 

「顔はいいね。ただし、最後はまだ早い」

 

「……はい」

 

笑顔の方だけ、先にできてしまったらしい。

今、見てもらっているのは歌なのだけど。

鳴海先生は最後の言葉の上を指した。

 

「ここだけ残しておこう。続きは別室で見る。今は一度、聞いておくように」

 

私は頷いて、紙へ印を足した。

その間に、五人が同じ旋律を歌った。

小日向さんの柔らかな声も、美月さんの明るい声も、すぐに分かる。

神谷さんと夏希さんの声も、それぞれ違っていた。

それなのに、最後の言葉がばらばらに終わらない。

 

「橘、最後の母音、もう少し三人の方へ寄せて。橘と雨宮でもう一度合わせて」

 

「はい」

 

美月さんが短く歌い直す。

雨宮さんも、同じところを小さく返した。

二人がもう一度合わせると、さっきより、一つの言葉として聞こえた。

私には、どう口を動かしたのかまでは分からなかった。

ただ、音程が合っているだけでは、同じようには聞こえないらしい。

 

「今ので前から。もう一度五人。」

 

五人が、もう一度歌う。

音を外した人はいなかったと思う。

息が足りなくなった人もいなかった。

それでも、先生が聞いていることは、まだその先にある。

 

「雨宮、次一人で。後半はもう少し近く。一人に言う感じで」

 

「語頭を、あまり立てずに?」

 

「そう。ただ、最後は消さないように」

 

雨宮さんが頷いた。

隣で、息を吸う気配がする。

同じ音から、同じ言葉が始まった。

さっき全員で歌った時よりも、声を張っているわけではなかった。

それなのに、最初の言葉がすぐ分かる。

音が上がるところで、声だけが急に強くならない。

言葉が変わっても、その間に隙間ができたようには聞こえなかった。

二小節目の終わりで、短く息を吸う。

 

それは、ちゃんと聞こえた。

でも、そこで一度終わった感じがしない。

次の言葉が、前の言葉への返事のように続く。

最後の音が伸びた。

途中から少し細くなる。

それでも、音の高さを見失わなかった。

 

私はさっき、同じところで声を戻そうとした。

雨宮さんは、戻さない。

細くした声のまま、先生の示した拍まで残して終えた。

 

「もう一度。最後だけ、少し明るくしてみようか」

 

「はい」

 

また、同じ四小節。

入り方も、息を吸う場所も、大きくは変わらない。

それなのに、最後の言葉から受ける感じが違った。

無理に笑ったようには見えない。

声が急に大きくなったわけでもない。

ちゃんと別の歌い方なのに、さっきまでできていたことは、そのまま残っている。

昔はここまで聞き分けられたか分からない。

だけど今は、歌だけで、すごく繊細な感情表現をしていることが、分かってしまった。

 

私は、手元の紙を見た。

私と同じ指示をされていた。

高くて出せない音も、覚えられないほど速いところもない。

これを、私もさっき歌ったのだ。

そう思うと、しばらく何も書けなかった。

 

歌唱のレッスンに入るにあたって使うと言われた曲、『雨音のリフレイン』。

『雨音のリフレイン』は、雨宮さんが中心になって歌う、ルミパレの中でも特に歌唱の難しい曲だ。

細かな息の使い方や声の強弱まで要求されるから、部分ごとに切り出せば、いろいろな基礎練習にも使えるらしい。

 

そんな曲の歌詞を覚えるのがてら、少し前に何度も見たMVの映像を思い出す。

雨宮さんの長い音が、静かに終わるところ。

細くなった声を、聞いているこちらが追いかけたくなるところ。

素直に綺麗だと思えたあの歌声。

 

でも、私は今、その細さに近づこうとしただけで、声を最後まで残せなくなった。

小さくなればいいわけではない。

息がなくなるまで伸ばせばいいのでもない。

いつ、どう終わりたいのか。

その通りになるように歌っている。

全部のやり方が分かったわけではなかった。

ただ、あの歌の中に、私が今できないことがいくつも入っているのは分かった。

 

————

 

次は、同じ旋律に小さな動きをつけた。

足は、このところ何度も練習しているものだった。

右へ出し、左を寄せる。

反対側へも、同じように。

一度、足だけで確かめる。

 

「白瀬、その幅のまま。歌が入っても広げないように」

 

高瀬先生の声に頷いた。

鳴海先生が伴奏を始める。

最初の二歩は、動けた。

でも、戻る足を寄せたところで、声が一瞬揺れた。

その音が気になって、次の足が遅れる。

取り戻そうとして大きく踏み出したら、今度は息を吸うところを通り過ぎた。

 

「一回止めよう」

 

伴奏が止まった。

私は、足元を見た。

始めた時より、ずいぶん広いところに右足がある。

 

「広がったな」

 

「……はい」

 

「まず、歌なしでもう一度」

 

足だけなら戻せた。

では歌も、と言われると、また慎重になる。

足を置く瞬間に、身体を固めている気がした。

 

「全部を一緒に直さなくていい。白瀬はこの後、移動してから歌い始めるところを先に確認しよう」

 

鳴海先生が、手元へ短く書き込む。

その横で、五人は動きを続けていた。

美月さんが顔の向きを変えても、歌は遅れない。

夏希さんは高瀬先生の指示で歩幅を変えて、それでも同じところで息を吸った。

雨宮さんの声は、その中でもよく聞こえた。

動いているのに音が揺れない、というだけではない。

さっき立ったまま歌った時と同じように、最後の言葉を柔らかくしていた。

私が足を置くことで忙しくなっている間にも、あの人は、どう聞かせるかを変えている。

 

————

 

別室の先生には、鳴海先生から今日の課題が渡っていた。

 

「歌だけなら四小節できていますね。今日は、簡単な移動と歌い出しを合わせてつなぎます」

 

床の印を示される。

 

「六までにここへ。七、八で準備して、次の一で歌います。最初は歩くところだけ」

 

カウントを聞き、印まで歩く。

六で足は止まった。

ただ、上半身が少し前へ流れた。

その位置を直している間に、七と八が終わる。

 

「今だと、歌に入る準備が遅れますね。歩幅を少し縮めましょう」

 

もう一度、最初の位置へ戻った。

歩く。

六で止まる。

今度は、その後で身体を直さなくても済んだ。

 

「そう。その位置で、次は最初の二小節だけ歌います」

 

伴奏がつく。

移動を終え、息を吸う。

次の一で声を出した。

最初の音は、揺れなかった。

ただ、歌い終わる前に次の移動が気になって、目が床へ落ちた。

 

「次の印を見るのは、歌が終わってからで大丈夫です。今は、そこへ移動するところまではやりません」

 

「はい」

 

先のことを考えたつもりで、今やるところを増やしていたらしい。

何度か確かめてから、声を休めるために座った。

先生と、さっき撮った映像を見る。

足が止まった後も身体が動いていたところ。

歌い終わる前に下を見たところ。

歌っている時には、どちらも同じくらい、ちゃんとできているつもりだった。

少し時間を置いてから、もう一度やった。

今度は、移動を終えてから歌へ入れた。

最後まで前を向いて、決められたところで声を終える。

 

「今の形を、次回も確認しましょう」

 

私は頷いた。

ノートを開き、六までに移動を終える、と書く。

その下に、歌う前に身体の位置を直さなくて済んだことも付け足した。

今日は、まだ動きながらは歌えない。

でも、動いた後なら、慌てずに歌い始められた。

 

————

 

長めの休憩になり、大きい方のレッスン室へ戻ると、五人もちょうど通しを終えたところだった。

美月さんがタオルで首元を押さえている。

神谷さんは飲み物を持ったまま、スタッフの人と短く話していた。

 

さすがに、全員が汗をかいていた。

基礎の時に余裕があるのと、長く歌って踊った後に疲れないのとは違うらしい。

夏希さんも、壁際へ来ると大きく息を吐いて座った。

私も少し離れたところへ腰を下ろす。

膝の上にノートを置いたけど、すぐには開かなかった。

歩いて止まってからなら、歌える。

今日できるようになったことを思い出そうとすると、その横に、雨宮さんが動きながら歌っていたところまで浮かんでくる。

あれを、四小節ではなく一曲。

一曲だけではなく、何曲も。

もちろん、雨宮さんが五人の中で一番歌がうまいのは分かっている。

だけど、そのあまりの実力差を痛感させられた。

 

考えていると、横に人が来る気配がした。

雨宮さんだった。

目が合ったので、少し頭を下げる。

雨宮さんも小さく頷いて、隣に座った。

手には、水筒を持っていた。

蓋を開けて、一口飲む。

私は何となく、自分のノートの端を指で撫でた。

少しの間、何も話さなかった。

 

雨宮さんは前を向いている。

それにつられて、私も何となく前を向いた。

向こうでは、美月さんが夏希さんに何か見せていた。

小日向さんは鞄からタオルを出している。

 

……何か、話した方がいいかな。

そう思ってから、隣を見た。

雨宮さんは、また普通に飲み物を飲んでいた。

私の方を見て、話し始めるのを待っているわけではない。

退屈そうでも、困っているようでもなかった。

ただ、座って休んでいる。

私もボトルを持ち上げた。

水を飲むと、考えていたことが少し途切れた。

冷房の風が、汗の残った腕に当たる。

しばらくして、雨宮さんが言った。

 

「ここ、涼しいね」

 

「……そうですね」

 

それで終わった。

雨宮さんは小さく頷いて、水筒を膝へ置く。

私は次に言うことを少しだけ考えた。

……話が終わっただけだった。

何か失敗したわけでも、返事を間違えたわけでもない。

隣では、雨宮さんがタオルで髪の生え際を押さえている。

私はノートを閉じたまま、脚を少し楽な位置へ動かした。

 

会話もほとんどないのに、不思議と嫌な感じがしない。

さっきの歌について、聞いてみたいことはあった。

ただ、今すぐ全部聞こうとしなくてもいいかと思ってしまった。

 

「美月、ちょっと見て。タオル、三秒で畳むやつ」

 

少し向こうで、夏希さんの声がした。

顔を上げると、夏希さんが膝の上にタオルを広げていた。

 

「何それ。動画で見たりした感じ?」

 

「そう。昨日やったらできた」

 

「じゃあ、数えるね」

 

……五人、というか、夏希さんと美月さんは、結構こういう意味が分から——なんてことない高校生っぽいことをやったりしている。

最初に見た時は少し意外だったけど、一か月近く一緒にレッスンを受けて、一緒に休憩を取っていれば流石に慣れた。

最初は案外子供っぽいのかな?なんて思ったりもした。

だけどそうじゃなくて、単純に早川さんに休憩中の自主練を封じられて、有り余った体力の使い先を考えた結果こうなっているらしい。

実際、私も早川さんに釘をさされた。

 

『白瀬さん、今は休憩ですよ』

 

なんていう強めの声掛けから始まって、休憩の重要性を切々と説かれてしまった。

あの時の小日向さんの渇いた笑みからして、多分小日向さんも怒られている常連な気がする。

とはいえ、これがルミパレのやり方だっていうことなんだろう。

それからは忘れそうなことだけ短く書いて、いったんノートを閉じるようにしている。

気になることは残るけど、再開してから聞けばいい。

少なくとも、あの二人を見ている間は、足の順番とかも考えずに済んでいた。

 

「いち、に、さん。……あ、端が出てる」

 

「そこはあとで直す」

 

「直す時間も入るんじゃないの?」

 

美月さんに言われながら、夏希さんがタオルの端を押し込んでいる。

その手つきだけ急に丁寧になったので、少し笑ってしまった。

口元へ手をやり、何となく隣を見る。

雨宮さんと目が合った。

雨宮さんは、タオルではなく私の方を見ていた。

目元を柔らかくして、小さく微笑んでいる。

笑っていたところを見られて、少し気恥ずかしくなった。

でも、雨宮さんは何も言わなかった。

私も小さく笑い返して、また二人の方へ目を戻す。

夏希さんは、今度こそ形の整ったタオルを美月さんへ見せていた。

雨宮さんもそちらへ顔を向け、水筒を持ち直す。

膝の上のノートは閉じたまま、私はもう少しだけ、そのやり取りを眺めていた。

 

————

 

少しして、スタッフの人がレッスン室へ戻ってきた。

 

「あと五分で再開します。さっきの通しから、曲間と移動を先に確認します」

 

神谷さんが顔を上げた。

 

「はい。後半の、MCが終わってからのところですよね」

 

「そうです。映像を出しておきます」

 

神谷さんが手元のファイルを開くと、美月さんと夏希さんもそちらへ身体を向けた。

小日向さんがページの一か所を指し、雨宮さんも水筒の蓋を閉める。

私も、五人が見ている方へ目を向けた。

私の目にも、開かれたページの上の文字が入った。

 

『PALETTE OF LIGHT』。

 

公演日は、六月十三日、十四日。

公演のことはもちろん知っていた。

公式の告知も見たし、五人がそのために練習していることも、ここへ来るたびに聞いている。

一日八千人。

それを二日間。

今までで一番大きな規模の公演だということも、知っていた。

ただ、私は、自分が次のレッスンで何をするかを考えるので忙しかった。

そうして一日ずつ来ている間に、五人の本番も、少しずつ近づいていた。

今日が、五月三十日。

六月十三日までは、あと二週間しかない。

 

「ここ、次の曲に入る前に、もう少し客席を見る時間が欲しいです」

 

美月さんが言った。

神谷さんが資料を見て、スタッフの人へ確認する。

小日向さんと夏希さんは、次に動き出す位置を確かめていた。

五人が見ているのは、もう、この部屋の中だけではなかった。

その先にいる人たちへ何を見せるかまで考えている。

八千人。

学校の教室とかにいる人数とは、比べようもない。

私には、前を向いてそれだけの人と目が合うところを、まだうまく想像できなかった。

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