TS少女は演じたい 作:息抜き
同じメールを四回読んだところで、私はようやく別の画面を開いた。
さすがに、もう内容は覚えた。
会社名。担当者の名前。連絡先。
保護者と相談してから返事をしてほしいということ。
それだけの文章だ。
読み直すたびに褒め言葉が増えるわけではない。
なのに、四回も読んだ。
「……分かりやすいな、私」
誰もいない部屋で呟いてから、机の上のノートパソコンを開く。
承認欲求、という言葉が頭に浮かんだ。
もっと目立ちたい人や、いつも誰かに見ていてほしい人にあるものだと、どこかで思っていた。
私はそういうものとは、あまり縁がないつもりだった。
どうやら、違ったらしい。
見られたくないのと、認められたくないのは、別だった。
それにしたって、まだ何も分からない。
伝言で少し褒められただけで、こんなに嬉しくなっている場合ではないだろう。
私は検索欄へ、ノートに書いた会社名を打ち込んだ。
FOLIO ENTERTAINMENT。
まず出てきたのは、会社の公式サイトだった。
すっきりした画面に、所属者の写真が並んでいる。
俳優。アーティスト。タレント。
見覚えのある顔も、知らない顔もあった。
会社概要を開くと、設立は2011年。
所在地は東京都内。
芸能人のマネジメントだけでなく、ライブや映像の制作もしているらしい。
少なくとも、つい最近できた、名前しかない会社ではなさそうだった。
トップページへ戻る。
大きく表示されていた五人組の写真を、今度はきちんと見た。
「あ、この人たち」
名前を知らないわけではなかった。
通称ルミパレ。
テレビで見たことがある。
歌番組だったか、何かのバラエティだったか。
背の高いポニーテールの人が、隣の小柄な人に何か言って笑われていたのは覚えている。
最近よく見る女性アイドルグループ。
私の認識はそれくらいだった。
この人たち、FOLIOの所属だったのか。
公式サイトのお知らせを少し遡ると、ルミパレの名前が何度も出てきた。
新しい曲。番組出演。ライブ。雑誌。
ほかの所属者にも知っている人はいるけれど、今の私に一番すぐ分かるのは、この五人だった。
グループのページを開く。
五人のプロフィールと、音楽や動画へのリンクが並んでいた。
そこから公式チャンネルへ飛ぶ。
そして、少し困った。
「……多くない?」
動画が、多い。
もちろん、芸能人の公式チャンネルなのだから、動画はあるだろう。
歌やミュージックビデオ、ライブの映像が何本か並んでいるものだと思っていた。
実際、それもあった。
でも、その間に、同じような床と鏡と練習着の五人が、何度も何度も出てくる。
PRACTICE LOG。
PRACTICE CLIP。
FIX CAM。
違いが分からないまま下へ送る。
また練習室が出てくる。
二十分。三十分。短いものでも数分。
更新日を見ると、同じ日に別の動画まで上がっていた。
これは、少し調べてから夕食までに英語のプリントを終わらせよう、という人間が開いていい場所ではない気がする。
とりあえず、一つだけ。
そう思って、『Step by Color』と書かれた練習動画を選んだ。
音楽が鳴る。五人が動く。
その数秒後、音楽が止まった。
『美月、今のところ。先に肩が開いてる』
画面の外から、男性の声がした。
ポニーテールの人が、鏡に向き直る。
その隣で、小柄な黒髪の人が同じ動きをゆっくり繰り返した。
『ここで、まだ正面』
『あ、足が先ですか』
『そう。そこから向く』
二人が足元を確かめる。
少し離れたところでは、ショートヘアの人が別の動きを試している。
華やかな音楽も、大きな字幕も、しばらく出てこなかった。
もう一度、同じところから曲が流れて、少ししてまた止まる。
正直、最初の動きも十分きれいに見えた。
でも、本人たちは何かが違うらしい。
映像を見て、少し話して、また立ち位置へ戻っていく。
私は検索用の画面へ戻ろうとして、戻れなかった。
さっき指摘されたところが、次にはどうなったのか気になる。
三回目を見たところで、ようやく、何となく分かった。
動き出す順番が変わると、隣の人と同じ方向へ流れて見える。
多分。自信はないけど。
『今の、分かりました』
ポニーテールの人が言った。隣の小柄な人が頷く。
そこで終わりかと思ったら、もう一度、少し前から通していた。
何だろう。
思っていたより、ずっと仕事だった。
もちろん、アイドルが仕事なのは知っている。
練習することだって、知識としては知っていた。
でも、テレビで数分見るだけでは、あの数秒をこんなふうに繰り返しているところまでは見えない。
画面の端に名前が出た。
小日向ひより。
橘美月。
プロフィールのページへ戻り、顔と名前を確かめる。
一番小さい人が、小日向ひよりさん。
ポニーテールの人が、橘美月さん。
なるほど、と戻ってきたら、動画の中では五人が水を飲んでいた。
誰もこちらへ話しかけない。
一人はタオルで顔を押さえている。
これも入れるんだ。
コメント欄を少し見ると、どこが変わったのかを詳しく書いている人がいた。
さっきの一瞬について、私が読んでも半分くらいしか分からない説明が続いている。
見る方も、思っていたより本格的だった。
次に目についたのは、『ルミパレ放送部!』という動画だった。
今度は、最初から賑やかだった。
五人がエプロンを着ている。
テーブルには、出来上がった料理が並んでいた。
『ひより先輩、私のも隣に置いていいですか?』
美月さんが皿を持ち上げる。
『いいけど。何で?』
『一緒に映したらおいしそうに見えると思うので!』
『味は変わらないよ』
『見た目も大事じゃないですか』
『それはそうだけど』
小さく笑ってしまった。
画面が切り替わると、ショートヘアの人が自分の皿を見下ろしていた。
字幕には、桜庭夏希、とある。
『味は、卵なんだよ』
『卵だからね。見た目がこの世の終わりみたいになってるけど』
ひよりさんの返事に、進行役らしい長い髪の人が吹き出した。
『玲奈さん、説明止まってます』
『待って。……分かってるから、ふふ……ふぅ——』
神谷玲奈さん。
その隣で、もう一人の長い髪の人が静かに料理を食べている。
『澪、どう?』
『温かいうちの方がいいと思う』
『それ、急いで食べた方がいいってこと?』
『うん』
これはもう、普通にバラエティ番組だった。
さっき、鏡の前で同じ動きを何度も確かめていた人たちが、今は卵焼きの形で笑っている。
別のところには、お便りに答える番組も、二人で出かける動画もあった。
それこそ、こういうのを本業でやっている配信者よりも多そうだ。
一体いつ全部撮っているんだろう。
そう思って概要欄を見ていたら、収録済みの内容を順に公開していることが分かった。
毎日動画が出るからといって、その日に全部撮ったわけではないらしい。
それでも、量は多い。
私は動画を小さくして、会社について調べる方へ戻った。
所属者の出演情報を、番組側や作品側のページでも確かめる。
昔の告知も残っている。
俳優の経歴には、映画や舞台やドラマの名前が続いていた。
見える範囲だけで会社の中まで分かるわけではない。
公式サイトなら、悪いところはわざわざ書かないだろう。
ただ、実際に仕事をしている会社なのは確かそうだった。
練習動画の中でも、ただ厳しくしているだけではなく、どこをどう直すかを説明していた。
もう一回やりたいと言う人に、先に休憩だと返す場面もあった。
少なくとも、何も知らないまま想像していた芸能事務所よりは、ずっとまともに見える。
そこで、ふと思い出した。
土曜日の主演の人も、この会社だったはずだ。
制作から届いた資料で名前を確かめ、所属者の一覧を探す。
写真を見れば、すぐに分かった。
あの時の主演の俳優さんだ。
プロフィールを読んで、私はまた少し驚いた。
二十代前半。
経歴を辿る限り、活動を始めてから長いわけではないらしい。
紹介文にも若手俳優と書いてあった。
小さくした動画から、また笑い声が聞こえる。
私はそこでようやく再生を止めた。
会社については、少し分かった。
テレビで見覚えがあるような芸能人がいるのも分かった。
でも、私が知りたいことは、まだ一つも分かっていない。
どうして、私だったのか。
私はメールの画面を開きかけて、手を止めた。
五回目を読んでも、答えは増えない。
————
夕食のあと、父が席を立つ前に声をかけた。
「ちょっと、話があるんだけど」
父がこちらを見た。
食器を重ねていた母も、手を止める。
「この前、撮影に行ったでしょ。由佳に紹介してもらって」
「ああ」
「今日、制作会社から連絡が来て」
用意していた順番で話した。
土曜日の現場に、出演していた俳優の事務所の人が来ていたこと。
その人が、私と一度話をしたいと言っていること。
すぐに契約をする話ではなく、保護者と相談してほしいと言われたこと。
「芸能事務所からスカウト?」
父が聞き返した。
「うん。FOLIOっていう、ルミパレがいる会社」
スマートフォンを机に置き、公式サイトを見せる。
母は五人の写真を見て、小さく頷いた。
「ああ、この子たち」
それから、写真ではなく私を見た。
「でもスカウトって……真琴、人に見られるの苦手でしょう?」
「うん」
「この間は、後ろを歩くだけっていう話だったから」
「うん。今回は、それとは違うと思う」
母の心配は分かる。
背景に少し映ることと、芸能人として人前へ出ることは、全然違う。
私だって、分かっているつもりだった。
父は届いたメールを読み終えると、スマートフォンを机へ戻した。
「会社については?」
「調べた。実際にある会社だし、所属してる人も、ほかの番組や映画のページで確認できた。連絡もノートフィルム……この前エキストラをした撮影の制作会社の担当の人から」
「それでも、教えられた窓口が本当に正式なものかは確認した方がいい」
「うん」
そこは、最初から反対する理由にならないと思っていた。
確認すればいい。
「でも真琴、もうすぐ高校三年生でしょう?受験のこともあるし……」
学校の話も、考えていた。
「大学のことは、変えるつもりない。指定校推薦を狙って、駄目だったら一般を受けるっていうのも、そのまま」
「両立できるかは、話を聞いてみないと分からないでしょう」
「だから、まず聞きたい」
少しだけ返事が早くなった。
母が私を見る。
私は一度、息を整えた。
「今すぐ、芸能人になりますっていう話じゃなくて。一回、どういうことなのか聞きに行きたいだけ」
父は、しばらく黙っていた。
「真琴」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
「人前に出る仕事なら、知らない人から何か言われることもある。中学の時みたいなことが、今度はネットで、大勢から起きるかもしれない」
「……うん」
「父さんたちが、全部止められるわけでもない」
「分かってる」
答えながら、机の木目を見ていた。
そこまでして試す必要があるのか。
父はまだそう言っていなかったけど、言外にそう言っているのが分かった。
私だって、昨日までなら、そう考えたと思う。
大学へ行って、仕事を探して、できるだけ面倒なことが起きないようにして生きる。
今ある普通の生活を、わざわざ危うくする必要はない。
「それでも、会いたいのか?」
私は頷いた。
「どうして?」
用意していた説明は、もうほとんど話してしまった。
会社は実在する。
正式な窓口を確認できる。
契約するわけではない。
学校も、受験も、やめるつもりはない。
全部本当だった。
でも、どれも、会いに行きたい理由ではなかった。
あと言ってなかったのは、本心の部分だけだった。
「……素質があるって、言われたから」
父も母も、何も言わなかった。
私は机の上のスマートフォンへ目を落とす。
「演技っていうか、カメラの前での感覚に。私ならではのものがあるかもしれないって」
「そう言われたの?」
「うん」
口にすると、また少し嬉しかった。
こんな場面でも。
二回の人生で言われたことがなかったというだけで、ここまで胸に響くものなのか。
自分で自分に呆れそうになって、それより先に言葉が出た。
「何を見てそう思ったのか、聞きたい」
少しだけ、声が硬くなった。
「あの日は別に、私じゃなくてもよかったのに」
「うん」
「でも、その中から、私と話したいって言ってくれたから」
うまく説明できない。
会ってみたら違うと言われるかもしれない。
考えすぎていたと分かるかもしれない。
知らないままなら、少し惜しかったと思うだけで済むのかもしれない。
それでも。
「聞かなかったことにして終わるのは、嫌なんだと思う」
母の手が、重ねた食器から離れた。
普段なら、こんなに心配される前に引いていただろう。
そこまでしてやりたいわけじゃない。
別のことにすればいい。
二人が心配するのは、私を大切にしてくれているからだ。それは分かっている。
そんな両親を困らせてまで、通すような話ではない。
そうやって終わらせるのは慣れていた。
それなのに、今日は終わらせたくなかった。
「そういうこと、今まで言われたことなかったから」
言ってから、二人の顔を見る。
「褒めてもらったことがない、っていう意味じゃなくて」
父と母には、何度も褒めてもらった。
成績が上がったときも、手伝いをしたときも。
そういうものを、なかったことにはしたくない。
「知らない人が、私に何かあるって思ってくれたのが……嬉しかった、から……」
最後の方は、少し声が小さくなった。
言ってしまうと、ひどく子供っぽい気がした。
実際、そうなのだろう。
前の人生が一つ余分にあったところで、私はこんなに簡単な言葉を欲しがっていた。
母が、ゆっくりと息を吐いた。
「そう」
それだけだった。
でも、さっきまでと、少し違う声だった。
父はもう一度メールへ目を落とし、それから私を見た。
「分かった。三人で行こう」
「……いいの?」
「話を聞きたいんだろう?」
「うん」
「それなら、しっかりと確認しないとな」
「うん」
私は頷いた。
母が、机の上に置いていた私のノートを指さす。
「聞きたいこと、書いておこうか」
「もう、少し書いてある」
「見せてもらっていい?」
ノートを渡す。
最初のページに書いた会社名と、その脇の短い言葉が、二人の方へ向いた。
————
翌日、父も会社の窓口へ確認をしてくれた。
届いていた連絡は正式なもので、こちらの都合を伝えると、面談は水曜日に決まった。
父は、有給休暇を取ってまでついてきてくれることになった。
そして水曜日。
父と母の間に座って都内へ向かう電車の中で、私は同じページを何度も見ていた。
今度は、メールではない。
聞きたいことを書いたノートだ。
何を評価されたのか。
これから何をするのか。
学校と両立できるのか。
費用はかかるのか。
断りたいときは、どうすればいいのか。
一番上の質問だけ、ほかより強く書いてあった。
FOLIOの本社は、私が想像していたより普通の会社だった。
入口に会社名があって、受付があって、奥で人が働いている。
壁に所属者のポスターが飾られていること以外は、普通の会社にしか見えない。
当たり前か。
芸能事務所だからといって、廊下で常に誰かが歌っているわけではない。
案内された部屋には、長い机と椅子があった。
向かいに座ったのは、新人開発を担当しているという人と、女性のマネジメントスタッフだった。
名刺を受け取って顔を上げる。
新人担当の人には、見覚えがあった。
土曜日、モニターのそばで制作の人と話していた人だ。
「あの日、いらっしゃいましたよね」
「はい。覚えていてくださったんですね」
「その、こちらを見ていたので……」
言ってから、余計なことだったかもしれないと思った。
けれど、相手は普通に頷いた。
「ちょうど、監督から指示を受けているところを拝見しました」
やっぱり、あのときだったのか。
「最初にお伝えしておきますが、本日は所属契約をお願いする場ではありません」
担当の人は、私と両親を順に見た。
「こちらからお声がけした理由と、もしよろしければ、今後どのようなことを試していただきたいかをご説明する場です。そのうえで、続けて話を聞くかどうか、ご家族で考えていただければと思います」
父が頷く。
私も、それに続いた。
最初に聞かれたのは、これまでの経験についてだった。
モデルや芸能活動の経験も、この前の撮影以外にはない。
「将来、俳優になりたいと考えたことは?」
「ありません」
「人前に出るのは、お好きですか」
「……むしろ、苦手です」
答えるたびに、自分で話を駄目にしているような気がした。
もっと前向きなことを言った方がいいのだろうか。
でも、嘘をついても仕方がない。
あとで困るのは私だ。
担当の人は、特に残念そうな顔もせず、手元へ短く何かを書いた。
「それでも、今日来てくださったのは?」
私はノートを見るのをやめた。
「素質があるかもしれないと、聞いたからです」
少し間を置く。
「それが本当なのか、知りたくて」
自分の声が、思っていたよりまっすぐに出た。
担当の人は頷いた。
「では、そこからお答えします」
机の下で、指先に力が入る。
「私たちは、真琴さんには映像表現の才能があると考えています」
一瞬、返事を忘れた。
素質があるかもしれない。
そう伝えられたことは、何度も頭の中で繰り返した。
でも今度は、目の前の人が、私へ直接言っていた。
才能がある。
曖昧なところへ戻れる言い方ではなかった。
「それは、具体的にはどういうことでしょうか」
父が聞いてくれて、とても助かった。
私には、すぐ次の言葉が出てこなかった。
「容姿が整っている、というだけの話ではありません。特に見ていたのは、演出指示を受けたあとの変え方です」
笑いたいのを我慢する場面。
怒っているけど、本当は泣きそうな場面。
視線を戻す速さだけを変えるように言われたこと。
担当の人が、土曜日のことを順を追って説明してくれた。
「大きく顔を作り直すのではなく、視線や口元、呼吸の小さな変化で対応していました。それを、もう一度と言われたときにも再現していた」
「……言われたように、しただけなんですけど」
「はい。その言われたように変えられたことを、評価しています」
私は口を閉じた。
「一度だけなら、偶然うまく映った可能性もあります。ただ、あの日は修正と再現が続いていました。未経験の十六歳の方が見せたものとして、改めて確かめたいと判断しました」
父の方を見ると、まだ慎重な顔をしていた。
「ただ、それで仕事になるかどうかは、また別の話ですよね」
「別です」
返事は早かった。
「今の時点で、俳優として成功するとお約束することはできません。長い台詞や役作り、継続して現場に入ることへの適性は、まだ見ていません。ご本人がその生活を望むかどうかも、今日のお話だけでは分かりません」
少しだけ、気持ちが落ち着いた。
何でもできる。必ず売れる。
そう言われていたら、きっと怖くなったと思う。
でも、担当の人は、見たものと、まだ見ていないものを分けて話していた。
「ですので、よろしければ後日、カメラテストを受けませんか」
「カメラテスト、というのは……?」
「簡単に言えば、実際にカメラの前に立っていただいて、表情や短い台詞、立ち姿などを撮りながら、どう映るかや指示への反応を確認するテストです」
短い台詞。
立ったり座ったりする動作。
写真と、いくつかの感情表現。
内容の説明を聞きながら、私はノートへ書き込んだ。
私が書き込んでいる間に、撮影した映像の扱いも母が確認してくれていた。
女性スタッフは、適性の確認と指導のための内部資料で、勝手に公開するものではないと答えた。
「テストを受けたら、所属しなければいけないということでもありません。結果をご説明してから、また考えていただきます」
私は頷いた。
聞きに来ただけだったはずだ。
ここから先は、実際に確かめることになる。
あの日だけだったと分かるかもしれない。
期待したほどではない、と言われるかもしれない。
怖くないわけではなかった。
それでも、ここまで来て、話だけ聞いて帰る方が嫌だった。
「受けてみたいです」
両親を見る。
母が、小さく頷いた。
父は終了予定の時間を、もう一度確認していた。
そこからの父と母の確認は、あまり頭に入ってこなかった。
————
金曜日の放課後、私は駅で母と合流した。
向かったのは、本社とは別の、レッスンや撮影に使う施設だった。
事前に聞いていたとおり、持ってきた無地の服へ着替える。
学校の鞄を椅子の横に置いて、母と一緒に説明を受けた。
部屋には、背景用の布と照明、カメラがあった。
机の上にはモニター。
床には、立つ位置を示すテープが貼られている。
土曜日にも見たものなのに、今日は少し違って見えた。
主人公も、その友達も、いない。
照明を向けられるのは、私だけだった。
「前半はこちらで基本的な撮影をして、後半は三枝にも表情を見てもらいます」
新人担当の人が言った。
「その、三枝さん、というのは……?」
「三枝朱里という、外部のカメラ表現のトレーナーです。弊所の俳優やモデル、アイドルの指導をお願いしています」
外部。
わざわざ、そのために来てもらう人がいる。
まだ所属するかどうかも分からない高校生を、少し撮ってみるだけだと思っていた。
どうやら、向こうは私よりずっと真剣に、私のことを確かめるつもりらしい。
母は実技の間、別室のモニターで見学することになった。
「終わったら、また一緒にお話をさせていただきます」
「分かりました。よろしくお願いします」
女性スタッフの説明に、母が頷く。
私も一緒に頭を下げた。
母が部屋を出ていって、ドアが閉まる。
急に、床のテープが気になった。
ここに立つ。
ここを見る。
言われたことをする。
それだけのはずだった。
最初は、正面と横向きの立ち姿を撮った。
次に、少し歩いて止まる。
椅子に座り、顔を上げる。
歩くのも座るのも、普段からやっている。
なのに、止まる位置を気にしたら、足元を見てしまった。
「止まる位置は多少ずれても大丈夫です。まずは顔を上げたまま来てください」
「はい」
やり直す。
今度は止まれた。
ただ、何もしないで立っていると、手をどこへ置けばいいのか分からなくなる。
両腕を自然に下ろすだけ。
その自然が、妙に難しかった。
自己紹介も撮った。
「白瀬真琴です。十六歳、高校二年生です。よろしくお願いします」
言い終えてから、軽く頭を下げる。
モニターで見せてもらうと、思っていたより声が硬かった。
自分の声を録音で聞くのは、あまり好きではない。
顔は私なのに、やけに他人行儀な私が映っている。
そのあと、短い台詞を読んだ。
意味は分かる。
でも、間違えないようにしようとすると、覚えた文章を順番に言っている感じになった。
「今は上手に読もうとしなくて大丈夫です。相手の言葉を聞いてから、返してみましょう」
そう言われて、もう一度。
少しよくなった気はした。
ただ、これを得意だとは、とても言えなかった。
やっぱり、何でもできるわけではない。
そんな当たり前のことを確かめていたところで、ドアが開いた。
背筋の伸びた女性が入ってくる。
担当の人と短く言葉を交わしてから、こちらへ向いた。
「三枝です。よろしくお願いします」
「白瀬真琴です。よろしくお願いします」
三枝さんはモニターの前に座り、前半に撮った映像をいくつか見た。
早送りするところと、戻して見るところがある。
違いは分からない。
何を見ているのか気になりながらも、それを立って待っていた。
「白瀬さん、椅子に座ってみて」
名前を呼ばれて、背筋が伸びる。
「カメラは気にしなくていいから、そこのスタッフを見て」
「はい」
「このまま、表情の変化を意識して撮っていきます。待ち合わせをしていた友達が来た。会うのを楽しみにしてた相手。まず、嬉しいところをやってみましょう。こんにちはって言って声を掛けてみて。その後表情を変えるタイミングを指示します」
それなら、分かる。
相手が来たのに気づく。
少し顔を上げる。
視線が合って、口元が緩む。
「こんにちは」
短く声をかけたところで、三枝さんが頷いた。
「はい。じゃあ、今の笑顔のまま、少し困ってみて」
「困る?」
「会えたのは嬉しい。でも、その人がこのあと一緒に行こうと言った場所には、今日は行きたくない」
「断りたい、ですか」
「うん。でも、会いたくなかったとは思わせたくない」
なるほど。
笑顔をなくすと、相手に会ったことまで嫌だったように見えてしまう。
だから、最初に笑ったところは変えない。
誘われてから、少しだけ止まる。
返事をする前に、息を吸う。
口元は戻しきらない。
「……今日?」
そう言って、相手の顔を見た。
「はい。間を短くして、もう一度」
間だけ調整して、同じことをした。
次には、断るのをやめて、付き合おうと決めるところまで。
三枝さんは、そのたびに映像を戻した。
「今、何を変えた?」
「返事をする前に、相手を見るようにしました」
「どうして?」
「自分の予定を考えてるんじゃなくて、相手がどう思うかを気にしてるように見えるかなって」
三枝さんが、こちらを見た。
私は少し迷ってから付け加えた。
「……その、そう見えるかは、分からないですけど」
「うん、大丈夫。見えてるよ」
その一言で、胸が軽くなった。
「じゃあ、次」
三枝さんが姿勢を変える。
「目の前の人は、白瀬さんを心配してる。あなたは、その人には大丈夫だと思ってもらいたい。でも、本当は強がりで、全然大丈夫じゃない」
私は頷いた。
「台詞は、『大丈夫。気にしないで』。まず、やってみようか」
少しだけ考える。
相手を安心させたいなら、返事を待たせすぎない方がいい。
ずっと俯いていてもいけない。
目を見る。笑う。
声を、普段より暗くしない。
そこまでは、すぐに分かった。
「大丈夫。気にしないで」
口にしてから、短く息を吸った。
笑顔を残したまま、視線を外す。
唇の力が戻る前に、もう一度、相手を見る。
「はい」
三枝さんの声で、表情を戻した。
カメラの向こうで、担当の人がモニターへ少し身を寄せる。
何か、違っただろうか。
「今の、もう一度できる?」
「はい」
「同じくらいで」
「分かりました」
全く同じことをする。
三枝さんは、しばらくその映像を見ていた。
「次は、目の前の相手には、本当に信じてもらおう。今より、ちゃんと安心させて」
「悲しい感じを減らすんですか?」
「相手に見せる分はね。ただ、第三者視点で見ている人には、何か我慢してることが少し残ってほしい」
何となく、分かる。
さっきは、目を外すのが少し早かった。
あれでは、返事から逃げたように見える。
相手が納得するまで、顔を見ていればいい。
それから、自分へ注意が向かなくなったところで、少しだけ息を抜く。
「……やってみます」
今度は、笑ったまま少し長く待った。
相手を見て頷く。
それから目を伏せる。
その瞬間だけ、口元の力を弱めた。
「はい、そこまで」
何がよかったのか、すぐには言われなかった。
三枝さんは担当の人へ顔を向ける。
「これ、事前に練習してもらってます?」
「いえ。今日が初めてです」
「この前したという撮影以外は?」
「経験はないと伺っています」
私は黙っていた。
聞かれれば、そう答えるしかない。
誰かに習ったことはない。
演技の練習として、やったこともない。
ただ、どんな顔、表情、振る舞いなら相手がどう受け取るかを、考えたことがあるだけだ。
何度も。ずいぶん前から。……ずっと前から。
「少し休憩にしようか」
三枝さんがこちらへ言った。
私は頷いて、椅子から立った。
————
休憩のあとも、いくつか撮った。
同じ台詞でも、状況が変わると見え方が変わった。
途中で、別のことを考えすぎて、相手の台詞を聞き逃したりもした。
「今、顔を先に決めたでしょう」
「……はい」
「まず聞いて。返事は、そのあと」
三枝さんに言われ、やり直す。
できることと、できないことが、交互に出てきた。
最後に、少し前に撮った表情をもう一度やった。
三枝さんが二つの映像を見比べて、何かを書き留める。
「今日はここまで。お疲れさま」
その声を聞いたときには、学校で授業を受けたあととは違う疲れ方をしていた。
母が部屋へ戻ってきた。
「お疲れさま」
「うん」
母は隣に座ると、私の顔を見てから、前のモニターへ目を向けた。
母がいつもより少し静かだったけど、私はこれから何を言われるのかの方が気になっていた。
三枝さんが説明しながら順に映像が再生されていく。
待ち合わせの相手を見つけた私。
笑ったまま、誘いに困る私。
大丈夫だと言っている私。
全部、自分がやったことだった。
でも、続けて見ると、少し不思議だった。
その場では、目を動かすことや、返事をする間を考えていた。
画面の中では、それが別々の事情を持っている人のように見える。
「私が特に評価しているのは、ここです」
三枝さんが映像を止めた。
「相手からどう見えれば安心してもらえるかを、先に作っている。そのうえで、隠している感情をどのくらい漏らすか、調整までできている」
モニターの中の私は、まだ笑っていた。
「ただ悲しい顔をして、と言われて悲しい顔をするのとは違うんです。目の前の相手には隠したい。でも、カメラを通して見ているこちらには伝えたい。その二つを、同時に扱ってる」
母の膝の上で、指が組み直された。
三枝さんは映像を進めた。
「しかも、指示を変えたら、必要なところを変えられる。別の課題を挟んでも戻せる。こちらの説明を理解して、画面に出せています」
私は、モニターから目を離せなかった。
「……それは、珍しいことなんですか」
自分で聞いてから、少し恥ずかしくなった。
褒めてほしいと、言っているようなものだ。
でも、聞かずにはいられなかった。
三枝さんは、私へ向き直った。
「未経験でこれだけ細かく扱える人は、とても珍しい。才能はあると思います」
また、その言葉だった。
「カメラの前で、感情を伝えることについて。そこは、はっきり評価します」
顔が熱くなった。
私は一度頷いて、それから、もう一度頷いた。
「……ありがとうございます」
それしか言えなかった。
本当は、もっと聞きたかった。
どこまでできるのか。
どれくらいなのか。
プロのトレーナーが、わざわざ時間を取って確かめるほどのものなのか。
だけど、次々に聞いたら、欲しがっていることが全部見えてしまいそうだった。
「普通は演技の練習を重ねて身につけていくようなことが、専門的な指導を受ける前からできている。それは明確な強みです」
私は小さく息を吐いた。
どこから来たのかを、説明しなくてもいい。
できたものを見て、それが何なのかを言ってもらえる。
それだけのことが、思っていたよりずっと楽だった。
「もちろん、今日だけで全部できると判断したわけではありません。発声や台詞、動作と一緒になったときの自然さは、これから練習する必要があります」
「はい」
「表情を考える方へ意識が行きすぎると、相手を聞けなくなることもある。そこも見ていきたいです」
足りないところを言われても、さっきの言葉が消えるわけではなかった。
むしろ、何をすればいいのか、少し形が見えた気がした。
新人担当の人が、薄い資料を机へ置いた。
「今後についてですが、弊所としては、将来的な所属も含めて、この才能をもう少し育成・確認させていただきたいと考えています。ですが、正式所属を急いで決める必要はありません。そこで提案なのですが、新人向けの体験レッスンへ何度か参加していただくという形はどうでしょうか」
「それは、どのような形になるんですか?」
「資料を見ながら説明しましょう。まずは——」
目の前の資料に視線を落とす。
演技の基礎。
声の出し方。
身体の動かし方。
学校の日程を確認しながら、無理のない回数で試す。
その間に、私自身が続けたいと思うかどうかも考える。
「今回は弊社からお声がけした形ですので、体験レッスンにかかる費用はいただきません。映像の扱いや、途中で参加をやめたい場合の連絡方法なども資料に記載していますので、持ち帰ってご確認ください。今この場でご判断いただく必要はありません。ご家族で内容をご確認いただいたうえで、お返事をいただければと思います」
会って話を聞く。
カメラの前で、もう一度やってみる。
そこまで来ても、まだ終わりではなかった。
次にできることが、目の前へ置かれている。
「受けてみたいです」
考えるより先に、言っていた。
担当の人が私を見る。
母もこちらを向いた。
「所属するかどうかは、まだ分からないんですけど」
そこは、ちゃんと言っておきたかった。
芸能人になりたいかと聞かれたら、今もすぐには答えられない。
人に見られる仕事が怖くなくなったわけでもない。
「でも、もう少し、やってみたいです。何ができるのか、自分でも知りたいので」
母が、しばらく私を見ていた。
それから、頷いた。
「じゃあ、お父さんとも内容を確認して、日程を相談しましょう」
「うん」
断られなかったことより、次があることが嬉しかった。
そう思ってから、少しだけ怖くなる。
私はもう、褒めてもらった言葉を持って帰るだけでは、足りなくなっていた。
————
帰りの電車で、母はしばらく資料を読んでいた。
私は窓の方を向いていた。
暗くなった外の景色に、ときどき自分の顔が重なる。
三枝さんに言われたことが、頭の中を何度も回っていた。
返事より先に顔を決めない。
相手を聞く。変える場所と、残す場所。
それから、才能がある、という言葉。
「疲れた?」
母に聞かれて、顔を向ける。
「……うん。結構」
「そうでしょうね」
母は資料を閉じた。
「嫌だったことは?」
「うーん……」
少し考える。
「自分の声を聞くのは、変な感じがした」
「録音の声って、そうよね」
「あと、普通に立ってって言われると、手持ち無沙汰になる」
「手が?」
「いつも、どこに置いてるんだろうって」
母が少し笑った。
私も笑った。
それから、何でもないように続けようとして、あまりうまくいかなかった。
「でも、言われたところだけ変えられるのがいいって」
「うん」
「三枝さんも、そこを見てたって」
「うん。聞いてたよ」
そうだった。
母も見ていた。
分かっているのに、話したかった。
母は、それを指摘しなかった。
「嬉しかった?」
「……うん」
今度は、ごまかさなかった。
少し照れくさくて、窓へ目を戻す。
映っていた自分は、ちゃんと嬉しそうだった。
何も調整していないのに。
家へ帰ると、父にどうだったと聞かれた。
私はレッスンを試してみたいことを伝え、母が持ち帰った資料を渡した。
父は仕事の鞄を置いてから、椅子に座って読み始めた。
いつもの家だった。
夕食を食べて、風呂に入って、学校の鞄から週末の課題を出す。
机の上には、月曜日に使ったノートが残っていた。
会社名の下に、体験レッスン、と書き足す。
まだ日程は決まっていない。
所属するかどうかも、その先どうなるのかも分からない。
それでも、なぜか少し嬉しかった。
————
真琴が「おやすみ」と言って自室へ戻ったあとも、リビングの明かりはついていた。
時計は、十一時を過ぎていた。
白瀬紗江は、冷めかけたお茶の入った湯飲みを両手で持っていた。
向かいでは、夫の和彦がFOLIOの資料を読み終え、机へ置いたところだった。
「帰ってから、ずっとあの話をしてたな」
「電車でも」
「珍しいな」
「うん」
娘は、同じことを何度も話していた。
三枝という先生に何を言われたか。
どこをよいと評価されたか。
次には何を練習するのか。
自分でも同じ話をしていると気づいているのだろう。
途中で言葉を切ったり、別の話へ移ろうとしたりしていた。
それでも、また戻ってきた。
あんなに分かりやすく嬉しそうな娘を、久しぶりに見た気がした。
「実際に見て、どうだった?」
紗江は湯飲みへ目を落とした。
それは、帰り道からずっと、夫に話そうと思っていたことだった。
「……本当にあったの。才能」
「そうか」
「私、正直、分からなかったの。あの子が可愛く見えるのなんて、親だから当たり前だし。写真を撮ったら、それなりにきれいに映ることもあるでしょう?」
和彦は黙って聞いていた。
「でも、そういうことじゃなかった。同じ服を着て、同じ椅子に座って、同じ言葉を言ってるのに、全然違って見えた」
表情が大きく変わるわけではない。
それでも、指示一つで調整して、見ている側の受け取り方が変わる。
専門的なことは分からなかった。
説明を受けるまで、何が変わったのか言葉にはできなかった。
ただ、変わったことだけは分かった。
「あれを仕事にしてる人たちが、真琴に何かあるって言う理由は、分かった」
紗江はそこで口を閉じた。
和彦が、少し待ってから聞く。
「それだけじゃなかったのか?」
「上手だった理由が、少し分かっちゃって……」
夫の表情が変わる。
「どういうことだ?」
紗江は、モニターに映った娘の顔を思い出した。
心配している相手に、大丈夫だと思わせたい。
でも、本当は全然大丈夫ではない。
そう言われた娘は、少し考えただけで顔を上げた。
『大丈夫。気にしないで』
その瞬間、紗江は椅子の背から身体を離していた。
何も言われていないのに。
止めなければいけないことが起きたわけでもないのに。
ただ、知っていた。
あの顔を、知っていた。
「『大丈夫なふりをして』って言われたときの顔、中学の頃と同じだったの」
和彦は動かなかった。
「帰ってきて、今日はどうだったって聞いたとき。学校のことで話をしたあとに、もう平気だからって言ったとき」
紗江は、一度息を吸った。
「ちゃんと、こっちを見るの。笑って、少し早めに返事をして。あの頃も、そうだった」
当時は、それを回復の兆しだと思った。
目を見て話せる。
食事をしている。
明日の準備も、自分でしている。
少しずつ、元に戻っているのだと。
それが間違いだったことも、あとから分かった。
娘が大丈夫と言った日にも、大丈夫ではなかったことがあった。
それでも、今日、画面で見るまで分からなかった。
娘は、ただ我慢していたのではない。
我慢していることが、どのくらいなら相手に見えないかを考えていた。
「三枝さん……トレーナーの方が言ってた。真琴は、自分がどう感じてるかより先に、相手からどう見えれば安心してもらえるかを作ってるって」
「いじめられないために、か」
「それも、あると思う」
紗江は頷いた。
「気にしてない顔をしなきゃとか、変に思われないようにしなきゃとか。……私たちに、心配させないようにとか」
最後の言葉を口にするのが、一番苦しかった。
「全部がそうだとは思わないの。あの子が元から持っていたものだってあるでしょうし、私たちが知らないこともあると思う。でも、あの頃、何度も使ってたものだと思うと……」
何度も使ううちに、上手くなった部分もあるのかもしれない。
今日、専門家が才能と呼んだものに、あの頃の娘の顔が重なっていた。
娘は嬉しそうだった。
自分も嬉しかった。
本当に、嬉しかった。
だからといって、あの頃につらい思いをしたことまで、よかったことにはできなかった。
「あんなに上手にできなくても、よかったのに」
声が小さくなった。
学校から帰ってきたら、つらかったと言えばよかった。
返事ができなければ、しなくてもよかった。
食事が進まない日があっても、笑えない日があってもよかった。
そう思ったあとで、それを言いやすくできていただろうか、と考えた。
「私、手がかからない子だって、思ってた」
和彦が目を伏せた。
「俺もだよ」
「しっかりしてるから。自分で考えて、ちゃんとやれるから」
実際、娘はよく考える子だった。
約束を守り、人のことを気にかけ、自分にできることをする。
それは、今も変わらない。
ただ、その中に、別のものまで混ぜて見ていたのかもしれなかった。
「手がかからなかったんじゃなくて、かけないようにしてたところも、あったんだと思う」
和彦は、しばらく何も言わなかった。
やがて、資料の表紙を指先で揃えた。
「今さら、分かってなかったって言ったら、真琴はこっちを慰めそうだな」
紗江は頷いた。
きっと、そうする。
大丈夫だよ。気にしてないよ。
今は、もう何ともないから。
今日、画面で見た言葉を、今度は自分たちのために使わせることになる。
それは、嫌だった。
「今日、あの子が嬉しかったことは、そのまま嬉しかったことにしてあげたい」
紗江は言った。
「私がこんなふうに思ったからって、あの子まで、喜んじゃいけなかったみたいにしたくない」
「そうだな」
「でも、もう、言わないから大丈夫なんだって、それだけで済ませたくない」
和彦が、顔を上げた。
「ただ、これから大丈夫って言うたびに、疑うのも違うだろう」
「うん。それも、したくない」
笑うたびに、本当はつらいのではないかと考える。
何かを断るたびに、本音を隠しているのではないかと聞き返す。
そうなれば、娘は家でまで、自分の顔を気にしなければならなくなる。
紗江が変えたいのは、そういうことではなかった。
「困ったら言って、だけじゃなくて。こっちからも、できることを一つ言おうと思う」
「迎えとか?」
「うん。帰り、駅まで迎えに行けるよ、とか。断られたら、それでいいの。でも、一度断ったから、あとでは頼めないって思わなくて済むように」
和彦はゆっくり頷いた。
「そうだな。俺も、出来る限り気にかけるようにする。——真琴がここまで何かをやりたいなんていうの、初めてだもんな」
「ええ」
少し間が空いた。
紗江は、閉じられた資料へ目を向けた。
今すぐ、娘に答えを出させる必要はない。
今日できたこと。
これからできるようになりたいこと。
やってみたら、好きではなかったこと。
それぞれを、違うものとして話してくれればいい。
その途中で、気持ちが変わることもあるだろう。
紗江は湯飲みを持ち上げ、冷めたお茶を一口飲んだ。
明日は、真琴の誕生日だった。
十七歳になる。
あの子はしっかりしているから、と言えば、ずいぶん多くのことを任せられてしまう。
実際、任せればやってしまうのだろう。
でも、十七歳になる娘には、まだ親を使っていいのだと知っていてほしかった。
和彦が資料を封筒へ戻した。
「次の帰りは、迎えがいるか聞いてみる」
「うん」
紗江は頷いてから、一つだけ付け加えた。
「大丈夫って言われても、あとから変えていいって、伝えてね」
「ああ」
娘の部屋は静かだった。
ノックをして何かを聞き出すつもりもなかった。
今日のことを全部話させる必要もない。
ただ、次に娘が「やっぱりお願い」と言ったときには、理由を説明しきるまで待たせずに、動こうと思った。