TS少女は演じたい 作:息抜き
楽屋の扉には、公演名と、五人のグループ名が印刷された紙が貼られていた。
早川さんがノックをしてから、扉を開ける。
「白瀬さん、到着しました」
その後ろから顔を出すと、鏡の前にいた美月さんが振り向いた。
「おはよう、真琴ちゃん」
「おはようございます。今日は、よろしくお願いします」
頭を下げると、五人から返事が返ってきた。
まだ、誰も本番の衣装を着ていなかった。
夏希さんは練習用の靴を履いているところで、雨宮さんは机へ水筒を置いていた。
神谷さんの前には、開いたファイルがある。
小日向さんは鞄からポーチを出し、使うものを分けていた。
いつものレッスン前と、少し似ている。
ただ、壁際には衣装を掛けたラックがあり、鏡の周りには化粧道具が並んでいた。
その間でも、スタッフの人たちが何かを運び、確かめている。
「真琴、朝、ちゃんと起きられた?」
靴紐を結び終えた夏希さんに聞かれた。
「はい。目覚ましが鳴る前に起きました」
「楽しみで?」
美月さんがこちらを見る。
「……遅れたら大変だなと思って」
「そっちか」
笑われて、私も少し笑った。
楽しみではあった。
でも、寝る前に何度もアラームを確認した理由は、そちらだった。
早川さんに示された椅子へ荷物を置くと、神谷さんがファイルを少し持ち上げた。
「早川さん、昨日確認した曲のつなぎは、音合わせの後ですよね」
「はい。まず音を確認してから、出入りと変更箇所を見ます。舞台側の準備ができたら呼ばれますので、それまでは予定どおりお願いします」
五人が頷いた。
私にも、今日の流れが書かれた紙が渡された。
リハーサル、食事、ヘアメイク、着替え。
本番の開始時刻は、だいぶ下にあった。
————
舞台へ向かう途中で、案内をしてくれるスタッフの人を紹介された。
早川さんが五人について動いている間は、その人の指示で移動する。
一緒についていくところと、私だけ残って待つところがある。
説明を聞きながら扉を通ると、低い音が足元まで伝わってきた。
黒い幕の間から、先を見る。
「……広い」
思わず、声が出た。
まず床に並ぶ大量の椅子が目に入り、その先にも横にも、段になった席がある。
客席の中を歩いているスタッフの人が、小さかった。
顔が分からないくらい遠くにいるのに、その後ろにもまだ席が続いている。
あそこまで、人が座る。
八千席という数を知っていても、目の前にすると、うまく数につながらなかった。
「本番は、こちらから見てもらいます」
呼ばれて、慌てて目を戻した。
示されたのは、舞台へ出る通路から少し外れた、幕の内側だった。
中央とこちら側の手前は見える。
反対側の端は、舞台装置に隠れていた。
少し奥に、確認用の画面が二つある。
正面から全体を映したものと、会場の大きな画面へ送る映像を確認するためのものだった。
「見えないところは、こちらの映像で。出入りする場所は空けておいてくださいね」
「はい」
五人は、スタッフの人たちへ挨拶をしてから舞台へ上がった。
マイクを受け取る。
耳にイヤホンを入れ、腰に小さな機械を留める。
雨宮さんが短く声を出すと、それだけで、広い空間に歌が響いた。
「私の声を、もう少し返してもらえますか」
舞台の横にいる音響の人へ、雨宮さんが言った。
調整された後、同じところをもう一度歌う。
今度は、小さく頷いた。
他の四人も、それぞれ声を出した。
伴奏と合わせ、五人で重ねて確かめる。
五人の耳へ返している音は、客席へ出す音とは別に調整しているのだと、案内の人が教えてくれた。
その後は、出入りと立ち位置の確認だった。
五人が床の印へ入る。
後ろの一段高い場所へ上がり、階段を降りて、横へ広がった。
「ここ、もう一度お願いします。美月が通るところから」
小日向さんが言うと、曲が少し前へ戻った。
美月さんが前を通る。
小日向さんがその後ろを降り、次の列へ入る。
顔を上げた時には、マイクも口元へ戻っていた。
そのまま歌が始まる。
私なら、階段を降りることを考えたところで、次の準備が遅れそうだった。
でも、五人は違った。
細かく止めて確かめていたものが、音楽と一緒につながると、ただ自然に移動したように見える。
途中で照明の調整を待つことになり、五人がいったん袖へ戻ってきた。
夏希さんが、私の前を通りながら言った。
「どう?近い?」
「そう、ですね。近いです。でも、向こう側が全然見えなくて」
「ああ。横だもんね」
「全員を見ようとすると、すぐ誰かを見失います」
美月さんが笑った。
「本番、もっと忙しいよ」
「これよりですか?」
「お客さんもいるから」
舞台へ顔を戻す。
今はまだ、空席だった。
そこが全部埋まるところを考えると、見るだけの私まで落ち着かなくなった。
————
リハーサルの後は、食事と休憩になった。
私も用意された食事を取り、五人と同じ机についた。
夏希さんが弁当の蓋を開け、美月さんが飲み物を取る。
雨宮さんは、向かいからこちらへ箸を渡してくれた。
「ありがとうございます」
「うん」
受け取ってから、少し迷った。
聞いてみたいことがあった。
「皆さんは、今でも緊張しているんですか?」
神谷さんが顔を上げた。
「してる」
返事は、思っていたより早かった。
「もっと、慣れているのかと思っていました」
「ライブをすること自体には慣れたと思う。でも、これだけのファンに向けてやるのは私たちも初めてだから」
そう答えてから、神谷さんは弁当に目を戻した。
普通に食事をしている。
さっきまで、予定の確認もしていた。
私の見ているところだけでは、緊張しているのかどうか分からなかった。
「私は出る前が一番そわそわするかなー」
美月さんが言った。
「始まっちゃえばお客さんも見えるし。次にやることもあるから、やるぞー!ってなるんだけど」
「私は最初の音が鳴るまで」
夏希さんが続けた。
「鳴っちゃえばあとは踊ってれば気にすることなんてなくなるもんね」
「ダンスだけってわけじゃないけど、そこは分かる」
小日向さんが頷いた。
「ただ、待ってる間もいろいろ考えちゃうよね」
私も頷いた。
レッスンの前でさえ、そういうことがある。
ただ、その後に待っている人数は、全然違う。
「真琴ちゃんも緊張してる?」
「少し。皆さんの邪魔をしないようにと思って」
「さっき、すごく端っこにいたもんね」
「邪魔じゃない場所を教えてもらったので」
「うん。でも、そんなに小さくならなくても大丈夫だよ」
……確かに、なるべく端に行ったり、背中を丸めたりしてどうにか邪魔にならないようにしていた。
夏希さんが、私の弁当を見た。
「それ、卵焼き滅茶苦茶おいしかったよ」
「ほんとですか?」
食べるみると、少し甘くて柔らかくて、確かに美味しかった。
「おいしいです」
「でしょ」
得意そうに言われたので、つい口が動いた。
「今日は、普通においしいのを教えてくれるんですね」
美月さんが吹き出した。
夏希さんが私を見て、それから、ああ、と声を出す。
「……あのグミまだ覚えてるの!?あれおいしそうに見えたから買っただけでわざとじゃないんだって!」
「忘れられる味ではなかったので」
「真琴、結構言うようになったね」
小日向さんが笑っていた。
「また変な味買ってきたんだ」
「ふ、ふふ……あ、悪意はないはずだから」
「あるわけないじゃないですか!!」
神谷さんも口元を押さえ、雨宮さんは二人の顔を順に見てから、小さく笑った。
私も、箸を持ったまま笑ってしまった。
五人は、いつもの五人だった。
食事を終えた後は、椅子へ少し背を預けた。
隣で雨宮さんが、水筒を持って静かにしている。
私も、しばらく何も言わなかった。
「さっきの歌も、綺麗でした」
少しして、そう言った。
雨宮さんがこちらを見る。
「リハーサル?」
「はい。音の確認で、短く歌っていた時も」
「ありがとう」
それから、一度舞台のある方へ目を向けた。
「本番だと、また違って聞こえると思う」
「楽しみです」
「うん」
素直に感想を口にすると、雨宮さんは小さく笑ってくれた。
————
ヘアメイクや着替えの時間だけは、邪魔になったら悪いから楽屋を離れた。
スタッフの人に声をかけられて戻ると、五人はもう本番の衣装になっていた。
髪も、服も、靴も変わっている。
白を基調に、それぞれ違う色が入った衣装。
同じ白でも、襟元や裾の形は少しずつ違っていた。
ラックに掛かっている時には気づかなかった飾りが、身体の向きが変わるたびに光る。
美月さんの高いポニーテールには、オレンジのリボンが結ばれていた。
私に気づいて振り向くと、髪と一緒に、その先が揺れた。
目元も、唇の色も、さっきよりはっきりしている。
ここ一か月で見慣れてきた顔なのに、いつもの雰囲気がアイドルのものに塗り替わっていた。
「……すごい」
思わず言うと、美月さんが笑った。
「まだ始まってないよ」
「分かっているんですけど。……皆さん、すごく綺麗で」
言ってから、ほかの四人にも聞こえたことに気づいた。
夏希さんが嬉しそうに笑い、小日向さんも鏡越しにこちらを見た。
「ありがとう。衣装、近くで見るの初めてだもんね」
美月さんが、少し身体を横へ向けてくれる。
肩から腰へ続く飾りと、後ろへ垂れたリボンが見えた。
「後ろも可愛いんだよ、これ」
「……本当ですね。写真だと、前ばかり見ていました」
「今日はどこから見てもいいよ!」
そう言って、またこちらを向く。
衣装を見ていたはずなのに、結局、笑った顔へ目が戻った。
さっきまで同じ机でお弁当を食べていた人だった。
その時と同じ声なのに、今は、普段どおりに返事をするまで少し時間がかかった。
「じゃあ、始まってからも見ててね」
「はい」
頷くと、美月さんは嬉しそうに笑ってから、鏡へ向き直った。
それから少しずつ、楽屋の会話が減っていった。
神谷さんが進行表を確かめて閉じる。
夏希さんは椅子から立ち、足を踏み替えて靴の収まりを確かめていた。
雨宮さんが水を一口飲み、蓋を閉める音がした。
「皆さん、そろそろ移動をお願いします」
スタッフの人の声に、五人が返事をする。
美月さんも、今度は短く「はい」と答えた。
さっきまで私へ向いていた視線が、扉の方へ移っている。
急に会話がなくなると、何か余計なことを言ったのではないかと考えていたと思う。
でも、私が荷物を取りに動くと、小日向さんは目を合わせて、小さく頷いてくれた。
返事が短くなっただけだった。
今は、それぞれ次のことを考えている。
私は飲み物と必要なものを持ち、案内のスタッフの人のそばへ寄った。
廊下へ出た五人の後ろで、白い衣装の裾が揺れる。
その背中を見ながら、私も袖へ向かった。
————
本番前の袖は、リハーサルの時より暗かった。
幕の向こうを見ると、朝、床に並んでいた椅子が、ほとんど見えなくなっていた。
人がいる。
こちらから見える範囲だけでも、何列も続いている。
段になった席にも、顔と、色のついた光が並んでいた。
話し声が重なって聞こえた。
言葉には分けられない。
時々、笑い声だけが少し高く抜けてくる。
五人が、短く集まった。
美月さんが、小日向さんの手へ触れた。
「ひより先輩の手、冷たいですね」
「美月は温かいね」
少しだけ握り合って、離す。
小日向さんがマイクを持ち直した。
神谷さんが四人の顔を見る。
「今日も最後まで。しっかりやろう」
「「「「おー!」」」」
声が重なった。
五人が、それぞれの待機位置へ移る。
近くのスタッフの人が、無線へ短く返事をした。
客席の明かりが落ちた。
次の瞬間、声が響いて、身体が少し縮こまった。
大きな声を聞いた、というだけではない。
幕の向こう側から、一度に押されるような感じがした。
まだ、五人は出ていない。
確認用のモニターで、公演名の入った映像が始まった。
音楽が鳴り、客席の声が、また大きくなる。
小日向さんは、舞台の方を見ていた。
美月さんの口元には、少し笑みがあった。
スタッフの人の手が動く。
五人が、暗い舞台へ出た。
リハーサルで見た順番だった。
姿が見えにくくなり、次の瞬間、光が入る。
最初の音で、五人の形がはっきりした。
小日向さんが歌い始めた。
知っている、柔らかな声だった。
でも今は、すぐ隣へ置かれる声ではなかった。
伴奏の中から言葉が出てきて、広い会場へ続いていく。
美月さんが受け取り、神谷さんへつながる。
その間にも、夏希さんと雨宮さんの位置が変わっていた。
正面の並びは、モニターで分かった。
舞台へ目を戻すと、今度は、横からしか見えない五人の移動がある。
サビに入ると、客席の光が一際大きく振られて、決まったところへ、客席から声が入った。
「ハイ!ハイ!」
高い声も低い声もある。
少し遅れて聞こえるものもあるのに、大きな一つのリズムになっていた。
五人は、その声に驚いていない。
夏希さんが深く身体を沈め、次の音で前へ出る。
小日向さんと神谷さんが位置を開け、雨宮さんの歌が、その上を通った。
一曲が終わっても、すぐには止まらなかった。
次の前奏が鳴ると、美月さんが客席へ腕を伸ばした。
「上の席も、一緒に楽しもうね!」
向けた先から、返事が来た。
美月さんは、それを待ってから笑った。
「うん、ばっちり聞こえた!ありがとうー!」
その辺りの光が、大きく動いた。
私の位置からは、一人ひとりの顔までは分からない。
でも、今声をかけられて喜んだ人たちがいるのは分かった。
こちらを向いているわけではないのに、美月さんの笑顔を見ると、私まで少し笑ってしまった。
————
最初のMCで、五人が客席へ挨拶をした。
神谷さんは、歓声の上へ急いで言葉を重ねなかった。
客席を見て、少し待つ。
声が落ち着いてから、続きを話す。
その横で、二人が後ろへ下がって水を飲んだ。
全員が一度に黙ることはなかった。
誰かが話し、誰かが飲み物を取り、戻ってきた人が次の話を受け取る。
「もう三曲終わっちゃった」
夏希さんが言った。
「始まったばっかりの気がする」
「実際、始まったばっかりなんだけどね」
「私も。でも、皆さんはもっと早く感じてるかもしれませんね」
神谷さんが客席を見ると、声が上がった。
「じゃあもっとギア上げて楽しんで貰わないと!!」
「最後まであるから、飛ばし過ぎてバテないでよ夏希」
小日向さんの返事に、客席が笑った。
神谷さんも笑っていた。
その間を、美月さんが楽しそうに埋める。
何となく話が続いているようで、五人とも水を飲めていた。
笑いが収まる頃には、次の位置へ動く準備もできている。
「それでは、次の曲へいきましょう」
神谷さんがそう言うと、客席の方も、次の音を待つ空気になった。
小日向さんが、こちら側へ来た。
近くなった分、横から足元がよく見えた。
細かなステップを踏みながら、客席へ顔を向ける。
少し笑って、振りの終わりに指先を小さく動かした。
黄色の光が、いくつか大きく揺れた。
その直後には、もう次の位置へ入っていた。
後ろを美月さんが通っても、振り返って確かめたりしない。
マイクを上げ、決められたところで歌い始める。
誰かへ笑いかける。次の場所へ動く。歌う。
私が一つを考えると、別のことが遅れるものばかりだった。
それを、小日向さんは同じ短い時間の中で続けている。
モニターには、正面の顔が映っていた。
今、どちらの足を出すか考えている顔ではなかった。
見ている人へ、ちゃんと笑っていた。
————
曲が終わり、映像が始まると、五人が袖へ戻ってきた。
夏希さんが、私の少し前を通った。
顔に汗が浮いていた。
口を開け、深く息を吐いている。
美月さんも、戻ってすぐには喋らなかった。
飲み物を受け取り、一口飲む。
小日向さんがタオルで額を押さえ、その横で神谷さんがスタッフへ確認した。
「次の二人は、こちらの出でいいですね」
「はい。準備が済んだら、その位置で待機をお願いします」
返事をして、着替えのための幕の向こうへ入っていく。
私は、通路へ近づかずにモニターを見ていた。
こちらの支度が終わるまで、向こうの時間が止まるわけではない。
少しして、違う衣装になった小日向さんと美月さんが出てきた。
衣装の人が裾を整え、マイクを受け取る。
「ひより先輩、いけます?」
「うん」
二人が顔を見合わせる。
スタッフの合図で、また舞台へ出ていった。
画面に映った美月さんは、もう小日向さんの歌を聞いて笑っていた。
さっきまで、あんなふうに息をしていた人だった。
「真琴」
声がして振り返ると、夏希さんが近くの椅子に座っていた。
次の出番までは、まだ少し時間があるらしい。
耳のイヤホンを外し、タオルを首へ掛けていた。
「見えてる?」
「はい。見えないところは、画面で」
「そっか。……真琴も水飲んだ?」
そこで、自分のボトルを思い出した。
「忘れてました」
「さっきから、ずっと固まってるから。ここ、涼しいとは言えないし、真琴もちゃんと水分取りなよ」
「はい。……見たいところが多くて、つい忘れちゃいます」
飲み物を口にすると、夏希さんが笑った。
「分かる。この後の二人の曲も、滅茶苦茶いいから」
「次ってことは……神谷さんと雨宮さんの?」
「うん。私はここで聴いてる」
夏希さんがモニターへ目を戻したので、私も同じ方を向いた。
小日向さんが長く歌い、美月さんがそれを聞いていた。
普段なら話し続ける方の人が、今は、相手の言葉を待っている。
その顔まで見たくなった。
二人が戻ってきた頃には、神谷さんと雨宮さんが出番の位置にいた。
「お疲れ。次、行ってきます」
「お願いね、玲奈さん」
小日向さんが答える。
美月さんは、水を飲んでから二人へ小さく手を上げた。
入れ替わる。
神谷さんと雨宮さんの声が、舞台から聞こえてきた。
夏希さんは、タオルを膝へ置いて聴いていた。
小日向さんも、モニターへ顔を向ける。
美月さんが椅子に腰を下ろし、小さく息を吐いた。
五人が全員揃っていない時間にも、誰かの歌が、ここへ届いていた。
————
再び五人で踊る曲に戻った時、私は雨宮さんを見ていた。
歌うところだけではない。
その前に、何をしているのかが気になった。
他の四人と一緒に横へ移り、向きを変え、低くした姿勢から起きる。
間奏では夏希さんの後ろを通り、次の位置へ入った。
長い髪が背中へ戻る。
マイクが上がる。
当然のように、いつもと遜色のない、いや、いつも以上の声が出ていた。
最初から、求められている音の高さにいた。
探るように揺れたり、言葉の途中で急に弱くなったりしなかった。
さっきまで、あんなに動いていたのに。
歌う前には、動き方が変わっていた。
四人の動きの中で、雨宮さんの声が前へ出る。
一人で全部をやっているわけではない。
でも、その受け渡されたところでは、自分の声を残していた。
やがて照明が変わり、知っているピアノの音が鳴った。
『雨音のリフレイン』。
私は、モニターへ目を移した。
雨宮さんの額には、汗が残っていた。
その顔で、最初の言葉を歌う。
さっきとは違う、柔らかな声だった。
客席の掛け声が、ほとんどなくなった。
光は消えない。
ただ、その揺れ方が緩やかになる。
歌を、聴いている。
そのことが、袖からでも分かった。
習った四小節が来た。
部分的にとはいっても自分で習ったからこそ、あの曲の要求技術の高さは分かる。
私は、短いフレーズの中で、指摘されたことを実践するだけで精いっぱいだった。
まして、私が勉強するために細分化したものじゃなくて、そのメインボーカルともなればその要求は計り知れない。
しかも、それを踊りながら。
雨宮さんは、あんな細分化した部分だけを上手に終えるために歌っているのではなかった。
前の言葉を受け取り、その先へ続けていた。
顔が、少し変わる。
その変わり目を見逃したくなかった。
声が先だったのか、目元が先だったのか。
だけど、次の言葉が始まると、そちらを聴きたくなった。
確かめている途中で、歌が進んでしまう。
止められない。
動画なら、戻していたかもしれない。
今のところを、もう一度聴くために。
でも今は、続きが聞こえてくる方が嬉しかった。
小日向さんへ歌が渡り、美月さんと夏希さんが受ける。
神谷さんの低い旋律が重なって、また、雨宮さんへ戻った。
声が伸びる。
少しずつ細くなっていく。
気づいたら、息を吸い直した。
いつのまにか、息をどこかで止めていたらしい。
曲が終わりへ向かっているのが分かった。
それを、最後まで聴いていたかった。
声が消えても、伴奏は残った。
その音が終わる頃、拍手が広がった。
名前を呼ぶ声も聞こえる。
雨宮さんが顔を上げ、少し笑って頭を下げた。
私は、そこでようやく手を動かした。
————
その後も曲は続いた。
歌い方が変わる。
並びが変わる。
静かに聴いていた客席が、次には大きな声を返す。
最初は、自分が教わったことと結びつけながら見ようとしていた。
だけど今は、気づいたことを整理するために頭の中で文章にしようとすると、その間に次を見逃す。
それが嫌になっていた。
美月さんが顔を上げる。
小日向さんが笑う。
神谷さんの声へ雨宮さんが重なり、その前を夏希さんが動く。
見るだけでも忙しかった。
ライブの終わりが近いことを、神谷さんの言葉で知った。
そんなに時間が経っていたのかと思った。
でも、映像の間に袖へ戻ってきた五人を見ると、それだけ経っていたのだと実感した。
最初より、明らかに言葉が少なかった。
水を飲み、タオルを当てる。
夏希さんも、しばらく深く呼吸をしていた。
「夏希、次の入り、私が先ね」
小日向さんが言った。
「うん。その後」
短く答えて、夏希さんが身体を起こした。
イヤホンを戻し、舞台へ向く。
少し後、その人が、また大きく動いていた。
速く進んで、止まる。
止まった形を見せたと思うと、次の音で向きが変わる。
最初に見た時と同じように、止まるところが見えた。
汗をかいている。
疲れていないはずがない。
それでも、大きく動いた後の足が、次の場所を探してはいなかった。
四人も同じところで止まり、五人で動き直す。
同時に、客席から声が上がった。
一人ずつなら、何が得意かは知っていた。
でも、知っていたのは、こんな時間の中で、それを続ける五人ではなかった。
————
本編が終わって五人が戻ってきても、客席の声は続いていた。
「アンコール!」
別のところからも重なる。
少しずつ速さが揃い、繰り返しになる。
五人の姿がなくなっても、あの人たちは、まだ五人を呼んでいた。
美月さんが、その声を聞いて笑った。
「まだ呼んでくれてる」
「うん」
雨宮さんが頷いた。
衣装を替え、マイクを受け取り、五人が並ぶ。
神谷さんが四人を見た。
「最後まで、しっかりやろう」
スタッフの合図で、また舞台へ出た。
歓声が大きくなった。
戻ってきたことを、喜んでいる声だった。
最後の曲では、大きな動きがなくても目を離したくなかった。
五人が、客席のあちこちへ歌を渡す。
私が一緒に休憩していた人たちのはずだった。
お菓子の味で変な顔をして。
弁当を食べながら笑って。
何も話さず、隣で水を飲んでいた。
その五人が、これだけの人数と、二時間近い時間を過ごしていた。
正面のモニターで、五人が手をつなぎ、頭を下げるところを見た。
私は拍手をした。
今度は、遅れなかった。
————
最後に五人が袖へ戻ってきた時、私も「お疲れさまでした」と言った。
スタッフの人たちの声と重なったので、聞こえたかは分からなかった。
五人はまず、マイクや機材を返した。
タオルを受け取り、飲み物を持つ。
少し落ち着いてから、美月さんがこちらへ顔を向けた。
「真琴ちゃん、どうだった?」
言いたいことは、たくさんあったはずだった。
でも、どれから話せばいいか分からない。
「……すごかったです」
夏希さんが笑った。
「よかった」
「本当に、すごくて。途中から、何を勉強しようとか、考えられなくなりました」
そこで少し困った。
見学なのに、それでよかったのだろうか。
「次を見逃したくなくて、ずっと見ていました」
美月さんの目元が緩んだ。
「それが一番嬉しいかも!それだけ夢中になってくれてたってことだよね!」
雨宮さんとも目が合った。
「歌も、聴けた?」
「はい」
今度は、すぐに頷いた。
「レッスンでやったところが来た時、最初は、分かると思ったんです。でも、そこだけ聴いていられなくなって」
雨宮さんは、少しの間こちらを見ていた。
それから、小さく笑った。
「そっか。ありがとう」
小日向さんがタオルを持ち直した。
「袖からの見学だと、忙しかったでしょ」
「はい。目が足りなかったです。歌ってる人もいるのに、こっちで準備してる人もいて……ずっと翻弄されっぱなしでした」
「あはは!流石に目は増やせないね!」
神谷さんが笑った。
私もつられて笑う。
ついさっきまで、あんなに遠く見えた人たちだった。
今はまた、同じところで笑っている。
でも、今日見る前と同じには、戻らなかった。
その日は長い振り返りをせず、手配されていた滞在用の部屋へ移った。
母へ到着を連絡し、お風呂に入って、明日の支度をする。
ベッドへ入っても、しばらく五人の姿が浮かんだ。
明日も、もう一度見られる。
そのことが、素直に嬉しかった。
————
翌日は、五人の準備に加えて、物販の様子も見せてもらった。
商品を種類ごとに分け、数を確かめる人。
事前に注文されたものを渡す人。
その場で購入するお客さんを案内する人。
販売が始まると、袋を受け取った人が隣の人へ中身を見せ、二人で笑っていた。
私も、買い物をしてよい時間をもらい、列へ並んだ。
五人分のアクリルスタンドと、パンフレット。
会計は、買おうと思っていた一公演分のチケットより高くなった。
少し迷ったけれど、そこから誰か一人をやめるつもりにもなれなかった。
楽屋へ戻ると、美月さんが袋に気づいた。
「買ってくれたの?」
「はい。アクリルスタンドを、五人分」
夏希さんが顔を上げた。
「全員?じゃあ真琴の部屋の結構なスペースを私たちが占有しちゃうね」
「私たちもサンプルとかでもらってるけど、あれ結構場所とるよ。置くところ、空けておかないとね」
小日向さんに言われて、自分の机を思い出した。
「……帰ったら、確保します」
正直に答えると、三人が笑った。
その後も五人は、昨日と同じように声を出し、音を確かめていた。
うまくいったところも、昨日気になったところも、今日の舞台でもう一度確認する。
配信へ向けた挨拶の流れも合わせていた。
私は、その準備が一段落したところで、早川さんに呼ばれた。
「今日の本番は、客席側から見てもらいます」
「客席から、ですか?」
「はい。一般のお客様の席に近い、関係者用の席です。昨日見た準備が、正面からはどう届くのかを感じてほしいので」
頷くと、公演名の入ったペンライトを渡された。
「こちらも使ってください。そのまま持ち帰ってもらって構いません」
「ありがとうございます」
操作を教えてもらい、ボタンを押す。
黄色から、オレンジ。
青、紫、緑。
一つで、五人の色に切り替わった。
「どの色にしていたらいいんでしょうか」
「好きな色で大丈夫ですよ。途中で変えても、そのままでも」
昨日、客席で揺れていた光が、今は自分の手の中にあった。
————
案内された関係者席は、普通の客席の一角だった。
通路を挟んだすぐ隣で、お客さんがタオルを広げている。
前の列からは、今日を楽しみにしていたという話が聞こえた。
私はペンライトのストラップを手首へ通し、舞台を見た。
前世でも、アイドルや歌手のライブへ行ったことは、たぶんなかった。
昔のことを何もかも覚えているわけではないから、一度もないとは言い切れない。
ただ、誰かの歌を聴くために会場へ出かけて、こうして開演を待った記憶は、思い当たらなかった。
ペンライトを振ったり、舞台へ向かって声を出したりする感覚にも、覚えがない。
画面の中で、そういうことをしている人たちなら見ていた。
昨日も、客席からの声援も聞いた。
でも、今日は、その人たちの中に自分が座っている。
私はペンライトを持ち直した。
どのくらい腕を動かせばいいのか、そんなことから分からない。
前の人生の記憶があっても、知らないことには普通に戸惑ってしまう。
舞台は、昨日より遠い。
でも、左右の端まで、一度に見える。
照明が入り、五人が動き出すと、その違いはもっとはっきりした。
袖では一人が横へ移ったように見えたところで、正面では、次に歌う人の姿が開いた。
顔をよく見たくなると大きな画面へ目が向き、五人が揃って動くと、また舞台へ戻る。
音も、昨日とは違って届いてきた。
袖で聞いていた響きとは違い、歌と伴奏が一緒になって、目の前の五人につながっていた。
そして、歓声が近かった。
昨日は向こうから来た声が、今日は横からも後ろからも聞こえる。
「スタンドの皆さんも、楽しんでる?」
美月さんが、こちら側へ腕を伸ばした。
周りから返事が上がる。
私も、少し遅れて声を出した。
美月さんが笑った。
「ありがとう!皆の声もこっちまでちゃんと届いてるよ!」
私だけに言ったわけではない。
そう分かっているのに、自分への返事として受け取ってしまった。
こっちの方を見るだけで、目が合ったと感じてしまった。
口元が、勝手に緩んでいた。
こういうことで、嬉しくなるんだ。
そう思っている間にも、もう一度こちらを見てほしくなっていた。
さっきまでは、腕をどれくらい動かすかさえ気にしていたのに。
ペンライトを、もう一度上げる。
昨日は、呼びかけられた客席の光が動くところを見ていた。
今日は、私の手元が動いていた。
曲順を知っていても、次の前奏が鳴るのは嬉しかった。
MCでは昨日と違うところで笑いが起こり、私も一緒に笑った。
静かな歌では、周りの人と同じように、手を止めて聴いていた。
袖の中は見えなかった。
今頃、次の支度をしているのだろう。
そう考えることはあっても、目の前の歌が始まると、そちらへ気持ちが戻った。
あの慌ただしさを知っているのに、今日は、続きを楽しみに待っている。
アンコールを呼ぶ声にも、小さく加わった。
一度声を出すと、次は、少し言いやすくなった。
知らない人と同じ言葉を繰り返しているのに、思っていたほど照れくさくない。
もう一度五人に出てきてほしくて、私も呼んでいた。
最後に五人が頭を下げた時には、ペンライトを握ったまま、何度も拍手をしていた。
二度目なら、少し落ち着いて見られるかと思っていた。
そうでもなかった。
前世の記憶まで持っていても、知らない楽しさは、まだこんなところにあった。
もっと早く来てみてもよかったのかもしれない。
ただ、別の誰かのライブでも、同じように声を出していたかは分からなかった。
今、私がもう一度見たいと思っているのは、この五人だった。
終演後、五人へ短くお礼を伝えた時には、すごかった、より先に言葉が出た。
「すごく……とても、楽しかったです。声も、出してしまいました」
「こっちからもちゃんと見えてたよ。ステージから近い席って、表情まで結構見えるんだから」
「……そ、そういわれると、なんか恥ずかしくなりますね」
美月さんが笑った。
その顔を見ると、私もまた笑ってしまった。
————
自宅へ帰り、明日の学校の支度を済ませてから、物販の袋を机へ置いた。
積んでいた問題集を移す。
パンフレットを取り出し、その隣へ五人分のアクリルスタンドを並べた。
一つずつ袋を開け、本体を台座へ差し込む。
向きを少しずつ直して、五人がこちらを向くようにした。
指を離すと、部屋が静かになった。
ついさっきまで、周りには大勢の人がいた。
同じ歌を聴いて、同じところで笑い、声を返していた。
今は、廊下の向こうで母が動いている音が、かすかに聞こえるだけだった。
椅子へ座り、並んだ五人を見る。
舞台の姿が浮かんだ。
その後から、昨日の袖も思い出した。
深く息をするところ。水を飲むところ。
短く言葉を交わして、また出ていくところ。
今日は、それが見えなかった。
見えないまま、私は楽しんでいた。
あれだけの支度をして、あれだけのことを続けて、五人は、私にもう一度見たいと思わせていた。
机の端には、レッスンのノートがある。
前よりできるようになったことは、ちゃんとある。
短い歌なら、最後まで声を残せることが増えた。
習った動きなら、顔を上げたまま続けられる時もある。
そのことまで、なくなったわけではない。
でも。
あの場所へ、自分が立ったら。
今日、近くにいた人たちが、こちらを見る。
名前を呼んで、次の歌を待つ。
隣には、あの五人がいる。
「……あの中に、私が入るの?」
小さく口にした。
誰かに聞くための声ではなかった。
答えてくれる人も、この部屋にはいない。
五人は綺麗だった。完璧だった。
一人が歌えば、別の人が受け取る。
誰かが動くと、他の四人と一緒に、もっと見たい形になる。
客席にいる間は、ただ、それが嬉しかった。
それなのに、そこへ自分が加わるところを考えると、同じ気持ちのままではいられなくなる。
消したペンライトを、五人の横へ置いた。
さっきまで、これを振っていた。
見ているだけでは足りなくて、自分から声まで出した。
もう一度、あの公演を見たい。
その気持ちは、今もはっきりしている。
それでも、帰ってきてお母さんやお父さんに感想を聞かれた時に、うまく答えられなかった。
良かった。とてもいいライブだった。
それは間違いない。
でも、だからこそ、考えてしまうのだ。
「……本当に、私にできるのかな」
夏希さんの台座が、少し斜めになっていた。
指先で直す。
他の四人と向きを揃える。
机の明かりを受けた五人は、皆こちらに向かって笑っていた。
私はノートを開かずに、並べた五人のアクリルスタンドを、しばらく眺めていた。