TS少女は演じたい 作:息抜き
六月十六日、火曜日。
放課後にFOLIOへ着いて着替えを済ませてレッスン室に入る。
今日は五人とも学校や個別の仕事があるとかで誰もいない。
それに少しだけ安心してしまっている自分がいた。
鳴海先生にまず机の方へ来るように言われた。
キーボードの横に、何枚かの紙が置いてある。
少し離れたところでは、高瀬先生がタブレットを確認していた。
「今日はこれを使います」
渡された紙を受け取る。
一番上にあった曲名は、よく知っていた。
『またねの続きを』。
その下に、小さく、六人版・確認用、と書かれていた。
私は、紙を持つ手を止めた。
歌詞が並んでいる。
その横には、誰が歌うのかを示す名字がある。
小日向、橘、神谷、雨宮、桜庭。
何度も見て、ようやく見慣れてきた五人の名字だった。
その間に、一つ増えていた。
白瀬。
自分の名字の横から、短い線が引かれている。
その先の歌詞を読んだ。
知っている言葉だった。
日曜日にも、聴いていた。
「……私が、ここを歌うんですか」
「そう。まずは、その短いところから見ようと思ってる」
鳴海先生が、同じ紙を自分の譜面台へ置いた。
「曲全体の流れも確認するけど、最初から全部を合わせるわけじゃないよ」
私はもう一枚の紙を見た。
こちらには、丸と名字と、矢印が描いてある。
一枚の中に、いくつもの並び方があった。
どれにも、六つずつ丸がある。
自分の名字も、全部にあった。
「これ、立ち位置ですか」
「そうだ。六人でのフォーメーションの確認用」
高瀬先生が近くへ来た。
「今日は白瀬の歌うところと、そこへ入るまでの足。それをそれぞれ分けて覚える」
「……はい」
返事をしてから、もう一度、紙へ目を落とした。
二日前まで、私はこの曲を客席で聴いていた。
次の歌が始まるのを待って、終わるのを惜しいと思っていた。
その曲の中に、自分の名前がある。
嬉しいとは、思う。
これまでのレッスンを頑張ったから、ここまで任せていいと思ってもらえた。
でも、その後から、日曜日の五人が浮かんできた。
その姿と、自分が今できることを比べると、よく分からなくなってしまう。
本当に、今の実力でこんなことをしていいのか。
迷惑ではないのか。
「先生。一つ、聞いてもいいですか」
「なんだ」
私は、位置の図を少し持ち上げた。
「まだ、私が入るって決まったわけじゃないですよね」
「決まってないな」
「それなのに、もう六人の形を作るんですか」
聞いてから、言葉を足した。
「私、まだ皆さんと同じことは全然できないので。もっと基礎を続けてからだと思っていました」
高瀬先生は、紙ではなく私の方を見た。
「基礎は続ける。その上で、今までの練習だけだと分からない部分を見たい」
「分からない部分?」
「一人で移動して、止まってから歌い始める。短い振りを覚えて、別の日にもできる。それぞれを全て通してまではやっていないが、細分化したうちの数個を繋ぎ合わせたこともある。そこまでなら、少しずつできるようになっただろう」
「……はい。短いところなら」
「その短いところを、人と合わせたらどうなるか」
先生の指が、紙の上へ移った。
私の名字から、隣の名字へ動く。
「一人ならできても、隣に人がいると歩幅が変わるかもしれない。相手の歌を聞いてると、自分の入りが遅れるかもしれない。そういうのは、実際に合わせないと分からない」
先月の練習を思い出した。
足だけならできたものに歌がついた途端、どちらも遅れた。
隣から雨宮さんの声が聞こえると、自分に言われていたことまで変えそうになった。
一人でできることが、そのまま残るとは限らない。
それは、少し分かる。
「じゃあ、私が六人の中でできるかを、確かめるために……」
「白瀬ができるかだけじゃない。こっちが組んだ動き方や歌の分け方で、六人が無理なくつながるかも見る」
鳴海先生が頷いた。
「歌が苦しくなった時に、声の練習をすればいいのか、その前の移動が大きすぎるのか。そこも細かく判断した上で方針を決めたい」
歌が出ないから、歌を練習する。
それだけでは、済まないらしい。
私は図の矢印を目で追った。
「五人の振付を、そのまま一緒に練習するのとは違うんですか」
「振りを覚えるだけならそれでもできる。ただ、五人の形には、六人目の場所がない」
高瀬先生が、タブレットの画面をこちらへ向けた。
五人の位置が描かれた図だった。
隣に、今渡されたものと同じ六人の図が並んでいる。
「端で真似してもらえば、動きは練習できる。だが、それだと白瀬がどこに立てば全体が見えるかも、誰とどう歌をつなぐかも確かめられない」
画面の上で、一つの丸を指す。
「ここに一人足すだけだと、次に橘が通るところと重なる。じゃあ白瀬を後ろへ下げればいいかというと、今度は歌う時に前と重なる」
「……どこか空いているところにいればいい、ではないんですね」
「そうだ。邪魔にならない場所を探すのではなく、六人でやるための場所を作る」
私は、手元の紙へ戻った。
六つの丸は、五つの外側に一つ足されたものではなかった。
前へ出る人も、その後ろを通る人も、少しずつ位置が変わっている。
「じゃあ、皆さんも覚え直すんですか」
「そうなるな。全員覚え直しだ。白瀬だけが五人の形へ合わせる練習じゃないから」
鳴海先生が、歌割りの方へ指を置いた。
「歌も同じ。白瀬さんの前後を誰が歌うかで、聞こえ方も、入りやすさも変わる。そこを実際に歌いながら確かめたいんだ」
加入することが決まったからその形を用意しているというわけではないらしい。
六人でやった時に何ができて、どこが難しくなるのか。
それを知らないまま、一人の練習だけを増やしても、分からないことが残る。
私自身も、五人と曲をやってみたことは、まだ一度もない。
「今までは五人も、直近の公演で使う形を繰り返し確認していたからな」
高瀬先生が言った。
「あれはあれで必要だった。だが、その公演も無事成功に終わった。だからこそ、今日からは六人の案を試す。基礎をやめるわけでも、これが全部決まりというわけでもない」
「……分かりました」
少しだけ、紙の見え方が変わった。
私がもう、ここに立てると決まっているのではない。
ここに立ってみなければ、分からないことがある。
それなら、まだできないことが多い私にも、今やる理由はあった。
紙を一通り見ていて、もう一つ気になった。
私の名字から伸びている矢印は、他の人より短い。
図が変わっても、近いところにいることが多かった。
歌詞の方へ戻っても、自分が一人で歌うところは、長くない。
「……もしかして、私のところ、難しくないようにしてありますか」
高瀬先生は、すぐに頷いた。
「してある。歌も動きも、今の白瀬に合わせてる」
はっきり言われた。
やっぱり、そうなのか。
少し胸が沈んだのを感じた時、先生が図の一か所を指した。
「ここ。白瀬が歌う直前に、端から反対側まで移動させたりはしてない。近い位置へ入って、止まってから歌えるようにしてる」
矢印を一つずつ辿る。
「人と交差するところも少なくしてる。大きく向きを変える動きと歌い出しも重ねないように、鳴海たちとも相談して歌割りも調整してある。今は、それを一度にやると両方崩れるからな」
「はい」
「その代わり、サビのこの動きは六人で揃える。フォーメーションでは難易度を落としたとしても、共通の振り付けに関しては妥協したわけじゃない。ここでは白瀬も前へ出る。ずっと後ろで誰かを見ながら動く形にはしてない」
自分の丸が、前にある図を見る。
そこだけは、さっきから何度も気になっていた。
この曲自体、激しいダンスを伴わないゆったりした曲だったはずだから、共通のサビといってもそこまで大きな負担はない、ということなのだろうか。
「歌も、出しやすい高さの短いフレーズを選んであるよ」
鳴海先生が続けた。
「長い高音や、難しいハモリを一人で支えるところは任せていない。まずは、今まで確認してきた声を、曲の中でも出せるか見たい」
「皆さんも、私に合わせて簡単にするんですか」
「全員を同じ難度にするわけじゃない」
高瀬先生が答えた。
「桜庭が大きく動くところは残す。白瀬はその間に次の位置へ入る。雨宮が長く歌うところもある。全員が同じことをしてなくても、全体の完成度を落とさず、ちゃんと一曲として成立させる」
日曜日のことを思い出した。
雨宮さんが歌う前には、四人との動き方が変わっていた。
夏希さんが前へ出る時、他の四人は同じ大きさで踊っていたわけではない。
私は、五人ができることを全部まとめて、それを自分にも必要なものとして考えていたのかもしれない。
もちろん、あの五人は、私よりずっと多くのことができる。
そこは変わらない。
でも、今、同じものを全部渡されているわけではなかった。
「ここは、短くても白瀬さんが歌うところだからね」
鳴海先生が、私の名字の横を指した。
「声を小さくして、他の人に隠れて終わるために短くしてあるんじゃない。息が続く長さで、自分の声をちゃんと出せるようにしてある。それに、短くはあるがソロになる部分もある」
「……はい」
「止まって歌えるところなら、表情もつけやすい。私たちも君の強みは理解している。それが動きの難しさで全部消えてしまったら、もったいないからね」
自分の名前から引かれた線を、もう一度見た。
短い。
他の人が一人で歌うところより、ずっと短い。
でも、その短さにも理由があった。
私にできないことを避けただけではなくて、できるものを残すために、そうしてある。
「……この形なら、私にも練習できると思って、作ってくださったんですか」
「そうだ」
高瀬先生が頷いた。
「今まで何ができて、どこで崩れたかを見た上で組んでる。実際に合わせて無理があるところは、こっちでも組み直す」
私は、少し息を吐いた。
五人と同じようにできなくても、何でも構わない。
そういう話ではなかった。
できるようになるために、いっぺんに難しくしない。
その上で、自分が受け持つところは、自分でやる。
それなら、どこから始めればいいのかは分かる。
「じゃあ始めようか。最初は声だけで行こう」
鳴海先生がキーボードの方へ身体を向けた。
「神谷から受けるここの二小節から」
私は、自分の名字の横へ小さく丸をつけた。
「はい。よろしくお願いします」
————
一度、曲を最初から聴いた。
知っている歌が、全然違って聞こえる。
ここを過ぎると、私のところ。
そう思った途端、その前の歌詞を目で追うのが遅れた。
音源の中では、歌が普通に続いている。
私は、自分の名字の横を指で押さえた。
「場所は分かった?」
曲を止めた鳴海先生に、頷く。
「じゃあ、最初の音から確かめよう」
先生が鍵盤を鳴らす。
同じ音を声にしてから、二小節だけ歌った。
無理に高く上げるところはない。
最後まで、息も残った。
「うん。そのまま。今度は前からつなぐね。神谷のところは僕が歌うから」
前の二小節が始まった。
私は先生の声を聞き、最後の音が終わったところで息を吸った。
出した声が、少し遅れた。
「今、前の歌が終わるのを待った?」
「……はい」
「聞くのはいい。ただ、息まで待たなくていい。吸うのはここ」
歌詞の上を指される。
前の人の声が、まだ残っているところだった。
「ここで準備して、拍で入る。相手が歌い終わってから支度を始めると、遅くなるから」
「分かりました」
もう一度、先生が前のところを歌う。
今度は、声が聞こえている間に息を吸った。
次の拍で、自分の言葉を出す。
伴奏から、遅れなかった。
歌い終えると、その先をまた先生の声が続けた。
私の次に、美月さんが歌うところだった。
自分の最後の音だけではなく、その声まで自然に聴いていた。
そこだけを切って歌った時にはなかった続きが、少し気持ちよかった。
同じところを何回か確かめてから、声を休めることになった。
私は水を飲み、ノートへ、前の歌が終わるまで息を待たない、と書いた。
————
足の確認では、床に新しい印が使われていた。
高瀬先生に示された位置へ立つ。
「最初はここ。神谷が歌ってる間に、二歩でこっちへ」
少し前の印まで歩いてみる。
足は届いたけど、止まってから身体が少し揺れた。
「歩幅が大きい。もう少し小さく」
戻って、やり直す。
今度は、足を置いてから上半身を直さずに済んだ。
「そこ。ここで歌う」
私は前を見た。
鏡の中には、自分と先生しかいない。
それなのに、図を見た後だと、隣に誰が立つのかが気になった。
「この時、美月さんは、どの辺にいるんですか」
「白瀬の斜め横。この辺りだ。白瀬が歌い終わったら、橘が前へ入る。その時に白瀬は一歩下がる」
先生が、二つの位置を順に指す。
「足だけでやろう。歌ってる間もカウントは続ける」
自分の歌を、頭の中で流した。
最後の音の、その次の拍で足を引く。
「そこで止まらない。サビの場所まで」
もう一歩、床の印へ入った。
今までは、ここまで移動する、とだけ教わっていた。
今日は、自分の後に誰が前へ出るのかまで決まっている。
覚えることは増えたけど、なぜそこへ動くのかは分かった。
位置を確かめた後は、顔を上げたまま繰り返した。
続いて、サビの最初の腕もつける。
横へ踏み、空けた方へ腕を開く。
動作自体は基礎でやったものに近かったけど、下がった後につなげようとすると、一度止まってしまった。
「足を揃えて終わらない。次に出す方は空けておく」
足を揃えずにつなぐと、途中で踏み替えずに続けられた。
何回か確かめて、いったん座る。
私は図の矢印の横に、注意されたことを書き込んだ。
紙を受け取った時にはよく分からなかった矢印を、今は自分の足で辿れた。
————
六月十八日、木曜日。
大きい方のレッスン室へ入ると、美月さんが顔を上げた。
「おはよー、真琴ちゃん!」
「おはようございます」
「火曜日、六人版の自分のところやったんだよね」
「はい。自分が歌うところと、足だけですけど」
「じゃあ、今日は合わせられるね」
そう言って、美月さんは持っていた紙へ目を戻した。
私と同じ、六人版の資料だった。
違うところに線が引いてあって、余白にも何か書かれている。
少し向こうでは、神谷さんと小日向さんが位置の図を見ていた。
夏希さんは靴紐を結び直している。
雨宮さんが水筒を置き、譜面を開いた。
いつもの五人だった。
あれだけの人の前に立っていた人たちが、この場所にいる。
日曜日の姿を思い出すと、今でも少し不思議な感じがした。
————
身体をほぐし、基本のステップと発声を終えた後、まずは動かずに歌を合わせた。
神谷さんの声が、すぐ近くから聞こえる。
音源でも日曜日にも聴いた歌い方だった。
ただ、今日は、その続きを私が歌う。
前の声が残っている間に息を吸い、自分の拍で入った。
二小節を歌い終えると、美月さんの声が続く。
思わずそちらを見た。
美月さんは歌いながら、少し目元を緩めた。
サビで、全員の声が重なる。
一人の時より自分の声が聞き取りにくかったけど、息を吸う場所は分かった。
練習する区間の終わりで、先生の手に合わせて声を止める。
「白瀬、入りは合ってる。後半、隣へ寄せようとして少し声が細くなったね」
鳴海先生が言った。
「はい。皆さんの声が聞こえたので……」
「今は火曜日の出し方を残して。合わせ方はこっちで聞いて、必要なら指示するから」
もう一度歌った時も、自分だけが出すぎていないかは気になった。
それでも、途中で小さくしなかった。
「今のでいい」
言われて、ほっとした。
「じゃあ、動く方へ移ろう。最初は歌わずに、位置だけ」
高瀬先生の声で、六人がそれぞれの印へ向かった。
同じ鏡。
同じ床の印。
火曜日と同じ歩幅で動けばいい。
そう思っていた。
でも、隣に小日向さんが立ち、前へ神谷さんが入ると、足を出すのをためらった。
自分が行くはずの場所には、まだ人がいる。
「白瀬、神谷が抜けるのと同時。空くのを見届けてからだと遅い」
「はい」
神谷さんが、少しだけ振り向いた。
「私はこっちへ動くから。真琴は決めた拍で来て大丈夫」
足の向きを見せてもらい、音なしでやり直す。
同じ拍で動き始めても、ぶつかるような近さにはならなかった。
私が前の印へ入ると、後ろでも人が動く。
一人の時には誰もいなかったところを、美月さんが通っていった。
何度か足だけで確かめてから、小さい声で歌もつけた。
神谷さんの声を聞く。
動き出す。止まる。息を吸って、歌う。
最初の音は出た。
でも、立っている場所が気になって、床を見てしまった。
二つ目の言葉が小さくなる。
そこを戻そうとした時には、もう下がる拍だった。
遅れを取り戻そうとして歩幅が大きくなり、サビの一歩目で足が余った。
「止めよう」
音が止まった。
私は、その場で足を揃えた。
「……すみません」
「どこから変わった?」
高瀬先生に聞かれ、少し考えた。
「歌ってる時に、位置が合っているか気になって、下を見ました」
「その時、声も小さくなった」
鳴海先生が言った。
「はい。それを戻そうとして、次に動くのが遅れました」
「じゃあ、そこを見よう」
高瀬先生が、撮っていた映像を止めて見せた。
私の足は、印のところにあった。
「下を見る前は、位置も入りも合ってる。確認し直して遅れたな」
それなら見なければよかった。
そう思うのだけど、人が動いている中では、合っている自信がなくなっていた。
「一人の時は、もう少しできたんですけど」
つい、言ってしまった。
「その違いを今見てる」
高瀬先生の返事は早かった。
一人でできたはずだろう、とは言われなかった。
「動き、簡単にしてもらってるのに……」
先生は、小さく首を振った。
「一回目でできるように落としたんじゃない。練習して届くところにしてるんだ」
私は顔を上げた。
「足だけならできた。声だけでもできた。今は、人がいる中でそれをつなぎ始めたところだ」
「入りの音も出てたよ。そこは残して、足の確認を減らそう」
鳴海先生の言葉を聞いて、もう一度、画面へ目を向けた。
映像の中の私は、まだ前を向いている。
ここから崩れたのなら、直すのも、ここからでよかった。
「もう一度、足だけでお願いしてもいいですか」
「もちろん。同じところから」
————
二回、歌を外して動いた。
その次に、小さい声を重ねる。
歌う位置へ来ても、下を見ない。
さっきと同じ歩幅で来たことを思い出し、二小節を歌い終えてから下がった。
サビへ入ったところで、また音が止まった。
どこを間違えただろう。
足を見なかった分、今度こそ場所が違ったのだろうか。
「小日向、今の抜ける方向」
「はい。前の方へ行きました」
小日向さんが、自分の足元を見た。
「すみません。そこ、一つ前から確認していいですか」
「そうしよう。白瀬は、今の入りと下がる拍でいい」
私は、返事をするまで少し間が空いた。
「……はい」
小日向さんが元の位置へ戻る。
図を確かめ、さっきより外側を通って、私の斜め後ろへ入った。
「こっちですね」
「そう」
もう一度、今度は紙を見ずに動く。
私の視線に気づいたのか、小日向さんが言った。
「五人の時は、向こうだったから。音がついたら、そっちへ戻っちゃった」
「……小日向さんも、そうなるんですね」
言ってから、失礼だったかもしれないと思った。
でも、小日向さんは普通に頷いた。
「そりゃなるよ。今までずっとそこへ行くように練習してたからね」
私も失敗するから気にしないで、と励ます言い方ではなかった。
ただ、自分が間違えたところを確かめている。
「ここだと、ひより先輩の声、反対側から聞こえるんですよね」
「そこも慣れるしかないでしょう。そのための練習よ」
「私はもう覚えたけどね!」
「ダンスに関しては夏希、本当に早いよね」
「……私は苦戦中」
「澪は……後で復習手伝うから、今はとりあえず頑張って」
「私が教えましょうか!」
「いい。夏希の説明分かりづらい」
「そんな!?」
夏希さんと雨宮さんのやり取りに、美月さんが笑った。
私も、少し笑ってしまった。
全員覚え直しだと、火曜日に先生は言っていた。
その意味が、今は小日向さんの足の動きで分かる。
私だけが、できあがった五人の隙間へ入ろうとしているのではなかった。
「じゃあ、もう一度。今直したところまで」
六人が位置へ戻った。
私も、自分の印へ向かった。
————
休憩になって座ると、足より先に、頭の方が疲れている気がした。
ボトルを開け、水を飲む。
隣で雨宮さんも、水筒の蓋を外していた。
「歌うところ、短いのに、忙しいです」
少しして言うと、雨宮さんが頷いた。
「気持ちは分かる。その前と後もあるからね」
「一人で歌った時は、歌い終わったら終わりだったので」
「うん」
それだけ答えて、水を飲む。
私も、しばらく黙った。
向こうでは、夏希さんがタオルを膝へ広げていた。
その横で美月さんが、思い出したように顔を向ける。
「また三秒で畳むやつ?」
「今日は普通に畳む」
「ふーん」
「この大きさ、やりにくいんだよ」
「タオル選ぶんだ」
「選ぶよ!」
思わず笑った。
口元へ手をやると、雨宮さんも、少し肩を揺らしていた。
舞台袖で見た時と同じように、五人は普通に水を飲んで、タオルを使っている。
ただ、今日は私も、その前まで同じ曲をやっていた。
書いておきたいことはあったけれど、ノートはもう少し閉じておくことにした。
————
再開してから、サビの入りに腕の動きを戻した。
夏希さんが、一度だけゆっくり見せてくれる。
大きく踏んでいるように見えたのに、足を見れば、それほど遠くへ行っていない。
「こっちは腕が伸びるから、足まで遠くへ行かなくていいんだよね」
同じようにやってみると、高瀬先生が頷いた。
「そう。足は今の幅」
そのまま全員で動いた。
美月さんの腕が、視界の端で開く。
私も同じ動きをしていることに、少し笑いそうになった。
次の足を忘れないように、カウントを追った。
「じゃあ、歌を戻す。白瀬の前、神谷のところから」
最初の位置を確かめて、顔を上げる。
神谷さんの声が始まった。
決めた拍で前へ出て、止まる。
声が残っている間に息を吸い、自分の言葉を歌った。
場所は気になったけど、床は見なかった。
歌い終わる直前、次の足のことが頭に浮かんだ。
でも、そこで声まで終わらせなかった。
決められた長さを残してから、下がる。
美月さんが前へ入った。
その声を聞きながら、サビの場所へ向かう。
小日向さんが、さっき確かめたところにいた。
夏希さんが横へ動き、神谷さんと雨宮さんの声が重なる。
私も、腕を開いて歌った。
練習する区間の終わりで、高瀬先生の手が上がった。
六人が、同じ拍で止まる。
前を向いたまま、先生の言葉を待った。
「今の区間はつながった」
隣で、夏希さんが小さく息を吐いた。
「つながったね」
私も息を吐いた。
「白瀬、歌の最後も悪くなかった。サビでは少し声が細くなったけど、一人のところは途中で変えずに歌えていたね」
鳴海先生が言った。
「……はい」
一曲を通したわけではない。
サビの途中までの、短いところだった。
それでも、途中で止められずにここまで来られた。
さっき遅れた足も、今は次の位置にあった。
「一度、映像を見ようか」
高瀬先生が画面を操作した。
六人で、そちらへ寄った。
————
画面の中で、神谷さんが歌い始めた。
自分が前へ入るところで、少し身を乗り出す。
五人の位置が変わると、その間から、私の顔が見えた。
腕は、他の人より少し硬い。
歌っている顔にも、まだ余裕がなかった。
でも、短いフレーズの終わりまで、前を向いていた。
「私、ここ、ちゃんと前に出てたんですね」
思わず言うと、美月さんがこちらを見た。
「出てたよ。歌も聞こえた」
「やってる時は、そこまで考えられなくて」
「だよね。私も、見てみると思ってたのとちょっと違う」
画面の中で、美月さんが前へ入る。
私は下がっていく自分の足を追いかけずに、全体を見た。
サビの最初に、六人の腕が開いた。
高瀬先生は何か所か映像を戻し、それぞれに直すところを伝えた。
私も、サビで声を小さくしないようにと、もう一度言われた。
最後に画面が止まる。
「今日はここまで。次もこの区間から確認するから、今日直したところを覚えておいて」
「ありがとうございました」
五人と一緒に頭を下げた。
声を出すと、ようやく終わったのだと分かって、肩の力が抜けた。
荷物のところへ戻り、ノートを開く。
今日注意されたことの下に、一行だけ書き足した。
二小節から、サビまでつながった。
眺めてから、歌割りの紙を重ねる。
一番上には、まだ、六人版・確認用、と書いてあった。
それでも、自分の名字の横にある歌詞を見て、今日の声を思い出せた。
あの場所で、五人と一緒に歌った、自分の声だった。
「真琴ちゃん、帰ろう」
美月さんに呼ばれ、顔を上げる。
「はい」
紙をノートに挟み、鞄を持った。
少し前まで、練習を続ける五人を横目に帰ることが多かった。
だけど今日は、同じ練習をして、同じタイミングでレッスン室を出ることができた。
そんな小さなことが、少しだけ嬉しかった。