TS少女は演じたい   作:息抜き

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22話

六月二十日、土曜日。

 

午後の終わりが近づいた頃、高瀬先生が言った。

 

「一回、頭から最後まで流そう。小さい間違いなら、そのまま続けて」

 

私は歌割りの紙を置いた。

一曲、全部。

最初の位置に立つと、隣で小日向さんが肩を軽く回していた。

夏希さんが靴の位置を直す。

雨宮さんが息を吐いて、前を向いた。

私も顔を上げる。

 

音楽が始まった。

最初の担当は遅れずに入れた。

サビで腕を開き、歌いながら次の場所へ向かう。

二番では、一度、隣との間隔が分からなくなった。

それでも止まらずに、自分が覚えている次の位置へ入る。

さっき間違えたところでは、足を出す前に思い出せた。

まだここに残る。

次の音が来てから動く。

最後のサビで、少し声が細くなった。

腕も、横の美月さんより遅れた気がする。

 

でも、音楽は止まらなかった。

最後の位置へ着いて、前を見る。

六人の動きが止まり、そのあとで、曲の最後の音が消えた。

 

「……終わった」

 

小さく言うと、近くにいた夏希さんがこちらを見た。

 

「うん。最後まで行ったね」

 

私は頷いた。

返事をするより、先に息を吐きたかった。

 

「一曲つながったな。後半、崩れたところを確認して終わろう」

 

高瀬先生の言葉で、六人が画面の方へ集まる。

直すところはまだ沢山あった。

たった一回通せたからもうできるというわけではない。

それでも、画面の中の私は、曲の最初にも最後にもいた。

映像を確認して何か所か短くやり直したあと、今日のレッスンは終わった。

 

「明日は今日直したところを確認する。今日はちゃんと休んでおくように」

 

「ありがとうございました」

 

五人と一緒に頭を下げる。

荷物のところへ戻って座ると、足が急に重くなった。

 

————

 

着替えを終えて廊下へ出ると、夏希さんが壁際で鞄を持ち直していた。

美月さんたちは、先に帰る支度を済ませて出ていた。

 

「真琴、今日も泊まりでしょ?」

 

「はい。明日もあるので」

 

土曜日に泊まり、日曜日のレッスンを受けてから帰る。

候補になってからはそれが普通になっていた。

一度家へ帰って、翌朝また来るよりずいぶん楽だ。

最初は何を持ってくるか悩んだ荷物も今は大体決まっている。

夏希さんは頷いて、自分の鞄を少し持ち上げた。

 

「私も今日泊まるって言ってあるんだけどさ」

 

「そうなんですか」

 

「うん。一緒の部屋にしない?」

 

私は、肩へ掛けかけていた鞄を止めた。

 

「……一緒、ですか」

 

「そう!寝る部屋二つあるし!」

 

「ありますけど」

 

「じゃあ一緒に泊まろうよ!」

 

あまりにも簡単に言われて、少し返事に困った。

 

「別々でよくないですか?」

 

「えー」

 

本当に残念そうな声が出た。

 

「一緒の方が楽しいじゃん」

 

「でも明日もレッスンですし」

 

「夜中まで起きてようなんて言ってないって。ちょっと遊ぼうよ」

 

「遊ぶって……」

 

夏希さんが鞄を開けた。

中から、小さな箱を取り出す。

トランプだった。

私は箱を見て、それから夏希さんを見た。

 

「持ってきたんですか」

 

「うん。ゲームもある」

 

今度は、鞄の中のケースを示された。

 

「……最初から遊ぶつもりだったんですね」

 

「だって真琴、土曜は泊まるじゃん。私も明日来るし、ちょうどいいかなって」

 

私が泊まることを知った上で用意してきていたらしい。

 

「夕飯だけ一緒にして、あとはそれぞれでも……」

 

「夕飯のあとが遊ぶ時間じゃん」

 

「……そうでしょうか?」

 

「ね!一緒に泊まろ!」

 

夏希さんがトランプの箱を持ったまま、少し顔を寄せた。

 

「せっかく持ってきたし」

 

「それは夏希さんが、勝手に持ってきたんでしょう」

 

「うん。だから今お願いしてる」

 

言い方を変えても、そういうことなのか。

私は、鞄の持ち手を握り直した。

一人なら、夕飯を食べて、お風呂へ入って、明日の準備をする。

いつ寝るかも、何をして過ごすかも、自分で決めればいい。

誰かと同じ部屋で夜を過ごすとなると、まだ少し身構えてしまう。

 

ただ、目の前の人は、私とトランプをしたいらしかった。

本当に、それだけの顔をしている。

 

「……寝る時は、別の部屋ですよね」

 

「うん。寝室はそれぞれで。リビングで遊ぼう」

 

「そんなに長くはできませんよ」

 

「もちろん!そこは心配しなくていい!」

 

返事が早い。

本当に分かっているのか少し気になったけど、そこでまたトランプを小さく振られた。

私は息を吐いた。

 

「……じゃあ、今日だけなら」

 

夏希さんの顔が明るくなった。

 

「やった!」

 

「まだ、同じところを使えるかは分かりませんよ」

 

「あ、そっか。聞いてくる」

 

そう言うなり、夏希さんはトランプをしまって歩き出した。

 

「真琴も来て!絶対早川さんに確認されるから!」

 

「……はい」

 

私の返事を確認してすぐに足早に歩き始める。

前から思ってたけど、夏希さんは何かを思いついてから動き始めるまでが速かった。

 

————

 

早川さんは別のスタッフの人と翌日の予定を確認していた。

話が終わるのを待って、夏希さんが声をかける。

 

「早川さん。今日、真琴と同じところに泊まっていいですか?」

 

「……同じ部屋を使いたいってこと?」

 

「はい!」

 

早川さんが私を見る。

 

「白瀬さんも、それで大丈夫ですか?」

 

「……はい」

 

夏希さんの方を一度見てから、言葉を足した。

 

「かなりお願いされましたけど」

 

「しました!」

 

「……まぁ、今回はお試しで」

 

早川さんは、少しだけ笑った。

 

「分かりました。別々で用意していたので、処理に少しだけ時間をください」

 

早川さんに対応してもらっている間、夏希さんは私の隣で待っていた。

さっきまでの勢いのまま勝手に決めてしまうわけではないらしい。

少し待ちはしたけど、普通に同じ部屋を使えることになった。

 

「明日の開始時間はいつもどおりです。二人とも、ちゃんと寝てくださいね」

 

「はい」

 

「白瀬さんは心配してないので、どちらかというと……」

 

「な、なんですか。悪いことはしませんよ。真琴と仲を深めようかなぁと」

 

「それは否定しませんが、疲労が残るようなことはしないようにだけ、注意してくださいね」

 

「もちろんです!私そんなに信用ありません?」

 

「……言っておきますけど、強制オフの日にも走ろうとするせいですからね」

 

「あー……あはは」

 

……この感じはつまり、言い逃れはできないということか。

その後はそれ以上言われることなく、早川さんは仕事に戻った。

私たちは、渡された鍵をしまって動き出した。

 

「夕飯、決めてる?」

 

「何か買っていこうかと」

 

「じゃあ、途中のお弁当屋さん寄ろう。あそこ、唐揚げあるし」

 

唐揚げ、好きなのだろうか。

特に異論はなかったので、そのまま移動し始めた。

 

————

 

外へ出ると、まだ明るかった。

空気は少し湿っていて、歩いていると髪が頬に触れた。

夏希さんは私と並んで歩きながら、持ってきたゲームの話をしていた。

 

「二人でできるやつ、いくつか入ってるから」

 

「いくつか?」

 

「真琴がどれ好きか分かんなかったし」

 

「全部やるつもりじゃないですよね」

 

「全部は無理じゃない?」

 

「そこは分かってるんですね」

 

「私も明日レッスンだよ」

 

分かっていない人扱いをされた、と言いたそうな顔だった。

私は少し笑ってから、前へ向き直った。

弁当屋は、宿泊先へ向かう途中にあった。

窓の上に、大きなメニューの写真が並んでいる。

店へ近づくと、揚げ物の匂いがした。

夏希さんは、ほとんど立ち止まらずに決めた。

 

「唐揚げ弁当」

 

「早いですね」

 

「さっきから言ってたじゃん」

 

「本当に迷わないんだなと思って」

 

私は写真を順に見た。

生姜焼きもおいしそうだったけれど、焼き鮭の横に入っている卵焼きも気になった。

 

「真琴は?」

 

「……鮭にします」

 

「そっちもいいよね」

 

夏希さんが写真を見上げる。

 

「唐揚げじゃなかったんですか」

 

「唐揚げだよ。でもそっちもいい」

 

両方いいまま、迷わず自分の注文をしていた。

私はその後に続いた。

それぞれ会計を済ませ、店の端で待つ。

奥で容器の蓋を閉める音がする。

夏希さんはメニューを見ながら、次に来たら何を食べるかまで考えていた。

 

「まだ今日の分も食べてないですよ」

 

「次に迷わなくて済むじゃん」

 

「次も唐揚げにしそうですけど」

 

「それはその時のお腹と相談」

 

「それなら今考える意味はどこに……?」

 

番号を呼ばれて、弁当の袋を受け取る。

持ち手を握ると、底の方から温かさが伝わってきた。

店を出てからも、夏希さんは普通に隣を歩いていた。

さっきまで鏡の前で動いていた時より、歩幅はずっと小さい。

 

「お腹空いた」

 

夏希さんが言う。

 

「私もです」

 

それには、すぐに同意できた。

 

————

 

部屋へ着くと、それぞれ寝室に荷物を置いた。

二つあるうち、私は廊下に近い方を使うことになった。

お母さんに着いたことを連絡して、手を洗ってからリビングへ戻る。

食卓には、もう二つの弁当が並んでいた。

その横に、トランプとゲーム機のケースもある。

 

「……お弁当より先に出したんですか」

 

「一緒に出した」

 

「そうですか」

 

「お菓子もあるよ」

 

さらに小さな袋が置かれた。

私は椅子へ座りながら、夏希さんの鞄を見た。

 

「何泊するつもりだったんですか」

 

「一泊だって」

 

「一泊分の準備には見えないんですけど」

 

「ちゃんと着替えも持ってきたよ」

 

「そういう意味ではなく」

 

夏希さんが笑った。

コップに飲み物を注いで、弁当の蓋を開ける。

まだ十分に温かかった。

 

「いただきます」

 

「いただきます」

 

鮭の皮の横に箸を入れると、少しだけ湯気が上がる。

向かいでは、夏希さんが唐揚げを持ち上げていた。

食べ始めてしばらくは、二人ともあまり喋らなかった。

夏希さんは唐揚げを食べてから、一度、満足そうに頷いた。

 

「おいしいですか」

 

「うん。真琴のは?」

 

「こっちもおいしいです」

 

「じゃあどっちも当たりだ」

 

そう言って、またご飯を食べる。

どちらの弁当を選んだ方がよかったかまで勝負にされなくて、少し安心した。

半分ほど食べたところで、夏希さんが聞いた。

 

「真琴、今日、学校の課題とかある?」

 

「急ぎのものは昨日済ませました。少し持ってきてはいますけど、今日やらなくても、明日余裕で終わらせられる量ではあります」

 

「そっか。私も昨日やった」

 

「そうなんですか」

 

「今日やるの嫌だったから」

 

私は顔を上げた。

 

「今日遊ぶために?」

 

「うん」

 

そこも準備していたのか。

 

「一緒に泊まれるかも分からなかったのに」

 

「駄目でもゲームはできるし」

 

それは確かにそうだった。

 

「真琴って、普段どんなゲームするの?」

 

「物語があるものが多いです」

 

「あー、なるほど。ぽいね」

 

「ぽい?」

 

「ぽい」

 

夏希さんは笑っているけど、ぽいってなんだ。

 

————

 

弁当の容器を片づけ、食卓を拭き終わると、夏希さんがトランプの箱へ手を伸ばした。

 

「まずこれやろ」

 

「何をするんですか」

 

「神経衰弱」

 

「いきなり疲れるのを選びますね……」

 

ジョーカーを抜いたカードを混ぜて、テーブルに伏せる。

場所を空けるため、コップとお菓子は端へ寄せた。

 

「じゃんけん、ぽん」

 

夏希さんが勝った。

 

「私先ね」

 

「はい」

 

先行の方が若干不利じゃないだろうか。

一枚目をめくる。

七だった。

夏希さんは、少し離れたところへ手を伸ばした。

もう一枚も、七。

 

「ふふん」

 

「……運だけで持っていきますね」

 

私は、伏せられたままのカードを見た。

 

「いい始まりでしょ」

 

「運ですよね」

 

「真琴、意外とそこ言うね」

 

夏希さんが笑いながら、次の一枚をめくった。

今度は揃わなかった。

私の番になる。

一枚をめくると、さっき夏希さんが出したものと同じ数字だった。

もう一枚は、確か、右の方。

指を伸ばしかけて、止める。

右から二枚目だったか、その隣だったか。

 

「そっち?」

 

夏希さんが言った。

私は顔を上げた。

 

「……言わないでください」

 

「聞いただけだよ」

 

「分からなくなるので」

 

今ので、少し分からなくなった。

迷った末にめくったカードは、違う数字だった。

私は二枚を戻す。

そのすぐあと、夏希さんが同じ数字を揃えた。

 

「ほら、こっちだった」

 

「知ってたんですか」

 

「今思い出した」

 

「……そうですか」

 

少し悔しい。

次からは、夏希さんが何か言っても、すぐに手を動かさないことにした。

めくられた場所を見る。

数字だけでなく、隣に何があったかも覚える。

 

とはいえ、全部覚えられるわけではない。

夏希さんが迷わず取った組もあったし、私が同じ間違いをしたこともあった。

二人で「あれ、どこだっけ」と言いながら、少しずつカードを減らしていく。

最後の二枚がなくなったところで、手元の枚数を数えた。

私の方が、少し多かった。

 

「……勝った」

 

言ってから、夏希さんを見る。

少しドヤ顔をしてしまっている自覚がある。

夏希さんはもう、自分のカードを真ん中へ戻していた。

 

「もう一回」

 

「早くないですか」

 

「もう一回やろ」

 

「今、終わったところばっかりなんですけど」

 

「だから次」

 

本当にそのまま次が始まった。

今度の夏希さんは、私の番にもカードをよく見ていた。

さっきほど話しかけてこなかった。

 

 

二回目は、夏希さんが勝った。

 

「はい。一勝ずつ」

 

少し得意そうな顔で言われる。

その顔にちょっとむっとしてしまう。

私は、手元のカードを集めた。

さっき間違えた場所は、今なら分かる。

分かったところで、この勝負はもう終わっていた。

 

「……もう一回」

 

夏希さんが、すぐに笑った。

 

「やる?」

 

「今のは、途中で分からなくなっただけなので」

 

「うん。それで負けたんだよね」

 

「分かってます」

 

私がカードを混ぜ始めると、夏希さんも残りを渡してきた。

その時にはもう、一回だけのつもりだったことを、ほとんど忘れていた。

 

 

 

三回目は、私が勝った。

夏希さんは当然のように次を求めたけど、その前にそれぞれお風呂へ入ることになった。

先に入りたいと言ったのは夏希さんだった。

 

「あとになると面倒になりそうだから」

 

「それは分かります」

 

「でしょ。ゲームはそのあと」

 

まだ先があるらしい。

夏希さんがお風呂へ行っている間に、私は翌日の練習着を出し、持ってきたものを整理した。

ノートはレッスンのあとに書いたところまで確認して、鞄へ戻す。

リビングへ戻ると、テーブルには片づけたトランプの箱が残っていた。

それを見て、さっき最後に揃えた二枚を思い出した。

あれを夏希さんに取られていたら、負けていた。

危なかった。

そんなことを考えている自分に気づいて、少し笑った。

 

————

 

私もお風呂を済ませて戻ると、夏希さんはゲーム機をテーブルの上へ立てていた。

彼女の短い髪はもう乾いているようだった。

さっきと違うTシャツを着て、コントローラーを一つこちらへ差し出した。

 

「これ、やったことある?」

 

画面には、小さな車に乗ったキャラクターが並んでいた。

レースをするゲームらしい。

 

「似たものなら。これはないです」

 

「じゃあ最初、簡単なコースにしよう」

 

隣に座り、コントローラーを受け取った。

 

「最初は練習でいいからね」

 

「はい」

 

始まってから十秒くらいで、私は壁へぶつかった。

 

「曲がれないです」

 

「そこ、速いまま入るとぶつかる」

 

「先に言ってください」

 

「今言った」

 

画面の半分では、夏希さんの車が、きれいに曲がり角を抜けていた。

私の方は、壁から離れるのにも少し手間取る。

 

「夏希さん、もうそんなところにいるんですか」

 

「待とうか?」

 

「……大丈夫です」

 

待ってもらって走り出したら、また同じだけ差がつきそうだった。

それより、曲がり方を覚えたい。

次の角では、早めに速度を落とした。

 

「今のでいいじゃん」

 

夏希さんの声がする。

こちらを見ていたせいか、その間に夏希さんの車が道の端へ寄った。

慌てて戻している。

私は少し笑った。

 

「前、見てください」

 

「言ったな?」

 

一回目は、だいぶ離されて終わった。

 

「もう一回、同じところでいいですか」

 

「いいよ」

 

「まだ、道を覚えきれてなくて」

 

「今度は勝負ね」

 

————

 

「ちょっと」

 

「抜かれたくないから」

 

「今わざとですよね」

 

「もちろん」

 

隠す気がなかった。

そのまま外側へ膨らんで、また少し離される。

画面の端で、拾った道具の表示が光っていた。

使うボタンは、さっき教わった。

押してみる。

前を走っていた夏希さんの車が、くるりと回った。

 

「あっ、真琴!」

 

「使っていいんですよね」

 

「いいけど!」

 

私はその横を通り過ぎた。

少しだけ口元が緩んだその直後。

自分も次の曲がり角を曲がりきれずに、道の外へ落ちた。

隣で夏希さんが吹き出す。

 

「前見てた?」

 

「見てましたよ!」

 

自分でやったのだから。

戻された道の上を、夏希さんの車が通り過ぎていった。

私はコントローラーを持ち直した。

 

「もう一回」

 

まだゴールにも着いていないのに、先に言ってしまった。

 

————

 

三回目も、四回目も、同じコースを走った。

角の場所が分かると、ようやく周りを見る余裕ができる。

夏希さんが道具を持っているか。

どこで前へ出ようとしているか。

見えたところで、避けられないこともある。

逆に、分かりやすく前へ来たところへ、こちらから道具を使うこともできた。

勝ったり、負けたりした。

いつの間にか、私は最初よりずっと前へ身を乗り出していた。

 

「夏希さん、そこ通らないで」

 

「通るよ。道だもん」

 

「今だけ」

 

「真琴が先に行きたいだけじゃん」

 

「そうだけど」

 

返してから、ボタンを押す。

夏希さんの車が少し横へ跳ね、私の車が前へ出た。

 

「うわ、今の狙ってたでしょ」

 

「もちろん」

 

さっきと同じ返事をしてやると、夏希さんが笑った。

その回は、最後の直線までほとんど並んでいた。

どちらが先かは順位が出るまで分からなかった。

 

二位。

 

私はコントローラーを膝へ下ろした。

 

「……今の、ちょっとだけじゃん」

 

「ちょっとでも一位は一位だから」

 

「もう一回」

 

「いいよ。だけどその前に」

 

夏希さんがこちらを向いた。

私は次のコースを選ぶ画面から、顔を上げる。

 

「何?」

 

「もう夏希でよくない?」

 

一瞬、何の話か分からなかった。

 

「……え?」

 

「さっきから喋り方は普通なのに、夏希さんだけ残ってる」

 

言われて少し止まった。

確かに、さっき「そうだけど」と言った気がする。

その前には、通らないで、とも。

 

「前にも言ったじゃん。夏希でいいって」

 

初めて会った日のことを思い出した。

美月さんがそう言い、夏希さんも、同い年だからと続けていた。

あの時は、どう返せばいいのか分からなかった。

 

「でも……」

 

「今、私にどいてって言ってたのに?」

 

「それは、ゲームの中の話で」

 

「分かってるよ」

 

夏希さんが笑う。

 

「だから、呼び方もそれでいいじゃん」

 

私はコントローラーのボタンを見た。

急にそこだけ意識すると、口にするのが難しくなる。

さっきまでは、抜かれたくないとか、今のは惜しかったとか、そんなことばかり考えていたのに。

 

「次、別のコースにする?」

 

選ばれかけたのは、曲がり角の多そうなコースだった。

私もそちらへ目を向けた。

 

「……夏希」

 

「うん?」

 

「もう一回、さっきのところ」

 

夏希さんがこちらを見た。

 

「まだやる?」

 

「今の、最後のところさえ間違えなかったら勝てたから」

 

「私も間違えたところあるけど」

 

「だから、もう一回」

 

「いいよ」

 

それだけ答えて、同じコースを選ぶ。

特に何も言われなかった。

画面の中に見慣れてきたスタート地点が出る。

私はコントローラーを握り直した。

 

————

 

もう一回、と言いかけたところで、夏希が時計を見た。

 

「あ。今日はここまでにしよっか」

 

私は、つられて時計を見る。

 

思っていたより時間が進んでいた。

今から明日の準備を確認して寝れば、ちょうどよさそうだった。

 

「……最後、負けたんだけど」

 

言うと、夏希が笑った。

 

「じゃあ、次の時に取り返して」

 

「次もこのゲームからだからね」

 

「いいよ」

 

あっさり頷かれる。

私はもう一度画面を見てから、コントローラーを渡した。

夏希が電源を切る。

さっきまで音が続いていた部屋が、急に静かになった。

 

「真琴、結構言うね」

 

「何を?」

 

「もう一回」

 

私はお菓子の袋を閉じる手を止めた。

 

「夏希に言われたくない」

 

「最初、一回くらいならって感じだったのに」

 

「……最初はそうだったけど」

 

「途中から、私より前のめりだったよ」

 

そこは否定しきれなかった。

私はコップを流しへ運んだ。

夏希が空いた袋をまとめる。

ゲーム機とコントローラーをしまうのは、持ってきた本人に任せた。

片づけ終えてから、夏希がトランプの箱を手に取る。

 

「こっちも、また今度ね」

 

「そっちは私が勝ったからね」

 

「覚えてるって」

 

寝る前まで確認することではなかったかもしれない。

でも、夏希は笑っただけだった。

それぞれの寝室の前で別れる。

 

「おやすみ、真琴」

 

「おやすみ。夏希」

 

扉を閉めてから、ベッドへ腰を下ろした。

足には、昼間の練習の重さが残っていた。

横になると、ようやく身体を全部休ませられる気がした。

目を閉じる。

思い出したのは、最後の勝負だった。

 

自分で気づいて、布団の中で少し笑った。

一人で泊まる方が気楽だと思っていたのに。

途中からは、終わる時間を延ばそうとしていたのが、私の方だった。

壁の向こうで、小さく物を置く音がした。

私はスマートフォンのアラームを確かめ、明かりを消した。

 

————

 

翌朝、リビングへ行くと、夏希がパンを焼いていた。

 

「おはよ」

 

「おはよう」

 

「真琴の分も焼く?」

 

「うん。お願い」

 

私は冷蔵庫から飲み物を出し、コップを二つ置いた。

テーブルの上には、もうカードもコントローラーもなかった。

昨日の夜より、ずっと広く見える。

焼き上がったパンをそれぞれ皿へ移して、向かい合って座った。

 

 

 

朝食のあと、荷物をまとめた。

洗面所と寝室を確認して、リビングへ戻る。

鞄を持ち上げたところで、夏希がコンセントの方を指した。

 

「真琴、充電器」

 

「あ」

 

挿したままだった。

 

「ありがとう」

 

「昨日あんなに荷物確認してたのに」

 

「確認した時はまだ使ってたから」

 

「ま、そうだね」

 

その返事が少し楽しそうだったので、私は充電器をしまいながら夏希を見た。

 

「笑わなくていいから」

 

「まだ何も言ってないじゃん」

 

「顔に出てる」

 

「真琴には言われたくないなあ」

 

何のことか聞こうとすると、夏希はゲーム機のケースを示した。

 

「お互い様でしょ。昨日滅茶苦茶ドヤ顔してきてたんだから」

 

私は返事をやめた。

多分、相当分かりやすい顔をしていた。

 

————

 

着替えてレッスン室へ入ると、美月さんが荷物のところから顔を上げた。

 

「おはよー、真琴ちゃん、夏希」

 

「おはようございます」

 

「おはよ」

 

私たちが続けて返事をすると、美月さんは二人を見た。

 

「一緒に来たんだ」

 

「うん。昨日、真琴と泊まった」

 

夏希が鞄を下ろしながら答える。

 

「え、そうだったの?何したの?」

 

「トランプとかゲームとか?」

 

「私も呼んでくれればよかったのに。夏希が持ってきたの?」

 

美月さんに聞かれ、私は頷いた。

 

「はい。夏希がいろいろ持ってきてくれて」

 

美月さんの手が止まった。

私は鞄からボトルを出しかけたまま、顔を上げる。

 

「——今」

 

「あ」

 

そこでようやく気づいた。

隣の夏希は、特に驚いた様子もない。

 

「昨日からね」

 

少しだけ、得意そうだった。

 

「ずるい!!敬語なし先に取られた!」

 

美月さんが私を見る。

 

「真琴ちゃん!いや真琴!私も美月でいいよ!」

 

「それは……」

 

さっきまで、何も考えずに名前を呼んでいた。

なのに、改めて言われると、口が止まる。

 

美月さん。

 

普段使っている呼び方が、そのまま頭へ浮かんだ。

そこから二文字を取ればいいだけなのに、妙に意識してしまう。

 

「……美月さんは、まだ、ちょっと」

 

「まだ!?」

 

思わず笑いそうになって、口元へ手をやった。

 

「すみません。急に言われると、気になってしまって」

 

「夏希は急じゃなかったの?」

 

「私は昨日ずっと遊んでたから」

 

夏希が答えた。

 

「真琴、途中から呼び方より勝つ方で忙しかったし」

 

「それ、夏希もでしょ」

 

「私は最初から真琴って呼んでるもん」

 

「そういう話じゃなくて」

 

返したところで、美月さんが私たちを交互に見た。

 

「ほら、今も普通に喋ってる!」

 

私は、少し困ってしまった。

確かに、普通だった。

夏希の方を向いた時には、何も引っかからなかった。

美月さんはしばらく私を見て、それから笑った。

 

「ぐぬぬ……じゃあ今度は私も混ぜて」

 

「はい。それなら」

 

「そっちはすぐ返事してくれるんだ」

 

「遊ぶのは……まぁ、楽しかったので」

 

口にすると、隣で夏希が小さく笑った。

最初に別々でいいと言っていたことを、思い出しているのかもしれない。

私はそちらを見た。

 

「何?」

 

「別に」

 

美月さんが吹き出した。

私も、つられて笑ってしまった。

同じレッスン室で、同じように一日が始まる。

ただ、夏希を呼ぶ時だけ、昨日より少し言葉が短くなっていた。

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