TS少女は演じたい 作:息抜き
六月二十一日、日曜日。
準備運動を終えて鏡の前へ集まる頃には、美月さんも呼び方の話をやめていた。
髪を結び直し、足元に置いていた紙を壁際へ戻す。夏希は私の隣を離れ、自分の位置へ向かった。
さっきまで笑っていた人たちの顔が、鏡へ向く。
私も靴の収まりを確かめ、前を見た。
今日は、昨日の続きをする。
『またねの続きを』を、最初から。
一度は最後まで通せた。
だからといって、音が鳴る前の落ち着かなさまでなくなるわけではなかった。
昨日は、少し前に教わったことをそのまま繰り返していた。
頭の中で先の動きを辿りかけたところで、高瀬先生が声をかけた。
「まず一回、昨日の形で。直したところがどうなっているか見るから」
「はい」
始まってみると、最初の歌い出しには迷わなかった。
隣の人が動いた時にも、昨日ほど目で追わずに済んだ。
次に何をするか。
全部、順番に思い出しているつもりだったけれど、考え終えるより先に足が出るところもあった。
それが少し不思議だった。
ただ、後半ではやっぱり忙しくなる。
次の場所を思い出した途端、今いる場所を早く離れたくなってしまう。
最後のサビへ入る頃には、息を吸う場所を一つ間違えた。
曲が終わる。
私は肩を上下させながら、先生の言葉を待った。
その時、小日向さんがこちらを向いた。
「真琴、二番の終わり、下がるのが早い」
「——はい」
声が、思ったより小さくなった。
「最後のところ、真琴が一拍早いから玲奈さんが調整のためにズレて、私の方にもズレがきてるから」
小日向さんは、自分の足元を示しながら言った。
怒鳴られたわけではない。
眉をひそめられたわけでもなかった。
それでも、まっすぐに言われて、身体が少し固まっていた。
今までも、間違えたところを教えてもらうことはあった。
ただ、昨日一曲通せたあとだったからかもしれない。
もう分かっているはずのところを間違えた、と言われたような気がした。
昨日も、ここは直した。
また同じことを言わせた。
そこまで考えたところで、小日向さんが少し首を傾けた。
「真琴?」
「はい。すみません」
「今のところ、分からなかった?」
「いえ。場所は分かります。その……ちょっと、びっくりして」
言ってから、余計に困らせただろうかと思った。
けれど、小日向さんは一度瞬きをしたあと、普通の声で聞いた。
「言い方?」
私は少し迷ってから、頷いた。
「昨日も教えていただいたところだったので。何度も同じことを言わせてしまって——」
「ああ。怒ってるとかじゃないよ」
返事は、あっさりしていた。
「今のは、本当に動くところが違ってたから言っただけ。ちゃんとやってないとか、そういう話はしてないから」
私は小日向さんの顔を見た。
さっきと、特に変わっていない。
「練習中は、私たちも普通に指摘し合うの」
近くにいた神谷さんが言った。
「私が違うところへ行っても、ひよりは言うわよ。逆もあるし」
「そう。気づいたら言う。全員、お互いにね。先生任せにはしてない。やってる私たち側の感覚は先生も大事にしてくれてるから」
小日向さんが頷く。
「今の一回を直したいだけだから。それ以上の意味はないわ」
神谷さんにもそう言われ、ようやく息を吐けた。
言われた内容は、最初から分かっていた。
二番の終わり。下がるのが早い。
それなのに、私は勝手に憶測を巡らせて、口にされていない言葉まで探そうとしていた。
「分かりました」
小日向さんは小さく頷き、画面の方へ向き直った。
私がもっと何か説明するのを待つこともなかった。
「ここだな。小日向が言ったとおり、歌い終わる前に足が出てる」
高瀬先生が、指摘してくれたところの映像を出してくれていた。
画面では、確かに私が先に動いていた。
隣の人は、まだ前を向いて歌っている。
「今はここを一回確かめよう」
「はい」
元の位置へ戻り、短い区間だけやり直した。
先生の数える声に合わせ、動き出すところを確かめる。
小日向さんも、自分の位置で一緒に動いた。
私が下がると、その隣へ入る。
さっきのやり取りの前と、同じ距離だった。
————
休憩になり、水を飲んでいると、美月さんが近くへ座った。
「ひより先輩、はっきり言うよね」
思わず顔を上げた。
少し向こうで、小日向さんがボトルの蓋を閉めている。
「私も最初結構びっくりしたし」
「美月さんもですか」
「うん。もっと、こう、全部ふんわり言ってくれる人かと思ってたから」
「それ、どういう人?」
「いやぁ、だって先輩、第一印象がすごく柔らかいから、勝手にそういうふうに想像しちゃってただけですよ」
小日向さんがこちらを見た。
美月さんは笑いながら、両手を少し動かす。
「ちょっと惜しいかも、とか。もう少しかな、とか」
「違ってる時に惜しいって言ったら、分からなくない?」
「そうなんですよ。今なら分かるんですけど」
返事があまりに素直で、私は少し笑ってしまった。
美月さんも笑い、それから膝の上へタオルを置く。
「私、五人の中では最後に入ったんだよね」
「最後……」
「うん。私が合流した時には、もう四人はだいぶ長く一緒に練習してた」
今の五人が揃う前。
そういう時期があったことは、頭では分かる。
最初から五人で生まれてきたわけではない。
でも、私が見た映像には、いつも五人がいた。
二人で目を合わせたり、誰かの冗談を途中で拾ったりするのも、ずっと前から当然にできたことのように見えていた。
「その時は、もう歌もダンスもやっていたんですか」
「私はほとんど初めて。今の真琴とそう変わらないよ。読モやってたから写真を撮ってもらうことはあったけど、それとは全然違ったから」
美月さんは、自分の足へ目を落とした。
「見てる時は分かったと思うんだよ。右に行って、向き変えて、戻るんだなって。でも、一緒にやると戻れないの」
「……分かります」
それは、今の私にもよく分かる。
説明を聞いている時には、できそうな気がするのだ。
動く順番だって、言葉なら言える。
「でしょ?しかも、そのあとにまだ続きがあるし」
「最初のところを考えているうちに、次が来ます」
「そう!あれ、今どこ?ってなる」
美月さんの声が少し大きくなった。
小日向さんが笑う。
「美月、分からなくなるとこっち見てたね」
「見てました。ひより先輩を見れば何とかなるかなって」
「私がいない方を向くところでも探すから」
「頼りにしてたんです。実際ひより先輩、一度定着した立ち位置ほぼズレないじゃないですか」
「でも私、前向いてって言ってたでしょ」
「言われてました」
また、二人で笑った。
美月さんは指摘されたことを隠さない。
小日向さんも、昔の失敗を持ち出して困らせたいわけではなさそうだった。
本当にそうだったよね、と二人で同じ日のことを思い出している。
「だから私も真琴みたいに、分からないことがいっぱいあるところから始まったんだよ」
美月さんが、こちらへ顔を戻した。
「もちろん、私の時はまだ皆デビュー前だったから、今と全部同じじゃないけどね。先に一緒にやってた人のところへ入るのは、私もそうだったから、気持ちは少しわかるかも」
「その時から、小日向さんと一緒に復習を?」
「うん。先生に教わったところを、あとで一緒に確かめてもらってた」
「美月、あと一回って言うのが多かったんだよ」
小日向さんが口を挟んだ。
「一回やると、もうちょっとでできそうな気がするんです」
「それで次は別のところ間違えるの」
「だから、あと一回」
「終わらないでしょ、それ」
隣で水を飲んでいた夏希が、こちらを見た。
目が合う。
私は、何も言われる前に視線を戻した。
昨日の話はしていない。今は美月さんの話だ。
「で、その時も普通に言われてたよ。『美月、そこ違う』って」
「違ってたからね」
「ほら、これ」
美月さんが、手のひらで小日向さんを示した。
つい吹き出して、口元へ手をやる。
「最初は、できないの分かってるのにってちょっと焦ったけどね」
美月さんは、言いながら自分でも少し考えているようだった。
「でも、何も言われないと、合ってるのか違うのか分かんないし。そのまま何回もやって、間違ってるので覚えちゃうから」
「その場で言った方がどこのことか分かるからその場で言ってるんだよ」
「はい。今は、言ってもらった方が助かります」
小日向さんの方を見て答えたあと、美月さんはまた私を見た。
「だから、真琴だから特別厳しくされてるとかじゃないよ。私も同じだったし、今も言われるから」
「——今も?」
「今も」
そこは、はっきり繰り返された。
「今日も肩言われたし、ライブ前の追い込み期間は私が一番言われてたんじゃないかな?」
「美月は歌をつけると先に肩を開く時があるから」
「分かってるんですけどね、これがなかなか」
「癖なんでしょ。意識して直すしかない」
小日向さんは、責めるでも慰めるでもなく言った。
美月さんが頷く。
その返事を聞きながら、私はボトルを膝へ下ろした。
美月さんは、できる人になってからも、同じように言われている。
それでも小日向さんの隣に座り、自分からまた練習の話をしていた。
「私、もう何回も言わせてるから、呆れられたのかと思ってしまって」
さっきよりは、普通の声で言えた。
小日向さんは、少しだけ眉を上げた。
「昨日やったから今日は全部できるはず、とは思ってないよ」
「はい」
「でも、早かったところは早かったから。そこは直そう」
「……はい」
今度は、少し笑って答えた。
小日向さんも目元を緩める。
「先輩、そういうところです」
美月さんが言った。
「何が?」
「優しいことを言っても、直すところはなくならない」
「なくならないでしょ」
「ですよね」
そのやり取りに、神谷さんが笑った。
笑いながら水を飲もうとして、一度ボトルを下ろしている。
少し離れたところにいた雨宮さんも、口元を緩めていた。
「美月、前より自分で気づいて戻すのは早くなった」
「本当ですか?」
「うん。こっち見る前に戻る」
「見てたの、澪先輩にも覚えられてる……」
「結構見てたから。私もその辺りミスしてるから、なおさら」
美月さんがタオルへ顔を伏せた。
でも、肩は笑っていた。
私も、まだ少し笑っていた。
さっき小日向さんに声をかけられた時には、こんな話になるとは思っていなかった。
そのうち美月さんは顔を上げ、小日向さんの方へ座り直した。
神谷さんも、ようやく笑うのが収まったらしい。
「でも、それだけ対等に扱い始めているってことだから。いつまでも新入りだからって遠慮してたら、いいパフォーマンスはできないもの。明らかなミスを残したまま周囲がそれに合わせると、全体がズレるから」
「それは……そうですね」
「だから、真琴も私たちのミスに気付いたら遠慮なく指摘してくれていい」
「そ、それはさすがに、まだ言えそうにないです」
「ふふ、でしょうね。だから、あなたが周囲を見る余裕が出来たらでいい。その時に、気付いたら指摘して。全員でいいものを作るためにも、ね。特に表情とかを詰める段階になったら、真琴はよく気付いてくれそうだもの」
「……できるように、頑張ります」
対等。
そんな風に見てくれているというのは、素直に嬉しい。
同時に、その言葉が胸の奥に重くのしかかった気がした。
私は水をもう一口飲み、それからノートを開いた。
今日直されたところを書き足そうとして、ペンが止まった。
昨日のページには、すでにいろいろ書いてある。
歌詞の横から伸ばした矢印。
移動する場所の簡単な図。
その脇に、前を向く、最後まで声、と小さく書いてあった。
下がるのを待つ。
今日の注意を書いたところで、そのすぐ上の行が目に入った。
止まらず、次へ。
……どっちだ。
書いた時には、分かっていた。
それだけは覚えている。
ただ、昨日と今日の話を同じ余白へ足したせいで、全部が一つの場所のことのように見えた。
歌割りの紙を出し、見比べる。
一番も二番も似た歌詞が続いていて、余計に分からなくなってきた。
「どうしたの?」
神谷さんの声で顔を上げた。
「ノートを見ていたら、かえって分からなくなってしまって」
「見てもいい?」
頷いて、膝の上のノートを少し傾けた。
神谷さんはすぐに何かを言わず、書き込みを読んだ。
「これは、どこのこと?」
指されたのは、止まらず次へ、の行だった。
「一番のサビに入る前です。下がったところで足を揃えてしまって、次が遅れるので」
「こっちは?」
「さっきの、二番の終わりです」
答えてから、私は紙へ目を戻した。
別のところだった。
「……同じ場所に書いたから」
「ええ。動く場所は近くても、曲の中では別のところでしょう?」
「はい」
神谷さんはペンを取って代わりに書くのではなく、私が書き直すのを待ってくれた。
それぞれの行の前に、一番、二番、と加える。
それだけで、逆のことを書いてある感じはなくなった。
「急いでると、あとで見た自分にも分かると思って書くのよね」
「その時は、今やったところなので」
「そう。最悪『ここ』って書いても、その時は分かるから」
神谷さんは自分のノートも開いた。
細かい字で曲名と確認箇所が並んでいる。
綺麗だったけど、全部が最初から整っているわけではなかった。
消した文字の上に別の言葉があり、端の方へ矢印が伸びている。
途中から書く場所が足りなくなったらしいところもあった。
「私も、その日のうちに場所だけ書き足すことがあるわ。あとになると何のことだったか忘れるから」
「神谷さんでも、ですか」
「忘れるわよ。特に、よく覚えてるつもりで短く書いた時ほど」
私は自分のページを見た。
こっち、としか書いていない矢印があった。
今のうちに直しておこうと思った。
「今日の注意、全部一度に見てた?」
「はい。次にやる時、どれも忘れないようにと思って」
「今、まだ分からないのはどこ?」
すぐに答えようとして、少し止まった。
注意されたことなら、いくつも挙げられる。
でも、それが全部、分からないことなのかというと、違う気がした。
「歌の最後まで声を残すのは、分かります。できない時もあるんですけど」
「うん」
「二番で下がるのが早かったのも、さっき見たので分かりました」
神谷さんは、そのたびに短く頷いた。
できた、できていないとは決めず、私の話を聞いてくれる。
私は歌詞の紙へ目を移した。
「最後のサビへ入るところは、まだ少し曖昧です。行く場所は分かるんですけど、どの音で動き始めるのか、途中で迷います」
「じゃあ、先生にもう一度確かめたいのはそこね」
「はい。あと……」
少し考えてから、首を振った。
「今、聞きたいのは、それです」
「そこに印をつけておきましょう。次に聞かれた時、すぐに言えるように」
丸をつける。
昨日から増え続けていた注意の中で、今、確認したいところが一つになった。
「全部できるようになったわけじゃないんですけど」
「それは、やったところを先生に見てもらうでしょう。今は、真琴が何を聞きたいかの話」
「……はい」
私は丸の横へ、動き始め、と書いた。
間違えてはいけないところを全部思い出そうとすると、何から口にすればいいのか分からなくなる。
でも、何を聞けばいいかなら、今は言えた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
神谷さんは自分のノートを閉じた。
それから私のページをもう一度見て、少し笑う。
「その丸、何の丸かも書いておいた方がよさそうね」
「あ」
私は小さく、確認、と加えた。
さっきの話を聞いたばかりなのに、もう同じことをするところだった。
————
休憩のあと、高瀬先生に確認したいところを聞かれた。
「最後のサビに入るところだけ、動き出す拍をもう一度お願いします」
ノートを見る前に、言えた。
「分かった。そこから確認しよう」
先生は曲を戻した。
私の質問のせいで、何かが大きく止まった感じはしなかった。
歌のどこから動くかを確かめ、ほかの人と合わせる。
そのあとは、予定していた続きへ戻った。
途中、美月さんの位置についても確認が入った。
美月さんは紙を見て、先生へ短く聞き返す。
小日向さんも、自分が通る側を確かめていた。
私だけが教わって、五人がずっと待っている時間ではなかった。
最後にもう一度流した時、二番の終わりでは、下がる前に言葉を歌い切れた。
次のところへ動く。
横を通る小日向さんの顔を、確かめに行かずに済んだ。
今どんなふうに思われているかではなく、次に自分がどこへ行くかを考えていた。
終わってからも、直すところはいくつかあった。
サビで声が細くなったところは、鳴海先生にもう一度言われた。
それでも、朝ほど全部がばらばらな感じはしなかった。
「昨日の内容は残ってる。今日確かめたところは、火曜日にまた見よう」
高瀬先生が言った。
まだ終わりではない。
でも、昨日まで戻ってやり直すわけでもないらしい。
「ありがとうございました」
五人と一緒に頭を下げた。
片づけをしていると、小日向さんが近くへ来た。
思わず顔を上げる。
「さっきの二番、最後は合ってたよ」
「あ……ありがとうございます」
「うん」
自分の荷物を持ち、美月さんの方へ歩いていく。
美月さんは、もう鞄からスマートフォンを出していた。
「先輩、これです」
「今見るの?」
「ちょっとだけ」
二人の会話が、そのまま廊下へ続いていった。
私はノートを閉じて鞄へ入れた。
「真琴、これ真琴の?」
夏希が、床に残っていた一枚を持ち上げた。
歌詞の余白に、私の字がある。
「——私の。ありがとう」
「ノートだけちゃんとしまってたよね」
「書き終わって、安心したから」
「紙もないと困るじゃん」
「うん。だから助かった。ありがと」
受け取ると、夏希が笑った。
私も少し笑い、今度こそ二つを一緒にしまう。
外へ出た時は、まだ十分に明るかった。
駅へ向かう前に、お母さんへ帰る時刻を送る。
今日なら、夕食までに家へ戻れる。
————
その夜、夕食とお風呂を済ませてから、机にノートと歌詞の紙を並べた。
英語のプリントを少し横へ寄せ、スマートフォンへイヤホンをつなぐ。
今日言われたことは、まだ覚えている。
ただ、帰る前に分かっていたからといって、明後日もすぐに思い出せるかは分からなかった。
『またねの続きを』の音源を流す。
自分が歌うところへ来る前に、歌詞へ目を落とした。
ここで前へ出る。
歌って、そのあとに下がる。
机に座ったまま、頭の中で順番を辿った。
実際には足を動かしていないのに、鏡の中で隣にいた人の位置まで、何となく思い出せた。
一番のサビへ入る。
ノートに書いた注意を見る。
止まらず、次へ。
その脇には、別の注意もあった。
途中で声を小さくしない。顔を上げる。
一つずつ読んでいたら、曲の方が先へ進んでしまった。
「あれ……」
今どこのメモを見ればいいのか分からなくなり、一度、音を止める。
曲の長さは変わっていないはずなのに、読むものがあるだけでずいぶん早く聞こえた。
歌詞の紙を少し手前へ引く。
今度は音を追う方へ戻り、二番の終わりを待つ。
まだ下がらない。
最後の言葉まで歌ってから。
そこは、思い出せた。
小日向さんに指摘された時の自分の足も、映像で見た位置も。
曲が終わり、イヤホンを外した。
二番で下がるところは、思い出せた。
ただ、ほかの注意まで一緒に確かめようとすると、曲を聴くよりメモを読む方が忙しくなる。
もう少し、やり方がありそうだった。
五人は、いくつもの曲をどうやって復習しているのだろう。
ノートの端へ、家での復習の仕方、と短く書く。
歌詞の紙を挟んで閉じた。
今度、聞いてみよう。
英語の宿題を終えてから、寝る前に短い公式動画を一つだけ開いた。
最近は、練習の映像だけでなく、五人が普通に話している動画もよく見るようになっていた。
電車の中で途中まで見て、その続きを家で開くこともある。
今日選んだのは、前にも見たことのある番組の短い抜粋だった。
画面の中では、神谷さんが説明の途中で笑っていた。
美月さんが何か言うたびに、立て直そうとした顔がまた崩れる。
『玲奈さん、まだそこしか説明してないですよ』
『分かってる、ふふ……ちょっと待って』
待ってと言った本人が、また笑った。
つられて私も笑ってしまう。
少し下へ画面を送ると、コメント欄に『玲奈さんまたツボに入ってる』とか、似たようなものが沢山あった。
動画が終わる。
次のおすすめにも見覚えのある顔が並んだが、今日はそこで画面を消した。
————
六月二十三日、火曜日。
学校からFOLIOへ着き、着替えてレッスン室へ入ると、神谷さんと雨宮さんが先に来ていた。
「おはようございます」
「おはよう、真琴」
神谷さんが手元の紙から顔を上げる。
雨宮さんも挨拶を返し、隣に置いていた鞄を少し寄せてくれた。
今日は、この三人で鳴海先生のレッスンを受ける。
歌い出しや声の重なり、簡単な動きを加えた時の呼吸を確認する予定だった。
壁際にはキーボードがあり、その前に譜面台が並んでいる。
私は空いているところへ荷物を置き、ノートと歌詞の紙を出した。
開始までは、まだ少し時間があった。
神谷さんが紙を揃えたところで、声をかける。
「神谷さん、家で復習する時、どうやっているか聞いてもいいですか」
「ええ。何か困った?」
「日曜日、音源を聴きながらノートを見返していたんですけど。注意を読んでいるうちに曲が先へ行ってしまって、あまりうまくできなくて」
見てもらったページを開く。
一番と二番の書き込みは分けたので、どこの話かは分かる。
ただ、書いてあること自体は多かった。
「歌詞を見て、次の動きを思い出して、その時に言われた注意も見てってやっていたら、追いつかなくなりました」
神谷さんはノートを見て、小さく頷いた。
「一回流す間に、全部確かめようとしてたのね」
「はい。途中で止めたんですけど、再開するとまた別のところが気になって」
「私も、それを一度にはやらないわ。直したところを確認するなら、先にメモを読んで、そこの少し前から聴くことが多いかな」
神谷さんの指が、二番の書き込みのそばで止まった。
「たとえば、下がるところを確かめたいなら、まずはそこだけ。曲全体の順番を思い出したい時とは、分けてる」
「ああ……毎回、最初から流さなくてもいいんですね」
「ええ。自習まで通しでやる必要もないものね。引っかかったところを見たいのに、そこへ来るまでに別のことを考え始めると、また見逃してしまうでしょう?」
「そうなりました」
すぐに答えると、神谷さんが少し笑った。
日曜日も、二番へ来るまでにいろいろなことを考えていた。
一番のサビで言われた声のこと。その前の移動。
書いた覚えはあるのに、読みづらい文字。
一曲を聴いたつもりで、その間に随分ほかのことをしていたらしい。
「私は、歌い出しが気になる時は前の人のところから聴いてる」
雨宮さんが、自分の譜面から顔を上げた。
「自分の最初の音だけ聴くより、その方が入りを思い出しやすいから」
「前からつながるところを、ですか」
「うん」
雨宮さんは短く答えて、紙の端を揃えた。
自分の担当より前のところにも、小さく印がついていた。
私はノートと歌詞を見比べる。
二番の終わりだけを見るなら、それより前の注意まで一緒に読まなくてよかった。
「玲奈さんは、歌うところと動くところも、別々に確認していますか」
言い終わりかけて、止まった。
「あ、神谷さんは」
顔を上げる。
神谷さんは、普通にこちらを見ていた。
最近よく見る動画では、美月さんが何度も玲奈さんと呼ぶ。
小日向さんも夏希も、同じ呼び方だった。
目の前にいる雨宮さんは、玲奈、と呼ぶ。
レッスン室で聞く声に、動画のコメント欄で何度も見た名前まで重なっていた。
聞きたいことに気を取られていたら、そちらが先に出てしまった。
「別に、直さなくてもいいわよ」
「え?」
「皆もそう呼んでいるもの」
神谷さんは少し笑った。
「すみません。最近、動画もよく見ていて。皆さんや、コメントを書いている人がそう呼んでいるので、つい」
「ふふ、そういえばそうね」
それだけ言うと、私のノートへ視線を戻した。
「それで、歌と動きも別々に確かめることはあるわよ。歌詞を覚えたいだけなら座って聴くし、動く順番が曖昧なら、まずそっちを見直すし」
「いつも両方やるわけではないんですね」
「家でメモを見返す時まで、毎回全部やっているわけではないわ。時間も限られているから」
そこは、少し分かる気がした。
私にも、宿題や次の日の支度がある。
日曜日も、曲を一度聴いたあとには英語のプリントへ戻った。
「私、家では動かずに順番を思い出していたんです。二番で下がるところは分かったんですけど、サビに入る前の息は、聴くだけだとよく分からなくて」
「息を吸う場所を忘れた?それとも、場所は分かるけれど、歌うとうまくいかない?」
少し考え、歌詞の上の印を見る。
「場所は分かります。日曜日も、動きをつけるとそこで吸いそびれてしまって」
「それなら、今日はそこを鳴海先生に聞いてもらったら?私は家で見返していても分からなかったところは、印を残して、次に合わせる時に確認してる」
私は、歌詞の印の横へ小さく疑問符を書いた。
家で全部できるようにしようとすると、何度でも最初へ戻りそうだった。
でも、今は見返したいところと、歌って聞いてもらいたいところが分かれた。
「次は、先に確認するところを決めてから聴いてみます。分からないところまで、その場で何とかしようとしなくていいんですね」
「ええ。曖昧なまま自分で決め直すより、次に確かめた方がいいと思う」
「ありがとうございます、玲奈さん」
今度は、言い終えてから顔を上げた。
玲奈さんは小さく頷く。
隣では、雨宮さんが譜面を一枚めくっていた。
呼び方について何か言われることもなかったので、私もそのまま紙へ目を戻した。
疑問符の横に、サビ前の息、と書き足す。
メモを増やす前に、どこの話かは確かめた。
その時、鳴海先生が入ってきた。
「おはよう。三人とも揃ってるね」
私たちは挨拶をして、立ち上がった。
先生が今日の確認内容を話し終えたところで、私は歌詞の紙を示した。
「先生、『またねの続きを』のサビに入る前を、少し手前からつないで聞いてもらってもいいですか。吸う場所は覚えているんですけど、動きをつけると遅れることがあって」
「日曜日にも確認したところだね」
「はい。家で音源を聴いて思い出してみたんですが、そこは実際に歌わないと分からなくて」
「分かった。今日はそこも見よう。まず声だけでつないで、そのあとに動きを足そうか」
「お願いします」
先生は紙の場所を確かめ、キーボードの方へ戻った。
さっきまで、家でどう復習したかを最初から説明しなければいけない気がしていた。
でも、聞きたいところを示すと、それで通じた。
————
練習を続けて、中間の休憩のあとに鳴海先生が新しい歌詞の紙を出した。
『きみの街まで』。
「後半はこっちに入ろう。今日は歌うところから。真琴の担当を確認して、重なる部分も三人でやってみようか」
私は受け取った紙を見た。
知っている曲名だった。
ライブで聴いた時の、客席へ広がるような歌声も覚えている。
ただ、今度の紙には私の名字もあった。
「……もう次の曲なんですね」
つい口にすると、先生が頷いた。
「前の曲も続ける。だけど、あっちは完成度を高めていく段階に移ることができた。だから、一曲目の確認をしながら、次を少しずつ増やしていく。ライブの直前とかに、一曲を完璧にしてから次に移ることなんてまずない。何曲も並行して完成度を高めていく必要がある。その予行演習だと思ってくれればいいから」
前の曲の紙には、まだ注意が残っている。
それが全部なくなってから、次へ進むのだと思っていた。
二枚を重ねかけて、机の上へ並べ直した。
玲奈さんと雨宮さんも、新しい紙を開いていた。
自分が歌うところを確かめ、前の歌割りから変わった箇所へ印をつけている。
まずは、曲を聴いた。
自分の名字の横を指で押さえ、その前後の歌詞を追う。
前の曲とは、歌い始めるまでの間も違う。
曲調は、『またねの続きを』と同じゆったり目の曲。
夏希がメインになって激しく踊りながら歌うような曲じゃない。
多分、こういう観点でも曲を選んでくれてる。
自分の担当だけではなく、その前の人が歌っているところにも耳を向けた。
先生に示された短い部分を、一人ずつ歌った。
私は最初の音を取るところから。
二人は、言葉の区切り方や声の重ね方を確かめている。
同じ曲の紙を持っていても、皆が同じことを教わっているわけではなかった。
それでも、二人の声を聞いたあとに自分の担当が来ると、紙の上で離れていた言葉が少しつながって聞こえた。
今日は、まだ立ち位置をつけない。
曲の中で自分が何を歌うのかを、声で確かめるところまでだった。
最後に今日扱った部分を短くつなぐと、私は入りを一度間違えた。
止めて、戻して、もう一度。
二回目には、先生が数えなくても入れた。
「今日はそこまで。次も、今のところから確認しよう」
「ありがとうございました」
三人で頭を下げた。
先生は片づけに入る前に、私へ顔を向けた。
「家で音源を聴くなら、自分の担当と、その前のフレーズを続けて確かめておくといいよ。音が曖昧なところは印をつけて、次にここで合わせよう」
「はい」
新しい紙の、聴き直したいところへ印をつける。
まだ習っていない後半まで、今日のうちに全部見直そうとは思わなかった。
荷物をまとめる前に、新しいページへ『きみの街まで』と書く。
その下に、今日扱ったところを記した。
隣のページには、『またねの続きを』。
もう見返さなくていいページではない。
でも、今なら読んで思い出せることが増えていた。
歌詞の紙を、それぞれのページへ挟む。
「真琴、帰る準備できた?」
玲奈さんに呼ばれ、顔を上げた。
雨宮さんも、鞄を肩へ掛けて待っている。
「はい。今しまいます」
ノートを入れ、机に紙が残っていないことを確かめた。
二人のところへ行くと、そのまま一緒にレッスン室を出た。
覚えておく曲が、二つになった。