TS少女は演じたい   作:息抜き

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24話

六月二十四日、水曜日。

 

歌詞の紙を裏返したまま、私は二番の最後まで口を動かした。

止まらなかった。

紙を戻して確かめても、間違っているところはない。

 

昨日は自分の歌うところと、その前後を追うだけで忙しかった。

今日は曲全体の歌詞を先に覚え、それから自分の担当を確かめた。

言葉を探さなくてよくなると、前の人の声を聞く余裕も少し増える。

 

机の上には、歌詞とは別に、六人版の位置の図も広げてあった。

火曜日のレッスン後にもらった、木曜日の確認用資料だ。

短く分けられた見本の映像もつけてくれている。

こちらは、まだ教わっていない動きの予習になる。

 

分けて見れば、何度も戻さなくていい部分もあった。

少し立って足を確かめ、腕は別に覚える。

大きく移動するところは部屋に入りきらないので、図を見ながら頭の中で辿った。

最後に、映像を止める。

最初の位置から、足と腕と行き先を順に思い出した。

途中で抜けなくなっていた。

見本へ戻って確認しても、違うところはない。

歌詞も、振付も、順番は全部入った。

簡単に自分で同じ動作が出来るかも確認した。

ただ、それを歌いながらできるかは分からなかった。

 

ノートの端へ、明日確かめたい場所だけ書く。

学校の課題は先に終えたし、寝る支度にもまだ余裕があった。

もう一回最初から、と考えかけて、映像を閉じる。

今知りたいことは、画面を見直しても分からなさそうだった。

明日、実際にやってみよう。

 

————

 

六月二十五日、木曜日。

 

準備運動と発声を終えると、高瀬先生が『きみの街まで』のフォーメーション資料を開いた。

 

「渡しておいたところ、どこまで見た?」

 

「歌詞と振付の順番、位置は最後まで覚えました。歌いながら動けるかは、まだ分かりません」

 

言い切ってから、少し落ち着かなくなった。

間違えたらどうしよう、とは思う。

でも、昨日確かめたことまで曖昧にするのも違う。

先生は頷いた。

 

「じゃあやってみて確認しよう」

 

歌と動きを分けて、いくつかの区間を見てもらった。

前から順番にやるだけでなく、二番の途中や最後のサビからも始める。

 

確認で直されたのは、腕の角度と、一か所の歩幅だけ。

言われたところを変えてもう一度やると、そのまま次へ進めた。

ただ、歌と動きを重ねると、止まった直後の入りが遅れた。

 

「今のところ、場所に着いてから、もう一度向き直してしまいました」

 

自分から言うと、高瀬先生が映像を示した。

 

「そう。それが余計だ。最後の一歩で正面まで戻る。足だけではできてたな」

 

そこだけを分けて確かめ、もう一度つなぐ。

今度は次の言葉へ遅れずに入れた。

ほかにも、動くと声が細くなるところはあった。

人が横を通ると、ついよけてしまうこともあった。

それでも、直すたびに振付を最初から思い出し直す必要はなかった。

少しして、高瀬先生がタブレットを置いた。

 

「もう一個ずつはいいな。通そう」

 

私は顔を上げた。

 

「もうですか?」

 

「順番は全部入ってる。今直したところも、つなげて戻せた。次は一曲続けた時にどうなるか見る」

 

前の曲では、最後まで通すと言われるまで何日もかかった。

今日はまだ、覚えたところが合っているか確かめているつもりだった。

五人がそれぞれの位置へ向かう。

 

私も歌詞の紙を置いた。曲が始まった。

途中で一度、隣との間隔が狭くなった。

二番では、さっき直した入りが合ったことに安心して、その次の腕が少し遅れた。

後半のサビでは、声が細くなる。

でも、歌詞も動きも、途中で分からなくならなかった。

間違えたところを気にしている間にも、次にやることは出てきた。

最後の位置へ着く。音楽が終わった。

 

「細かな修正点はあるが、全体はつながった。二番の入りも直ってる」

 

高瀬先生の声を聞いて、ようやく息を吐いた。

そのあとも、曲全体を何度もやり直すのではなく、今の通しで崩れた場所だけ確かめた。

もう一曲目と同じように、続けてやったものを直す時間になっていた。

 

 

 

休憩中、玲奈さんへ声をかけた。

 

「家で、教えてもらったやり方を試しました」

 

「復習の?」

 

「はい。見るものを分けたら、前より早く終わりました。何回見ても、まだ確認していない気がする、というのがなくなって」

 

「それならよかった」

 

玲奈さんが笑った。

美月さんも近くへ来て、ボトルの蓋を開ける。

 

「今日、真琴が順番を覚えてきてくれたから、合わせる方までできたね」

 

「……はい」

 

「私も通るところ、実際にやって確かめたかったから助かった」

 

私は少し、返事に迷った。

褒められた、だけではない気がした。

家で一人で確かめていたことが、今日、ここで五人と合わせる時間になった。

そう思うと、嬉しかった。

休憩後には、『またねの続きを』にも戻った。

二曲目をやったあとだったから、最初だけ頭の中の音を切り替える。

それでも、一曲目の歌詞も位置も、ちゃんと残っていた。

日曜日に早く下がってしまった二番の終わりでも、最後の言葉まで歌ってから動けた。

 

————

 

鳴海先生が机の上から別の資料を取ったのは、『またねの続きを』の確認を終えたあとだった。

 

「このあとの歌唱は、次の曲の一部分にも入ってみようか」

 

私はボトルを置いた。

 

「……もうですか?」

 

「うん。『きみの街まで』は、歌詞も振付の順番もよく覚えてきてくれたからね。今日は一つずつ教えるところからではなく、実際につないだ時の修正まで進められた」

 

高瀬先生も、手元の記録を見ながら頷いた。

 

「止まったのも、次の動きが分からないからじゃなかった。歩幅や身体の向きを直すと、その先まで戻せていたな。『またねの続きを』の経験もちゃんと活きてる」

 

「——はい。ただ、最後のサビは、まだ声が小さくなってしまったので」

 

「そこは続けて見るよ。二曲目が終わったという意味ではないから」

 

鳴海先生が、『きみの街まで』の紙を指した。

 

「次に来た時にも今日の形へ戻れるか。そのうえで、後半まで声を保てるか。そこを確認する時間は残す。今日できた一回だけで、もう見なくていいってわけではないよ」

 

私は頷いた。

さっき通せたから、全部できることにされたわけではなかった。

 

「その一方で、今までの二曲は、どこを直すかがはっきりしてきた。だから、このあとの歌唱の時間には、別の短い担当も増やせると思う。次に用意していたのは、これ」

 

差し出された紙を受け取る。

 

『雨音のリフレイン』。

 

曲名を見てから、歌詞へ目を落とした。

二番の途中。

私の名字から引かれた線の先に、覚えのある言葉が並んでいる。

 

「ここ、五月に歌ったところですよね」

 

「そう。前に基礎の教材として使った部分。音や息の位置を一から覚えるところばかりではないから、次はここから入ろうと思っていたんだ」

 

以前のレッスンで、何度も歌ったところだった。

最初の音も、その次へどう続くかも、紙を見れば思い出せる。

ただ、前の紙には、自分の名字はなかった。

全員で同じ短い旋律を歌い、それぞれ違うところを直されていた。

今度の紙には、私の前に小日向さんの名字がある。

その先にも、別の人へ渡す線が続いていた。

 

「今日は、ここを六人版の担当として前後へつなぐ。動きまでは重ねない。歌だけで、前の人から受けて、次の人へ渡せるかを見よう」

 

「一曲全部を覚えるところからでは、ないんですね」

 

「うん。まずは、前にやった部分が今どう歌えるか。それを確かめてから広げる。思ったより戻らなければ、今日はそこを復習して終わりにする」

 

私はもう一度、自分の名字の横を見た。

三曲目、と聞いた途端、新しい歌詞と振付と位置を、また全部覚えるのだと思っていた。

でも、今日増やすものは、そこまで大きくなかった。

前に歌った短いところを、今度は自分の担当として歌う。

そのために、前後の人とのつながりを覚える。

何をするのかが分かると、さっきより落ち着いて紙を置けた。

 

————

 

最初に、自分の担当だけを歌った。

 

旋律は思い出せた。

言葉も途中で止まらない。

前に教わったところで息を吸えば、最後まで声は残った。

 

「音と入りは覚えてるね。じゃあ、小日向からつないでみよう」

 

鳴海先生が伴奏を始めた。

小日向さんの声に続いて、自分の言葉を出す。

前の人から続いていると思うと、短い部分だけを切り取って歌った時より、言葉の感じを変えたくなった。

最後を少し柔らかくしようとして、声も細くする。

そこで、鳴海先生の手が止まった。

 

「今、最後は少し低くなったね」

 

「……はい」

 

覚えていたからといって、歌い方まで身についたわけではなかった。

そこを確かめ、前にできていた出し方へ戻す。

今度は声を変えすぎず、最後の言葉を残したまま次へ渡せた。

 

「今日は、まずその形。終わり方の細かいところは、続けて作っていこう」

 

鳴海先生が紙へ印をつける。

私が水を飲んでいる間には、五人の歌うところも確認していた。

歌割りが変わると、どの声から受けるか、どこまで言葉を残すかも変わるらしい。

小日向さんが自分の紙へ書き込み、美月さんが鳴海先生へ短く聞き返していた。

そのあと、雨宮さんの長い担当へ進む。

雨宮さんは、私が声を細くしようとして崩したようなところで、音を残したまま歌い方を変えていた。

鳴海先生にもう少し抑えるよう言われると、次には、言葉の感じだけが違って聞こえる。

曲も歌詞も知っている。

それでも、どうすればあんなふうに歌えるのかは、まだ分からなかった。

 

「真琴は、最後を小さくし始めるの、もう少しあとでもいいと思う」

 

雨宮さんが、私の紙を見て言った。

 

「この部分までは、さっきの声のまま」

 

指された場所へ小さく印を足す。

鳴海先生にも確かめてから、最後にもう一度、前後をつないで歌った。

さっき直した音は、今度は下がらなかった。

でも、雨宮さんと同じように声を細くして終えられたわけではない。

私が今日できたのは、この短い担当を、前後の声へつなぐところまでだった。

 

「木曜日はここまで。土曜日にも、最初は同じ範囲から確認しよう」

 

鳴海先生が言った。

私は、今日歌ったところへ線を引いた。

歌詞の紙は一曲分ある。

けれど、自分がもう歌えるつもりでいていい範囲は、まだ、その中の一部分だった。

片づける前に、高瀬先生が土曜日の予定を話した。

 

「土曜は、まず今の二曲と、今日やった歌を確認する。そこで大きく戻らずに済むなら、午後のダンスの時間には『はじまりのパレット』のサビも入れていくつもりだ」

 

私は顔を上げた。

もう一つ、知っている曲名だった。

五人の曲の中でも、一番最初の曲だったはず。

 

「そちらも、全部ですか?」

 

「いや。最初はサビの一部分。歌と位置を一度に増やすんじゃなくて、共通の動きから見る。どこまで進むかは、土曜に今日の内容がどれだけ残っているかや、土曜のフォーメーションダンスの状態も見て決める」

 

次の曲も、もう考えてあるらしい。

ただ、土曜日になったら無条件に渡されるわけではなかった。

私はノートへ土曜日の予定もメモとして書いておいた。

最初に確かめるのは、今までの二曲。

それから、『雨音のリフレイン』の今日の範囲。

その下に、サビの導入予定、と書いて、新しい曲名を添えた。

 

————

 

六月二十七日、土曜日。

 

午前中は、予告されていた通り、最初の二曲から確認した。

 

『またねの続きを』を一度流し、直すところを短く確かめる。

そのあと、『きみの街まで』へ移った。

 

曲が変わると、最初に立つ場所も変わる。

木曜日には一瞬迷った切り替えも、今日は紙を見ずに戻れた。

歌詞と振付の順番は、どちらも残っていた。

二曲目のために覚えた動きが、一曲目へ混ざることもなかった。

それでも、二曲目の後半では少し歩幅が広がった。

声が細くなった場所もある。

ただ、先生に区間を示されると、そこから始めて直せた。

 

「木曜に入れた内容は残ってるな。入りも戻ってない。後半の幅は、続けて確認する」

 

高瀬先生が言った。

前に進むために、全部の注意が消えなければいけないわけではない。

でも、覚えてきたと言ったものが、日を空けても使えるかは見られている。

今日はそこを、もう一度確かめてもらえた。

 

『雨音のリフレイン』は、一曲を最初から流すのではなかった。

木曜日と同じ、自分の担当より少し前から。

まず歌だけでつなぎ、残してあった終わり方を確認する。

 

最初の一回では、また最後を弱くしすぎた。

けれど、紙につけた印を見て、どこまで声を残すのだったかは思い出せた。

短く確認すると、木曜日にできたところへ戻れた。

鳴海先生が頷く。

 

「今のところから続けられるね。今日は、この担当へ入る前後も少し広げよう」

 

私が歌わずに待つところも含めて、少し長くつなぐ。

歌詞を知っていても、自分の声を出すまでの間が変わると、準備する場所を確かめ直す必要があった。

そこが、今日新しく増えた部分だった。

その間にも、雨宮さんは自分の歌い方を鳴海先生と相談していた。

一度試し、もう一度変える。

私にはどちらも綺麗に聞こえるけれど、二人には違いがあるらしい。

自分の担当を覚えたことと、この曲を歌いこなせることの間には、まだ大きな距離があった。

 

————

 

昼食と長めの休憩を終えると、高瀬先生が私たちを鏡の前へ呼んだ。

 

「午前の二曲は、覚え直すところまでは戻らなかった。『雨音』の歌も、木曜の続きを進められている。だから午後は、予定していた次の課題へ入る」

 

渡された紙の一番上に、『はじまりのパレット』と書いてあった。

ただ、紙を受け取ると、やっぱり少し身構えてしまった。

これで、四曲。

随分ハイペースで曲を渡されている気がする。

一曲一曲の完成度はまだお世辞にも完璧とは言えない。

粗だらけだし、指摘されて修正してる部分も多い。

最初の二曲なんて、あくまで通せるというだけでミスがないわけではないのだ。

こんなに急ぐ必要性があるのかは分からないし、少し不安でもある。

そんな私の不安をよそに、高瀬先生は最初に曲全体の流れを示した。

サビがどこにあり、同じ動きがどこで繰り返されるのか。

そのうえで、一か所を指した。

 

「今日やるのは、ここの十六カウント。まずは歌なしで、足と腕の順番を入れる」

 

私は、その範囲へ指を置いた。

 

「『雨音』の続きもありますけど、どちらを先に覚えた方がいいですか」

 

「歌の続きは鳴海と進める。あの曲は要求技術が歌唱側に偏ってるからな。歌を先に仕上げないと動きが邪魔になるだけだ。だから、その間にこっちはダンスの課題だ。『雨音』の歌い方が全部仕上がるまで、新しい動きも止めておく必要はない」

 

先生は、前の二曲の資料も並べた。

 

「ただ、今までの振付まで分からなくなっていたら、先にそっちへ戻す。これは毎回確認するし、放置しておいて後からできていないじゃないかなんて言ったりもしない。今日は、二曲とも指摘さえすれば自分で修正もできていたから、この短い範囲を増やすんだ」

 

「……分かりました」

 

午前中に何を見ていたのかが、そこでつながった。

二曲目を早く覚えたから、四曲目も同じ速さで全部覚えられる。

そういう判断ではない。

今までの二曲を直す時間を残しても、今日は、新しい短い動きを教わるところまで進める。

その範囲を、先生が決めてくれていた。

 

「この曲は、今までの白瀬の担当より、腕と足の切り替えが多い。だから一曲分を渡す前に、この共通のところをどう覚えるか見たい」

 

高瀬先生が、サビの冒頭をゆっくり動いて見せた。

一つずつの動きには、見覚えがあった。

基礎でやった足もある。

でも、腕を戻し終える前に、次の足が出る。

知っている動きを順に並べれば、そのままできるわけではなさそうだった。

 

「これを今日入れて、明日もう一度やる。そこまで見てから、他の区間や歌を足していく」

 

私は紙へ目を戻した。

丸をつけた十六カウントは、一曲の中では短かった。

 

「前の曲みたいに、先の振付も予習しておいた方がいいですか」

 

「今回はまだそこまで進めなくていい。まず、この範囲を一緒に確かめる。先まで覚えることより、明日、今日の形へ戻れるかを見たい」

 

「分かりました」

 

『きみの街まで』では、一曲分の順番を入れてきたことが役に立った。

だから次も、渡されたものは全部覚えてくる方がいいのかと思っていた。

でも、今度の進め方は違うらしい。

私は、今日扱うところだけを囲んだ。

 

————

 

実際にやってみると、見本で気になった場所で遅れた。

高瀬先生に止まる位置を示され、腕がまだ途中にあるところで足を出してみる。

見た時には忙しそうだったけれど、身体をそこで止めて確かめると、何を重ねるのかは分かった。

その十六カウントだけを繰り返した。

途中で一度水を飲み、少し間を空けてから、また同じところへ戻る。

終わる頃には、次の動きを聞かなくても順番は続けられた。

ただし、音に合わせると、腕がまだ少し遅れる。

五人と並ぶと、その違いが鏡でも見えた。

 

「よし、今日はここまで。順番は入ったから、明日はこの切り替えが残っているかを見つつ、精度を上げる方向で見よう」

 

高瀬先生が音を止めた。

四曲目を通せたわけではない。

サビ全部を覚えたわけでもない。

今日は、この短い動きが新しく増えた。

片づける前に、先生たちと翌日の確認箇所を揃えた。

 

『またねの続きを』と『きみの街まで』は、通した時に残る崩れを直す。

『雨音のリフレイン』は、自分の短い担当と、その前後の歌唱。

『はじまりのパレット』は、今日の十六カウント。

 

紙は四曲分になったけど、四曲とも同じところまで進んだわけではなかった。

それぞれのページに、次に何をするかを書き足す。

 

「明日は新しい曲は増やさない。今日のサビを覚えているかと、前の二曲の修正箇所。それから『雨音』は、今日つないだ範囲を鳴海と続ける」

 

高瀬先生の言葉に頷いた。

今度は、四曲分の紙を見ても、全部を明日までに仕上げなければいけない感じはしなかった。

明日どこへ戻ればいいかは、もう書いてある。

私は紙を曲ごとに揃え、ノートを閉じた。

 

————

 

着替えを終えて廊下へ出ると、早川さんが翌日の予定と宿泊を確認してくれた。

今日は私一人で、滞在住戸を使う。

鍵をしまっていると、近くにいた雨宮さんがこちらを見た。

 

「今日も泊まるんだ」

 

「はい。明日もあるので」

 

「夕飯、決めてる?」

 

「まだです。何か買っていこうかと」

 

雨宮さんが少し考えた。

 

「私、帰って作るから。少し持っていこうか」

 

「えっ」

 

私は、鞄の口を閉める手を止めた。

 

「そんな、気にしないでも大丈夫ですので——」

 

「同じマンションだから、遠慮しなくていい」

 

「……そうなんですか?」

 

「うん。私、FOLIOに所属した時に上京したから、部屋も紹介してもらった。隣とかではないけど、同じマンションに住んでるよ」

 

「え、っと、つまり、一人暮らしなんですか?」

 

「そう」

 

それは初耳だった。

 

「……いいんですか?」

 

「うん。ご飯と、簡単なおかずだけど」

 

「でも、雨宮さんも疲れているんじゃ」

 

「自分の分は作るから。一人分増やすだけ。労力は変わらない」

 

特別なことを申し出た顔ではなかった。

本当に、夕飯を少し多く作ろうとしているらしい。

私は一度、鞄を持ち直した。

 

「じゃあ……お願いしてもいいですか」

 

「うん。食べられないものある?」

 

「極端に辛いものでなければ、大体大丈夫です」

 

「今日は辛くないから、大丈夫」

 

そこで夕飯の予定が決まった。

 

————

 

部屋へ着き、荷物を下ろす。

お母さんに到着したことを送り、雨宮さんが夕飯を持ってきてくれることも伝えた。

 

『そうなの。よかったね。ちゃんとお礼を言ってね』

 

『言ったよ』

 

送ってから、少し笑う。

そこは、さすがに言っている。

お風呂を先に済ませ、髪を乾かしてリビングへ戻った。

テーブルにはスマートフォンとコップだけ。

先週はこの時間、夏希が持ってきたトランプが広がっていた。

一人だと静かだけど、嫌ではなかった。

好きなところへ座って、何をするかも自分で決められる。

テーブルの端へ置いていた充電器を寄せる。

一人分の食事なら、そのままでも置ける。

それでも、何となく、真ん中を空けた。

しばらくして、インターホンが鳴った。

玄関を開けると、雨宮さんが袋を持って立っていた。

長い髪をゆるくまとめ、昼間とは違う、柔らかそうな服を着ている。

 

「お待たせ」

 

「ありがとうございます」

 

リビングへ案内すると、雨宮さんは袋から容器を出した。

ご飯。

鶏肉としめじのおかず。

青菜の小さな容器。

それから、蓋つきの汁物。

 

「お味噌汁、まだ温かいと思う」

 

受け取ると、手のひらへ温かさが伝わった。

 

「……ちゃんと夕飯ですね」

 

言ってから、少し失礼な言い方だったかと思った。

雨宮さんが目元を緩める。

 

「夕飯だから」

 

「そうなんですけど。もっと、何かおかずを一ついただくくらいかと」

 

実際、おかずを貰って、ご飯は自分で炊こうかなと思ってたくらいだった。

 

「ご飯もいるかなと思って」

 

「それは、欲しいですけど」

 

即答してしまった。

雨宮さんが小さく笑ったので、私も少し笑った。

普通に、お腹が空いている。

レッスンの途中にも食べたのに、もうおいしそうな匂いだけで、早く座りたくなっていた。

雨宮さんは空になった袋を畳んだ。

 

「じゃあ、冷めないうちに食べてね」

 

そのまま玄関の方へ身体を向ける。

私は容器を持ったまま、顔を上げた。

 

「あの」

 

雨宮さんが振り返る。

呼び止めてから、言葉を探した。

今日は、もう十分にしてもらっている。

ここでお礼を言って見送れば、それで済む。

それでも、ここまでしてもらってただ貰うだけなのも、何か違うと思ってしまった。

 

「……少し、一緒に食べてもらってもいいですか」

 

雨宮さんは、私を見た。

 

「うん。いいよ」

 

返事は、短かった。

 

「じゃあ、私の分も持ってくるね」

 

「……あ、はい」

 

「お箸、この部屋にもあるよね。もう一つ出しておいてもらえる?」

 

「はい」

 

雨宮さんが一度部屋を出て、玄関の扉が閉まった。

私は、お味噌汁の容器をようやく置いた。

食器棚を開け、お箸を二膳出す。

コップも、もう一つ。

何で一緒に食べたいのか、少し説明するつもりでいた。

一人だと寂しいのかと聞かれたら、そこまでではない気もして、うまく答えられなかったかもしれない。

何も聞かれなかった。

私は二つ目の椅子を引いた。

 

————

 

雨宮さんは、自分の夕飯と、お茶の袋を持って戻ってきた。

 

「ほうじ茶、飲む?」

 

「はい。お湯、沸かしますね」

 

先に食事を器へ移した。

ご飯の容器を開けると、まだ少し湯気が出る。

雨宮さんはおかずの汁がこぼれないように気をつけながら、お皿へ移していた。

私は汁物をよそった。

二つの椀を並べたところで、片方に豆腐が多いことに気づく。

少し調整する。

隣で、雨宮さんがこちらを見ていた。

 

「そんなに揃えなくて大丈夫だよ」

 

「……見始めたら、気になってしまって」

 

「多い方、真琴のでいいよ」

 

「そういうわけにも」

 

「じゃあ、私がこっち」

 

雨宮さんは片方を持ち、テーブルへ運んだ。

もう一方は私の前に置かれる。

問題は、あっさり終わった。

向かい合って座る。

 

「いただきます」

 

「いただきます」

 

鶏肉を一つ取る。

甘辛い味がして、ご飯に合った。

しめじにも、同じ味がついている。

 

「おいしいです」

 

「よかった」

 

雨宮さんも、自分のおかずを食べた。

私の感想を待ち続けるわけではなく、そのままご飯へ箸を移している。

お風呂には入ったのに、今になって身体の力が抜ける感じがした。

 

「いつも作っているんですか」

 

「作らない日もあるよ。買って帰る時もあるし、麺だけの日もある」

 

「これも、よく作るんですか?」

 

「うん。だいたい同じものになるけど」

 

雨宮さんが、お皿を見た。

 

「今日は、しめじを使いたかったから」

 

確かに、しめじが多かった。

鶏肉を一つ持ち上げた下にもある。

 

「……結構、入ってますね」

 

「多かった?」

 

「いえ。おいしいので」

 

「半分残すと、また何に入れるか考えるから」

 

「全部入れたんですね」

 

「うん」

 

私は少し笑ってしまった。

雨宮さんが、自分の椀へ目を落とした。

つられて私も見る。

 

昼間の歌では、この人が何を変えたのか、少しでも分かりたくて見ていた。

今は、目の前で小さく笑いながらご飯を食べている。

会話が少ないのも、雨宮さんはあまり気にしていないらしい。

何だか少し、調子が違う。

 

「真琴は、料理する?」

 

「家では、手伝うくらいです。一応レシピを見れば作れるとは思いますけど、一人で全部作ることはあんまりないです」

 

「何作るの?」

 

「卵焼きとかですかね」

 

「卵焼き、いいね」

 

「でも、焦がしたくなくて火を弱くしすぎるので、時間がかかります」

 

雨宮さんが頷いた。

 

「朝だと、ちょっと困るね」

 

「はい。だから、お弁当の分を作る時は、早めに始めます」

 

「ちゃんと朝に作るんだ」

 

「……任された時だけです」

 

自分で付け足すと、雨宮さんが笑った。

毎朝お弁当を作る人だと思われるのは、さすがに違う。

少し食べてから、今度はこちらが聞いた。

 

「雨宮さんは、朝も作るんですか」

 

「パンのことも多いよ。焼くだけ」

 

「先週、夏希が焼いてくれました」

 

「一緒に泊まった時?」

 

「はい」

 

先週の朝を思い出す。

テーブルには、もうトランプもゲーム機もなかった。

その代わりに、焼けたパンが並んでいた。

雨宮さんが、少し首を傾けた。

 

「夏希、楽しかったって言ってた」

 

「……私も楽しかったです」

 

雨宮さんは小さく笑い、また食事へ戻った。

少しの間、何も話さなかった。

自分から残ってほしいと言ったのだから、何か話した方がいいのかもしれない。

一度はそう思った。

でも、雨宮さんは普通に食べている。

私が次の話を始めるのを待っている顔でもない。

食事が進んでいるだけだった。

 

「これ、どうやって作るんですか」

 

「小松菜をレンジにかけて、味つけただけ」

 

「レンジなんですね」

 

「うん。お鍋、増えるから」

 

「洗い物が理由ですか」

 

「そう」

 

その返事が、すごく分かる気がした。

もう一品作るかどうかは、作る時間だけの話ではないらしい。

特別な料理ではない、と雨宮さんは言っていた。

でも、温かいご飯とお味噌汁があって、おかずがいくつかある。

それを誰かと一緒に食べるのは、思っていたより嬉しかった。

 

「足りる?」

 

雨宮さんに聞かれ、頷く。

 

「はい。十分です」

 

「よかった」

 

私は、まだ少し残っていたご飯を口へ運んだ。

 

————

 

片づけ終えて、沸かしておいたお湯でほうじ茶を淹れた。

二つのコップをテーブルへ運ぶ。

雨宮さんが一口飲み、ゆっくり息を吐いた。

 

「落ち着く」

 

「いつもそれ飲んでるんですか?」

 

「結構。好きだから」

 

「レッスンの時の水筒も?」

 

「うん」

 

見慣れていた水筒の中身が、ようやく分かった。

何度も隣で見ていたのに、聞いたことはなかった。

私は両手でコップを持った。

食べ終わると、足に昼間の重さが戻ってくる。

椅子の下で、少し楽な位置へ動かした。

 

「疲れたね」

 

雨宮さんが言った。

 

「……はい」

 

すぐに答えると、雨宮さんが小さく笑った。

それ以上は、特に話が続かなかった。

私もお茶を飲み、しばらくそのまま座っていた。

 

「そういえば、真琴」

 

顔を上げると、雨宮さんがコップを置いたところだった。

 

「私も、名前で呼んでいいよ」

 

「……名前、ですか」

 

「うん。この間、玲奈のこと、名前で呼んでたでしょ」

 

火曜日のレッスン前を思い出した。

家での復習の仕方を聞いているうちに、玲奈さん、と口から出てしまった時。

雨宮さんも、すぐ隣にいた。

 

「聞いてたんですね」

 

「うん。隣にいたから」

 

そうだった。

特に何も言われなかったので、呼び方のことまで覚えられているとは思っていなかった。

 

「私も、澪でいいよ」

 

そう言って、雨宮さんはまたコップを持った。

 

澪。

 

頭の中で一度、呼んでみる。

名前は、もちろん前から知っている。

でも、目の前の人へそのまま呼びかけるところを考えると、少し口が止まった。

夏希の時は、ゲームに夢中になっているうちに、喋り方の方が先に変わっていた。

今は、呼び方そのものを考えてしまう。

そこで、美月さんの声を思い出した。

小日向さんをひより先輩と呼んでいるその声を。

いつも、あまりに自然に呼んでいる。

名前でも、先輩として呼べる。

これなら、敬語が残ってても不思議じゃない。

同じようにしてみたら、少し言いやすい気がした。

 

「……澪先輩、でもいいですか」

 

雨宮さんがこちらを見た。

 

「うん」

 

「美月さんが、小日向さんのことを、ひより先輩って呼んでいるので。その方が、私も呼びやすいかなって」

 

「そっか。じゃあ、それで」

 

あっさり頷かれた。

私が考えていた間も、特に答えを急かされなかった。

雨宮さん、と呼ぶより、少し近くなった感じがした。

向かいでは、コップが静かに置かれる。

見ると、中のお茶がほとんどなくなっていた。

 

「……澪先輩、お茶、もう少し飲みますか」

 

今度はちゃんと呼びかけた。

少しだけ声が慎重になったのが、自分でも分かった。

澪先輩は時計を見てから、コップをこちらへ寄せた。

 

「じゃあ、半分くらい」

 

「はい」

 

私は二つとも持って立ち上がった。

お湯を注いでいると、さっき口にした名前を思い出して、少し気恥ずかしくなる。

ただ、戻ってきた時には、澪先輩は普通に椅子へ座っていた。

コップを置く。

 

「どうぞ」

 

「ありがとう」

 

名前を変えたからといって、次に何を話すかまで変える必要はなさそうだった。

私も座り直し、お茶へ口をつける。

まだ熱かった。

すぐに置き直すと、向かいでも同じようにコップが戻された。

目が合う。

 

「……熱いですね」

 

「うん。もう少し待とう」

 

二人で少し笑った。

 

————

 

お茶が冷めるのを待ちながら、しばらく何も話さずにいた。

昼間には、澪先輩の声が聞こえると、何をどう変えたのか知りたくなった。

聞いてみたいことは、今もいくつかある。

でも、今日はそのために残ってもらったわけではなかった。

私はコップを持ち直した。

今度は、少しずつ飲める。

 

「真琴、明日の朝の分、買ってある?」

 

澪先輩に聞かれ、頷いた。

 

「はい。パンがあります」

 

「そっか」

 

「先週、夏希が焼いてくれたので。今週は自分で焼こうと思って」

 

「焼ける?」

 

私は顔を上げた。

 

「パンくらいは焼けます」

 

澪先輩の肩が、小さく揺れた。

 

「うん」

 

「……今、少し笑いましたよね」

 

「ちょっと」

 

私も笑って、コップを置いた。

名前で呼んでいいと言われたばかりなのに、もう普通にそんな話をしている。

 

二杯目を飲み終えたところで、澪先輩が言った。

 

「そろそろ戻ろうかな」

 

「はい」

 

もう少し一緒にいてもよかった。

でも、さっき半分だけと言っていたお茶も、もうなくなっている。

空の容器を袋へ入れた。

持ってきてくれたほうじ茶も返そうとすると、澪先輩が首を振った。

 

「それは置いておく。明日の朝にでも飲んで」

 

「……ありがとうございます。それじゃあ、パンと一緒に」

 

「うん」

 

袋を渡して、玄関まで見送った。

 

「今日は、ありがとうございました」

 

靴を履き終えた澪先輩が、顔を上げる。

 

「ご飯、おいしかったです。それと……一緒に食べてもらえて、嬉しかったです」

 

「私も」

 

小さく笑って、袋を持ち直す。

 

「じゃあ、また明日」

 

「はい。おやすみなさい、澪先輩」

 

今度は、言う前に考え込まずに済んだ。

 

「おやすみ、真琴」

 

扉が閉まる。

一緒に食べてほしいと言ったら、残ってくれた。

お茶をもう少し勧めたら、半分だけ、と返ってきた。

それから、自分も名前で呼んでいいと言ってくれた。

明日、レッスン室で顔を合わせた時にも、と呼べるだろうか。

玄関では、普通に澪先輩と口から出た。

会話は少なかったはずなのに、何故か妙に仲良くなれた気がした。

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