TS少女は演じたい 作:息抜き
六月二十八日、日曜日。
レッスン室へ入ると、澪先輩が窓際で髪をまとめていた。
「おはようございます、澪先輩」
言ってから、ちゃんと呼べた、と思った。
「おはよう」
澪先輩も普通に返して、手に持っていたヘアゴムで髪を結わえる作業を続けていた。
鞄を置いていると、澪先輩がこちらを向く。
「朝、食べた?」
「はい。パンと、いただいたお茶で」
「そっか、よかった」
「……そんなに心配することではないと思うんですけど」
「うん」
その返事のあとにも、少し笑っていた。
私も笑ってから、ボトルを出した。
昨日と同じ名前で呼び、昨日と同じような話をしている。
レッスン室だからといって、雨宮さんへ戻す必要はなさそうだった。
————
準備運動を終えると、高瀬先生が『はじまりのパレット』の資料を開いた。
「昨日の十六カウントから。最初は見本なしでやってみよう」
紙を置いて、鏡の前へ立つ。
最初の足。腕を開く。戻し終える前に、次の足を出す。
昨日、何度も止めて確かめた場所を、今日は止まらずに越えられた。
順番を途中で探すこともない。
ただ、音へ合わせると、後半の腕が少し遅れた。
「足の切り替えは問題ない。次、腕だけでもう一回」
高瀬先生が、私の横で動いて見せる。
「下げたところで、一度止めているな。その間はいらない。前の動作からそのまま続けていい」
私は腕を下ろしたところで、動きを止めた。
確かに、そこで一つ終わったつもりになっていた。
次に上げる方は、別の動作として考えている。
「えっと、つまり、ここで区切らないんですね」
「そう。足はもう次へ行ってる。腕だけ前の動きに残らないように」
一つずつ、終わったことを確かめてから次へ進む方が、私には分かりやすい。
でも、その確かめる時間まで音楽が待ってくれるわけではなかった。
もう一度、音が流れる。
今度は、下げた腕を止めずに次へつなげた。
昨日より、少し忙しくない。
同じ速さなのに、途中にあった余計な待ち時間がなくなった感じがした。
「今のでいい。少し休んでから、五人と合わせる」
先生が音を止める。
水を飲んで戻ってきても、直したところは思い出せた。
五人と並ぶと、自分の腕の角度がまだ違うことは分かる。
それでも、切り替えのたびに一人だけ遅れる感じは、さっきより小さくなっていた。
隣の小日向さんは、二回目も同じところへ腕を戻している。
三回目も、同じだった。
私が一回できた、と考えている間に、この人はもう、次も同じにできるかを確かめている。
音が止まったあと、小日向さんがこちらを見た。
「昨日より、途中で止まらなくなったね」
「はい。まだ、腕の高さが少し違いますけど」
「そこは先生が言ってたところ。切り替えの方はちゃんとできてたよ」
鏡を見ながら、もう一度だけ腕の位置を確かめる。
全部が直ったわけではない。
でも、昨日できなかったことと、今残っていることを、別々に考えられるようにはなってきた。
そのあとは、前の曲へ戻った。
『またねの続きを』では、後半の歌い終わり。
『きみの街まで』では、人が横を通った時の歩幅。
『雨音のリフレイン』では、昨日、澪先輩と確かめた語尾。
同じレッスン室にいても、曲が変われば気をつける場所が変わる。
『雨音』の最後を少し弱くしすぎた時には、鳴海先生に言われる前に、紙へつけた印が頭に浮かんだ。
もう少し先まで、声を残さないといけないのに。
「今、少し早く小さくしてしまいました」
自分から言うと、先生が頷く。
「うん。どこまで残すかは覚えてる?」
「もう一拍くらい先までです」
紙を指してから、歌い直す。
今度は音が下がらなかった。
先生は短く頷き、そのまま小日向さんの前の部分から伴奏を始めた。
最初から説明し直してもらわなくても、続きへ戻れる。
そんなことが、今日は何度かあった。
————
着替えを終えると、早川さんが来週の予定を確認してくれた。
「白瀬さん、来週は予定通り、火曜日と木曜日はお休みです」
「はい」
「土曜日は学校の方が終わってからの様子も見て、いつもより短い枠にしています。日曜日はお休み。その次の火曜日から、また通常の予定へ戻しましょう」
期末考査のために、前から相談していた日程だった。
分かっていたはずなのに、二日とも来ないと聞くと、少し落ち着かなくなる。
ここ最近は、次に来る時に何を確かめるかを、いつも考えていた。
その間が、今度は少し長い。
「土曜日まで、今日のところを確認しておいた方がいいですか」
「学校の方を優先してください。いつも通り、こちらから提出してもらうものはありません」
早川さんが答えた。
近くにいた高瀬先生も、こちらを見る。
「今日直したところは、次に来た時にまた見る。家で新しい範囲まで進めなくていい」
「分かりました」
「忘れたところがあっても、土曜に確認して戻せばいいからな」
私は頷いた。
曲を増やさないと言われた昨日には、少し安心した。
今度は、レッスンそのものが減ると言われて不安になっている。
我ながら、面倒なことを考えている。
————
翌週、試験を一つ終えた日の教室で、由佳が問題用紙を机へ置いた。
「最後の問題、もうちょっと時間が欲しかった」
「何書いたの?」
「途中までしか書けなかった」
「途中まででも書いてあれば——」
「最後の一文が、すごく何かを言いかけて終わってる」
私は由佳の顔を見た。
「律儀だね。人によってはそのまま最後まで一気に書ききっちゃうだろうに」
「それは……まぁ、私の美徳かも」
「何言ってんだか……テストで時間が足りなかった人の強がりにしか聞こえないよ」
「なにも言い返せない……」
由佳が笑う。
私も少し笑って、自分の問題用紙を畳んだ。
こちらも、全部できたとは言えない。
言い訳をするわけではないけど、単純に勉強不足だ。
いつもだったらテスト勉強に当てていた時間をレッスンや移動、レッスンの予習復習に使ったんだから、仕方なくはあるんだが。
「真琴、今日もまっすぐ帰る?」
「うん。明日の分、まだ見たいところがあるから」
「私も。今日こそ早めに始める」
「昨日も言ってた」
「昨日は昨日で頑張ったよ。今日の私に仕事を残しただけ」
「引き継ぎが雑なんじゃない?」
「前任者に言っておく」
鞄を持って立ち上がる。
由佳とは帰りながら、試験が終わったら見たい映画の話を始めた。
私にも、途中まで見たままになっているものがある。
前なら、その続きを見る時間を作ることは、そんなに難しくなかった。
だけど、いつの間にか、週末にはレッスンがあるのが当たり前になっていた。
————
七月四日、土曜日。
久しぶりに履くレッスン用の靴は、別に何も変わっていなかった。
紐を結び直して立ち上がると、少し離れたところから美月さんが手を振る。
「おはよう真琴。テスト終わった?」
「はい。昨日で」
「お疲れさま」
「ありがとうございます。あ、それと……お誕生日、おめでとうございます。遅くなってしまいましたけど」
六月三十日。
試験範囲を見直している合間に、公式のお知らせを見ていた。
美月さんがぱっと笑った。
「ありがとう。私、十八歳になりました。これでもう大人ですよ、大人」
「大人になって何か変わりました?」
「うーん」
少し考えたあと、美月さんは隣の小日向さんを見た。
「ひより先輩、私、何か変わりました?」
「本人が分からないことを聞かれても」
「見た感じとか」
「今日も元気だなとは思う」
「それ、いつも通りってことじゃないですか……?」
小日向さんが笑う。
私もつられて笑った。
美月さんは私へ向き直った。
「ということで、そんなに変わってないみたい」
「前回会ってから、たった四日しか経ってないですからね」
「真琴まで」
そう言う声も、確かにいつも通りだった。
私はボトルを置いた。
何日か来なかっただけなのに、部屋へ入る前は、少し久しぶりな感じがしていた。
二、三往復話したら、もうその感じはなくなっていた。
————
最初に確かめた『またねの続きを』は、思っていたより普通に始まった。
歌詞は出てくる。
最初に立つ場所も、次に行く場所も分かる。
ただ、二番の移動で、一度だけ足の向きに迷った。
間違えた方へ出る前に止めようとして、半拍ほど遅れる。
曲を止めてもらったあと、私は床の印を見た。
「次の場所は覚えていたんですけど、どちらの足からだったか、少し迷いました」
高瀬先生が頷いた。
「一つ前の終わりからやろう」
前の動きを最後まで行う。
そこで残っている足へ体重を乗せると、次にどちらから出るかも分かった。
「あ、こっちです」
「そう。それを少し前からつなぐ」
音へ戻る。今度は迷わなかった。
全部、消えていたわけではない。
曖昧になっていたところも、前後をたどれば戻ってきた。
『きみの街まで』では、先週直した歩幅を確かめる。
『雨音のリフレイン』では、語尾を残すところ。
それから『はじまりのパレット』の十六カウントへ戻った。
腕を下げたところで止めない。
日曜日に教わったことを思い出し、足と一緒につないだ。
「そこは問題ないな」
高瀬先生が言った。
私は息を整えながら頷いた。
一週間近く空いたら、もっと戻ってしまうのかと思っていた。
直されたところはあっても、最初に教わった時まで戻った感じはなかった。
先生は次の紙を開く。
「じゃあ、このサビの前後へ広げよう。同じ動きを使うところを先に確認する」
もう一度、最初から教わり直すのではなく。
先週の続きだった。
————
『はじまりのパレット』は、覚えた動きが別の場所にも出てきた。
サビの歌詞と同じ言葉。
少し違う入り方。
そこまでの移動。
紙の上では似た形でも、前に何をしていたかによって、最初に出す足の感覚が違った。
「こっちは、さっきより早く腕を上げ始めるんですか?」
私が聞くと、高瀬先生が首を振る。
「上がる拍は同じだな。前の動きを小さくして、そこへ間に合わせるんだ」
「真琴真琴、こう、こんな感じ!こう、スッと」
横で夏希が、一つ前の動きからゆっくりやって見せた。
「スッ?……あ、ここの戻り方か」
「伝わった!そう!こっちだと、そんなに遠くまで出してないでしょ!」
夏希の腕を見て、自分でも動かしてみる。
今度は、サビの最初へ遅れずに入れた。
「ああ……分かった」
「でしょ」
夏希が笑う。
「でも、音にあわせてできるかはまだ分からないかも」
「じゃあ、音ありでやろ」
それはそうだった。
実際に流してみると、一回目はやっぱり腕が大きくなった。
二回目では、前の区間を少し抑えられた。
いつもより短いレッスンの日でも、直すことはちゃんとある。
空いた分を一気に取り返すわけではないのに、終わる頃には、ノートへ足す印がいくつも増えていた。
休憩のあと、鳴海先生が次の歌詞を配った。
『呼吸をそろえて』。
知っている曲だった。
今年の二月に出たばかりの曲で、六月のライブでも聴いた。
玲奈さんの声で始まり、途中から次々に声が重なっていく。
袖から見ていた時には、歌う人が変わっても、曲全体の勢いが途切れないのが印象に残っていた。
「今日はAメロの短いところから。先に歌と息の場所を確認して、それから移動を重ねてみよう」
鳴海先生が、私の担当を指した。
これで五曲目になる。
紙を受け取ると、つい、一番下まで見てしまった。
そのあとで、今指された短いところへ視線を戻す。
今日はここから。
全部を今すぐ、ではない。
最初に、歌だけで確かめた。
「そこは小さく終わらせなくていい。次の人へ、同じ流れで渡して」
声を残して歌い直す。
鳴海先生が頷いた。
次に、自分の担当へ入る前の移動を、高瀬先生と確かめる。
難しい足を新しく覚えるのではなかった。
今までにもやった、数歩の位置変更。
最後の一歩で正面へ戻るところも、一度は別の曲で直されたことがある。
足だけなら、できた。
歌だけでも、さっきできた。
それで、少し安心していた。
小日向さんの声が聞こえる。
私は決められた位置へ動く。
最後の一歩で正面を向いた。
その時には、もう自分の言葉が始まるところだった。
遅れたのが、自分でもはっきり分かった。
「今、吸う方が遅かったね」
鳴海先生が伴奏を止めた。
「はい」
位置へは着いた。
向きも、直し直してはいない。
それでも、歌の最初には間に合わなかった。
「どこで吸うつもりだった?」
紙へつけた印を指す。
「ここです」
「うん。歌だけの時はそこでできてた。今は?」
私は、さっき動いたところを思い返した。
小日向さんの声を聞いていた。
移動の足を間違えないようにしていた。
正面を向けたことを確かめた。
その間、息を吸うことだけが抜けている。
「場所に着いたら歌おうと思って……息まで、着いてからになっていました」
「そうだな。じゃあ次は歌わなくていい。移動しながら、印をつけたところで吸うだけ」
高瀬先生が、最初の位置を示した。
もう一度、数歩動く。
歌を出さなくていいと言われると、どこで息を吸うかだけを考えられた。
小日向さんの声がまだ続いている間に、自分の準備をする。
位置へ着いた時には、もう歌い出せる状態になっていた。
「次、同じところで吸って、短い歌まで」
声を戻す。
今度は最初の言葉が合った。
その代わり、最後の方では少し弱くなった。
できたと思った途端に、別のところが出てくる。
でも、鳴海先生は最初からやり直しとは言わなかった。
「入りは今のでいい。次は最後まで声を残そう」
私は頷いた。
覚えることが、一つ増えた。
足を出す場所でも、歌詞でもない。
人の声を聞きながら、自分の息を用意する場所だった。
————
私が水を飲んでいる間には、五人の歌も確認していた。
玲奈さんの入口から、小日向さんへ。
私の担当を挟んだ先で、美月さんが歌い始める。
前の人が変わると、同じ言葉でも聞こえ方が変わるらしい。
鳴海先生が美月さんへ、歌い始めの強さを少し変えるように言った。
「白瀬の最後を待ってから押し出すんじゃなくて、そのまま受けて。今のだと、そこで一回切れて聞こえる」
「はい。もう一回お願いします」
美月さんがこちらを見る。
私もボトルを置いた。
自分が歌えたかどうかだけを確認していた時には、気づかなかった。
私の終わり方を受けて、美月さんも歌い方を調整している。
もう一度つなぐ。
途中で遅れずに入り、最後の言葉まで声を残した。
その先へ、美月さんの声が続いた。
先生はすぐには止めなかった。
美月さんの担当が終わってから、鍵盤から手を離す。
「今のつながりで。白瀬は、次も同じところまで残せるように」
「はい」
美月さんが私へ小さく頷いた。
私も返す。
声の大きさも、余裕も、まだ違う。
それでも、私が歌うところは、私のところだけで終わっているわけではなかった。
後半では、澪先輩の長い歌唱も聴いた。
自分が短いところで苦労している間に、澪先輩はずっと声を残している。
しかも、鳴海先生と相談しているのは、最後まで歌えるかどうかではなく、途中の言葉をどれくらい前へ出すか、ということだった。
隣では玲奈さんが、歌詞へ細かく書き込んでいる。
小日向さんは、移動の図と歌割りを見比べていた。
曲名は『呼吸をそろえて』。
曲名はそうでも、全員が同じ時に吸って、同じように歌えばいいわけではない。
私は、自分の紙にある息の印を、もう少し分かりやすく書き直した。
————
七月七日、火曜日。
放課後にFOLIOへ着くと、先に身体をほぐし、土曜日の続きを確認した。
『呼吸をそろえて』の短い担当。
移動しながら息を吸う場所は、覚えていた。
一回目は最後の言葉が少し弱くなったけれど、入りは遅れなかった。
『はじまりのパレット』の前後も、短く見てもらう。
全部が滑らかになったわけではない。
ただ、どこから始めると言われても、その前まで全部たどり直す必要はなくなってきた。
高瀬先生がタブレットへ何かを入力し、鳴海先生と短く話す。
私はその間に水を飲んだ。
休憩が終わると、鳴海先生が端末を操作した。
「じゃあ、次に扱う曲を一度聞いてみようか」
また一曲、増えるらしい。
ボトルの蓋を閉めて、椅子へ座った。
机の向こうには新しい資料が重ねてあったけれど、まだこちらへは渡されていない。
どの曲だろう。
速い曲だと、覚える動きも増えそうだった。
静かな曲なら簡単かというと、『雨音』でそうではないことも分かっている。
音が流れた。
短い楽器の音。
そのあとから、ゆっくりと別の音が重なってくる。
私は少し首を傾けた。
……聞き覚えがない。
最初は、練習用に伴奏の音を減らしたり、歌を確認しやすくしたりしてあるのかと思った。
でも、歌が始まっても分からなかった。
五人の声ではない。
旋律を示すための仮歌なのだろう。
それでも、知っている曲なら、言葉かメロディーのどちらかで気づくはずだった。
二月にFOLIOを調べた頃には、曲名もほとんど知らなかった。
それでも今は、公式の音源も、練習の映像も、かなり聴いている。
六月のライブで初めてちゃんと覚えた曲もあった。
そのどこにも、今流れている音が当てはまらない。
もしかして、ライブだけでやっていた曲だろうか。
それとも、私がまだ聞いていないものがあったのか。
最初のサビが終わったところで、鳴海先生が音を止めた。
「ここまでで、何かある?」
私は少し迷ってから、口を開いた。
「あの、この曲……聞いたことがなくて」
「うん」
「私が、知らない曲ですか?何の曲ですかね……?」
先生は頷いた。
「知らなくて当然だね。新曲だから。まだ公開されていないんだ」
私は先生の顔を見た。
新曲。
「……今まで出ている曲では、ないんですか」
「そう。制作途中のデモ。ただ、旋律と構成、基本の歌割りは、この形で練習を始められるところまでできている」
言われてから、机の向こうの資料を見た。
今までの曲は、知っていた。
歌い方は分からなくても、五人がどう歌っていたかは聴けた。
振付が難しくても、映像を見れば、できている形があった。
さっきまで流れていた曲には、そういう覚えが一つもない。
鳴海先生が資料をこちらへ渡した。
一番上には、『新曲(仮)』とはっきり書かれていた。
紙をめくる。
歌詞の横に、担当する人の名字が並んでいた。
その中に、白瀬もある。
名字が六つ並ぶ資料は、前の五曲でももらっていた。
でも、今回は少し違う気がした。
「あの、これは……五人の音源や、振付の映像は、まだないんですよね」
高瀬先生が頷いた。
「五人版は作ってない。最初から六人で組むことを想定してる」
紙をめくる手が止まった。
「最初から、ですか」
「うん。六人で進むことになった場合に使う、新しい曲として準備しているものだよ」
鳴海先生が続けた。
「もちろん、この曲が来たから、加入や発売が決まったということではない。今は、六人でどう作れるかを確かめる段階」
「……なる、ほど」
そこは分かっているつもりだった。
私はまだ候補だ。
それでも、最初から自分を含めて作られた曲を渡されるのは、今までとは違った。
誰かが歌っていたところを、今度は私が歌う。
誰かの位置を変えて、私が立てる場所を作る。
これまでは、そういう変更を教わっていた。
でも、目の前の紙には、その前の形がなかった。
まだ私が入ると決まっていないうちから、私の名字を入れて、言葉を割り振った人がいる。
そう考えると、急に、紙を持つ手が慎重になった。
「あまり難しく考えすぎなくていい」
高瀬先生が言った。
顔を上げる。
「五人版がないだけで、白瀬が一人で何か作るわけじゃない。振付も歌も、こちらで組んだものを六人で確かめる。そこは今までと同じだ」
「……はい」
「既存の五人も、今度は新しく覚える。木曜はそこから合わせる」
五人も、新しく覚える。
その言い方で、少しだけ、紙の向こうの様子を想像できた。
五人は、既に役割が決まっているかのように、それぞれ得意な方向から動き始めるだろう。
多分、私はその中で、何度も止まる。
五人と同じ速さで覚えられるわけではない。
それでも、私だけが知らない曲を追いかけるのではなくなる。
私は、もう一度歌詞へ目を落とした。
「最初に見てほしいのは、ここと、Aメロのこの部分」
鳴海先生が二か所を示した。
一つは、短い独白のような言葉。
もう一つは、小日向さんと美月さんの間に入る歌唱だった。
長い高音ではない。
曲全体の中では、短い。
その先には玲奈さんの名前があり、サビでは全員になる。
後半の大きく盛り上がるところには、澪先輩の名字が続いていた。
「後半は、雨宮が長いところを支える。白瀬は、まず短い担当と、その前後のつながりを覚えよう。この辺りの役割はここまでの五曲の歌割りと変わりはないね」
「はい」
高瀬先生が、位置の図も出した。
「動きが大きく切り替わるところは桜庭を中心に組む。白瀬も共通の振りはあるが、自分の言葉を出す直前に、難しい移動を重ねる形にはしていない」
図の中で、自分の名字を探す。
前へ出るところもあった。
ただ、そこにずっといるわけではない。
次の人へ渡し、位置を変える。
六人でやる場合に使う新曲って言っていたけど、私メインの曲ではなかった。
当たり前なのに、それが分かると少し安心した。
自分のために全部を用意されたら、何を返せばいいのか分からなくなってしまう。
五人にも、それぞれの場所がある。
その中に、私の担当もある。
これまでの曲と同じだ。
「曲名は、まだ決まっていないんですか?」
表紙を見ながら聞くと、鳴海先生が答えた。
「今は仮題の段階。資料や連絡では、しばらく『新曲』で揃えるよ」
「分かりました」
ノートの新しいページへ、『新曲』と書く。
少し迷って、その横へ小さく『仮』を足した。
「それと、今後の進め方も話しておこう。曲を増やすのは、いったんこれで終わりだ」
顔を上げた。
「これで、全部ですか?」
「今の練習で扱うのは、この六曲だ。これ以上は増やさない」
少しだけ、肩の力が抜けた。
土曜日に考えていたことへ、答えが出た。
どこまで増えるのか分からないまま、次の紙を受け取り続けるわけではないらしい。
そのまま安心しかけて、一番新しい紙を見る。
これは、まだ何も覚えていない。
「六曲ともできるようになったという意味ではないよ」
鳴海先生が言った。
「はい。それは……自分が一番分かっています」
少し返事が早くなった。
そこを勘違いするほど、今の自分の歌に自信はない。
先生が小さく笑う。
「新曲は、これから担当や流れを覚える。『呼吸をそろえて』も、まだ今日の短い範囲が中心だね。その続きを進めながら、前の曲の完成度も上げていく」
「それから、曲を続ける練習へも入る」
高瀬先生が引き継ぐように言葉を続けた。
「続ける、というのは……」
「二曲、三曲。間にこちらの説明を挟まずにやる。最終的には六曲を、順番につないで確かめる」
六曲。
さっき、これで終わりだと聞いた時と、同じ数なのに。
今度は、ずいぶん多く感じた。
「一曲終わったら、次の曲の最初へ行くんですよね」
「そうだ。この六曲は、曲間で大幅な移動をしなくてもつながるよう調整している。ただ、位置も歌の入りも、次の曲へ頭を切り替えるには、一曲を通すのとは別の技術と経験がいる」
鳴海先生が続けた。
「ずっと同じ強さで歌い続けるわけではないよ。自分が歌わないところでどう整えるか、次の担当までにどう戻すかも、曲を続けると変わってくる」
六月のライブを思い出した。
袖へ戻って水を飲む五人。
次の出番を確かめ、呼吸を整えて、また出ていく。
舞台の上では、一曲終わっても、見ている人との時間は続いていた。
私は、一曲が終わると、まず先生の方を見ていた。
どこを直すか言われるのを待つ。
その間に、息も整えている。
次の曲が始まるなら、その時間はない。
「……一曲ずつできても、また別なんですね」
「そう。全部仕上がるのを待つのではなく、短いまとまりから続けてみる」
高瀬先生が言った。
「まず新曲を入れて、それぞれの担当を揃える。六曲を続けるのは、その先だ」
私はノートへ書いた。
新曲。
今までの曲の修正。
二曲、三曲を続ける確認。
書いてみると、次に何をするかは分かった。
できるところを想像できるかどうかは、また別だった。
最後の予定確認には、三枝さんも来た。
今日は終わりに今後の課題について話すと聞いていたけれど、机の上の六曲分を見られると、少し姿勢が伸びた。
「これからは、私が合同を見る回も増やします。曲の中でどう見せるかまで、しっかり扱っていきたいので」
「はい」
表情や視線。
その話になると、少しだけ、分かるところへ戻ってきた感じがした。
最近は、足と歌と位置のことばかり考えていた。
自分がどんな顔で映っているかより、声を出しながらそこへ行けるかの方が忙しい。
でも、三枝さんは続けた。
「今までも、動いた時に視線が落ちないか、顔を作ろうとして息を止めていないかは見ていました。今後は、その先」
机の上の新曲を、こちらへ少し寄せる。
「歌って、動いて、その曲の中で何を見せるか。止まって表情を作れるだけではなく、全部を続けている時にも表現できるようにする」
私は手に持っている曲の資料を見た。
この中に、今度は表情と視線も重ねる。
「表情を考えると、歌の方が変わってしまうことがまだあります」
「ええ。声を柔らかくしようとして音が下がったり、見せる方へ意識を向けた時に息が止まったりね。そこを、鳴海さん、高瀬さんと一緒に見ます」
三枝さんが言った。
「ただ、歌や動きの邪魔になる表現を足す必要はない」
私は頷いた。
台詞を聞き、少し歩いてから相手を見る。
そういう課題なら、前にもやった。
得意だから簡単に足せるなんて考えているわけではない。
それでも、あまり得意だと思えない新しいことを沢山増やされるよりはマシだった。
「ずっと表情をつけ続けるんですか?」
私が聞くと、三枝さんは首を振った。
「そういう意味じゃない。どこで相手を見て、どこで正面へ返すか。何を受けて、次へ渡すか。何もしないように見える時間も含めて、曲の流れの中で考えます」
新曲の、自分の短い担当が目に入る。
そこだけ、上手い顔を作って待っていればいいわけではないらしい。
「白瀬さんが最初に見せてくれたものも、この中で使いたい」
三枝さんが言った。
私は顔を上げた。
「歌とダンスも、最低限できるようになってきた。なら、ここからはそこに、あなたの武器を乗せるの。その才能を、わざわざ捨て置く必要はないでしょう?」
少し笑って言われて、私も小さく笑った。
そもそも、それを見てもらったところから始まったのだった。
できないことを覚えるのに忙しくて、ここしばらくは、自分が何を評価されてここへ来たのかを考える時間が少なかった。
なくなったわけでも、もう使わなくなったわけでもない。
歌いながら。動きながら。
五人と同じ曲の中で、使うらしい。
「……はい。よろしくお願いします」
三枝さんが頷いた。
「今日は予告まで。次に六人で合わせるところから、実際に見ていきましょう」
沢山の曲を同時並行して進められて、そこに新曲まで入れられた。
不安にならないわけがなかった。
それなのに、三枝さん……先生の言葉に、口角が上がってしまうのを抑えられなかった。