TS少女は演じたい   作:息抜き

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26話

七月九日、木曜日。

 

レッスン室へ入ると、夏希が譜面を持ったまま、足だけを小さく動かしていた。

少し離れたところでは、澪先輩が鳴海先生の弾く音を聞いている。

机の上に開かれた紙の一番上には、私が火曜日にもらったものと同じ文字があった。

 

「おはよう、真琴」

 

小日向さんが顔を上げた。

 

「おはようございます」

 

鞄を置き、自分の資料を出す。

小日向さんの紙にも、まだ書き込みは少なかった。

 

「ここ、真琴の次が美月だったよね」

 

「はい。そのあとが玲奈さんです」

 

「うん。ありがとう」

 

自分の名字を指で押さえながら答えると、小日向さんはその先へ短い線を引いた。

今までは、私が聞く方だった。

五人が既に知っている歌や動きについて、どこへ行けばいいのか、何を変えたのかを教えてもらっていた。

今日は、小日向さんも同じ紙で順番を確かめている。

それだけのことが、少し不思議だった。

 

準備を終えると、最初は歌から合わせた。

小日向さんの声のあとに、自分の短い担当が来る。

最後まで声を残し、美月さんへ渡す。

その先で玲奈さんが歌い、全員の声になる。

一度止めて、鳴海先生が鍵盤へ手を戻した。

 

「橘、最初の音をもう少し抑えて。そこから広げよう」

 

「はい」

 

「白瀬は最後を今より短くしないように注意して」

 

「はい」

 

もう一度。

歌い終えるところまで意識すると、次の美月さんの声も、さっきより続いて聞こえた。

 

振付へ移ると、やっぱり夏希は早かった。

高瀬先生が一度見せた動きを、もう次には音に合わせている。

ただ、その夏希も途中で止まった。

 

「先生、ここの足って、戻さないでそのまま次ですか?」

 

「そう。そこで一度戻すと、次の向きへ行くのが遅れる」

 

「なるほど」

 

夏希は頷き、少し前からやり直した。

私はその横で、自分の最初の足を確かめる。

五人も新しく覚える。

だからといって、覚える速さまで一緒になるわけではない。

それでも今日は、私だけが知らないものを、五人の背中を見て追いかけている感じではなかった。

 

————

 

短い範囲の歌と動きを合わせたところで、三枝さんがカメラの横へ立った。

 

「小日向、白瀬、橘。今のところ、もう一度見せて」

 

「はい」

 

返事をしてから、少しだけ気づいた。

白瀬さん、ではなくなっていた。

小日向さんも美月さんも、普通に元の位置へ戻っている。

私も紙を置いた。

 

小日向さんの方を見る。

歌い終わりを聞いてから正面へ向き直り、自分の担当へ入る。

そこまでは、さっき確認した。

歌う音も、足を出す場所も分かっている。

その上へ、表情を重ねる。

小日向さんから言葉を受けて、少し気持ちが緩むところ。

どのくらい変えれば映るかは、想像できた。

 

自分の担当を終えたところで、音が止まった。

 

「白瀬、表情を変え始めるのが早い」

 

三枝さんが言った。

 

「早いですか?」

 

「小日向がまだ歌っているうちに、もう次のパートの表情になってる。最後の言葉を聞く前から、目元が緩んでるの」

 

先生が、今撮った映像を戻した。

画面の中で、小日向さんが歌っている。

その隣の私は、確かに、もう少し笑っていた。

顔の向きは小日向さんへ残っている。

でも、聞いてから変わったようには見えなかった。

 

「……先に、作ってました」

 

「うん。どう見せるかは分かってる。だから、変えるタイミングを後ろへずらして」

 

私は頷いた。

前にも言われたことだった。

相手の言葉を聞く前に、そのあとの自分の顔を決めてしまう。

最近は足や歌へ気を取られていたから、出ていなかっただけかもしれない。

 

「息を吸う場所はさっきのままでいい。表情を変えるのは、小日向の歌を最後まで聞いてから」

 

「はい」

 

もう一度、位置へ戻る。

小日向さんの歌が始まった。

次の言葉は知っている。

自分が何をするかも知っている。

それでも、今聞こえている声の方へ意識を残した。

最後の音が少し伸びる。

そこから、正面へ顔を戻す。

息を使って、自分の言葉を歌った。

美月さんの声へ続いたあと、三枝さんが頷く。

 

「うん、今の方がいい。ちゃんと小日向の歌を受けてから表情が変わってる」

 

肩の力が抜けた。

 

「はい」

 

「そのまま、次の移動までつなげましょう」

 

範囲が少し長くなる。

今度は表情を変えるタイミングを守れた代わりに、歌い終わりで足が遅れた。

高瀬先生が、私の移動先を示す。

 

「そこでできたかをいちいち確かめなくていい。次の足はもう出せる」

 

「……はい」

 

自分でも、少し笑ってしまった。

顔の方へ戻ってきたつもりでも、足がなくなるわけではなかった。

 

————

 

その週末には、六曲すべての資料を使った。

新しい曲名が増えなくなった代わりに、同じページへ書くことが増える。

『呼吸をそろえて』のまだ習っていなかった範囲を進め、新曲の前後をつなぎ、最初に覚えた曲へ戻って位置を直す。

三枝さんも合同へ来ることが増えて、歌や動きだけを見てもらう時間と、映像で表情まで確かめる時間が続くようになった。

 

日曜日、初めて二曲を続けた時には、一曲目を終えたところで失敗した。

音が消えたので、先生の方を見てしまった。

何を言われるか待つ。

その間にも、五人は次の位置へ動いている。

次のイントロが聞こえてから、慌てて足を出した。

 

「白瀬、今は指摘を待たなくていい」

 

高瀬先生が音を止めた。

 

「はい。……いつもの癖で」

 

「最後の形から、次の曲の最初までやろう」

 

歌詞を忘れたわけではなかった。

次の位置も分かっていた。

一曲が終わったら、そこで自分のやることも一度終わると思っていた。

紙へ、曲の最後と次の最初をつなぐ線を引く。

その横に、水を飲むところも書いた。

一曲ずつの紙を揃えるだけでは足りなかった。

 

火曜日には、三曲、四曲。

木曜日には、六曲すべてを順番に並べた。

途中で止めて、曲間の移動や歌い出しを確認する。

『はじまりのパレット』から始まり、『きみの街まで』、『雨音のリフレイン』、『呼吸をそろえて』、新曲。

最後が、『またねの続きを』。

最初に覚えた曲が、一番最後に来た。

そこへたどり着いた時の息や脚の重さは、一曲だけで始める時とは全然違っていた。

先生たちが複数曲を通しでやるにはまた違う技術と経験が必要って言っていた意味が、嫌というほど理解できた。

 

————

 

七月十八日、土曜日。

 

休憩のあと、高瀬先生が六曲の並んだ紙を机へ置いた。

 

「今日は一回、最後まで止めずにやる。細かい修正は終わってから。特に白瀬。直す場所、指摘点はこっちで覚えておく。失敗してもいちいちそこに意識を引っ張られずにリカバリーして続けるように」

 

私は頷いた。

曲順はもう分かっている。

分かっているものばかりなのに、手に少し力が入る。

 

「真琴」

 

隣から、夏希が小さく呼んだ。

顔を向けると、自分の手を開いたり閉じたりして見せた。

それを見て、私も一度、指の力を抜いた。

 

「……ありがとう」

 

「うん」

 

音が流れた。

『はじまりのパレット』。

最初の足を出す。

腕を下げたところで止めず、そのまま次へつなぐ。

サビを越え、次の位置へ移動する。

終わっても、先生は見ない。

次は『きみの街まで』だった。

 

二曲目の後半で、歩幅が少し大きくなった。

止まった場所が、決めていた位置より外側にある。

間違えた。

そう思ったけれど、今から一つ前へ戻るわけにはいかない。

次の移動で、足を運ぶ幅を少し詰めた。

腕を上げるところでは、予定していた位置へ戻れた。

誰かに合図をもらったわけではなかった。

 

決めていた曲間で水を飲む。

まだ息が速い。

それでも、先生の説明を聞きながら休む時とは違って、自分で次の曲へ切り替えなければならなかった。

『雨音のリフレイン』では、声を小さくしすぎない。

『呼吸をそろえて』では、移動が終わる前に息を用意する。

後半の短い担当で、最後の音が少し細くなった。

そこを気にしている間に、もう美月さんが歌っている。

次の場所へ行く。

 

新曲のイントロが流れた時には、脚が重くなっていた。

小日向さんの声が聞こえる。

先に表情を変えない。

そう考えかけて、目の前の人へ意識を戻した。

歌い終わりの声を聞く。

正面を見る。

自分の短い言葉を出し、その先へ渡す。

美月さんが歌い始めた。

止められることなく、そのまま曲が続いた。

 

最後は、『またねの続きを』。

一番長く練習してきた曲なのに、最初の頃より身体が忙しかった。

足を出して、腕を上げる。

歌っていないところで息を整え、次の担当へ戻る。

最後の音まで声を残した。

五人と同じところで動きを終える。

伴奏の余韻が消えた。

今度こそ、終わった。

手を下ろすと、自分の息の音が分かった。

 

「お疲れさま」

 

玲奈さんの声に、私は少し遅れて頷く。

高瀬先生が、手元へ目を落とした。

 

「通しとしては成立した。直すところはあるけど、途中で崩れたままにはならなかった」

 

六曲。

最後まで来たらしい。

自分でもやったのに、言われてからもう一度、その数を考えた。

 

水を飲み、映像を見る。

三枝さんが新曲のところを戻した。

 

「白瀬、ここ。今日は表情を変えるタイミングが合ってる」

 

画面の中の私は、小日向さんを見ていた。

そのあとで、顔が変わった。

 

「移動から続けてもできてる。これは残して」

 

「はい」

 

頷くと、先生がその少し先で映像を止めた。

高瀬先生が、私の足元を示す。

 

「こっちの移動は半歩遅いな」

 

「……はい」

 

嬉しかったところと、直すところが、すぐ隣にあった。

どちらも、自分の映像だった。

 

そのあとは、止めた箇所だけを確かめた。

二曲目の歩幅。

四曲目の歌い終わり。

新曲の次の移動。

もう一度最初から六曲、とは言われなかった。

最後に身体をほぐし、ノートを閉じる。

今日のレッスンは、それで終わりだった。

 

————

 

着替えを済ませて、鞄へタオルをしまっていると、美月さんが隣へ来た。

 

「真琴、今日も泊まるんだよね?」

 

「はい。明日もあるので」

 

「じゃあ、一緒に泊まらない?」

 

手が止まった。

 

「……一緒に?」

 

「うん。三人で」

 

美月さんは、少し向こうで荷物をまとめていた小日向さんを見た。

小日向さんもこちらを見る。

 

「……なんか私の分まで勝手に決められた?」

 

「ひより先輩も明日朝からレッスンですよね」

 

「そうだけど」

 

「だったら一緒に泊まりましょうよ。帰ってまた来るより楽ですし」

 

「それはそうだけど……まぁ、着替えとかはレッスンの時は予備持ってるしどうとでもなるか」

 

小日向さんは少し考えてから、鞄の中を見た。

その間に、美月さんはもう私へ向き直っていた。

 

「部屋、二つあるでしょ。私がひより先輩と同じ部屋にするから、真琴はもう一つ使えるよ」

 

「また勝手に決めてる」

 

「駄目ですか?」

 

「いいけど。返事する前に全部進むね」

 

「ひより先輩なら、いいって言ってくれるかなと思って」

 

「なんでもかんでもいいとは言わないけど」

 

そう言いながら、小日向さんは笑っていた。

三人で食べたことはある。

でも、泊まる部屋は別だった。

あの時は、ご飯を食べてから自分の部屋へ帰って、お風呂へ入って寝た。

 

「でも、二人で一緒に過ごすなら、私は別の部屋でも……」

 

「……ごめん、本心言っていい?」

 

「本心?」

 

「うん。——ずるい!!夏希がずるいんだよ!!」

 

「えぇ……」

 

本心ってそういうことかと納得してしまった。

 

「そういうことですか」

 

「そういうことだよ!!私とも一緒にご飯食べて、そのあともちょっと遊ぼうよ!今度は食べたら帰らなくていいし!」

 

「ご飯ならもう一緒に食べたと思うんですけど……」

 

「でも私ももっと真琴と仲良くなりたい!!」

 

あまりの勢いに苦笑してしまう。

小日向さんが、鞄を閉じる。

 

「私も泊まろうかな。真琴はどうする?」

 

二人とも、こちらを見た。

今日の夜も、一人で何か買って食べるつもりだった。

それでもよかった。

だけど、今はもう、三人で食べているところを容易に想像できた。

 

「分かりました。一緒に泊まりましょう」

 

美月さんの顔が明るくなった。

 

「やった!じゃあ早速早川さんに言いに行こう!」

 

「先に鞄」

 

「あっ」

 

美月さんが振り返った。

私は、思わず笑ってしまった。

早川さんへ相談すると、今日私が使う予定の住戸は、三人で利用しても問題ないとのことだった。

 

 

 

「何食べる?作る?買う?」

 

「今日は買おう。結構疲れたもん」

 

小日向さんが答える。

 

「そうですね。食べるところから始めたいです」

 

「真琴は?」

 

聞かれて、スマホから顔を上げた。

 

「私は何でも——」

 

そこまで言って、少し考える。

さっき、持ち帰りの店のメニューを見せてもらった。

黄色い卵が乗ったご飯の写真があった。

 

「……オムライスがいいです」

 

「いいね!」

 

美月さんがすぐに頷く。

小日向さんも、同じ写真を覗いた。

 

「私もそれがいい」

 

「じゃあ私も。三人ともオムライス」

 

あっさり決まった。

何がいいか考えた時間より、そのあとの方が短かった。

 

————

 

部屋へ着くと、美月さんは言っていた通り、小日向さんと同じ洋室へ荷物を運んだ。

もう一つの洋室へ、自分の鞄を置く。

何度か使った部屋と、家具の位置が少し違う。

それでも、どこで着替えて、どこへ充電器を差すかは、すぐに分かった。

リビングへ戻ると、小日向さんが食べ物の袋を開けていた。

美月さんはキッチンでコップを出している。

 

「スプーン、袋に入ってました」

 

私が言うと、小日向さんが頷いた。

 

「ありがとう。じゃあ、それ使おう」

 

テーブルへ三人分を並べる。

オムライスの容器の隣に、分けて買ったサラダを置いた。

美月さんが飲み物を運んでくる。

何をすればいいか聞くより先に、邪魔になっていた袋を畳んだ。

 

「いただきます」

 

三人で食べ始めた。

一口目を飲み込むと、お腹が空いていたことが、急にはっきりした。

レッスンが終わった直後は、水と座る場所のことしか考えていなかった。

今は、次の一口を取る方が忙しい。

 

「おいしい?」

 

小日向さんに聞かれ、頷く。

 

「はい。これにしてよかったです」

 

「うん。私も」

 

美月さんは、自分のソースを少しずつかけていた。

 

「そっちもおいしそう」

 

「最初、迷ってましたよね」

 

「迷った。だから今も気になる」

 

「半分ずつ頼めたらよかったですね」

 

「ほんとそれ」

 

小日向さんが、自分の容器へ目を落とした。

 

「でも、結局好きな方を多く食べたくなるんだよね」

 

「ひより先輩、ケチャップにしたのに、買う時は一番長くメニュー見てましたよね」

 

「オムライス以外もおいしそうだったから」

 

「私は候補を増やすと止められるのに」

 

「美月は追加で買おうとするでしょ。美味しそうなのがたくさん並んでると映えるとか言って」

 

「……確かに」

 

今度は、美月さんも笑った。

食べながら話していたら、昼間のことを振り返る時間はほとんどなかった。

 

————

 

食べ終わった容器を片づけ、冷蔵庫へ入れていたプリンを出した。

三つとも、少しずつ違うものだった。

私が選んだのは、一番普通に見える小さなカップ。

美月さんのものにはクリームが乗っている。

小日向さんは、卵の味が濃そうな、固めのプリンだった。

 

「小日向さんの、それもおいしそうですね」

 

「うん。これ美味しいよ。真琴も今度試してみたらいい。固めでカラメルもいい感じに苦いのがいいんだよ」

 

小日向さんが饒舌に語りながら蓋を剥がした。

私も自分のカップを開ける。

そこで、美月さんがスプーンを置いた。

 

「あ、そうだ。真琴」

 

「なんですか?」

 

「私、前から言おうと思ってたことあるんだけど」

 

少し姿勢を戻した。

美月さんは、なぜか指を一本立てた。

 

「玲奈さん」

 

「はい?」

 

もう一本。

 

「澪先輩」

 

「……」

 

三本目が立つ。

 

「夏希」

 

私は美月さんの手と顔を交互に見た。

 

「何の確認ですか?」

 

「真琴の呼び方!三人はもう、それで呼んでるでしょ?」

 

「あ、はい」

 

「なのに、ひより先輩だけまだ小日向さん!」

 

小日向さんがスプーンを持ったまま、こちらを見た。

 

「私の話だったの?」

 

「先輩と私の話です」

 

「美月さんは名前で呼んでますけど……」

 

「私は『さん』の方!」

 

すぐに返ってきた。

 

「夏希は呼び捨てでしょ。私も同じ学年。しかも私、最近ずっと真琴って呼んでるのに」

 

「それは、そうですけど」

 

「だったら私も美月でよくない?」

 

返事を考えているうちに、美月さんがもう一度指を立てた。

 

「玲奈さんも澪先輩も名前で呼んでるんだから、ひより先輩だって、もうひより先輩でいいし」

 

「なんで真琴の私の呼称を美月が決めるの」

 

「今がちょうどいいと思ったので」

 

「プリン食べてただけなんだけど」

 

「三人揃ってますし!」

 

小日向さんが、少し笑った。

私もつられて笑い、スプーンを置いた。

さっきまでは、どのプリンがおいしいかという話だったはずだ。

いつの間にか、自分の呼び方を全部並べられていた。

 

「でも、確かに私だけ名字だね」

 

小日向さんがぽつりと言う。

 

「……そうですね」

 

「ひより先輩でいいよ。美月はそう呼んでるし、澪のことも澪先輩呼び出来てるならすぐ慣れるだろうし」

 

聞く方なら、何度も聞いている。

レッスン室でも、動画でも、今日ここへ来るまでにも。

自分の口から出す方は、まだだった。

 

「じゃあ……ひより先輩、って呼んでもいいですか」

 

「うん」

 

小日向さん——ひより先輩は、普通に頷いた。

そのまま、プリンを一口食べる。

こちらが少し考えて言ったことと、同じくらい大きな反応が返ってくるわけではなかった。

それが、ありがたかった。

 

「よし。次、私」

 

隣の人は、そういうわけにはいかなかった。

美月さんがこちらへ向き直る。

 

「……美月」

 

「はい!」

 

返事が大きかった。

 

「そんなに返事しなくても」

 

「嬉しいから」

 

あっさり言われて、こちらの言葉が止まる。

ひより先輩が、美月さんのカップを指した。

 

「満足したなら食べなよ」

 

「しました。すごく。これで念願かなって私とも対等に話してくれるはずです」

 

美月はスプーンを持ち直した。

本当に満足したらしい。

さっきまでの勢いが嘘みたいに、今度はクリームをどう食べるか考えている。

 

「そういうわけだから、私には敬語もいらないよ。夏希と話す時みたいに」

 

「……一度に変えるものが多い」

 

「もう変わってる」

 

言われて、少し黙った。

今の返事には、確かに敬語がなかった。

美月が笑う。

 

「それでいいよ」

 

「分かった」

 

私もプリンを一口食べた。

甘かった。

美月だけが、こちらを見てにこにこしていた。

 

「……美月も食べたら?」

 

「うん、食べる」

 

今度の返事は、さっきより小さかった。

 

————

 

順番にお風呂に入って着替えた。

最後にひより先輩がお風呂から戻ってくると、美月がすぐにスマホを見せた。

 

「ひより先輩、これどう思います?」

 

「鞄?」

 

「はい」

 

ひより先輩は画面を見て、それから美月のポーチを見た。

 

「それ、入るの?」

 

私が笑うと、美月がこちらを指した。

 

「ほら!真琴と同じこと言った!」

 

「だって、大きさが」

 

「中身は減らします」

 

「じゃあいいんじゃない?」

 

ひより先輩はそう言いながら、美月の隣へ座った。

 

美月はそちらへ少し寄り、スマホを二人の間へ置く。

ひより先輩も普通に覗き込んだ。

私も見やすいようにと、美月が画面を少しこちらへ傾ける。

三人で、一つの小さな鞄の写真を見ることになった。

 

「こっちの色もあるんだ」

 

ひより先輩が言う。

 

「あります。私は最初の方かな」

 

「真琴は?」

 

聞かれて、もう一度見比べた。

 

「私は……こっち」

 

少し落ち着いた色の方を指す。

 

「あー、確かに。真琴、こういう色似合いそう」

 

美月が頷いた。

 

「服も合わせやすそうだし」

 

「合わせる服がそんなに多くないけど」

 

「じゃあ服も見よう」

 

話が早かった。

 

「今度、一緒に買い物行こうよ」

 

私は画面から顔を上げた。

 

「美月と?」

 

「うん。服見て、鞄も見て。ひより先輩も」

 

「また勝手に決めてるし」

 

ひより先輩が言う。

 

「先輩、見るの嫌いじゃないでしょ?」

 

「嫌いじゃないけど、美月と行くと長いんだよ」

 

「ちゃんと休憩します」

 

「休憩の店も何軒か候補あるでしょ」

 

美月が少し笑った。

 

「あります。ひより先輩が好きそうなカフェの情報は完備してますよ」

 

「ほら」

 

私も笑ってから、もう一度、鞄の写真を見た。

 

レッスンで次に会う日は決まっている。

でも、服を見に行く約束は、それとは別だった。

何をできるようにしてから行く、という話でもない。

 

「……行きたい」

 

言うと、美月がすぐにこちらを見た。

 

「ほんと?」

 

「うん。でも、全部は買わないよ。私、そんなにお金ないし」

 

「いいのいいの。見るだけでも楽しいよ。一緒に遊びたいっていうのの方が大きいし」

 

「それなら」

 

すると美月が、私より先に言った。

 

「ひより先輩ももちろんいいですよね!」

 

ひより先輩は、一度こちらを見た。

それから、頷いた。

 

「うん。予定が合う日なら」

 

美月が、嬉しそうに身体を起こした。

 

「決まり。じゃああとで候補送るね」

 

「一日に全部回る予定にはしないでね」

 

「分かってます」

 

「買い物のあとの喫茶店なら、私も行きたいところある」

 

ひより先輩が言った。

美月の顔が、さらに明るくなる。

 

「じゃあそこも!」

 

「……先輩も増やすんですね」

 

私が言うと、ひより先輩が少し笑った。

 

「一軒だけ」

 

「私は二軒くらい——」

 

「一軒だけ」

 

「はい」

 

二人のやり取りを聞きながら、私は自分のスマホを出した。

 

送り先は、前に作った『晩ごはん』だった。

画面を開くと、三人で食べたハンバーグの写真がまだ残っている。

その下へ、美月から鞄の写真が一枚届いた。

 

「用途、ご飯だけじゃなくなったね」

 

私が言うと、美月が画面を覗く。

 

「買い物のあとにご飯食べるから、合ってるよ」

 

「そういうもの?」

 

「そういうもの」

 

ひより先輩もスマホを出した。

少しして、喫茶店の候補が一つ増えた。

 

それからも、トランプとかで遊びながら他愛もない話を続けた。

誰かが話していない時間もあった。

静かになったからといって、次の話題を急いで考える必要はなかった。

少しすると、美月がまた何かを見つけて顔を上げる。

私もそれを見る。

そうしているうちに、時計の針が進んでいた。

 

————

 

「ねえ、一枚撮らない?」

 

美月がスマホを持ち上げた。

 

「三人で。『晩ごはん』に送る用」

 

ひより先輩が、うん、と頷いた。

私も少し考えてから、

 

「いいよ」

 

と答える。

 

美月がソファの真ん中へ座り直した。

ひより先輩はその隣へ。

私は反対側に座ったけれど、画面の端で顔が少し切れている。

 

「あ、真琴、もうちょっとこっち。近くて大丈夫?」

 

「うん」

 

少し寄った。

肩が当たったけど、今は全く気にならなかった。

今度は、三人とも画面に入っている。

美月が腕を伸ばし、角度を変える。

 

「これくらいかな」

 

ひより先輩が画面を覗いた。

 

「美月、髪」

 

「え?」

 

前髪を留めていたピンクのクリップが、少し斜めになっていた。

直そうとして、今度はスマホの方が傾く。

 

「ちょっと待って」

 

美月が言ったところで、私が笑ってしまった。

ひより先輩も笑う。

そのまま、シャッターの音がした。

 

「今撮った?」

 

「撮れた」

 

「直す前に?」

 

「でも、いい写真だよ」

 

見せてもらう。

確かに、変ではなかった。

美月は自分の髪へ手をやったままで、ひより先輩がその横から笑っている。

私は、二人の方を見ていた。

カメラ目線ですらなかった。

 

「……私、そっち見てない」

 

「ちゃんと顔見えてるよ」

 

「そうだけど」

 

もう一枚、今度は正面を向いて撮った。

美月が二枚を見比べる。

 

「どっちも残していい?」

 

「私はいいよ」

 

ひより先輩が答えた。

私も画面を見て、頷く。

 

「うん。私も」

 

少しして、『晩ごはん』へ二枚の写真が届いた。

鞄と、喫茶店と、小さな椅子のあとに、三人の顔が並ぶ。

最初に作った時より、随分いろいろなものが入る場所になっていた。

私は二枚とも保存した。

 

————

 

「そろそろ寝ようか」

 

ひより先輩が時計を見た。

美月も頷いて、スマホを置く。

 

「じゃあ続きは明日」

 

「何の続き?」

 

「映画の話、まだ終わってないよ」

 

「あー」

 

片づけを終え、それぞれの寝室へ向かう。

二人の部屋の扉が開いていて、ベッドの横には、予備の寝具がきちんと用意されていた。

美月がそちらへ自分の枕を置いている。

 

「私、こっち使いますね」

 

「うん」

 

ひより先輩は、充電器を差してから美月を見た。

 

「それで、本当に寝るんだよ」

 

「寝ますよ。今日はいっぱい動いたので」

 

「……顔見ればわかるんだよ。私を抱き枕にしてそこでまだ話すつもりだったでしょ」

 

「明日の朝にします」

 

「抱き枕だけはごめん被る。熱いんだよ」

 

美月が少し考えた。

 

「善処します」

 

「善処じゃダメだから」

 

私は扉の前で笑い、口元へ手をやった。

ひより先輩がこちらを見る。

 

「真琴も、おやすみ」

 

「はい。おやすみなさい、ひより先輩」

 

美月が振り返った。

 

「おやすみ、真琴」

 

「おやすみ。美月」

 

返事をして、自分の部屋へ入った。

 

扉を閉めると、急に静かになった。

鞄も、着替えも、充電器もある。

いつもの泊まる夜と、置いてあるものはあまり変わらない。

スマホのアラームを確かめる。

スマホを置きかけてから、『晩ごはん』をもう一度開いた。

最初に撮った方の写真を見る。

自分の顔は、今日レッスンで見た映像とは、随分違っていた。

美月が髪を直そうとしていたことを思い出し、また少し笑った。

今は、その顔を直す必要はなかった。

 

————

 

日曜日の確認は、昨日より短かった。

身体と声を準備し、六曲をもう一度つなぐ。

二曲目では、昨日直した歩幅を守れた。

その代わり、別のところで腕の高さが少し下がった。

気づいて、次の動きで戻す。

 

新曲の自分の担当。

ひより先輩の歌を聞き、正面へ向き直った。

息を使って、最後まで歌う。

そのあとも、足を止めなかった。

 

六曲目まで終えると、三枝さんが頷いた。

 

「白瀬は、新曲の表情を変えるタイミングもちゃんと合ってた。次の移動も遅れてない」

 

「はい」

 

高瀬先生も、昨日の記録と見比べていた。

 

「歩幅の修正もできている。今日下がった腕は、あとでそこだけ分けて確認しよう」

 

全部が同じようにできたわけではない。

でも、昨日直したところへ、最初から説明し直してもらわなくても戻れた。

少し休んでから、残った箇所だけを確かめる。

それを終えると、今日はもう帰る準備になった。

資料を鞄へしまっていると、美月が声をかけてきた。

 

「真琴、服の写真もあとで送っていい?」

 

「うん。見たい」

 

「じゃあ送る。ひより先輩のお店も、一緒にまとめとくね」

 

ひより先輩が、机の端から私の歌詞の紙を取った。

三枝さんに見てもらっていた分だった。

 

「真琴、これも」

 

「ありがとうございます、ひより先輩」

 

受け取って、ファイルへ戻す。

美月はもう鞄を肩へ掛けていた。

 

「帰る準備できた?」

 

「うん。今行く、美月」

 

鞄を閉めて、二人の方へ歩いた。

帰ったら、昨日話した服の写真が届くらしい。

レッスンの予定を開かなくても、次に二人と話したいことがあった。

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