TS少女は演じたい 作:息抜き
七月二十五日、土曜日。
FOLIOの本社へ着いて、受付で名前を伝えた。
奥へ連絡してもらっている間に、鞄の中のノートを確かめる。
木曜日のレッスンで使ったページには、まだ直すところがいくつか残っていた。
今日は、その続きを教わりに来たわけではない。
「ノート、出しておくの?」
隣から母に聞かれ、顔を上げた。
「ううん。入ってるか見ただけ」
「さっき電車でも見てたよ」
「……そうだっけ」
「うん」
母が少し笑った。
私も笑って、鞄を閉める。
数日前、早川さんから、今後について重要な説明があると連絡をもらった。
父と母にも同席してほしいということで、三人の予定を合わせた。
どういう話になるのかは、まだ聞いていない。
父は、受付の向こうへ目を向けていた。
私の方を見ても、今どう思っているのかは尋ねなかった。
少しして、案内の人が来た。
「お待たせしました。こちらへどうぞ」
三人で廊下を進む。
レッスンへ来る時とは違う静けさがあった。
————
打ち合わせ室には、久世さんと早川さんがいた。
もう一人、初めて会う人も座っている。
挨拶をして席に着くと、その人が名刺を差し出した。
契約や報酬など、所属者に関わる管理を担当しているという。
私の前にも、名刺が置かれた。
父へ渡したついでではなく、一枚、私の分として。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
久世さんが、私たち三人へ順に目を向けた。
「まず、私から今日のご相談についてお伝えします」
私は、鞄から出したノートへ手を置いた。
「木曜日までの確認結果を受けて、昨日、会社としての判断が決まりました」
久世さんの手元には、何冊かの資料が重なっていた。
その一番上へ手を添えてから、こちらを見る。
「白瀬真琴さんに、FOLIO ENTERTAINMENTへ正式に所属し、Lumière Paletteのメンバーとして活動していただきたいと考えています」
声は、いつもとあまり変わらなかった。
それなのに、言われたことを理解するまで、少し時間がかかった。
候補としてとか、今まで色々とつけられていた言葉が、今度はなかった。
正式メンバー。
隣で母が、小さく息を吸った。
父は、久世さんを見たまま動かなかった。
「……正式に、ですか」
口に出してから、今言われたことを聞き返しただけだと気づいた。
「はい。会社として、真琴さんを迎えたいという正式なオファーです」
久世さんは、はっきりと答えた。
心配するよりも、次に何を聞くべきか考えるよりも先に、胸のあたりが熱くなった。
六曲を通した時とも、三枝さんに褒めてもらった時とも、少し違った。
でも、返事をしようとして、何を返せばいいのか分からなくなった。
久世さんは、私の言葉を待たずに続けた。
「今日は、ここで返事をいただくつもりはありません。まず、契約相手となる会社と、その体制を改めてご説明します。そのあとで、今回の判断の理由と、加入した場合の条件、リスクまでお話しします」
父が、ゆっくり頷いた。
「契約書も持ち帰っていただきます。少し説明することが多くなりますので、途中でも、分からないところがあれば止めてください」
「……はい」
今の返事は、それならできた。
早川さんが、資料を一人分ずつ配ってくれた。
一番上にあったのは、歌詞でも評価表でもなかった。
『FOLIO ENTERTAINMENT 会社概要・所属制度のご案内』
その下に、活動計画と書かれた冊子。
報酬についての資料。
さらに、いくつかの書面が重なっている。
私は表紙を開く前に、一度、紙の厚さを見てしまった。
「それでは、最初の冊子をご覧ください」
契約担当の人が言った。
「二月から何度もお越しいただいているので、重なる内容もあります。正式所属の検討用に、会社と所属後の体制を書面でもお渡しします」
父に続いて冊子を開く。
会社概要には設立年や所在地、マネジメント、育成、音楽や映像制作などの事業内容が並んでいた。
最初に自分で調べた時、実際に仕事をしている会社か確かめるために見た内容だ。
今日は、その会社へ正式に所属しないかと言われている。
同じ会社名なのに、次のページをめくる手が、少し慎重になった。
「これまでは正式所属前の候補者としての参加でしたが、所属後はFOLIOがマネジメント、仕事の契約、報酬の支払い、安全管理などを担います」
担当の人が、組織と窓口についてのページを開いた。
「Lumière Paletteの活動方針は久世、日程や現場対応は早川を中心とするマネジメントが担当します。写真や映像の公開、SNSには広報や制作も関わります」
私たちの手元にも、連絡先が載っていた。
「最初から全ての窓口を覚える必要はありません。日常の連絡は早川へ。契約書や報酬の確認は、こちらの窓口でもお受けします」
父が、名刺と資料の連絡先を見比べた。
母も、そのページの端を折らずに、手持ちの付箋を貼った。
会社の紹介は、それほど長くはなかった。
所属者の写真も事業ごとの説明も、必要なところだけを確認する。
知っている顔が何人もいた。
もちろん、ルミパレの五人も。
その五人の写真を見てから、次の冊子へ手を伸ばした。
契約担当の人が、久世さんへ顔を向けた。
久世さんは、私たちが資料を揃えるのを待ってから口を開いた。
「では、なぜ今回、正式加入をお願いすることにしたのかをお話しします。五月に候補として参加していただいた時、最初から評価していたのは、カメラの前での表現でした」
久世さんが、評価をまとめた資料を開いた。
「その強みは、現在も変わっていません。ただ、今回正式加入をお願いする理由は、それだけではありません」
私はノートを開いた。
日付を書いたあと、ペンを持ったまま続きを聞く。
「歌とダンスは、引き続き育成が必要です。ただ、今の六曲では、自分の担当を持ち、ずれても次の位置へ戻れるようになりました。日を空けても修正が残り、現在の歌割りを最後まで歌えることは確認できています」
先週の土曜日、外側へ行きすぎた場所を思い出した。
間違えたあとで止まらず、次の移動で戻ることでどうにかした。
その時は、とにかく次へ行かなければと思っていた。
それが、こういう部屋で説明されることになっている。
父が資料へ目を落とした。
「六曲については、仕事として任せられる見通しが立った、ということでしょうか」
「本番条件に合わせた仕上げは必要ですが、その通りです。ただし、他の曲や長い公演まで同じ評価をしたわけではありません」
久世さんは、そこで一度、私を見た。
「もう一つ。三枝が特に評価していたのは、真琴さんの強みが、六人の演目の中でも成立するようになったことです」
私は、ペンを止めた。
「カメラの前に一人で立つ時だけでなく、五人の歌や動きの中でも、真琴さんの表現を使えるようになりました。相手の歌を受け、自分の表現を出し、次へ渡せる。そこが五月からの大きな変化です」
分かっていたつもりで早くやってしまい、何度も直されたところだった。
ノートへ目を落としたけど、書こうにも言葉がうまく短くならなくて、そのまま聞いた。
「五人は、それぞれ違う強みを持っています。その誰かの代わりをお願いしたいのではありません。真琴さんの表現が加わることで、六人として見せられるものが増えると考えています」
母が、私の方を一度見た。
私は久世さんから目を離さなかった。
「既存の五人にも、正式に迎えることについて確認しています」
早川さんが続けた。
「六人で活動していくこと自体への反対はありません。振付や動線についての意見はありますが、それは一緒に作る上での話です」
五人が、私と話してくれることは知っている。
レッスンで聞き返しても、普通に答えてくれる。
泊まった夜にも、くだらないことで一緒に笑った。
それでも、その先の活動について、私のいないところで確認してもらっていたのだと思うと、少し息が詰まった。
「今の真琴さんが担当できる部分を含めて、六人でステージを作ることができると判断しました」
久世さんが言った。
「それが、正式加入をお願いする理由です」
できることと、まだ足りないことが、同じ資料に書かれていた。
どちらかを消したわけではない。
その両方を知った上で、来てほしいと言われている。
「……ありがとうございます」
今、言えたのは、それだけだった。
————
「加入が成立した場合の、最初の公演についてもお話しします」
久世さんが次の資料を開いた。
「八月八日を予定しています」
「……八月八日?」
思わず、日付を繰り返した。
二週間後だった。
「東京ハーバーステージ。Special Stage『6つの色』です」
私は紙へ目を落とした。
公演名の下に、席数と時間が書かれている。
1800席。
四十五分から五十分。
その少し下で、知っている曲名が目に入った。
『はじまりのパレット』
『きみの街まで』
『雨音のリフレイン』
『呼吸をそろえて』
『六つの光』(新)
『またねの続きを』
途中まで読んだところで、もう残りは分かっていた。
「……あの六曲を、やるんですか」
「はい。今、六人で練習している曲です」
久世さんが頷いた。
「加入した場合に、その六曲で六人体制を初披露することを想定して準備していました。今日、初めて具体的な日程をお伝えします」
私は、紙の一番上へ目を戻した。
八月八日。
もう一度曲順を見る。
曲名を読むだけで、身体の方にも、順番が浮かんだ。
でも、思い浮かぶのは、いつもの鏡の前で踊っているところだった。
あれを、二週間後には客席へ向けてやる。
1800席、と書かれたところで、目が止まった。
「現在のLumière Paletteとしては、会場も曲数も抑えた構成です」
久世さんの言葉に、父が顔を上げる。
「……1800席で、抑えた規模なんですか」
私も同じところが気になっていたので、少しだけ父を見た。
「六月が八千席の二公演でしたので、その比較では、です。真琴さんの初舞台として小さいと考えているわけではありません」
早川さんが答えた。
「四十五分から五十分というのも、挨拶やMC、曲間を含めた時間です。ずっと歌い続ける構成にはしません」
「でも、二週間しか……」
「はい。ですから、そこから曲を覚え始める計画にはしていません」
早川さんは、私の手元の曲順を示した。
「これまで練習してきたものを、本番の条件へ合わせます。ステージの広さ、音の聞こえ方、衣装を着た時の動き。そういう確認は、まだ必要です」
いつもの床のテープが、そのまま会場にあるわけではない。
照明も、鏡も、先生が立っている場所も違う。
六人で踊ることには少し慣れてきたけど、客席へ向けて挨拶したことは一度もなかった。
「音響や照明、カメラ、入退場も含めて詰めます。曲が通ったから、あとは当日立てばいいということではありません」
「……はい」
その説明を聞いて、かえって少し落ち着いた。
もう全部できていると言われたら、何ができていないかを、こちらから探して説明しなければならなかった。
そこは、まだ一緒に確認してもらえるらしい。
母が、別紙の予定を見ていた。
「会場は、もう用意されているんですね」
「加入していただく場合に間に合うよう、非公開で準備を進めています。衣装も、候補期間中に確認したサイズを基に制作してあります」
早川さんに言われて、前に寸法を確認されたことを思い出した。
今後必要になる準備のため、と聞いていた。
「私の分も、ですか」
「はい。合意をいただいたら試着して、動いた時の確認と調整をします」
まだ着ていない衣装が、もうある。
どんな衣装なのか、少し見てみたくなった。
でも、それを着たいのかどうかも、正直まだ分からない。
「ただ、それを理由にお受けいただく必要はありません」
久世さんが言った。
「決まってから短期間で無理をさせないために、会社側の判断で進めた準備です。実施しない場合の扱いも、こちらで判断します」
父が、その説明を聞いてから頷いた。
「チケットも、まだ販売していません。加入が成立した場合は、六人体制の公演として発表してから販売します」
私は、公演名をもう一度見た。
「この公演は、真琴さん一人のお披露目ではなく、六人のLumière Paletteを初めて見せる場です。真琴さんにとって初舞台であることは、その中で大切に扱います」
それは、練習していても分かった。
澪先輩の声を聞くところがある。
夏希の動きで、全体が大きく変わるところもある。
私が歌っていない間にも、曲は進む。
紙の上の六曲は、私が一人で覚えてきたものではなかった。
八月の公演のあとには、九月二十一日の二周年公演の説明が続いた。
『Same Sky, New Palette』。
東都ガーデンホール。
六千席。
全体で十六曲前後、100から110分を想定しているという。
六曲の紙を見たあとで、その数を聞くと、また少し遠くなった。
「八月八日が終わったら、すぐ十六曲を続ける練習になるんですか」
「いいえ。対応できる曲を増やし、何曲かずつつなぐところから進めます。既存のユニット曲も組み合わせる案です」
久世さんは、六月の公演と二周年の概要を並べた。
「六人体制へ移るにあたって、一度、規模を広げることより完成度を優先します。歌割り、ハーモニー、動線、カメラ、照明。五人も覚え直す部分があります」
私は、二枚の紙を見た。
八千席が二日。
六千席が一日。
「……私が入らないなら、作り直さなくてよかったんですよね」
言ってから、少し声が小さくなったことに気づいた。
久世さんは、すぐに否定しなかった。
「五人体制を続けるなら、変更は必要ありません」
その答えに、指先へ力が入る。
「それでも、六人にする価値があると会社として判断して、今回のオファーをしています。変更に必要な時間と費用を取るのは、会社の仕事です」
久世さんは、資料から私へ目を戻した。
「真琴さんが、五人へ借りを返すために無理をしてもらう計画ではありません」
隣の母が、静かに息を吐いた。
「八月は夏休みですので、日中の枠を使えます。ただ、学校の課題や受験準備、休養をなくしてよいとは考えていません」
早川さんが続けた。
「撮影が入る日は、レッスンを組み替えます。今やっていることへ、全部そのまま足すことはしません」
二周年までの予定には、実技だけでなく、休みも書かれていた。
八月九日は、休養になっていた。
————
「次に、報酬についてご説明します」
契約担当の人へ、話が移った。
私は新しいページを開く。
そこには、一番上に月額が書かれていた。
八十万円。
一度見て、もう一度見た。
「Lumière Paletteの専属活動保証報酬として、正式加入日から月八十万円です」
「……月、ですか」
「はい。月額です」
読めていなかったわけではない。
でも、確認しないと先へ進めなかった。
隣で母も、同じ数字を見ていた。
「通常のレッスンやリハーサル、録音、MV、公式番組やSNS素材の制作などが対象です。金額は新人の真琴さんも含め、メンバー一律です」
私は、顔を上げた。
練習に来ることにも、お金が発生する。
今までは、教わるために通っていた。
できなかったところを直してもらい、交通費も出してもらっていた。
同じ床で同じ曲を練習していても、その扱いが変わるらしい。
五人と同じ金額だというところも、引っかかっていた。
ついさっき、まだ育成が必要だと言われた私も、同じでいいのだろうか。
「これとは別に、公演ごとの出演料、ファンクラブや音楽の収益からの還元、グループ事業の業績賞与などがあります。個人商品や個人の外仕事も、別の制度です」
次のページには、いくつもの項目が並んでいた。
名前は分かった。
でも、足したらどのくらいになるのか、すぐには分からなかった。
「実際の規模も分かるよう、年額のモデルを付けています」
担当の人が、紙の下へ指を移す。
「既存の五人の個別収入は開示しませんが、直近の活動規模を基に、共通制度部分を一年分として整理したモデルでは、平均でおよそ4100万円です」
父のペンが止まった。
私は、数字の右端から、もう一度読んだ。
万円と書かれている。
410万円ではなかった。
一年で、4100万円。
思わず、父を見た。
わざわざ聞いたりもしなかったから、父の年収を正確に知っているわけではない。
それでも、父の何倍もあるであろうことは容易に想像できてしまった。
「……今の、月八十万円も含めて、ですか」
父が聞いた。
「はい。活動保証報酬を含む合計です。個人のCMやドラマ、個人物販、誕生日企画による収入などは含めていません」
私は、何か言おうとしてやめた。
多分、また同じ数字を聞き返すだけになる。
前の人生でも、働いてお金をもらっていた。
暮らすために出ていくお金と、残せるお金を考えていた感覚は覚えている。
それでも、4100万円を自分の一年分の収入として考えたことなんて、一度もなかった。
その数字が、今の私へ仕事の説明として出されている。
先週、美月に、服は全部買わないと言った。
そんなにお金がないから、と。
急に、あの小さな鞄をいくつ買えるか考えかけて、途中でやめた。
数が分かったところで、今聞いている話が分かるようになる気はしなかった。
「ただし、これは保証年収ではありません」
担当の人が続けた。
「会員数、公演数、売上や事業の利益によって変わります。真琴さんは八月からの途中加入ですので、初年度にこの一年分がそのまま発生することもありません」
父が、ようやくペンを動かした。
モデル、という言葉へ線を引いていた。
私も、そこを見た。
今年、私がその額をもらうという話ではない。
それは分かった。
でも、そう聞いたからといって、さっきの数字が急に身近になるわけではなかった。
「レッスンや衣装、業務上の交通費などは、ここから差し引かれるのでしょうか」
「原則として差し引きません。業務に必要な費用はFOLIOか案件側の負担です。以前からお話していたものと同様に、これまでの育成費を、あとから本人の借金として回収することもありません」
八十万円。
4100万円。
数字は消えなかったけど、その横へ少しずつ説明が増えていった。
「それと、ここに示している報酬は原則として税引前です。未成年であっても、本人側で税務の確認や申告が必要になります」
「……そこは、専門の方へお願いすることになりそうですね」
父の声は落ち着いていた。
ただ、資料を持ち直すまでに、少し間があった。
「ご希望があれば、芸能関係の所得を扱った経験のある外部の税理士をご紹介できます。初回の導入相談はFOLIOで手配し、費用も負担できます」
「御社の社員の方ではなく?」
「はい。独立した外部の方です。継続して顧問や申告を依頼される場合は、真琴さん側の専門家として契約していただきます」
父は、そこを確かめてから頷いた。
「最初の相談では、年間の見通しや、何を記録しておくかというところから説明してもらえます。担当者だけで判断せず、必要なことは専門家へ確認してください」
私はノートへ、税理士、と書いた。
まさか、自分のノートへその言葉を書く日が来るとは思っていなかった。
少なくとも、歌詞の語尾を直したページの次に来るものではなかった。
————
少し休憩を挟んだ。
水を飲んでいる間にも、父は報酬の資料をめくり直していた。
さっきからずっと表情が険しい。
その表情のまま線を引いたところへ戻り、もう一度読んでいる。
私も、その箇所へ目を落とした。
母は、私のノートを横から見ていた。
「追いついてる?」
「数字以外は」
「数字は?」
「まだ」
母が、少しだけ笑った。
「私も」
それを聞いて、ようやく普通に息を吐けた。
————
再開すると、早川さんが学校の話へ移った。
「大学へ進学したいという希望は、以前伺った通りでしょうか」
「はい。指定校推薦を目指しています。駄目だったら一般を受けるつもりです」
ここは、考え直さずに答えられた。
「分かりました。正式所属となる場合は、必要な範囲で学校とも連携し、行事や考査、受験に合わせて仕事やレッスンを調整します」
早川さんは、八月からの予定案を横へ置いた。
「進路について会社が手助けできるのは、予定の調整までです。進学先や学ぶ内容、受験方法は、真琴さんとご家庭、学校で決めていただきます」
父が頷く。
「学校とは連携しますが、推薦の枠や評価には働きかけません。成績や合格を会社で何とかすることもできません」
「はい。それは分かっています」
「受験当日だけでなく、準備や家庭学習の時間も確保できるよう、早めに予定を共有してください」
母が、持ってきていた学校の資料を取り出した。
分かっている予定と、まだ確定していない予定を分けて置く。
同じ机の上へ、六曲の公演と、学校の予定が並んだ。
どちらか片方をしまうようには、言われなかった。
「それから、大学へ進学された場合の学費等への支援制度があります」
早川さんが、次のページを示した。
「仕事と両立するため、四年での卒業にこだわらず、五年、必要ならそれ以上を見据えて履修量を調整できます」
私は顔を上げた。
「最初から、四年より長く考えてもいいんですか」
「はい。留年してからだけでなく、最初から授業を分散する計画も対象です」
大学といえば、四年間。
何となく、そういうつもりで考えていた。
早川さんは、説明を続けた。
「神谷、小日向、雨宮も、各大学で認められた履修や在籍の方法に沿って、この支援を使い、五年以上を見据えて計画しています」
三人が大学生なのは知っていた。
課題や授業の話も、聞いたことがある。
でも、卒業までの時間を、そうやって考えていることまでは知らなかった。
「芸能活動との両立で延びた年数分の学費は、FOLIOが負担します。五年なら一年分、六年なら二年分です」
「通常の四年分とは、分けるということですね」
父が確認した。
「はい。通常の四年分ではなく、芸能活動による延長分が対象です」
担当の人が、費用の範囲を示した。
父と母が、そのページを確かめる。
「大学ごとの在籍上限や卒業要件は守る必要があります。履修量を減らしても、課題や試験はなくなりません」
それはそうだ。
レポートまで誰かが代わりに書いてくれる話ではない。
「真琴さんも進学後に利用できます。会社の都合で卒業を遅らせるよう強制するものではなく、ご本人の希望と実際の大学生活を見て相談します」
「……分かりました」
私は、五年以上、というところへ印をつけた。
大学に入れるかどうかも、まだ決まっていない。
それでも、入ったあとの生活を考える方法が、四年間へ全部詰め込むことだけではないらしかった。
————
「所属後の活動は、Lumière Paletteとしての仕事だけに限りません」
久世さんが、個人活動についての資料を開いた。
「真琴さんには、映像や広告の分野でも可能性があると考えています。今後、ドラマや映画、雑誌、企業広告など、個人の仕事を打診することもあります」
私は、そのページの見出しを見た。
最初は、そちらのレッスンへ通っていた。
台詞を言い、相手を見て、本を渡したり、受け取ったりした。
いつの間にか歌と足のことばかり考えていたけれど、あの時間までなくなったわけではなかった。
「何か、もう決まっているんですか」
「いいえ。今日は具体的な出演の話ではなく、所属後に仕事をご相談する手順の説明です」
少し肩の力が抜けた。
八月八日の次に、いきなり撮影日まで出てきたら、今度こそノートが追いつかなかったと思う。
「案件ごとに内容と条件を確認してご説明します。日程、役柄、撮影内容、衣装、公開方法も含めてです」
契約担当の人が、報酬の箇所を示す。
「FOLIOが契約主体になる個人外仕事では、当社が受け取る税抜の出演料・契約料を、本人六割、FOLIO四割で分けるのが基本です。グループの共通報酬とは別です」
「先ほどのモデルにも、入っていない分ということですね」
「はい」
父が二つの資料を並べ直した。
「依頼が来ても、まず内容を説明してご本人の意思を確認します。断ることもできますし、会社が強制することはありません」
久世さんの言葉を聞いて、私はページの先へ目を移した。
自分の名前の横に、まだ知らない仕事が並ぶこともあるのかもしれない。
それについては、今のところ、八月八日よりずっと想像しにくかった。
写真や映像の扱いについては、契約担当の人から説明を受けた。
宣材写真。
公式サイト。
SNS。
MVやライブ映像。
広告や商品に使う写真。
自分の名前や顔が、どういう場所で使われるのか。
契約書には、その範囲についても書かれていた。
「撮影への同意と、撮ったものの利用は分けて確認します。候補期間中の記録も、改めてご相談します」
私は顔を上げた。
「レッスンの映像ですか」
「はい。内部記録としての撮影に同意いただいていても、一般公開には別の確認が必要です」
久世さんが、別の資料を前へ出した。
「加入が成立した場合、発表と同時に経緯を説明したうえで短い映像を公開し、翌日には、候補期間をまとめたドキュメントを出したいと考えています」
予定欄には、八月一日と二日が並んでいた。
二月のカメラテスト。
そのあとの新人レッスン。
五月からの合同。
「私が、できなかったところも出るんですか」
「修正前後を見せたい場面はあります。ただ、失敗を笑いものにするためではありません」
久世さんが答えた。
「何を評価し、六人でどう練習してきたかを伝える映像です。使いたい場面と構成を見ていただき、編集後の完成版も確認していただきます」
二月のことを思い出した。
自分の顔が大きく映っていて、何をしたか説明を求められた。
そのあとにも、カメラは何度も回っていた。
自分が見るための映像が、知らない人へ渡る。
同じ映像でも、それはかなり違うことだった。
母が、資料へ目を落としたまま聞いた。
「今日のような家族での話まで、使うことはありませんか」
「ありません。それに、今日の話は撮影もしていません。健康情報や私生活の話も公開対象外です。休憩中の素材も、ご本人が望まなければ勝手には公開しません」
「加入を承諾したら、過去の素材も全部了承したことになる、という扱いではないんですね」
父が確認した。
「はい。公開する目的と内容について、別に確認します」
私は、映像確認、という言葉をノートへ書いた。
その横に、完成版も、と付け足した。
————
「体調の管理についても、正式所属後の扱いを説明しておきます」
早川さんが、入力画面の見本が載った紙を出した。
睡眠。
疲労。
喉の状態。
身体の痛み。
レッスンでも聞かれてきたものが並んでいる。
「月経中かどうかや、月経に伴う症状、その日に避けたい負荷なども、必要な範囲で入力できます。皆さんの前で細かく説明する必要はありません」
その項目へ目が留まった。
母も見たけど、私の代わりに何か話し始めることはなかった。
「細かな健康情報を見るのは、原則として本人と私、必要な健康・医療担当だけです。トレーナーには、その日の指導に必要な制限を伝えます」
早川さんは、画面の見本から目を上げた。
「例えば、跳ぶ負荷を減らす、歌唱量を調整する、といった内容です。高瀬や鳴海たちに、月経日や症状の詳細をそのまま渡すわけではありません」
「三枝さんにも、ですか」
「はい。同じです。指導に何が必要かと、詳しい理由を知る必要があるかは別ですので」
私は頷いた。
その日にできることを説明するために、身体のことまで毎回全員へ話す必要はない。
そこは、少し安心した。
「周期だけで一律に仕事を止めたり、逆に予定どおりできると決めたりもしません。当日の状態を見ます」
母が、紙から顔を上げた。
「真琴、多少つらくても、大丈夫って言うことがあると思います」
私は母を見た。
いつものことではあったけれど、こういうところで言われると、少し居心地が悪かった。
母は、それ以上、私の話を足さなかった。
早川さんが頷く。
「はい。レッスンでも、できるかだけでなく、何がきついかを具体的に聞くようにしています。正式所属したあとも、そこを変えるつもりはありません」
できると言ったあとで、どこが難しいか聞かれたことが何度もあった。
歌いながらなのか。
動きだけでもなのか。
疲れたのか、分からないのか。
早川さんは、ちゃんと、その続きを話していた。
「それと、先ほど久世の説明にもありましたが、仕事を断ることもできます」
私は視線を戻した。
「嫌だと思った時に、その理由をうまく説明できなくても構いません。個人の撮影でも、公開する素材でも、まずはそう伝えてください」
私は、個人仕事のページを見た。
衣装。撮影内容。公開のされ方。
どれも、言われて初めて考えることになるのだと思う。
「受ける方向で話していても、条件が変わったり、難しいと感じたりした時は相談してください。相手先への連絡や調整はこちらで行います」
早川さんは、少し間を置いた。
「反対に、真琴さんがやりたいと言っても、安全上、こちらで止めることはあります。本人が希望したので実施しました、だけで済ませるつもりはありません」
母がゆっくり頷いた。
握っていたペンを、机の上へ置く。
「分かりました」
その声は、さっきより少し柔らかかった。
私は、ノートの空いているところへ、早川さんの連絡先が載ったページの番号を書いた。
————
「最後に、発表後の反応についてお話しします」
久世さんの声で、顔を上げた。
説明は長くなっていた。
直前にされていた契約期間と更新、終了の説明とかの話も、聞き逃さないように集中してきいたばかりだった。
ノートには、聞きながら急いで書いた字が並んでいる。
それでも、その言い方を聞いて、姿勢を戻した。
「加入を発表すれば、かなり強い反発は避けられないと考えています」
慰める言葉は、そのあとにもつかなかった。
父も母も、久世さんを見た。
「五人のままがよかった。なぜこの子なのか。歌やダンスが足りない。そういう声は出ると思います。既存メンバーの歌割りや立ち位置が変わることへ、不満を持つ方もいるでしょう」
私は、公演の曲順を見た。
自分の担当として覚えたところには、前に誰かが歌っていた場所もある。
私がそこへ入ることで、位置が変わった人もいる。
練習では、必要なこととして話してきた。
でも、それを客席からどう受け取るかは、別だった。
「会社が無理に推しているのではないか、別の事情があるのではないか、という憶測も出るはずです」
私は、ゆっくり頷いた。
想像できない話ではなかった。
自分でも、五月には、なぜ私なのかと思っていた。
そこへ、今は知らない人の言葉がついてくる。
「先ほどの映像を出しても、ですか」
母が聞いた。
「はい。経緯を説明すれば、全員が納得してくださるとは考えていません」
久世さんは答えた。
「五人を好きになって、お金と時間をかけて応援してきた方がいます。新しい可能性がありますと言われても、好きだった形が変わることを、すぐに歓迎できるとは限りません」
六月の客席を思い出した。
袖から見えた光。
五人が出ていくたびに、大きくなった声。
あの人たちは、今の五人を応援している。
手元の紙を見ていたら、自分の指に力が入っていることに気づいた。
「そうした不安や不満を、すべて悪意として扱うつもりはありません。ただし、本人やご家族への脅迫、危害の予告、個人情報の特定や拡散、学校や住所を探る行為、悪質な嫌がらせは別です」
久世さんの声が、少し硬くなった。
「そこはFOLIOとして厳格に対応します。投稿の記録、削除の要請、通報、法務との連携。必要に応じて警察への相談も行います。本人に我慢してもらって済ませることはしません」
父が、初めてそのページへ長い線を引いた。
「その上で、私から強くお願いしたいことがあります」
早川さんが言った。
「発表直後は、SNSも掲示板も見ないようにしてください。ご自身の名前で検索することも、控えることを強くお勧めします」
私は顔を上げた。
「自分の反応を、見ないということですか」
「はい。引用された投稿やコメントを辿ることも含めてです。真琴さんだけでなく、ご両親にも同じようにお願いします」
父が、ペンを置いた。
「本人の代わりに、私たちが確認することもですか」
「それもお勧めしません。ご家族に監視役をお願いするつもりはありません。全体の反応と、危険な投稿の確認は会社側で行います」
母は、私ではなく早川さんを見ていた。
「娘に何か起きているかは、知っておきたいです」
「お伝えする必要があることは、こちらからご説明します。安全のために対応していただく必要がある場合も、具体的にお伝えします。ただ、そのためにご家族が一件ずつ投稿を読む必要はありません」
「……それほどの反発が起きると、あなた方は考えているわけですね」
「はい。それを否定することはできません。そして、そのような反発も加味して、今後の計画を組んできました」
私は、膝の上の手を見た。
親が代わりに読んでくれるなら安心だ、とすぐには思えなかった。
自分について書かれたものを、父と母が黙って読み続けるところを想像すると、それも嫌だった。
「でも、SNSのアカウントは作るんですよね」
聞くと、早川さんが頷いた。
「はい。ですが、投稿することと反応を見続けることは分けられます。加入挨拶は真琴さんに文章を考えてもらい、広報の確認とご本人の最終了承を経て、解禁時刻に担当者が代理投稿する予定です」
「私が、その時間に開かなくてもいいんですか」
「大丈夫です。当面は、その形で運用する予定です」
契約担当の人が補足した。
通常は私も投稿でき、FOLIO側も管理された権限で告知や緊急対応ができる。
ただ、私のふりをして普段の雑談まで書くわけではないという。
反発が予想されるため、私が主に管理し始める時期は状況を見て判断するという話だった。
「加入の経緯を早く公開するのは、説明のないまま憶測だけが広がるのを避けるためでもあります。会社が答えるべきことを、真琴さん一人で説明する必要はありません」
久世さんが、候補期映像の資料を示した。
「それでも、書かれること自体が完全になくなるとはお約束できません」
久世さんは続けた。
「だからこそ、八月八日に真琴さん一人が全部を証明しなければならない、とは考えないでください」
私は顔を上げた。
「その公演でお願いするのは、六人で、練習してきた六曲をお客様へ届けることです。加入を決めた会社の説明責任まで、初舞台に乗せるつもりはありません」
私は、すぐには頷けなかった。
そう言われて、少し楽にはなった。
でも、人に何か言われても怖くない、というところまでは行かなかった。
早川さんも久世さんも、そこで大丈夫かとは聞かなかった。
母の手が、私のノートのそばまで来た。
書き終えたページが閉じかけていたので、端を押さえてくれる。
私は、止まっていたペンを動かした。
言われた注意を短く書いてから、もう一度説明の紙を見た。
————
全ての資料を確認し終える頃には、最初に出された水がなくなっていた。
契約担当の人が、質問を受ける窓口をもう一度示した。
書面のどこについてか分かるよう、ページ番号を添えてもらえればよいという。
電話で聞いても構わない。
父が、付箋を貼った箇所を確認した。
母は、資料を元の順番へ戻していた。
私は、最初の会社概要を一番上へ置いた。
その下へ、活動計画。
報酬。
学業支援。
契約書。
何を根拠に判断すればいいのか。
どこを注意して見ないといけないのか。
それすらも、まだ整理できていなかった。
「以上が、今回正式にご提示する内容です」
久世さんが言った。
「本日の説明を受けて、持ち帰ってご検討ください。返事も署名も、今日はお願いしません」
父が頷いた。
「回答は、いつまでに必要でしょうか」
「こちらとしては、八月一日の加入・公表を希望していますので、準備のため、可能なら七月三十日、遅くとも三十一日までにご回答いただけると助かります」
私は予定表を見た。
八月一日の手前に、契約締結という欄がある。
そこから発表までには、個人の宣材写真や六人での集合写真、プロフィール、挨拶文、映像の確認が必要だという。
母が、予定表へ目を落とした。
「三十日までに、こちらの確認が終わらなかった場合は?」
久世さんは、間を置かずに答えた。
「その場合は、八月一日の発表を動かします」
「八月八日の公演もありますよね」
「必要なら、そこまでの実施計画も見直します」
父が、顔を上げた。
「三十一日を過ぎたら、今回の話そのものがなくなるということではないんですね」
「はい。発表を予定どおり行うための希望日であって、加入資格の期限ではありません」
久世さんは、私たち三人を見た。
「日程を守るために、納得できていない契約へ署名していただくことはしません。確認したいことが残れば、その時点で連絡してください」
私は、予定表の三十日を見ていた。
それまでに、答えを用意しなければいけない。
そう考えかけてから、ノートの端へ書いた。
分からないことが残ったら、連絡。
父が資料を閉じた。
「分かりました。一度、三人で読み直します」
「はい。お願いします」
そこで久世さんは、私へ返事を促さなかった。
渡された紙は、そのまま私の前に残っていた。
私は両手で揃えて、ファイルへ入れた。
その中には、木曜日に使った歌詞の紙もあった。
少し考えて、公演の予定表は、その六曲のすぐ後ろへ挟んだ。
————
部屋を出て、三人で廊下を戻った。
受付を通る時には、来た時より鞄が重くなっていた。
父も母も、それぞれ同じ資料を持っている。
外へ出ると、熱い空気が頬に当たった。
建物の中にいる間は、忘れていた暑さだった。
駅へ向かって歩き出してから、母が私を見た。
「大丈夫?」
大丈夫、と返しかけて、やめた。
何が大丈夫なのか、自分でもまだ分からなかった。
六曲を通せるかどうかだけの話では、なくなっていた。
「……全部、一回だと整理できない」
「うん」
「話は聞けたんだけど。あとから分からないところが出てきそう」
「それでいいんじゃないか」
父が言った。
「俺も、もう一度読まないと分からないところがある」
「お父さんも?」
「あるよ。だから持って帰るんだろう。むしろ、その場で契約書にサインしろなんて言い始めたら、俺が怒鳴るところだった」
少しだけ笑ってしまった。
父も、口元を緩めた。
信号が赤になり、三人で足を止める。
鞄の中には、八月八日の予定があった。
九月二十一日も。
お金のことも、学校のことも、知らない人から何かを言われることも。
どれも、加入する場合には、私の生活の話になる。
「帰ったら、一緒に読んでほしい」
言うと、母が頷いた。
「うん。ご飯のあとにしようか」
「……その前に、ちょっと休んでもいい?」
「もちろん」
父が、駅の方へ目を戻した。
信号が青に変わる。
私は鞄の持ち手を握り直して、二人と一緒に歩き出した。
今は、資料を持って帰る。
答えを書く場所は、まだ空いたままだった。