TS少女は演じたい   作:息抜き

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29話

自分の部屋へ戻ると、机の上には夏休みの課題が出たままになっていた。

その隣へ、持ってきたファイルを置いた。

 

食後に、三人でもう一度資料を読んだ。

昼間、聞きながらでは追いつかなかったところを、父と母のメモも見せてもらいながら確かめた。

報酬の数字も、学校のことも、公開される写真や映像のことも。

契約書の付箋を一つずつ見直しているうちに、何について書いてあるのかは、昼間よりずっと分かるようになった。

 

それでも、最後のところは残っていた。

私が、どうしたいのか。

少し一人で考えてくると言うと、二人とも頷いた。

だから今、私は自分の部屋にいる。

椅子へ座って、ファイルを開いた。

一番上には、会社概要。

その下へ指を入れると、八月八日の公演予定が出てきた。

 

『6つの色』。

 

昼間は、席数や日付の方へ目が行った。

今は、その上にあるグループ名を見ていた。

 

Lumière Palette

 

ここに、私が入る。

 

「……なんで、こんなことになってるんだろう」

 

声にしてから、少しだけ椅子の背へ身体を預けた。

二月には、由佳に紹介された撮影へ、一日だけ行った。

後ろに座ったり、歩いたりするだけのつもりだった。

それがカメラテストになり、レッスンになり、いつの間にか、歌とダンスを教わるようになった。

気づけば、アイドルグループへ入らないかと言われている。

 

途中を省いて並べると、ますます分からない。

ただ、途中を省いてはいけないのも分かっていた。

誰かが勝手に私を今日まで連れてきたわけではない。

五月にも、ちゃんと説明を聞いた。

五人と一緒に練習して、技術だけでなく、この人たちと活動したいと思えるかも確かめてほしいと言われた。

 

その時、私は家で考えてから、合同レッスンを受けてみたいと答えた。

ルミパレへ入りたいかは、まだ分からない。

でも、候補として確かめるところには進みたい、と。

……そうだった。

そもそも、そこへ行くと決めたのは私だ。

 

「……自分で受けたんじゃん」

 

誰に言うでもなく呟いた。

候補になると決めたことを、忘れていたわけではない。

それでも、正式に、と言われた途端、今までとは別の話を急に持ってこられたような気持ちになっていた。

練習している間は、目の前にやることがあった。

だが、その先にあるものを、今日は名前ではっきり言われた。

女性アイドルグループの、正式メンバー。

私は紙へ目を落とした。

 

前の私は、男だった。

それは、何となくそうだった気がする、という程度の話ではない。

今の身体で十七年生きてきても、その前に男として暮らしていた記憶まで、完全に消えたわけではない。

ただ、前の人生を最初から順番に思い出せと言われたら、できない。

いつ、どこで、誰と何を話したのか。

毎日の細かなことは、随分抜けている。

覚えていたはずのものが、今では輪郭しか残っていないこともある。

 

その一方で、ふとした時に浮かぶ感覚はあった。

男同士でくだらないことを話して笑っていた時の、気楽な感じ。

何かを見て、別に頼まれてもいないのに感想を言い合うような時間。

その頃は自分も、周りからも、男として扱われていた。

いちいち確かめる必要もない、普通のことだった。

そういう記憶が、私にはある。

 

だから、テレビに映っている女性アイドルと、今の自分を同じ仕事の中へ並べようとすると、まだ少し変な感じがした。

前の人生では、そんなことを考えた覚えがない。

誰かが歌っているのを見ても、踊っているのを見ても、そこへ自分が立つ可能性なんて、わざわざ想像もしなかった。

男だった私が、一度生まれ直して、今度は女の子として育って。

その先で、女性アイドルになるらしい。

文字にしたら、何の話だと思うだろう。

私がその物語を読む側でも、一度、前のページへ戻ると思う。

 

でも、今の私が女であることに困っているわけではなかった。

朝、髪を整える。服を選ぶ。

可愛い鞄の写真を見て、どちらの色が好きか考える。

そういう時に、女の子ならこっちを選ぶはずだとかを、いちいち自分へ言い聞かせているわけではない。

この間、美月に見せてもらった鞄も、普通に可愛いと思った。

一緒に服を見に行きたいと言ったのも、その方が正しい返事だからではなかった。

お父さんとお母さんは、私の両親だ。

今いる部屋は、私が育ってきた家の、自分の部屋だった。

前に男として生きていたことと、今ここにいる私が女であることは、どちらも私の中では分かっている。

そこへ今度は、アイドルになるという話まで加わろうとしている。

 

知らないことが多すぎた。

一度余分に生きたからといって、こういう時に正解が分かるわけではないらしい。

そもそも、前の人生だって特別なものではなかった。

勉強も運動も人並み。

何か一つだけ抜きん出ていたわけでも、大勢に名前を知られるようなことをしたわけでもない。

褒められたことも、誰かに助かったと言われて嬉しかったこともある。

悪い人生だったとは思っていない。

ただ、自分だから任せたいと、何の義理もない相手から言われるようなものは、思い当たらなかった。

 

何かができる人を見れば、すごいと思った。

自分にも同じことができたら、とは思っても、自分の生活の真ん中へ持ってくるところまでは行かなかった。

できることをやる。

分からなければ覚える。

必要なことを済ませて、そのあとで好きなものを見る。

特別に困ることがなければ、それでよかった。

 

今の人生でも、最初から何かを目指していたわけではなかった。

小さい頃は、普通の子供に見えるようにするだけで忙しかった。

今の年齢ならどんな返事をするのか。

何を知っていて、何を知らないことにするのか。

周りを見て、一つずつ覚えた。

やっているうちに、考えなくてもできることが増えた。

どこからが覚えたことで、どこからが元からの自分なのかも、もう随分曖昧になった。

 

それでも、人の輪へ入るのは上手くならなかった。

男子とは普通に話していたつもりだった。

女子とも仲良くしたくないわけではなかった。

なのに、こちらが同じようにしていても、相手の受け取り方が変わる。

昨日まで笑って話したことが、今日は悪口の理由になる。

何を間違えたのか分からないまま、その場へいるのが難しくなった。

 

昔の経験を思い出しても、その日の教室で何を言えばいいのかまでは教えてくれない。

少し離れて考えようとしても、嫌なものは嫌だった。

結局、高校では、あまり深く入りすぎないようにした。

普通に話す。必要なことはする。

誘われたら、ときどきは行く。

由佳のように、そのくらいの距離でも何度も話しかけてくれる人がいた。

だから、今の学校生活まで寂しいものだと思っていたわけではない。

それでも、自分から大きな輪の真ん中へ行くつもりはなかった。

 

大学へ行って、そのあとで仕事を探して。

無理なく暮らせるようになればいい。

二月までは、本当にそれくらいしか考えていなかった。

 

私は、公演の予定表を持ち上げた。

1800席。

私がそこで、歌って踊る。

知らない人たちの前へ立つ。

男だった記憶があって。

前の人生も、今の人生も、特別な何かを成し遂げたわけではなくて。

ほんの少し前までは、誰かの隣を自分の場所にしないようにしていた私が、アイドルになるのか。

また同じ問いへ戻ってきて、私は紙を机へ置いた。

 

————

 

ファイルから、レッスンのノートを取り出した。

今日の説明をメモしたページより、ずっと前へ戻る。

五月の最初の方には、今なら間違えないようなことが書いてあった。

右へ乗ってから、左を寄せる。

足だけを先に置かない。

それを読んだだけで、最初の頃の脚の重さまで思い出した。

辛かった。

階段を下りる時にも、椅子へ座る時にも、太腿が痛かった。

腕をつけるだけで足の順番が分からなくなる。

分かったつもりで動いてみると、また違うところで止まる。

 

歌も同じだった。

言葉を大事にしようとすると、音や息の方が崩れる。

歌だけならできたところへ数歩の移動が加わると、最初の一音にさえ間に合わない。

 

私は別に、何でもすぐできる人ではなかった。

できないことの方が、ずっと多かった。

学校へ行って、そのあとで、もう一つの鞄を持って電車に乗る。

歩く時間と乗り換えを合わせれば、片道一時間半。

帰りも同じだけかかった。

通い慣れたからといって、近くなるわけではない。

眠かった。

本当に、普通に眠かった。

行きの電車で開いた単語帳も、帰りには同じところから目が動かなくなることがあった。

目では読んでいるのに、次の単語へ行った時には、前のものがもう頭に残っていない。

前の人生でも習ったはずなのに、英単語なんて全然思い出せない。

そこだけでも、もう少し便利な記憶だったらよかったのに。

そんな状態だからこそ、帰ってから全部やればいい、では回らなくなった。

 

レッスンへ行かない日に、机で考えなければいけない課題を進める。

電車では、短く区切って見られるものを開く。

試験の前には、レッスンを減らしてもらう。

やることの量だけでなく、いつ、どこでやるかまで変える必要があった。

土曜に泊まれるようになったのは、随分助かった。

一度帰って、また同じ道を戻ってくる三時間がなくなった。

夕飯を食べて、お風呂へ入って、ちゃんと寝られる。

それでも、楽な毎日になったわけではない。

 

ノートをめくる。

最初は短い動きだけだった。

やがて、一曲になった。

二曲、三曲と増えて、続けてやるようにもなって、一曲を終えたら次の位置へ行くことも覚えた。

できなかったところへ印をつける。

次のレッスンで、そこを確かめる。

直ったと思えば、そのすぐ隣にまた別の印が増える。

 

大変だった。

覚えることも、考えることも多かった。

なのに。

ページをめくっていた指が、止まった。

 

充実していた。

 

そう思うと、少し驚いた。

辛かったことを並べたあとに出てくる言葉としては、妙だった。

でも、他に言いようがなかった。

昨日まで分からなかったことが、今日は少し分かる。

一度だけできたことが、次に来た時にも残っている。

音が止まらず、最後まで行く。

終わったあと、脚が重くて座りたいと思いながら、それでも、次にはもう少し上手くやりたいと思っていた。

一曲通せた時も。

六曲を最後まで続けられた時も。

完璧にできて何もかも終わった、とは思わなかった。

まだ、あそこを直せる。

今度は、あの人の声をちゃんと聞いてから入れる。

自分のところで、曲を途切れさせずに済む。

そんなことを考えていた。

 

前の人生から今まで、ここまで何かに打ち込んだことはあっただろうか。

好きなものはあった。

長い時間を使って楽しんだこともある。

勉強だって、必要な時には頑張ってきた。

それでも、生活の時間を組み替えて、眠くなって、何度もできないところへ戻って。

そこまでして、次もやりたいと思ったものが、ほかにあったか。

古い記憶を探してみても、すぐには出てこなかった。

思い出せないだけのことはあるかもしれない。

それでも、今のこの数か月と同じくらいはっきりしたものは、見つからなかった。

どうして、ここまでやっていたのだろう。

 

ノートの中には、私の名前だけでなく、五人の名前もあった。

ひより先輩から、自分へ。

自分の次は、美月。

そのあとが、玲奈さん。

短く書いた順番を見た途端、文字より先に、声が浮かんだ。

 

『真琴、二番の終わり、下がるのが早い』

 

ひより先輩にそう言われた時、私は身体を固くした。

間違えた場所は分かっていた。

それなのに、何度も同じことを言わせてしまったとか、もう覚えたはずなのにと思われているのではないかとか、言われていないことまで考えた。

でも、先輩は、本当にそこを直したかっただけだった。

私が早く動いたから、玲奈さんの位置も、その先のひより先輩の位置もずれた。

だから、次は同じところで動こう。

その話だった。

 

玲奈さんも、自分が違う場所へ行けばひより先輩は言うし、逆もあると教えてくれた。

私だけが、何かを見定められていたのではない。

五人も、互いに見ていた。

違えば言う。

聞かれたら答える。

分からなければ、もう一度確かめる。

そこへ、私の分も入っていた。

 

夏希は、私が同じ動きを何度も見たがっても、もう一度やってくれた。

説明の勢いについていけない時もあったけれど、できない私を見て、面倒そうな顔をしたことはなかった。

その夏希だって、新曲では先生に足の運び方を聞いていた。

何でも最初から分かっていたわけではない。

分からないところを確かめて、もう一度動くのが、私よりずっと早いだけだった。

 

澪先輩は、私が短い歌で息を使い切っている横で、長いところを綺麗に歌っていた。

その声に、何度も驚いた。

でも、先輩もただ歌い終えて満足しているのではなかった。

どの言葉を前へ出すか。

どのくらい声を残すか。

鳴海先生と話し、紙へ書いて、また歌っていた。

 

美月は、私の声のあとへ、自分の声をつなげていた。

私が最後を小さくしてしまえば、その先も変わる。

私が残せるようになったら、美月も入り方を変える。

私の練習が済むのを、横で待っているだけの人ではなかった。

自分のところをもっと良くするために、私の歌も聞いていた。

新曲の練習を始めた日には、ひより先輩から順番を聞かれた。

 

『ここ、真琴の次が美月だったよね』

 

私が答えると、先輩は、うん、ありがとう、と言って、紙へ線を引いた。

それだけだった。

特別なことを任せたような顔も、よく答えられたねという顔もしなかった。

一緒に練習している相手へ、分からないところを聞いた。

私は、知っていたから答えた。

思い出したら、胸のあたりが少し温かくなった。

 

優しかった。

五人とも、ずっと優しかったと思う。

でも、ただ優しくしてもらえたから、というだけではなかった。

できなければ、直すところを教えてくれた。

できれば、それを使って次へ進んだ。

私の担当は、私がやるものとして話してくれた。

歌やダンスの上手さが同じではないことは、私が一番よく分かっている。

それでも、同じ曲を作る時には、私にもちゃんと一人分の仕事があった。

 

休憩では、普通に笑った。

夏希とトランプをした。

澪先輩と、話し続けなくても一緒にいられた。

ひより先輩と美月と、買ってきたオムライスを食べた。

美月が髪を直そうとして、スマホの方まで傾けたところを思い出す。

私は少し笑ってから、机の上のスマホへ手を伸ばした。

保存した写真を開く。

 

美月の髪には、斜めになったクリップ。

ひより先輩は、その隣で笑っている。

私はカメラではなく、二人の方を見ていた。

上手く映るために作った顔ではなかった。

ただ、その時、そこにいた顔だった。

 

写真を見ているうちに、ようやく分かった気がした。

私は、アイドルになるかどうかを考えているつもりだった。

前に男だった自分が、女性アイドルになるのか。

普通に暮らしてきた自分が、そんな仕事を選ぶのか。

そうやって、大きな名前ばかりを見ていた。

でも、実際に選ぶことになっているのは、もっとよく知っているものだった。

 

あの五人と、一緒にやるのか。

 

二月に、いきなりアイドルとしてデビューしてほしいと言われていたら、どうしただろう。

才能があると言われたら、きっと嬉しかった。

それだけで話を聞きに行ったくらいだから、嬉しくないはずはない。

少し試してみたいとは、思ったかもしれない。

それでも、そこからここまで通っただろうか。

眠くなりながら電車に乗って、勉強の時間まで変えて、何度も同じ足を出す。

昨日できなかったところを、今日はできるようになりたいと思う。

何も知らないまま、アイドルになるためだと言われただけで、そこまで夢中になれただろうか。

 

多分、ならなかった。

最初にレッスンへ行ったのは、自分に才能があるのか知りたかったからだ。

それは本当だった。

でも、途中から、見ているものが変わっていた。

私が上手くできれば、ひより先輩の歌を受け取れる。

最後まで声を残せれば、美月へつながる。

自分の場所へちゃんと行けば、その先の動きも崩れない。

もう一度、あの六曲をやりたいと思っていた。

私の表情が褒められるところだけではない。

澪先輩が歌うところも、夏希が大きく動くところも、玲奈さんから次へつながっていくところも。

その中で、自分がすることを、もっと上手くやりたかった。

 

一緒にご飯を食べたいだけなら、契約書へ名前を書く必要はない。

買い物へ行く約束だって、仕事の予定ではなかった。

五人と仲良くなれて嬉しい。

それはそれで本当だった。

でも、私は、それだけでは足りなくなっていた。

あの五人と、一緒に作りたい。

何度も止めて確かめてきたものを、六人でちゃんと見せられるようにしたい。

一度通せたところを、次にはもっと良くしたい。

そう思っていたから、続けていたのだ。

 

「……そっか」

 

声に出すと、思ったより簡単なことのように聞こえた。

私は今日、急に五人とやりたくなったわけではなかった。

ずっとやってきて、いつの間にか、続きをやりたいと思うようになっていた。

ただ、それを自分でちゃんと言葉にしていなかった。

 

今日、正式に迎えたいと言われた時のことを思い出す。

何を心配するより先に、胸が熱くなった。

また認めてもらえたからだと、思っていた。

それも、違ってはいない。

才能があると言われることは、今でも嬉しい。

それを平気な顔で受け流せるようになったわけではないし、これからも、褒められたら普通に喜ぶと思う。

 

でも、今日嬉しかったのは、ただアイドルにしてもらえるからではなかった。

あの五人と、仕事として一緒にやれる。

まだ足りないところもあるけれど、私が加わって、六人で見せられるものがある。

そう認めてもらえたことが、嬉しかったのだ。

五人は、もう私を受け入れてくれていた。

今日の返事を待ってから、初めて一緒に笑ってくれるわけではない。

そこへ今度は、正式に、同じグループとして活動してほしいと言われた。

あの輪の中で、私にもできることがある。

一緒に作る相手として、並んでいい。

それが、あんなに嬉しかった。

 

最初は、自分に何があるのかを確かめたかった。

今も、それを知りたい気持ちはなくなっていない。

でも、今は、それを持って誰と何をしたいのかの方が、ずっと大きかった。

私は、ノートを閉じた。

知らない人に何を言われるのかは、まだ怖い。

八月八日に上手くできるかも、分からない。

そこまで急に変わったわけではない。

でも、やりたいことは分かった。

私は椅子から立ち上がり、ファイルを持った。

 

————

 

リビングでは、小さな音でテレビがついていた。

父がソファから顔を上げる。

母も、手元のスマホを伏せた。

 

「お父さん、お母さん」

 

二人がこちらを見る。

 

「私、ルミパレに入りたい」

 

言ってから、ファイルを抱え直した。

父は、少しだけ間を置いて頷いた。

すぐにテレビが消された。

 

「座って話そう」

 

私は食卓の椅子へ座った。

さっき片づけた資料を、もう一度前へ置く。

母が隣へ、父が向かいへ座った。

 

「自分で、そうしたいと思ったの?」

 

母に聞かれて、頷いた。

 

「うん」

 

「どうして?」

 

さっき部屋で考えたことを、そのまま全部話すことはできない。

前の人生のことは、これからも話さない。

でも、今ここで伝えたいことは、そこを説明しなくても言えた。

 

「五人と、一緒にやりたいから」

 

母は、私を見たまま続きを待った。

 

「最初は、本当に、才能があるって言われたのが嬉しかったんだと思う。教わったらどこまでできるのか、知りたかったし」

 

「うん」

 

「でも、今は……次も、あの人たちと練習したい。六曲を一回通せたから、それで終わりにしたいとは思わなかった」

 

ファイルから、曲順の紙を出した。

 

「自分のところをちゃんと歌えたら、その次も、前よりつながったりするんだよ。私が変えたら、美月も……皆も変えて、もう一回合わせて」

 

話しているうちに、先ほどまで頭の中にあった声が、また浮かぶ。

 

「そういうのを、もっとやりたい」

 

母は、すぐには何も言わなかった。

父が、私の前にある紙へ目を落とす。

 

「今まで教えてもらったから、断りにくいということではないんだな」

 

「……それを、全然考えないわけじゃない」

 

そこまできっぱり言えるほど、何も気にしなくなったわけではなかった。

 

「時間も使ってもらったし、何度も待ってもらったから。でも、それだけなら、多分、もう少し違うと思う」

 

「違う?」

 

「申し訳ないからやらなきゃ、って考えてるだけなら……終わってからも、次はもう少し上手く合わせたいって、こんなに考えないと思う」

 

父は黙って聞いていた。

 

「教えてもらった分を返すためじゃなくて。私も、いいものにしたい」

 

そう言ってから、少し恥ずかしくなった。

今の自分が、そんなことを言っていいのかという気持ちが、まだあった。

でも、言わないことにしたくはなかった。

母が、ゆっくり頷いた。

 

「最近、あの子たちの話が多かったものね」

 

「……そう?」

 

「うん。今日どうだったって聞くと、誰と何を話したとか、次は誰のあとに歌うとか」

 

言われて、少し考えた。

 

「そんなに話してた?」

 

「話してたよ」

 

母が小さく笑った。

私は曲順の紙へ目を戻した。

自分で分かったのが今日だっただけで、口にはもう出ていたらしい。

父が、資料のもう一枚へ手を置いた。

 

「発表のあとの話も、聞いただろう」

 

顔を上げる。

 

「うん」

 

「前よりメンバーになる人のたちのことを知っているから、他人に何か言われても平気だとは、考えていないよな」

 

「考えてない」

 

そこは、すぐに答えた。

 

「怖いよ。何を言われるのか分からないし。自分で見なくても、知っちゃうことはあると思う」

 

父の眉間に、少し皺が寄った。

 

「それでもか?」

 

私は一度、息を吸った。

 

「それでも、やりたい」

 

口にしたあとも、怖さは残った。

でも、今の返事を言い直したいとは思わなかった。

 

「平気だから行くんじゃない。……平気かどうかは、まだ分からない」

 

母が、机の上へ手を置く。

 

「困った時に、言える?」

 

「言うようにする」

 

答えてから、少しだけ続けた。

 

「一回決めたんだから、あとは一人で何とかする、とは思わないようにする」

 

父も母も、まだ私を見ていた。

 

「どうしたらいいか分からなくなったら、また、一緒に考えてほしい」

 

母が頷いた。

 

「うん。それは、もちろん」

 

父も、ああ、と答えた。

その返事を聞いて、肩のあたりが少し緩んだ。

 

「学校と受験は?」

 

今度は父が聞いた。

 

「大学には、行きたい。指定校推薦を目指すのも、駄目だったら一般を受けるのも、変えない」

 

「仕事が始まれば、今までと同じようにはいかなくなると思うぞ」

 

「うん。だから、予定が分かったら早川さんにも伝える。家で勉強する時間が足りなくなったら、その時も相談する」

 

母が、学校の資料を少し横へ動かした。

 

「夏休みが終わってからのことも、また考えようね」

 

「うん」

 

父は、しばらく曲順と学校の資料を見比べていた。

私は、返事を待った。

急いで何かを付け足したくなったけど、やめた。

全部大丈夫だとは言えない。

二人が気にしていることを、私が今ここで全部なくすこともできなかった。

やがて父が、こちらを見た。

 

「分かった」

 

私は、膝の上で手を握り直した。

 

「真琴が自分でやりたいと決めたなら、俺たちも、それを支えよう」

 

「……うん」

 

「ただ、心配はするぞ」

 

父は、真面目な顔のまま言った。

 

「それは諦めてくれ」

 

少し笑ってしまった。

 

「分かった」

 

母も笑った。

 

「心配はするけど、反対してるのとは違うからね」

 

「うん」

 

私は二人を見た。

 

「ありがとう」

 

言い終えると、急に喉のあたりが詰まった。

泣くほどではなかったけど、そのままもう一言続けようとしたら、少し変な声になりそうだった。

母が、私の前へコップを寄せてくれた。

一口飲む。

水の冷たさが、一気に伝わってきた。

 

————

 

父が契約書を手元へ引き寄せたところで、報酬の資料が見えた。

八十万円。

今度は、その数字を見ても、読み間違いかとは思わなかった。

もし所属して、仕事を続けていけたら、私にもそのお金が入る。

そこで、ふと思いついた。

 

「……大学の学費、私が払えるよね」

 

父の手が止まった。

母もこちらを見る。

 

「学費?」

 

「うん。あの年額になるって決まったわけじゃないのは分かってるけど。それでも、ちゃんと続けられたら、出せると思う」

 

口にしてみると、それは随分分かりやすい使い道だった。

いきなり大きなお金をもらうと言われても、何をすればいいかは思いつかない。

でも、大学へ行くのにお金がかかることは、当然知っている。

 

「今まで、お父さんとお母さんに出してもらうつもりだったけど。自分で出せるなら、その方が——」

 

「それは、いい」

 

父に言われ、口を止めた。

 

「……いいって?」

 

「大学の分は、俺たちが用意してある」

 

「でも」

 

「真琴が払えるかどうかの話じゃないんだ」

 

父は契約書から手を離した。

 

「お前が大学へ行きたいと言った時に、親としてちゃんと出せるように、前から準備してきたお金だからな。そこは予定どおり、俺たちに出させてくれ」

 

私は母を見た。

母も頷く。

 

「真琴がこういう仕事をすることになったから要らなくなった、とは思ってない」

 

「……そっか」

 

「真琴が働いてもらうお金は、真琴のもの。使い方は、これからちゃんと考えていけばいいんだから」

 

私は、資料へ目を落とした。

自分で払えるようになれば、その方がいいのだと思っていた。

お金のことでまで頼らずに済むなら、と。

でも、二人は、頼らなくていいと言ってほしかったわけではないらしかった。

 

「じゃあ……学費は、お願いしてもいい?」

 

「そのつもりで用意してたんだ」

 

父が、少し笑った。

私も笑った。

それから、今度は少し冗談めかして聞いてみる。

 

「でも、お父さんとお母さんにプレゼントするくらいなら、いいよね?」

 

母が父を見た。

父も、一度母を見てから、こちらへ目を戻す。

 

「それくらいならな」

 

「よかった」

 

「まだ何ももらってないでしょう」

 

母に言われた。

 

「分かってる。先の話」

 

「うん。じゃあ、楽しみにしてる」

 

そう言って笑ってくれたので、私も頷いた。

何を買うかは、まだ全然考えていない。

それでも、二人へ何か選ぶところは、さっきより少しだけ想像できた。

 

そのあとで、三人でもう一度、契約書を開いた。

署名する前に、確認した箇所と、自分が引き受けることを読み直す。

急いで名前だけ書いてしまわないよう、父も母も、最後まで一緒に見てくれた。

ペンを持つと、指に少し力が入った。

自分の名前を書くことなんて、何度もやっている。

なのに、一文字目を書くまでに、少し間が空いた。

 

白瀬真琴。

 

書き終えた字を見た。

特別に綺麗でも、変わった字でもなかった。

学校のプリントへ書くのと、同じ名前だった。

 

————

 

七月二十六日、日曜日。

 

前の日と同じ三人で、FOLIOの受付へ来た。

朝、早川さんに連絡して、家族で確認し、返事を決めたことを伝えていた。

書類を持って伺いたいと相談すると、担当の人たちの都合を確かめて、午後の時間を取ってくれた。

昨日より、鞄を開く回数は少なかった。

ファイルの中に何が入っているかは、分かっていた。

契約書も、自分たちの控えのメモも、三人で確かめて持ってきた。

案内された部屋には、早川さんと契約担当の人がいた。

久世さんも席に着いている。

 

「本日もお越しいただき、ありがとうございます」

 

挨拶をして、昨日と同じように両親と並んで座った。

私は、鞄からファイルを取り出した。

 

「家で、三人でもう一度確認しました」

 

父が言った。

 

「本人も、加入したいと決めています。保護者としても同意します」

 

契約担当の人が頷いた。

私は、書類を両手で差し出した。

 

「よろしくお願いします」

 

受け取った人が、書面を一枚ずつ確認する。

署名した箇所へ目が移った時、つい、自分も同じところを見てしまった。

昨夜、机の上で書いた名前だった。

今は、FOLIOの人の手元にある。

ご自宅で読み直して、新しく確認しておきたいことはありませんか、と聞かれた。

父と母が、持ってきたメモを見ながら答える。

私にも聞かれたので、一度紙を見てから顔を上げた。

 

「今、確認したいところは、聞けています」

 

「分かりました。今後も、必要な時にはこの窓口へご連絡ください」

 

私は頷いた。

書類を揃えたところで、久世さんがこちらを見た。

 

「では最後に、真琴さんご本人の意思を、改めて確認させてください」

 

膝の上の手を、一度開いた。

 

「昨日お伝えした内容を受けて、FOLIOへ所属し、Lumière Paletteへ加入することを希望されますか」

 

私は、久世さんを見た。

 

「はい。加入したいです」

 

昨日は、正式に迎えたいと言われても、ありがとうございますとしか返せなかった。

今は、その先を言えた。

 

「最初は、才能があるって言ってもらえたのが嬉しくて。自分に何ができるのか、知りたくて来ていました」

 

久世さんは、黙って聞いていた。

 

「アイドルになりたくて、始めたわけではないんです」

 

口にしてから、一度息を吸った。

否定したいわけではなかった。

だから、その先までちゃんと言う。

 

「でも、五人と練習して、できなかったところが少しずつつながるようになって。いつの間にか、自分だけ上手くできたらいい、ではなくなっていました」

 

机の上のファイルへ目を落とす。

契約書の下には、六曲分の紙があった。

 

「ひより先輩の歌を聞いて、自分が歌って、そのあと美月へ渡すところとか。私が変わると、その先も変わるんです」

 

自分でも、少し説明が細かいと思った。

でも、私が続けたいのは、そういうことだった。

 

「もっと上手くやりたいです。五人と一緒に、もっといいものを作りたい」

 

久世さんへ目を戻した。

 

「昨日、正式に入ってほしいと言ってもらえて、すごく嬉しかったです。あの五人と一緒にやっていけると、思ってもらえたんだって」

 

隣で、母が小さく息を吐いた。

私は、最後まで言った。

 

「私がやりたいのは、アイドルじゃない。あの五人と一緒に、Lumière Paletteをやることです」

 

言い終えると、部屋が少し静かになった。

久世さんは、すぐに別の質問をしなかった。

一度頷いてから、口元を少し緩めた。

 

「分かりました」

 

私は、机の下で指の力を抜いた。

 

「これから、よろしくお願いします」

 

頭を下げられて、私も慌てて姿勢を正した。

 

「——よろしくお願いします」

 

両親も、隣で頭を下げた。

そのあと、契約担当の人が書類を確認し、手続きを進めてくれた。

正式な所属と加入は、八月一日付に決まった。

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