TS少女は演じたい   作:息抜き

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3話

「そういえば、あれって結局、何の連絡だったの?」

 

二月十六日の放課後、駅へ向かう途中で由佳が言った。

 

「ノートフィルムの人。真琴と話したいって言ってたでしょ」

 

「ああ……」

 

「撮り直し?」

 

私は首を振ってから、周りを見た。

校門を出たときには近くにいた同級生たちも、今は少し先を歩いている。

由佳は私の視線を追い、それからスマートフォンを鞄へしまっていた。

 

「言いにくいやつ?」

 

「まだ、他の人には言わないでほしいんだけど」

 

「うん」

 

そこで待ってくれたので、私は息を吸った。

 

「……スカウトだった」

 

由佳の足が止まった。

私も立ち止まる。

 

「……芸能事務所の?」

 

「そう」

 

「真琴が?」

 

「私が」

 

「ええ?」

 

最後の声が少し大きくなって、由佳は自分で口元を押さえた。

前を歩いていた人たちは、そのまま遠ざかっていく。

 

「ごめん。びっくりした」

 

「私も、最初に聞いたときはそうだった」

 

「どこの事務所?」

 

「FOLIO。あの日の主演の人が所属してるところ」

 

由佳は名前を聞いて、また目を丸くした。

 

「FOLIOって……」

 

「知ってるの?」

 

「知ってるのって、真琴あんた……そこはルミパレが所属してる事務所でしょ。それくらい、流石に知ってるって」

 

「……私は知らなかった」

 

「まぁ、真琴ならそうかもしれないけどさぁ」

 

由佳が呆れたように溜息を吐く。

確かにそういう芸能関係には疎い自覚はあるけど、そこまで露骨な反応をしなくてもいいのではないだろうか。

由佳は、私がアイドルの話にあまりついていけないことも知っている。

曲や顔に見覚えがあっても、名前や所属先まで調べることはなかった。

ルミパレだって、FOLIOから連絡が来て初めてちゃんと見たくらいだ。

 

「……とにかく、あそこに新人担当の人も来てたんだって。監督に言われたあと、表情とか視線を変えるのがよかったらしくて」

 

「ああ。あの笑うの我慢してたところとか」

 

「うん。もう一回って言われて、同じことができたのも」

 

由佳は少し考えてから、歩き始めた。私も隣へ戻る。

 

「確かに、あれはすごかったけど……。それで、どうしたの?」

 

「水曜日に、両親と話を聞きに行った」

 

由佳がこちらを向いた。

 

「会いに行ったの?」

 

「うん」

 

「真琴が?」

 

「さっきから、他に誰かいる?」

 

「だって、断ったって言うと思ったから」

 

……それは、分かる。

私だって、自分がそういう話を持って帰ってくるとは思っていなかった。

 

「……何を見て声をかけてくれたのか、聞いてみたくて」

 

「どうだった?」

 

「ちゃんと説明してもらえた。金曜日には、カメラテストも受けた」

 

「待って。そんなに進んでたの?」

 

「連絡してなくて、ごめん」

 

「それはいいんだけど。……カメラテストって、実際に撮るやつだよね?」

 

頷くと、由佳は前を向いて、しばらく黙った。

 

「それ、女優になるかもってこと?」

 

女優。

自分へ向けられると、ずいぶん大きな言葉だった。

前の人生の私に聞かせたら、まず、誰の話だと聞き返しただろう。

女子高生になったところで十分予想外だったのに、その先にもまだ何かあるらしい。

 

「向こうが見てるのは、多分そっち。演技とか、広告の映像とか」

 

「へえ……」

 

「まだ、なるって決めたわけじゃないよ。これから何回か、体験レッスンに行くことになっただけで」

 

由佳が、今度は笑った。

 

「いや、その『だけ』が一番意外なんだけど」

 

「……そう?」

 

「真琴の方から、受けてみたいって言ったんでしょ?」

 

「……うん」

 

そこについては、昔の私を持ち出すまでもなかった。

一週間前の私でも、十分驚くだろう。

 

「そっか」

 

由佳は、何か納得したように頷いた。

私は鞄の持ち手を握り直した。

 

「あのね……褒めてもらえたのが、嬉しかったからだと思う」

 

口にしてしまうと、少し恥ずかしかった。

 

「それで、もう少しやってみませんかって言われて。やってみたいなって」

 

「……うん。そりゃ、嬉しいよね。プロからそんなこと言われたら、嬉しくなっちゃうよ」

 

由佳は、そこをからかわなかった。

 

「じゃあさ」

 

交差点の信号が変わって、私たちは足を止めた。

 

「もし本当に続けることになったら、いつか私にも真琴を撮らせてよ」

 

私は由佳を見る。

 

「由佳が作るものに、出るってこと?」

 

「そう。私も、もっと勉強して、ちゃんと撮れるようになるからさ」

 

普段、自分の動画を見せてくるときより、少しだけ照れた顔をしていた。

 

「こういう役をやってほしいって、胸を張って言えるようになったら」

 

由佳が作る映像に、自分が出る。

テレビや映画の中にいる自分は、まだうまく想像できなかった。でも、カメラの後ろに由佳がいるところなら、何となく分かる気がした。

 

「……今度は、何をする役か先に教えてね」

 

「最初から台詞のある役にする」

 

「当日に増やさないでよ」

 

「それは、私もびっくりした方だから」

 

二人で笑った。

信号が青になり、由佳が先に歩き出す。

 

「じゃあ、いつか」

 

「内容を見てから考える」

 

「うん。それで」

 

大きな約束にはならなかった。

しかも、続けるとしたら、なんていう前置きをした由佳のその提案だけど、そのくらいでちょうどよかった。

改札の手前で、由佳がもう一度声を落とした。

 

「学校では言わないから」

 

「ありがとう。私も、由佳にしか話してないから」

 

「分かった」

 

それから由佳は、いつもの声へ戻った。

 

「それより、明日の英語、当たる日じゃない?」

 

「あっ」

 

「レッスンはいいけど、宿題とかは忘れないでよ~真琴。さっきだって授業中にぼーっとしてたし。私が見せてあげるにしても限度があるんだから」

 

忘れていた。

女優になるかどうかより、ずっと近いところに、人前で喋る予定があった。

 

————

 

最初のレッスンへ行く前の晩、ベッドの上には三枚のTシャツが並んでいた。

白と、紺と、灰色。

どれも無地で、どれも持ち物の条件には合っている。

私は紺色を畳み、やっぱり広げて、灰色の上へ置いた。

 

「まだ決まらない?」

 

開いていたドアから母が覗いた。

 

「どれでもいいとは思うんだけど」

 

「どれでもいいものを、ずっと見てるの?」

 

「……そういうことになる」

 

母が笑い、洗濯したタオルを机へ置いた。

普段の服なら、好きな色や着たい組み合わせで選べる。

でも、明日は初めてのレッスンだ。

どれも条件には合っているのに、いつもと同じ選び方でいいのか分からなくなっていた。

 

「着慣れてるのにしたら?」

 

私は、もう一度三枚を見た。

結局、最初に選んだ紺色にした。

動きやすいパンツと一緒に袋へ入れる。タオル、水筒、室内用の靴。台本を入れるクリアファイルも用意した。

その横には、学校へ持っていく参考書が積まれている。

一つの鞄へ入れようとしてみたけれど、途中で諦めた。

 

「鞄、二つになるね」

 

「うん。学校の方を減らせればいいんだけど」

 

「そっちは必要でしょう」

 

「知ってる」

 

母が、鞄の底からはみ出しかけていた靴袋を押し込んだ。

参加の書面は、すでに家族で確認していた。

学校の予定を送って、日程も決まっている。初日は母と説明を受けるけれど、実技は一人。

その次からは、通常のレッスンなら一人で通う。

そこまで決まっているのに、Tシャツだけ決めるのに時間をかけてしまっていた。

 

「お母さん」

 

「何?」

 

「向こうにいる子って、みんな、芸能人になりたいんだよね」

 

母は少し考えた。

 

「そういう子は多いんじゃない?」

 

「……だよね」

 

「気になる?」

 

私は靴袋の紐を結んだ。

 

「何になりたいのって聞かれたら、何て答えようかなって」

 

母は、ベッドに残った二枚のTシャツを重ねた。

 

「まだ考えてる、じゃ駄目なの?」

 

「駄目ではないと思うけど」

 

「じゃあ、とりあえずそれでいいじゃない。本当のことなんだし」

 

母はそれ以上、答えを作ってくれなかった。

私も、まだ考えている以上のことは分からない。

居間へ行くと、父が口を開いた。

 

「明日、レッスンだったな。東京だろう?何時くらいになりそうなんだ。駅までなら迎えに行けるぞ」

 

「駅に着くのは、多分九時くらい。でも、そこからは歩けるよ」

 

「そうか。ならいいんだ。必要になったら連絡してくれ。初めてのレッスンだ。疲れるかもしれないしな」

 

そのまま父は、テレビの音量を少し上げた。

明日の天気予報が始まっていた。

私は画面の最低気温を見てから、部屋へマフラーを取りに戻った。

 

————

 

初めてのレッスン室には、私と同じくらいの年の女の子が二人いた。

挨拶をして、空いている椅子へ座る。

先生が機材を確かめている間に、隣の子がこちらを向いた。

 

「今日、初めて?」

 

「うん。カメラテストは受けたんだけど、レッスンは初めて」

 

「私、先月から。まだ毎回緊張するんだ~」

 

そう言って、その子は膝に置いた台本の角を撫でた。

私も、クリアファイルから同じ紙を取り出す。

 

「俳優志望?どんなのに出たいの?」

 

来た。

昨日から考えていた質問だった。

 

「……まだ、そこまでは決めてなくて」

 

「そっか。私はドラマ。好きな作品があって、ああいうのに出てみたいなって」

 

その子は作品の話を少ししてくれた。

私は見ていなかったけれど、題名には聞き覚えがあった。どの役が好きなのか聞くと、彼女の話す速さが変わった。

先生に呼ばれるまでの間に、緊張している顔ではなくなっていた。

私はまだ、あんなふうには話せない。

彼女の純粋な夢と比べると、私の認められたいなんていう承認欲求が酷く醜く思えてしまう。

そう考えながら、一緒に前へ出た。

その日の課題は、貸していた本を返してもらい、感想を聞くという短い会話だった。

台詞は、すぐに覚えられた。

ただ、映像を見せられたところで、問題が見つかった。

 

「まだ『好きだった』と言われていないのに、もう嬉しそうですね」

 

先生が画面を止める。

本当だった。

相手が「最初は難しかったけど」と言っている途中で、私は笑っていた。

先の台詞を知っているから、先に喜んでしまっている。

 

「まず、相手の話を聞いてみましょう」

 

カメラテストでも言われたことだった。

分かっていたはずなのに、また同じことをしていた。

やり直して、今度は返事が遅くなった。

その次は少しよくなったけれど、別の台詞でまた急いだ。

終わる頃には、たった一枚の台本へ、何か所も書き込みが増えていた。

 

「お疲れさまでした」

 

先生へ頭を下げ、椅子へ戻る。

隣の子が鞄を閉じながら言った。

 

「台詞になると、声変わらない?」

 

「変わる。教科書を読んでるみたいになる」

 

「私、さっき、お店の人みたいだった」

 

何となく分かって、笑ってしまった。

 

「『こちら、お返しします』って感じだった」

 

「そう、それ。友達なのに」

 

廊下へ出ると、彼女が駅の方向を聞いた。

途中まで同じだったので、一緒に帰ることになった。

好きなドラマの話の続きと、もうすぐ学校の試験があるという話をした。

駅で別れるとき、その子が手を上げる。

 

「次も同じレッスンかな?」

 

「多分?」

 

「そっか!じゃあ、またね!」

 

「……うん、また」

 

私も、手を上げた。

来たときには知らなかった人と、次も会うかもしれない。

帰りの電車で、母へ終了の連絡を送りながら、そのことを思った。

 

————

 

二回目には、三枝さんにも見てもらえた。

前のカメラテストと同じ課題を、条件を変えながら撮る。

 

「うん。そこは、ちゃんと残ってるね」

 

映像を見ながら言われて、安心した。

あの日だけ、たまたまできたわけではなかったらしい。

その次は発声で、その次には身体の動かし方も習った。

声をきちんと出そうとすると、普段とは違う声になる。

床の印で止まろうとすると、足元を見てしまう。

教わることは増えたけど、レッスンへ行くための手間は少し減った。

持ち物を毎回最初から並べなくなった。駅の出口も覚えた。

受付では、名前を言い終わる前に「おはようございます」と返してもらえる日があった。

学校の鞄には、教科書と別の紙が入るようになった。

家の洗濯物には、紺色のTシャツが増えた。

 

レッスンでもらった台本には、注意されたことがたくさん書き込まれている。

それだけでも足りなくて、次に試したいことまで余白へ書き足していた。

 

「明日、改めてご連絡します」

 

今日指導してもらったことを思い出しながら小さく呟くと、母が流しから振り返った。

 

「誰に?」

 

私は顔を上げた。

 

「……ごめん、ただの台詞」

 

「びっくりした。急に、きちんとした電話みたいなこと言い始めるから」

 

「そんな感じ?」

 

「少なくとも、私への声掛けではなかったかな」

 

母は布巾で手を拭き、冷蔵庫を開けた。

私はもう一度、紙へ目を落とす。

 

「じゃあ、本当の明日は? 帰り遅い日?」

 

「明日は普通。次は土曜日」

 

「分かった。じゃあ帰りに、いつものスーパーで買い物もお願いしてもいい?」

 

「うん」

 

「いつもの牛乳二本」

 

「二本か……」

 

学校の鞄へ牛乳を二本加えた重さを考えていると、母が笑った。

 

「難しかったら一本でもいいわよ」

 

「買ってくるけど」

 

「その返事は、いつもの真琴ね」

 

「別に、私は何も変わってないよ」

 

「……そうね。なんだか、真琴がとっても楽しそうだったから」

 

私は台本を裏返した。

 

「楽しそう、だった?」

 

「ええ。とても」

 

「……そっか」

 

————

 

三月に入ったある日、由佳と本屋へ寄った。

私が参考書を見ている間に、由佳は別の棚へ行ってしまった。

探しに行くと、映画の本を二冊、交互に開いていた。

 

「どっちか買うの?」

 

「悩んでる」

 

一冊は撮影について、もう一冊は監督へのインタビューを集めた本だった。

値段を見せられて、少し納得する。

 

「両方は?」

 

「それをやると、今月、映画を見に行けない。バイト代はもう底を突きそうなんだよ。世知辛い世の中だ……」

 

由佳が芝居がかった仕草でよよよと崩れ落ちる振りをしている。

だいぶ大根芝居だ。

 

「ふふ……それは、困るね」

 

「でしょ?困り果ててるんですよ。作り方以外にも、沢山作品見て引き出し増やしたいし……ジレンマなんだよ」

 

由佳は真剣にもう一度見比べ、結局、二冊とも棚へ戻した。

 

「今日は保留することにします」

 

「そっか」

 

「来週までに、欲しい方が決まるかもしれないから」

 

「それ、新しく欲しいのが増えるだけなんじゃないの?」

 

「っ、そ、そんなことは、きっと、ない、気がする……多分」

 

愕然としている由佳を放っておいて、本棚に視線を戻す。

目の前には、大学案内が並んでいた。

由佳が一冊を引き抜く。以前から気になっている大学らしかった。

学生が撮った映像のことを話し始め、途中でスマートフォンまで取り出す。

 

「これ、学校の紹介で見られるやつ。あとで送っていい?」

 

「いいよ」

 

「音がすごいんだよね。映像もなんだけど、遠くで電車が通る音が入ってて」

 

「たまたま通ったんじゃなくて?」

 

「どうなんだろう。それも知りたい」

 

由佳は、分からないことがあると楽しそうだった。

本当に、映像制作が楽しくて仕方ないらしい。

私は分からないことがあると色々考えてしまう質だから、同じものを見ていても、ずいぶん反応が違う。

 

「大学でこういうの作りたいの?」

 

「うん。でも、カメラだけ触ってればいいってわけでもないんだよね。授業の一覧見たら、書くものもいっぱいあった。だから、ちゃんと勉強しないと……」

 

「それは、大学だからねぇ」

 

「分かってる。分かってるけど、撮ったもので提出できませんかって思う」

 

「英語も?」

 

「英語は、字幕で」

 

「その字幕を間違えたら?」

 

由佳が、ゆっくり大学案内を閉じた。

その妙に神妙な顔がおかしくて、私は吹き出した。

こういう、くだらない理屈を真面目な顔で言い合うのは、昔から好きだった。男だった頃の名残なのか、単に私がずっとこうなのかは、もうよく分からない。

 

「受験までに、どうにかします」

 

「先にそっちだね」

 

笑いながら言うと、由佳が私の持っている参考書を指した。

 

「真琴もね」

 

それは、そうだった。

私も、来年の今頃には受験を終えているはずだった。

どういう結果になっているかは分からない。

でも、大学へ行こうと思っていたことは、レッスンを始めても変わっていなかった。

由佳は大学案内を棚へ戻すと、文庫本の方を指した。

 

「ねえ、あれ。この前真琴が読んでたやつじゃない?」

 

平積みの本に、映画化を知らせる帯が巻かれていた。

 

「あ、本当だ」

 

「もう上映してるんだよね。見た?」

 

「まだ」

 

「行かない?」

 

私は反射的に頷きかけてから、手を止めた。

土曜日だと無理だ。

 

「いつ?」

 

「できれば日曜日?土曜日は私がワークショップで色々やることあるから」

 

「日曜日なら、多分大丈夫。土曜日はレッスンだから」

 

「やった!ならまた後で時間とか決めよ!」

 

由佳は本を持ち上げ、表紙を眺めた。

 

「面白かったんだっけ?」

 

「うん。最後の方で、最初の場面の意味がガラッと変わるのが好きだった」

 

「そういうの、映像でどう表現するんだろうなぁって思う。真琴は?」

 

「……私は、演技を見たいなって」

 

「お、そりゃそうか!じゃあ、お互いに気になるところをたくさん見て勉強するってことで!」

 

二人で笑って、私は映画の題名をスマートフォンへ入れた。

由佳と出かけるのに、予定を確かめる。

ただそれだけなのに、以前より確認するものが一つ増えていた。

 

————

 

五回目のレッスンへ行った日、施設の入口で、人とすれ違った。

中から出てきた、背の高い人だった。

明るめの茶色い髪を、高い位置で一つに結んでいる。短い上着に細身のパンツ。

肩には、大きめのバッグを掛けていた。

見覚えがある。

ポニーテールの、ルミパレの子……かな。

そう思ったところで、目が合った。

その瞬間彼女は、弾けるような笑顔を浮かべた。

 

「おはようございます!」

 

「あ、えっと、おはようございます」

 

私も頭を下げる。

その人は軽く会釈を返し、そのまま外へ出ていった。結んだ髪が、肩の向こうで揺れる。

数歩進んでから、名前を思い出した。

美月さん。

橘美月さんだ。

多分。

 

「白瀬さん。今日は奥のお部屋です」

 

受付で声をかけられ、そちらへ向き直る。

 

「はい。ありがとうございます」

 

あの人が出てきた建物で、私もこれからレッスンを受ける。

まだ、そちらの方が不思議だった。

その日の私は、封筒を持って歩き、相手へ渡す練習をした。

渡そうと近づきすぎて、腕が窮屈になった。

先生に言われ、一歩手前からやり直す。

テレビに出ている人も使うようなレッスン室で、私はまだ、封筒を渡す距離から習っていた。

 

————

 

その次に三枝さんが来たとき、最初の日と同じ、本を返してもらう会話をやった。

相手役も、初回に一緒だった子だった。

 

「これ、返すね」

 

「もう読んだの?」

 

「うん。最初はちょっと難しかったけど」

 

彼女が、一度、本の表紙を見る。

私は、その目が戻ってくるのを見ていた。

 

「最後は、好きだった」

 

さっきまでより、少し明るい声だった。

 

「そっか。よかった」

 

言い終えると、三枝さんが頷いた。

 

「今の、よかった。ちゃんと聞いてから返してる」

 

映像を見せてもらう。

初回の自分より、返事が小さかった。

でも、ちゃんと本の感想を聞いている人に見えた。

 

「次は、嬉しいのはそのまま。少しだけ、得意げな感じを減らそうか。高橋さんも次は——」

 

言われたところを変えて、もう一度やる。

そこは、前より迷わずにできた。

そのあとも全部うまくいったわけではなかったけど、片づけながら台本を見ると、最初に書いた注意の横へ、小さく丸をつけたくなった。

 

「次は、返す側もやってみましょう」

 

「はい」

 

三枝さんが部屋を出ていってから、私は書き込みの増えた台本をクリアファイルへ戻した。

隣では、高橋さんも鞄へ荷物を入れている。

いつもなら、終わった途端に「今日ここ難しかったね」とか、「また声変になった」とか話し始めるのに、今日は妙に静かだった。

どうしたんだろうと思っていると、高橋さんがファスナーを閉めたところで、ふう、と大きく息を吐いた。

 

「……すごかった」

 

「何が?」

 

「三枝さん」

 

即答だった。

私は、さっきまで三枝さんが座っていたモニターの前を見る。

 

「今日の?」

 

「うん。トレーナーの三枝朱里さん。白瀬さん、知ってた?」

 

何を、とは聞かなかった。

多分、私の顔に出ていたんだと思う。

高橋さんがすぐに目を丸くした。

 

「知らないの?」

 

「三枝さんがカメラとか表情を見る人なのは聞いてるけど」

 

「そうじゃなくて。ルミパレ」

 

そこで、ようやく話がつながった。

 

「Lumière Palette?」

 

「そう。公式チャンネルの練習動画、見たことない?」

 

「何本かは」

 

FOLIOについて調べたときに見た。

歌やダンスの練習を、同じところで何度も止めていた動画。

料理をして笑っていた人たちと同じ五人が、鏡の前では何時間も一つの動きを直していた。

ただ、全部を見たわけではない。

 

「カメラのレッスンの回もあるんだよ。三枝さん、そこに出てる」

 

「そうなんだ」

 

「そうなんだ、じゃないよ」

 

なぜか怒られた。

高橋さんは少し声を落として、それでも勢いは落とさず続ける。

 

「FOLIOの普通の先生じゃなくて、外部のトレーナーなんだって。俳優とかモデルとかも見てる人で、ルミパレの表情とか、カメラへの見せ方をずっと見てる人」

 

「へえ……」

 

「本当に知らなかったんだ」

 

「うん、あんまり、そういうの詳しくなくて」

 

「そっかぁ。私、めちゃくちゃ見てるよ。PRACTICE LOGとか」

 

高橋さんの目が、好きなドラマについて話していた初日の休憩時間と同じになっていた。

 

「三枝さんの指導、面白いんだよ。『もっと可愛く』とか『もっと感情を出して』とかじゃなくて、どこを見るとか、いつ目を外すとか、相手に何を見せたいのかとか。言われる前と後で、本当に映り方が変わるの」

 

それは、分かる気がした。

私も最初のカメラテストで、似たようなことを聞かれた。

笑ったまま困る。相手には安心してもらう。

でも、カメラから見れば何かを隠していることが分かるようにする。

 

「私、動画見ながら真似したことあるもん」

 

「家で?」

 

「うん。鏡じゃ分かんないからスマホ立てて。全然違ったけど」

 

高橋さんが笑う。

 

「目線をちょっと変えただけでそんなに違う?って思ってやってみたら、私の場合はただ横見てるだけになっちゃって」

 

何となく想像できて、私も笑った。

 

「難しいよね」

 

「難しい。だから今日、先生の名前聞いたとき、内心すごかったんだから」

 

「緊張してた?」

 

「してたよ!」

 

今度は本当に少し声が大きくなった。

高橋さんは慌てて廊下の方を見て、それからまた声を落とす。

 

「だって、いつか一回でも見てもらえたらいいなって思ってた人だもん。ルミパレの人たちに言ってるのと同じ感じで、自分に『ちゃんと前後の変化を理解して』とか言われるんだよ。無理でしょ」

 

「でも普通に返事してたじゃん」

 

「必死だったの!」

 

そうだったのか。

私には、初回よりずっと落ち着いて見えていた。

高橋さんは鞄を肩へ掛け、それからふと動きを止めた。

 

「でも、白瀬さんは平気そうだったよね」

 

「私?」

 

「うん。三枝さんに言われても、普通に『はい』って」

 

「カメラテストのときにも見てもらったからかな」

 

「……え?」

 

高橋さんが止まった。

今度は完全に。

 

「カメラテスト?」

 

「うん」

 

「FOLIOに来て最初の?」

 

「そう」

 

「三枝さんに?」

 

「後半からだけど」

 

高橋さんは、しばらく私の顔を見ていた。

何か変なことを言っただろうか。

 

「それ、初めて聞いた」

 

「言ってなかったっけ」

 

「聞いてないよ」

 

そうだったらしい。

 

「そのときも、今日みたいなことやったの?」

 

「表情とか。何回か同じのをやったり」

 

「それで今日も見てもらってるんだ」

 

「うん。前にできたことが、たまたまじゃないか確認するって」

 

言ってから、少しだけ変な感じがした。

私はそれを、そういうものだと思って受けていた。

最初に三枝さんがいて、そのあとも何度か見てもらう。

他の先生に習ったことが、カメラの前でもできるか確認される。

でも、高橋さんにとっては違うらしい。

 

「……白瀬さん」

 

「何?」

 

「それ、かなりすごいことなんじゃない?」

 

「そうなの?」

 

「少なくとも私は、一回見てもらえるだけで緊張してた」

 

比較になっているような、なっていないような気もする。

三枝さんは俳優やモデルも見ると言っていた。

Lumière Paletteだけの先生ではない。

だから、私を見ていること自体に、何か特別な意味があるとは限らない。

それでも。

 

『そこは、ちゃんと残ってるね』

 

今日より少し前、同じ人に言われた言葉を思い出す。

最初のカメラテストで見つけてもらったものが、まだ自分の中にある。

その確認のために、こういう人が何度も時間を使ってくれている。

 

「……そっか」

 

気づけば、口元が少し緩んでいた。

高橋さんがそれを見て笑う。

 

「嬉しい?」

 

「少し」

 

「そこはもっと喜んでいいと思う」

 

「でも、できないこともいっぱいあるし」

 

「それは私もあるよ。今日、私なんか本返すだけなのに三回早かったし」

 

「私も初回、相手が感想言う前に喜んでたよ」

 

「じゃあ一緒じゃん」

 

「そこは一緒だね」

 

二人で笑った。

高橋さんは駅までの道を確認しながら、まだ三枝さんの動画の話をしていた。

どの回が分かりやすかったとか、同じ人なのにカメラの位置で全然違って見えるとか。

私は半分くらいしか分からなかったけれど、聞いているのは嫌ではなかった。

帰ったら、その動画を一つ見てみようと思った。

自分が今日教わった人が、あの五人に何を教えているのか。

少し、気になった。

 

————

 

帰りの電車では、途中の駅で席が空いた。

座って鞄を膝へ乗せると、思っていたより肩が疲れていたことに気づく。

スマートフォンを取り出した。

今日の朝も、父は駅まで迎えに行けると言ってくれていた。

今日は特に、『夜遅くなったら心配だから、遠慮はするなよ』なんて、念まで押して。

私は、大丈夫、と答えていた。

今も歩けないわけではない。

ただ、今日は、もう少し座っていたかった。

いい歳をして、迎えくらいで親を呼ぶのも。

そう考えかけて、指が止まった。

……今は十七歳だ。

こういうときだけ、昔の年齢まで持ち出さなくてもいいだろう。

私は父との連絡画面を開いた。

 

『帰り、やっぱり迎えをお願いしてもいい?』

 

送ってから、乗り換えの案内を開く。

返事は、すぐに来た。

 

『もちろん。何時くらいに着く?』

 

時刻を送ると、了解、とだけ返ってきた。

私はスマートフォンをしまい、鞄へ両手を置いた。

今日は、電車の中で台本を開くのをやめた。

駅を出ると、父の車は送迎用の駐車スペースに停まっていた。

助手席のドアを開ける。

暖房の空気が、冷えた頬へ当たった。

 

「お疲れ」

 

「ありがとう。急にごめん」

 

「気にするな。真琴はもっと私たちを頼りなさい」

 

父は私の方を一度見てから、車を出した。

 

「今日は、どうだった?」

 

「ちょっと、うまくできた」

 

「そうか」

 

「まだ、できないところもあるけど」

 

「そうか」

 

それ以上、説明を求められなかった。

交差点を曲がると、見慣れた店の明かりが窓を流れていく。父は前を向いて運転していた。

私は、シートへ背中を預けた。

 

「お父さん」

 

「ん?」

 

「私が女優になるとかって、想像できる?」

 

父は、すぐには答えなかった。

赤信号で車が止まってから、こちらを見た。

 

「正直、まだできないな」

 

「……そこは、できるって言ってくれてもよくない?」

 

「可愛い娘が、急に女優になるなんて言われても、想像しづらいもんだよ」

 

真面目に言われて、笑ってしまった。

 

「私も、まだ分からないんだけど」

 

「だろうな」

 

「由佳に言われたの。スカウトされたって話したら、それって女優ってこと、って」

 

「ああ。由佳ちゃんには話したのか」

 

「うん。由佳だけだけど」

 

父が頷く。

信号が変わり、また車が動き出した。

 

「もし、何かに出たら見る?」

 

「当たり前だろう」

 

「友達役とかで、ほんの少しでも?」

 

「どの辺に出るかは教えてくれ。見逃したくない」

 

その答えで、なぜか少し照れた。

どんな仕事になるのかも分からない。

自分が続けるかどうかさえ、まだ決めていない。

でも父は、見るかどうかでは迷わなかった。

 

「……出ることになったら、言う」

 

「ああ」

 

————

 

家へ帰ると、台所からシチューの匂いがした。

 

「おかえり。先に着替えておいで」

 

母に言われ、私は部屋へ向かった。

鞄を置き、レッスン着を洗濯かごへ出す。クリアファイルは机へ。

紺色のTシャツは、もう、持っていくかどうか迷う服ではなくなっていた。

スマートフォンを開くと、由佳から動画が一つ届いていた。

本屋で話していた、学生の作品だった。

 

『これ。音も聞いて欲しくて』

 

続けて、もう一件。

 

『映画、何時に見に行きたい?』

 

『うーん……お昼くらいでもいい?ちょっと疲れちゃって』

 

由佳から、昼の上映回を示した画面が送られてきた。

 

『もちろん!じゃあこの時間で!』

 

了承の返事を送ったところで、階下から母に呼ばれた。

 

「真琴、ご飯」

 

「今行く」

 

机の上で、台本の角が予定表へ重なっていた。

私はそれを少しずらし、新しい予定を書き込んだ。

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