TS少女は演じたい   作:息抜き

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31話

七月二十八日、火曜日。

 

昨日は、五人へ挨拶を送った。

今日は、まだ会ったことのない人へ向けて、同じようなことを書いている。

同じようなことのはずだった。

机の上の紙を見下ろす。

自分の名前のあとに、未熟ですが、と書いてあった。

その次の行には、足を引っ張らないように、とある。

……随分、頼りなさそうな人が入ることになっている。

 

「書けましたか?」

 

向かいの広報担当の人に聞かれ、私はペンを置いた。

 

「一応。でも、これでいいのかは、ちょっと……」

 

「一度、見せていただいてもいいですか」

 

今日は午後のレッスンより先に、八月一日の加入発表に使うものを確認することになっていた。

本人からの挨拶文。

短い紹介映像。

その翌日に公開する、候補だった頃の長い映像。

隣には早川さんが座っている。

机の向こうには、昨日もプロフィールを見てくれた広報の人と、公式チャンネルの編集を担当している人がいた。

広報の人は、私の文章を最後まで読んだ。

 

「お名前と、加入することについては、これで分かります」

 

「はい」

 

「ただそのあとは、できないことと迷惑をかけないようにすることが多いですね」

 

自分でも、さっき思ったところだった。

 

「実際、まだできないことは多いので」

 

「そうですね。それを書くこと自体が悪いわけではありません。ただ、白瀬さんが加入を決めた理由は、それだけですか?」

 

私は紙へ目を戻した。

加入を決めた理由。

日曜日には、ちゃんと言った。

あの五人と一緒に、Lumière Paletteをやりたい。

そこは、もう自分でも分かっている。

なのに、知らない人へ見せる文章にした途端、その話がなくなっていた。

 

「……一緒に活動できるのは、嬉しいです」

 

「それも、書いていいと思いますよ」

 

「でも、それって私が嬉しいだけじゃないですか」

 

言ってから、少し考えた。

広報の人は、急いで何かを返さなかった。

 

「本人からのご挨拶ですから。白瀬さんがどういう気持ちで入るのかも、知っていただきたいんです」

 

嬉しいだけでは、足りない気がしていた。

歌が上手くなるとか、ちゃんと踊れるようになるとか。

そういうことなら、書いてもいい。

でも、これから一緒にいられるのが嬉しいというのは、自分の感情の話だった。

……そもそも、自分がやりたくて入ると決めたのに。

 

「もう少し、書き直してもいいですか」

 

「もちろんです」

 

五人と一緒に練習してきたこと。

その中で、これからも一緒にやりたいと思ったこと。

まず、そこから書いた。

まだできないことが多いのは本当だ。

でも、それしかないわけではない。

最初の文章を見ながら書き直していると、足を引っ張らないように、の一行が最後まで残った。

何度か読んでから、そこへ線を引く。

代わりに、できることを一つずつ増やしていきたい、と書いた。

 

「こちらを見ていただいてもいいですか」

 

二枚目の紙を渡す。

今度は読み終えたあと、担当の人が小さく頷いた。

 

「先ほどより、白瀬さんがどうしたいのか分かります。いいと思います」

 

少しだけ、息が抜けた。

ただ、まだ公開はされない。

他の告知との言葉の揃え方や、事実関係を確認してから、もう一度私へ戻してくれる。

当日は、私が最後に確認した文章をFOLIO側から投稿する。

土曜日のその時間になってから、スマホの前で待機しなければいけないわけではない。

それは少しありがたかった。

 

「では、映像の方へ移りましょう」

 

編集担当の人が、ノートパソコンをこちらへ向けた。

画面には、再生前の動画が二つ並んでいた。

 

「まず、八月一日に公開する短い方です。今日は、こういう内容で外へ出していいかを確認してください」

 

見終わったあとで感想を言うのではなく、出していいかを決める。

先週、両親と一緒に説明を聞いた時には、言葉として理解していた。

実際に再生ボタンが押されると、少し姿勢が変わった。

 

最初に、エキストラとしてWEB短編に参加したことを説明する文字が出た。

その次には、二月の私がいた。

カメラの外から聞こえる指示へ、小さく頷く自分。

映像の中の私は、目を向ける場所を変えた。

別のカットへ切り替わった。

台詞を言ったり、歩いたりしている私。

音に合わせて足を動かして、遅れる私。

……そこも入っている。

 

さらに、見慣れたレッスン室になった。

五人がいる。私もいる。

足元を確かめているところから、六人で動いているところへ。

途中で止まり、話を聞いて、もう一度戻る。

最後に、昨日撮った集合写真が出た。

五つの見慣れた色の中に、ローズピンクがある。

映像が止まった。

 

「こちらは一分半ほどです」

 

編集担当の人が言った。

一分半。

半年もたっていないことは分かっていたけれど、あれだけのことが、一分半で終わってしまった。

 

「早いですね」

 

「短い方なので、詳しい説明は翌日の本編へつなぐ形です」

 

「……あ、そういえば」

 

私は、手元の公開予定へ目を落とした。

 

八月一日。

加入発表と、短い映像。

 

八月二日。

候補期ドキュメント。

 

土曜日の説明でも聞いていた。

その時は、自分の昔の映像を公開するという話だけで、頭がいっぱいだった。

 

「長い方って、次の日なんですよね」

 

「はい」

 

「当日じゃ駄目なんですか?」

 

広報の人がこちらを見た。

 

「同時に出した方が、ということですか?」

 

「はい。加入を発表した日にこれも見てもらえたら、どうして私なのかも、その時に分かるんじゃないかなって」

 

なんとなく、最初から置いておいた方がいい気がした。

 

「同日公開も検討しました」

 

担当の人は、そう答えた。

 

「ただ、発表を見た直後は、まず、六人になること自体に気持ちが動くと思います」

 

「……はい」

 

「嬉しいと思う方もいれば、驚く方もいます。五人のままがよかった、という方もいる。その状態で長い映像まで一緒に出しても、すぐに見ていただけるとは限らないんです」

 

私は、止まったままの画面を見た。

 

「出してあっても、ですか」

 

「はい。強く反発している時には、その気持ちのまま動画も見ずに、動画やSNSにコメントを書き込んでしまうことも考えられます。それが積み重なって、そうした反応だけが先に広がる可能性もあります」

 

言われてみれば、そうだった。

順番を決めて出したからといって、相手が同じ順番で見てくれるわけではない。

 

「情報を出すことと、それを受け取ってもらうことは別……ってことなんですね」

 

「そうです。ですから、一度考えたり、少し落ち着いたりする時間を置きたいと考えています」

 

「それなら、もっと後の方が……」

 

言いかけて、予定表を見直した。

担当の人は、小さく首を振った。

 

「今度は、空けすぎることにも問題があります」

 

「問題?」

 

「なぜ六人目を入れるのか。なぜ白瀬さんなのか。その説明が足りない時間が長いと、言い方はよくないですが、邪推が広がる可能性があります」

 

膝の上で、指を組み直した。

 

「前に言っていた、何か別の理由があるんじゃないか、とかですか」

 

「そうですね。こちらが説明する前に、確認されていない話だけが繰り返されて、いつの間にか、そういうことらしい、になってしまうことは避けたいです」

 

すぐ出しても、見てもらえないかもしれない。

遅らせたら、その間に別の話ができるかもしれない。

単に、動画の長さが違うから日を分けたのではなかった。

 

「だから、翌日なんですね」

 

「はい。発表当日も、説明を何も出さないわけではありません。加入までの経緯と、今見ていただいた短い映像は一緒に出します。そのうえで翌日に、詳しい過程を見ていただける形にします」

 

担当の人は、一度言葉を切った。

 

「一晩で全員が落ち着く、と考えているわけではありません。ただ、考える時間は置きたい。ですが、説明のないまま話が固まるほどは空けたくない。その間隔として、翌日がよいと判断しました」

 

私は、二つの日付をもう一度見た。

同じ動画でも、出す日まで考える。

撮って、編集して、完成したら載せる。

それだけではないらしい。

 

「……それを見たら、分かってもらえるんでしょうか」

 

聞いてから、答えにくいことを聞いたと思った。

担当の人は、少し考えて答えた。

 

「見ても、五人の方がよかったと思う方はいると思います」

 

はっきり言われた。

 

「全員に納得していただける映像を作る、というよりは、知りたいと思った方が、実際にどういう経緯だったのか確かめられるものを用意したいんです」

 

画面の中で、六人が笑っている。

この写真を見て、どう思うか。

その先まで、私たちが決めることはできない。

 

「分かりました」

 

私は頷いた。

 

 

 

本編は、さっきよりゆっくり進んだ。

カメラテストでは、指示を受ける前と、受けたあとが続けて映っていた。

私は椅子に座ったまま、画面を見た。

何を変えたかは、覚えている。

けれど、最初からそういう顔をしていたわけではないことが、並ぶとよく分かった。

演技のレッスンもあった。

台詞の途中で相手より先に顔を変えてしまい、やり直すところ。

身体を動かすことまで考え始めると、返事が少し遅れるところ。

上手くできた部分だけが、順番に出てくるわけではなかった。

 

やがて、歌とダンスになった。

画面の私は、腕と足を違う方へ出しかけていた。

一度止まり、足だけ確かめる。

もう一度腕をつけると、また遅れる。

私は思わず、口元へ手をやった。

 

「……これも出すんですね」

 

編集担当の人が、動画を止めた。

 

「はい。この部分に、何か気になるところがありますか?」

 

「いえ、その……もっと、できているところだけ使うのかと思ってました」

 

画面の中の自分は、片手を中途半端に上げていた。

今なら、どこで分からなくなったのかも分かる。

でも、あまり格好よくはない。

全然、格好よくない。

 

「できているところだけにすると、初めから歌もダンスもできた方のように見えてしまいますから」

 

担当の人が言った。

 

「カメラの前で得意なことがあったことと、歌やダンスを基礎から練習してきたことは、両方伝えたいと思っています」

 

私は、止まった画面を見た。

ここをなくして、最後の六人で踊っているところへ飛べば、随分違う人に見えるだろう。

確かに、そちらの方が綺麗だった。

でも、私は実際に、あの場所で何度も間違えて、練習して、ようやく今の状態になった。

 

「……そういうことなら、使って大丈夫です」

 

「分かりました。続けますね」

 

再生が始まる。

高瀬先生の指示を聞き、画面の私は足元へ目を落とした。

そのあとで、もう一度顔を上げる。

次のカットでは、同じ動きが少しだけましになっていた。

自分のことなのに、そこは少し安心した。

 

五人とのレッスンに移ると、画面の中へ入ってくる声が増えた。

ひより先輩が、隣で一歩だけ動いて見せる。

美月が何か言って、私が笑う。

玲奈さんが私の返事を待ち、分からなくなった場所を一緒に確かめる。

澪先輩の歌声のあとへ、自分の声が続いた。

違いは、今聞いてもよく分かった。

夏希とは、同じところを何度か繰り返していた。

夏希の方が先にできているのに、勝手に次へ行かず、もう一回付き合ってくれる。

映像の中では、まだ、美月さん、と呼んでいる。

ほんの少し前のことなのに、今聞くと距離があった。

 

六月のライブを見学した時の短い場面も入っていた。

指定された場所で、邪魔にならないように立っている私。

その先にある舞台から、五人の声が聞こえる。

客席の方へ目が動いていた。

あの時、何を考えていたかは、よく覚えている。

 

そこから、六人版の楽曲練習へ移る。

五人も、何度か同じ場所へ戻っていた。

私が間違えた時だけではない。

六人で動くと、通れる場所も、隣にいる人も変わる。

立ち位置を変えたあと、ひより先輩と玲奈さんが短く確認していた。

別のところでは、美月と夏希が移動する順番を合わせている。

私が一人でできるようになるまで、五人がただ待っていたわけではなかった。

音は切られていたり、別のBGMが流されていたりする部分もある。

どんな曲の練習をしているかを分からないようにするためだろう。

それでも、六人がどんな感じで練習しているのかは伝わってくる映像だった。

 

「……すみません。今のところ、少し戻してもらっていいですか」

 

後半で、私は声をかけた。

曲が終わったあとの場面だった。

水を飲んでから椅子へ座り、タオルで顔を覆っている。

そのまま、しばらく動かない私が映っていた。

編集担当の人が、少し戻して止める。

 

「ここですか?」

 

「はい。この、休んでいるところは……外してほしいです」

 

言ってから、画面ではなく担当の人を見た。

 

「踊れてないところはいいんですけど。ここは、あまり出したくなくて」

 

「分かりました。このカットは外します」

 

返事は、それだけだった。

担当の人が、再生位置の数字を控える。

 

「直したものは、もう一度確認していただきます。他の箇所も、気になったら止めてください」

 

「ありがとうございます」

 

映像が続いた。

最後の方には、六曲を通した日が入っていた。

 

『通しとしては成立した』

 

高瀬先生の声がする。

そのあとで、画面の中の私は水を飲んでいた。

今度は、顔を隠していない。

息は上がっているけど、話は聞いている。

直されているところも映った。

できたところと、まだ遅れるところ。

どちらも、残っていた。

映像が終わると、部屋の音が戻ってきた。

空調と、担当の人がペンを置く小さな音。

 

「他に使わないでほしいところはありますか?」

 

少し考えてから、首を横に振った。

 

「今のところは、さっきの場面だけです」

 

「分かりました。文字や音も整えて、修正後の版をお見せします」

 

「お願いします」

 

私は、手元へ目を戻した。

さっき書いた挨拶文があった。

まだできないことは多い。

そう書いたところへ、目が留まる。

間違ってはいない。

だけど、その前にあった時間まで、なくなったわけではなかった。

 

「最初の文章、もう一度だけ直してもいいですか」

 

広報の人が、紙をこちらへ寄せてくれた。

 

————

 

映像の確認が終わり、担当の人たちが資料をまとめ始めた。

私も鞄へペンをしまおうとしたところで、早川さんが口を開いた。

 

「白瀬さん。学校のことで確認したいことがあります」

 

手を止める。

 

「学校、ですか?」

 

「はい。八月一日の発表前に、FOLIOから学校へ一度ご連絡したいと考えています。ご両親にも確認しますが、まず白瀬さん自身の考えを聞いておきたくて」

 

学校。

 

さっきまで画面の中にいた自分が、急に、いつもの教室へ戻った気がした。

 

「発表してからじゃなくて、前なんですか?」

 

「できれば、その前に。ただ、学校中へ知らせるという意味ではありません。まずは管理職の先生など、学校側で窓口になっていただける方に、必要な範囲でお伝えしたいんです」

 

私は少し考えた。

 

「担任の先生とか、今学校にいるか分からないんですけど……」

 

「そこは学校へ確認します。夏休みですから、その日に担任の先生が出勤されているとは限りませんし、お休みのところを呼び出していただくつもりもありません」

 

早川さんは、手元の予定へ目を向けた。

 

「発表までに全ての話し合いを終えたいわけではないんです。まず、学校としてお話を受け取っていただける方に概要をお伝えしておきたい。必要な先生方への共有は、学校側とも相談します」

 

「何を話すんですか?」

 

「八月一日に、Lumière Paletteへの加入が公表されること。FOLIOの所属として活動を始めること。それから、今の学校へ通い続けて、大学進学を目指す方針も変わっていないこと、などですね」

 

私は頷いた。

そこは、変わっていない。

 

「今後、学校行事や考査、進路に関係する日程について、こちらも必要な相談をさせていただきたいと思っています。ただ、発表前に急いでお伝えしたいのは、連絡先と、安全面のことです」

 

「安全面……」

 

「学校名は公表しません。ですが、同じ学校の方には、白瀬さんが誰か分かりますよね」

 

「はい」

 

当たり前だった。

写真を見て、名前を見れば分かるだろう。

 

「悪意がなくても、同じ学校の子だ、と驚いて書き込んでしまうことは考えられます。そこから学校の情報につながる可能性までは、ゼロにできません」

 

売ろうとか、困らせようとか、そういうつもりがなくても、それはあり得そうだった。

 

「もし学校へ在籍確認や取材の問い合わせが来たり、学校生活に支障が出そうなことがあったりした時、先生方が初めてFOLIOの連絡先を探す状態にはしたくないんです」

 

「だから、先に話しておくんですね」

 

「はい。学校側だけに対応の負担をお願いするのではなく、こちらへも連絡していただいて、一緒に対策を考えられるようにしておきたいと思っています」

 

少し黙った。

加入の発表で変わるのは、私のスマホや、私を見る人の数だけではない。

私が普通に通っている場所へも、何か来るかもしれない。

 

「学校にも、何か来るんでしょうか」

 

「必ず来るとは限りません。何もなければ、それが一番です。ただ、何も起きない前提で放置するわけにもいきません」

 

大丈夫です、と言い切ってはくれない。

その代わり、何をしておくかを話してくれている。

 

「学校から、FOLIOにはこうしてほしい、ということもあると思います。外からの問い合わせだけでなく、必要になった際の送迎や連絡の方法なども含めて、学校の方針を伺いながら決めます」

 

「こちらで決めて、学校にお願いするわけじゃないんですね」

 

「はい。一方的に決めるものではありませんから」

 

早川さんは、話す速度を少し緩めた。

 

「学業についても同じです。こちらから予定を相談するだけではなくて、学校側からも、活動のことで調整してほしいことがあれば、FOLIOへ連絡していただけるようにしたいです」

 

「学校に、仕事だから休ませてくださいって言うだけじゃないんですね」

 

「そうですね。欠席などの扱いは、学校の決まりを確認して相談します。仕事だから特別に、などというわけにはいきませんから。まずは学校の大事な日程を把握して、こちらで重ねないように調整することからです」

 

早川さんは、私を見た。

 

「もちろん、先生から相談があった時も、白瀬さんとご家族にお話しします。学校とFOLIOだけで予定を変えて、あとから本人へ伝えるなどということはないようにしますので」

 

「……はい」

 

学校の予定を、私が早川さんへ伝える。

それはもう、するつもりだった。

でも、仕事の方で何をどう変えられるのかは、私には分からない。

先生に聞かれても、自分では答えられないことがあると思う。

そのたびに、私が両方の話を持って行ったり来たりしなくてもよくなるらしい。

 

「詳しい出席や受験関連の日程は、先生方のご都合も伺って、二学期が始まる前に改めて相談したいと思っています。発表前はまず、最低限の連絡体制を作るところまでです」

 

私は、手元の予定表を見た。

八月一日の文字は、そのままだった。

学校へ通う方の予定も、その先に続いている。

 

「私は、連絡してもらって大丈夫です」

 

顔を上げて言った。

 

「家にも、先に伝えておきます」

 

「ありがとうございます。ご両親にもこちらから内容をご説明して、了承をいただいてから学校へ連絡しますね」

 

「お願いします」

 

早川さんが、短く書き留めた。

学校へ行く自分と、ここへ来る自分。

別々の鞄を持って行けば済む話では、なくなってきていた。

 

————

 

昼食のあと、レッスン着へ着替えた。

午前中はずっと座っていたのに、何となく疲れている。

身体を動かす前から疲れていて、いいのだろうか。

レッスン室へ入ると、夏希がこちらを向いた。

 

「真琴、お疲れ」

 

「お疲れ。昨日、あのあと本当に寝たの?」

 

聞くと、夏希の動きが止まった。

 

「……そこ聞く?」

 

「八時半だったから」

 

「寝てない。戻るタイミングがなくなっただけ」

 

やっぱり。

少し向こうで、美月が笑っていた。

 

「私も、夏希しばらく戻ってこれないだろうな~って思ってた」

 

「美月だってよく注意されてるでしょ」

 

「私は強制オフの時に練習しててとかじゃないから」

 

美月がそう言うと、夏希は何も返さず、足首を回し始めた。

ひより先輩が、私の方へ顔を向ける。

 

「午前中、映像も見たんだっけ」

 

「はい。昔のレッスンとか」

 

「昔って、そんな昔じゃなくない?」

 

夏希が言う。

 

「自分でもそう思った。先月の私が、すごく前に見えた」

 

「今よりできないところがあると、そうなるよね」

 

ひより先輩が頷いた。

それから身体をほぐした。

いつもの動きで、足と肩を確かめる。

声も出す。

午前中、画面で見た自分よりは、今の身体の方が動かしやすかった。

 

————

 

六曲通しが終わった長めの休憩のあと、レッスン室がスタッフさんによって色々と変えられていった。

鏡の前へ幕が引かれている。

床には、いつもの立ち位置とは別の、長いテープの線。

部屋の端には、水を置く台ができていた。

スタッフの人が準備してくれた正面を、高瀬先生が指した。

 

「ここから先を客席側として使う。入る場所はこっち。出る時はそっち」

 

本番の舞台で使う範囲を参考に、今の部屋で再現できるところを合わせているらしい。

袖に当たる場所も決まった。

正面だけでなく、少し斜めにもカメラが置かれる。

渡されたマイクへ声を入れると、スピーカーから自分の声が返ってきた。

照明の向きも変わった。

足元は見えるけど、いつものように部屋全体が同じ明るさではない。

 

「今度は、入るところから、最後に出るところまでやる」

 

高瀬先生が言った。

 

「曲の間も止めない。MCも実際に話して、準備ができたら次の曲へ進む」

 

私は、渡された進行表を見た。

曲名の間に、さっきまでなかった行が増えている。

 

挨拶。

自己紹介。

六人体制についての話。

曲紹介。

最後の挨拶。

 

歌う曲は同じ六曲だった。

 

「全体で、四十五分から五十分くらいを想定しています」

 

進行担当の人が言った。

 

「拍手を待つところも、そのつもりで間を取ってください。今日も途中では時計を止めません。今回のライブはアンコールは考慮していませんので、ない前提で動いて大丈夫です」

 

曲の長さを足しただけでは、そうはならない。

聞いて知っていたことが、今度は自分で過ごす時間になる。

玲奈さんが、私の隣へ来た。

 

「始める前に、MCのところだけ確認しましょうか」

 

「……はい」

 

「最初の二曲が終わったら、六人での挨拶をするから。そのあと、私から真琴にも振る」

 

進行表の一行を示される。

自分の名前があった。

 

「挨拶文で書いたような感じですか?」

 

「気持ちは同じでいいけど、文章として整えたものを全部覚えて言う必要はない。文章とステージで話すのは、少し違うから」

 

「……短くていいんですか」

 

「そう。名前と、今日が初めてのステージになること。それから、一言伝えたいこととかがあれば」

 

一言。

紙の上では短かった。

だけど、目の前に1800人がいるところを考えると、急に長く感じる。

 

「そのあとは、ずっと私が話すんですか?」

 

「ううん」

 

玲奈さんは首を横に振った。

 

「全部真琴に任せるつもりはないから安心して。最初に紹介して振るのも私だし、そのあと必要なら質問もする。美月たちにも入ってもらうから」

 

美月が、少し向こうで頷いた。

 

「当然!私たちもいます!」

 

「止まったら私が拾うし、長くなりそうだったら、こっちで次へつなぐ。真琴に話してもらう時間は取るけど、一人でMC全部を成立させなくて大丈夫」

 

私は、もう一度進行表を見た。

名前が書いてあるからといって、その間、五人がどこかへいなくなるわけではないらしい。

 

「何か聞かれたら、それに答えればいいんですね」

 

「そう。ただ、私だけに答えるんじゃなくて、客席にも聞いてもらうつもりでね」

 

「……はい」

 

分かったつもりで、頷いた。

 

「一度、そこだけやってみましょうか。私から紹介するところから」

 

玲奈さんが、正面へ向き直る。

マイクを持ち上げた。

 

「そして、今日が初めてのステージになる真琴からも、一言もらいましょう」

 

名前を呼ばれる。

私はマイクを上げた。

 

「白瀬真琴です。今日は、初めて皆さんの前で歌わせていただきます。よろしくお願いします」

 

頭を下げる。

 

「今、どんな気持ち?」

 

玲奈さんが聞いた。

自然とそちらを向く。

 

「緊張しています。でも、皆さんと一緒に練習してきた曲なので、最後までちゃんとできたらと思っていて……」

 

言い終えると、玲奈さんが少し笑った。

 

「うん。今の、私はすごく聞きやすかった」

 

「……はい?」

 

「客席の方は、どうだったと思う?」

 

正面を見る。

スタッフの人たちがいた。

カメラもあった。

そして自分は、かなり横を向いていた。

 

「……横顔でしたね」

 

「途中から、ほぼ私に話してたから」

 

美月が笑いをこらえている。

 

「すごく真剣に二人で話してたよ」

 

「聞かれたので……」

 

「聞いたのは私なんだけどね。ここがステージでの会話で大事なこと。私たちで会話をしているから、見るのは全然問題ない。だけど、見に来てくれたお客さんたちにしている話でもあるの。だから、なるべく客席の方を見るのも意識して話してね」

 

玲奈さんまで説明しながら少し笑っていた。

マイクを少し下げ、口元を押さえる。

そのまま少し待つことになった。

 

「……ごめん。ちょっといい」

 

ひより先輩が、私の隣で身体を少し正面へ向けた。

 

「聞く時は玲奈さんを見るのはいいとして、返す時に、こっち、正面に身体を向けるといいんじゃない?」

 

「顔だけじゃなくて、身体もですか?」

 

「うん。そうすれば顔を正面に向ければいいだけ。変に顔を向ける方向を意識しなくてよくなるから」

 

私は、さっきより少しだけ身体を開いた。

もう一度、玲奈さんから質問される。

そちらを見て聞く。

返事の初めに、正面へ目を戻す。

同じ内容なのに、今度は誰へ言っているのか少し変わった。

玲奈さんに話しかけられている。

でも、玲奈さんだけに話しているわけではない。

日常会話なら、わざわざしない向き方だった。

 

「うん、今の方がいい」

 

玲奈さんが頷いた。

 

「話す内容は、レッスンから固定しなくても大丈夫。まずは、どこで話して、誰に聞いてもらうのかを覚えよう」

 

「はい」

 

私は進行表へ、小さく書き込んだ。

 

————

 

袖に当たる場所へ、六人で並んだ。

目の前にあるのは幕と、いつもの床だった。

それでも、まだ前へ出ないで待っていると、少し手が冷たくなった。

こうも本番に近づけられると、少し緊張してしまう。

 

導入の音が流れる。

スタッフの合図が出た。

前の人に続いて歩く。

決めた場所まで来て、顔を上げた。

鏡がない。

自分の姿を見て確認する代わりに、正面の空間を見る。

床の印と、隣の人との距離で立つ位置を確かめた。

 

『はじまりのパレット』が始まった。

 

動き出してしまえば、知っている曲だった。

足を運ぶ順番も、歌う場所も変わらない。

 

ただ、目の前で一緒に踊る自分がいない。

 

腕を上げた高さは、身体の感覚で確かめる。

次の場所へ入った時、ひより先輩との間隔が合っていた。

そのまま正面へ向いた。

二曲目が終わる。

いつもの通しなら、このあと、決めていた待ち時間を使って水を飲む。

今日は、その前に玲奈さんがマイクを上げた。

 

「皆さん、こんにちは」

 

声が、スピーカーから返ってくる。

六人で挨拶をした。

誰もいない客席へ向けて頭を下げる。

顔を上げるまで、少し待つ。

正面のスタッフの人が、拍手の代わりに小さく手を打ってくれた。

 

玲奈さんは、その音が落ち着くのを待ってから話し始めた。

今日から六人でステージに立つこと。

来てくれた人へのお礼。

六人で準備してきたものを、見てもらいたいこと。

玲奈さんは落ち着いていて、口からはすらすらと丁寧なお礼とライブにかける思いが出てくる。

玲奈さんのMCはライブで見ていてわかっていたことだった。

それでも、そのすごさを嫌でも実感する。

自分の息が速いのは分かった。

さっき立って話すところだけ練習した時とは、全然違う。

意識するだけで話が変わってしまった。

名前を呼ばれた。

マイクを上げる。

 

「白瀬真琴です」

 

声は出た。

今日が初めてのステージになること。

よろしくお願いします、と伝えること。

さっきより少し短くなった。

頭を下げ、顔を上げたところで、次の言葉が出てこなくなる。

何か足した方がいいだろうか。

そう考えたところで、玲奈さんが口を開いた。

 

「ここまで二曲、六人で歌ってみてどう?」

 

用意していた文章にはない質問だった。

でも、答えることはあった。

 

「……始まったんだな、って思っています」

 

言いながら、正面へ目を戻す。

 

「出る前の方が、いろいろ考えてたんですけど。曲が始まったら、歌うところがすぐ来たので」

 

「考えてる間にも、曲は進むものね」

 

玲奈さんが頷いた。

 

「でも、ちゃんと一緒に来たよ」

 

美月が、隣から言った。

 

「最初の移動で真琴がそこにいると、六人の方だ、ってなる」

 

夏希もマイクを上げた。

 

「分かる。五人の時の場所に行かないように、私も最初すごい考えた」

 

そこから、六人で練習を始めた頃の話になった。

本番で使う話題の一つとして、用意していたものらしい。

ただ、一言ずつ全部決まっているわけではなかった。

美月が話す。

夏希が途中で付け足す。

ひより先輩が、少し違うよ、と訂正する。

玲奈さんがそれを拾い、今度は澪先輩へ振った。

私は、その話を聞いていた。

面白かった。

途中で、自分にも分かる話が出てきて頷いた。

次は私に何か来るかもしれない、とも思っていた。

だから、マイクを手に持ったまま、その場にいた。

 

「それでは、次の曲へ行きましょう」

 

玲奈さんが言った。

私は、すぐに位置へ戻った。

音が流れる。

 

『雨音のリフレイン』。

 

最初の声を聞き、自分の息を用意したところで気づいた。

……水。

飲んでいない。

さっきまで、飲める時間はあった。

かなりあった。

それなのに一口も飲まないまま、三曲目へ来ていた。

口の中が少し乾いている。

今から台へ行くわけにはいかなかった。

短い担当を歌う。

いつもより、最初の音を慎重に出しすぎた。

そこを考え続けないように、次の人の声を聞く。

曲は止まらなかった。

 

『呼吸をそろえて』まで進み、次のMCへ入る。

 

今度は、玲奈さんが美月へ話を振ったところで、水の台へ向かった。

マイクを下げ、反対の手でボトルを取る。

一口飲んだ。

戻そうとして、蓋が手の中に残っていることに気づく。

閉めてから台へ置き、決めた場所へ戻った。

その間にも、美月は喋っていた。

 

「ひより先輩、そこはどうですか?」

 

「私は——」

 

ひより先輩が答える。

少し離れたところで、澪先輩も水を飲んでいた。

私が口を潤して戻ってきた時には、次の話が始まっている。

聞く方へ戻る。

息を整える。

次の曲を思い出す。

何もしていない時間のはずなのに、することが多かった。

 

『六つの光』が始まった。

 

ここは、何度もやった。

ひより先輩の声を受け、自分の言葉を出す。

美月へ渡して、足を動かす。

澪先輩の歌が前へ出る。

夏希が大きく動いたあと、六人の向きが変わった。

玲奈さんの声を聞きながら、次の位置へ入る。

知らないことばかりだったMCのあとでは、覚えた曲の中に戻ると、少しほっとした。

最後の『またねの続きを』を歌い終える。

音が消えた。

いつもなら、ここで終わりだった。

手を下ろしかけて、止める。

まだ、挨拶がある。

 

玲奈さんの声に合わせて正面へ向き直り、六人で頭を下げた。

拍手を待つつもりで、一度顔を上げる。

客席の右側。

真ん中。

左側。

五人が手を振るのに合わせて、私も手を上げた。

それから、袖へ向かって歩く。

幕の向こうへ入ったところで、ようやく肩の力を抜いた。

 

「はい、お疲れさまでした」

 

スタッフの声がした。

今度こそ、終わったらしい。

 

「四十八分弱です」

 

時間を聞いて、私は時計を見た。

そんなにたっていたのかと思った。

でも、途中の一つ一つを思い返すと、短かったとも思えなかった。

歌って踊った曲数は同じ。

歌の長さも変わらない。

曲の間には、さっきよりずっと長く立っていた。

脚が休めたところもある。

なのに、頭の方が疲れていた。

 

「どうだった?」

 

ひより先輩に聞かれる。

 

「……動いてない時間が増えたのに、忙しいです」

 

美月が頷いた。

 

「喋るのも、結構息使うしね」

 

「私は、そんなに喋ってないんですけど」

 

「聞いてる間も、次に何するか考えるでしょ」

 

玲奈さんが言った。

 

「はい。水のことは忘れましたけど」

 

自分で言うと、少し離れたところから鳴海先生が顔を上げた。

 

「そこは確認しよう。最初のMC、水を飲む時間はあったね」

 

「ありました。話を聞いていたら、そのままになってしまって」

 

「曲間に水を飲むこと自体は、前からできていた。今日は、その時間に会話が入ったら抜けた、ということだね」

 

私は頷いた。

忘れていたというより、全部、後回しになった感じだった。

今、話している。

次は私かもしれない。

あとで飲もう。

その、あと、が来る前に次の曲になっていた。

 

「MC中は、話を聞きながら休めるところで休む。自分が話していない時に息を整えることと、水を飲んで戻ることも、流れに入れておこう」

 

「はい」

 

玲奈さんが、進行表を開いた。

 

「自己紹介のあと、私が美月たちに振るところがあるから、まずそこを使いましょう。必要なら、私から水分を取る声かけも入れるから」

 

「話している途中に後ろへ行っても、大丈夫なんですか?」

 

「大丈夫。その間は、前にいる人で話すから。全員で一斉にいなくならないようにはするけど」

 

なるほど。

話を聞いていないと思われるのでは、と少し気になっていた。

でも、ずっとその場に立っていることが、ちゃんと参加することとは限らないらしい。

高瀬先生も、映像を見ながら指示を出した。

 

「曲紹介が終わってから動くと遅れるところがある。次へ行く話になったら、立ち位置へ戻り始めていい。ここは六人で合わせよう」

 

私だけではなかった。

MCの並びから曲の隊形へ戻る時、真ん中の辺りで少し動きが重なっていた。

ひより先輩と美月が位置を確かめる。

夏希が通る場所を変え、もう一度六人で歩いた。

音楽をかけず、歩くだけ。

それでも、前より戻りやすくなった。

そのあとは、最初のMCと水分のところを、短く繰り返した。

玲奈さんから振られたら話す。

ほかの人へ話が移ったら、水を飲んで戻る。

最後には、退場も確かめた。

本当に、曲ではないところばかりだった。

全部終えてノートを開くと、今日増えた書き込みのほとんどが、歌詞のないところにあった。

 

————

 

木曜日は、公開する映像ももう一度見た。

お願いした休憩中のカットは、なくなっていた。

その確認の後、もう一度、ライブの流れで通した。

最初から鏡は使わない。

前回と同じ場所へ水を置く。

袖で待ち、音と合図を聞いて出る。

 

二曲目が終わり、玲奈さんの声がした。

今度は、話す前に一度息を整えた。

自分の番では正面を見る。

途中でまた玲奈さんの方を向きすぎたけど、言葉の終わりには客席側へ戻れた。

美月へ話が移ったところで、水を飲む。

戻った時、玲奈さんが一度こちらを見た。

私は小さく頷いた。

そのあとも少し話してから、次の曲になった。

 

準備して戻っているだけで、イントロの聞こえ方が違った。

急いで頭を追いつかせなくていい。

最後の挨拶まで終え、袖へ入る。

前回と同じくらいの時間だった。

でも、何度も置いていかれそうになる感じは減っていた。

 

「水分のところは、今日は戻れていたね」

 

鳴海先生が言った。

 

「はい」

 

三枝さんは、MCの映像を少し戻した。

 

「白瀬、ここ。曲中は正面へ出せるのに、話になった途端、内向きになる時がある」

 

画面の中の私は、美月の話を聞いていた。

面白かったので、普通に笑っている。

ただ、六人で丸くなりかけていた。

 

「笑い方を直すんですか?」

 

「そこは変えなくていい。聞いてる顔でいいから、客席があることまで忘れないで」

 

三枝さんが、画面の正面側を示した。

 

「話してる人を見ながらでも、外へ開ける。ずっとカメラを見て笑って、という意味じゃない」

 

玲奈さんも画面へ近づいた。

 

「これは私も、真琴へ振る時に内側へ向きすぎたね」

 

ひより先輩が、自分の立っている場所を見た。

 

「こっち、私が少しずれた方が戻りやすいかな」

 

もう一度、六人で並んだ。

話す人を見る。

でも、身体まで全部そちらへ閉じない。

正面にも、人がいるつもりで立つ。

写真を撮る時なら、正面にカメラがあることを忘れたりしない。

曲の中でも、自分の担当では意識できる。

会話が始まると、そこが抜ける。

 

私は、思っていたより場面ごとに違うことをしているらしかった。

少し直して、同じところをやった。

今度は、美月の話を聞きながら、正面も見えた。

笑っても、足の向きはそのままでいられた。

三枝さんが頷く。

 

「うん、今のでいい」

 

それを終えると、今日の通しはもう増えなかった。

 

————

 

片づける前に、早川さんから次の予定の説明があった。

 

「来週の火曜日、八月四日は、外の会場を使います」

 

私は、予定表へ目を落とした。

いつものレッスン室ではない場所が書かれている。

 

「本番の会場ですか?」

 

「いえ。八日の会場とは別です。客席と舞台のある小ホールを、練習用に借りています」

 

「お客さんは……」

 

「入れません。六人と、必要なスタッフだけです」

 

少し息を吐いてから、もう一度その行を見た。

客席はある。

でも、人はいない。

それでも、今日の床に引いた線とは違う。

 

「本番会場でもリハーサルはします。ただ、そこで初めて舞台の上で歌って、戸惑いも含めて全部その場で解決する、という場当たりの対応にはしたくありません」

 

早川さんが言った。

 

「先に一度、照明や音の返り、客席までの距離、袖から出入りする感覚を確かめる時間を取ります」

 

六月には、会場へ行った。

袖から、五人が出ていくところを見た。

今度は、その場所に残る方ではない。

高瀬先生が、床のテープを足先で示した。

 

「今日は、ここから先にも床がある。だが、本当の舞台には端があるし、袖の幅も違う。まず、音をかける前に歩いて確認する。そのあと、六人で流れをやる」

 

「本番とは、広さも違うんですよね」

 

「違う。だから、そこで覚えた歩幅をそのまま八日の会場へ持っていくわけじゃない。場所が変わった時に、何を確認して直すかも練習する」

 

私は頷いた。

鏡がなくなっただけでも、いつものレッスン室は違って見えた。

客席があって、床に高さまであったら、もっと変わるだろう。

 

「本番の会場では、その会場の寸法と機材、照明やカメラに合わせます。四日は、それ以前のところを落ち着いて試すための時間だと思ってください」

 

早川さんが言った。

 

「分かりました」

 

予定表の、八月四日のところへ線を引いた。

八日が来る前に、もう一つ、行く場所ができた。

怖くなくなったわけではなかった。

でも、知らないまま当日を迎えるのではないことは分かった。

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