TS少女は演じたい 作:息抜き
七月三十一日、金曜日。
玄関へ入ったところで、母がリビングから顔を出した。
「おかえり。暑かったでしょう」
「ただいま。駅からが、すごかった」
靴を脱ぐと、足の裏まで少し熱い気がした。
鞄を置いて手を洗い、冷たい麦茶を飲む。
母が声をかけてきたのは、コップを半分ほど空けたタイミングだった。
「真琴、今日、学校から電話があったよ」
「学校?」
「教頭先生から。昨日、事務所から連絡があったんだって」
火曜日に聞いた話を思い出した。
学校へ連絡してもらうことには、私も両親も了承している。
「なんて?」
「FOLIOという芸能事務所の社員を名乗る方から、真琴が芸能活動を始めることと、八月一日に加入を発表するという連絡を受けていますが、ご家庭でも把握されている正式なお話ですか、って」
私はコップを下ろした。
「本当の話かってこと?」
「うん。それと、学校へ連絡することを、私たちも了承しているのか確認したかったみたい」
「それで、何て答えたの?」
「お父さんも私も一緒に説明を聞いて、契約の手続きをしていることと、学校への連絡も真琴と私たちが了承していることを伝えておいた」
「そっか」
「今の学校へ通い続けるつもりで、大学へ進学したいことも変わっていないって。それも、事務所から聞いたお話と同じですね、って言ってた」
「担任の先生じゃなかったんだね」
「昨日はご不在だったそうよ。まず教頭先生がお話を受けて、こちらへ確認してくださったんだって」
「なるほど」
「確認できたので、事務所へも改めて連絡しますって。詳しい学校生活との相談は、先生方の予定も見て、日取りを決めましょうって話だった」
電話を一本かけたら、それで全部決まるわけではなかった。
学校からも、家へ確かめる連絡が来ていた。
「まだ発表前だってことも、分かってた?」
「うん。必要な先生方への共有についても、事務所と相談して進めるそうよ」
「分かった。ありがとう」
麦茶をもう一口飲む。
話が進んだことには、少し安心した。
それと同時に、明日まで知らないことになっている人が、まだたくさんいるのだと思った。
コップを持ち直すと、表面についた水滴が指へ流れた。
————
夕食の時、父が言った。
「明日は、事務所へ行かないんだったな」
「うん。休み」
「発表の日なのに、何もしなくていいの?」
母にも聞かれた。
「出すものは、もう確認してあるから。投稿も事務所の人がしてくれるし」
今日の帰り際にも、早川さんから言われていた。
明日は、来所しなくていい。
発表に合わせて、何かを撮ったり話したりする予定もない。
「発表したあとに、事務所の前に記者とかが来るかもしれないんだって」
父が箸を止めた。
「取材か」
「来るって決まってるわけじゃないけど。もし出入りするところで急に声をかけられたら、私も困るだろうからって」
今のお気持ちは。
どうして加入したんですか。
そう聞かれるだけなら、答えられるかもしれない。
でも、私がまだ知らない話を持ち出されたら。
知らない人に囲まれて、何か言うまで待たれたら。
早川さんは、そういうことを明日わざわざ経験する必要はない、と言っていた。
「明後日は、事務所とは別のスタジオでレッスン。そっちに直接行く予定」
「四日に借りるホールとは違うところ?」
「うん。二日は普通のスタジオ。四日は、舞台と客席があるところ」
母が頷いた。
「じゃあ、明日は家でゆっくりできるのね」
「そういう予定」
答えてから、自分でも少し笑ってしまった。
ゆっくりできるかは、別だった。
食事のあとで翌日の予定を開いても、仕事の欄には何もなかった。
レッスンも、撮影も、面談もない。
公開の時刻だけが、残っていた。
————
八月一日、土曜日。
朝起きて最初に見たのは、スマホの時計だった。
公表は日中だ。
まだ、ずっと早い。
分かっていたけれど、確認してしまった。
リビングへ行くと、父は既に起きていた。
母も朝食の準備をしている。
「おはよう」
「おはよう。眠れた?」
「うん」
眠れなかったわけではない。
夜中に何度も起きたわけでもなかった。
ただ、起きた瞬間から、今日のことが頭にあった。
朝食を食べている間に、父が壁の時計を見た。
少しして、母も同じ方を見る。
私も見た。
……まだ、朝だった。
「そんなに見ても、時間変わらないよ」
言うと、父がこちらを向いた。
「今、真琴も見たな」
「見たけど」
「それと同じだよ」
言い返せなかった。
母が、私の前へ皿を置く。
「何かしていた方が、気にならないかしらね」
「じゃあ課題やる」
そう答えて、自分の部屋へ戻った。
机に向かえば少しは落ち着くだろう。
そう思って問題集を開いたけれど、同じところを二回読んだ。
二回目で意味は分かった。
そのあと、机の端のスマホを見た。
まだ何も来ていない。
当然だ。公開時刻でもない。
私はスマホを裏返した。
廊下では、掃除機の音がしていた。
いつもより少し長く聞こえる気がする。
しばらくして水を飲みに行くと、父が新聞を畳んでいた。
さっきから読んでいたページと、あまり変わっていないように見えた。
「二人とも、落ち着かない?」
聞くと、母が苦笑した。
「落ち着かないよ」
父も頷く。
「俺たちも初めてだからな」
それは、そうだった。
私が芸能事務所へ入るのも、アイドルグループに加わるのも。
両親にとって、前にやったことがある話ではない。
「……私も、あんまり課題進んでない」
「じゃあ、一回お茶にしようか」
母がコップを出した。
三人で、まだそんなに暑くなっていない部屋の中で、冷たいものを飲んだ。
————
昼食の前に、学校の連絡システムから通知が来た。
母のスマホにも、ほぼ同じ時に届いたらしい。
台所から、
「学校?」
「うん」
画面を開く。
『夏季休業中の生活について・追加のお知らせ』
熱中症への注意。
外出時の交通安全。
休み中の生活リズムについて。
見慣れた内容のあとに、SNSや写真の扱いについての項目があった。
学校で知った友人や教職員の個人情報を、本人の了承なく外へ出さないこと。
氏名と学校名、学年、クラス、予定などを結びつける投稿にも気をつけること。
その下を読む。
『写真や動画について、撮影してよいという了承と、インターネットへ公開してよいという了承は別です。学校行事や友人同士で撮影したものを投稿・転載する際は、写っている人に確認しましょう』
さらに、限られた相手だけのグループでも、転送や画面の保存によって外へ伝わる場合がある、と続いていた。
私の名前はなかった。
Lumière Paletteも、芸能活動という言葉もない。
母が、スマホを持ってリビングへ来た。
「写真のこと、詳しくなってるね」
「……昨日の話と、関係あるよね」
「そうかもしれないわね」
母も、そこを読み直していた。
誰か一人についての知らせではない。
けれど、今日の私には、どこを気にして書かれているのか分かる気がした。
父が横から画面を見る。
「学校の人が、みんな同じように理解してくれるといいな」
私は頷いた。
これを読んだから、何も起こらなくなるわけではない。
そもそも、まだ開いていない人もいるだろう。
それでも、昨日の電話で話したことが、そのまま何もなかったことにはなっていなかった。
確認済みのボタンを押して、画面を閉じる。
「お昼、食べようか」
母が言った。
「うん」
今日はまだ、昼食を食べる方が先だった。
————
公開予定の少し前に、早川さんから電話が来た。
『白瀬さん、今少し大丈夫ですか』
「はい」
『予定通り、このあと公開します。白瀬さんに追加で作業していただくものはありません』
私はリビングへ戻った。
父も母も、こちらを見る。
「両親も一緒に聞いていいですか?」
『はい。お願いします』
スピーカーに切り替えると、両親が挨拶をした。
早川さんは公開について短く説明してから、声を少し改めた。
『それと、分かっていらっしゃると思いますが、今日はご本人もご家族も、名前で検索したり、反応を見に行ったりしないでください』
「はい」
『公開したお知らせ自体は、こちらからURL等を送って公式ページで確認できるようにします。その先の反応を追う必要はありません』
父が頷いた。
「以前言っていたように、本人の代わりに、親が見ておくということもしない方がいいということですね」
『はい。ご家族にも、その役割をお願いするつもりはありません。確認と対応はFOLIOで行いますし、我々もそのつもりで、今準備しています』
「……分かりました」
『何か気になる連絡が来た時は、こちらへ相談してください。白瀬さんがその場で全て答えようとしなくて大丈夫です』
「はい。ありがとうございます」
通話が終わると、部屋が少し静かになった。
父はスマホを机へ置いた。
母も、画面を閉じる。
私の手元には、公式ページの場所を案内するメッセージが届いていた。
まだ開かなかった。
代わりに、もう一度時計を見た。
さっきまで、見るたびに早すぎると思っていた。
今度は、もうすぐだった。
————
公開の時刻になっても、部屋には特別な音がしなかった。
空調が動いている。
台所には、昼食のあとに洗った食器が置いてある。
父が時計を見た。
「時間だな」
「……うん」
少しして、早川さんから短い連絡が来た。
『予定通り公開しました』
私は、送られてきたページを開いた。
六人の写真が出た。
昨日まで確認用の画面で見ていたものと、同じだった。
同じ衣装で、同じ位置に立って、同じ顔で笑っている。
その上に、新メンバー加入のお知らせ、と書いてある。
白瀬真琴。
自分の名前を目で追った。
「出てる」
口にすると、母が隣へ来た。
父も、少し身体を寄せる。
写真の下には、加入までの短い説明があった。
映像撮影への参加をきっかけにFOLIOから声をかけられ、カメラテストや新人レッスンを経て、五人と合同レッスンを重ねてきたこと。
その先に、私の挨拶が載っていた。
自分で書いた。
何度も読んだ。
最後の確認もした。
それでも、また最初から読んだ。
読んでいる途中で、母が小さく頷いた。
「いい文章だね」
「……自分で書いたんだけど」
「うん」
分かっている、という顔だった。
少し下へ動かすと、プロフィール写真があった。
ローズピンクの衣装を着た私が、こちらを見ている。
ティザーの告知。
明日公開するドキュメントの予告。
八月八日、『6つの色』。
全部、知っているものだった。
知らないのは、今これを誰が見ているのか、ということだけだった。
父が言った。
「おめでとう、真琴」
私は顔を上げた。
「……うん。ありがとう」
何かもっと話そうとしたところで、母のスマホが鳴った。
母は画面を見て、少し驚いた顔をした。
「もう見たのかな」
電話に出る。
「もしもし。……うん、そう。今、発表されたところ」
私は自分のスマホを持ったまま、母を見た。
「本当よ。——そう、うちの真琴」
うちの真琴、という言い方が、少しおかしかった。
同じ名前の別の人ではないのか、と聞かれたのだろうか。
母がこちらを見て笑う。
「本人もいるけど、今、連絡がいろいろ来始めていて……うん。ありがとう。伝えておくね」
電話を切ると、母は息を吐いた。
「叔父さんから。写真を見ても、すぐには信じられなかったって」
「そんなに?」
「ルミパレの新メンバーって出てきて、真琴に似てると思ったら名前も同じだった、って」
その説明を聞いている間に、今度は父のスマホが鳴った。
父は画面を見て、少し笑った。
「こっちもだ」
電話に出る。
母と似たような説明が始まった。
本人が決めたこと。
両親も事務所から話を聞いて、手続きをしたこと。
今日までは公表できなかったこと。
父は、仕事の詳しい話まではしなかった。
「そこは、発表されたものを見てもらえると。俺たちから話せることにも限りがあるから」
母のスマホにも、またメッセージが来ていた。
二人とも、さっきまで私のスマホを見ていたのに。
今は、それぞれ別の人へ私のことを話している。
そのうちに、私の手元も何度か震えた。
画面を見る。
由佳だった。
『そっち!?!!?』
一行だけで、声と表情が想像できた。
思わず笑ってしまう。
『ちょっと待って』
『ルミパレ?????』
続けて届く。
私は入力欄を開いた。
『うん。そっちになった』
送ると、すぐに既読がついた。
『女優さんの方だと思ってたんだけど!?』
『私も最初はアイドルになると思ってなかった』
『レッスンってこれ???』
『途中からは』
また、スマホが震えた。
由佳の返事かと思ったら、今度は彩花だった。
『真琴!?』
その下に、もう一つ。
『え、ルミパレに入るの!?』
私は由佳の画面に一度戻った。
『今ちょっと連絡が重なってるから、返事ゆっくりになる。あとでまた返すね』
由佳にそう送ってから、再び彩花の方を開いた。
『うん。今日から』
『公式の新メンバーのところ開いたら真琴だったんだけど』
文字になっていても、戸惑っているのが分かった。
『そうだよ』
『いや、そうだよって』
『最近同じレッスンにならないと思ったら、そういうことだったの?』
私は、少しだけ返事に迷った。
彩花とは、同じ部屋で演技のレッスンを受けた。
作品の話もした。
それからも、時々メッセージを送り合っている。
でも、五人と練習していることは言っていなかった。
『言えなくてごめん』
返すと、すぐに返事が届いた。
『それは言えないでしょ』
『むしろ言われてたら私まで事務所に怒られちゃう』
『でもびっくりした。まだ写真見直してる』
私は少し笑った。
『何回見ても私だよ』
『分かってる!』
その返事を読んだ時、画面の上へ別の通知が出た。
クラスのグループだった。
学校の連絡や、提出物の確認に使っているグループ。
何日も何も来ないことも多い。
だけど、今日は違った。
表示されている未読の数字が、見るたびに増える。
開くと、まず短い言葉が並んでいた。
『白瀬!?』
『え、待って』
『あのルミパレ?』
『本人いる??』
入力している間にも、下へ新しい発言が増えた。
同じような驚きと、疑問符。
私の名前。
ここにいるのか。
見ているのか。
でも、何を返したらいいのか分からなかった。
入力欄を押しかけて、やめた。
「どうした?」
電話を終えた父に聞かれる。
「クラスのグループが、すごいことになってる」
「返事は?」
「まだ。ちょっと早川さんに聞く」
画面を戻し、早川さんへ連絡した。
『クラスのグループに発表のことでメッセージがたくさん来ています。一度、私から返事をした方がいいでしょうか』
送ったあと、スマホを机へ置く。
由佳にも彩花にも返したい。
でも、クラスの画面を見続けながら、全部に返すのは難しそうだった。
しばらくして、早川さんから電話が来た。
『白瀬さん。クラスのグループの件ですね』
「はい。本人かって聞かれていて。何も言わないのも、感じが悪いかなと思って」
『一度、お礼と事実だけを返す形でよいと思います。ただ、そのまま質問に答え続けるのはやめておきましょう』
私はリビングの端へ座った。
「友達からも、個別に来ているんですけど」
『普段から直接連絡を取っているお友達には、白瀬さんが返したい範囲で返して大丈夫です』
早川さんは、少し間を置いた。
『未発表の仕事や、他のメンバーの非公開情報は話さない。そのうえで、お祝いへの返事や普段の会話まで控える必要はありません』
「分かりました」
『一方で、クラス全体のグループは、いろいろな人が一度に発言する場所ですよね』
「はい。もう、どれに返せばいいのか分からなくなってます」
『そこで仕事の質問に答え始めると次の質問が続きますし、話題も白瀬さんが選べなくなります。学校の連絡用の場所を、質問会場のような状態にはしない方がいいです』
それなら、よく分かった。
私が一つ答えれば、その答えについて、また別の人が話す。
今の速さでそれを始めたら、終わる気がしなかった。
『それと、今日は情報を受け取る入口を増やしたくありません』
「入口、ですか」
『例えば、誰かが親切のつもりで記事を貼ったり、ネットでこう言われている、と教えたりする場合があります。極端な意見を悪意なく持ってきてしまう可能性も考えられます。白瀬さんが検索していなくても、そのような情報が入ってきてしまいますから』
私は、閉じたクラスの画面を思い出した。
まだ、驚いている言葉しか読んでいない。
でも、その先までずっとそうだとは限らなかった。
「クラスの人たちに悪気がある、という話ではないんですね」
『はい。悪気がなくても、今日は量が多すぎます。普段なら流せる冗談でも、何度も重なれば負担になることがあります』
早川さんは、はっきり続けた。
『一度だけ簡単に返して、そのあとは通知を切りましょう。あとで今日の分を全部読み返す必要もありません』
「……通知だけ切って、結局見てたら同じですもんね」
『そうです。グループを抜ける必要はありませんが、今日は会話から離れてください』
私は頷いた。
「何て返せばいいでしょうか」
『発表は自分のことだと伝える。お祝いへのお礼。学校は今まで通り通うこと。それから、仕事の詳しい質問には答えられない、と短く伝えれば十分です』
紙に書く代わりに、入力欄へ言葉を並べていく。
「事務所に言われたから、って書いた方がいいですか?」
『そこまで書かなくて大丈夫です。ただ、普段の関係もあると思います。ですので、書きたければマネージャーの指示であることも明示していいです。白瀬さん自身が、ここではこの範囲まで、と決めて構いません』
私は途中まで書いた文章を読んだ。
全員の疑問に答える文章ではない。
どこまで返すかを、先に伝える文章だった。
早川さんに文面を確認してもらい、最後にもう一つ言われた。
『白瀬さん。重ねてになりますが、ご本人もご家族も、反応を調べに行かないでください』
「はい」
『分かっているとは思います。ですが、こういう日は、分かっていても気になるものなので。ご自身の名前だけでなく、Lumière Paletteの名前で反応を探すのも同じです』
父と母の方へ目を向けた。
二人はそれぞれ、親戚から来たメッセージに返事をしている。
「誰かに代わりに見てもらって、教えてもらうのもなしですね」
『はい。良い反応も悪い反応も、今夜全部知る必要はありません。確認は私たちがしています。白瀬さんに必要なことがあれば、こちらからお伝えします』
「分かりました。両親にも、もう一度話します」
『お願いします。明日は予定のスタジオへ。その前に何か困ったことがあれば、また相談してください』
通話を終えた。
クラスの画面を開く前に、送る文章をもう一度読んだ。
『今日発表されたのは私のことです。お祝いも、心配も、たくさんのメッセージありがとう。学校は今まで通り通います。マネージャーさんからも指示があって、仕事についての詳しい質問には答えられません。なので、活動のことは公式のお知らせを見てもらえると助かります。休み明けもよろしくお願いします』
送る。
それから、通知を切った。
返事が来るのを待たず、画面を戻す。
失礼だっただろうかと、少しだけ考えた。
でも、送った文章の中に、言いたかったことは全部あった。
もう一行、付け足すのはやめた。
————
両親にも、早川さんと話したことを伝えた。
「分かった。こっちも、外でどう言われているかは聞かないようにする」
「親戚からも、何か見つけたって送られてくるかもしれないものね」
「うん。私にも、今日は見せないで」
「分かった」
それだけで話が済んだことに、少し安心した。
自分の部屋へ戻って、由佳の画面を開く。
『そりゃ重なるでしょ』
『返事はあとでいいよ。とりあえずおめでとう』
先ほどの続きが来ていた。
『ありがとう。クラスの方は一回返して通知切った』
『見た。あっちは追わなくていいと思う』
『うん。今日はSNSとかの反応も見ないように言われてるから、そういうのは送らないでほしい』
『了解。実況はしない』
その返事のあとで、もう一つ来た。
『私と会話してるのはいいの?』
『うん。由佳のことは信頼してるから』
『おお……こりゃいけませんなぁ真琴さん。そんなに煽てても授業のノートくらいしか出ませんよ』
『照れてるでしょ』
『真琴がデレるの珍しいから』
『デレてない』
由佳に紹介されて、撮影へ行った。
その時に必要だったのは、背景へ座っている同年代の女子だった。
それが今、六人の写真になっている。
由佳からしたら、確かに、まだ言い足りないのかもしれない。
『私も、最初からこうなるって分かってたわけじゃないよ』
『だろうね』
『エキストラを頼んだはずなんだけどな』
『私もそのつもりで行った』
『随分とまぁ、前に出たねえ』
その短い返事を、少し長く見た。
前に出た。
そうなのだろう。
あの日は、顔がはっきり映るだけで驚いていた。
今日は、自分の名前で挨拶まで出した。
『うん』
短くそう返した。
由佳からは、手を振るスタンプが来た。
『落ち着いたら、また普通に話そう。今日は休んで』
『ありがとう。また連絡する』
次に、彩花へ戻った。
『改めて、おめでとう。びっくりしてそれ言ってなかった』
少し前に届いていた。
『ありがとう。返事遅くなってごめん』
『大丈夫。今日は忙しいよね』
『休みなんだけど、連絡がいっぱい来てる』
『それはそうだよ。私だってたくさんしちゃってるし』
少しして、続きが来た。
『いつも見てる公式のページに、知ってる人が増えてるの、変な感じ』
彩花は、前からルミパレの動画を見ていた。
三枝さんの指導についても、私よりずっと詳しかった。
その画面に、私が入ったのか。
『私も、まだ変な感じがする』
そう返すと、彩花から笑っているスタンプが届いた。
『また会ったら話そう。作品の話もしたいし』
『うん。私も』
同じレッスンになった帰り、どのドラマを見るか話したことを思い出した。
次に会う時には、前と同じ部屋ではないかもしれない。
でも、話すことまで全部変える必要はなさそうだった。
スマホを下ろす。
短い返事をいくつか送っただけなのに、少し肩が凝っていた。
————
夕方には、電話の音もだいぶ落ち着いた。
母は台所へ戻り、父はテーブルの上を片づけていた。
私も、夕食の皿を出す。
誰も、何人に見られたのかは話さなかった。
知っている人から、こんな連絡が来たよ、という話だけした。
「真琴、小さい頃と顔が変わったね、って言ってた」
母が言った。
「そりゃ変わるでしょ」
「でも、笑うと分かるって」
「どっちなの」
「どっちもなんじゃない?」
母は笑いながら、皿へ料理を盛った。
私はそれをテーブルへ運んだ。
今日は、一度も家から出ていない。
それなのに、何度も知らない場所へ自分のことが運ばれていったような感じがした。
お腹は普通に空いた。
夕食も、いつも通り食べられた。
「明日の準備はできてるか?」
「うん。スタジオの場所も確認した」
「忘れ物だけ気をつけて」
「分かってる」
こんな日でも、最後には明日の鞄の話になるらしい。
少しおかしくて、少しありがたかった。
夕食のあと、リビングで母と話していた。
テレビはついていた。
父が見ていたニュースが、別のコーナーへ移る。
私は明日持っていくタオルのことを考えていて、最初の一言を聞き逃した。
「真琴」
母に呼ばれて顔を上げる。
テレビに、六人の写真が出ていた。
『5人組アイドルグループ「Lumière Palette」に、結成以来初となる新メンバー。6人体制へ』
見慣れた見出しのはずだったのに、その文字だけが凄まじい違和感だった。
聞き慣れたグループ名が、アナウンサーの声になっていた。
写真が切り替わる。
ローズピンクの衣装。
自分で選んで、使っていいと答えた宣材写真。
その下に、白瀬真琴、十七歳、と出た。
私は、膝の上の手を止めた。
『映像撮影への参加をきっかけに所属事務所の育成を受け、メンバーとの合同レッスンを経て加入したという白瀬さん』
声を聞いているうちに、写真の中の顔が、少し遠く見えた。
同じ顔なのに。
今日、鏡で見たばかりなのに。
「……挨拶文まで読まれてる」
思わず言った。
母がこちらを見る。
「真琴が書いたところだね」
「……書いたけど」
自分で読むのとは違った。
広報の人に読んでもらうのとも違う。
知らない人が、テレビの中で、私の言葉を私のものとして読んでいた。
八月八日に、六人体制で初めてのステージを行う。
そう紹介され、もう一度六人の写真が映った。
それで終わりだった。
番組は、次の芸能ニュースへ進んだ。
別の人の名前が読まれる。
私は、しばらくテレビを見ていた。
隣では、母が空になったコップを持ち上げている。
父はリモコンを机へ置いた。
「真琴、お茶飲む?」
母に聞かれた。
「あ、うん。少し」
返事をすると、自分の声がいつもの部屋へ戻ってきた。
テレビには、もう私の写真はなかった。
でも、さっきの声は、まだ耳に残っている。
白瀬真琴、十七歳。
Lumière Paletteの、新しいメンバー。
知らない人の声で読まれた名前。
同じ名前を母に呼ばれた私は、そのままいつもと同じようにコップを受け取った。