TS少女は演じたい   作:息抜き

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34話

八月二日、日曜日。

 

スマホで時間を見る。

いつもレッスンへ行く日の、いつも起きるくらいの時間だった。

早川さんから、昨夜届いたメッセージが残っている。

 

『明日は予定通りスタジオです。今日はゆっくり休んでください』

 

場所も、集合時刻も変わっていない。

画面を閉じて、ベッドから下りる。

顔を洗って、髪を整える。

鏡の中には、いつも通りの少し眠そうな私がいた。

 

 

 

「真琴。今日、出かける時なんだけど」

 

「うん?」

 

「帽子とマスク、してみない?」

 

私は持っていた皿を流しへ置き、母の方を見た。

 

「帽子?」

 

「昨日、顔も名前も出たでしょう。普段と少し雰囲気を変えておくのもいいんじゃないかって」

 

そう言われれば、考えていなかった。

レッスン着も飲み物も、昨日のうちに用意してある。

でも、そこへ行くまでの格好は、いつも通りのつもりだった。

 

「変装ってこと?」

 

「そんな大げさなものじゃなくて。持ってる帽子でいいと思うよ」

 

母はそう言ってから、食卓の方を見た。

 

「お父さんが、昨日から気にしてたの」

 

父が、コップを置いた。

 

「……そこまで言わなくてもいいだろう」

 

「お父さんの案なの?」

 

「まあ、一応な」

 

私は父を見た。

母から提案してきたので、母が考えたのだと思っていた。

 

「直接言ってくれればよかったのに」

 

「いや……俺から、これを着ろとか、あれをかぶれとか言うのもどうかと思って」

 

「帽子なのに?」

 

「帽子でも、服装のことだろう」

 

父は少し言いにくそうにした。

 

「いちいち口を出されたら、嫌かと思ってな」

 

その横で、母が小さく笑った。

 

「だから、私から聞いてみてほしいって。お父さん、年頃の娘に口を出し過ぎて嫌われたくないだけよ」

 

「……全部説明するなって」

 

思わず、私も笑ってしまった。

心配はしている。

でも、自分から言ってうるさがられるのも困る。

父なりに、どこから話したらいいのか考えていたらしい。

 

「帽子かぶったらって言われたくらいで、嫌いになったりしないよ」

 

「……そうか」

 

私は自分の部屋へ戻った。

帽子を置いているところから、ベージュのキャスケットを取る。

色々な服装にあわせられるお洒落なやつで、前にも普通に使っていたものだ。

夏だからなにかしらの帽子や日傘を使うのは別におかしくない。

玄関でマスクもつけてから、鏡を見る。

つばの下に前髪が少し残り、顔の下半分が隠れた。

別人になったとは思わない。

ただ、昨日のプロフィール写真とは、だいぶ違って見えた。

 

「これなら、変じゃないかな」

 

後ろから来た母が頷いた。

 

「うん。普通に似合ってる」

 

「普通にって」

 

「変装してます、って感じじゃないでしょう」

 

確かに、街を歩いていても、わざわざ見直すような格好ではなさそうだった。

父もこちらを見た。

 

「いいんじゃないか」

 

「じゃあ、これで行く」

 

鞄を肩へかける。

いつもより、視界の上の方につばが入っていた。

 

「行ってきます」

 

「行ってらっしゃい」

 

「気をつけてな」

 

玄関を出ると、もう外は暑かった。

帽子のつばへ一度触れ、そのまま駅の方へ歩き出した。

 

————

 

スタジオの入口で、早川さんがこちらに気づいた。

 

「おはようございます、白瀬さん」

 

「おはようございます」

 

挨拶をして中へ入る。

外の熱が、空調の風で少し引いていった。

マスクを外すと、早川さんの視線が帽子へ動いた。

 

「今日は帽子なんですね」

 

「はい。母に勧められて。昨日から顔が出てるから、少し雰囲気を変えた方がいいんじゃないかって」

 

「そうでしたか」

 

「……考えたのは父らしいんですけど」

 

早川さんの表情が、少し和らいだ。

 

「いいと思います。自然ですし、無理なくできる工夫ですね」

 

「これくらいでも違いますか?」

 

「何もしない時とは、印象が変わりますよ。これだけで分からなくなるわけではありませんが、移動の時に取り入れるのはよいと思います」

 

帽子を外しながら頷く。

父が聞いたら、少し安心しそうだった。

 

「ただ、暑いので、移動中も体調には気をつけてくださいね」

 

「はい」

 

早川さんは私の顔を見た。

いつもの確認の前に、ほんの少し間があった。

 

「昨日は、眠れましたか」

 

「はい。少し寝つくのが遅くなったくらいです」

 

「食事は?」

 

「朝もしっかり食べてきました」

 

「分かりました。今日は予定通り進めますが、途中でも何かあるようなら教えてください」

 

「はい。ありがとうございます」

 

早川さんは頷いて、控室の場所を教えてくれた。

説明の声も、話す内容も、普段と同じだった。

ただ、いつもより少し長くこちらを見ていたような気がした。

昨日はいろいろあったからだろうか。

私だけでなく、早川さんも忙しかったはずだ。

そう思いながら、教わった方へ向かった。

控室のドアを開けると、美月が顔を上げた。

 

「真琴!」

 

「おはよ」

 

美月は何か言おうとして、一度口を閉じた。

それから、私の手元を見る。

 

「帽子かぶってきたんだ」

 

「うん。今日から」

 

「見たい。もう一回かぶって」

 

「今、外したところなんだけど」

 

「ちょっとだけ」

 

私は鞄を下ろし、もう一度帽子をかぶった。

美月が、少し顔を傾けて見る。

 

「いいじゃん。似合ってる」

 

「変じゃなければいいんだけど」

 

「変じゃないよ。普段もかぶればいいのに」

 

「たまにかぶってたよ。今日は勧められたからかぶったけど」

 

「誰に言われたの?」

 

「お父さんとお母さん。意見の大本はお父さんだったみたいだけど、お母さんを経由して言われた」

 

「あはは、なにそれ」

 

美月が笑った。

帽子を外して、鞄へしまう。

ひより先輩が、自分の荷物を少し寄せてくれた。

 

「真琴、ここ空いてるよ」

 

「ありがとうございます」

 

「それ、つぶさない方がいいんじゃない?」

 

「あ」

 

上からタオルを入れかけていた手を止める。

先輩が笑い、私は帽子を鞄の上へ戻した。

玲奈さんは進行表を持っていた。

挨拶を返したあと、私の方へ身体を向ける。

 

「今日は、木曜日の続きね。最初のMC、話す順番は同じだから」

 

「はい。水を飲むところも同じですか?」

 

「うん。美月たちに話が移ったところで。今日は自分で行けるか、一度やってみましょう」

 

「分かりました」

 

その返事のあとも、玲奈さんの目が少しだけ私に残った。

すぐに進行表へ戻ったけれど。

皆、いつも通りに話してくれる。

でも、挨拶してすぐのところだけ、何となく慎重な感じがした。

私が思っているより、正式に加入した翌日というのは特別なのかもしれない。

少し気になったけど、美月が夏希の飲み物を見ていつもの感じで話し始めると、その感じは薄くなった。

 

「それ、今日も同じの?」

 

「そう。冷えてるうちに飲むと美味しい」

 

「前、ぬるくなったって言ってなかった?」

 

「今日は保冷のやつ持ってきた」

 

夏希が、ボトルを入れている袋を持ち上げる。

美月が感心したように頷いた。

 

「進歩してる」

 

「飲み物の話で言われたくない」

 

そのやり取りを聞きながら着替えを済ませ、レッスン室へ入った。

澪先輩は、壁際で足首を回していた。

隣へ行くと、少し顔を上げる。

 

「おはよう、真琴」

 

「おはようございます」

 

私も腰を下ろし、脚を伸ばした。

しばらく、二人で黙って身体をほぐす。

 

「今日は、三枝さんも来るって」

 

先輩が言った。

 

「はい。映像を細かく見るみたいですね」

 

「またノート、増えそうだね」

 

「もう、どのページに何を書いたか探すのに時間がかかってます」

 

「付箋、色を分けたら?」

 

「分けてるんですけど。最近、どの色にも当てはまることが多くて」

 

澪先輩は少し考え、それから笑った。

 

「じゃあ、工夫しないとね」

 

「適当に増やしたらもっと分からなくなりそうですし、何かいい方法を考えてます」

 

少し向こうで、美月と夏希がまだ飲み物の話をしていた。

ひより先輩が「準備運動もして」と声をかける。

玲奈さんは進行担当の人と、短く確認していた。

私は伸ばしていた脚を戻した。

こうしていると、いつものレッスンの日だった。

 

————

 

休憩が終わると、六人でモニターの前へ集まった。

三枝さんが、さっきの通しの映像を開いている。

最初に確認したのは、夏希が話していた四曲目の移動だった。

画面の中で、夏希が大きく身体を回す。

私がその後ろを通る。

止まるほどではないけれど、確かに、二人の間が少し狭くなっていた。

 

「桜庭、回ったあとに下がる一歩。そこが大きい」

 

高瀬先生に言われ、夏希が頷いた。

 

「回る方じゃなくて、こっちですね」

 

「そう。回るところは小さくしなくていい。次に下がりすぎてる」

 

夏希はその場で足だけ動かした。

一度見せてもらうと、私が通る場所が変わるのが分かった。

 

「真琴、さっきまで避けてた?」

 

「少しだけ。こっちに」

 

私も足を動かす。

 

「そっか。じゃあ、私が直したあと、もう一回そこ合わせよう」

 

「うん」

 

「あと、ズレてると思ったら真琴もガンガン言ってくれていいから」

 

「……分かった」

 

私が頷くと、夏希はすぐに動きの確認を始めていた。

先生は、私が避けた先の位置とのズレも確認した。

通れたから終わりではなく、そのあとに戻れたかまで見るらしい。

 

他の曲についても、いくつか指摘があった。

ひより先輩と玲奈さんが並ぶところ。

美月が客席の左右を見るタイミング。

澪先輩が次のフレーズへ入る前の身体の向き。

私は『雨音のリフレイン』で、移動した直後の語尾が少し弱くなっていた。

鳴海先生に、動きながら息を吐き切ってしまっていると言われる。

そこは、あとで歌と移動を合わせて確かめることになった。

ノートへ書き込んでいると、三枝さんが映像を進めた。

 

「『六つの光』は、少し長めに見ます」

 

画面に、曲の初めの六人が映る。

短いフレーズが順番に渡っていった。

ひより先輩が歌い、私が続く。

その次には、美月がいた。

 

「白瀬。ここ、自分ではどうだった?」

 

私はペンを止めた。

 

「歌い出しと、次の位置は間違えなかったと思います。カメラを見るところも……」

 

「うん。表情も魅せ方もいい。そこはできてる。今度は、自分の歌が終わったあとまで見て」

 

もう一度、同じところが流れた。

ひより先輩の声。

自分の短いフレーズ。

言葉の終わりに、少しだけ表情を残す。

そのまま、美月が歌い始めた。

私は、自分の顔を見ていた。

美月の声は聞こえているのに、目は、まだ画面の私へ残っている。

 

「……私のところ、終わってない感じがします」

 

言うと、三枝さんが頷いた。

 

「そう。自分だけを映してるなら、この余韻は使える。配信用にメインで抜かれた時だけでもいいでしょうね。でも、六人で見ると、橘へ移ったあとも白瀬の表情が別に続いてる。引きで全体を見ていると残りすぎちゃってる」

 

画面が止まる。

私と美月が、同じ画面の中にいた。

美月は歌っている。

私は歌い終わった顔をしている。

どちらかが間違っているわけではないのに、同じものを見ている感じが薄かった。

 

「もっと早く、表情を戻した方がいいですか?」

 

「戻すって、どの程度?」

 

聞き返されて、少し考えた。

 

「……普通の顔へ、ですかね」

 

「そうすると、今度は出番が終わったように見える」

 

三枝さんは画面の私を指した。

 

「いなくなってほしいわけじゃない。一人だけ見続けられていても破綻しない程度に残しつつ、だけど目を引き過ぎない程度に存在感を弱める。目元と呼吸で少しだけ顔を弱める。分かる?」

 

自分のところが終わる。

美月が歌う。

その声を聞いている私が、まだ同じ曲の中にいる。

言葉にされると分かる。

でも、今の映像では、そうなっていなかった。

 

「一度、ここだけやってみましょう。小日向のフレーズから」

 

六人で位置へ戻った。

音が少し前から流れる。

ひより先輩の声を聞いて、自分の歌へ入る。

歌い終わったあと、さっきより早く表情を緩めた。

美月の方へ目を動かし、そのまま次の位置へ移る。

音が止まった。

 

「見てみましょう」

 

三枝さんに呼ばれ、モニターへ戻る。

自分の歌が終わる。

笑い方が薄くなる。

美月を見る。

……本当に、出番が終わった人になっていた。

 

「戻しすぎました」

 

「そうね。落差も激しい。弱め方自体は悪くない。それをすっと少しずつ弱める感じに」

 

「はい」

 

三枝さんは、最初の映像と今の映像を続けて見せた。

 

「最初は、自分のところを閉じないまま次へ行ってる。今度は、自分のところを閉じてから、別の場面のような状態で橘を見てる」

 

「別の場面……」

 

「曲の中でつながっていてほしいの。白瀬の言葉があって、それに続く橘の言葉を聞く。橘に視線を集めるために、白瀬の方は若干存在感をフェードアウトさせていくように続ける」

 

私は、画面の二人を見た。

最初の方が綺麗に見える。

二度目の方が、何を変えたかは分かりやすい。

ただ、どちらも三枝さんの言っているものではなかった。

 

「目線を動かす時点では、まだ自分の歌の気持ちが残っていてもいいんですか?」

 

「いい。ただし、そのまま最後まで持っていかない。橘の声が入ったところで、聞いた反応に変える」

 

「顔を向けるのと、表情を変えるのを、同時にしない?」

 

「そうね。一緒に動かすと、次の作業へ移ったように見えやすいから。まずはそこを分けてみて」

 

私は頷いた。

そのくらいなら、何をするかは分かる。

カメラの前で、視線と表情を少しずらすことは、これまでもやってきた。

ただ、今回は、その前に歌っている。

足も動いている。

美月のフレーズのあとには、また六人で向きを変える。

顔だけを直しているつもりで、ほかのところまで変わってしまいそうだった。

 

「それから、もう一つ」

 

三枝さんが映像を戻す。

私が歌い始める、少し前。

ひより先輩が、最後の言葉を歌っていた。

 

「白瀬、ここも同じ。切り替わるように自分の顔を作ってる」

 

画面の私は、確かに、次に歌う時の顔になりかけていた。

 

「少し早いのもあるけど、小日向の声を聞いているところから、同じように自然な流れでつなげたい。聞いた瞬間に、全部の反応を終わらせなくていい」

 

「……はい」

 

「目は先に反応していい。そのあとで、口元や顔全体へ出てくる。そこを少し分けてみて。ただ、歌い出しは遅らせないように注意」

 

ノートを持ってきてよかったと思った。

口頭で全部聞いていたら、何かが抜けそうだった。

ひより先輩の歌を聞く。

目が動く。

表情が変わる。

自分が歌う。

美月へ視線を渡す。

美月の声を聞いて、また表情が変わる。

……短いところなのに、随分と忙しい。

 

「一度に全部やろうとしなくていいから」

 

私の顔を見た三枝さんが言った。

 

「先に小日向から受けるところ。その次に、橘へ渡すところ。最後につなぐ」

 

「分かりました」

 

美月が、隣で画面を見たまま言った。

 

「……三枝先生、真琴に言うことすごく細かいですね」

 

「白瀬は、そこを分けて変えられるから。出来ると思っているからこそ、ここまで細かく言ってるの」

 

三枝さんは、特に声を強めずに答えた。

 

「同じように正面を向く場面でも、全員に同じ指示を出す必要はない。橘は、さっき確認した客席への開き方を残して。そこまで小さくする必要はないからね」

 

「はい」

 

美月が頷いた。

私は、ペン先をノートへ置いた。

さっき五人に出ていた指示も、簡単なものではなかった。

それでも、自分のところだけ、目線を動かす前とあと、顔のどの部分をいつ変えるかまで話が続いている。

歌やダンスのレッスンでは、私にだけ、まだそこまではしなくていいと言われることが多い。

今日は反対だった。

できると思われているから、もう一つ先を求められている。

嬉しかった。

同時に、分かったふりでは済ませられないと思った。

 

「最初のところ、もう一回お願いします」

 

私が言うと、ひより先輩がマイクを持ち直した。

 

「じゃあ、私のところからね」

 

————

 

音が止まる。

三枝さんが映像を戻し、正面と斜めを順番に確かめた。

 

「うん。休憩を挟んでも、修正は残ってる」

 

私は少し息を吐いた。

 

「最後、橘の声が入ってから変えられていた。今日は、ここまでにしましょう」

 

「はい。ありがとうございました」

 

何度も続けているうちに一度できた、だけでは終わらなかった。

少し離れてからも戻せた。

ノートへ、そこも書き足しておく。

高瀬先生は、今日確認した移動を短く整理した。

夏希と近くなっていたところ。

六人で向きを変えたあとの間隔。

私が表情へ気を取られると、小さくなっていた一歩。

 

「火曜日は、実際の舞台に合わせて位置を取り直す。今日の部屋の距離だけを覚えてこなくていい」

 

「はい」

 

鳴海先生からは、歌い終わったあとも呼吸を止めないことを、もう一度言われた。

 

「声の聞こえ方は、ホールで改めて確かめます。今日決めた息の場所は、分かるようにしておいてください」

 

頷いて、ノートの該当箇所へ小さく印をつけた。

身体をほぐし、マイクを返す。

床に置いた飲み物やタオルを片づけていると、早川さんが声をかけた。

 

「白瀬さん、明日は午前はレッスン、午後は本社でグッズの実物を確認していただきます」

 

「前に見せてもらったデザインのものですよね」

 

私が聞くと、早川さんが頷いた。

 

「はい。写真やデザインは確認済みですので、今回は仕上がりの最終確認になります」

 

「分かりました」

 

「明後日は、予定していた小ホールです。本番会場とは別ですが、音響や照明も使って確認します。集合場所と時間は、もう一度送りますね」

 

「ありがとうございます」

 

六月に見た、舞台のことを思い出した。

あの時は五人が出ていくところを、決められた場所から見送った。

今度は自分も、その先へ行く。

まだ、客席の前で歌っているところまでは上手く想像できなかった。

 

————

 

八月三日、月曜日。

 

午後にFOLIOの会議室へ案内された。

五人はそれぞれ別の仕事があり、今日この時間に確認するのは私だけだった。

机の上には、グッズの見本が並んでいた。

写真もデザインも、前に見せてもらったものだ。

それで何を作るかは知っていたはずなのに、並んでいるのを見ると少し落ち着かなかった。

 

「今日は、実物の仕上がりを確認していただきます」

 

担当の人の説明に頷き、席へ座る。

隣には早川さんがいた。

 

「写真やデザインは確認済みですので、印刷や色、実際に触って気になるところがあれば教えてください」

 

「はい」

 

アクスタを手に取った。

透明な縁に指をかけると、写真にはなかった厚みがある。

撮影した日のことは覚えている。

この顔をしたことも、写真を選んだことも。

でも、誰かが買って持って帰るものになった自分を見るのは、初めてだった。

 

「……変な感じですね」

 

「実物になると、違いますか?」

 

早川さんに聞かれ、頷く。

 

「写真は何度も見たんですけど。これが誰かの部屋に置かれるんだと思うと、ちょっと」

 

「その点については、すでに一件ご報告があります」

 

私は顔を上げた。

 

「報告?」

 

早川さんは、少しだけ口元を緩めた。

 

「橘さんが今朝、白瀬さんのアクスタのサンプルを一つ持っていきました」

 

「……私のですか?」

 

「はい。出かける前にサンプルを見て、持ち帰ってよいか聞かれましたので」

 

担当の人も頷いた。

 

「お渡しできる分がありましたから、一つお持ちいただきました」

 

私は手元へ目を戻した。

本人が初めて見ている間に、もう一つは美月のところにあるらしい。

 

「自分のだけじゃなくて、私のも?」

 

「ええ。ずいぶん嬉しそうでしたよ。飾る場所まで考えていました」

 

「明日、普通に会うんですけど……」

 

「それはそれ、なんでしょうね。多分」

 

早川さんは澄ました顔で答えた。

美月が部屋に飾るところを想像して、少し顔が熱くなる。

だけど、自分の部屋にも五人のアクスタが飾られていることを思いだして、何も言えなくなってしまった。

 

 

 

写真や文字の印刷、色の仕上がりも資料と見比べながら確認していった。

生地や部品も、担当の人に教わりながら確かめる。

一つずつ確認済みのものを横へ寄せ、最後にペンライトを手に取った。

公演名は、六月のものとは違っていた。

『6つの色』。

今、自分が練習している六曲を披露する公演の名前だ。

ストラップへ手首を通し、電源を入れる。

黄色。

ボタンを押すと、オレンジになる。

青、紫、緑。

その順番を見ているうちに、六月の客席を思い出した。

周りには、開演を楽しみにしている人たちがいた。

少し様子を見ながら、私も五人の立つ舞台へ向けてペンライトを持っていた。

 

それが、公演の途中からは、振ることをいちいち考えなくなっていた。

見ているだけでは足りなくて、声も出した。

もう一度見たい。

終わったあとも、そう思っていた。

緑に光る手元を見る。

あの日使ったものなら、次は最初の色へ戻る。

親指で、もう一度ボタンを押した。

ローズピンクになった。

そのまま手を止めた。

六色に切り替わることは、もちろん知っている。

自分の色が加わったことも、説明を受けていた。

でも、あの日、五人へ向けて振っていた光の続きにこれがあると、急に別のことのように感じた。

 

「……一色、増えたんですね」

 

言ってから、今さら何を言っているんだろうと思った。

早川さんは、私の手元へ目を向けた。

 

「はい。今回から六色です」

 

「六月の時も、こうやって順番に変えたのを覚えていて」

 

「客席で見ていただいた時ですね」

 

私は、光ったままのペンライトを少し持ち直した。

あの日は、どの色にしても、舞台にいる五人の誰かの色だった。

それが今は、この色の流れの中に、自分の色がある。

誰かが、自分でボタンを押して、この色で止める。

私が五人を見ながら振ったように、舞台へ向けて振るかもしれない。

振ってもらえるかは分からないけれど、それでも、少し変な感じがした。

自分も歌うことは、もう決まっている。

立つ位置も、歌うところも、毎日のように練習している。

それなのに、誰かが自分の色を選ぶところは、あまり想像していなかった。

 

「今度は、舞台からこの光を見るんですよね」

 

小さく言うと、早川さんが頷いた。

 

「そうですね」

 

それ以上、何かを言い足されることはなかった。

ローズピンクの光を、もう少し見ていた。

この色が客席にあったら、多分、探してしまうと思う。

見つけた時に、自分がどんな顔をするのかは分からなかった。

私はもう一度ボタンを押した。

黄色へ戻る。

そこから、五人の色を一つずつ通り、またローズピンクになった。

 

「問題自体は、何もないです」

 

担当の人へ伝えると、確認表に最後の印がついた。

電源を切る。

光が消えても、さっきの色は、しばらく目に残っていた。

 

 

 

「では、白瀬さんの確認は、こちらで完了です」

 

担当の人が資料をまとめた。

会場で販売する分は、事前に確認した仕様で製造が進んでいる。

今日の実物確認に問題がなければ、同じ仕上がりで後続分の本格的な生産も進めるという説明を受けた。

私は頷き、机の上をもう一度見た。

写真を撮って、デザインを見て、実物を確かめる。

自分が関わったのは、その途中のいくつかだけだ。

それでも、最初に見た画像が、今は手に持てるものになっていた。

私がそんな感慨に耽っていると、早川さんが声をかけてきた。

 

「今回は初回かつ時間もあまりないということでこのような確認をしてもらいましたが、次回からはサンプルを渡すだけでよいということであれば、そのようにも対応できます」

 

「そうなんですか?」

 

「はい。雨宮さんは自宅にサンプルを送るだけで済ませたりしていますね。その場合は、問題がある場合だけ声をかけていただくことで対応します。橘さんのように、自分で事務所でサンプルを見て持って帰っている人もいるので、人に寄りますね」

 

「なる、ほど……?」

 

「どうするかは白瀬さんにお任せするので、確認方法を変えたい場合は声をかけてください。相談した上で決めますので」

 

「分かりました」

 

ノートを閉じたところで、担当の人が別の箱を出してきた。

 

「こちらは、白瀬さんへお渡しするサンプルです」

 

箱の中には、さっき確認したものと同じペンライトが三本入っていた。

その隣に、私の個人グッズが一式、袋にまとめられている。

 

「これ、全部ですか?」

 

「はい。ご本人用にご用意した分です。ご自宅へ郵送もできますが、本日お持ち帰りになりますか?」

 

私は足元の鞄を見た。

着替えとかもあるから全部を中へ入れるのは難しそうだけど、別の袋があれば持てると思う。

 

「持って帰ります」

 

「分かりました。まとめますね」

 

「では白瀬さん、まとめてもらっている間に明日の予定を確認しておきましょうか」

 

「はい、お願いします」

 

早川さんから、明日のホールの集合について最後に確認された。

スマホで受け取った場所と時刻を見直し、鞄へ戻す。

今日は、ここまでだった。

 

————

 

食事を終え、テーブルが空いたところで紙袋を持ってきた。

 

ペンライトを三本。

タオルとうちわ。

写真の入った袋。

キーホルダー。

最後に、アクスタを出す。

 

母が目を丸くした。

 

「本当に、一通り貰ってきたのね」

 

「ペンライトは六人共通。それ以外は、私の」

 

「これにも名前が入ってる」

 

母がうちわを持ち上げた。

 

「やっぱり、名前とか無駄に大きいと思うんだけど」

 

「でも、これは真琴だけじゃなくて他の子のもあるのよね?」

 

「……うん、あるはずではある」

 

父はアクスタの袋を手に取っていた。

表と裏を見てから、私へ尋ねる。

 

「これは、立てるんだよな?」

 

「そう。下に台座があるから、そこに嵌めたら立つようになってる」

 

父は台座を押さえ、差し込むところを合わせる。

テーブルの上に、私が立った。

父は手を離して、少し身体を引いた。

 

「……本当に、こういうものになるんだな」

 

「私も、今日そう思った」

 

母が写真を袋から出し始める。

一枚ずつ眺め、私の顔を見て、また写真へ目を戻した。

 

「綺麗に撮れてるね」

 

「うん」

 

「これとか、すごくよく撮れてる」

 

一枚をこちらへ向けられる。

撮影の途中で、少し笑っていた写真だった。

 

「……ありがと」

 

こういう形の写真を母に褒められるのはちょっと……だいぶ恥ずかしい。

いつもの家族で撮った写真を褒められるのとは訳が違った。

そんな中、父がアクスタを手前へ寄せた。

 

「真琴」

 

「何?」

 

「これが、ステージで着る衣装なのか?」

 

「うん。そうだよ」

 

父は少し黙った。

それから、アクスタの全身を見直す。

 

「……結構、肌が出るんだな」

 

「え?」

 

「スカートも短いし。お腹も見えるだろう。腕も……」

 

私は、父の前に立つ小さな自分を見た。

短いスカート。

トップスとの間に見えるお腹。

肩のフリルはあるけれど、腕を覆う袖ではない。

 

「発表の写真、見てたよね?」

 

「見てたけど、あの時は真琴の名前が出たことの方が気になってな」

 

父は少し困ったように言った。

 

「衣装までは、そこまで見てなかった」

 

「ああ……」

 

テレビに自分の顔が出た時のことを思い返す。

私も、どの部分がどんなふうに映っていたかより、名前を読まれた声の方を覚えていた。

 

「私も、最初はびっくりしたよ」

 

父が顔を上げた。

 

「そうなのか?」

 

「うん。ハンガーに掛かってる時は、リボンとか柄の方を見てたんだけど。自分で着たら、思ってたより短くて」

 

鏡の前で、しばらく止まってしまった。

スカートの裾を少し下げようとしても、長くなったりはしなかった。

 

「普段、こういう服は着ないから。これで歌ったり踊ったりするんだって思うと、ちょっと落ち着かなかった」

 

父は、アクスタから私へ目を戻した。

 

「……真琴は、それでいいのか?」

 

さっきより、少し真剣な聞き方だった。

私は椅子を引いて、座る。

 

「うん。今は、これで大丈夫だと思ってる」

 

「嫌なら、言えるんだよな?」

 

「言えるよ。衣装合わせの時にも、気になるところは聞いてもらったし。短くてびっくりしたって、担当の人にも話した」

 

父は黙って聞いていた。

 

「それで、まず着て動いてみたの。腕を上げたり、歩いたりして。ずれないかとか、当たるところがないかも見てもらって。スカートの下にも、踊るためのインナーパンツが用意されてたし」

 

そこまで言って、もう一度アクスタを見る。

最初に着た時は、布のないところばかり気にしていた。

撮影が始まると、立つ場所や顔を向ける方向を考えるようになった。

衣装が気にならなくなったわけではないけれど、ずっと裾を押さえていたいままではなかった。

 

「じゃあ、着たくないとは言わなかったんだな」

 

「うん。戸惑ったけど、嫌だからやめてほしいとは思わなかった。この衣装でやってみようって、自分で思って着たよ」

 

父は私の顔を見ていた。

急いで返事を求めるような感じではなかった。

私は少し考えてから、言葉を足した。

 

「スカートもだいぶ短いし、恥ずかしくないって言ったら嘘になるけど。それと、着たくないっていうのは、ちょっと違うかな」

 

言ってみると、そのくらいが一番近かった。

全然平気、と言うのは違う。

でも、嫌だったのに断らなかった、というのとも違う。

 

「気になることがあったら相談できるし。今回は、自分でこれでもいいと思ったから」

 

父が、ゆっくり頷いた。

 

「そうか。それなら分かった」

 

母が写真を置き、アクスタの方をのぞいた。

 

「でも、胸元が大きく開いてるわけでもないし。アイドルの衣装としては、普通な方なんじゃない?」

 

「そうなのか?」

 

「私もそんなに詳しくはないけど。テレビで見る衣装も、こういう感じのものはあるでしょう」

 

父も、もう一度衣装を見る。

 

「……そう言われれば、そうかもしれないな。真琴がいいならいいんだ。それ以上俺から言うことはない」

 

「うん、大丈夫。ありがとう、お父さん」

 

「……ああ」

 

父は小さく頷いた。

照れ隠しなのが手に取るように分かった。

その様子がおかしくて、少し笑ってしまった。

自分が娘として心配されているという状況自体も、少し変だとは思う。

だけど、私は一人娘だということを考えれば、男親としては心配になってしまうものなのかもしれない。

微かに残る前世の感覚的にも、それを否定する要素はなかった。

 

「それ、全部二人にあげるよ」

 

母が顔を上げる。

 

「全部?」

 

「うん。ペンライトも、ほかのも」

 

父が、テーブルの上を見回した。

 

「真琴の分はいいのか?」

 

「私は、自分のグッズを持ってても、そこまで嬉しいわけじゃないから」

 

言ってから、少し笑った。

 

「自分のグッズを自分の部屋に並べたいかっていうと、ちょっと違うし」

 

「それは、そうかもしれないね」

 

母も笑った。

 

「二人の方が喜んでくれそうだったから。郵送もできるって言われたけど、持って帰ってきた」

 

今日見せたかったのは本当だった。

思っていた通り、二人ともよく見てくれている。

だったら、そのまま持っていてもらう方がよかった。

 

「じゃあ、もらうね。ありがとう」

 

母が言う。

父も頷いた。

 

「大事にする」

 

二人へ渡したはずなのに、テーブルの上のものは何も動かなかった。

父親用と母親用に分ける話にもならない。

母が写真を袋へ戻しかけて、手を止めた。

 

「これ、どこに飾ろうか」

 

私は母を見た。

 

「飾るの?」

 

「せっかくもらったんだから」

 

「写真も?」

 

「写真も。アクスタだけじゃ、もったいないでしょう」

 

父が、リビングの本棚へ目を向けた。

 

「あそこなら、少し空けられるんじゃないか」

 

母も振り返る。

 

「どの辺り?」

 

「真ん中の段。あの本を向こうへ寄せれば」

 

「うちわもあるよ」

 

「奥に置けるだろう。手前に、これを」

 

父がアクスタを持ち上げた。

さっきまで衣装の丈を気にしていた人が、今はそれを飾る場所を考えている。

その切り替わりに、少し笑ってしまった。

 

「……そんなに、ちゃんと飾るつもり?」

 

二人がこちらを見た。

 

「ちゃんとしたものをもらったんだから」

 

母が答える。

 

「袋に入れたままじゃ、見えないだろう」

 

父も続けた。

それは、そうだけど。

私はそこまで考えずに、持って帰ってきただけだった。

母が立ち上がり、本棚の前へ行く。

父もアクスタをテーブルへ戻して、そちらへ向かった。

 

「写真は、何枚くらい置けるかしら」

 

「前に使っていた写真立てもあるだろう」

 

「そうね。大きさが合うか見てみないと」

 

「ペンライトは、倒れないようにしたいな」

 

「タオルは畳んで置いたら、名前も見えるんじゃない?」

 

相談するものが、次々増えていっている。

私は、テーブルに残っているアクスタを見た。

美月もアクスタを持って帰ったらしいし、お父さんとお母さんは飾り付けようとしている。

本人の私は飾るつもりがないのに、置き場所を考えている人がいる。

……何だか、変な感じだ。

 

「そこまでやらなくても」

 

「駄目?」

 

「駄目ではないけど……」

 

「ならやらせて。真琴の初めてのグッズだもの」

 

「……そういう言い方されたら、止められないじゃん」

 

つまり、娘の記念品だから飾りたいとか、そういうことなのだろう。

すごくムズムズする。

 

「この本、こっちの棚に移せる?」

 

母の声がした。

 

「入ると思う。先に、こっちを少し整理するか。俺の書斎を少し整理すれば移せるだろ」

 

父が答える。

少し場所を空けるだけの話が、本棚の一段を使う相談になっていた。

私は口を挟みかけて、やめた。

二人とも、思っていたより楽しそうだった。

空になった紙袋を畳む。

本棚の前では、まだ、どの写真を手前に置くかという話が続いていた。

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