TS少女は演じたい   作:息抜き

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35話

八月四日、火曜日。

 

リビングへ入ると、テレビの正面のソファに座っていた父が立ち上がるところだった。

 

「……おはよう」

 

「おはよう、真琴」

 

テレビは消えている。

見ていたものを、消したのだろうか。

 

「見てなかったの?」

 

「見てたけど、もうごはんできるだろうからな」

 

食卓には、もうコップが三つ並んでいる。

 

「真琴、先に顔洗ってきたら?」

 

台所から母が言った。

 

「……うん」

 

 

 

顔を洗って戻ると、父は食卓についていた。

私は椅子を引きかけて、その向こうの本棚を見た。

手が止まった。

 

「…………何これ」

 

真ん中の一段が、昨日と違っていた。

並んでいた本がなくなっている。

代わりに、私が並べられていた。

奥にはうちわ。

その手前には、台座に立ったアクスタ。

左右に写真立てが置かれ、撮影した日の私が、少しずつ違う顔でこちらを向いていた。

タオルは名前の部分が見えるように畳まれている。

キーホルダーもあった。

三本のペンライトは、手前で転がらないよう、浅い箱の中へ揃えて置かれていた。

昨日、ここを空けようと相談していたのは知っている。

でも、その時にはまだ、本をどこへ移すかという話をしていたはずだ。

 

「昨日もらったの、飾ってみたの」

 

母が皿を置きながら言った。

 

「……うん。それは分かる」

 

「写真立てもちょうど使えたから」

 

「一晩で、ここまでやったんだ」

 

「並べ始めたら、案外すぐだったのよ」

 

アクスタは、棚の真ん中より少し前に置かれている。

写真立てに隠れない場所。

うちわの名前も、ちゃんと見えていた。

……随分、考えて並べてある。

 

見ていて、昔の光景が浮かんだ。

前の人生で、友人の部屋へ行った時にもこんな棚があった。

好きなアイドルの写真やグッズが、普段使うものとは別に並べられていた。

何のきっかけでその部屋へ行ったのかは、もう曖昧だ。

ただ、棚を見た私に、友人が少し得意そうに説明していたことは覚えている。

確か、祭壇、と呼んでいた。

その時は、好きなものをよくこれだけ集めたなと思った。

自分にはない楽しみ方だったけど、嬉しそうに見せてくるのは分かった。

 

私は目の前へ視線を戻した。

……これも、そういうものなのでは?

しかも、全部私だ。

飾っているのは両親で、飾られている本人は、これからここで朝ごはんを食べる。

急に、顔が熱くなってきた。

 

「……これ、ずっとここに置くつもり?」

 

「そのつもりだけど」

 

母の返事は早かった。

私は小さく息を吐き、椅子へ戻った。

朝食の席からも、アクスタはよく見えた。

少し視線を上げると、うちわの大きな名前まで目に入る。

二人が喜んでいることは、分かる。

その方がいいと思って、私も持って帰ってきたのだ。

だけど、こういう飾り方は、考えていなかった。

 

————

 

ホールの関係者用の入口には、案内の紙が出ていた。

会場名をもう一度確かめてから、中へ入る。

受付で名前を伝えると、少し先で待っていた早川さんがこちらへ来た。

 

「おはようございます、白瀬さん」

 

「おはようございます。今日はよろしくお願いします」

 

「荷物、多くなりましたね」

 

「何日か泊まると思うと、どこまで減らしていいか分からなくて」

 

「着替えもありますからね。ひとまず控室へ置きましょう」

 

今日から本番までは、FOLIOの滞在用の部屋を使う予定になっている。

土曜に一泊する時より着替えも多い。

洗濯はできるけど、何日分かをまとめるといつもの鞄だけでは少し厳しかった。

 

案内された廊下を進む。

いつものFOLIOとは、扉の形も床の色も違う。

途中でスタッフの人とすれ違い、挨拶をした。

控室へ入ると、美月が手を振った。

 

「真琴、おはよ」

 

「おはよ」

 

「昨日、グッズ見た?」

 

私は荷物を下ろす手を止めた。

 

「見た。それで、一つ聞きたいんだけど」

 

「何?」

 

「私より先に、私のアクスタもらったって本当?」

 

美月が笑った。

 

「早川さんに聞いた?」

 

「うん。飾る場所まで考えてたって」

 

「だって、実物見たら欲しくなったんだもん」

 

「欲しいものなの?」

 

「私、皆のアクスタ持ってるよ?だから真琴も足した!それに、真琴だって私たちのアクスタ買ってたじゃん」

 

「……買ったのは事実だから何も言い返せない」

 

私は帽子を外した。

荷物を置くと、美月が顔を寄せてきた。

 

「真琴はもらったグッズどうしたの?初グッズは皆扱いが違うから気になる!」

 

「全部お父さんとお母さんにあげた。そしたら、今朝には本棚に全部飾られてた」

 

「いいじゃん!」

 

「うちわも、写真も、ペンライトまで」

 

「ちゃんと一式だ」

 

「朝ごはん食べるところから、全部見える」

 

美月が声を上げて笑った。

少し向こうで、ひより先輩も顔を上げる。

 

「そんなに場所あったの?」

 

「本を移して、一段空けたみたいです」

 

「……結構本格的だね」

 

「そうなんです」

 

先輩の返事に、ようやく分かってもらえた気がした。

けれど、そのあとで先輩も小さく笑った。

 

「でも、嬉しかったんだと思うよ」

 

「それは、分かるんですけど」

 

美月はまだ楽しそうだった。

 

「写真撮らなかったの?」

 

「撮ってない。恥ずかしいじゃん」

 

「えー。見たかった」

 

「美月はそういうことされないの?」

 

「うちはあんまり?私の部屋がグッズだらけになってるし、多分しまってるんじゃないかな」

 

着替えを取り出していると、ひより先輩がこちらを見た。

私が鞄からタオルを出している間、少しこちらへ視線が残っている気がした。

目が合うと、持っていた飲み物を置く。

皆と普通に話している。

それなのに、二日にも感じた、何かを待たれているような間が時々あった。

 

「真琴、今日の進行表、持ってる?」

 

玲奈さんの声に振り向いた。

 

「はい。鞄に入ってます」

 

「最初にステージを見て回るから、出しておいて。水を置くところも実際に確認するから」

 

「分かりました」

 

「それと、今朝届いた図面もあるから。こっち、一枚取って」

 

差し出された紙を受け取る。

舞台と、その左右の袖が描かれていた。

 

「この矢印が、入る方ですか?」

 

「そう。あとで実際の場所と見比べましょう。本番の会場とは違うけど、機材の配置や動線は、できるだけ本番に近い形にしてくれているみたいだから」

 

玲奈さんはそう言って、自分の進行表へ紙を重ねた。

私は鞄からノートを取り出した。

もう少し考えようとしていたことは、いったんそのままにする。

図面の中には、まだ自分で見ていない場所がいくつもあった。

今日は、その場所を確かめに来たのだ。

 

————

 

衣装への着替えを済ませて控室を出ると、夏希が廊下の先で待っていた。

 

「真琴、こっち」

 

「皆もう行った?」

 

「まだ。今から」

 

少し後ろから、澪先輩も出てきた。

挨拶を交わし、一緒に舞台へ続く扉の方へ向かう。

早川さんたちの説明を聞いてから、スタッフの人について中へ入った。

黒い幕と、その脇に置かれた機材。

足元には、まとめられたケーブルがあった。

 

「今日は、こちらから出ます。待機するところと、戻ってくるところを先に見ておいてください」

 

図面にあった矢印を、実際に歩く。

六月にも、舞台袖には来た。

ただ、あの時は邪魔にならないところで、五人を見送っていた。

今度は、そのまま幕の横を抜ける。

 

正面が開けた。

椅子が、奥まで並んでいる。

中央と左右に通路があり、その向こうにも席が続いていた。

舞台の前まで床が続いて、そこから客席へ一段下がっている。

私は少し立ち止まった。

 

「……思ってたより、遠くまで見えますね」

 

「後ろの席まで見えるでしょ。この前のライブでも美月がそんな感じのこと言ってたけど、本当に客席の奥の方までちゃんと見えるんだよ」

 

隣へ来たひより先輩が言った。

 

「そう、なんですね」

 

頷いてから、今度は足元を見る。

レッスン室なら、客席に見立てた線の向こうにも床があった。

ここには、本当に端がある。

同じように立っているだけなのに、正面へ出た身体の感じが少し違った。

夏希が、客席を見渡した。

 

「何か、最初の頃を思い出すね」

 

「うん。客席との距離とか、少し似てる」

 

ひより先輩が答える。

私は二人を見た。

 

「最初の頃って、デビューした時ですか?」

 

「そう。あの頃は、こういうふうに客席が近くに見える会場だったから」

 

美月も隣へ来る。

 

「真琴が見に来た六月のとは全然違うよ」

 

それは、分かる気がした。

六月の会場では、人のいる場所が遠くまで続いていて、どこまでが客席なのか、すぐには把握できなかった。

 

「最初は、どのくらいだったんですか?」

 

「デビューのショーケースが三百席。初めてのワンマンが、四百五十席だったわね」

 

玲奈さんが答えた。

三百席。

今まで聞いてきた数字より、ずっと少ない。

でも、目の前に並んだ椅子を見ながら考えると、三百人でも十分多く感じた。

そこへ人が座って、全員こちらを向く。

 

「その時も、緊張しました?」

 

聞くと、美月がすぐにこちらを向いた。

 

「したよ。すごく」

 

「……あんまり想像できない」

 

「私、最初から今みたいに喋ってたと思ってる?」

 

「……普通に喋ってそうなんだけど」

 

夏希が吹き出した。

ひより先輩まで笑っている。

 

「そこは間違ってないね」

 

「先輩まで」

 

美月は少し口を尖らせてから、客席へ目を戻した。

 

「でも、舞台に出てからは違ったよ。人と目が合うと、本当に私たちを見に来たんだって思って」

 

「近いと、結構分かるんだよね。どんな顔してるのかとか」

 

「そう、それです、ひより先輩!練習してる時にはいない人が、目の前にいるの。嬉しかったけど、急に自分が何してるか気になっちゃって」

 

美月が自分の手を見た。

 

「笑ってるつもりなのに、ちゃんと笑えてるかな、とか」

 

その感覚なら、少し想像できた。

夏希も頷く。

 

「私は、踊り始める前より、自分が歌うところが来る方が緊張したな」

 

「夏希も?」

 

「そりゃするよ。踊るのとは別だし」

 

五人が最初に舞台へ立った頃のことは、動画で少し見たことがある。

でも、その時に何を気にしていたかまでは知らなかった。

目の前の五人は、昔の自分たちの話をしていた。

誰かが言うと、ほかの人も覚えている。

 

「皆さんで、こういうところから始めたんですね」

 

「そうね。今とは違うことも多かったけど、会場へ来て最初に確かめることは、そんなに変わらないと思う」

 

玲奈さんが客席を見た。

 

「でも、だからこそ、真琴が大変なのも、私たち全員よく分かってるわ」

 

「玲奈さん……?」

 

「私たちも三百席から始めた。それでも、最初のライブの時の緊張は酷かったもの。そうでしょ、皆」

 

「正直私は思い出したくない」

 

ひより先輩が玲奈さんの問いかけにそう呟くと、美月と夏希も頷いていた。

 

「私もです。一番遅く入ったのもあって一番下手だったし、読モとも全然違ったし、どうしても緊張は……」

 

「私も自分がだいぶ空回りしてたなーっていうのは覚えてる」

 

「澪もよね」

 

「……確かに緊張してたけど、玲奈気付いてたの?」

 

「いつも以上に無言になっていたもの。気付かないはずないでしょ」

 

「皆さんでも、そうなんですか」

 

思わず、聞いてしまった。

五人にも初めてだった時があるのは分かってはいる。

だけど、あのライブを見たせいもあって、あまり想像ができなかった。

 

「もちろん。だからこそ、いきなり1800人の前に立つことになる真琴のことは、皆気にかけてる。遠慮する必要はないから、なんでも相談して。もう同じグループのメンバーなんだから」

 

「……はい、ありがとうございます。玲奈さん」

 

顔を上げると、玲奈さんと目が合った。

私よりもだいぶ背が高いから、少し見上げるような格好になる。

さっきの言葉のせいか、いつもより頼もしく見えた。

 

「うん。じゃあまずは、少しでも空気に慣れるために、ここでの練習に、しっかり取り組みましょう」

 

「はい!」

 

そこから、確認や練習が始まった。

 

————

 

高瀬先生から声がかかった。

 

「まず、使う範囲を見ておこう。音をかけずに、最初の位置まで歩いてみてくれ」

 

六人で舞台の中央へ戻った。

床には、真ん中を示す零と、左右へ続く数字があった。

ところどころに、小さく切ったテープも貼られている。

ひより先輩が、自分の位置に立つ。

 

「真琴は、ここ」

 

隣へ行き、一度足元を見た。

そのあとで顔を上げる。

 

「印だけじゃなくて、私との間隔も覚えておくといいよ」

 

「はい」

 

前方の機材までの距離。

隣に立つ先輩。

正面の客席。

一緒に見るものが、レッスン室より増えていた。

そのまま主要な移動先も歩いて確かめた。

途中で夏希と少し近くなるところがあり、通る幅を二人で合わせ直した。

一度中央へ戻り、六人で立ち位置の図を見直した。

 

舞台の前方に並ぶ番号は、見慣れないものだった。

でも、足元のテープは、レッスン室で目印にしていた場所とそう変わらない位置に貼られているようだった。

 

「……客席から見えないところにも、目印があるんですね」

 

「うん。私たちが位置を確かめるためのものだから」

 

ひより先輩が答えた。

レッスン室の長い線とは違って、必要なところに小さく置かれているらしい。

玲奈さんが、図と舞台を見比べる。

 

「まず、真ん中と左右の番号を見ておきましょう。前後の位置は、床の印も使って合わせるから」

 

「はい」

 

図を見ながら全部覚えようとしていると、高瀬先生から声がかかった。

 

「細かいところは、このあとの通しで確認しよう。この舞台だと、それぞれの位置が何番の辺りになるか。いつものように動いて、どこからずれてくるかも見ていく」

 

「ずれたところは、あとで合わせ直すんですね」

 

「そう。今は目印がどこにあるか分かればいい。映像も残すから、動いてみて気になったところは、終わってから教えてくれ」

 

私は頷いた。

夏希が隣から図を覗く。

 

「さっき近くなったところも、音に合わせてやってみよう」

 

「うん。歩いた時とは、また違うかもしれないし」

 

図面を確認し終えた。

今日は、この舞台に合わせる。

八日は、また別の舞台で合わせる。

振付を覚えていれば、どこでも同じように踊れるわけではないらしかった。

 

 

 

立ち位置をひと通り確かめると、次はマイクの音を確認することになった。

短く声を出すと、それが客席の方へ広がった。

口を閉じたあとにも、周囲に薄く響くようにして残っている。

いつものスタジオでもマイクを使うことはある。

それなのに、同じ声を出した感じがしなかった。

 

「……こんなに響くんですね」

 

鳴海先生が頷いた。

 

「そう。歌もだいぶ変わるから、慣れておいてほしい。ひとまず、このまま短いところを順番に歌ってみよう。まずは普段通りに」

 

伴奏が流れる。

『雨音のリフレイン』の、自分の担当部分だった。

歌い始めると、話した時よりも声の広がりが分かる。

その響きを確かめようとして、途中から少し強く声を出していた。

音が止まる。

 

「遠くへ届けようとしすぎなくて大丈夫。客席での聞こえ方は、こちらでも確認していますから」

 

「はい。何か、自分の声が遠い気がして」

 

澪先輩が隣へ来た。

 

「反響……向こうから聞こえる方を、気にしすぎかも」

 

「そう、なんですかね」

 

「私も、最初の頃は気になった」

 

先輩は、客席と足元のスピーカーを順番に見た。

 

「歌ってる声と、部屋の中に残ってる声が、別にあるみたいな感じだよね」

 

「……それですね」

 

言ってもらうと、分かりやすかった。

今、出している声よりも、そのあとに残る音の方へ気を取られていた。

 

「でも、それを全部聞こうとすると、次のところに行きにくくなるから」

 

鳴海先生と音響の人に、伴奏と自分の声がどう聞こえるかを伝える。

返りを少し調整してもらってから、もう一度歌った。

遠くで響く声は、まだ聞こえる。

でも、自分の歌っている言葉も、さっきより近くで分かった。

今度は、途中で声を強くし直さずに終えられた。

 

「どう?」

 

「さっきより歌いやすいです」

 

答えると、澪先輩が小さく頷いた。

 

「その感じ」

 

「澪先輩も、こういうところで慣れていったんですか?」

 

「うん。一回で慣れたわけじゃないけど。場所が変わるたびに、また違うなって思ってた」

 

先輩が自分の確認のためにマイクを持ち直す。

声が、舞台の上から客席へ伸びていった。

初めて一緒に歌った時にも、綺麗な声だと思った。

今日は、それが広い場所へ届いていくのを聞いている。

あのライブの時みたいな響き方だった。

先輩自身は、いつものように歌っているように見える。

それなのに、なんとなく違う気もした。

驚いていると、隣にいるひより先輩が声を潜めて呟いた。

 

「……真琴」

 

「ひより先輩……?」

 

「澪が今やってる細かい調整は、真琴は気にしなくていいからね」

 

「やっぱりこれ、難しいことですよね……?」

 

「難しいなんてもんじゃないから。澪は会場の響き方に合わせて、語尾の残し方とか、細かい歌い方まで変えてるんだよ。ああいう調整ができるの、私たちの中でも澪だけだから。真琴はさっき確認した通りに歌えれば大丈夫。返りは音響さんが調整してくれるし」

 

「で、ですよね。よかったです」

 

澪先輩の方へ視線を戻すと、鳴海先生と、私には聞いてもすぐに理解できそうにない調整の話をしているところだった。

 

 

 

休憩と身体を温め直す時間を挟んで、六曲の通しに入った。

袖で合図を待つ。

前には、ひより先輩がいた。

午前中に歩いた場所なのに、音楽が流れると少し違って感じる。

マイクを持ち直し、先輩のあとへ続いた。

幕の横を抜ける。

明かりが当たる。

その先に、客席がある。

自分の位置へ入って顔を上げた。

 

『はじまりのパレット』が始まる。

最初の動きは、身体が覚えていた。

ただ、顔を向けた先にいるはずの自分は、もう鏡には映っていない。

代わりに、椅子が並んでいる。

ひより先輩との間隔を取って、マイクを上げた。

歌う声は、さっき確かめた聞こえ方だった。

遠くへ届いた音を追いかけず、そのまま次の言葉へ進む。

 

二曲目では、一度、移動先で少し後ろへ入りすぎた。

隣の美月との並びを見て、小さく直した。

足元ばかり見なくても、分かることがあった。

二曲が終わり、玲奈さんが挨拶を始める。

私も名前を呼ばれ、マイクを上げた。

玲奈さんへ返す時にも、身体は客席側へ開く。

今度は、言葉を向ける先に、本当の座席があった。

 

「ここまで二曲、どうだった?」

 

「……舞台へ出るまでの方が、緊張しました」

 

「始まってからは?」

 

「いつも練習してる曲だったので、少し戻ってこられた気がします」

 

「知らない曲だったら困るもんね」

 

夏希が言い、私は少し笑った。

実際、知っている曲だからこそ、覚えた通りにやることに集中できた。

だけどこれは、客席が空だから出来たことだと思っている。

本番でもこのままできるかは、まだなんとも言えなかった。

 

「そういう意味じゃない」

 

「分かってるって」

 

その返事まで、マイクを通して聞こえた。

話が美月へ移る。

ひより先輩が先に水を飲みに行き、戻ってきたところで私も動いた。

舞台からは、まだ美月の声が聞こえていた。

聞きながら戻り、曲紹介が終わる前に次の位置へ入る。

進行表に書いたことが、今度は実際の時間になっていた。

三曲目では、澪先輩の声を聞いて、自分のフレーズへ入った。

動いたあとに息が上がるところは、まだある。

それでも、聞こえ方が違うことに慌てて、声を出し直すことはなかった。

四曲目では、午前中に夏希と合わせたところを通った。

今度は途中で足を緩めずに、次の位置へ入れた。

 

そして、『六つの光』。

ひより先輩が歌う。

その声を聞いてから、自分の言葉へつなぐ。

歌い終えた顔を、強く残しすぎない。

でも、出番が終わったように消してしまわない。

美月へ視線を動かす。

声が聞こえ、そのあとに表情が変わる。

二日には、何度も止めて確かめたところだった。

今日は、そこを過ぎても音楽が続いた。

 

最後の『またねの続きを』を歌い終える。

玲奈さんの挨拶に続き、六人で頭を下げた。

顔を上げてから、客席へ手を振る。

正面だけでなく、左右と、少し奥へ。

誰も座っていない。

だけど、そこに席があることは、もう知っていた。

袖へ戻り、あとから来る人の場所を空ける。

そこでようやく、息を吐いた。

 

「お疲れ、真琴」

 

夏希の声に頷く。

 

「……お疲れ」

 

六曲を通したのは、初めてではない。

でも、幕の向こうに客席を残して戻ってきたのは、初めてだった。

 

————

 

その後も映像確認や通し練習、曲ごとの細かい調整を繰り返して、十七時頃になって、ようやく終わった。

休憩を挟みつつ何度も歌って踊っていたせいもあって、だいぶ身体が重い。

 

着替えを終えたあと、早川さんから本番までの予定について説明を受けた。

今日の夜から七日の夜までは、都内の滞在用の部屋を使う。

八日は、そこから会場へ向かう。

 

「明日以降は、今日分かったところも含めて、必要な確認を分けて進めます。七日は負荷を抑えて、翌日に疲れを残さないようにします」

 

渡された予定へ目を落とす。

一日中、同じように踊り続けるわけではない。

個別に見るところと、六人で合わせるところが分かれていた。

本番まで、もうあまり日がない。

だからこそ、往復の移動を減らし、必要な練習をきちんとできるようにする。

家へ戻れば、電車と徒歩で片道一時間半ほどかかる。

翌朝には、また同じ道を来ることになる。

その時間を毎日使わなくていいのは、かなり違った。

 

「泊まる分、夜にもレッスンを入れるということではありませんので、今日から本番まで、練習後の自主練はしないように。終わったあとは、食事をして、休んでくださいね」

 

「はい」

 

私が頷くと、早川さんがほかのスタッフの人と話し始める。

私は予定表をしまい、タオルを入れた袋の口を閉じた。

その横へ、夏希が来た。

 

「真琴、今日から泊まるんだよね?」

 

「うん。七日の夜まで」

 

「私も、泊まることになった」

 

顔を上げる。

 

「……夏希も?」

 

「うん。明日からも来るし。帰るより、その方が楽だから」

 

それは分かる。

夏希も家が都内というわけではない。

ただ、私へ話し終えたあとも、まだ隣に立っていた。

 

「それでさ」

 

「うん」

 

「同じところに泊まらない?」

 

私は、鞄の口へかけていた手を止めた。

以前にも、同じ話をされたことがある。

その時は、鞄からトランプが出てきた。

ゲーム機まで用意されていた。

 

「……また何か持ってきたの?」

 

「今日はそういう話じゃないよ」

 

「前はそういう話だったから」

 

「前はね」

 

夏希は自分の荷物を足元へ置いた。

 

「一緒の方が、明日も出やすいし」

 

「出る時間は同じだと思うけど」

 

「だから、一緒でよくない?」

 

言われてみれば、同じ部屋を使うこと自体は、前にもやった。

食事をして、少し話して、そのあと別々の寝室へ入る。

前回は途中から、私までゲームをやめたがらなくなっていた。

そこは、あまり偉そうなことを言えない。

 

「まあいいけど」

 

夏希の顔が明るくなった。

 

「うん。あと、もう一つ」

 

「何?」

 

「今回は、寝る時も同じ部屋にしたい」

 

私は黙った。

夏希も、こちらを見ていた。

 

「……寝る時も?」

 

「うん」

 

「寝室、二つあるよね」

 

「あるよ」

 

「前は、別々にしたよね」

 

「した」

 

「何で?」

 

夏希は少しだけ考えた。

いつもなら、すぐに次の言葉が返ってくるところだった。

 

「今回は一緒がいいなと思って」

 

「遊ぶためじゃなくて?」

 

「今日はちゃんと寝るよ」

 

「寝るなら、別の部屋でも同じじゃない?」

 

「同じじゃないから聞いてるんだけど」

 

それも、そうなのかもしれない。

私は夏希の顔を見た。

冗談で言っているようには見えなかった。

かといって、何か困ったことがあったと相談する顔でもない。

ただ、私の返事を待っている。

今日だけでも、何度か、こんなふうに顔を見られた気がする。

何か言おうとしているのかと思うと、そういうわけではない。

ひより先輩と美月もそんな感じのことがあったし、澪先輩も休憩中に何を言うでもなく隣にずっと座ってたりしていた。

夏希まで、どうしたのだろう。

 

「……本当に、同じ部屋で寝たいだけ?」

 

「うん」

 

今度の返事は、早かった。

私は息を吐いた。

急に力が抜けて、椅子の背へ少し寄りかかった。

同じ部屋で寝るとなると、多少は気を遣う。

一人の方が気楽なこともある。

でも、夏希と過ごすのが嫌なわけではなかった。

前に泊まった時も、結局楽しかったのは本当だ。

 

「……分かった。いいよ」

 

「本当?」

 

「嘘言ってどうするの」

 

「やった」

 

嬉しそうに言われると、また少し力が抜ける。

 

「布団は別ね」

 

「もちろん」

 

「あと、夜更かしはしない」

 

「しないって。今日は早く寝よう」

 

「あと、ベッド私。夏希は床に布団敷いて」

 

「えー!?」

 

「嫌?」

 

「……まあいいか。夜にベッドに侵入すれば——」

 

「夏希?」

 

「嘘嘘!嘘でーす!」

 

声を潜めていても隣にいるせいで企みが丸聞こえだった。

結局、小さく溜息を吐いてから、早川さんに同室で泊まる申請をしに行った。

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