TS少女は演じたい   作:息抜き

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36話

八月五日、水曜日。

 

……暑い。

目を開ける前から、そう感じていた。

エアコンを切ってしまったのだろうか。

でも、耳を澄ませると、空気の流れる音はしている。

背中の方に熱の塊がくっついているかのようだ。

それから、お腹の辺りが少し重い。

寝返りを打とうとして、打てなかった。

 

「……ん?」

 

目を開ける。

カーテンの隙間が明るくなっていた。

自分に掛かっている薄い布団を見て、その上にある腕を見る。

私のものではなかった。

肩越しに振り返ると、すぐ近くに夏希の顔があった。

寝ている。

とても気持ちよさそうに。

 

「…………夏希」

 

返事はなかった。

私のお腹に回っている腕を、そっと持ち上げようとする。

少し動いたと思ったら、また戻ってきた。

 

「夏希。起きて」

 

「ん……」

 

「夏希」

 

「……あと五分」

 

「そうじゃなくて」

 

声をかけると、夏希が顔を少し動かした。

短い髪が首の辺りに触れて、くすぐったい。

私は肩をすくめた。

 

「離れて。暑い」

 

「……暑い?」

 

「すごく暑い」

 

そこで、ようやく腕が緩んだ。

身体を少し離す。

それだけで、随分ましになった。

夏希はまだ目を細めていた。

私を見て、枕を見て、それから自分が寝ていた場所へ目を落とす。

 

「……おはよ」

 

「おはよう。何でここにいるの」

 

「ここ……」

 

「ベッドなんだけど」

 

夏希が黙った。

私はベッドの端から床を覗いた。

昨夜、二人で敷いた布団がある。

枕も、薄い掛け布団も、そのままだった。

使った形跡はある。

本当に、いつ潜り込んできたのだろうか。

 

「昨日、布団は別って言ったよね」

 

「言ったね」

 

「ベッドは私で、夏希は下とも言った。いつ来たの」

 

「夜中に一回起きて」

 

「うん」

 

「隣空いてたから、潜り込んだ」

 

「そんな悪びれもしないで言われても……」

 

「寝返りとかじゃないよ!私、寝相はいいからね!これは入りたくて潜り込んだ!!」

 

「ベッドに上るとかどんな寝相……最初からそんなの疑ってないよ」

 

夏希がとうとう笑った。

昨夜は、本当に早く寝た。

消灯してからも少し話していたけど、途中で夏希の返事がなくなって、そのまま静かになったのは覚えている。

そのあとで、移動していたらしい。

私は全く気づかなかった。

 

「抱きついたのは、あんまり覚えてない。柔らかいしいい匂いだし吸い寄せられたのかも」

 

「夏希は虫か何かなの……?」

 

「うん。ごめん」

 

今度は、ちゃんとこちらを見て言った。

まあいいかと内心で結論付けて、溜息を吐いて起き上がった。

背中が、少し汗ばんでいた。

まだアラームが鳴る前だった。

だからといって、今からもう一度寝る気にはなれない。

 

「もう起きる?」

 

夏希が聞いた。

 

「起きる。顔洗ってくる」

 

「私も」

 

「先に行っていいよ」

 

「何で?」

 

「抱き着かれて汗かいてるからですけど……」

 

「……うん、ごめん」

 

「分かればよろしい」

 

今度は、普通に反省している顔で謝られた。

この前一緒に泊まった感じからして、夏希らしくない行動な気はする。

多分、色々理由はあるんだろうけれど、ここでは聞かないことにした。

 

————

 

練習が始まってからも、美月や夏希は、何かと私を気にかけてくれていた。

それは、ここ数日ずっと感じていたことだった。

最初は、初めてのライブが近いからだと思っていた。

でも、それだけではない気がする。

美月はいつも通りに話しかけてくれる。

ただ時々、私の顔を確かめてから笑うことがあった。

夏希も昨日、どうして同じ部屋で寝たいのか聞いた時、少しだけ返事が遅れた。

そのあとの声は、いつもと変わらず明るかったのに。

そういう、相手の様子を確かめてから表情や声を変える動きには、覚えがあった。

私自身が、長いことやってきたことだったからだ。

 

小さかった頃、私は周りの子供をよく観察していた。

前の人生の記憶があることを悟られないように、同じ年頃の子供たちの反応を真似して、一つずつ自分のものにしていった。

その頃は、周りから変に思われないためだった。

中学の頃には、別の理由で似たようなことをしていた。

学校でどれだけつらいことがあっても、家に帰れば「大丈夫」と答える。

眉を下げすぎない。返事は少し早めにする。声が沈まないように気をつける。

お父さんとお母さんに心配をかけたくなくて、本心とは違う表情や声を選んでいた。

最初は意識していたことも、繰り返すうちに自然とできるようになった。

 

だからだろうか。

誰かが私の顔を見て、ほんの少し間を置いてから笑ったり、声の調子を変えたりすると、その一瞬が気になってしまう。

もちろん、皆が私に嘘をついていると思っているわけではない。

笑ってくれるのも、気にかけてくれているのも、本当だと思う。

ただ、その裏に、私には見せないようにしている何かがある。

昨日のひより先輩の視線も、澪先輩が何も言わずに隣に座っていたことも、思い返すと少し引っかかった。

何があるのかまでは、分からない。

でも、皆がいつも通りに接しようとしてくれていること自体が、いつもとは少し違うように感じていた。

 

SNSは見ていない。

自分の名前も、Lumière Paletteの名前も検索していない。

クラスのグループは、最初に一度返事をしてから、通知を切ったままにしている。

その一方で、由佳や彩花とは連絡を取っていた。

ただ、由佳から来るのは宿題の話や何でもない愚痴で、彩花とは観ている作品の話をしている。

二人とも、外で何を言われているかは伝えてこなかった。

だから、実際に何が起きているのかは分からない。

それでも、昨日お父さんがテレビを消していたことや、皆の様子まで合わせて考えると、見当はついていた。

加入に反対する人がいるであろうことは、前から聞いている。

多分、それが、私の思っていたよりも——

 

昼食を終え、次の練習まで少し時間が空いたところで、私は玲奈さんへ声をかけた。

 

「玲奈さん。今、少しいいですか」

 

「うん。何?」

 

「練習のことじゃないんですけど」

 

言うと、玲奈さんは持っていた紙を膝へ置いた。

それから、隣の椅子を少し引いてくれる。

私はそこへ座った。

 

「あの……最近、皆さんが、少し気を遣ってくれている気がして」

 

「うん」

 

「前から気にかけていただいているのは、分かっているんですけど。それとは、少し違うような」

 

玲奈さんは、途中で否定しなかった。

私が続きを話すのを待っていた。

その顔を見て、やっぱり、この人に聞こうと思ってよかった気がした。

 

「玲奈さんは、あまり変わらないので」

 

「私?」

 

「はい。いつも通りだったので、聞きやすいかなと思って」

 

玲奈さんが一度、膝の上の紙へ目を落とした。

少し考えてから、こちらを向く。

 

「……何があったのか、知りたい?」

 

私は頷いた。

 

「SNSとかは、見ていません。検索もしてないです。でも、昨日、家でも少し……お父さんが、私が来たのでテレビを消したように見えて」

 

実際には、父が消すところを見たわけではない。

だから、そう付け足した。

玲奈さんは、小さく頷いた。

 

「加入発表のことで、何か起きているんですよね」

 

言ってから、指を組んだ。

聞きたくなかったわけではない。

ただ、聞けば、知らないままではいられなくなる。

玲奈さんは、すぐには答えなかった。

さっきまで膝の上に置いていた紙を、机へ戻す。

その端を一度揃え、手を離した。

 

「……私からそのまま話していいかは、少し迷う」

 

正直な返事だった。

 

「早川さんから、ネットの反応は私たちから持ち込まないようにと言われてる。それに、私が見たものだけで説明すると、偏ると思うから」

 

「そう、ですか」

 

「でも、真琴が知りたいと思っているなら、それは早川さんに伝えた方がいい」

 

私は玲奈さんを見た。

玲奈さんも、こちらを見ている。

 

「一緒に聞きに行きましょうか」

 

そこでようやく、少し息を吐けた。

 

「……お願いします」

 

玲奈さんは頷き、早川さんへ連絡を入れてくれた。

 

————

 

早川さんは、スタッフの人と話していたところだった。

私たちに気づくと、手元の端末を閉じる。

少しだけ待ってほしいと言われ、話が終わるのを廊下で待った。

やがて、近くの打合せ用の部屋へ案内された。

 

「どうしましたか」

 

先に玲奈さんが口を開いた。

 

「真琴から、加入発表のあと、何が起きているのか知りたいと相談がありました」

 

早川さんの視線が、私へ向いた。

私は頷く。

 

「反応を見てしまったわけではないんですね」

 

「はい。自分では見ていません」

 

「私たちの様子から、気づいています。家族の様子も気になったそうです」

 

玲奈さんが続けた。

早川さんは、私へ何か言おうとして、それから一度口を閉じた。

玲奈さんは、声を強くしなかった。

 

「本人が何も知らない状態を続けるのは、もう難しいと思います。何かあると分かっているのに、何なのかだけ分からないので」

 

「……そうですね」

 

「真琴が自分で検索すれば、調べられることだと思います。でも、それをしないで聞きに来ているんです」

 

早川さんが、手に持っていたペンを置いた。

 

「全部の投稿を読みたいわけではないんです」

 

自分でも、そこははっきりしていた。

 

「ただ、今どういう状況なのかは、教えてほしいです。皆さんが何を心配しているのか分からないまま、ライブ当日を迎える方が怖いので」

 

「加入への反対について、ですか」

 

「それもです。……何を言われているのかとか、今もそうなのかとか」

 

言葉を探す。

反対する人がいる。

そう聞いていたから、誰にも何も言われないと思っていたわけではない。

でも、反対という言葉だけでは、分からなかった。

 

「見ない方がいいと言われた理由は、分かります。だから、見ていません。でも、状況も全く知らないままだと、嫌な方向にばかり考え込んでしまうので」

 

「……白瀬さんが知りたいと思っていることは、分かりました」

 

ようやく、早川さんが言った。

 

「ただ、私一人の判断でお見せすることは、避けたいです。発表当日の反応と、その後の反応も違います。お伝えするなら、そこを混ぜずに説明したいので。久世と、反応を確認している担当にも相談する時間をもらえますか」

 

「はい」

 

発表当日と、その後。

自分の知らないところでは、時間が止まっていたわけではないらしい。

 

「今日、聞くことはできますか」

 

聞くと、早川さんは壁の時計を見た。

それから、私へ向き直る。

 

「練習後に時間を取れるよう、確認します」

 

「お願いします」

 

頭を下げた。

部屋を出る時、玲奈さんが私の隣へ並んだ。

 

「言いたいこと、言えた?」

 

「……はい。ありがとうございます」

 

「じゃあ、戻ろうか」

 

玲奈さんは、それ以上何も聞かなかった。

私はその隣を歩いて、レッスン室へ戻った。

 

————

 

その日のレッスンを終え、着替えてから、早川さんに呼ばれた。

昼に入ったのと同じ部屋だった。

机の上には、数枚の紙とノートパソコンが置いてある。

今度は、早川さんと二人だった。

 

「お待たせしました」

 

「いえ。時間を取っていただいて、ありがとうございます」

 

椅子へ座る。

鞄を足元へ置くと、早川さんも向かいに腰を下ろした。

 

「久世とも相談しました。今日は、発表から昨日までの反応と、今確認できている状況をお伝えします」

 

私は頷いた。

早川さんが、紙をこちらへ向ける。

好意的。

中立・判断保留。

否定的。

その下に、過激な投稿・本人への直接攻撃、という項目もあった。

そこだけ、少し長く見てしまった。

 

「担当が日々確認しているものから、代表的な内容を選んでもらいました。アカウント名などは外していますが、いつの投稿か、何に対する言葉かは分かるようにしています」

 

紙の端には日付があった。

 

「種類の違いを見ていただくための例です。あらかじめ注意しておきますが、ここに載っている件数が、そのまま全体の割合というわけではありません。立場毎の意見を、均等に抽出しています」

 

「はい」

 

早川さんは、まだ紙の中身を指ささなかった。

先に、私を見る。

 

「まず、発表直後は、歓迎よりも不満や戸惑いの方が目立っていました。私たちが確認できた公開投稿の範囲では、ですが」

 

覚悟していたはずだった。

それでも、はっきり言われると、膝の上の手が少し固くなった。

 

「特に多かったのは、五人のまま続けてほしかったという気持ちと、なぜ今、人数を変えるのかという疑問です。歌やダンスの経験についても、厳しい意見が出ています」

 

早川さんが、一枚目の上を示した。

 

『六月のライブ、あんなによかったのに何で今変えるの』

 

その下には、別の人の言葉。

 

『歌もダンスも育成途中って、だったら何で加入を決めたの?』

 

短い文章だった。

読めない言葉も、意味の分からないところもない。

一度読めば、何を言っているのか分かる。

それなのに、もう一度最初から読んでいた。

 

「……こういうことは、言われるだろうと思っていました」

 

声に出すと、思っていたより小さかった。

 

「……事前にもお話ししましたね」

 

「はい」

 

六月のライブ。

あの日を見た人が、次も五人のライブを見たいと思う。

それは、私にも分かる。

 

「一方で、写真や紹介映像を見て、加入を楽しみにしている方もいました。発表当日からです」

 

少し下にある文章へ、視線を移す。

 

『新しい子、顔がすごく好み。ルミパレまだ詳しくないけど、動画見てみる』

 

私は、そこで一度止まった。

 

「……顔が好みって、そんなことで?」

 

「好きになるきっかけは、人によって違いますから」

 

私自身、最初から五人のことを何でも知っていたわけではない。

それでも、自分の顔を見ただけで、続きを見ようと思った人がいることには、まだ慣れなかった。

 

「二日に長い映像を公開してからは、白瀬さんへの見方が変わったと書く方も出てきました」

 

早川さんが、次の紙へ移った。

 

『カメラテスト見た。言われたあとに表情が変わるところ、普通にすごかった。この子を選んだ理由は少し分かった気がする』

 

『写真で気になって動画も見たけど、普通に話してる時もかわいい。これからの写真とか動画も楽しみ』

 

知らない人の言葉だった。

私がどこを見て、どこで息を止めたのか。

何度も同じ場所へ戻ってやり直したこと。

その一部を、本当に見てくれた人がいる。

ただ載せただけではなくて、誰かが再生して、最後まで見て、こうして書いている。

 

「カメラでの表現や、練習を重ねてきたことを評価する声があります。五人との関係を見て、印象が変わったと書いている方もいます」

 

「……はい」

 

「ただ、映像を見たことで、増員にも賛成になった方ばかりではありません」

 

早川さんが、隣り合った二つの文章を示した。

最初は、八月一日。

 

『新しい子には悪いけど、私は五人のルミパレが好きだったんだよ』

 

その下は、八月三日だった。

 

『動画見た。カメラの前ですごいのは分かったし、ちゃんと練習してきたのも分かった。でも五人で続けてほしかった気持ちは変わらない。そこは別の話』

 

私は二つを見比べた。

 

「これは、同じ人ですか」

 

「はい。同じアカウントの投稿です」

 

日付へ目を戻す。

一日には、知らない新人が入ったと思っていた。

三日には、その新人がどんなふうに練習してきたかを見た。

それでも、五人のままがよかった。

 

紙の上には、もう一つ別の意見も載っていた。

 

『映像であれだけできるなら、俳優として育てたらよかったんじゃないの。歌もダンスもこれからの子を、このタイミングで加入させた判断には納得してない。むしろ、非難の中に放り込むようなことしてこの子もかわいそうでしょ』

 

私は、文章の最後まで読んだ。

最初に声をかけられた時、私もアイドルになるとは思っていなかった。

演技のレッスンを受けていた。

歌やダンスは、どちらも初めてだった。

そのことまで、今は外の人が知っている。

 

「説明を見ていないから反対している、という方だけではありません。経緯を知った上で、それでも違う判断をしてほしかったという意見もあります」

 

「……理由は分かったけど、賛成ではない、ってことですか」

 

「そうです」

 

早川さんが頷いた。

次の欄には、中立・判断保留、とあった。

 

『候補期の動画は見た。頑張ってきたのは分かるけど、実際のライブはまだ見てないから、八日のライブを見てから考えたい』

 

私は、八日、という文字を見た。

三日後。

昨日、誰も座っていない客席を見ていた時には、そこへ来る人の考えまでは、うまく想像できていなかった。

 

「これはチケットの抽選に当選した方ですが、こういう方もいます。まだ受け止め方が決まらない方もいるので、肯定していない方を、全て反対している方として数えることもできません」

 

私は頷いた。

反対と賛成の二つだけなら、もっと分かりやすかったのかもしれない。

でも実際には、映像はよかったけど人数は変えてほしくなかった、とか。

本人は気になるけど、まだ何とも言えない、とか。

同じ文章の中に、両方があった。

 

「……今は、少し落ち着いたんでしょうか」

 

聞くと、早川さんは少し考えた。

 

「発表直後と、話されている内容は変わってきています。ただ、反対が収まったとは言えませんし、まだ予断を許さない状態です」

 

言い切られた。

 

「最初の驚きが薄れても、五人で続いてほしかったという気持ちは残っています。映像を見て、反対する理由がより具体的になった方もいます」

 

私は、さっきの二つの日付をもう一度見た。

分かったこともあるからといって、好きだったものが変わることまで嬉しくなるわけではないし、受け入れられるとも限らない。

そこは、何となく分かってしまった。

 

 

 

早川さんが、紙を一度揃えた。

 

「それから、本人へ直接送られている言葉についても、お伝えします」

 

さっき目についた項目だった。

私は背もたれから、少し身体を起こした。

 

「私の、アカウントにですか」

 

「はい。挨拶への返信などです」

 

一緒に活動できるのが嬉しいと書いた文章。

まだできないことは多いけれど、一つずつ増やしたいと、何度か直した文章だった。

 

「どんなことを、言われているんですか」

 

早川さんは、すぐには次の紙を寄せなかった。

 

「加入を辞退してほしいというものや、本人を傷つける言葉もあります。今日は、強い暴言や安全上の問題がある投稿の原文は載せていません」

 

「……他のものは、見られますか」

 

「比較的言葉が抑えられた例だけです。それでも、白瀬さんに直接向けられた文章です」

 

私は頷いた。

早川さんが、一枚をこちらへ動かす。

 

『五人のことを本当に大切に思ってるなら、加入を辞退してほしかった』

 

息を吸ったところで、少し止まった。

短かった。

さっき読んだものより、文字は少ない。

それでも、さっきのものよりよっぽど胸に突き刺さった。

 

「……これ、私の挨拶に、ですか」

 

「はい」

 

早川さんの返事を聞いて、もう一度読んだ。

一緒に活動したいと書いた私へ。

それなら入らないでほしかったと、返している。

 

「もっと、強いことも……」

 

そこまで言って、口を閉じた。

早川さんは、小さく頷いた。

 

「あります。ただ、原文を全部読んでいただく必要はないと判断しています」

 

私は、紙へ目を戻した。

この一つだけでも、すぐには頭から出ていきそうになかった。

 

「一方で、今お見せしたような投稿に対して、止める声も出ています」

 

早川さんが続けた。

すぐ下に、別の文章があった。

先ほどの投稿への返信、と書かれている。

 

『増員に文句があるのと、本人の挨拶に辞退しろって書きに来るのは違うだろ。運営への不満をこの子にぶつけるなよ』

 

私は、その文章も読んだ。

知らない人が、知らない人へ言い返している。

私の挨拶の下で。

 

「こうした声は、加入を歓迎している方からだけではありません。増員には反対している方からも出ています」

 

「反対している人も?」

 

「はい」

 

次の文章は、八月四日だった。

 

『五人のままがよかった気持ちは今も変わってない。でも十七歳の子にあそこまで言うのはおかしい。運営には納得してないけど、真琴ちゃんには頑張ってほしい』

 

私は、最後のところを読み直した。

頑張ってほしい。

その前には、納得していない、とある。

同じ人が、両方書いていた。

 

「……こういう人も、いるんですね」

 

「います。同じように、運営への不満とは分けて、白瀬さん本人には頑張ってほしいと書いているアカウントを、複数確認しています」

 

早川さんは、別の紙へ視線を落とした。

 

「初日から、本人へ直接言うことではないと線を引いていた方もいました。その後のやり取りを見て、改めてそう書いた方もいます」

 

その人たちが私について知っているのは、写真やプロフィールと、公開された映像くらいのはずだった。

それでも、私へ向けられた言葉を読んで、これは違うと思ってくれた人がいる。

少し、喉の奥が詰まった。

 

「ファンの方同士で、言い合いにもなっているんですか」

 

「なっています。反対すること自体を責めるやり取りもあれば、新しく白瀬さんを応援したいと書いた人を責めるやり取りもあります」

 

「新しく、応援したい人を?」

 

「今までの五人を知らないのに、というような理由で。ただ、そこにも、それは違うという声がついています」

 

さっき読んだ、顔が好みだから動画を見る、と書いていた人を思い出した。

それだけでも、誰かに何かを言われるのか。

 

「ただ、目立つやり取りだけを見て、ファンの方が全員争っていると思わないでください。不満があっても誰かへ直接ぶつけていない方や、まだ考えている方もいます」

 

私は小さく頷いた。

自分が知らない間に、私のことをきっかけにして、色々な話がされている。

でも、その全部が、私を好きか嫌いかという話でもないらしかった。

 

「否定的な反応の中心は、五人という形を変えたことと、その時期や判断への不満です」

 

早川さんが言った。

 

「白瀬さんの技術への厳しい意見ももちろんありますし、本人への批判もあります。ですが、増員に反対している方の多くが、白瀬さんを攻撃したいと考えているわけではありません」

 

紙には、頑張ってほしい、という言葉が見えていた。

ありがたいと思った。

でも、これで安心していいのかは、分からなかった。

その人が見たかったのは、私のいない五人なのだ。

それでも、私へひどいことを言ってほしくないと思っている。

頑張ってほしいとも思っている。

どう受け取ればいいのだろう。

嬉しい。

申し訳ない。

その両方があって、どちらを先に考えればいいのか、うまく決められなかった。

 

「悪質な投稿や、個人情報を調べようとする動きについては、別の担当も含めて対応しています。本人の生活や移動でお願いすることがあれば、ご両親とも確認してお伝えします」

 

早川さんの声に、顔を上げる。

 

「やっぱり、そういうのもあるんですね……私が何かする必要は……」

 

「移動時に雰囲気を変えることなどもご自身で始めてくださっていますし、今は具体的にやっていただくことはありません。ネット上で、白瀬さんから相手へ説明や返答をしていただくこともありません」

 

「……分かりました」

 

頷いて、私は手元の紙を少し遠ざけた。

早川さんは、それを引き戻さなかった。

 

 

 

少し水を飲んでから、話の続きを聞いた。

 

「……それから、もう一つ。お伝えするか迷ったのですが、ファンクラブの会員数も確認していただこうと思います」

 

早川さんが言った。

私はコップを置いた。

 

「ファンクラブの、ですか」

 

「はい。Palette Roomの有効会員数は、発表前より少し減っています」

 

少し。

その言葉だけでは、どれくらいなのか分からなかった。

 

「どのくらい、減ったんですか」

 

早川さんは、一度こちらの顔を見た。

それから、ノートパソコンの画面を私へ向ける。

 

「昨日、八月四日が終わった時点の数字です」

 

七月三十一日、44,000人。

八月四日、43,710人。

私は、二つを見比べた。

 

「差は、290人です」

 

早川さんが言った。

 

「……290人も、減ったんですね」

 

声にしてから、その人数をもう一度考えた。

 

「ただ、これは290人の方が全員、増員を理由に辞めたという数字ではありません」

 

早川さんが続けた。

 

「新しく入会した方もいます。その一方で、会員でなくなった方がいて、その差が290人です。通常の更新時期や、それぞれの事情もあるので、減った分全てが今回の発表が原因だとは言えません」

 

「……はい」

 

「ただし、増員への反対を、更新しない理由として挙げた方はいます」

 

私は、画面を見たまま頷いた。

全員ではない。

でも、いないわけではない。

 

「全体で見れば、一%にも満たない変化です。ただ、だから影響がないと説明するつもりもありません」

 

早川さんは、画面に並んだ二つの数字へ目を向けた。

 

「厳しい反応が目立っていることと、ファンクラブの会員数が大きく減っていることは、同じではありません。今のところ、会員数全体が大きく崩れたわけではない。そのことも、数字で確認していただきたかったんです」

 

数字の下に、集計した時点が書かれていた。

昨日の夜。

私が夏希と同じ部屋に泊まって、布団を敷いていた頃には、こういう数字になっていたらしい。

 

「会員を続けている方が、全員増員に賛成しているわけでもありません。判断を保留しているだけの人もいますし、逆に、今は会員でなくても、白瀬さんを応援したいと思っている方はいます」

 

早川さんが、画面から私へ視線を戻した。

 

「この人数だけで、ファンの方全体の気持ちを測ることはできません」

 

意味は、分かった。

290という数字だけ見て、全て自分のせいだと考えるのは違う。

それでも、五人を好きだった人の中に、人数が変わったからもう続けないと決めた人がいる。

そこだけは、説明を聞いたあとも残った。

 

「……私が入らなかったら、人数は変わらなかったんですよね」

 

早川さんは、すぐには否定しなかった。

 

「今回、白瀬さんが加わることで、六人体制へ変わりました」

 

「……はい。私も、それをやりたいって言いました」

 

「はい。白瀬さんが選んだことでもあります」

 

そう言われて、少しだけ顔を上げた。

選ばされただけのように説明されたら、何か違うと思ったかもしれない。

私は自分で決めた。

家で両親と話して、ここへ来て、やりたいと言った。

それは本当だった。

 

「ですが、六人にすることを提案し、事業として決めたのはFOLIOです。時期も、発表の方法も、公演の準備も、会社が判断しました」

 

早川さんは、一つずつ言った。

 

「その判断に納得できないという声へ答えるのは、会社の役目です。白瀬さんが加入を選んだからといって、ファンの方全員を納得させるところまで、一人で引き受ける必要はありません」

 

私は膝の上へ手を戻した。

全員を納得させる。

そんなことができるとは思っていない。

でも、少しでも上手くなれば、と思っていたところはある。

歌も、ダンスも。

五人に遅れないようになれば。

だけど、さっき読んだ人は、それとは別だと書いていた。

 

「歌とか、ダンスができるようになっても、五人の方がよかったという人は……」

 

途中で言葉が切れた。

早川さんは、続きを急がせなかった。

 

「いると思います」

 

少しして、そう答えた。

 

「上達していくところを見たいという方もいます。ただ、五人の組み合わせが好きだったという気持ちは、技術が上がれば必ず変わるとは言えません」

 

「……そうですよね」

 

それなら、何を頑張ればいいのか。

そう考えかけて、自分で少し戸惑った。

頑張ることは、もう決まっている。

今日も指摘されたところがある。

本番までに確かめるところも、明日の予定もある。

ただ、それができたら、今日見た言葉が全部なくなるわけではない。

そこが、うまくつながらなかった。

 

「八日に来る方の中にも、まだ納得していない方はいるんでしょうか」

 

「その可能性はあります。実際に見てから考えたいと書いている方もいますから」

 

昨日の客席が浮かぶ。

何列も並んだ椅子。

正面だけでなく、左右にも、奥にもあった席。

そこにいる人が、全員同じ気持ちで待っているわけではない。

 

「じゃあ、もしも失敗したら……」

 

「失敗があれば、厳しい意見が増える可能性はあります。ただ、八日の公演を、反対している方全員の考えを変えるための場にするつもりはありません」

 

早川さんが言った。

 

「今準備している六人のステージをお届けします。その結果がどうなるか、そのステージをどう受け止めるかは、見てくださった方が決めることです」

 

私は、しばらく黙っていた。

紙の上では、否定的な言葉の近くに、楽しみだという言葉があった。

どちらかが嘘なのではない。

どちらも、私たちを見ている人が書いたものだった。

 

「皆さんは、こういうものを見ていたんですか」

 

聞くと、早川さんは頷いた。

 

「一部は見ています。ただ、五人にも、ご自身で反応を追い続けないよう伝えています」

 

「それで……」

 

言いかけて、止まった。

美月が、何か言おうとするみたいにこちらを見ていたこと。

夏希が、今回は一緒の部屋がいいと言ったこと。

澪先輩が、休憩中にただ隣に座っていたこと。

そういうものの意味が、少し変わった気がした。

早川さんは、五人が何を考えていたかまでは説明しなかった。

私も、それ以上は聞かなかった。

 

「今日お伝えしたことで、すぐに何か結論を出していただくつもりはありません」

 

早川さんが言った。

 

「今は分からないことも、あとで気になることもあると思います。その時は、また聞いてください」

 

私は頷いた。

いつものように、大丈夫です、と言いかけた。

でも、今の話を聞いて大丈夫なのかは、まだ分からなかった。

一度、ゆっくり息を吐く。

眉を下げない。口元の力を少し抜く。視線を逸らさず、早川さんの顔を見る。

落ち着いているように見える顔を作る。

こういう時、どうすれば相手に心配されずに済むかは、よく分かっていた。

カメラも台本もないけれど、今やっていることも、演技と大して変わらない。

代わりに、別の言葉を選んだ。

 

「教えていただいて、ありがとうございました」

 

声も、いつもと同じ調子で出せた。

自分の中では、まだ何も整理できていない。

それでも、外から見れば、きっと落ち着いているように見えると思う。

大丈夫だとは言わなかった。

でも、大丈夫そうに見せることは、結局やめられなかった。

早川さんは、短く頷いた。

 

「五人には、今日、白瀬さんへ状況を説明したことだけ伝えてもいいですか」

 

「はい」

 

「分かりました。ご両親にも、私から説明の内容をお伝えしておきます」

 

私は、机の上の紙を揃えた。

途中で折れそうになっていた端を、指で戻す。

それから、早川さんの方へ返した。

読んだ文章は、返しても頭の中に残っていた。

 

————

 

滞在用の部屋へ戻ると、誰もいなかった。

当たり前だった。

今日は一人で使うと、朝から決まっている。

 

着替えを洗濯機へ入れる。

水筒を流しへ置く。

残していた水を捨てて、軽くすすぐ。

そこまでやってから、寝室へ入った。

 

夏希が使っていた布団は、朝、畳んで寄せてあった。

ベッドの上には、私の枕だけがある。

端へ腰を下ろす。

スマホは、まだ手に持っていた。

自分で検索すれば、早川さんが見せなかったものも出てくるのだろう。

私の挨拶の下へ行けば、あの文章も、他の言葉も読めるのかもしれない。

でも、今は、見せてもらったものだけでいっぱいだった。

 

画面を消して、枕の横へ置いた。

五人のままがよかった。

カメラの前では、確かにすごい。

それでも、増員には納得していない。

頑張ってほしい。

頭の中へ浮かぶ順番は、早川さんが説明してくれた順番とは違った。

途中から別の文章を思い出して、そのあとで、また前の言葉へ戻る。

最後に見た数字も、何度か浮かんだ。

290人。

全員が私の加入を理由に辞めた数字ではない。

新しく入った人もいるし、普通に期限を迎えた人もいる。

説明は、ちゃんと聞いた。

だけど、その中には、六人になるならもう続けないと決めた人もいる。

 

膝へ目を落とした。

六月のライブを見た時、あの五人はすごいと思った。

その続きを見たいと思った人の気持ちは、想像できる。

自分だけが、五人と一緒にいられることを喜んでいたのだろうか。

そこまで考えて、少し首を振った。

 

自分だけではなかった。

楽しみにしていると書いてくれた人もいた。

写真を見て、動画を見て。

私がいるところを、もっと見たいと思ってくれた人が。

その文章までなかったことにするのは、違う気がした。

 

でも、あちらもこちらもと思っていると、何を考えればいいのか分からなくなった。

入らなければよかったのか。

頭の中で一度だけ、その言葉になった。

それでも、五人と一緒にやりたいと言った時のことを思い出すと、あれが嘘だったとは思えなかった。

あの時は嬉しかった。

これからも一緒に練習して、一緒にステージへ立てることが。

今だって、その気持ちがなくなったわけではない。

ただ、同じことをもう一度言おうとすると、その前に、今日読んだ言葉が出てきた。

 

本当に大切に思っているなら。

 

私は、ベッドの端を指で押した。

大切に思っていた。

少なくとも、自分ではそう思っている。

それを説明したら、分かってもらえるのだろうか。

……多分、そういうことでもない。

 

そこで考えが止まった。

部屋の外で、小さな音がした。

洗濯機だった。

自分で動かしたことを思い出し、少し顔を上げる。

 

夕食のことも、まだ決めていなかった。

お腹が空いていないわけではない。

ただ、何を食べるか考えるところまで、頭が回っていなかった。

立ち上がろうとして、もう少しだけ座ったままでいた。

電気すら付けていなかった部屋は、いつのまにか真っ暗になっていた。

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