TS少女は演じたい 作:息抜き
八月六日、木曜日。
目を開けると、すぐ近くに夏希の手があった。
薄い掛け布団の上から、私のお腹の辺りへ腕が回っている。
背中にも、誰かがくっついている感覚があった。
……またか。
少しだけ顔を動かす。
肩越しに見えた夏希は、目を閉じたまま、静かに息をしていた。
昨日の朝とよく似ている。
ただ、今日は、どうしてここにいるのかを聞く必要はなかった。
最初から同じ布団で寝たのだから。
そっと腕へ手を添える。
昨日のように声はかけず、少しずつ持ち上げた。
隙間ができたところで身体をずらし、夏希の手を布団の上へ戻す。
「……ん」
小さな声がしたので、動きを止めた。
夏希の指が一度だけ動く。
だけど、目は開かなかった。
そのまま、また寝息が聞こえ始める。
起こさずに済んだらしい。
私はゆっくり身体を起こした。
くっついていたところへ空気が入って、少し涼しくなる。
エアコンは、ちゃんと動いていた。
カーテンの隙間から入った朝の光が、床を細く照らしている。
リビングには、昨夜並べた寝具がそのまま広がっていた。
少し向こうでは、美月がひより先輩を抱きしめるようにして寝ていた。
同じ布団から、二人分の頭が出ている。
先輩の頬にかかっている短い髪も、美月の腕も、ほとんど動かない。
……あっちも、なかなか出にくそうだった。
思わず口元が緩む。
ひより先輩は、特に困っているようにも見えなかった。
その隣では、玲奈さんが枕の脇へ片手を置いて眠っている。
澪先輩は横を向き、薄い掛け布団を肩まで引いていた。
二人の長い髪が、枕の上へ少し広がっている。
皆、まだ寝ていた。
昨夜、写真を撮ったあと、このまま全員で泊まれないかという話になった。
早川さんへ相談した結果、今回は特例で、そのまま六人で使っていいことになったのだ。
テーブルを壁際へ寄せ、寝具を四組並べた。
美月が真っ先にひより先輩の隣を取ったのは、覚えている。
夏希も、当然のように私の方を見ていた。
そんな理由で、私と夏希、ひより先輩と美月は、一組ずつ一緒に使うことになった。
夏希にも「狭くなるよ」と言ったが、躊躇なく「うん」と返ってきた。
分かった上で聞いていたらしい。
実際、少し狭かった。
でも、寝つけなくて困った覚えはない。
消灯してからも、誰かが昨夜のゲームの話をして、玲奈さんがまた笑っていた。
それで、気づいたら朝だった。
私は掛け布団から足を出し、誰かを踏まないよう、空いているところへそっと足をついた。
充電していたスマホを取り、寝具から少し離れた壁際へ座る。
画面を見ると、起きる予定の時間までは、まだ少しあった。
昨日、ここへ帰ってきた時には、一人だった。
何を食べるかも決められず、寝室へ座り込んで、そのまま寝てしまった。
今は、目の前に五人いる。
玄関には靴が増えていて、壁際には鞄が並んでいる。
テーブルの端には、片付けたゲームの箱が残っていた。
あんな夜になるとは、思っていなかった。
————
メッセージアプリの『Lumière Palette』のグループを開く。
昨日、美月が送ってくれた写真があった。
一枚目を開く。
玲奈さんが、少し下を向いて笑っている。
他の皆も、きちんとカメラへ顔を揃えているわけではなかった。
私も笑っていた。
口元へ手が上がりかけていて、目が細くなっている。
……随分、楽しそうだ。
図書館だったはずのお題が、最後には筋トレになっていた。
写真の玲奈さんを見ていると、あの時の笑い声まで思い出す。
今、一人で見ていても、また口元が緩んでしまう。
二枚目へ送る。
今度は六人とも顔が上がっていた。
美月が、ちゃんと写ってる、と満足そうにしていた一枚だ。
夏希の肩も、切れずに入っている。
そのすぐ隣に、私がいた。
仕事で撮った六人の写真なら、もうある。
衣装を着て、立つ場所を決めて、照明を当ててもらって撮ったものだ。
何度も確認して、自分の顔も、向きも、少しずつ直した。
これは、そういう写真ではなかった。
後ろにはずれたクッションがある。
テーブルの端に、ゲームの箱が写っている。
六人で座った場所も、画面に入るように少し寄っただけだった。
六人で食べたくて、六人分作ってきた。
美月はそう言っていた。
昨日、早川さんに教えてもらったことは、覚えている。
一晩寝たら、読んだ文章が頭からなくなるわけではなかった。
五人のままがよかった人も、六人になるなら応援を続けないと決めた人もいる。
それは、今朝になっても変わらない。
でも、昨日の夜、五人が話してくれたことも、ちゃんと残っていた。
『私たちも、六人でやることを選んだんだから』
玲奈さんの声が浮かんだ。
そういう話は、初めて聞いたわけではなかった。
加入を決める前にも、五人の意思を確かめているとは聞いていた。
なのに、昨日は、自分が入ると決めたことばかりを考えていた。
私が一緒にいたかった。
私が嬉しかった。
そのために、五人のところへ入った。
そこまで考えたあと、五人がどう思っていたかだけが、抜けていた。
玲奈さんは、私が来たばかりの頃のことから話してくれた。
最初は知らなかった私を、一緒に練習するうちに知ったこと。
それで、これからも一緒にやりたいと思ってくれたこと。
私だけが、一緒にいたかったわけではない。
六人で歌って、六人で踊る。
私が初めてだからといって、他の五人が、私の付き添いとして来るわけではない。
あの五人と、ステージに立ちたかった。
六月のライブを見たあとも。
六人で曲を練習し始めてからも。
家で両親と、加入するかどうかを話した時も。
その気持ちは、昨日もなくなっていなかった。
写真を閉じかけて、もう一度二枚目を開いた。
好きだな、と思った。
こうして一緒にいて、何でもないことで笑っている五人のことが。
私もその中で、同じものを見て笑えることが。
スマホを持つ手を少し下げた。
写真の向こうではなく、今、目の前で眠っている五人を見る。
昨日、来てくれてよかった。
それだけは、何度考えても同じだった。
私は二枚の写真を保存した。
一枚だけ選ぶつもりだったのに、結局、どちらも残したくなった。
————
「……おはよう」
小さな声がして、顔を上げた。
澪先輩が、こちらを見ていた。
片手で髪を押さえながら、ゆっくり身体を起こす。
「おはようございます。起こしちゃいました?」
「ううん。自然に起きた」
先輩の目が、私の手元へ動いた。
「昨日の?」
「はい。見てました」
少しだけ、画面を先輩の方へ向ける。
先輩は目を細め、それから口元を緩めた。
「真琴も、玲奈に追い打ちかけてたね」
「……思ったことを言っただけだったんですけど」
澪先輩が、小さく笑った。
私もつられて、もう一度写真へ目を落とした。
その声が聞こえたのか、玲奈さんが少し顔を動かした。
「……何の話?」
「昨日の写真」
澪先輩が答えた。
「……そう」
玲奈さんは若干顔をしかめながら身体を起こしてから、枕元のスマホを確かめた。
そのあとで、こちらの画面も覗き込む。
「ああ……これ」
「一枚目も残しておいてよかったです」
私が言うと、玲奈さんは少し困ったように笑った。
「私は、ほとんど下を向いているけど」
「でも昨日、すごく楽しかったです」
玲奈さんは、もう一度写真へ目を落とした。
「……そうね」
そこで、向こうから布団の動く音がした。
「美月。起きるよ」
ひより先輩の声だった。
「はぁい……あと五分寝かせてください……」
返事は聞こえた。
けれど、二人の位置は変わらなかった。
少し待って、先輩がもう一度口を開く。
「ダメ。あと腕、邪魔」
「うぅ……」
「じゃあ美月は朝ご飯抜きね」
「それはダメですっ!!」
美月が飛び起きるようにして跳ね上がったことで腕が離れ、ひより先輩が身体を起こした。
眠そうに目をこすりながら座っている。
「……おはようございます」
「おはよう。起きたから朝ご飯抜きは免除してあげよう」
「ありがとうございます」
二人が話していると、今度は夏希が目を開けた。
「……あれ。真琴、もう起きてたんだ」
「うん。先に抜け出した」
「え?」
「夏希、また抱き着いてたんだけど」
夏希は自分の隣を見た。
それから、私を見る。
「また?」
「うん」
言うと、夏希が笑った。
「ごめん。全然気づかなかった」
「起こさないようにしたから」
「そっか。ありがと。まぁこれも、真琴の抱き心地がいいのが悪いかな」
「はぁ?」
「うん、私は悪くない。真琴がいい匂いして柔らかくてすっぽり収まるのが悪い。いい感じにあったかいし」
「……私は暑かったんだけど」
「……そういうこともある」
そう言ってから、夏希はようやく起き上がった。
美月も、ひより先輩の隣からこちらを覗く。
「写真見てたの?」
「うん」
美月の顔が、少し明るくなった。
「やっぱりこの写真いいよね」
「うん。消さなくてよかった」
「ほら、玲奈さん。これが総意ってやつですよ」
「私が積極的な賛成をしなかった時点で総意ではないと思うけれど……」
「でもダメじゃないんですもんね!」
「……別に、消してとは言ってないでしょ」
玲奈さんが答えると、美月が笑った。
昨日も、こんなふうに話していた。
私が何かを言う前に誰かが返し、それを聞いてまた別の人が笑う。
その中に、私の声も入っていた。
「……お腹空いた」
夏希が言った。
澪先輩が立ち上がる。
「パン、まだあったよね」
「ある。卵もあるから、焼こうか」
ひより先輩も、布団の端を畳み始めた。
「テーブル戻しますね」
そう言って立つと、玲奈さんも反対側へ回ってくれた。
「先に布団を寄せましょう。夏希、そっちお願い」
「はい」
「美月も、一回そこから出て」
「もう出ますって」
寝具を壁際へ寄せると、昨夜と同じ場所へテーブルを戻せた。
澪先輩がキッチンから、何を飲むかと聞いている。
夏希が答え、美月も続いた。
私はスマホを鞄の上へ置いた。
私もお腹が空いていた。
————
六人でFOLIOへ着くと、エントランスの先に早川さんがいた。
私たちに気づき、持っていた端末から顔を上げる。
「おはようございます」
「おはようございます」
挨拶が、少しずつ重なった。
早川さんは六人を見て、それから小さく笑った。
「昨夜の写真、拝見しました。楽しそうでしたね」
「楽しかったです!」
美月が答えた。
「六人でゲームもしたんです。絵を描いて、次の人に渡すやつ」
「そうでしたか」
早川さんの視線が、私にも向いた。
「……かなり、伝わらなかったですけど」
「真琴も途中で変えた側だからね」
夏希が言う。
「夏希よりマシだった」
「私の改変は芸術的な改変ってやつなんだよ」
「澪先輩には、そう見えなかったみたいだけど」
「芸術はよく分からないけど、とりあえず重そうだった」
澪先輩が答えた。
その一言で、玲奈さんがまた口元へ手をやった。
早川さんは、少しおかしそうに私たちを見ていた。
「今のご説明でも、楽しそうだったことは分かりました」
「昨日は、泊まる方も調整していただいて、ありがとうございました」
玲奈さんが言った。
「いえ。皆さん、眠れましたか」
それぞれに返事をする。
私も頷いた。
「はい。よく眠れました」
「朝食も?」
「食べてきました」
早川さんは、短く頷いた。
昨夜も、宿泊の相談とは別に、早川さんから私へ連絡があった。
今から少し電話で話せるかと聞かれ、皆と話して少し落ち着いたことと、今はこのまま一緒にいたいことを伝えた。
それなら明日の練習前に、と話す時間を決めてくれていた。
それから、私の方へ身体を向ける。
「白瀬さん。昨夜お伝えした通り、練習の前にもう一度確認させてください」
私は、鞄の持ち手を握り直した。
「今朝は、どうですか」
昨日と同じ人に、もう一度、自分の状態を聞かれた。
「大丈夫です」
今度は、はっきり答えられた。
早川さんは、すぐには次を聞かなかった。
私はその顔を見て、続けた。
「昨日、皆と話せたので」
隣にいる五人が、静かになった。
「聞いたことを、全部気にしなくなったわけではないです。五人のままがよかったっていう人がいることも、やっぱり気になります」
言いながら、自分の気持ちを確かめる。
そこを違うことにしてまで、大丈夫だと思ってもらいたいわけではなかった。
「でも、皆も、私と一緒にやりたいと思ってくれていたんだって、ちゃんと分かりました」
昨日、食卓で聞いた声を思い出す。
「私も、この五人と一緒にやりたいです」
その言葉を口にしてから、五人の方を見た。
美月が、嬉しそうに笑っていた。
玲奈さんは、小さく頷いた。
ひより先輩も、私と目が合うと、柔らかく口元を緩めた。
澪先輩は、さっき写真を見ていた時と同じように、静かにこちらを見ている。
夏希は、もう続きを待っているような顔だった。
私は早川さんへ向き直った。
「八日のライブ、全力でやります。今まで練習してきた六曲を、ちゃんと見てもらいたいです」
言い終えて、息を吐いた。
上手く言えたかを考えるより先に、もう言葉が出ていた。
早川さんは、少しの間、私の顔を見ていた。
それから、小さく頷く。
「分かりました」
早川さんは頷いてから、続けた。
「昼の休憩に、私からもう一度声をかけますね。それまででも、つらくなったら教えてください。必要なら、今日の練習の進め方も調整します」
「はい。ありがとうございます」
私の返事を聞いてから、持っていた端末を腕の中へ収め直した。
「では、今日も予定通り進めましょう」
その声を聞いて、肩の力が少し抜けた。
「はい。よろしくお願いします」
「うん。やろう」
夏希が言った。
そちらを向くと、いつもの顔で笑っていた。
美月も、私の隣へ並ぶ。
「今日も合わせたいところあるしね」
「うん」
『六つの光』の、私から美月へつなぐところを思い出した。
歌い終えたあと、どこまで表情を残すか。
次の人へ目を向ける時に、顔だけ先に変えないこと。
今日、やることは分かっている。
早川さんが、最初に使うレッスン室を伝えてくれた。
六人で廊下へ向かった。
————
八月七日、金曜日。
レッスンの最後に、六曲目の終わりから退場するまでを、もう一度合わせた。
音が消える。
玲奈さんに合わせて頭を下げ、正面へ顔を戻した。
五人と一緒に、袖に見立てた場所まで歩く。
そこで高瀬先生が頷いた。
「よし。今日はここまでにしよう」
マイクを下ろす。
隣の夏希も肩の力を抜き、六人で先生たちの方へ戻った。
壁の時計を見ると、いつもの終了時刻より、まだだいぶ早かった。
身体にも余裕がある。
もう一度くらいならできそうだったけど、高瀬先生は手元の資料を閉じた。
「本番前に、ここで六人揃って練習するのはこれで最後だ。昨日の通しで残ったところも、今日で確認できた。よく揃えたな」
六人で返事をした。
最後。
言われてから、さっき出てきた場所をもう一度見る。
次にあの曲を終えてる時には、レッスン室ではないところに立っている。
「それから、白瀬」
呼ばれて、先生へ顔を戻した。
「はい」
「最初の頃、同じところを何度もやり直したな」
「……はい。前の日にできたことが、またできなくなったりして」
「だが、そのたびに、どこが分からないのか聞いて、動けるところまで戻ってやり直した。できた一回で終わらせなかった」
何度も繰り返して、覚えて、違うところを覚えて、それでまた分からなくなって、先生に教えてもらった。
何度やったかは、数えていない。
「今は、六曲を最後まで踊って、五人と位置もタイミングも合わせられている。まだ五人と同じ技量とは言わない。ただ、明日の六曲で任せた部分は、ちゃんとできてる」
私は頷いた。
「一度だけ上手くいったのを見て、明日もできるだろうと言ってるんじゃない。日を空けても、六曲続けても、できるところまで確認してきた。その上で、明日もやれると判断してる」
「……はい」
いつも、私ができたつもりになっていても、そこはできたから次はここをと新しい技術を教えてくれる人だった。
同じ動きに見えても、どこが変わっていないのかを教えてくれる。
その先生が、やれると言っていた。
「五月に完全に初心者だったとは思えないほどだ。見違えたよ。よくここまで積み上げたな。明日は、自分が練習してきたことも信用してやれ」
胸の辺りが、少し熱くなった。
「ありがとうございます」
頭を下げると、鳴海先生も口を開いた。
「歌も、最初とは随分変わったよ」
顔を上げた。
「声の雰囲気を変えるのは、初めから上手かった。ただ、その分、表現をつけようとすると音まで動いたり、息が止まったりしていた」
どちらも、覚えがあった。
「何度も、歌だけに戻したね」
「はい。……すごく、難しかったです」
「うん。でも、そこで雑に済ませなかった。息を揃えて、同じ音で、語尾まで歌う。それを繰り返したから、今は言葉の感じを変えても、歌が崩れないところが増えた」
鳴海先生は、手にしていた楽譜へ一度目を落とした。
「今の担当フレーズには、白瀬の歌声で聴きたいと思えるところがちゃんとある。音を外さず終われればいい、というだけじゃなくてね」
少し、返事に迷った。
音程や息のことなら、自分でも確かめようとしていた。
けれど、自分の声で聴きたいと思ってもらえるかどうかは、自分では分からなかった。
「……私、皆の声を聞くので、まだいっぱいいっぱいで」
「聞けるようになったのも進歩だよ。最初は自分のことだけで精いっぱいだっただろう?」
言われて、頷いた。
「今は、前の人の声を受けて入れるし、一緒に歌うところでは重ねられる。六人の歌の中に、白瀬の声がちゃんとある」
鳴海先生の目が、私から五人へも向いた。
「明日は、それを聴いてもらおう。今の六人なら、いい歌を届けられると思ってるよ」
隣で、澪先輩が頷いたのが見えた。
私も、先生を見て返事をした。
「はい」
「私が楽しみにしてるのも、そこだな」
三枝さんが言った。
「六人でやってきたものを、ようやくお客さんにも見てもらえること」
持っていた端末を下ろし、私を見る。
「白瀬の表情や視線が強いのは、最初から分かってた。ただ、最初に私が見た時は、歌いながら動く必要はなかったわね」
「はい」
あの時は、椅子に座っていた。
言われた相手を見て、表情を変える。
足をどこへ運ぶかも、次に歌うための息も、考えていなかった。
「今は、歌って、踊って、その中で見せたい表情を出せるところまで来た。そこは、元々得意だったってだけで片付ける必要はない。苦手なことも一つずつ練習してきたから、得意なものを舞台へ持っていけるようになったの」
顔のことまで考える余裕なんてないと思ったことは、何度もあった。
足と歌を確かめているだけで、曲が終わってしまった日も。
それでも今は、歌い終えたあとにも、見せたいものがある。
「五人と一緒にやるようになって、表情も変わった。一人でカメラの前にいた時とは、違う良さが出てる」
「……自分では、あまり分からないです」
「うん。だから、私が言ってる」
三枝さんが笑った。
「グループでの魅せ方が、ちゃんとできるようになってる。明日、ちゃんと見てほしいと思ってる」
思わず美月の方を見ると、目が合った。
美月は嬉しそうに笑って、頷いた。
私の表情だけを確かめていた時より、美月まで続けて見た時の方が、よくなったと思えた場所でもある。
「明日、白瀬を初めて見る人にも、もう一度見たいと思ってもらえるものがある。そこは、自信を持っていい」
三枝さんは、いつものように、はっきりと言った。
「明日、楽しみにしてる。自信を持ってやり切ってきなさい」
私は、三人の顔を見た。
頑張ったことを褒めてもらえるだけでも、嬉しい。
でも、先生たちは、その先のことまで話してくれていた。
今の私にできること。
明日の舞台で、見せられると思ってくれているもの。
何度も練習してきた時間が、ちゃんとその話につながっていた。
「ありがとうございます」
三人へ向けて言った。
「明日、今までやってきたことを、ちゃんと出してきます」
高瀬先生が頷いてから、五人にも目を向けた。
「それでいい。五人も、慣れた立ち位置や動線を変えて、よく合わせ直してきた。——あとは、一人ずつ言わなくても大丈夫だな」
「はい!もう最初の時みたいに一人ひとり言わなくて大丈夫です!」
美月が一際大きな声で返事をすると、四人も頷いた。
五人も最初の頃は、今の私と同じように、一人ずつ言葉をもらっていたらしい。
「六人とも、今日はしっかり休んでこい。続きは明日、会場で」
「はい」
返事が重なった。
玲奈さんが姿勢を正し、私も五人と一緒に頭を下げる。
「ありがとうございました」
顔を上げると、先生たちも挨拶を返してくれた。
壁際へ戻り、ボトルとタオルを鞄へしまう。
ノートは、今日はもう開かなかった。
先生たちが最後に言ってくれたことは、書かなくても覚えていた。
五人と一緒に、着替えへ向かう。
次に六人で合わせるのは、本番の会場だった。
————
滞在用の部屋へ戻ってから、翌日の荷物を揃えた。
洗濯を済ませておいたレッスン着とタオルを畳む。
これもリハーサルでは使うから必要になるはずだ。
シューズを袋に入れ、着替えと一緒に鞄へ収めた。
ノートも、いつものところへ入れる。
特別な日に使う荷物のはずなのに、揃えてみると、普段のレッスンとあまり変わらなかった。
明日着る服を椅子へ掛け、スマホのアラームを確かめる。
そこまで終えてから、家へ電話した。
「明日の準備、終わった」
『そう。忘れ物はなさそう?』
「うん。玲奈さんに教えてもらった持ち物の一覧も見たから」
『じゃあ、大丈夫ね』
お母さんの声の向こうで、食器の重なる音がした。
家では、夕食の片付けをしているところらしい。
「お父さんは?」
『いるよ。今、お皿拭いてる』
少し離れたところから、聞こえてるよ、と声がした。
「明日、終わったら連絡するね」
『うん。片付けとかもあるでしょうから、落ち着いてからでいいよ』
「分かった」
『頑張ってね』
「……うん」
もう少し何か話そうかと思った。
でも、今すぐ聞いてほしいことは、特になかった。
父と母を会場へ招待するのは、二周年ライブの時にした。
早川さんの助言を受けて家族で相談した時、父が、初めての舞台で余計に気負わなくて済むようにと提案してくれた。
私も、二人が客席にいると思うと、ちゃんとやらなきゃと力が入りそうだった。
そう決めたことを伝えると、早川さんが、二人とも配信を無料で見られるように手配してくれた。
明日は、家から見てもらう。
「じゃあ、おやすみ」
『おやすみ』
電話を切ると、部屋が静かになった。
明日の今頃には、もう終わっているのだろうか。
その時、お母さんたちへ、何を話すのだろう。
今考えても分からないので、スマホを充電につないだ。
お風呂に入り、髪を乾かす。
歯を磨きながら時計を見ると、そろそろ寝るつもりでいた時間だった。
まだ少し早い気もした。
だけど、明日は起きる時間も早い。
明かりを消して横になると、昼間には気にならなかったエアコンの音が聞こえた。
目を閉じても、明日のことは浮かんできた。
————
八月八日、土曜日。
朝食を食べて、用意しておいた服へ着替えた。
鞄を持ち上げる前に、ノートとシューズが入っていることだけ、もう一度確かめる。
ちゃんと入っていた。
昨日、自分で入れたのだから、当然だった。
FOLIOへ着くと、いつもより人の少ない廊下を、スタッフさんが機材のケースを押して歩いていた。
すれ違う時に挨拶をすると、向こうも顔を上げる。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
「はい。よろしくお願いします」
返事をしてから、少しだけ、その人が向かった方を見た。
今日の公演へ持っていくものなのだろうか。
待ち合わせの場所へ行くと、五人はもう揃っていた。
「おはようございます」
「おはよ、真琴」
美月が手を上げる。
私もそちらへ行き、空いている椅子に鞄を置いた。
皆、まだ私服だった。
美月は髪を高いところで結んでいて、ひより先輩は隣で飲み物の蓋を閉めている。
澪先輩は片耳からイヤホンを外し、こちらへ挨拶を返してくれた。
夏希は、椅子に座ったまま足首を動かしていた。
「早いね」
「皆の方が早いでしょ」
「私は、部屋にいても落ち着かなかったから」
「……それは分かる」
隣へ座ると、夏希が時計を見た。
「まだ少しあるんだよね」
「出発まで?」
「うん」
私も時計を見る。
確かに、まだ時間があった。
早く着きすぎたのかもしれない。
でも、ぎりぎりに来る気にもなれなかった。
鞄を足元へ移して、椅子へ座り直す。
その間にも、廊下ではスタッフさんたちが行き来していた。
誰かが今日の進行について話している。
別の人は電話をしながら、何かを確認していた。
もう、ライブのために動いている人たちがいる。
「真琴、眠れた?」
玲奈さんに聞かれ、顔を向けた。
「はい。寝る前は、眠れないかもしれないと思ったんですけど」
「朝になってた?」
「そうです」
「よかった」
玲奈さんは笑って、自分の鞄へ薄い本をしまった。
本の表紙が目に入り、少し気になった。
今日も持ってきているらしい。
「私、開演までがすごく長く感じそうです」
言うと、夏希がこちらを見た。
「始まったら、結構早いと思うよ。会場でリハして、着替えてってやってると」
「そうなんだ」
「今みたいに、まだ何もしてない時間の方が落ち着かない」
足首を動かしていた理由が、少し分かった気がした。
「早く会場行きたいな」
美月が言った。
「向こうで衣装着て、照明がついてるところに立つと、いよいよって感じがするし」
その様子は、少し想像できた。
四日前に別のホールで練習した時も、レッスン室とは違った。
ただ、今日は、練習が終わったあとに本番がある。
「……楽しみではあるんだけどね」
私が言うと、美月は頷いた。
「うん」
それだけの返事だった。
緊張していることと、楽しみなことを、どちらか一つにしなくてもいいらしい。
私も、それ以上は説明しなかった。
少しして、早川さんがやってきた。
「皆さん、お揃いですね。準備ができました」
その声で、五人がそれぞれ荷物を持った。
私も立ち上がる。
さっきまで少し余っていた時間が、それでなくなった。
————
「着きました。荷物を持って降りてください」
シートベルトを外した。
鞄を持ち、車の外へ降りる。
冷房の効いていた車内から出ると、真夏の暑さを嫌でも思い出す。
近くで、スタッフさんたちの挨拶が聞こえた。
「おはようございます。よろしくお願いします」
五人の声に続いて、私も挨拶をした。
車の扉が閉まる音がした。
それを背中で聞きながら、鞄を持ち直す。
ここまで来た。
そう思って、顔を上げた。
東京ハーバーステージ。
何度も予定表で見た名前のある建物を、下から、ゆっくり見上げる。
明後日でも、明日でもない。
今日、ここで六人で歌う。