TS少女は演じたい   作:息抜き

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4話

日曜日の朝、髪の右側だけが何故か外へはねていた。

寝ぐせになるような寝方はしてなかったと思うのだが……

霧吹きで少し濡らして、ブラシを通す。

乾かす。戻る。

 

「……なんで?」

 

鏡の中の私も、同じ顔をしていた。

柔らかな暗い茶髪は、一番長い毛先が鎖骨に触れるくらい。

顔まわりから軽く段を入れているから、少し内へ入ったり、外へ向いたりする。

その感じは気に入っている。

ただ、今日の右側は少し、だいぶ自由すぎる。

もう一度ブラシを当ててから、時計を見る。

いつまでも髪と格闘しているわけにはいかない。

小さく溜息を吐いてから右の髪を耳へ掛け、小さな金色のピンで留めた。

細い枝に葉が二枚ついたような形の、気に入っているものだ。

 

ついでに、眉が少し覗く前髪を指で整える。

少し横を向いて確かめた。

うん。

直しきれてはないけど、これはこれでよさそうだ。

薄いクリーム色のニットに、くすんだ青のスカート。

コートを羽織り、鞄に財布とスマホを入れる。

階下へ降りると、母が洗濯物を畳んでいた。

 

「今日は由佳ちゃんと映画だったよね」

 

「うん」

 

「夕ご飯は?」

 

「家で食べる。遅くなるようなら連絡する」

 

「分かった。——あら?そのピン、久しぶりじゃない?」

 

私は髪へ手をやった。

 

「右がはねるから」

 

「そうなの? そういうふうにしたのかと思った」

 

「直らなかった結果」

 

「似合ってるし、いいじゃない」

 

母はそれだけ言って、タオルを重ねた。

玄関の鏡でもう一度見る。

さっきより少し、これでよかった気がした。

 

「行ってきます」

 

「行ってらっしゃい」

 

————

 

映画館の前には、由佳の方が先に着いていた。

私を見つけると、スマホをしまって手を上げる。

 

「おはよう。あ、今日ピン付けてるんだ」

 

「おはよう。これ?」

 

髪のピンを指すと、由佳が頷いた。

 

「可愛い。そっちだけ留めるの、いいね」

 

「寝癖が直らなかった」

 

「言わなきゃ分かんないのに」

 

「お母さんにも、そういう髪型だと思われた」

 

「じゃあ、そういう髪型なんでしょ」

 

「……途中から」

 

「完成したならよし」

 

由佳が満足そうに頷いた。

 

映画館の入口の横には、これから見る映画の大きなポスターがあった。

由佳はその前で一度立ち止まり、出演者の顔を眺めた。

 

「楽しみ」

 

「うん」

 

「真琴、結末言わないでね」

 

「言わないよ」

 

「うっかり顔に出すのもなし」

 

「上映中に私の顔を見る方が間違ってる」

 

「確かに!」

 

由佳はすぐに前を向いた。

少しくらい、考えてから言ってほしい。

 

————

 

映画が終わって明るくなったとき、由佳はまだ画面を見ていた。

私は足元の鞄を持ち上げ、それから隣へ顔を向ける。

 

「どうしたの?」

 

「最初、もう一回見たい」

 

「今から?」

 

「気持ちの話」

 

そういうことか。

今回の映画は、原作からして終盤を知ると序盤の見え方がガラッと変わる。

その気持ちは理解できなくもない。

 

「真琴、知ってて黙ってたんだよね」

 

「言わないでって言ったの、由佳でしょ」

 

「そうなんだけどさあ」

 

「どうしてほしかったの」

 

「分かんない。とりあえず言いたかった」

 

何だそれ。

廊下へ出ると、由佳は大きく息を吐いた。

 

「最後、もうちょっと喋ってほしかったな」

 

「私はあそこで終わるの、いいと思ったけど」

 

「顔はよかった。すごく」

 

「うん」

 

途中までは、役者の表情を気にしながら見ていた。

でも、いつの間にか忘れていた。

演技に引き込まれて物語に夢中になっていた。

 

「勉強するつもりだったんだけど」

 

「私も。でも、面白かったからいいや」

 

「うん」

 

由佳が、今度はお腹のあたりへ手を当てた。

 

「お昼、何食べる?」

 

「さっき、お腹鳴ってたね」

 

「……聞こえた?」

 

「ちょうど静かになったから」

 

「忘れて」

 

「もう覚えた」

 

「……今日の映画の感想に入れないでよ」

 

「最後の方で、隣から切実な音がした」

 

「入ってるじゃん」

 

笑いながら、飲食店の並ぶ階へ向かった。

 

————

 

お店へ入ってから、由佳はメニューを開いたまま動かなくなった。

 

「決まった?」

 

「もうちょっと」

 

「さっきから同じところ見てない?」

 

「見てる。どっちもおいしそうで」

 

由佳が指さしたのは、トマトソースのパスタときのこのクリームパスタだった。

私もその二つで少し迷っていたし、ちょうどいいかもしれない。

そう考えて、メニューを手元へ引き寄せる。

 

「じゃあ、私こっちにするから、少し交換する?」

 

「クリーム?」

 

「うん」

 

「やった。じゃあトマトにする」

 

注文を済ませると、由佳はメニューを閉じた。

でも、机の端へ置く前に、裏を見た。

デザートまで頼むつもりなのか。

この前お金ないって言ってた気がするんだけど。

 

「まだ何か頼むの?」

 

「見てるだけ」

 

私ものぞくと、小さなプリンとチーズケーキが載っていた。

 

「……プリン、おいしそう」

 

「この前、お金ないって言ってなかった?」

 

「まだ食べるって言ってない」

 

二人でしばらく眺めてから、とりあえず料理が来るまで閉じておくことにした。

由佳がコップを持ち上げる。

 

「そういえば、昨日のワークショップでさ」

 

「うん」

 

「ノート出したら、英語のだった」

 

「……間違えたの?」

 

「そう……ノートフィルムの人にも笑われちゃってさぁ」

 

「なんで間違えたのさ……」

 

「同じ色だったんだもん」

 

 

 

それからしばらく話していたけど、料理が来ていったん止まった。

取り皿に少しずつ分けて、交換する。

クリームの方もおいしかったけれど、由佳からもらったトマトの方もよかった。

シェアすることにしたの正解だったかもしれない。

 

「こっちも当たりだね」

 

「ね。両方食べられてよかった」

 

由佳はそう言って、しばらく黙って食べていた。

私も、まだ温かいうちに自分の分へ戻る。

映画の話になったり、学校の話になったり、何も話さず食べたり。

由佳と出かけると、だいたいこんな感じになる。

 

「昨日は動画はできたの?」

 

半分くらい食べたところで聞くと、由佳が顔を上げた。

 

「もう少し。短くした方がいいって言われて、直してる」

 

「前のも残ってる?」

 

「残ってる。どっちか見てくれる?」

 

「うん。できたら送って」

 

「やった。じゃあ両方送るから真琴的にどっちがいいか教えてー」

 

「うん、了解」

 

それで話は終わった。

食べ終わる頃には、由佳の視線がまた机の端のメニューを見ていた。

由佳がこちらを見る。

……意図が分かるだけに断りづらいな。

 

「真琴」

 

「はぁ……半分にする?」

 

「うん!」

 

————

 

プリンは、写真で見たより少し小さかった。

それでも半分食べれば満足したし、カラメルもちょうどよかった。

店を出て歩いていると、由佳が言った。

 

「おいしかったね」

 

「うん」

 

「でも、プリン丸ごとでも食べられた気がする」

 

「お金ないから半分こにして欲しいって言ったのは誰ですか」

 

「言ってないね!真琴見ただけで察してくれたし!」

 

「屁理屈……」

 

「真琴は?」

 

「……甘い物は別腹なんだよ」

 

「真琴もそうじゃん」

 

仕方ないだろう。

時折過る記憶がどうであれ、私は甘いものが普通に好きだ。

食べ過ぎれば後で後悔するから自重しているだけで、食べたいものは食べたい。

 

少し歩いたところで、由佳が不意にこちらを見た。

 

「そういえば真琴って、ナンパされたりとかしないの?」

 

「……何、その急な質問」

 

「いや。今日とか一人で歩いてたら、普通に声かけられそうだなって」

 

「……道を聞かれたことならあるよ」

 

「それをナンパに数えたら世の中大変だよ」

 

「じゃあない」

 

由佳が少しだけ私の顔を見る。

 

「でもさあ。前に、向こうから声かけられたくらいだし」

 

一瞬だけ、何の話か分からなかった。

すぐに気づいて、声を少し落とす。

 

「……あれは、そういうので選ばれたわけじゃないでしょ」

 

「それは知ってるけど。でも、全然関係ないってこともないんじゃない?」

 

「知らないよ。私に聞かれても」

 

「本人なのに」

 

「向こうが何を見てたか全部知ってるわけじゃないし」

 

「まあそれはそうか」

 

由佳はあっさり頷いた。

 

「じゃあ単に、そういうところ一人で歩かないだけ?」

 

「多分。夜に繁華街みたいなところを一人でうろうろしたりしないし」

 

「でもさ、レッスンって東京まで行ってるんでしょ」

 

「うん」

 

「遅くなる日とかないの?」

 

さっきまでの調子より、少しだけ普通の声だった。

 

「あるけど、最近は遅くなったらお父さんが駅まで迎えに来てくれる」

 

「へえ」

 

「毎回じゃないよ。帰る時間見て、遅そうなら」

 

「そりゃそうか。可愛い娘に何かあったら大変だもんね」

 

「それ、関係ある?」

 

「関係あるでしょ。一人娘を持つ父親だったら。……多分。私も娘側だから想像だけど」

 

「……お父さんは多分、そういう意味で迎えに来てるんじゃないと思うけど」

 

「でも可能性はゼロではない、と」

 

由佳が笑った。

 

「そういう由佳はどうなの?由佳も可愛いでしょ」

 

「私?ないよ」

 

「ほら。そういうものなんだよ」

 

「それとこれとは別じゃない?」

 

「同じだと思うけど……」

 

由佳はまだ笑っていた。

私も少し笑って、そのまま歩く。

 

そんなことを考えていたら、目につくものがあって足が止まってしまった。

雑貨店の入口に、小さなポーチが並んでいた。

薄い灰色の布に、丸まって眠っている猫の刺繍。

耳と尻尾だけ、少し濃い色になっている。

 

「ちょっと見ていい?」

 

「うん」

 

由佳と一緒に棚へ近づいた。

手に取って裏返すと、小さな足跡が三つあった。

ファスナーを開ける。中には仕切りが一つついている。

今使っているものと、同じくらいの大きさだった。

 

「それ好きそう」

 

「うん。可愛い」

 

「その気怠い感じの緩さ?」

 

「そう。そこがいい」

 

隣には色違いもあった。

淡い黄色の布に、目を開けた白い猫。

二つ並べてみる。

 

「由佳ならどっち?」

 

「黄色かな。鞄の中で見つけやすそう」

 

「そっか」

 

「真琴は寝てる方でしょ」

 

「……うん」

 

分かっていたなら、聞かなくてもよかった気がする。

灰色の方をもう一度見る。

丸まった背中も、前足へ埋めた鼻先もいい。

 

「買ってくるね」

 

「うん。待ってるね」

 

会計を済ませて出てくると、由佳は近くの文房具の棚の前にいた。

手にしていたのは、表紙が真っ赤なノートだった。

 

「それ買うの?」

 

「これなら間違えないかなって」

 

「表紙になんのノートか書いておけばいいだけだと思うんだけど」

 

「それだと私は多分間違える」

 

「なんで?」

 

「英語のノートにちゃんと英語って書いてあったから」

 

「……ちゃんと見てから入れなよ」

 

「だから色自体を変えるんだよ」

 

結局、由佳もノートを一冊買った。

店の外で待っている間に、私は紙袋の中をもう一度のぞいた。

猫は、袋の底でも眠っていた。

会計を終えた由佳に見られて、顔を上げる。

 

「何?」

 

「いや、気に入ったんだなって」

 

「うん」

 

「さっきから顔、緩んでるよ」

 

「そっちこそ、プリン食べたそうな顔してた」

 

「まだ言うか?」

 

「先に刺してきたのはそっちだと思う」

 

言い返しながらも、由佳は笑っていた。

私も笑って、紙袋を鞄へしまった。

 

————

 

ゲームコーナーの前を通ったとき、賑やかな声が聞こえた。

 

「今のは車が悪い」

 

「選んだのお前じゃん」

 

「次は勝つ。もう一回」

 

私たちと同じくらいの年の男子が二人、並んだ運転席のところで笑っていた。

片方だけ、まだ終わる気がないらしい。

その様子を見た瞬間、古い場面が浮かんだ。

テレビの前の低い机。床に座った男の友達。

手の中で少し温かくなったコントローラー。

前の人生でも、私は似たようなことをした。

誰の家だったかは、すぐには出てこない。

何度も遊んだから、別の日が混ざっているのかもしれない。

でも、勝ったと思って先に喜んだ友達が、最後の最後で負けたことは覚えていた。

手を上げたまま止まった顔と、その横で息が苦しくなるほど笑ったこと。

そこだけは、妙にはっきりしている。

 

「真琴、やってく?」

 

「ううん。いい」

 

「見てたからやりたいのかなって思ったけど違ったか」

 

「うん。プリとか撮りたいなら付き合うけど」

 

「私がお金ないって分かってるよね?」

 

「知ってる。冗談だよ」

 

私は笑って、由佳の隣へ戻った。

前の記憶は、思い出そうとしていないときに、こんなふうに混ざることがある。

細かい順番は出てこないのに、その場にいたときの気分だけが戻ってくる。

ただ、その続きを考える前に、由佳が足を止めた。

 

「ねえ。やっぱりパンフレット買ってくる」

 

「本欲しいんじゃなかったの?」

 

「そっちは、また今度」

 

「この前から、ずっと今度になってるね」

 

「本は逃げないから……パンフレットは映画終わっちゃったら買えなくなるし……」

 

確かにそうか。

売店へ戻る由佳についていく。

私は猫を買ったので、今日はもう買わない。

 

「読んだら貸して」

 

「いいよ。月曜日持ってくる」

 

「忘れないでね」

 

「ノートと違って、こっちは覚えてる」

 

由佳は自信たっぷりにそう言った。

 

————

 

次に高橋さんと同じレッスンになったのは、その週の土曜日だった。

着替えを済ませて部屋へ入ると、彼女が台本から顔を上げる。

 

「あ、白瀬さん」

 

「おはよう」

 

「おはよう。今日、一緒なんだね」

 

彼女の隣へ荷物を置いた。

 

「この前話してたルミパレの三枝さんの動画、見たよ」

 

「どれ?」

 

「小日向ひよりさんが、目線を動かすタイミングを直してるやつ」

 

「あれか。ちょっとしか変えてないのに全然違ったでしょ」

 

「うん。続けて見たら分かった」

 

もう少し話そうとしたところで、先生に呼ばれた。

その日は、隣の椅子に置いた鞄をどけ、友達と話す場面で練習するらしい。

 

————

 

終わって片づけていると、高橋さんが私の台本を見た。

 

「それ、私も書いてある」

 

「メモのこと?」

 

「そう。私は『鞄を置く』ってだけだけど」

 

「あぁ……持ったまま話し始めて注意されてたもんね」

 

思い出して笑った。

彼女は真剣な顔で会話を続けていたけど、鞄だけがずっと膝の上に置かれていた。

 

「重くなかった?」

 

「終わってから気づいた。何か重いなって」

 

「ずっと持ってたそうだったもんね」

 

笑いながら荷物をしまう。

髪を留めていたピンを外そうとポーチを出すと、高橋さんの目がそちらへ動いた。

 

「それ、可愛い」

 

「これ?」

 

「猫。寝てる」

 

私はポーチをひっくり返した。

 

「裏にもあるよ」

 

「あ、足跡。いいね。どこで買ったの?」

 

少し嬉しくなった。

由佳はそこまで食いつかなかったけど分かる人には分かるものだ。

 

「日曜日に友達と映画に行ったあとで。ただ家、えぇと、埼玉の方だから……」

 

「そっかぁ。何の映画?」

 

題名を言うと、高橋さんはすぐに分かってくれたみたいだった。

 

「あれ見たんだ。私も行こうと思ってるんだけど」

 

「面白かったよ」

 

「あの女優さん、好きなんだよね。最初の日に話したドラマにも出てる人でさ」

 

私は少し考えた。

題名は覚えているけれど、顔までは結びついていなかった。

 

「同じ人だったんだ」

 

「多分だけど、雰囲気全然違うと思うよ。あっちはもっとよく喋るし」

 

高橋さんは鞄を肩へ掛け、それから時計を見た。

 

「白瀬さん、このあとすぐ帰る?」

 

「少しなら時間あるけど」

 

「駅のところで、お茶してかない? 私、お腹すいちゃった」

 

窓の外は、まだ明るかった。

今日は午後のレッスンだったのもあって、平日の放課後よりずっと余裕がある。

 

「うん。三十分くらいなら」

 

「よかった。甘いの食べたくて」

 

急に、とても分かりやすい話になった。

 

————

 

駅の近くの店で、高橋さんは小さなチョコレートのパンを選んだ。

私はカフェオレだけにした。

席について、コートを脱ぐ。

向かいの高橋さんは、肩の下まである暗い茶色の髪を耳へ掛けた。

レッスン中には後ろでまとめていたから、下ろしていると少し印象が違う。

 

「さっき言ってた映画、怖くなかった?」

 

「怖いというより、最後にびっくりする感じ」

 

「そっか。予告がちょっと怖そうだったから」

 

「あれは予告の方が怖いかもしれない」

 

高橋さんが、安心したようにパンの袋を開けた。

 

「怖いの、見てるときは平気なんだけど、あとから思い出すんだよね」

 

「夜とか?」

 

「そう。お風呂で髪洗ってるときとか」

 

「目、閉じないといけないもんね」

 

「そうなの。何でよりによって今って思う」

 

私はカップを持ち上げかけて、笑ってしまった。

 

 

 

「あの人、笑いながら怒るところが好きなんだよね」

 

「どんな感じ?」

 

「えっとね——」

 

何か言いかけて、彼女は止まった。

 

「駄目だ。私がやると違う」

 

「今、やろうとしてた?」

 

「ちょっとだけ」

 

「見たかったのに」

 

「見なくていいよ。ちゃんとドラマでプロの演技見て」

 

その返しが少し慌てていて、また笑った。

高橋さんが、スマートフォンで作品の紹介を出してくれた。

写真を見て、私はようやく頷く。

髪型も服も違うけれど、確かに映画で見た人だった。

 

「一話だけでも見てみて」

 

「一話でやめられる?」

 

「私は無理だった」

 

「勧め方がずるい」

 

「面白いんだって」

 

顔を上げると、高橋さんはもう笑っていた。

 

「私、最初の日も、この話ばっかりしてなかった?」

 

「してたね」

 

「帰ってから、喋りすぎたかなって思って」

 

「私は助かったよ。何を話せばいいか分からなかったから」

 

彼女が、少しほっとした顔になる。

 

「本当?」

 

「うん。何もしないで待ってたらもっと緊張してたと思う」

 

「私も緊張してたんだよね。知ってる話なら喋れるから」

 

「そうだったんだ」

 

「三枝さんが来た日なんて、帰りには肩痛かったもん」

 

「ずっと力入ってたの?」

 

「多分ね」

 

今度はカップを置いてから笑った。

初めて会ったときの高橋さんは、私と違って、なりたいものをまっすぐ言える人だった。

だから、ずいぶん遠いところにいるような気がしていた。

でも、そのとき彼女も、何を話そうか考えていたらしい。

 

「白瀬さんも、最初よりよく喋るよね」

 

「そうかな」

 

「うん。最初、すごく静かな人かと思った」

 

「静かではあると思うけど」

 

「でも、話すと結構面白い」

 

「そんなに面白いこと言ってないよ」

 

「今も、ちょっと笑ってる」

 

言われると、余計に口元が緩んだ。

彼女のスマートフォンには、まだ作品紹介の画面が出ていた。

 

「それ、あとで送ってもらってもいい?」

 

口にしてから気づいた。

高橋さんも一度こちらを見て、それから笑う。

 

「連絡先、知らなかったね」

 

「うん」

 

「交換しよ。動画も送れるし」

 

「私も映画の原作、送るね」

 

スマートフォンを取り出し、連絡先を追加した。

新しく開いた画面には、「彩花」と表示されている。

高橋彩花。

高橋さんのフルネームだ。

彼女が顔を上げる。

 

「ねえ、真琴って呼んでいい? 私のことも彩花でいいから」

 

「うん。じゃあ、彩花で」

 

「うん」

 

彩花はもうスマートフォンへ目を戻して、先ほどの作品を探していた。

 

「これがさっきのドラマで、あと動画は……」

 

通知が来る。

目の前にいる相手から送られてきたものなのに、つい開いてしまった。

 

「届いた?」

 

「届いた」

 

「こっちも見やすいと思う。あ、でも先にこっちの方が――」

 

「彩花?」

 

「ん?」

 

「一度にたくさん送られても、全部は見られないよ」

 

彼女の指が止まった。

 

「……三本」

 

「最初に言ってたの二本だったよね」

 

「短いのもあるから」

 

「じゃあ短いのから見る」

 

彩花が笑った。

私も、送る本の題名を確かめてからメッセージを返した。

呼び方を変えたあとも、話していることはさっきと同じだった。

そのことに、少しだけ安心した。

 

————

 

店を出るとき、彩花が時刻を確かめた。

 

「今なら一本早いの、乗れるかも」

 

「何分?」

 

「あと三分」

 

「走らないと無理じゃない?」

 

「……次にする」

 

急に諦めたのがおかしくて笑ってしまった。

そのとき、口元へ手をやった。

彩花も笑いながら言う。

 

「真琴、その笑い方するよね」

 

「どれ?」

 

「今の。手、そこ」

 

「ああ……」

 

自分の手を見る。

確かに、よくする。

人の話を聞いて、思わず吹き出した時とかに。

でも、いつからだろう。

母も、似たようなことをする。

学校の友達にもいる。

小さい時に、誰かの真似から始めたものだった気がするけど……今は全く意識してない。

真似なのか、演技なのか、自分の仕草なのか、もう分からなかった。

 

改札を通ると、乗る電車の方向が分かれた。

 

「じゃあまたね、真琴」

 

「うん。またね、彩花」

 

彩花が手を振る。

私も振り返してから、自分の乗る方へ向かった。

次のレッスンが一緒かどうかは、まだ分からない。

でも、さっきのドラマを見たら、その話はできる。

次に偶然会うまで、覚えておく必要もなくなった。

 

————

 

電車の中で、届いたメッセージをもう一度開いた。

作品の紹介。

三枝さんの動画。

最後に、手を振っている動物のスタンプ。

それを見て、少し口元が緩んだ。

さっき言われた笑い方のことを、もう一度考える。

 

自分の振る舞いを気にし始めたのは、学校で嫌なことを言われるようになるより、ずっと前だった。

小さい頃は、周りの子をよく見ていた。

大人にどう返事をするか。どう笑うか。何を知っていて、何を知らないものなのか。

前の人生の記憶があっても、その年齢の自分がどうすればいいのかは分からなかった。

だから、見て、試した。

うまくいった言い方を使う。

変に思われなかった振る舞いを、次にも使う。

 

そのうち、考える前に出るようになったものがたくさんある。

小学校の高学年から中学にかけて、気にすることは増えた。

どう返事をするかだけでなく、誰にどこまで近づくか。

何を見せずにおくか。

そうやって覚えたものも、今は、いちいち選んで使っているわけではない。

 

何が最初から自分にあって、何が誰かの真似から始まったのか。

今さら分けようとしても、上手くいかない。

でも、今日彩花と話して笑ったのは、自然に出てきたことだ。

日曜日に由佳とプリンを分けたことも。

あの猫を、どうしても連れて帰りたくなったことも。

笑い方の始まりを覚えていなくても、そのとき面白かったことまで曖昧になるわけではなかった。

男だった頃の記憶が、ふと余計な感覚を持ち込むことはある。

 

だからといって、髪を留めて出かける朝に、特に難しいことを考えていたわけではない。

名前で呼び合える相手が増えて嬉しいのも、今の私だった。

 

鞄からポーチを取り出した。

 

小さな鏡で髪を確かめる。

ピンを外した右側の毛先が、また少し外を向いていた。

指で軽く整えて、そのままにする。

猫のファスナーは、引っかからずに閉まった。

記憶の中の私が今の私を見たら、どういう風に思うのだろうか。

ふと、そう思ってしまった。

 

————

 

家に着くと、台所から母の声がした。

 

「おかえり。今日は少し遅かったわね」

 

「うん。レッスンのあと、ちょっとお茶してきた」

 

「由佳ちゃんと?」

 

「ううん。同じレッスンの子」

 

「そう。楽しかった?」

 

「うん」

 

それだけ答えて、部屋へ荷物を置きに行った。

着替えて戻ると、父がソファの上で何かを探していた。

上着のポケットを一つずつ確かめている。

 

「何探してるの?」

 

「さっきまで持ってたレシート」

 

「財布に入れたんじゃないの?」

 

「あとでまとめて片づけようと思って持ってたはずなんだがな……」

 

「あと回しにするから忘れるんだよ……」

 

父が、こちらを見た。

 

「お母さんと同じことを言うな」

 

台所で母が笑った。

私も笑ってから、ソファの下を覗く。

普通にそこに落ちていたから拾って渡すと、父は今度はその場で財布へしまった。

今の言い方が母に似ていたことくらいは、自分でも分かった。

ずっと聞いてきたからだと思う。

覚えようとしたことがあるかどうかは、知らない。

でも、父をからかったのは、私だった。

鞄の中でスマートフォンが震えた。

彩花からだった。

 

『真琴、原作って読むの時間かかる?』

 

私が勧めた映画の原作のことを考えた。

長い本ではないけど、どのくらいかかるかは、人によるかな。

 

『映画に先に行くなら、あとで読んでもいいと思う』

 

『じゃあそうする。見たら話そう』

 

返事を送りかけたところで、もう一件届く。

 

『あと、あの猫のお店どこ?』

 

少し笑って、店の名前を送った。

少しして『ごめん!無理!』って返事が来た。

埼玉だって言ってただろうに。

私も知ってたって感じのスタンプを返してそこで会話は終わった。

由佳からもメッセージが来ていた。

 

『動画できた。今送っていい?』

 

『うん』

 

『二つ送るね』

 

由佳から送られてきた動画を見始めていると、母が近づいてきていた。

 

「真琴、お茶いる?」

 

「いる。ありがとう」

 

鞄を床へ下ろすと、母が空いたところへ座った。

私は湯飲みを受け取り、スマートフォンを膝へ置く。

届いたものは、あとで順番に見ればいい。

 

「何か面白いことあったの?」

 

「由佳。作った映像見て欲しいって」

 

「そう。由佳ちゃんも相変わらずね」

 

母は小さく笑って、自分のお茶を飲んだ。

もう一度、画面を見る。

彩花からは、動物がお辞儀をしているスタンプが。

由佳からは、動画とは別に赤いノートの写真も届いていた。

表紙の隅に、小さな文字が増えている。

 

『英語ではない』

 

私は声を出して笑った。

 

『結局書いたんだ』

 

『真琴がうるさいから』

 

『間違えたのは由佳でしょ』

 

『でもこれで大丈夫』

 

『私、それ英語と勘違いして持っていく可能性あると思ったけど。目につく文字が英語だもん』

 

返事を送ると、すぐにショックを受けている動物のスタンプが返ってきた。

私もスタンプを送り返して、スマートフォンを伏せた。

今度由佳に会ったら、あのノートを見せてもらおう。

たぶん、昼休みにはまた、どうでもいい話になる。

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