TS少女は演じたい 作:息抜き
日曜日の朝、髪の右側だけが何故か外へはねていた。
寝ぐせになるような寝方はしてなかったと思うのだが……
霧吹きで少し濡らして、ブラシを通す。
乾かす。戻る。
「……なんで?」
鏡の中の私も、同じ顔をしていた。
柔らかな暗い茶髪は、一番長い毛先が鎖骨に触れるくらい。
顔まわりから軽く段を入れているから、少し内へ入ったり、外へ向いたりする。
その感じは気に入っている。
ただ、今日の右側は少し、だいぶ自由すぎる。
もう一度ブラシを当ててから、時計を見る。
いつまでも髪と格闘しているわけにはいかない。
小さく溜息を吐いてから右の髪を耳へ掛け、小さな金色のピンで留めた。
細い枝に葉が二枚ついたような形の、気に入っているものだ。
ついでに、眉が少し覗く前髪を指で整える。
少し横を向いて確かめた。
うん。
直しきれてはないけど、これはこれでよさそうだ。
薄いクリーム色のニットに、くすんだ青のスカート。
コートを羽織り、鞄に財布とスマホを入れる。
階下へ降りると、母が洗濯物を畳んでいた。
「今日は由佳ちゃんと映画だったよね」
「うん」
「夕ご飯は?」
「家で食べる。遅くなるようなら連絡する」
「分かった。——あら?そのピン、久しぶりじゃない?」
私は髪へ手をやった。
「右がはねるから」
「そうなの? そういうふうにしたのかと思った」
「直らなかった結果」
「似合ってるし、いいじゃない」
母はそれだけ言って、タオルを重ねた。
玄関の鏡でもう一度見る。
さっきより少し、これでよかった気がした。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
————
映画館の前には、由佳の方が先に着いていた。
私を見つけると、スマホをしまって手を上げる。
「おはよう。あ、今日ピン付けてるんだ」
「おはよう。これ?」
髪のピンを指すと、由佳が頷いた。
「可愛い。そっちだけ留めるの、いいね」
「寝癖が直らなかった」
「言わなきゃ分かんないのに」
「お母さんにも、そういう髪型だと思われた」
「じゃあ、そういう髪型なんでしょ」
「……途中から」
「完成したならよし」
由佳が満足そうに頷いた。
映画館の入口の横には、これから見る映画の大きなポスターがあった。
由佳はその前で一度立ち止まり、出演者の顔を眺めた。
「楽しみ」
「うん」
「真琴、結末言わないでね」
「言わないよ」
「うっかり顔に出すのもなし」
「上映中に私の顔を見る方が間違ってる」
「確かに!」
由佳はすぐに前を向いた。
少しくらい、考えてから言ってほしい。
————
映画が終わって明るくなったとき、由佳はまだ画面を見ていた。
私は足元の鞄を持ち上げ、それから隣へ顔を向ける。
「どうしたの?」
「最初、もう一回見たい」
「今から?」
「気持ちの話」
そういうことか。
今回の映画は、原作からして終盤を知ると序盤の見え方がガラッと変わる。
その気持ちは理解できなくもない。
「真琴、知ってて黙ってたんだよね」
「言わないでって言ったの、由佳でしょ」
「そうなんだけどさあ」
「どうしてほしかったの」
「分かんない。とりあえず言いたかった」
何だそれ。
廊下へ出ると、由佳は大きく息を吐いた。
「最後、もうちょっと喋ってほしかったな」
「私はあそこで終わるの、いいと思ったけど」
「顔はよかった。すごく」
「うん」
途中までは、役者の表情を気にしながら見ていた。
でも、いつの間にか忘れていた。
演技に引き込まれて物語に夢中になっていた。
「勉強するつもりだったんだけど」
「私も。でも、面白かったからいいや」
「うん」
由佳が、今度はお腹のあたりへ手を当てた。
「お昼、何食べる?」
「さっき、お腹鳴ってたね」
「……聞こえた?」
「ちょうど静かになったから」
「忘れて」
「もう覚えた」
「……今日の映画の感想に入れないでよ」
「最後の方で、隣から切実な音がした」
「入ってるじゃん」
笑いながら、飲食店の並ぶ階へ向かった。
————
お店へ入ってから、由佳はメニューを開いたまま動かなくなった。
「決まった?」
「もうちょっと」
「さっきから同じところ見てない?」
「見てる。どっちもおいしそうで」
由佳が指さしたのは、トマトソースのパスタときのこのクリームパスタだった。
私もその二つで少し迷っていたし、ちょうどいいかもしれない。
そう考えて、メニューを手元へ引き寄せる。
「じゃあ、私こっちにするから、少し交換する?」
「クリーム?」
「うん」
「やった。じゃあトマトにする」
注文を済ませると、由佳はメニューを閉じた。
でも、机の端へ置く前に、裏を見た。
デザートまで頼むつもりなのか。
この前お金ないって言ってた気がするんだけど。
「まだ何か頼むの?」
「見てるだけ」
私ものぞくと、小さなプリンとチーズケーキが載っていた。
「……プリン、おいしそう」
「この前、お金ないって言ってなかった?」
「まだ食べるって言ってない」
二人でしばらく眺めてから、とりあえず料理が来るまで閉じておくことにした。
由佳がコップを持ち上げる。
「そういえば、昨日のワークショップでさ」
「うん」
「ノート出したら、英語のだった」
「……間違えたの?」
「そう……ノートフィルムの人にも笑われちゃってさぁ」
「なんで間違えたのさ……」
「同じ色だったんだもん」
それからしばらく話していたけど、料理が来ていったん止まった。
取り皿に少しずつ分けて、交換する。
クリームの方もおいしかったけれど、由佳からもらったトマトの方もよかった。
シェアすることにしたの正解だったかもしれない。
「こっちも当たりだね」
「ね。両方食べられてよかった」
由佳はそう言って、しばらく黙って食べていた。
私も、まだ温かいうちに自分の分へ戻る。
映画の話になったり、学校の話になったり、何も話さず食べたり。
由佳と出かけると、だいたいこんな感じになる。
「昨日は動画はできたの?」
半分くらい食べたところで聞くと、由佳が顔を上げた。
「もう少し。短くした方がいいって言われて、直してる」
「前のも残ってる?」
「残ってる。どっちか見てくれる?」
「うん。できたら送って」
「やった。じゃあ両方送るから真琴的にどっちがいいか教えてー」
「うん、了解」
それで話は終わった。
食べ終わる頃には、由佳の視線がまた机の端のメニューを見ていた。
由佳がこちらを見る。
……意図が分かるだけに断りづらいな。
「真琴」
「はぁ……半分にする?」
「うん!」
————
プリンは、写真で見たより少し小さかった。
それでも半分食べれば満足したし、カラメルもちょうどよかった。
店を出て歩いていると、由佳が言った。
「おいしかったね」
「うん」
「でも、プリン丸ごとでも食べられた気がする」
「お金ないから半分こにして欲しいって言ったのは誰ですか」
「言ってないね!真琴見ただけで察してくれたし!」
「屁理屈……」
「真琴は?」
「……甘い物は別腹なんだよ」
「真琴もそうじゃん」
仕方ないだろう。
時折過る記憶がどうであれ、私は甘いものが普通に好きだ。
食べ過ぎれば後で後悔するから自重しているだけで、食べたいものは食べたい。
少し歩いたところで、由佳が不意にこちらを見た。
「そういえば真琴って、ナンパされたりとかしないの?」
「……何、その急な質問」
「いや。今日とか一人で歩いてたら、普通に声かけられそうだなって」
「……道を聞かれたことならあるよ」
「それをナンパに数えたら世の中大変だよ」
「じゃあない」
由佳が少しだけ私の顔を見る。
「でもさあ。前に、向こうから声かけられたくらいだし」
一瞬だけ、何の話か分からなかった。
すぐに気づいて、声を少し落とす。
「……あれは、そういうので選ばれたわけじゃないでしょ」
「それは知ってるけど。でも、全然関係ないってこともないんじゃない?」
「知らないよ。私に聞かれても」
「本人なのに」
「向こうが何を見てたか全部知ってるわけじゃないし」
「まあそれはそうか」
由佳はあっさり頷いた。
「じゃあ単に、そういうところ一人で歩かないだけ?」
「多分。夜に繁華街みたいなところを一人でうろうろしたりしないし」
「でもさ、レッスンって東京まで行ってるんでしょ」
「うん」
「遅くなる日とかないの?」
さっきまでの調子より、少しだけ普通の声だった。
「あるけど、最近は遅くなったらお父さんが駅まで迎えに来てくれる」
「へえ」
「毎回じゃないよ。帰る時間見て、遅そうなら」
「そりゃそうか。可愛い娘に何かあったら大変だもんね」
「それ、関係ある?」
「関係あるでしょ。一人娘を持つ父親だったら。……多分。私も娘側だから想像だけど」
「……お父さんは多分、そういう意味で迎えに来てるんじゃないと思うけど」
「でも可能性はゼロではない、と」
由佳が笑った。
「そういう由佳はどうなの?由佳も可愛いでしょ」
「私?ないよ」
「ほら。そういうものなんだよ」
「それとこれとは別じゃない?」
「同じだと思うけど……」
由佳はまだ笑っていた。
私も少し笑って、そのまま歩く。
そんなことを考えていたら、目につくものがあって足が止まってしまった。
雑貨店の入口に、小さなポーチが並んでいた。
薄い灰色の布に、丸まって眠っている猫の刺繍。
耳と尻尾だけ、少し濃い色になっている。
「ちょっと見ていい?」
「うん」
由佳と一緒に棚へ近づいた。
手に取って裏返すと、小さな足跡が三つあった。
ファスナーを開ける。中には仕切りが一つついている。
今使っているものと、同じくらいの大きさだった。
「それ好きそう」
「うん。可愛い」
「その気怠い感じの緩さ?」
「そう。そこがいい」
隣には色違いもあった。
淡い黄色の布に、目を開けた白い猫。
二つ並べてみる。
「由佳ならどっち?」
「黄色かな。鞄の中で見つけやすそう」
「そっか」
「真琴は寝てる方でしょ」
「……うん」
分かっていたなら、聞かなくてもよかった気がする。
灰色の方をもう一度見る。
丸まった背中も、前足へ埋めた鼻先もいい。
「買ってくるね」
「うん。待ってるね」
会計を済ませて出てくると、由佳は近くの文房具の棚の前にいた。
手にしていたのは、表紙が真っ赤なノートだった。
「それ買うの?」
「これなら間違えないかなって」
「表紙になんのノートか書いておけばいいだけだと思うんだけど」
「それだと私は多分間違える」
「なんで?」
「英語のノートにちゃんと英語って書いてあったから」
「……ちゃんと見てから入れなよ」
「だから色自体を変えるんだよ」
結局、由佳もノートを一冊買った。
店の外で待っている間に、私は紙袋の中をもう一度のぞいた。
猫は、袋の底でも眠っていた。
会計を終えた由佳に見られて、顔を上げる。
「何?」
「いや、気に入ったんだなって」
「うん」
「さっきから顔、緩んでるよ」
「そっちこそ、プリン食べたそうな顔してた」
「まだ言うか?」
「先に刺してきたのはそっちだと思う」
言い返しながらも、由佳は笑っていた。
私も笑って、紙袋を鞄へしまった。
————
ゲームコーナーの前を通ったとき、賑やかな声が聞こえた。
「今のは車が悪い」
「選んだのお前じゃん」
「次は勝つ。もう一回」
私たちと同じくらいの年の男子が二人、並んだ運転席のところで笑っていた。
片方だけ、まだ終わる気がないらしい。
その様子を見た瞬間、古い場面が浮かんだ。
テレビの前の低い机。床に座った男の友達。
手の中で少し温かくなったコントローラー。
前の人生でも、私は似たようなことをした。
誰の家だったかは、すぐには出てこない。
何度も遊んだから、別の日が混ざっているのかもしれない。
でも、勝ったと思って先に喜んだ友達が、最後の最後で負けたことは覚えていた。
手を上げたまま止まった顔と、その横で息が苦しくなるほど笑ったこと。
そこだけは、妙にはっきりしている。
「真琴、やってく?」
「ううん。いい」
「見てたからやりたいのかなって思ったけど違ったか」
「うん。プリとか撮りたいなら付き合うけど」
「私がお金ないって分かってるよね?」
「知ってる。冗談だよ」
私は笑って、由佳の隣へ戻った。
前の記憶は、思い出そうとしていないときに、こんなふうに混ざることがある。
細かい順番は出てこないのに、その場にいたときの気分だけが戻ってくる。
ただ、その続きを考える前に、由佳が足を止めた。
「ねえ。やっぱりパンフレット買ってくる」
「本欲しいんじゃなかったの?」
「そっちは、また今度」
「この前から、ずっと今度になってるね」
「本は逃げないから……パンフレットは映画終わっちゃったら買えなくなるし……」
確かにそうか。
売店へ戻る由佳についていく。
私は猫を買ったので、今日はもう買わない。
「読んだら貸して」
「いいよ。月曜日持ってくる」
「忘れないでね」
「ノートと違って、こっちは覚えてる」
由佳は自信たっぷりにそう言った。
————
次に高橋さんと同じレッスンになったのは、その週の土曜日だった。
着替えを済ませて部屋へ入ると、彼女が台本から顔を上げる。
「あ、白瀬さん」
「おはよう」
「おはよう。今日、一緒なんだね」
彼女の隣へ荷物を置いた。
「この前話してたルミパレの三枝さんの動画、見たよ」
「どれ?」
「小日向ひよりさんが、目線を動かすタイミングを直してるやつ」
「あれか。ちょっとしか変えてないのに全然違ったでしょ」
「うん。続けて見たら分かった」
もう少し話そうとしたところで、先生に呼ばれた。
その日は、隣の椅子に置いた鞄をどけ、友達と話す場面で練習するらしい。
————
終わって片づけていると、高橋さんが私の台本を見た。
「それ、私も書いてある」
「メモのこと?」
「そう。私は『鞄を置く』ってだけだけど」
「あぁ……持ったまま話し始めて注意されてたもんね」
思い出して笑った。
彼女は真剣な顔で会話を続けていたけど、鞄だけがずっと膝の上に置かれていた。
「重くなかった?」
「終わってから気づいた。何か重いなって」
「ずっと持ってたそうだったもんね」
笑いながら荷物をしまう。
髪を留めていたピンを外そうとポーチを出すと、高橋さんの目がそちらへ動いた。
「それ、可愛い」
「これ?」
「猫。寝てる」
私はポーチをひっくり返した。
「裏にもあるよ」
「あ、足跡。いいね。どこで買ったの?」
少し嬉しくなった。
由佳はそこまで食いつかなかったけど分かる人には分かるものだ。
「日曜日に友達と映画に行ったあとで。ただ家、えぇと、埼玉の方だから……」
「そっかぁ。何の映画?」
題名を言うと、高橋さんはすぐに分かってくれたみたいだった。
「あれ見たんだ。私も行こうと思ってるんだけど」
「面白かったよ」
「あの女優さん、好きなんだよね。最初の日に話したドラマにも出てる人でさ」
私は少し考えた。
題名は覚えているけれど、顔までは結びついていなかった。
「同じ人だったんだ」
「多分だけど、雰囲気全然違うと思うよ。あっちはもっとよく喋るし」
高橋さんは鞄を肩へ掛け、それから時計を見た。
「白瀬さん、このあとすぐ帰る?」
「少しなら時間あるけど」
「駅のところで、お茶してかない? 私、お腹すいちゃった」
窓の外は、まだ明るかった。
今日は午後のレッスンだったのもあって、平日の放課後よりずっと余裕がある。
「うん。三十分くらいなら」
「よかった。甘いの食べたくて」
急に、とても分かりやすい話になった。
————
駅の近くの店で、高橋さんは小さなチョコレートのパンを選んだ。
私はカフェオレだけにした。
席について、コートを脱ぐ。
向かいの高橋さんは、肩の下まである暗い茶色の髪を耳へ掛けた。
レッスン中には後ろでまとめていたから、下ろしていると少し印象が違う。
「さっき言ってた映画、怖くなかった?」
「怖いというより、最後にびっくりする感じ」
「そっか。予告がちょっと怖そうだったから」
「あれは予告の方が怖いかもしれない」
高橋さんが、安心したようにパンの袋を開けた。
「怖いの、見てるときは平気なんだけど、あとから思い出すんだよね」
「夜とか?」
「そう。お風呂で髪洗ってるときとか」
「目、閉じないといけないもんね」
「そうなの。何でよりによって今って思う」
私はカップを持ち上げかけて、笑ってしまった。
「あの人、笑いながら怒るところが好きなんだよね」
「どんな感じ?」
「えっとね——」
何か言いかけて、彼女は止まった。
「駄目だ。私がやると違う」
「今、やろうとしてた?」
「ちょっとだけ」
「見たかったのに」
「見なくていいよ。ちゃんとドラマでプロの演技見て」
その返しが少し慌てていて、また笑った。
高橋さんが、スマートフォンで作品の紹介を出してくれた。
写真を見て、私はようやく頷く。
髪型も服も違うけれど、確かに映画で見た人だった。
「一話だけでも見てみて」
「一話でやめられる?」
「私は無理だった」
「勧め方がずるい」
「面白いんだって」
顔を上げると、高橋さんはもう笑っていた。
「私、最初の日も、この話ばっかりしてなかった?」
「してたね」
「帰ってから、喋りすぎたかなって思って」
「私は助かったよ。何を話せばいいか分からなかったから」
彼女が、少しほっとした顔になる。
「本当?」
「うん。何もしないで待ってたらもっと緊張してたと思う」
「私も緊張してたんだよね。知ってる話なら喋れるから」
「そうだったんだ」
「三枝さんが来た日なんて、帰りには肩痛かったもん」
「ずっと力入ってたの?」
「多分ね」
今度はカップを置いてから笑った。
初めて会ったときの高橋さんは、私と違って、なりたいものをまっすぐ言える人だった。
だから、ずいぶん遠いところにいるような気がしていた。
でも、そのとき彼女も、何を話そうか考えていたらしい。
「白瀬さんも、最初よりよく喋るよね」
「そうかな」
「うん。最初、すごく静かな人かと思った」
「静かではあると思うけど」
「でも、話すと結構面白い」
「そんなに面白いこと言ってないよ」
「今も、ちょっと笑ってる」
言われると、余計に口元が緩んだ。
彼女のスマートフォンには、まだ作品紹介の画面が出ていた。
「それ、あとで送ってもらってもいい?」
口にしてから気づいた。
高橋さんも一度こちらを見て、それから笑う。
「連絡先、知らなかったね」
「うん」
「交換しよ。動画も送れるし」
「私も映画の原作、送るね」
スマートフォンを取り出し、連絡先を追加した。
新しく開いた画面には、「彩花」と表示されている。
高橋彩花。
高橋さんのフルネームだ。
彼女が顔を上げる。
「ねえ、真琴って呼んでいい? 私のことも彩花でいいから」
「うん。じゃあ、彩花で」
「うん」
彩花はもうスマートフォンへ目を戻して、先ほどの作品を探していた。
「これがさっきのドラマで、あと動画は……」
通知が来る。
目の前にいる相手から送られてきたものなのに、つい開いてしまった。
「届いた?」
「届いた」
「こっちも見やすいと思う。あ、でも先にこっちの方が――」
「彩花?」
「ん?」
「一度にたくさん送られても、全部は見られないよ」
彼女の指が止まった。
「……三本」
「最初に言ってたの二本だったよね」
「短いのもあるから」
「じゃあ短いのから見る」
彩花が笑った。
私も、送る本の題名を確かめてからメッセージを返した。
呼び方を変えたあとも、話していることはさっきと同じだった。
そのことに、少しだけ安心した。
————
店を出るとき、彩花が時刻を確かめた。
「今なら一本早いの、乗れるかも」
「何分?」
「あと三分」
「走らないと無理じゃない?」
「……次にする」
急に諦めたのがおかしくて笑ってしまった。
そのとき、口元へ手をやった。
彩花も笑いながら言う。
「真琴、その笑い方するよね」
「どれ?」
「今の。手、そこ」
「ああ……」
自分の手を見る。
確かに、よくする。
人の話を聞いて、思わず吹き出した時とかに。
でも、いつからだろう。
母も、似たようなことをする。
学校の友達にもいる。
小さい時に、誰かの真似から始めたものだった気がするけど……今は全く意識してない。
真似なのか、演技なのか、自分の仕草なのか、もう分からなかった。
改札を通ると、乗る電車の方向が分かれた。
「じゃあまたね、真琴」
「うん。またね、彩花」
彩花が手を振る。
私も振り返してから、自分の乗る方へ向かった。
次のレッスンが一緒かどうかは、まだ分からない。
でも、さっきのドラマを見たら、その話はできる。
次に偶然会うまで、覚えておく必要もなくなった。
————
電車の中で、届いたメッセージをもう一度開いた。
作品の紹介。
三枝さんの動画。
最後に、手を振っている動物のスタンプ。
それを見て、少し口元が緩んだ。
さっき言われた笑い方のことを、もう一度考える。
自分の振る舞いを気にし始めたのは、学校で嫌なことを言われるようになるより、ずっと前だった。
小さい頃は、周りの子をよく見ていた。
大人にどう返事をするか。どう笑うか。何を知っていて、何を知らないものなのか。
前の人生の記憶があっても、その年齢の自分がどうすればいいのかは分からなかった。
だから、見て、試した。
うまくいった言い方を使う。
変に思われなかった振る舞いを、次にも使う。
そのうち、考える前に出るようになったものがたくさんある。
小学校の高学年から中学にかけて、気にすることは増えた。
どう返事をするかだけでなく、誰にどこまで近づくか。
何を見せずにおくか。
そうやって覚えたものも、今は、いちいち選んで使っているわけではない。
何が最初から自分にあって、何が誰かの真似から始まったのか。
今さら分けようとしても、上手くいかない。
でも、今日彩花と話して笑ったのは、自然に出てきたことだ。
日曜日に由佳とプリンを分けたことも。
あの猫を、どうしても連れて帰りたくなったことも。
笑い方の始まりを覚えていなくても、そのとき面白かったことまで曖昧になるわけではなかった。
男だった頃の記憶が、ふと余計な感覚を持ち込むことはある。
だからといって、髪を留めて出かける朝に、特に難しいことを考えていたわけではない。
名前で呼び合える相手が増えて嬉しいのも、今の私だった。
鞄からポーチを取り出した。
小さな鏡で髪を確かめる。
ピンを外した右側の毛先が、また少し外を向いていた。
指で軽く整えて、そのままにする。
猫のファスナーは、引っかからずに閉まった。
記憶の中の私が今の私を見たら、どういう風に思うのだろうか。
ふと、そう思ってしまった。
————
家に着くと、台所から母の声がした。
「おかえり。今日は少し遅かったわね」
「うん。レッスンのあと、ちょっとお茶してきた」
「由佳ちゃんと?」
「ううん。同じレッスンの子」
「そう。楽しかった?」
「うん」
それだけ答えて、部屋へ荷物を置きに行った。
着替えて戻ると、父がソファの上で何かを探していた。
上着のポケットを一つずつ確かめている。
「何探してるの?」
「さっきまで持ってたレシート」
「財布に入れたんじゃないの?」
「あとでまとめて片づけようと思って持ってたはずなんだがな……」
「あと回しにするから忘れるんだよ……」
父が、こちらを見た。
「お母さんと同じことを言うな」
台所で母が笑った。
私も笑ってから、ソファの下を覗く。
普通にそこに落ちていたから拾って渡すと、父は今度はその場で財布へしまった。
今の言い方が母に似ていたことくらいは、自分でも分かった。
ずっと聞いてきたからだと思う。
覚えようとしたことがあるかどうかは、知らない。
でも、父をからかったのは、私だった。
鞄の中でスマートフォンが震えた。
彩花からだった。
『真琴、原作って読むの時間かかる?』
私が勧めた映画の原作のことを考えた。
長い本ではないけど、どのくらいかかるかは、人によるかな。
『映画に先に行くなら、あとで読んでもいいと思う』
『じゃあそうする。見たら話そう』
返事を送りかけたところで、もう一件届く。
『あと、あの猫のお店どこ?』
少し笑って、店の名前を送った。
少しして『ごめん!無理!』って返事が来た。
埼玉だって言ってただろうに。
私も知ってたって感じのスタンプを返してそこで会話は終わった。
由佳からもメッセージが来ていた。
『動画できた。今送っていい?』
『うん』
『二つ送るね』
由佳から送られてきた動画を見始めていると、母が近づいてきていた。
「真琴、お茶いる?」
「いる。ありがとう」
鞄を床へ下ろすと、母が空いたところへ座った。
私は湯飲みを受け取り、スマートフォンを膝へ置く。
届いたものは、あとで順番に見ればいい。
「何か面白いことあったの?」
「由佳。作った映像見て欲しいって」
「そう。由佳ちゃんも相変わらずね」
母は小さく笑って、自分のお茶を飲んだ。
もう一度、画面を見る。
彩花からは、動物がお辞儀をしているスタンプが。
由佳からは、動画とは別に赤いノートの写真も届いていた。
表紙の隅に、小さな文字が増えている。
『英語ではない』
私は声を出して笑った。
『結局書いたんだ』
『真琴がうるさいから』
『間違えたのは由佳でしょ』
『でもこれで大丈夫』
『私、それ英語と勘違いして持っていく可能性あると思ったけど。目につく文字が英語だもん』
返事を送ると、すぐにショックを受けている動物のスタンプが返ってきた。
私もスタンプを送り返して、スマートフォンを伏せた。
今度由佳に会ったら、あのノートを見せてもらおう。
たぶん、昼休みにはまた、どうでもいい話になる。