TS少女は演じたい 作:息抜き
早川さんの後に続いて、関係者用の入口をくぐった。
中に入ると、真夏の暑さから切り替わるように涼しくなった。
通路の端には、金具のついた大きなケースが並んでいる。
向こうから来たスタッフさんが足を止め、私たちへ挨拶をしてくれた。
五人に続いて頭を下げる。
その人は手に持っていた無線機へ何かを話し、それから別の通路へ曲がっていった。
六月にも、こういうところを歩いた。
客席へ入るためではない入口。
何が入っているのか分からないケース。
どこかから聞こえる、短い確認の声。
あの時は、案内された場所から先へ行っていいのか、一つずつ確かめていた。
今日は前を歩く美月が振り返り、少し先の扉を指した。
「ここみたい」
扉に、白い紙が貼られていた。
大きく印刷された、Lumière Paletteの文字。
その下に名前が並んでいる。
神谷玲奈
小日向ひより
雨宮澪
橘美月
桜庭夏希
白瀬真琴
そこで、足が少し止まった。
「真琴?」
美月が、扉を開けかけたままこちらを見た。
「……私の名前もあるんだと思って」
言ってから、何を当たり前のことを、と思った。
美月も紙を見て、それから私を見る。
「当然!もうメンバーなんだから!」
「うん。そうなんだけど」
「前と違って今回は、ちゃんと真琴の楽屋でもあるからね~。もちろん荷物置く場所もあるよ」
「そこまでは心配してない」
美月が笑い、扉を開けた。
私はもう一度だけ自分の名前を見てから、その後へ続いた。
楽屋は、思っていたより物が多かった。
壁際に鏡と椅子が並んでいる。
鏡の前には、まだ開いていないメイク道具のケースも見える。
少し離れたところには衣装のラックがあり、透明なカバーの向こうから、見慣れた色が覗いていた。
テーブルには水やお茶のペットボトル、紙コップ、ティッシュ。
端にはタオルが重ねられ、壁には今日の進行表が貼ってある。
夏希は早速荷物を置いて靴の入った袋を取り出していた。
玲奈さんは進行表の前で足を止めている。
澪先輩は椅子へ鞄を置き、ひより先輩は衣装ラックの脇にある荷物の置き場所を確かめていた。
皆が動くたびに、部屋の中にそれぞれの場所ができていく。
「白瀬さん、お荷物はこちらへどうぞ」
案内してくれたスタッフさんが、空いている椅子を示した。
「ありがとうございます」
鞄を下ろす。
隣には、夏希の鞄があった。
六月の楽屋では、五人が準備をする邪魔にならない場所を探していた。
椅子を使っていいと言われても、あとで誰かが使うのではないかと気になった。
今日は、最初から私の分もある。
衣装ラックを見ると、ローズピンクの衣装のそばに、小さな名前の札が下がっていた。
そちらにも、白瀬真琴と書いてある。
早川さんが、私たちの準備を見ながら今日の流れを説明してくれた。
先に舞台の確認。そのあと昼食と休憩を挟み、ヘアメイクや衣装の準備へ進む。
聞きながら、壁の進行表へ目を向ける。
最後の方に、本番、とあった。
六月は、その時間になったら五人を見送った。
今日は、私も一緒に出る。
鞄の口を閉めて、着替えを抱え直した。
————
身体をほぐしてから、六人で舞台へ向かった。
通路を曲がり、スタッフさんの案内で袖へ入る。
そこからステージへ上がると、最初に足元を見た。
黒い床に、色のついたテープが貼られている。
そこから顔を上げた。
椅子が、奥まで並んでいた。
広い。
素直に、そう感じてしまった。
四日前のホールでも、客席のあるところで練習した。
それでも、あの時のホールとは通路の幅も、後ろの壁までの距離も違う。
客席の途中には、機材の前に座っている人がいた。
「白瀬、最初の位置へ」
高瀬先生の声で、視線を戻した。
「はい」
歩いて、自分の印のところへ立つ。
隣にひより先輩が来た。ほかの皆も、それぞれの位置へ入る。
六人が並ぶと、広く見えた床の上に、知っている距離ができた。
「まず入りから。最初の動き出しまで確認する」
一度、袖へ戻った。
スタッフさんの合図で歩き出し、決めた場所へ入る。
『はじまりのパレット』の音が流れた。
顔を上げる。腕を動かす。
足元の印を見続けなくても、次にどこへ行くかは分かった。
冒頭を少し動いたところで、音が止まる。
「よし。今の幅で」
高瀬先生が言った。
そのあとは、移動するところをいくつか確かめた。
私と夏希が近づくところ。
六人の並びが変わり、前を通る人と後ろを通る人が入れ替わるところ。
『六つの光』では、途中の位置から始めて、次へ見せ場が移るところまでを一度合わせた。
音が止まると、三枝さんが客席側から声をかけた。
「白瀬、目を送る先は今のでいい。そのあと顎を引きすぎないで」
「はい」
もう一度、そこだけ。
今度は、直前までの動きを頭の中でつないでから顔を向けた。
三枝さんが小さく頷く。
最後に、挨拶の位置と退場する道を確かめた。
高瀬先生は舞台の端を見てから、私たちへ顔を戻した。
「動きは問題ない。ここまでにしよう」
私は、一度先生を見た。
それから、隣の夏希を見る。
夏希はもう肩を下ろしていた。
「……もう?」
「うん?」
「一回、全部通すのかと思ってた」
「ああ」
夏希が、客席の方へ目を向けた。
「今日は、この場所でちゃんとできるか確認するだけだから」
「六曲、続けてはやらないんだ」
「昨日までで十分やったじゃん。今日も全部やって疲れたら、この後の本番に響くよ」
言われてから、まだあまり上がっていない自分の息を意識した。
いつもの通しのあとなら、まず飲み物が欲しくなる。
今日はまだ、そこまでではない。
「……確かに」
「できるかどうかは、もう先生たちも見てるしね。今日は本番でちゃんと動ける方が大事」
夏希が、何でもないことのように言った。
私は少し考えてから、そちらを見た。
「夏希はもう一回くらいできそうだけど」
「まぁ実際、私ならよゆーだけど」
否定しない。
「でもやらない」
「……そこは、ちゃんとしてるんだ」
「ちゃんとしてるよ。私だって」
「今の返事だけ聞くと、追加で踊りたそうだった」
「それも否定はしない!」
声が少し大きくなって、少し先の美月が振り返った。
「何の話?」
「真琴が私を何だと思ってるんだろうって話」
「体力お化け」
私が答えると、美月が頷いた。
「それはそう」
「二人とも!」
笑っていると、音響担当の人から次の確認の声がかかった。
マイクを持ち直して、指定された場所へ戻った。
今度は、身体を大きく動かさずに声を入れた。
一人ずつ短く歌い、聞こえ方を確かめる。
私の番になり、担当しているところを数小節歌った。
声は出た。
ただ、伴奏が重なると、自分の声の終わりが少し聞き取りづらかった。
「白瀬さん側の聞こえ方はいかがですか」
客席側から声がした。
マイクを持ち上げる。
「伴奏は聞こえます。自分の声が、最後の方で少し分かりづらいです」
「分かりました。少し調整しますので、お待ちください」
待っている間、鳴海先生が担当の人と短く話していた。
私は、その場で待った。
もう一度お願いします、と言われてから、同じところを歌う。
さっきより、自分がどこまで声を伸ばしているか分かった。
「今の方が聞きやすいです」
「ありがとうございます」
四日前は、どう違うのかを言うのにも少し迷った。
今日は、聞かれたことへ前より早く答えられた気がした。
六人で声を重ねるところも、短く確認した。
澪先輩の声が聞こえる。
そのあとへ、自分の声を入れる。
鳴海先生は途中で止めず、指定されたところまで聞いてから頷いた。
「OK。ここからは余計に喉使わなくていいから」
「はい」
照明の確認では、印のところに立ったまま待つ時間もあった。
前から当たる光が変わる。
客席の見え方が、さっきと少し違った。
誰かが確認の言葉を返すと、今度は別の場所が明るくなった。
自分たちが動いていない間にも、舞台の見え方は変わっていく。
確認が終わり、私たちはマイクを預けて舞台を下りた。
通路へ戻る途中で、さっきの曲がまた短く流れた。
途中で止まる。
少しして、同じところからもう一度。
振り返ると、客席側のスタッフさんたちは、まだ機材の前で話していた。
私たちの確認が終わっただけで、会場の準備が終わったわけではないらしい。
「お昼、何かな」
隣で夏希が言った。
私は、舞台の方へ向いていた顔を戻した。
「……もうその話?」
「大事でしょ」
その言葉を聞いて、少し気が抜けてしまった。
————
楽屋へ戻ると、テーブルの一つに弁当が並んでいた。
蓋の上に、小さな紙が貼られている。
焼き鮭。鶏の照り焼き。唐揚げ。幕の内。
どれにしようかと覗き込んだところで、横から夏希の手が伸びた。
「私これー!」
唐揚げ弁当を一つ持ち上げ、そのまま自分の席へ戻っていく。
「夏希早っ」
美月が言った。
「唐揚げあったから」
「他の見なくていいの?」
私が聞くと、夏希は弁当を置きながら振り返った。
「唐揚げあるなら唐揚げだから」
「そんなに好きなの?」
「毎日唐揚げでもいいくらいには!」
迷いがない。
私はもう一度、並んだ弁当を見た。
焼き鮭の弁当には、卵焼きと煮物も入っているらしい。
「真琴、それにするの?」
ひより先輩に聞かれた。
「はい。卵焼きも入ってるので」
「ふーん?……そっちにも入ってるよ」
指された幕の内にも、確かに入っていた。
「……選ぶ理由がなくなりました」
「ごめん。迷わせた」
少し笑ってから、最初に見ていた焼き鮭を手に取った。
玲奈さんと澪先輩も選び終え、美月が最後まで照り焼きと幕の内の間で迷っていた。
夏希は、もう割り箸の袋を開けている。
「美月、まだ?」
「今決めるところ」
「最初に見た時からそれ言ってる」
「夏希が早すぎるんだよ」
結局、美月は照り焼きを選んだ。
六人で席に着き、いただきますと言って蓋を開ける。
一度にいろいろな匂いがした。
午前中はあまり疲れていないつもりだったけど、食べ物を前にするとお腹が空いていたことが分かった。
卵焼きを一つ、口へ運んだ。
「……甘い」
「真琴は甘い方が好き?」
夏希が聞いた。
「どっちも好き。家だと、だし巻きの方が多いけど」
「私はしょっぱいのが好きー」
「夏希って嫌いな食べ物あるの?」
「あるよ?」
「例えば何?」
そこで夏希が少し黙った。
美月が箸を止める。
「今考えてるの?」
「すぐ出てこないだけ、だとは思うんだけど……」
「それはもう嫌いな食べ物ほぼないってことなんじゃないの……?」
ひより先輩が言うと、夏希は考えるような仕草をするのをやめた。
「そうなのかも」
玲奈さんが小さく笑って、お茶を飲んだ。
私も笑い、ご飯を口へ運んだ。
話題は午前中のリハーサルへ移った。
美月は客席の奥まで見えたことを話し、玲奈さんはMCの時に立つ場所をもう一度確かめていた。
澪先輩は、返しを調整してもらったあとが歌いやすかったと言った。
「真琴も、何か言ってたよね」
「はい。自分の声が、少し聞き取りづらかったので」
「直った?」
「直りました。最後まで分かるようになりました」
「ならよかった」
澪先輩が頷く。
私は鮭を小さくほぐした。
午前中に見た客席が浮かんだ。
後ろまで、ずっと並んでいた椅子。
あそこに人が座ると、どう見えるのだろう。
六月の客席は、袖から見た。
今日は、正面から見る。
そう考えて、箸が少し止まった。
「真琴?」
顔を上げると、美月がこちらを見ていた。
「っ、ごめん、何?」
「衣装。着たら写真撮りたいねって」
「あ、うん。そうだね」
頷いて、鮭を口へ運んだ。
味は分かる。
美味しくないわけでもない。
ただ、さっきまでより、飲み込むまでに時間がかかった。
お茶を一口飲んだ。
夏希が、弁当の蓋へ箸を置く。
「もう食べたの?」
「うん」
「早くない?」
「普通だよ」
「夏希の普通は、時々参考にならない」
「ひどくない?」
笑ってから、自分の弁当を見た。
まだ、ご飯がかなり残っていた。
私も同じ頃に食べ始めたはずだった。
隣から視線を感じ、顔を向ける。
ひより先輩が、私の弁当を見ていた。
目が合うと、先輩は何も言わず、自分のお茶を手に取った。
私も、もう一口食べた。
食べないと。
そう考えた途端、今までどうやって普通に食べていたのか、少し分からなくなってしまった。
結局、全部食べ切ることもできず、そのまま少し残してしまった。
————
昼食のあと、歯を磨いて楽屋へ戻ると、鏡の前の道具が増えていた。
ケースが開き、ブラシや小さな容器が並んでいる。
美月はもう椅子へ座っていた。
髪を整えてもらいながら、鏡越しに私へ手を振る。
「真琴、次だって」
「うん」
呼ばれた席へ座る。
担当の人へ挨拶をすると、顔の前へ白い布が広げられた。
「お肌、少し整えますね」
「お願いします」
鏡の中の自分と目が合う。
ついさっきまで、弁当を選んでいたくらいには普通の顔だった。
目を閉じるように言われて、閉じた。
頬に柔らかいものが触れる。
楽屋の中では、まだ普通に会話が続いていた。
夏希が衣装担当の人へ靴を見てもらっている。
少し先では、ひより先輩と玲奈さんが何かを確認していた。
美月の声も聞こえる。
目を開けると、さっきより目元がはっきりしていた。
「いかがですか」
「……はい。大丈夫です」
顔を少し横へ向けて、もう一度確かめる。
衣装で撮影した時にも、こうしてもらった。
鏡に映っているのが自分だと分からないわけではない。
ただ、見慣れた顔の中に、これから人に見てもらうための手が加わっている。
髪を整えてもらう間、壁の時計へ目が向いた。
思っていたより、時間が進んでいた。
「下を向かなくて大丈夫ですよ」
「あ、すみません」
顔を戻す。
担当の人は特に気にした様子もなく、髪の流れを直してくれた。
そのあとは衣装へ着替えた。
ファスナーを上げ、留め具を確かめてもらう。
腕を上げたり、軽く身体をひねったりして、動いた時に引っかかるところがないか確認する。
ローズピンクの布が、鏡の前で動いた。
「苦しいところはありませんか」
「大丈夫です。ありません」
「靴も一度、立って確かめてください」
椅子から立ち上がった。
足の裏の感触を確かめる。
少し歩いて戻る。
練習した時と同じだった。
そこは、変わっていない。
鏡の向こうでは、美月の高いポニーテールが揺れていた。
玲奈さんと澪先輩も衣装を着ている。夏希は片足ずつ軽く重心を移し、靴の具合を確かめていた。
ひより先輩が、髪の最後の調整を終えて椅子から下りる。
六人とも、本番の格好になっていた。
「真琴、どう?」
美月が近づいてきた。
「……何が?」
「いよいよって感じしない?」
鏡を見た。
そこには、アイドルの衣装を着て、プロにメイクまでしてもらった私が、確かに写っている。
「……する」
「でしょ」
美月が嬉しそうに笑う。
私も、意識して小さく笑った。
その顔のまま、鏡から目を離す。
さっきより、胸の奥が落ち着かなかった。
————
身支度が一通り終わると、急に、することが少なくなった。
椅子へ座る。
膝の上に、進行表を置いた。
最初の曲。
二曲目。
挨拶と自己紹介。
何度も読んだ順番だった。
玲奈さんから話を振ってもらうところも、どちらを向いて返すかも、もう分かっている。
各MCの締めも、私にはしないと玲奈さんが明言してくれた。
だから、そこまで心配しなくても大丈夫。
練習した通りにすればいいだけ。
楽屋の扉が開く。
スタッフさんが顔を出し、早川さんと短く話した。
開場の準備が整ったらしい。
扉が閉まる。
私は、進行表へ目を戻した。
文字は読めるのに、さっきどこまで読んだのか分からなかった。
もう一度、最初へ戻る。
廊下を、誰かが早足で通っていった。
無線の声。
扉の開く音。
「開場しました」
少しして、早川さんがそう伝えた。
美月が返事をする。
玲奈さんも時計を見て頷いた。
私も、はい、と答えた。
開場した。
午前中に見た椅子へ、人が座り始めている。
そのことを考えた瞬間、胸の内側が、すっと冷たくなった。
手元の紙を押さえる。
指先が冷えていた。
空調が強いのだろうか。
そう思ったけど、寒いわけではなかった。
腕の内側から、身体の奥まで、冷たい血が流れていくような感じがした。
五人のままがよかった。
早川さんから聞いた言葉が浮かんだ。
どうしてこの子なのか。
まだ歌もダンスも足りないのに、なぜ今なのか。
それを書いた人が、あの客席に座っているかもしれない。
説明を読んでも、映像を見ても、それでも嫌だと思った人が。
顔を上げたら、その人と目が合うかもしれない。
どんな顔をされるのだろう。
私が前へ出た時に、不満そうにされていたら。
挨拶をしたあと、何も返ってこなかったら。
考えないようにしようとした。
まだ起きていない。
そもそも、誰がどんな気持ちで来たのか、私には分からない。
それは分かっているのに、想像だけは勝手に続いた。
進行表の端が、少し曲がった。
指を緩めようとする。
力が入っていることに気づいても、すぐには抜けなかった。
肩も硬い。
背筋を伸ばし直したら、余計に身体が固まった気がした。
昨日は、できると言えた。
先生たちの言葉も信じている。
六曲の順番も、足を出す場所も、覚えている。
なのに、これから立ち上がって歩くところを考えるだけで、足元が頼りなくなった。
「真琴」
すぐ近くで、声がした。
顔を上げる。
ひより先輩が、私の前にいた。
「……はい」
「その紙、一回置こうか」
膝の上へ目を落とした。
同じ場所を、まだ押さえていた。
「確認しておこうと思って」
「うん。それも大事だけど、一回置こう」
ひより先輩が、私の顔を見た。
普段と同じ声だった。
その後ろで、美月がこちらを向いた。
何か言いかけたように口を開き、それからひより先輩を見る。
玲奈さんも顔を上げた。
夏希の足首を回す動きが止まっていた。
澪先輩は、手に持っていたペットボトルをテーブルへ置いた。
皆に見られていると気づき、反射的に口元を上げようとした。
ひより先輩が、その前に少し身体をかがめた。
「真琴、向こうで少し話さない?」
楽屋の奥に、小さなソファがあった。
鏡やテーブルから、少し離れた場所。
少し悩んでから、小さく頷いた。
立ち上がると、足の裏へ体重がかかるのが妙にはっきり分かった。
歩けた。
ひより先輩が先に行き、私も後へ続いた。
————
「お昼から、ちょっと気になってた」
ひより先輩が言った。
私は、膝の上で手を重ねた。
「……食べるの、遅かったからですか」
「うん。話してる時は普通だったけど、食べるのが止まってたから」
「自分でも、途中で気づきました」
「今は、もっと?」
少し迷ってから、頷いた。
ひより先輩は、そう、とだけ答えた。
何も言わない時間ができた。
向こうでは、ヘアメイクの人が誰かへ声をかけている。
袋を開ける音がした。
私は、自分の指を見た。
「……ちゃんとしないととは、思ってるんです」
ひより先輩がこちらを見る。
「曲も覚えてますし。昨日、高瀬先生にも言っていただいたので」
「うん。今日もできてた」
「はい。でも……」
そこから先が、出てこなかった。
できるなら、何が問題なのか。
そう聞かれたわけでもないのに、自分で続きを考えてしまう。
ひより先輩は急かさなかった。
「……客席のことが、気になって」
やっと言えた。
「うん」
「早川さんから聞いたこと、分かったつもりだったんです。皆さんとも話せたので」
「うん」
「でも、今、あそこに人が入ってるんだって思ったら……」
午前中の客席を思い浮かべた。
誰もいなかった椅子。
今なら、隣の人と話している誰かがいる。
荷物を置いたり、ステージを見たりしている。
「私が出てきたら、嫌だと思う人もいるんですよね」
ひより先輩は、すぐには答えなかった。
それから、小さく頷いた。
「いると思う」
分かっていた答えだった。
それでも、膝の上の指へまた力が入った。
「間違えたら、やっぱりって思われるかもしれないし。もし、失敗しちゃったら……」
ちゃんとできたとしても、五人の方がよかったと思う人はいるだろう。
それなのに、もしも、万が一、失敗してしまったら——
「……怖いです」
口にすると、思っていたより小さな声だった。
ひより先輩が、私の手元へ一度目を落とした。
「そっか」
それだけ言って、少し待ってくれた。
私は息を吐いた。
上手く説明できた気はしなかった。
「この前、私が最初のライブのこと、思い出したくないって言ったの、覚えてる?」
急に聞かれ、顔を向けた。
「……はい。ホールで練習した時ですよね」
「そう」
ひより先輩は、少し嫌そうな顔をした。
自分から話し始めたのに。
「私、あの時、MCの最後の台詞を間違えたんだよね」
「台詞、ですか?」
「うん。最後に私が一言言って、それで照明が暗くなることになってたの」
先輩は、ステージのある方へ少し目を向けた。
「他のところは、多少言い方が変わってもよかったんだけどね。そこは合図だから、言葉を決めてあって」
「……はい」
今日も、曲へ戻るところでは、誰が何を言うかを確かめた。
それと同じなのだろう。
「なのに私、決まってた言葉とは全然別のことを言っちゃったんだよね。『それでは、次の曲です』って言わないといけなかったのに、『次の曲も、よろしくお願いします』って」
私は、ひより先輩を見た。
先輩もこちらを見た。
「……お願いしたんですか」
「うん。お願いした」
口元が、少し動いた。
ひより先輩は、それを見て目を細めた。
「今だと、何でそうなったのって思いはする。でもその時は、何回も頭の中で言い直してたのに、本番で別の言葉が出てきたんだよ」
「そう、なんですか……」
練習していたのに。
そう聞くと、少し笑いづらくなった。
けれど、ひより先輩は自分で小さく笑った。
「それで、私だけはちゃんと締めたつもりで、マイク下げたの」
「……はい」
「暗くならない」
先輩が、真面目な顔で言った。
私は思わず、息を漏らした。
「……それは」
「明るいままなの。皆はすぐ気づいてくれて次へ動こうとしてるのに」
「照明の人は……」
「まだ続きがあるのかなって思ったんだって。決めた言葉が来なかったから。まあ、私が間違えたんだから当然なわけだけど」
確かに、ひより先輩の言葉が合図なら、違うことを言われた人には分からない。
「でも、すぐ気づいてくれた。私がマイク下げて、皆も話し終わってるのを見て。それで暗くしてくれた」
「じゃあ、止まったのは少しだけですか」
「一拍くらいかな。ほんとに、それだけ」
ひより先輩は指先を少し離して、その短さを示した。
「私の中では、その一拍がものすごく長かったけど。暗くならなかったことで気づいて、もう頭の中は大パニックだよ。やらかしたー!!って」
ひより先輩が、諦めたように笑う。
ひより先輩は、いつも直すところをすぐに見つける人だった。
足の位置も、向く方向も、少し前に何を言ったかも、私よりずっと正確に覚えている。
そのひより先輩が、自分の言った言葉も分からなくなるくらい緊張していた。
「そのあと、どうしたんですか」
「普通に次の曲やったよ」
「……普通に?」
「普通にするしかないから。暗くなったら移動するって決まってたし」
あまりにも当たり前の答えで、少しおかしかった。
「内心は普通じゃなかったんですよね……?」
「全然。さっきも言った通り、大パニック。今の何、何であんなこと言ったの、って」
ひより先輩が、膝へ置いていた手を動かした。
「でも、次の曲の最初の位置へ入って、音が来たら、やることは分かったんだよね」
私は頷いた。
今朝も、ステージへ出た時は客席が広く見えた。
けれど、ひより先輩が隣へ来て、自分の位置へ立って、曲が始まると、知っている動きになった。
「終わってから照明の人に謝ったら、『話し終わったのは分かったので』って言ってくれて。助かったなって思った」
「……ちゃんと見てくれてたんですね」
「うん。聞いてもくれてた。私、自分が間違えたことしか考えてなかったけど」
午前中、私たちが舞台を下りたあとも流れていた音を思い出した。
何度も同じところへ戻っていたスタッフさんたち。
私たちとの確認が終わっても、仕事を続けていた。
「だから、緊張した時に、自分だけで何とかしなきゃって思いすぎなくていいと思う。今日も、先生たちもスタッフさんもいるし」
「……はい」
「失敗に関してもそう。失敗しても、こうやって後から笑い話にできるし、なんなら今後のMCの時とかの話の種にすらなる。だから、失敗したら終わりだなんて思わなくていい」
ひより先輩は、それから少し声を落とした。
「それに、私たちもいるから」
私は先輩を見た。
「何かあれば、私たちがフォローする。それで何か言われても、私たちも一緒に向き合う」
「……はい」
「それに私、真琴は失敗しないと思ってるけどね。なんなら、位置の精度に関しては美月よりもいい箇所が——」
「ちょっ!?ひより先輩どういうことですかそれ!否定できませんけど!!」
「ぷっ、ふふっ……」
思わず、笑ってしまった。
本番直前なのに、あまりにもいつも通りの雰囲気すぎて。
笑ってしまった私の方を見て、ひより先輩は小さく笑った。
「よかった」
「よかった、ですか?」
「うん。よかった。真琴、着替えの辺りから顔がすごく固くなってたから。いつもみたいに笑えてる」
「それは……」
思わず、言葉に詰まった。
否定できなかった。
「この前話した人のこと、私もまだ気になるよ」
いつも反応してくれる、見覚えのある名前の人。
ひより先輩は、六人で食べた夕食の時にその話をしてくれた。
「私たちが六人でやりたいって思ってても、それを同じように楽しみにしてくれるとは限らないんだなって」
「……はい」
「でも、今日来る人が、全員その気持ちだとも思ってない」
先輩は、私の顔を見た。
「まだ一回も六人のライブを見てないんだよ。楽しみにしてくれてる人も、どんな感じか見たいっていう人もいると思う」
私は、重ねていた手を少し動かした。
それも、早川さんから聞いていた。
歓迎してくれる人もいる。
写真が好きだと言ってくれた人もいる。
知っているはずだった。
なのに、客席を想像すると、怖い方の人ばかりが座っていた。
「……分かっては、いるんですけど」
「うん。分かってても怖いよね」
ひより先輩は、そこで一度言葉を切った。
「私も、気にしないようにしようって思って、それで気にならなくなるわけじゃないから」
ひより先輩がそこまで言ったところで、扉が開く音がした。
少しだけそちらを見ると、早川さんが、端末を手にこちらへ歩いてきた。
私たちの前で足を止める。
「少し、お話しできますか」
「はい」
答えると、早川さんは私の顔を見た。
「いかがですか」
「……さっきよりは、少し。ひより先輩と話してたら、マシになりました」
「そうですか」
早川さんの視線が、ひより先輩へ移る。
先輩は、何でもないような顔をした。
早川さんは少し笑ったが、それ以上は聞かなかった。
「私からも色々とお話しようかと思っていましたが、これなら必要なさそうですね。それでは、一つだけお伝えすることにします。実は、会場のことで一つお伝えしたくて」
姿勢が少し変わった。
会場のこと。
客席で何かあったのだろうか。
早川さんは、手元の端末へ一度目を落とした。
「先ほど、物販担当から連絡がありました。白瀬さんの公演衣装のアクリルスタンド、会場の当日販売分が完売したそうです」
すぐには返事が出なかった。
アクリルスタンド。
自分の写真で作られた、小さなもの。
「……私の、ですか?」
「はい」
「売り切れたんですか?」
「会場で販売する分として用意していた、二百個ですね」
二百。
思わず、ひより先輩を見た。
先輩も少し目を大きくしていたけど、それから私へ笑いかけた。
私は早川さんへ向き直る。
「二百個、全部……」
「はい。名前入りタオルも残りが少なくなっているそうです」
自分の衣装へ目が落ちた。
これを着た写真だった。
撮影の時、手の角度や視線を少しずつ変え、何枚も撮ってもらった。
その中から選ばれた自分が、アクリルの板になって、売り場に並んだ。
それを、買った人がいる。
今日、この会場で。
「……まだ、ライブもしてないのに」
声に出すと、早川さんが頷いた。
「そうですね。ですが、これからステージをご覧になる前に、選んでくださった方がいます」
私はもう一度、自分の手元を見た。
人に自分のグッズを買ってもらうということが、まだうまく想像できなかった。
「売れた数だけで、一人ずつの気持ちまで分かるわけではありません」
早川さんが言った。
「ただ、白瀬さんの商品を買いたいと思って、実際に選んでくださった方がいることは、今お伝えできます」
私は顔を上げた。
早川さんは、私の返事を待っていた。
「……ありがとうございます」
やっと、そう言えた。
「教えていただいて、嬉しいです」
「はい」
早川さんは端末を下ろした。
「伝えたいことはそれだけです。本番の準備については、もう少ししたらまた声をかけます。それまでは、ここで休んでいてください」
頷くと、早川さんは近くのスタッフさんのところへ戻った。
その背中を見送ってから、隣を見る。
ひより先輩が、私を見ていた。
「ね」
短い一言だった。
さっきの話の続きを、そこで受け取った。
「……はい」
「真琴のグッズ、買ってくれた人がいるんだよ」
「……そう、ですね」
「アクスタも、タオルも。真琴のを」
もう一度言われると、さっきより具体的に感じた。
私の名前が書かれた商品。
ほかの誰かと間違えるものではない。
「六人分揃えたい人もいるだろうし、記念にっていう人もいると思う」
ひより先輩は、少し考えながら言った。
「でも、真琴を応援したくて買ってくれた人だって、きっといるよ」
私は、唇を閉じた。
何か言おうとしたけど、先に喉の奥が少し熱くなった。
さっきの冷たさとは、違うものだった。
「真琴、さっき、お客さんがみんな、自分が出てきたら嫌だと思うかもしれないって考えてなかった?」
図星だった。
私は小さく頷いた。
「……そういう顔ばかり、浮かんでました」
「うん。でも、そうじゃない人もいる」
ひより先輩は言った。
「今日、真琴のグッズを持って帰りたいって思った人がいるんだよ」
持って帰る。
自分の部屋へ。
机の上や、棚のどこかへ。
私のグッズを飾った父と母や……五人のアクスタを飾った私のように、どこかに飾ることもあるのかもしれない。
「……どこに飾るんでしょうね」
気づいたら、そんなことを言っていた。
ひより先輩が、少し笑った。
「人によるんじゃない?」
「そうですよね」
「でも、真琴のだからね。その人の部屋に、真琴がいるんだよ」
「……それは、まだちょっと想像できないです」
「私も最初は変な感じした」
先輩はそう言ってから、自分の衣装へ一度目を落とした。
「でも、嬉しいよね」
私は頷いた。
今度は、さっきより大きく。
「嬉しいです」
言ってみると、本当にそうだった。
怖いことがなくなったわけではない。
客席にいる人の気持ちが、全部分かったわけでもない。
「……買ってよかったって、思ってもらえたら、いいですよね」
私が言うと、ひより先輩の口元が緩んだ。
「うん」
「今日、見に来てよかったって」
「そうだね」
先輩が少し身体をこちらへ向けた。
「そう思ってもらえるライブにしよう」
その言葉で、午前中の舞台が浮かんだ。
空いていた客席ではなく、隣へ来たひより先輩。
少し先の美月。
音に合わせて動く夏希。
玲奈さんの声。
そのあとへ重なった、澪先輩の歌。
「いつもより、すごいことしなきゃっていう話じゃないよ」
先輩が付け足した。
「六人で練習してきたことを、ちゃんと見てもらおう。私も、今日のライブを見てほしいから」
私は、膝の上の手を開いた。
「……はい」
もう一度、先輩を見る。
「私も、見てもらいたいです」
「うん」
ひより先輩が笑った。
私も、少し笑えた。
先輩は近くに置いてあった水を指した。
「一口飲もうか」
頷いて、ペットボトルを手に取る。
蓋を回す。
その時、気づいた。
さっきは、紙を押さえている指の力を抜くのにも時間がかかった。
今は、何も考えずに蓋を開けていた。
水を一口飲んだ。
肩を動かすと、さっきより自然に下がった。
心臓は、まだ速い。
開演までの時間を思えば、落ち着かない。
でも、身体の中を冷たい血が流れていくような感じは、いつの間にかなくなっていた。
「……あ」
ひより先輩がこちらを見る。
「どうしたの?」
「さっき、すごく手が冷たかったんですけど」
自分の指を見た。
「今、あんまり気にならなくなってます」
「そっか」
ひより先輩は、ほっとしたように笑った。
私はペットボトルの蓋を閉めた。
「ありがとうございました」
「まだ何も終わってないよ」
「……そうですけど。話してくださって」
「うん」
先輩は立ち上がりかけて、それから私を見た。
「暗転の話、皆にはわざわざ言わなくていいからね」
私は、一瞬だけ止まった。
それから笑ってしまった。
「皆さん、知ってるんじゃないですか?」
「思い出させなくていいってこと」
「……分かりました」
「美月、多分忘れてるから。思い出させると、それはそれで話が長くなりそう」
それは、少し想像できた。
私はもう一度笑ってから、先輩と一緒に立ち上がった。
————
テーブルの方へ戻ると、夏希が顔を上げた。
「真琴、水飲んだ?」
「うん。今」
「そっか」
それだけだった。
美月が私の顔を見て、少し笑った。
「戻ってきた」
「どこかへ行ってたわけじゃないけど」
「そういう意味じゃなくて」
分かっていた。
私は、うん、と答えた。
澪先輩が、私の座っていた椅子の上から進行表を持ち上げた。
「これ、ここに置いていい?」
「はい。ありがとうございます」
テーブルへ置かれた紙は、端が少しだけ曲がっていた。
さっき自分でつけた跡だった。
私はそれを指で伸ばした。
もう、最初から読み直したりはしなかった。
そのあと、トイレを済ませ、髪とメイクを最後に直してもらった。
衣装の留め具も、もう一度確認される。
美月はポニーテールの根元を整えてもらい、夏希は靴を履き直して立ち上がった。
玲奈さんが六人を見回す。
「皆、準備できた?」
返事が、順番に重なった。
私も頷いた。
「はい」
スタッフさんから移動の声がかかった。
鞄は椅子の上へ置いたままにする。
スマホも、進行表も持たない。
必要なものは、もう身につけていた。
扉を出る時、貼られた紙が視界に入った。
Lumière Palette。
その下に並んでいる、六人の名前。
朝は、自分の名前を見て足を止めた。
今は、前を歩く五人に続いて、そのまま通り過ぎた。
————
舞台へ近づくと、音が変わった。
楽屋では扉が開いた時だけ聞こえていたざわめきが、今は途切れずに聞こえる。
何を話しているのかまでは分からない。
それでも、たくさんの人がいることは分かった。
歩きながら、自分の手を一度開いた。
大丈夫だった。
マイクを受け取り、スタッフさんに示された場所で待つ。
午前中にも通ったところだった。
同じ床。
同じ幕。
その向こうに、今は観客がいる。
隣で、ひより先輩がマイクの持ち方を直した。
少し先では夏希が足を揃えている。
美月が客席の方から聞こえる音へ耳を澄ませ、玲奈さんがスタッフさんの話へ頷いた。
澪先輩は、静かに前を見ていた。
皆も、これから舞台へ出る。
私だけが本番を迎えるわけではなかった。
玲奈さんが、こちらを向いた。
「じゃあ、六人で」
五人が少しずつ近づいた。
私も、一歩入る。
玲奈さんが手を出した。
ひより先輩の手が重なる。
澪先輩、美月、夏希も続く。
私はマイクを持っていない方の手を伸ばした。
ためらわずに、重ねた。
隣のひより先輩と目が合う。
先輩が小さく笑った。
「今日の六曲、ちゃんと届けましょう」
玲奈さんが言った。
美月が頷く。
「はい」
夏希も、澪先輩も、ひより先輩も、輪の中を見ていた。
客席のざわめきは、まだ聞こえている。
その中には、私のグッズを持っている人もいるかもしれない。
まだどう思うか決めていない人も。
五人のままがよかったと思っている人も。
全員の顔を、今ここで思い浮かべることはできなかった。
だから、まずは目の前の五人を見た。
一緒に何度も間違えて、戻って、合わせてきた人たち。
今日、六人でやることは分かっている。
「行くよ」
玲奈さんの声で、重ねた手に少し力が入った。
私は息を吸った。
「おー!」
五人と同じ声を出して、六人で手を上げた。