TS少女は演じたい 作:息抜き
八月九日、日曜日。
目が覚めた時には、いつもより少し遅い時間になっていた。
布団から起き上がると、足にまだ昨日の疲れが残っている。
でも、ずっと寝ていたいほどではなかった。
スマホを確認すると、由佳からメッセージが届いていた。
『今日って本当に休みなんだよね?大丈夫なら映画見に行かない?』
少し考えてから、返事をする。
『うん。午後なら大丈夫だよ』
すぐに返ってきた返事を見て、思わず笑ってしまった。
昨日は一日、ライブのことで頭がいっぱいだった。
今日は、久しぶりに由佳とゆっくり過ごせそうだった。
顔を洗って着替え、リビングへ下りる。
父も母も、もう朝食を済ませたところらしかった。
「おはよう」
「おはよう、真琴。よく眠れた?」
「うん。いつもより遅くなっちゃったけど」
「昨日あれだけ動いたんだから、仕方ないでしょう」
母が笑いながら言った。
私は椅子に座り、用意してもらった朝食を食べ始める。
その途中で、今日の予定を伝えた。
「そうだ。今日、由佳と映画観に行ってくるね。終わったら少しお茶もしてくると思う」
「あら、そうなの?」
母が少し目を丸くした。
それから、どこか楽しそうに笑う。
「昨日あれだけすごいライブをしたんだから、今日は家でゆっくり休まなくていいの?」
言い方が少し大げさだった。
「……すごいって言われると、ちょっと恥ずかしいんだけど」
「だって、すごかったでしょう?私たち、真琴があそこまでできるようになってるとは思わなかったもの。お父さんなんてペンライト持ち出しちゃって」
「……それはお前もだろう」
「ふふ、二人して年甲斐もなくはしゃいじゃったものね」
「……二人とも、そんなに楽しんでたんだ」
「もちろん。真琴の初めてのライブだもの」
昨日はステージの上から客席を見ていたけど、父と母がどんなふうに楽しんでいたのかまでは分からなかった。
こうして聞くと、少し恥ずかしい。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
母が笑顔で答えた。
「それで、今日は本当に大丈夫なの? まだ疲れてるんじゃない?」
「少しは残ってるけど、映画なら座って観られるし。由佳とゆっくり話したかったから」
「そう。それならいいんだけど」
母は頷いてから、少し笑った。
「せっかくのお休みだものね。お友達と遊ぶのも大事だわ」
「うん。最近、由佳とも学校以外ではあんまり会えてなかったし」
「帰りは何時くらいになる?」
今度は父が聞いた。
「映画が終わったら、少しお茶してくるつもり。夕方には帰れると思う」
「夕飯は家で食べるんだな?」
「うん。そのつもり。遅くなりそうだったら連絡するね」
「分かった。遅くなるようだったら迎えにも行けるからな。もうアイドルなんだから、夜道にはより一層気を付けないと……まあとにかく、楽しんでおいで」
「ありがとう」
朝食を済ませ、食器を片づける。
部屋へ戻って着替え、出かける準備をした。
鞄に財布とスマホを入れ、念のためモバイルバッテリーも持っていく。
鏡の前で髪を整えていると、少しだけ身体の重さが気になった。
昨日の疲れは、やっぱりまだ残っているらしい。
でも、今日は踊るわけでも、歌うわけでもない。
映画を観て由佳と話すくらいなら、問題ないだろう。
走ったりもしてないから、早川さんに怒られたりもしないはずだ。
準備を終えて玄関へ向かう。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。由佳ちゃんにもよろしくね」
「うん」
靴を履いて、玄関の扉を開けた。
外は、今日も暑そうだった。
駅へ向かいながら、由佳とのメッセージをもう一度確認する。
昨日は、一日中ライブのことばかり考えていた。
今日は、久しぶりに普通の夏休みらしい一日になりそうだった。
————
「真琴、宿題は大丈夫なの?」
チーズケーキへフォークを入れようとしたところで、由佳に聞かれた。
私は手を止めて、向かいの席を見る。
「なに急に」
「いや、昨日までずっと忙しかったんでしょ。夏休みのやつ、結構あるじゃん」
「ああ……大丈夫。少しずつやってるから」
「ちゃんと進んでる?」
「うん。まだ残ってるけど、間に合うと思う」
そう答えてから、ケーキの先を小さく切った。
今日は由佳と映画を観て、そのまま同じ建物の中にある喫茶店へ入っていた。
外を歩いたのは少しだけなのにそれでも暑くて、運ばれてきたアイスカフェオレを、最初に随分飲んでしまった。
グラスの外側に、水滴がついている。
紙ナプキンでそれを拭いてから、フォークを持ち直した。
「朝とか、レッスンがない日にちょっとずつ。あとでまとめてやる方が大変そうだし」
「そうなんだよねえ」
「由佳もやってるでしょ?」
「やってるよ。やってるんだけどねぇ……なんとなぁく気が進まなかったりして、ワークショップで教えてもらったこと試したりしてると……」
「それは試験勉強中の掃除とかと何が違うの……?」
「痛い所を突いてきますね真琴さん……」
由佳がわざと眉を寄せたので、笑ってしまった。
今日は、いつもより少し遅く起きた。
昨日の疲れがなくなったわけではなかったけれど、起きて朝食を食べると、ずっと寝ていたいほどでもなかった。
だからこそ、私が休みだと知った由佳に誘われた時に拒否しなかった。
「それでさ」
「うん」
「昨日のライブ、成功だったんでしょ?」
顔を上げた。
由佳は、さっきまでと同じように向かいに座っていた。
だけど、返事を待つ目が少しだけ真面目だった。
「うん。六曲、ちゃんと最後までできたよ」
「そっか」
「すごく緊張したけど」
「そりゃするでしょ……1800人の前で踊ったんだよね?」
「うん。……でも、楽しかった」
言ってから、昨日の最後を思い出した。
幕の向こうへ入る前に振り返った時も、客席ではまだ光が動いていた。
腕は重かったのに、もう少し手を振っていたかった。
楽屋へ戻ったあとは、座って水を飲むだけでも大変だったけど。
「……そっかぁ。ならよかった」
由佳が、椅子の背へ少し身体を預けた。
それから、長めに息を吐いた。
「そんなに?」
「そんなにだよ」
すぐに返ってきた。
「私、SNSも見てたし。クラスのグループにも、良くも悪くもいろいろ流れてきてたからさ」
グラスへ添えていた指が止まった。
八月一日。
見ている間にも未読が増えていった、あの画面を思い出す。
「発表された時もびっくりしたけど、そのあとも、結構……ね」
由佳は、そこで言葉を切った。
何を見たのかまでは言わなかった。
「真琴、あれからクラスの見てないんだよね?」
「……うん。通知切ってから、一回も開いてない」
「それ、本当に正解だから。必要な連絡は私がコピーして教えてあげるから、開かなくていいよ」
私は小さく頷く。
「ありがと……一応、私も早川さん……マネージャーさんから、少し聞いた」
「そっか」
由佳も頷いた。
それ以上、確かめてくることはなかった。
代わりに、テーブルに置いていたスマホを指先で少し動かした。
「昨日なんか、どれだけSNS見てたか分かんない」
「ライブが終わる頃?」
「その前から。もう始まったかな、とか。今どの辺かな、とか」
「見ても分からなくない?」
「分かんないよ」
「じゃあ、どうして」
「気になるからに決まってるでしょ」
随分とはっきり言われた。
由佳はスマホを持ち上げて、すぐにまた伏せた。
「別のことしてても、そろそろ終わったかなって思って。また見て」
「……ご心配をおかけしました」
「いえいえ。出てない私まで緊張してたし、真琴もだいぶやばかったでしょ多分」
「まぁ、うん……ひより先輩に声かけてもらえなかったら、ガチガチに緊張したまま、失敗してたと思う」
「小日向ひよりさんねぇ。いい先輩なんだ」
「……うん。一緒にやりたいって、素直にそう思えたから」
「そっか」
由佳が、小さく笑みを浮かべる。
「終わってから、行った人の感想も何個か見たんだ。楽しかったっていうのがあって、ちょっと安心した」
「うん」
「あと、写真。六人で写ってたやつ」
あの写真だ。
汗を拭いて、前髪を直して、ひより先輩と夏希の間へ入った。
写真を撮る直前まで、皆で笑っていた。
「……見たんだ」
「見た。真琴、すっごい楽しそうだったじゃん」
「あれ、少し恥ずかしいんだけど……」
「でも、いい笑顔だったじゃん」
由佳はチーズケーキを一口食べてから、さらに笑みを深める。
「ちゃんと聞けてよかった。ちゃんと楽しかったんだね」
「……うん」
もう一度答える。
昨日のことを話そうとすると、疲れたとか、緊張したとか、そういう言葉も出てくる。
実際、どちらも本当だった。
それでも、一つだけ聞かれたら、楽しかったと答えたかった。
私はフォークを皿へ置いた。
「ありがとう。心配してくれて」
「どういたしまして」
由佳は、少し得意そうに頷いた。
「でも、真琴のあそこまでの満面の笑み珍しいねぇ。私、思わず保存しちゃった」
「……消して欲しいんだけど」
「いやでーす。あんな激レア笑顔の真琴は中々見れないし」
「激レアって……」
「実際レアでしょ。真琴、普段小さくしか笑わないし。いつもあのくらい笑ってたらもっと可愛いのに」
「……別にそういう方向で可愛くなくていい」
由佳がニヤニヤとしている。
弄る方向にシフトしたようだ。
このまま弄られ続けるのは、少し、だいぶ困る。
由佳のお皿には、まだ半分ほどケーキが残っていた。
「ほら。食べないと」
「照れ隠し?」
「私の方が先に食べ終わりそうだから」
「急な話題転換だねぇ。ま、私は優しいからね。乗ってあげようじゃないか」
また笑ってから、由佳もフォークを持った。
「それにしても、今日普通に遊べると思わなかったな」
ケーキを食べ終えたあと、由佳が言った。
「空いてるって言ったでしょ」
「それは聞いたけど。昨日ライブだったし、今日も何かあるのかと思ってた。反省会とか」
「今日は何も入れないって、前から言われてたから」
「丸一日?」
「うん。オフにするって。自主練とかもしないでちゃんと休むようにって言われた」
「あー……動画でも何回か見た強制オフってやつか」
「かな?多分」
昨日の映像を見返すのも、細かな話をするのも、別の日。
まず休むようにと言われていた。
昨日は、帰ってから何かをする気にもなれなかったから、言われなくても同じことになっていた気がする。
「でも、これからは、あんまり休みがないかも」
「え、そうなの?」
「うん。予定が結構入ってて」
先に渡されている予定を思い出した。
公式チャンネルの動画収録。
雑誌の取材。
『六つの光』のレコーディングと、MVの撮影。
その前に必要な確認や練習もある。
そして、九月の二周年ライブへ向けた準備。
八月八日が終われば、しばらく同じ六曲を練習するだけなのかと思っていたわけではない。
その先の話も、前から聞いていた。
ただ、目の前のライブのことで頭がいっぱいだった間は、その予定を見ても、まだ少し先のことに感じていた。
だけどもう、本格的にその準備に取り掛かる段階になっている。
明日から取り組むことが、いくつも並んでいる。
次のライブは、六曲では終わらない。
新しく覚える曲もあるし、五人で歌っていた曲を六人でどう歌うのか、どう動くのかも、また一つずつ合わせていく。
昨日、私は六曲であれだけ疲れてしまった。
曲を覚えるだけでは足りないことも、よく分かった。
「夏休みの間、平日はほとんど仕事かレッスンで埋まってるんだ。週末に休める日があるくらいかな」
由佳へ話したのは、それだけだった。
どの雑誌なのか。
いつ、何を撮るのか。
そういうことを一つずつ説明する必要はないし、由佳もそこまでは聞いてこなかった。
代わりに、少し目を丸くした。
「ひゃー、売れっ子だー」
「……そうなのかな」
「そうでしょ。そんなに予定が入ってるんだから」
「でも、レッスンの時間も多いよ」
「売れっ子も練習するんじゃないの?ルミパレがすごい練習量なの、動画見てるだけでも分かるけど」
「それは、するけど」
「じゃあ合ってる」
あまりにも簡単に決められてしまった。
自分を売れっ子と呼ぶのは、何だか違う気がした。
まだ一度、皆とライブをしただけだ。
五人と同じようにできないことも、知らないことも、たくさんある。
でも、予定が埋まっていることは、本当だった。
「学校休みなのに、全然夏休みっぽくないね」
「学校がない分朝から仕事できるから、その分いろいろできるんだと思う」
「なるほどぇ。なら、今日が空いててよかったね」
「うん」
そこは、私もそう思った。
観たかった映画を、映画館で観られた。
ケーキも食べた。
由佳とも楽しく話せているし、随分リフレッシュできた気がする。
「また空いてる日が分かったら教えて」
「分かった。由佳の方もね」
「私は問題集が山積みなくらいで、予定なんてほぼないよ。いつでも誘ってー」
「宿題はちゃんとやりなよ……夏休みの最後に泣くのは由佳なんだけど。去年とか酷かったじゃん」
「やめてやめて!聞きたくなーい!今日は遊ぶんでしょ!?」
由佳が、本当に嫌そうな顔をした。
私は笑って、グラスの底に残ったカフェオレを飲んだ。
氷が、かすかに音を立てた。
駅へ向かう頃には、外の日差しが少し傾いていた。
建物の中にいる間は忘れていた暑さが、入口を出た途端に戻ってくる。
思わず息を吐くと、由佳も隣で同じことをした。
「暑い」
「暑いね」
「もう一回戻る?」
「帰れなくなるよ」
「そうなんだよなあ」
そう言いながらも、由佳はちゃんと駅の方へ歩いた。
今日は、何度も笑った気がした。
映画でも笑ったし、映画と関係のないことでも笑った。
ライブの話もしたけど、それだけで一日が終わったわけではなかった。
改札の手前で、由佳が鞄を肩へ掛け直す。
「じゃあ、またね。今日は楽しかった」
「私も。誘ってくれてありがとう」
「次の予定、分かったら連絡して」
「うん」
「それまでに、私は英語を進めておきます」
「映画じゃなくて?」
「問題集です」
はっきりと言われた。
「分かった。頑張って」
「真琴も、明日から頑張ってね」
「うん。ありがとう」
手を振ると、由佳も振り返した。
電車に乗って座ってから、鞄の中の文庫本を取り出す。
挟んでいた紙のしおりを抜き、さっき買ったものへ替えた。
少しだけ、猫の頭が上から出た。
それを確かめてから、続きを開いた。
————
翌日の月曜日。
レッスンでは、二周年ライブへ向けて、新しく一曲を渡された。
初めて聴く曲ではなかった。
五人で歌っている映像は、前に観ている。
そんな曲の渡された歌割りには、もう当たり前のように私の名前も入っていた。
ここからは、自分も歌う。
次の声を聞いていればよかったところで、自分が先に息を吸わなければならない。
歌う部分を確かめ、動きを区切って練習した。
五人も、六人で動く位置や、次の人へ渡すところを確認していた。
私だけが覚えれば、そのまま出来上がるわけではない。
何度か同じところへ戻り、休憩の間にノートへ書き足す。
一日で全部ができるようにはならなかったけれど、帰ってから何を確認すればいいのかは分かった。
夕方、レッスンを終えて着替えたあと、早川さんに声をかけられた。
「白瀬さん、少しお時間よろしいですか」
「はい」
近くの打ち合わせ室へ入り、向かい合わせに座る。
鞄を足元へ置いたところで、早川さんが口を開いた。
「土曜日、公演のあとに書いていただいた投稿文のことですが。反響は、悪くありませんよ」
私は顔を上げた。
由佳に少し言われていたから、そうかもしれないとは思っていた。
「そうなんですか?」
「はい。お礼の言葉や、初めてのステージを終えて嬉しかったという気持ちを、好意的に受け止めてくださっている反応があります」
あの文章だ。
楽屋で六人の写真を撮ったあと、早川さんから、SNSへ載せる言葉も考えてほしいと頼まれた。
来てくれた方へのお礼。
歌っている時に声が聞こえて、嬉しかったこと。
また六人でステージに立ちたいと思ったこと。
スマホのメモへ書くと、どの行にも、嬉しかったと入れたくなった。
同じ言葉を少し減らしてから、確認してもらった。
写真と最終的な文面を私も見て、その日のうちに、自分のアカウントへ掲載されたらしい。
アカウントの運用自体は、まだ私はしていないからだ。
「ライブを楽しんだという言葉や、また見たいという反応も届いています。写真についても、六人が楽しそうでよかったと」
昨日、由佳にも言われた。
楽しそうだった。
あの時は、写真のために笑おうとしたというより、隣から聞こえる声がおかしくて、つられていた。
私は膝の上の手を、少し緩めた。
「……よかったです」
声にしてから、自分でも、随分ほっとしていることに気づいた。
文章を考えている時には、その時に思ったことを書いただけだった。
でも、渡してしまったあとには、何か違う受け取られ方をしたらどうしよう、とも思った。
楽しかったと書いていいのか。
嬉しかったことばかりでいいのか。
あの場で書き直したいとまでは思わなかったのに、あとから少し気になっていた。
「そのままの気持ちを書いていただけて、よかったと思います」
早川さんが言った。
私は小さく頷いた。
加入への反対が全部なくなった、という話ではない。
それくらいは分かる。
でも、自分の書いた言葉を読んで、よかったと思ってくれた人がいる。
それを聞けたことは、嬉しかった。
「教えていただいて、ありがとうございます」
「はい。こちらも、お伝えしておきたかったので」
早川さんはそう答えて、手元の端末へ一度目を向けた。
「それから、公演後のアンケートも、今、回答を受け付けています」
「アンケートですか?」
「はい。昨日から、来場された方へご案内しています」
私は少し姿勢を戻した。
「ライブがどうだったか、というものですか?」
「そうです。公演の満足度や、印象に残ったところなどですね。ただ、今回はいつもより、六人体制になったことをどう受け止めたかも、詳しく確認しています」
早川さんが、端末の画面を少し動かした。
「どなたでも答えられるわけではなく、電子チケットの入場記録で、実際に来場されたと確認できた方へ、それぞれ回答用の案内を送っている形です」
「……じゃあ、土曜日にあの会場にいた人たちが」
「はい」
あの客席にいた人たち。
頭の中に、舞台から見た会場が浮かんだ。
前の方で大きく手を上げていた人。
少し奥で、座席の辺りから光を振っていた人。
顔までは、覚えていない人の方がずっと多い。
それでも、何も見えなかったわけではなかった。
「公演が楽しかったかどうかと、六人になったことをどう思っているかは、別々に聞いています。白瀬さん個人について、今後応援したいと思うかも、別の設問です」
私は、早川さんの顔を見た。
「わざわざ、別に聞くんですね」
「はい。同じ答えになるとは限りませんから」
前にも、似たことは聞いていた。
六人のライブを見てから考えたい人もいれば、見ても五人の方がよかったと思う人もいる。
私の歌やダンスがどうだったかとは、別の話をしている人もいる。
その違いを、実際に質問にしているらしかった。
「それから、物販で何を購入したか、その理由も聞いています。ペンライトを使った方には、点灯した色や、その色にした理由についても答えていただけるようにしています」
「色の理由まで?」
「はい」
少し驚いた。
売れた数を調べたり、客席の色を見たりすることは、何となく想像できた。
でも、どうしてそれを選んだのかまで尋ねているとは思わなかった。
「グッズが売れたことは、販売記録でも分かります。ただ、写真が気に入ったのか、記念に買ったのか、六人分を揃えたかったのかは、数だけでは分かりませんので」
「……なるほど」
「ペンライトも同じですね。曲のパートに合わせて色を変える方もいらっしゃいます。今回、どういう気持ちでその色を使ったのか、書いていただける欄を設けています」
前の方で、一本の光が下がった。
もう一度上がってきた時には、ローズピンクになっていた。
思い出したのは、その短い動きだった。
私のところを見て、変えてくれたのだと思った。
あの時は、それだけで嬉しかった。
でも、その人が何を思っていたのかまでは、聞けなかった。
「ピンクにしてくれた理由も、分かるんですね」
「答えてくださった方の分だけですけどね」
早川さんは、そう言った。
「会場にいた全員が回答するものではありませんし、書いていない気持ちまで分かるわけではありません。ただ、数字だけを見るよりも、受け止め方の違いは分かると思います」
「はい」
私は頷いた。
あの光を、もう一度数えたいわけではなかった。
何本あったのかが分かれば、それで満足できるとも思わない。
自分たちが歌っているところを見て、どう感じたのか。
あの時、聞いてみたいと思ったことを、今、尋ねてもらっている。
「回答は明日まで受け付けて、そのあと担当の方で集計します」
早川さんが端末から目を上げた。
「そこで確認なのですが、白瀬さんは、結果がまとまったら確認したいですか?」
すぐに、はいと言いかけた。
その前に、少しだけ考えた。
よかったと言ってくれた人の言葉だけが、並ぶわけではない。
まだ足りないと思われたところも、読むことになるのだろう。
今日、投稿の反響が悪くないと言われて、ほっとしたばかりだった。
そのまま、よかったと思っている方が楽かもしれない。
だけど、知りたかった。
舞台にいた私には見えなかったものが、客席からは見えていたはずだ。
「はい。見せていただきたいです」
顔を上げて答えた。
早川さんが頷く。
「分かりました。個人が特定されない形で、集計と感想を整理してお渡しします」
「数字だけじゃなくて、書いてくださったことも読めますか?」
「はい。どうしてそう答えたのかが分かる文章も、一緒にまとめますね」
「……お願いします」
返事をすると、早川さんは短く書き留めた。
まだ、どんな結果になるのかは分からない。
さっきの投稿の話と同じように、安心できるとも限らない。
それでも、聞かれた時に、見せてほしいと答えられたことには、少しだけ納得していた。
「では、明日の予定も確認しておきます」
早川さんが、手元の資料を替えた。
「午前中はレッスンで、午後は公式チャンネルの収録です」
「はい」
鞄からノートを取り出し、予定を書いてあるところを開く。
午前のレッスンと、午後の収録。
先に聞いていた予定と同じだった。
今日もらった曲の練習をして、それから撮影の準備へ移る。
昨日、由佳へ忙しいと話したことが、そのまま明日の一日になっていた。
「以前お話ししたとおり、今後の雑誌の取材や、地上波のテレビ番組への出演も見据えて、まずはスタッフが全て社内人員で行われる公式チャンネルで出演経験を積んでいただきたいと考えています」
早川さんが続けた。
「地上波の番組からも、白瀬さんへの出演のお話はいただいています。ただ、企画の内容などを検討したうえで、今のところはお断りしています」
私は、ノートから顔を上げた。
「一方で、『六つの光』のシングル発売後には、音楽番組からグループ全体での出演依頼が来ることも想定しています。そうした機会に向けても、少しずつ準備を進めておきたいんです」
「……六人で、テレビに出るんですね」
「お話が決まれば、そうなりますね。歌を披露するだけでなく、司会の方とお話しする時間が設けられることもありますから」
テレビの中で、歌う前に質問へ答えている人たちを思い浮かべた。
曲について話したり、隣の人の発言を聞いて笑ったりしている。
ああいうところにも、自分が加わるかもしれない。
「質問を受けて自分の言葉で答えたり、他の出演者とのやり取りに加わったりすることは、公式チャンネルでも経験できます。番組の収録がどんなふうに進むのかも含めて、まずは皆さんと一緒に慣れていっていただければと思っています」
「はい。分かりました」
カメラの前に立つこと自体は、初めてではない。
でも、質問に答えたり、会話の途中で話すタイミングを見つけたりすることには、まだ慣れていなかった。
私は、午後の収録と書いたところへ、もう一度目を落とした。
「何か、今のうちに確認しておきたいことはありますか?」
少し考えてから、首を横に振った。
「今のところは大丈夫です」
「分かりました」
私はノートを閉じかけた。
そこで、早川さんがもう一度口を開く。
「あ、それと。白瀬さんに、もう一つお願いがあります」
手を止めた。
「はい」
「近いうちに必要になりますので、サインをどうするか、考えておいていただけますか」
「……サイン、ですか?」
思わず聞き返した。
早川さんは頷く。
「ファンの方へお渡しするものなどに使う、白瀬さんのサインです」
「ああ……」
契約書に名前を書いた時のことが、一瞬だけ浮かんだ。
もちろん、あれとは違う。
違うのは分かる。
だけど、何を書けばいいのかは、すぐには分からなかった。
早川さんが、一枚の紙をこちらへ差し出した。
「参考に、五人のものを用意しました」
「ありがとうございます」
受け取って、目を落とす。
五人のサインが並んでいた。
最初に気づいたのは、どれも名前がローマ字で書かれていることだった。
頭文字だけが大きく、そのあとの文字は、線をほどかずにつないだようになっている。
少し右上がりになった名前の最後から、長い線が下へ回り込む。
そのそばには、四方へ尖った小さな光の印が添えられていた。
一つずつ見比べる。
ひより先輩の「Hiyori」は、最初の「H」が丸く膨らんでいた。
大きめの輪に、そのあとの小さな文字が寄り添うようにつながっている。
最後の「i」から下へ回る線も短めで、全体がころんとまとまっていた。
丸く崩してあるのに、文字の間隔は揃っていて、どこかだけが窮屈になっている感じがしない。
隣の美月のものは、ずっと横に広かった。
「Mizuki」の「M」が、二つの大きな曲線になっている。
途中の「z」も長く流れていて、名前の下を通る線は、さらに大きな弧を描いていた。
一文字ずつ読まなくても、この広がった形を覚えたら、美月のものだと分かりそうだった。
玲奈さんの「Reina」は、最初の「R」の縦線がすっと長い。
そこから伸びる払いは綺麗だったけれど、そのあとの文字まで大きく広がってはいなかった。
「eina」の高さも傾きも揃い、名前の下へ回った線も、浅いカーブからまっすぐに近い形で伸びている。
飾りは同じ光の印だけなのに、それで十分に整って見えた。
澪先輩の「Mio」へ目を移す。
美月と同じ「M」から始まっているのに、随分違った。
こちらは山の部分が柔らかく伸び、そのあとへ小さな「i」と「o」が続いている。
最後の丸から出た線が、そのまま名前の下で緩やかに波を打っていた。
三文字しかないけれど、周りの空いたところまで含めて、一つの形になっている。
長く伸ばした歌声を、線にしたらこうなるのかもしれない。
夏希の「Natsuki」は、最初の「N」から勢いがあった。
書き出しが跳ね上がり、文字全体が他の四人よりも強く右へ傾いている。
途中の「tsuki」は、一気にペンを走らせたようにつながっていた。
下へ回った線も、最後は鋭く右上へ抜けている。
そこで止まっているはずなのに、まだ先へ進みそうだった。
人によって、丸くまとまっていたり、大きく広がっていたりする。
でも、並べて見ると、同じところもはっきり分かった。
「この、下の線と光のマークは、皆さんで揃えているんですね」
顔を上げると、早川さんが頷いた。
「はい。デビュー前に、五人で相談して基本の形を決めたそうです。名前をローマ字でつなげて書くことや、線の流し方も含めて。そこから、それぞれの書き方にしていったんですよ」
「五人で……」
「白瀬さんも、この形をもとに考えていただければと思っています」
もう一度、紙を見た。
同じ印を付けただけではなかった。
名前を書いて、下へ線を回して、最後に光を添える。
その流れは同じなのに、出来上がった形は、五人とも違っていた。
普段、ノートに書く名前とは、どれも違う。
写真やグッズなどに入っているのを、どこかで見たことはある。
でも、自分の名前もこの並びへ加わるものとして、こうして見るのは初めてだった。
「……これを、自分で考えるんですね」
「はい。まずは、白瀬さんがどんなものにしたいか、案を出していただければ」
「どんなもの……」
もう一度、紙を見る。
白瀬真琴。
頭の中で、自分の名前を書いてみた。
いつもの字だった。
少し丸くしてみても、名前を少し丸く書いたものにしかならない。
五人のサインへ目を戻す。
何をどうすると、こうなるのだろう。
「一つに決めてから見せるんですか?」
「いくつか案があっても大丈夫ですよ。実際に使いやすいかどうかも、一緒に確認しますので」
「使いやすい、というのは……」
「何度書いても、同じ形にしやすいか、といったところですね。小さなものへ書くこともありますから」
私は、紙に並ぶ線を見た。
一度だけ綺麗に書ければいいわけではないらしい。
その点は、何となく分かった。
分かったけれど、肝心の形がまだ何もなかった。
「分かりました。考えてみます」
「お願いします。まずは、いろいろ書いてみてください」
早川さんが少し笑った。
私は頷いて、参考の紙を持ち直した。
自分の名前なら、何度も書いてきた。
学校のプリントにも、ノートにも、書類にも。
名前を書くことに、こんな準備が必要になるとは思っていなかった。
五人のサインをもう一度見てから、今日もらった歌詞の紙と重ねる。
折れないよう、クリアファイルへ入れた。