TS少女は演じたい 作:息抜き
八月十二日、水曜日。
レッスンを終えて着替えたあと、休憩室のテーブルへ二枚の紙を並べた。
一枚は一昨日早川さんからもらったもの。
もう一枚には、昨日の夜から何度も書いてみた、自分の名前が並んでいる。
「真琴、それサイン?」
向かいへ座った美月が、紙を覗き込んだ。
「うん。考えておいてくださいって言われて」
「おお。見せて」
少し迷ってから、紙を美月の方へ向ける。
美月は上から順に見ていった。
「……なるほど」
「……正直に言ってくれていいんだけど」
「うーん……まぁ、ちゃんと読めるし普通だなって」
「つまり、微妙ってことね」
名前の頭だけ大きくしてみたり、最後に線を足してみたりしたけど、どれも英語のノートへ名前を書いたものに近かった。
その横へ五人の見本を置くと、違いがよく分かる。
「皆、どうやって考えたんですか。こういうの」
飲み物を持ってきたひより先輩が、私の隣へ座った。
「最初から今の形だったわけじゃないよ」
「そうなんですか?」
「うん。結構書き直した。丸くしすぎて、何て書いてあるか分からなくなったり」
「ひより先輩の、最初の頃もっと丸かったですよね」
「美月のはもっとごちゃごちゃしてた」
「だって、サインも賑やかな感じがいいかなーって」
「何枚も書くのに向いてないって早川さんにすぐに没にされたよね」
「あ、あははー……」
美月が笑った。
反対側では、夏希が鞄からノートを出していた。
玲奈さんはスマホを伏せ、澪先輩も、開いていた本へ栞を挟む。
何となく、皆がこちらを見ている。
「……すみません。休んでるところに」
「気にしないで。皆好きなことをしているだけだし、レッスンも終わっているのだから何をしようと自由だもの」
玲奈さんが、自分のノートを閉じた。
「どこを変えたいの?」
「それも、まだよく分からなくて。名前を崩せばいいのかなと思ったんですけど」
もう一度、紙を自分の方へ向ける。
三つ目の名前は、真ん中の文字をつなげようとして、線が絡まっていた。
「ここは崩しすぎた気もします」
「そんなに難しく考えなくてもいいんじゃない?」
夏希が言った。
「どういうこと?」
「こう、バーって書いて、サラサラーってやれば、いい感じになるから」
「……本当にどういうことなの?」
ひより先輩が小さく笑った。
「感覚派は置いておいて……頭文字だけでも形変えてみたら?全部いっぺんに変えようとすると、どこをどうしたか分からなくなるし」
「最初のMですか」
「うん。そこが一番大きいから」
美月が、自分のペンを取り出した。
「Mなら、私と澪先輩も一緒だね」
空いているところへ、さらさらと名前を書く。
二つの大きな曲線から始まった線が、細かく動きながら右へ進んでいく。最後から名前の下へ回り、長い弧を描いた。
その脇に、小さな光が加わる。
見本で見たものと、ほとんど同じだった。
「……速い」
「何回も書いてるからね。私は、最初のここを大きくしたかったの」
美月の指が、Mの山を示す。
「離れて見ても、この形で分かるといいなって。でも、最初はこっちまで大きくしてて」
名前の後半を指したあと、さらに外へ手を動かす。
「大変だった。毎回、右側ぎりぎりになってた」
「それで短くしたんだ」
「そう。ちゃんと見栄えもよく、かつ紙の中で終わるように調整しました」
「見栄えは最重要事項?」
「もちろん!」
私が言うと、美月は楽しそうに頷いた。
続いて、澪先輩がペンを持つ。
美月と同じMなのに、こちらはずっと静かに線が伸びた。
大きな文字から小さな二文字へつながり、最後の丸が、下で緩やかに波を打つ線になる。
「私は、ここ。最後のoから下へ行くところが好きだったから、残した」
「線の形から決めたんですか?」
「うん。何回か書いた中に、これがあって」
澪先輩は、今書いたものの下へ、もう一度同じ形を書いた。
「ただ、最初は長くしすぎた。ここで曲げるのが難しくて。長くすると、形が安定しなくなるし……」
指先が、下へ回り込む部分で止まる。
美月も、澪先輩も、最初に書いた形から少しずつ変えている。
今のものだけ見ていた時には、もっと簡単に決まったのかと思っていた。
「自分が好きだと思うところを、一つ残して考えてみたら?」
玲奈さんが言った。
「書きやすいかどうかも大事だけど、これから何度も書くものだから。自分で気に入っているところも、あった方がいいでしょう」
私は、自分の紙を見直した。
一番下の名前は、最初のMの左側に、小さな輪ができている。
少し丸くしてみようとして、そうなったものだった。
そこは、嫌いではなかった。
「……ここは、ちょっと気に入ってます」
「うん。かわいいね」
美月が、すぐに言った。
頷いて、私は新しい余白へペンを置いた。
Mの書き出しを丸くする。
一つ目の山を大きく、二つ目を少し低くして、その先へつなげる。
今度は後ろの文字を無理に潰さず、いつもより小さく書いてみた。
「さっきより、まとまったんじゃない?」
ひより先輩に言われて、少し離して見る。
確かに、見やすくなった。
ただ、まだ名前の下が寂しい。
「最後のoから、そのまま線を出せそうだね」
玲奈さんの言葉に、澪先輩のサインをもう一度見た。
同じようにするのではなく、自分の名前の長さに合わせて、下へ線を回してみる。
名前の下を通る線を浅くして、右へ戻った先を、少しだけ上げる。
最後に光の印を添えた。
「さっきのよりすっきりしたね」
「私も、こっちの方が書きやすかった」
もう一つ、隣へ書いてみる。
今度はMの輪が大きくなりすぎた。
「違うな……」
「まぁこれは、数を書いて気に入るのを見つけるしかないかな」
「ですよね……ちょっと色々書いてみます」
それから二十分近くああでもなこうでもないと試作品を書き続けた末に、ようやく納得いけそうなものが書けた。
「……これ、いいかもしれないです」
言うと、美月が身を乗り出した。
「うん。真琴っぽい」
「そう?」
「ちょっとかわいくて、でも、すっきりしてる」
もう一度、自分の名前を見る。
最初の輪は柔らかいけど、後ろの文字まで丸く膨らんでいるわけではない。
下の線も、大きく広がらずに名前のところへ戻ってきている。
自分でも、悪くないと思った。
「……できた」
小さく言ったつもりだったのに、美月が聞いていた。
「できたね」
その返事が、何だか嬉しかった。
————
紙の下の方まで名前が増えたところで、私はペンを置いた。
最初に持ってきた紙とは、随分違っている。
五人の名前も、自分の名前も、あちこちにあった。
「早川さんに見てもらってきます」
「行ってらっしゃい」
ひより先輩が頷く。
紙を揃えて休憩室を出ると、早川さんは廊下の先で、別のスタッフさんと話していた。
少し離れて待ち、話が終わってから声をかける。
「早川さん。サインのことで、今お時間大丈夫ですか」
「はい。案ができましたか?」
「皆にも一緒に考えてもらって、いくつか書いてみたんですけど」
空いていた部屋へ入り、机の上へ紙を置いた。
早川さんは、一昨日もらった見本と、私が書いたものを見比べる。
「こちらが、今考えている形ですか」
指されたのは、最後の方に三つ続けて書いたものだった。
「はい。最初のMと、下の線を少し変えました」
「ご自分では、いかがですか?」
「これが、一番好きです。書くのも、最初よりは迷わなくなりました」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。
自分の名前の書き方について、真剣に考えるのは初めてだった。
早川さんは頷き、もう一枚の紙と、少し太いペンを出してくれた。
「では、こちらでも書いてみていただけますか。少し小さくする場合も確認したいので」
渡された紙へ、さっきの形を書く。
細いペンの時より、文字の内側が狭くなった。
特にaとoが、少し詰まって見える。
「ここが、潰れちゃいますね」
「そうですね。もう少し間を空けられそうですか」
「やってみます」
次は、小さな文字を寄せすぎないようにする。
光の印も、一つ目より少しだけ離した。
もう一度、同じくらいの大きさで書く。
今度は、二つともちゃんと読めた。
早川さんが、紙を少し離して見る。
「いいと思います。形も揃っていますね。白瀬さんがよければ、こちらを正式な形にしましょう」
「はい。これでお願いします」
「それでは、見本はこちらでお預かりしますね。控えも今準備しますので」
早川さんが紙を揃えた。
これから写真やカードへ書く時も、この形を使う。
どこかへ印刷されることも、あるのかもしれない。
一昨日、五人のサインを見せてもらった時には何も浮かばなかったのに、今は、私のものもあった。
「——そうでした。最初の一枚をどうするかは、白瀬さんにお任せします」
「最初の一枚、ですか?」
紙へ目を落とす。
早川さんが、少し笑った。
「練習や見本とは別に、初めてどなたかへ贈るサインのことです。記念になりますし、意味を持つものですから。ご自分で残してもいいですし、大切な方へ渡してもいいと思います」
「誰かにあげてもいいんですか?」
「はい。どうなさるか、考えてみてください」
そう言われるまで、私は、完成したら仕事で書くものだとばかり思っていた。
ファンの人に渡すものや、何かの企画で必要なもの。
自分から誰かへあげるということは、考えていなかった。
「……分かりました」
形が決まって、ようやく一つ終わったと思ったところだった。
今度は、渡す相手を考えることになった。
————
休憩室へ戻ると、美月が顔を上げた。
「どうだった?」
「決まった。これを使うことになったよ」
控えの紙を見せると、美月が嬉しそうに笑う。
夏希も覗き込み、ひより先輩は、さっきの練習の紙と見比べた。
「ちょっと間を空けたんだね」
「はい。太いペンだと、丸いところが潰れたので」
「うん。こっちの方が分かりやすい」
私は頷いてから、紙をテーブルへ置いた。
「それで、もう一つ聞いてもいいですか」
「何?」
玲奈さんがこちらを見る。
「最初のサインをどうするか、自分で決めていいって言われたんですけど。皆は、どうしたのかなって」
少しだけ、皆の目が動いた。
ひより先輩が、最初に口を開いた。
「私は弟」
「弟さんに?」
「うん。家でいるか聞いてみたら、くれるならもらっとく、って」
ずいぶん、あっさりしていた。
私が少し黙ると、ひより先輩も笑った。
「別に、いらないとは言われなかったけどね」
「最初の一枚ですよね?」
「そう言ったよ。それで、じゃあもらっとく、って」
「二回言ったんですか」
「二回とも、そんな感じだった」
夏希が吹き出した。
玲奈さんも、口元へ手をやる。
「でも、ちゃんと受け取ってくれたんですね」
「うん。あの子にとっては、姉の名前だし、なんなら私高二で弟中学生で反抗期真っ只中だったからね。急に大喜びされても、それはそれで変だし」
ひより先輩の言い方に、何となく家での様子が浮かんだ。
テレビやステージのひより先輩を知らないわけではなくても、普段一緒に暮らしているお姉さんなのだろう。
「私はひより先輩!」
その隣で、美月が言った。
あまりにも迷いのない答えだったので、私は思わず二人を見比べた。
「ひより先輩にあげたの?」
「うん。最初に渡したかったから」
「……もらったね」
ひより先輩が、飲み物へ手を伸ばす。
「練習の紙に練習で書いたやつかと思ったら、ちゃんと渡す用のだった」
「ちゃんと書きましたもん。まだ持ってます?」
「持ってるけど」
すぐに返ってきた。
美月の顔が、分かりやすく明るくなる。
「よかった」
「何で捨ててると思うの」
「思ってないですけど。確かめたかったんですよー」
ひより先輩は、何か言いかけて、結局そのまま飲み物を口へ運んだ。
美月は、まだ少し嬉しそうだった。
初めてあげたサインを、今も相手が持っている。
それは、確かに嬉しいだろうなと思った。
「私は両親ね」
玲奈さんが言った。
「芸能界に入るのを決めてから、二人ともずっと応援してくれていたから。サインが決まったって話した時に、最初の一枚をもらってほしいって」
「喜んでくれました?」
「うん。私が思っていたよりも」
少し照れたように笑う。
「名前を書いただけなのにそんなに、とは思ったわね」
「私も、まだそんな感じです」
「そうでしょうね」
玲奈さんは、私の紙へ目を向けた。
「でも、もらう方には、名前だけじゃないのかもしれない」
今決めたばかりのサインを見た。
書いてあるのは、本当に自分の名前だけだ。
少しアイドルっぽく装飾はされているが、私からしたらまだただの名前でしかない。
「澪先輩は誰にあげたんですか?」
「前に歌を教えてもらってた先生」
澪先輩が答える。
「挨拶に行った時に、サインはもう決まったの、って聞かれて。それで、決まったって言ったら、一枚書いていってって」
「用意して行ったわけではないんですね」
「うん。そんな話になると思ってなかったから」
「書く時、緊張しませんでした?」
「した。見られてたし」
澪先輩が、少しだけ笑う。
「それに、今も先生の教室に飾られてるみたいだし。それも少し恥ずかしい」
「それは……私でも恥ずかしいですね……」
今まで何度も見てもらっていた相手の前で、自分のサインを書く。
知らない人に書くのとは、また違う難しさがありそうだった。
しかも、それを先生が教え子がプロになった記念にと言わんばかりに教室に貼ったりなんてしたら……
「夏希は?」
「ダンススクールの友達」
夏希は、すぐに答えた。
「久しぶりに会った時に、サインできたって話したら、欲しいって言われて」
「それで書いたんだ」
「うん。ずっと一緒に踊ってた子だから、ちょっと変な感じしたけど」
「変な感じ?」
「だって、相手はずっと友達だった子だし。なのに、サインだって喜んでくれるから」
そう言ってから、夏希は少し笑った。
「でも、嬉しかったよ。ちゃんと綺麗に書こうと思ったし」
誰に聞いても、少しずつ違った。
最初からその相手に渡そうと思っていた人もいれば、話しているうちに決まった人もいるらしい。
「真琴は、誰か考えてるの?」
美月に聞かれ、私は顔を上げた。
「まだ。家族とか、友達とかは浮かぶんだけど」
「悩むよね~」
「悩まずにひより先輩にあげたっぽい美月がそれを言うのは引っかかるけど……うん。最初って言われると、何か……」
言いながら、紙へ目を戻す。
これから何度も書くものだ。
一枚しか書けないわけではない。
分かっているのに、その一枚を誰にあげるのかは、すぐには決められなかった。
————
家へ帰ってからも、まだ考えていた。
電車の中では、五人の話を順番に思い出した。
サインができたことより、誰に渡したかという話の方が、帰る頃には頭の中を占めていた。
夕食を食べ終えたあと、私は鞄から控えの紙を持ってきた。
「今日、サインが決まったんだ」
テーブルの上へ置くと、母が身を寄せた。
父も、手元から顔を上げる。
「これ?」
「うん。皆に教えてもらって決めた、アイドルとしてのサイン。早川さんにもOKもらった」
「そっか。ちゃんとサインになってるね」
母が言った。
少しおかしくて、笑ってしまう。
「私も、そう思った」
「自分で考えたのか」
「形は。下の線とか、光のマークは、皆入れてるみたいだから揃えてるんだけど」
五人の見本も出すと、父は二枚を並べた。
「ああ。本当だ」
「でも、名前の形は皆違うのね」
「そう。それが難しくて」
最初は普通に名前を書いただけだったことや、線を長くしすぎたことを話す。
母は紙を見ながら、小さく頷いていた。
少し間が空いたところで、私は二人を見た。
「それで……お父さんとお母さんも、私の初めて書くちゃんとしたサインって欲しい?」
母が顔を上げた。
父も、こちらを見る。
「もらえるなら、嬉しいよ」
母は、そう答えた。
「貰えるならな。記念になるだろう」
「……そうなんだ」
「意外?」
「毎日顔を見てるし、名前も知ってるから」
口にしてみると、妙な理由だった。
母が笑う。
「そうだとしても、私たちからしたら真琴は大事な一人娘だもの」
「娘の初めてのサインで、喜ばない親はそういないんじゃないか?」
名付けた本人たちだった。
私は少し笑ってから、続きを話した。
「今日、最初に誰かにあげる一枚は、自分で決めていいって言われたの。それで、どうしようかなと思って」
「そっか」
母は、もう一度サインを見た。
それから、紙を私の方へ戻す。
「それなら、真琴が渡したい人に渡したらいいと思うよ」
「え、でも二人とも、欲しいんでしょ?」
「もらえたら嬉しい、ってだけね。でも、それと最初に誰へ渡すかは別だから」
父も頷いた。
「俺たちは、また書いてもらえるしな。せっかくなら、自分で決めたらいい。真琴があげたいと思う人がいるなら、その人にあげていいんだ。遠慮はしなくていい」
私は、紙の端を持った。
欲しくないわけではない。
それなのに、私が選ぶようにと促されている。
「……もう少し考える」
「うん」
母が頷いた。
私は二枚を揃え、自分の部屋へ戻った。
————
誰へあげたいかも、自分で決めていい。
そう考えながら椅子へ座ると、由佳の顔が浮かんだ。
そもそも、私がサインをあげられる可能性がある人なんて、両親と、由佳くらいしかいない。
彩花にあげても喜びはするだろうけど、まだそこまで沢山遊べてはいないから困惑の方が強いだろうし。
だから、両親にあげない場合となると、由佳にあげたいかを考えるのが自然だと思った。
二月の撮影の日。
同じくらいの年の女子を探している。
後ろで座ったり、歩いたりするだけ。
そう聞いたから、私は行ってみようと思った。
実際には、途中で話が少し変わったけれど。
……少し、で済むだろうか。
今の私は、だいぶ変わった気がする。
でも、あの日由佳が誘ってくれなければ、この場所にはこなかった。
FOLIOの人に会うこともなかっただろうし、五人の隣で歌うことだって、考えもしなかったはずだ。
だから、そのお礼に。
そう考えて、少しだけ止まった。
それだけでは、ない気がした。
由佳に何かを渡したいと思う理由は、二月のあの日よりも前からあった。
高校に入ったばかりの頃、私は、人とそこまで仲良くなるつもりがなかった。
普通に話せる。
同じ班になっても困らない。
誘われた時に、仲間外れにされない程度に、ときどき一緒に行く。
それくらいで十分だと思っていた。
中学の時のようになるくらいなら、誰かの一番近くへ行こうとしなくてもいい。
辛い思いをするくらいなら、親しい人なんて作る必要がない。
表面上だけ合わせて、最低限の付き合いを維持すればいい。
そう考えていた私に、由佳は何度も話しかけてきた。
最初は、読んでいた本の話だった。
その次には、映画の話。
自分で作った動画を見せられたこともあった。
何度か、帰り道の誘いを断った。
由佳は、分かったと言った。
それで終わって、次の日にはまた普通に話しかけてきた。
昨日断ったことを、こちらから持ち出さなくてよかった。
機嫌を確かめてから返事をする必要もなかった。
機嫌を損ねていないのは、彼女の朗らかな表情を見れば疑いようがなかった。
別の日に、また誘われる。
今度は行く。
映画を見て、分からなかったところを聞いて、帰りの電車でもまだ同じ話をする。
そういうことが、少しずつ増えた。
いつの間にか、昼休みには由佳と一緒にご飯を食べるのが定番になっていた。
面白いものを見つけたら、明日話そうと思うようになった。
何かを言う前に、これを言ったらどう思われるかと考える時間も、由佳といる時は短かった。
嫌な時には嫌だと言える。
由佳も、それでいなくならなかった。
由佳は、自分が何かをしたとは思っていないだろう。
中学の時、私がどんなことを怖がって、何を諦めようとしていたのかまでは知らない。
高校の私の他人との距離のことなんて、教えたことがないんだから、知っているはずがない。
それでも、高校へ入ってから少しずつ、人と仲良くなることを楽しいと思えるようになったのは、由佳がいたからだ。
誰とも関わらなくていいなんて考えなくなったのは、由佳のおかげだ。
この人生で、こんなに気を許して仲良くなった友達は、由佳が初めてだった。
今も、一番仲がいい。
一番大切な、親友、だと思う。
本人には、言ったことはないけど。
言ったら、絶対に何か言い返してくる。
デレてるとか言いながら、目の前でにやにやする顔まで簡単に想像できた。
もう一度、サインを見る。
私は、これからこの名前を何度も書く。
まだ始まったばかりで、歌もダンスも、もっと練習しなければいけない。
名前だけ先に立派にして、終わるわけにはいかないと思う。
由佳も、映像を作ることを仕事にしたくて、今も勉強している。
教わったことを家で試して、上手くいかなかったと言いながら、また別の動画を作る。
完成したものを見せてくる時の期待に満ちた顔を、何度も見てきた。
自分が作ったものを人に渡すことや、これからもっと上手くなりたいと思うこと。
そういう気持ちは、由佳なら分かってくれる気がした。
この一枚を、今の私の記念として持っていてほしい。
いつか二人で見返した時に、最初はこんなだったねと笑えたら、嬉しい。
私は、机の端にあったスマホへ手を伸ばした。
画面をつける。
由佳とのやり取りを開きかけて、その前に、一度手を止めた。
————
居間では、母が洗濯物を畳んでいた。
父はソファに座って、テレビを見ている。
私が入っていくと、母が顔を上げた。
「決まった?」
「……うん」
父もこちらを向いた。
私は、テーブルの脇で立ち止まる。
「最初のサイン、由佳にあげようと思って」
母の表情が、少し緩んだ。
「ああ。由佳ちゃん」
「二人とももらえたら嬉しいって言ってくれたのに、ごめんね」
言うと、母は手に持っていたタオルを膝へ置いた。
「謝らなくていいのよ」
父も、テレビの音を少し下げた。
「由佳ちゃんなら、不思議じゃないしな」
思っていたよりも、ずっとあっさりした返事だった。
私は、二人を見比べる。
「……そうなの?」
「うん。大切なお友達でしょう」
「そうだけど」
「だったら、いいじゃない」
母が、隣の空いているところを軽く叩いた。
腰を下ろすと、母はタオルをもう一度畳み、重ねてからこちらを見る。
「高校……ううん、中学に入ってから、真琴が自分から名前を出して話す同級生って、由佳ちゃんだけだったもの」
少し、返事が遅れた。
「……そうだった?」
「そうだった。クラスの子が、とか、同じ班の子が、っていう話はあったけど。名前まで覚えるくらい何度も聞いたのは、由佳ちゃんだけ」
自分が家で何を話したかなんて、一つずつは覚えていない。
けれど、映画を見に行ったあとで、どんな話だったかを母へ説明したことはあった。
その途中で、由佳が何を言ったかも話した気がする。
「今日由佳がね、って。映画の話だったり、動画の話だったり」
母が、少し笑った。
「私たちにはまだ何が面白いのか分からないのに、真琴が先に笑っちゃって、説明が止まることもあったのよ」
「そんなに?」
「結構あったぞ」
父まで頷いた。
母も笑っていた。
でも、そのあと、声が少しだけ静かになった。
「高校に入ったばかりの頃は、やっぱり心配だったから」
私は、母を見た。
「また嫌なことがあっても、真琴は家で言わないかもしれないでしょう。中学の時も、最初は大丈夫って言っていたし」
「……うん」
あの頃のことは、両親も知っている。
全部ではない。
何を言われたのかも、どういう時に一番嫌だったのかも、話していないことは多い。
それでも、何もなかったと思っているわけではない。
「でもね。由佳ちゃんの話をする時は、本当に楽しそうだったの」
母は、私の顔を見ていた。
「学校のことを聞いたから答えるんじゃなくて、真琴の方から、今日こんなことがあったって、笑いながら話してくれたから」
膝の上に置いていた指が、少し動いた。
「話し終わっても、まだ笑ってるの。次は何を見に行くとか、今度これを見せてもらうとか。そういう続きもあって」
私は、何も言わずに聞いていた。
自分が由佳と楽しく過ごしていたことは、知っている。
でも、そのあと家でどんな顔をしていたかまでは、考えたことがなかった。
父が、ゆっくり口を開いた。
「学校は大丈夫かって聞いて、大丈夫だって返ってくるのと、真琴が自分から楽しかった話をするのとは、やっぱり違うからな」
私は、小さく頷いた。
「由佳ちゃんと仲良くなってから、安心したんだよ。ああ、友達ができたんだなって」
母が続ける。
「中学の時みたいに、ただ我慢して一日を終わらせてるんじゃないんだって。家に帰ってからも思い出して笑えるくらい、楽しいことがあったんだって、あの顔を見ると分かったから」
喉の奥が、少しだけ詰まった。
何か言おうとして、すぐには声が出なかった。
私は、膝へ目を落とす。
由佳と出会えてよかった。
それは、何度も思ったことだった。
けれど、私がそう思うようになった頃に、お父さんとお母さんも、家で同じようなことを思っていたらしい。
「……そんなに、分かりやすかった?」
聞くと、母は笑った。
「ええ」
「毎日見てれば、流石にな」
父が答える。
少し笑ってしまった。
笑うと、さっきよりも喉が楽になった。
指先をほどいた。
「……すごく大事な友達だから。最初にあげたいと思ったの」
母は、迷わず頷いた。
「うん。いいと思う」
父も、小さく笑っていた。
「だから、謝ることじゃないわ」
「……ありがとう」
言ってから、二人の顔を見る。
欲しいと言ってくれたことを、なかったことにはしたくなかった。
「二人にも、あとでちゃんと書くから」
「楽しみにしてる」
母が言った。
父も頷く。
その返事に、今度は素直に答えられた。
————
部屋へ戻り、椅子に座った。
スマホを開くと、由佳とのやり取りは、さっき見ようとしたところのままだった。
少し考えてから、文字を打つ。
『今日、サインが決まったんだ』
サインの写真と一緒に、送る。
今度は、すぐに既読がついた。
『おお!』
『ちゃんと芸能人のサインだ』
『どういう感想?』
『真琴がサインを書いてるの、まだあんまり想像できない』
それは、少し分かった。
私も一昨日までは、想像できていなかった。
『どんなサインにするか結構悩んだ』
『だろうね』
その返事と一緒に犬のスタンプがきたのを見て、指が一度止まる。
ただ写真を送るつもりで連絡したのではなかった。
私は、次の文章を打った。
『それで、初めて誰かにあげる一枚は、由佳にしたいんだけど』
読み直す。
変なことは書いていない。
書いていないはずなのに、送信するまでに少し時間がかかった。
送ると、すぐに既読がついた。
でも、返事はすぐには来なかった。
私は、机の上のサインを見る。
やっぱり、急だっただろうか。
そう思い始めたところで、画面に文字が増えた。
『え』
『最初の?それって、サイン一枚目ってことだよね?私でいいの?』
『うん』
続けて、もう一つ打つ。
『由佳にあげたい』
送ってから、スマホを少し離した。
……何だろう。
今日の私は、同じことを言うだけで何度も恥ずかしくなっている。
『ちょっと待って』
『普通にすごく嬉しいんだけど』
その文字を見て、少し息が抜けた。
『よかった』
『お父さんとお母さんには?あげなくていいの?』
『二人にも話したよ。由佳なら納得だって』
今度も、少し間が空いた。
『それ余計照れるんだけど』
私は、つい笑ってしまった。
由佳も照れているらしい。
顔が見えないのが、少し残念だった。
そのまま続けて、メッセージが来る。
『いや、でも今日の真琴どうしたの』
『何が』
『めちゃくちゃ素直じゃん』
『たまにはいいでしょ』
『いいですけど』
『そんなに私のこと好きだった?』
やっぱり、そういうことを言う。
私は少しだけ目を細めて、返事を打った。
『好きじゃなかったら、最初にあげないでしょ』
送信してから、自分の文章を読んだ。
……違う。
いや、違わないけど。
もう少し、いつもの返し方になる予定だった。
『……そうやって返されると思ってなかった』
『由佳が聞いたんでしょ』
『聞いたけど!』
私は、口元へ手をやった。
由佳の顔は見えない。
でも、今どんな顔をしているのかは、さっきよりも想像できた。
『真琴がかつてないほどデレてる』
『もうこの話は終わり』
『終わらせないで!もらう、絶対もらう!』
『ありがとう!大事にする!超大事にする!』
最後の一文を見て、手を下ろした。
ふざけているだけではないのが、ちゃんと分かった。
『次に会った時に渡すね』
そう送ってから、少し迷い、もう少しだけ打った。
『最初に撮影に誘ってくれたのも由佳だし』
『それより前から、最初はだいぶ付き合いも悪かったのに、ずっと仲良くしてくれてるから』
入力している途中で、恥ずかしくなった。
だけど、消さずに送った。
全部を説明しようとしたら、きっと長くなる。
高校に入った頃のことも。
誘われるたび、断っても平気なのか確かめていたことも。
今では、こんなやり取りで笑えていることも。
そこまで言葉にしなくても、受け取ってくれたら嬉しかった。
『こちらこそではあるんだけど』
由佳から、返事が来た。
『仲良くしてくれてるって言い方、ちょっと他人行儀じゃない?』
『何て言えばいいの』
『普通に友達でしょ』
『私にとっても、真琴は大事な友達なんだよ』
『映画の趣味もあうし、ワークショップのことも真剣に聞いてくれるし』
私は、その返事をしばらく見た。
普通に友達。
由佳にとっては、最初からそういう話だったのだろう。
『うん』
返事は、それだけにした。
そのあと、少し時間を置いて、由佳からまたメッセージが届いた。
『でも、真琴がそんなに頑張ってるんだから、私もちゃんとやらないとなって思う』
私は、背もたれから少し身体を起こした。
『映像の方?』
『うん』
『絶対、映像制作の仕事に就けるようにする』
『真琴に負けないくらい、ちゃんと実力つけるから』
いつもの冗談の続きを待つように、画面を見た。
でも、そのあとに来たのは、別の言葉だった。
『だから、前の約束忘れないでよ』
『私の作った作品に、真琴が出るってやつ』
覚えている。
二月、まだ最初の体験レッスンへ行く前だった。
交差点で信号を待ちながら、由佳が言った。
もっと勉強して、ちゃんと撮れるようになるから。
こういう役をやってほしいと、胸を張って言えるようになったら。
その時は、いつか私にも撮らせてほしい。
私は、机の上の紙へ目を向けた。
あの時には、サインの形も、歌う曲も、一緒にステージへ立つ人たちも、何も決まっていなかった。
今は、少しずつ増えている。
『忘れてないよ』
返してから、続ける。
『でも、内容を見てから考えるって言ったでしょ』
すぐに、返事が来た。
『そこも覚えてる』
『人気アイドル白瀬真琴が出ても不思議じゃないくらいのものを作り上げて、真琴自身も出たいって思えるのを作るから』
私は、画面を見たまま、少し笑った。
ずいぶん、はっきりと言ってくる。
でも、由佳らしかった。
撮らせてほしいと言いながら、そのために自分も勉強すると、最初から言っていた。
私も、由佳から頼まれた時に、できることが増えていたらいいと思う。
『じゃあ、その時はちゃんと見せて』
『とーぜん!』
『内容よかったら、出ることは考えてくれるんでしょ?』
少しだけ、指を止める。
まだ、どんな作品かも分からない。
どういう役なのかも、いつになるのかも分からない。
それでも、由佳が作った映像の中へ自分が入ることは、前よりも少し想像しやすかった。
『うん。私がやりたいと思えたら』
それを送ると、由佳から、両手を上げた動物のスタンプが来た。
私は、すぐに次を打った。
『まだ決まってないからね』
『分かってる。内容次第』
『そこを何回も言われないくらいのを作る』
思わず笑ってしまった。
『期待してる』
送ったあと、もう一つ付け足す。
『前も言ったけど、何をする役かは、ちゃんと先に教えてね』
『最初から台詞のある役にするって言ったじゃん』
『当日に増やさないで』
『だから、それは私も知らなかった!』
二月にも、同じようなことを言い合った。
あの日、由佳も本当に驚いていた顔を思い出す。
笑いながら、スマホを持ち直した。
由佳から来る連絡が、映画の予告でも、自分で編集した短い動画でもなく、私にやってほしい役の話になる。
その日が来たら、どんな気持ちで画面を開くのだろう。
まだ分からない。
でも、そういう連絡なら、もらってみたいと思った。
『じゃあ、まずはサインをお待ちしてます』
由佳から、話が戻ってきた。
『うん。ちゃんと書くから』
『目の前で書いてもらってもいい?』
『緊張するんだけど』
『私も緊張しながら見るから』
『見る方は緊張しなくていいでしょ』
『初サインだよ?』
『ルミパレクラスのアイドルグループの友達の、初サインを貰えちゃうんだよ?』
『緊張しないわけないでしょ』
その文字を見て、また少し笑った。
さっきまで私が考え込んでいたことを、今度は由佳が言っている。
『じゃあ、失敗しても笑わないで』
『笑うかもしれないけど、大事にする』
ずいぶん正直だった。
私は、一度だけ首を振ってから返す。
『なるべく成功させます』
『楽しみにしてる』
その言葉のあとに、嬉しそうな顔のスタンプが一つ来た。
私は、すぐには画面を閉じなかった。
まだ、一枚も渡していない。
それでも、由佳にすると決めてよかったと思った。
————
由佳とのやり取りを閉じ、メッセージアプリの『Lumière Palette』のグループを開いた。
昨日、美月が送ってくれた料理の写真が、少し上に残っていた。
六人分のお皿。
私のだし巻きと、隣に並んでいた夏希の卵焼き。
その下へ、新しい文章を打つ。
『今日相談していた初めてのサイン、親友にあげることにしました。色々教えてくださって、ありがとうございました』
送ってから、机の上の紙を見る。
名前の形を考えていた時には、今日こんな話をすることになるとは思っていなかった。
両親が、由佳の話をする私の顔を覚えていたことも。
由佳が、あんなふうに喜んでくれることも。
スマホが震えた。
『決めたんだ!』
美月からだった。
続けて、夏希からも来る。
『おー!誰にするのかなって思ってた』
『その子にはもう言ったの?』
美月の質問へ返事をする。
『うん。次に会った時に渡す約束した。すごく喜んでくれたよ』
『よかったね』
澪先輩から、短い返事が来た。
そのあとに、玲奈さん。
『それなら、渡す日も楽しみね』
私は、少し笑って返す。
『目の前で書いてほしいって言われたので、ちょっと緊張します』
『それは誰もが通る道だから、覚悟決めて頑張ろう』
ひより先輩からだった。
『書く前に、考えすぎて止まらないようにね。勢いで書いちゃえ』
『はい、そうしようと思います』
そう送って、もう一度自分の名前を見た。
次に由佳へ会う時は、この形で、ちゃんと書こう。
そのあとは、お父さんとお母さんにも。
画面には、また新しい返事が増えていた。
私は笑いながら、グループの続きを開いた。