TS少女は演じたい   作:息抜き

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45話

八月十三日、木曜日。

 

スタジオに入ると、ひより先輩の声が聞こえた。

大きなガラスの向こうに、マイクの前へ立っている先輩の姿が見える。

両耳にヘッドホンをつけ、手元の歌詞へ目を向けていた。

私に気づいた美月が、部屋の奥から小さく手を振った。

その隣へ行き、荷物を置く。

誰も話していなかったから、私もまずは黙って座った。

ひより先輩が、短いフレーズを歌い終える。

音が止まった。

 

「今のは残して。もう一つ、最後の言葉を少しはっきり言った方も録ろう」

 

鳴海先生が、卓上のマイクへ向かって言った。

隣では、録音を担当するエンジニアさんが画面を操作している。

 

『はい』

 

ガラスの向こうから返事がした。

少し前のところから伴奏が流れる。

ひより先輩が、さっきと同じように息を吸った。

歌い出しも、途中の言葉も、ほとんど変わらなかった。

でも、最後だけが少し違う。

 

「うん。これも録っておこう」

 

先生がそう言うと、先輩が小さく頷いた。

私は、膝の上の歌詞を見た。

今日は、レコーディングだった。

『六つの光』。

それから、カップリングとして収録する『はじまりのパレット』と、『雨音のリフレイン』の六人版。

三曲とも、八日に歌った曲だった。

担当するところも、基本的にはあの日と同じだ。

 

五人の昔の歌に私の声だけを足すのではなく、歌は皆で録り直すと聞いている。

録音は何日かに分けて進めていて、今日は私の担当部分と、五人のまだ残っているところを録る予定だった。

曲を知らないわけではない。

何度も練習して、ライブでも披露した曲だ。

しかも、今日は踊らない。

その分、歌うことへ集中できると思っていた。

今も、そう思っている。

思ってはいるけど。

ガラスの向こうのひより先輩が、もう一度、同じところを歌い始めた。

前と同じところは同じまま、変えてほしいと言われたところだけが変わる。

……それが、簡単ではないことはもう知っていた。

 

「おはよう、真琴」

 

録音が止まったところで、美月が声を落として言った。

 

「おはよう。もう始まってたんだね」

 

「うん。私もさっき少し録った」

 

そう言っている美月は、ガラスの向こうのひより先輩を見つめている。

その少し向こうで、玲奈さんが歌詞へ何かを書き込んでいた。

澪先輩は片耳へイヤホンを入れ、手元の紙と音を確かめている。

夏希は、椅子へ座ったまま足首を回していた。

なぜ足首を回しているのかは、少し……全く、分からないけど。

 

それはとにかく、私だけ、まだ何も始まっていない。

鞄からペンを出し、歌詞の端へ置く。

それから、鳴海先生たちの方へ目を向けた。

 

————

 

ひより先輩がブースから出てきたあと、早川さんと一緒にスタッフさんへ挨拶をした。

FOLIOの音楽制作を担当している泉さん。

録音のエンジニアさん。

その隣には、鳴海先生がいる。

いつもの先生がいることには、少し安心した。

ただ、先生が手にしているものは、レッスンの時とは違う。

何枚もの歌詞と、書き込みのある進行表。

画面には、横に長く伸びた線や、いくつもの色のついた枠が並んでいる。

 

「白瀬は、まず『はじまりのパレット』から。最初は聞こえ方も合わせるから、短く歌ってみよう」

 

「はい」

 

「歌いやすいかどうかも聞くので、気になることがあったら教えてください」

 

エンジニアさんにも言われ、頷いた。

早川さんが、手元の予定を私へ向ける。

 

「続けて三曲を全部歌うわけではありません。途中で確認や交代も入りますので、その都度ご案内しますね」

 

「分かりました」

 

紙を持ち、ブースへ入る。

マイクの前には、丸い網のようなものがあった。

歌詞を置く台もある。

エンジニアさんに位置を見てもらい、ヘッドホンを受け取った。

立ってみると、思っていたよりも手持ち無沙汰だ。

いつもなら、片方にはマイクがある。

もう片方も、何かしら動かしている。

今日は、両方とも空いていた。

歌詞の台へ触れようとして、やめる。

とりあえず、身体の横へ下ろした。

ヘッドホンをつける。

 

『聞こえますか?』

 

すぐ耳元で声がした。

 

「はい。聞こえます」

 

自分の返事まで、すぐ近くから返ってきた。

思わず、少し口を閉じる。

声が大きい。

いや、大きいというより、近かった。

 

『では、一度サビをお願いします。途中で止めますね』

 

伴奏が流れた。

知っている音だった。

入る場所も分かる。

息を吸い、歌い始めた。

……自分の声が、よく聞こえる。

五人と一緒に歌っている時は、こんなに自分の声ばかり気にしたことはなかった。

自分が出した音が、そのまま耳に返ってくる。

その近さが気になって、途中から少し声を引いた。

音が止まる。

 

『白瀬。今、後半で声を小さくした?』

 

「——はい」

 

『どうして?』

 

私は、ヘッドホンへ手をやった。

 

「自分の声が、すごく大きく聞こえたので。出しすぎてるのかなって」

 

先生が、隣のエンジニアさんへ何か言った。

口が動いているのは見えた。

けれど、その声は聞こえなかった。

少しして、また耳元へ声が来る。

 

『こっちで聞いている音量は問題ないよ。ヘッドホンの中のバランスを変えてみよう』

 

『ご自分の声を少し下げますね。伴奏との聞こえ方を、もう一度確かめてください』

 

「はい」

 

同じところから音が流れた。

今度は、さっきほど自分の声だけが近くなかった。

伴奏のリズムも追いやすい。

途中で小さくせず、そのまま歌った。

 

『今の方が歌いやすいですか?』

 

「はい。こっちの方がいいです」

 

『分かりました。とりあえずこのバランスでいきましょう。何かあればまた調整するので、遠慮なく言ってください』

 

返事をしてから、少しだけ肩を下ろした。

聞こえているかと聞かれれば、聞こえていた。

だから、問題ないと答えるところだった。

歌いやすいかどうかは、また別らしい。

ガラスの向こうで、ひより先輩がこちらを見ていた。

目が合うと、小さく頷いてくれる。

私も頷いた。

 

『じゃあ、最初の担当部分から録っていこう』

 

鳴海先生の声に、歌詞へ目を戻した。

 

————

 

『はじまりのパレット』の最初の部分は、思っていたより早く進んだ。

一度歌い、聞いてもらう。

次は、言葉の頭を少しだけそろえる。

それから、もう一度。

曲の最初から最後まで歌い続けるのではなく、自分の担当するところを区切って録っていく。

歌い終わったあとは、しばらく待つこともあった。

 

先生が画面を見ている。

エンジニアさんが、別のところを指している。

泉さんも何かを聞きながら頷く。

向こうでは話しているらしいのに、こちらは静かだった。

最初は、いつ返事をすればいいのか分からなかった。

 

『今、二つを聞き比べてるから、少し待って』

 

そう言われて、ようやく歌詞から顔を上げた。

ガラスの向こうでは、美月が何かを言っていた。

私の方へ向かって。

笑顔で、手まで動かしている。

……何も聞こえない。

首を傾げると、美月の手が止まった。

そのあと、ひより先輩が何か言い、美月が口元を押さえた。

玲奈さんまで笑っている。

少しして、こちらへ声が届いた。

 

『真琴、よかったって言ってた!』

 

美月だった。

 

「ありがとう。……美月それ話してたの?」

 

ひより先輩が、マイクの近くへ少し身を寄せる。

 

『途中から、自分が最初に録った時の話になってたけどね』

 

『ひより先輩、そこまで説明しなくても!』

 

『どうせ後で聞かれるでしょ。初めてのレコーディングで何か話されてるのを中から見た時とか、普通に不安になったし』

 

私は、つい笑ってしまった。

 

「……後で聞かせて」

 

『うん。あとで話すね』

 

向こうでエンジニアさんも笑っていた。

それから、次に歌うところを教えてくれる。

私は紙へ目を戻した。

二番の自分のところ。

その途中で、歌詞を確かめようとして顎が下がった。

歌い終えると、鳴海先生から声が来た。

 

『今、後半で下を向いたね。歌詞、見づらい?』

 

「少し。下の方が……」

 

『台を上げましょうか』

 

エンジニアさんが入ってきて、位置を調整してくれた。

顔を下げなくても、続きが見える。

さっきまで首を曲げていたことが、上がった紙を見るとよく分かった。

 

「ありがとうございます」

 

『もう一度いこうか』

 

同じところを歌う。

今度は途中で顔を動かさずに済んだ。

踊らない分、身体のことを考えなくてよくなると思っていた。

でも、ただ立って歌っている時にも、変わるものはあるらしい。

足を置く場所を確かめ、次の音を待った。

 

————

 

最初の交代で外へ出ると、ヘッドホンを外した耳に、部屋の音が少し遠く感じられた。

空調。

椅子が動く音。

誰かが紙を揃える音。

さっきまで聞いていた自分の声は、もうしなかった。

 

「お疲れ」

 

ひより先輩が、空いている席を示してくれる。

 

「ありがとうございます。……何か、変な感じでした」

 

「ヘッドホン?」

 

「はい。聞こえすぎるというか。レッスンの録音を聞くのとは違って」

 

「自分が歌ってる最中に聞こえるもんね」

 

隣へ座り、水を飲む。

美月が、待っていたようにこちらを見た。

 

「私も最初、自分の声を大きくしてもらったら歌いやすくなると思ってたんだよね」

 

「違ったの?」

 

「大きすぎると、すっごい気になる」

 

「……分かる、というか、それで声小さくした」

 

「自分の声だけ大きいとねぇ、やっぱり失敗してると思うよね」

 

私は頷いた。

さっき、まさにそうなっていた。

ひより先輩が、手元の歌詞を揃える。

 

「途中で変だと思ったら、歌い方変える前に聞いても大丈夫だよ。私も曲によって変えてもらうし」

 

「最初に決めたら、そのままってわけじゃないんですね」

 

「うん。ずっと同じにしなきゃいけないわけじゃないから」

 

そう言われて、歌詞の余白へ小さく書き足した。

声を小さくする前に、聞こえ方を言う。

隣から、夏希が覗き込む。

 

「普通に歌いやすいように注文しまくっていいってことだよ、つまり」

 

「随分ざっくりきたね……」

 

「まあでもそういうものだから」

 

「そっか」

 

夏希はいつもの笑顔で笑った。

そのあと、澪先輩がブースへ入った。

 

————

 

澪先輩が録っていたのは、『六つの光』の後半だった。

さっきまで聞いていた旋律とは、少し違う。

その上へ重なる声らしかった。

短く歌う。

先生が何かを確かめる。

もう一度歌う。

最初に聞いた時には、どちらも綺麗だと思った。

だけど、鳴海先生はすぐには次へ進まなかった。

 

「最後、真っすぐ伸ばした方も一つもらおう」

 

『はい』

 

また伴奏が流れる。

澪先輩の声が入った。

最後の音が、さっきよりもまっすぐに残る。

それを聞いてから前のものを聞くと、違いが少し分かった。

最初の方は、音の終わりに表情がある。

今の方は、そのまま次の音へ渡っていく。

……そんな感じがした。

言葉にすると、合っているのかは分からない。

 

「雨宮は、どっちがいい?」

 

鳴海先生が聞いた。

 

『前半は今の方がいいです。ただ、最後は一回目くらい残したくて。ここで全部真っすぐにすると、その次に入る声が少し急に聞こえるので』

 

澪先輩が、歌詞を指しながら話した。

 

『でも、一回目だと息が少し多かったから、そこだけは今の感じで……』

 

私は、隣の美月を見た。

美月も、こちらを見た。

少しだけ、笑っている。

先生と澪先輩の話が終わり、録音の準備に入ったところで、美月が小さく言った。

 

「澪先輩、今日はよく喋るね」

 

「音楽の話だから」

 

玲奈さんが答える。

 

「さっき、私が話しかけてた時は、うん、って二回くらいだったのに」

 

夏希が言った。

ひより先輩がそちらを向く。

 

「靴の話?」

 

「そう。先週買ったやつ、前のより走るの楽そうでさ」

 

「それは、澪には分からないかも」

 

「というか、それ夏希以外分からないんじゃない……?」

 

思わずそう呟くと、夏希が少し笑った。

玲奈さんも口元を押さえる。

私は、もう一度ガラスの向こうを見た。

澪先輩は、さっき話していたところへ印をつけている。

上手い人だから、すぐに録り終わるのだと思っていた。

もちろん、音を外したりして何度も戻っているわけではない。

だけど、違う歌い方を出して、それを聞いて、また少し変えている。

自分の声を聞いて、こうしたいと言えることが、私にはまだ難しかった。

今の自分だったら、どちらも自分の歌声だからなんとも……としか言えない気がする。

 

————

 

昼食を挟んだあと、私の『六つの光』の録音になった。

ブースへ入る前に、鳴海先生と歌詞を確認する。

 

「まず、冒頭の受け渡し。それから二番。サビはそのあとで」

 

「はい」

 

「八日の歌い方を土台にして、録音で聞いた時の言葉の出方を合わせていく。最初から全部変えようとしなくていい」

 

頷いて、自分のところへ指を置いた。

ひより先輩の次に私、そのあとに美月。

ライブでは、隣に本人がいた。

声を聞いて、顔を見て、次へ進んだ。

今日は、ヘッドホンの中に、先に録ったひより先輩の声が入っている。

歌い終えるところを聞く。

息を吸う。

自分の言葉を出す。

何度も練習してきた短いフレーズだった。

一度目は、最後が少し低くなった。

二度目は、そこを意識しすぎて、最初が硬くなった。

先生に言われ、短く聞き直す。

それから、もう一度歌った。

 

『うん。今のはいいね』

 

息を吐いた。

自分でも、さっきより歌いやすかった。

最後まで、変に押し込まずに済んだ気がする。

 

『これを残して、次は最後の言葉をもう少し言い切った方も録ろう』

 

「……はい。最後だけ、変える感じですか?」

 

『そう。前半は今の感じでいい』

 

歌詞へ印をつけた。

最後を、もう少しはっきり。

 

今度は、最初から少し強くなった。

歌い終わる前に、自分でも分かった。

最後を変えようとすると、そこへ行く前から準備してしまう。

 

『今は入りから強くなったね。前半はさっきのままで、最後だけ変えてみよう』

 

「はい」

 

もう一度。

最初を強くしない。

最後は弱くしない。

その二つを考えている間に、言葉のつながりが少しぎこちなくなった。

 

『途中で分けないで。その一文の続きだから』

 

「……はい」

 

歌詞の下へ、短く線を引いた。

分けないけど、最後だけを変える。

説明されていることは分かる。

先生が歌ってみせてくれた時も、違いは聞き取れた。

ただ、自分でやろうとすると、同じにならなかった。

 

 

 

しばらく同じやり取りの繰り返しだった。

 

『白瀬、少し休憩。先に橘の続きへ行くよ』

 

「え、でも……」

 

言いかけて、止まった。

先生がこちらを見ている。

 

『使えるものはもう録れてる。ただ、今は一つ変えると、ほかも一緒に変わってるから。一度離れてから戻ろう』

 

「……はい」

 

『責めてるわけじゃないし、諦めたわけじゃないからね。ただ、歌は連続でやり続ければいいってものじゃないから。喉を休ませないと、いいものは取れないってことだからね』

 

「分かりました」

 

もう一度頷き、ヘッドホンを外した。

 

————

 

ブースから出ると、美月が立ち上がった。

 

「じゃあ行ってきます」

 

「……ごめん、順番」

 

「え、全然。私も時間空けようって言われたところあるし、他にも残ってるし」

 

美月は自分の歌詞を持ち、私と入れ替わるように中へ入った。

早川さんが、水を取れる場所を示してくれる。

 

「少し、向こうで休んでいても大丈夫ですよ」

 

「はい」

 

返事をしてから、ガラスの方を見た。

もうマイクの位置を合わせている。

さっきまで私が立っていたところへ、美月が立っていた。

もう少しでできそうだった、とは思う。

少なくとも、言われたことを全部忘れたわけではない。

なのに、続けるほど、いつもの歌い方が分からなくなった。

 

「白瀬さん」

 

早川さんに呼ばれ、振り返る。

 

「戻る時間はこちらからお伝えします。今のうちに、少し座っていてください」

 

「……遅れてしまってませんか」

 

「確認や交代の時間も入れていますので。順番を替えて進めるだけです。レコーディングではよくあることですよ」

 

早川さんは予定へ一度目を落とし、それから私を見た。

 

「何時までに終えるかは、こちらで確認しています。そこは気にしなくて大丈夫です」

 

「分かりました」

 

水を取ろうとしたところで、夏希が隣へ来た。

 

「真琴、ちょっと行こう」

 

「どこに?」

 

「下。飲み物買いたいし」

 

夏希の手には、ほとんど空になったペットボトルがあった。

 

「一緒に来てよ」

 

「……うん」

 

早川さんへ声をかけ、二人で部屋を出た。

扉が閉まると、伴奏が聞こえなくなった。

廊下はスタジオよりも静かだった。

 

————

 

一階の自動販売機の前で、夏希はしばらく飲み物を眺めていた。

私は、持ってきた水を一口飲んだ。

窓の外が明るい。

入口の近くを誰かが通るたびに、外の暑い空気が少しだけ入ってきた。

夏希がボタンを押す。

落ちてきたペットボトルを取り出し、隣へ戻ってきた。

 

「さっきの、難しかった?」

 

「……うん」

 

蓋を閉めながら頷く。

 

「何を変えたらいいかは、分かるんだけど。変えようとすると、違うところも変わっちゃって」

 

「あるねー、あるある」

 

すぐに返ってきた。

私は、夏希を見た。

 

「夏希も?」

 

「うん。歌って、細かいところは今でもよく分かんない時あるし」

 

あまりにもはっきり言われて、少し驚いた。

 

「自分では同じように歌ったつもりなのに、前の方がよかったって言われることもあるし」

 

「……それ、さっきもあった」

 

「ね。聞くと、ああ、確かに前の方がいいなって思うんだよね。じゃあ戻してって言われると、どうやったっけ、ってなる」

 

私は、思わず頷いた。

さっきも、そうだった。

一度できたことまで、分からなくなる。

 

「踊る方だったら、足の出し方とか、身体の向きとか、ここを変えたって自分で分かるんだけどさ。歌は、先生に言われてから、そうだったのかってなること、まだ結構あるよ」

 

「夏希でも、そうなんだ」

 

「そうだよ。今日も言われたし」

 

夏希が少し笑う。

 

「というか、真琴もでしょ?」

 

「私?」

 

「うん。三枝先生に同じようなこと言われてる時の真琴、今日の澪ちゃんと鳴海先生みたいにすいすい調整してるし。目だけ何個前に戻して~とか言われてもすぐに対応してるし」

 

「あ、あぁ、確かに」

 

言われて、気付いた。

確かに私は、今日、鳴海先生に言われたような直し方と同じ直し方を、三枝さんに何度も要求されている。

実際にそれができていた。

私が三枝さんとやり取りをしている時に、他の五人が置いて行かれているような顔をしていることがあったのは覚えている。

こういう感覚だったのか。

 

「得意なことが違うんだから、そこまで気にしなくていいよ。三枝先生が私たちにあわせて指示変えるみたいに、鳴海先生もあわせてくれるだろうし」

 

「うまくできなかったら?」

 

「その時は、出来た中で一番いいやつを選んでくれる」

 

「随分、ざっくりだね」

 

「でもそういうものだよ?私なんかねぇ、最初のレコーディングはひどいのなんの。練習ではもっとできてたのに、本番だと緊張して、結局その日に録れた中で一番よかったのを使ってもらった」

 

「でも、失敗しすぎたら時間もかかって迷惑じゃない?」

 

「それは早川さんも気にしなくていいって言ってたでしょ。それこそ、マネージャーさんが調整してくれることだよ」

 

「そういうもの?」

 

「そういうものです」

 

夏希は頷いた。

何か、うまくなる方法を教えてくれるわけではなかった。

夏希はダンスで、澪先輩は歌で、私は表情演技で……それぞれに得意なことがある。

それを経験則で理解していて、深く考えないようにしている。

そういう感じだった。

 

「気分転換に、ちょっと走る?」

 

「……え?」

 

「表。少しだけ」

 

私は夏希を見た。

それから、もう一度窓の外を見る。

 

「こんな暑い中、絶対やだ」

 

言いながら、笑ってしまった。

夏希も外を見る。

 

「日陰のところだけでも?」

 

「日陰も暑いよ。しかも、このあとまだ歌うんでしょ」

 

「それはそう」

 

「汗かいて戻るの嫌なんだけど」

 

「あー、それもそうか」

 

随分、あっさり引いた。

私はまだ少し笑っていた。

 

「走る以外の気分転換にして」

 

「じゃあ、飲み物も買ったし戻ろっか」

 

「そうしよう」

 

二人でエレベーターへ向かった。

さっきまで、頭の中で同じフレーズを繰り返していた。

今は、外へ出なくてよかったと思っていた。

隣の夏希は、新しく買った水を片手で揺らしている。

 

「夏希、本当に走りたかったの?新しい靴試したいとか?」

 

「それもちょっとある」

 

「……ちょっとは本気だったんだ」

 

また笑うと、夏希も笑った。

 

————

 

『今度は、最後の音が少し低い。言葉の出方はそのままで、音だけ戻そう』

 

「はい」

 

すぐには、終わらなかった。

もう一度、先生に短く歌ってもらう。

自分でも、その音を確かめる。

歌い終えたあと、少し待った。

 

『うん。今のを聞こう』

 

自分の声が流れた。

前半は、さっき聞き直したものに近かった。

最後だけが、少しはっきり残っている。

美月の声へ続いた。

私は、そこでようやく小さく息を吐いた。

 

『今の、どう思う?』

 

先生に聞かれ、少し考えた。

 

「……さっきより、最後だけを頑張ってる感じがしないです」

 

『そうだね。これを候補にしよう』

 

「はい」

 

返事をしたあと、ガラスの向こうを見た。

夏希が、片手を軽く上げていた。

大げさに両腕を振ったりはしない。

私も小さく頷いて、次の歌詞へ目を戻した。

 

————

 

私の最後の確認が終わると、鳴海先生が言った。

 

『今日はここまでにしよう』

 

「はい。ありがとうございました」

 

頭を下げる。

それから、ヘッドホンを外した。

歌詞を台から取る。

朝よりも、ずっと書き込みが増えていた。

一度書いて、消したものもあった。

同じ言葉を歌っているのに、言葉の意味や普段の歌い方が分からなくなるくらいには歌った。

外へ出ると、早川さんが終了したことを確かめ、私の予定へ印をつけていた。

 

「お疲れさまでした」

 

「お疲れさまです」

 

水を飲み、椅子へ座る。

 

「……真琴」

 

隣から呼ばれ、顔を向けた。

夏希が、私の顔より少し上を見ていた。

目が合うと、口元が緩む。

 

「何?」

 

「髪、ぺったんこになってる」

 

「……え?」

 

頭へ手をやった。

最初は、よく分からなかった。

だけど、指を少し動かすと、途中だけ妙に平らになっている。

さっきまで、ヘッドホンの上の部分が当たっていたところだった。

 

「ここ?」

 

「そう。そこだけ、すごく分かりやすく跡ついてる」

 

夏希が、また笑った。

私は鞄から手鏡を出し、少し顔を傾けて覗き込んだ。

……本当だった。

頭の上を横切るように、髪がぺたんと押さえられている。

その前後には膨らみが残っているから、余計に分かりやすい。

 

「何回も外してたのに」

 

「それでも、あれだけ長い間付けてればねぇ」

 

「それはそうだけど……」

 

指を入れ、潰れたところを少し持ち上げた。

鏡を傾ける。

さっきよりは、ましになった気がする。

 

「直った?」

 

夏希がこちらを見た。

一度、口を閉じる。

 

「まだ全然癖は残ってるけど、多少は」

 

「夏希は、全然平気そうだね」

 

「うん?まあ、私短いしね」

 

「……納得いかない」

 

とうとう夏希が吹き出した。

 

「それ言いだしたら美月も平気じゃん」

 

「……これ、ふんわり系だったり長めだと影響大きくない?」

 

「まあそういう感じだろうね。だから、レコーディングの日とかは、髪型気合入れない方がいいと思うよ」

 

「参考にします」

 

「ちなみに、直そうとした結果髪が跳ねてるところがあります」

 

「えっ」

 

思わず鏡を見る。

全然分からなかった。

見えない所が跳ねているということだろうか。

 

「笑ってないで、どこか教えて」

 

「ごめんって。もうちょっと後ろ」

 

言われたところへ指をやり、もう一度確かめた。

 

「……これなら?」

 

「うん。大丈夫」

 

「今度は本当に?」

 

「本当に」

 

夏希は、まだ少し笑っていた。

私は鏡を閉じた。

朝から何度もヘッドホンをつけて、外して、そのたびに歌詞ばかり見ていた。

髪がどうなっているかなんて、一度も気にしていなかった。

それだけ集中していたということなんだろうけど。

 

鏡を鞄へ戻し、椅子へ座り直す。

脚は、ライブの時ほど疲れていない。

汗も、ほとんどかいていなかった。

それなのに、ちゃんと疲れていた。

 

「歌うだけなら、もう少し楽なのかと思ってました」

 

小さく言うと、隣のひより先輩が笑った。

 

「違う疲れ方するよね」

 

「はい。自分の声を、こんなに何回も聞くと思ってなくて」

 

「もう聞きたくない?」

 

少し考えた。

さっき、同じところで止まっていた時には、何が違うのか分からなくなっていた。

でも、今は。

 

「……皆のと合わせたら、どうなったのかは聞きたいです」

 

「うん。私も」

 

ひより先輩が、前へ目を向けた。

エンジニアさんが、画面の中のいくつかの枠を動かしていた。

鳴海先生が歌詞を見て、位置を伝えている。

泉さんが、私たちの方を振り返った。

 

「『六つの光』の頭から一番のサビまで、仮につないだものを聞けますよ。まだ確認用ですが、一度流しましょうか」

 

美月がすぐに頷いた。

 

「聞きたいです」

 

玲奈さんが荷物を足元へ寄せる。

澪先輩は、閉じかけていた歌詞をもう一度開いた。

夏希も、椅子を少し前へ動かす。

私も、背もたれから身体を起こした。

 

曲が始まった。

どの時に歌ったものか、最初の一言ですぐには分からなかった。

でも、今日、自分があの部屋で出した声だった。

一人で聞いた時には分かりやすかった息の音が、伴奏の中で少し違って聞こえた。

逆に、皆と一緒になったことで、よく分かる言葉もある。

六人の声が重なる。

ブースでは、一人だった。

録っている時には聞こえていなかった声が、今は一緒にある。

自分の声だけを探そうとしても、すぐには分からない。

だけど、いないわけではない。

さっきまで一人で歌っていた言葉が、五人の声と同じところへ入っていた。

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橘瀬理奈は銀髪碧眼ながら日本人のフィギュアスケーター。▼17歳にして4回転アクセルを跳べる唯一無二の女子選手。▼だが、世界は知らない。▼実は主人公が転生者で、30歳の会社員が女の子に輪廻転生したことを。▼そんな彼女の悪戦苦闘の日々。▼※カクヨム、なろうにも掲載始めました▼カクヨム https://kakuyomu.jp/works/2912051600434…


総合評価:5517/評価:8.55/連載:33話/更新日時:2026年06月19日(金) 08:00 小説情報

いぬのTS貧乳合法ロリアラサーおまわりさん(作者:被告人5)(オリジナル:現代/日常)

▼現代日本と似ているようで、少しだけ違う世界。▼そこでは、人間よりも遥かに高い身体能力を持つ「獣人」が、警察官や消防士などとして人々の暮らしを支えていた。▼そんな世界で、犬獣人として生まれた犬井ハル、28歳。▼警察官となった姉に憧れ、そして獣人の身体能力で人間相手にマウントを取るために警察官となった彼女は、特に出世を目指すこともなく、地方の小さな交番でのんび…


総合評価:3247/評価:8.28/連載:26話/更新日時:2026年10月24日(土) 18:23 小説情報

TS美少女は怪物を甲子園へ連れていきたい(作者:とほほ報)(オリジナル:現代/スポーツ)

 二度の人生を懸けても届かなかった才能を、なぜお前が持っている。▼ 前世では甲子園準決勝まで進んだ高校球児だった姫宮ほのか。右肘を壊して死んだのち、今度は女の子として生まれ変わった。▼ 今度こそ頂点を掴むと再びスポーツへ挑むも、立ちはだかったのは女の筋力と体格の限界。二度目の夢を諦め、普通の女子高生になるはずだった。▼ あの日、デタラメな手投げで放たれたレー…


総合評価:5449/評価:9/連載:20話/更新日時:2026年10月25日(日) 23:04 小説情報


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