TS少女は演じたい 作:息抜き
仮につないだ音を聞き終え、少し休憩してから、早川さんと打ち合わせ室へ入った。
テーブルには、透明なファイルが一つ置かれていた。
座って鞄を足元へ寄せると、早川さんがそれをこちらへ向ける。
「お話ししていた、公演後の反応をまとめた資料です。宮原さんたちに整理してもらいました」
表紙を見た。
Special Stage『6つの色』公演後反応報告。
その下に、白瀬真琴さんへの交付資料、と書いてある。
「……結構、あるんですね」
「アンケートのほかに、ファンクラブや物販のことも入っています。今日は主なところを一緒に確認しましょうか」
「ありがとうございます」
ファイルから紙を出す。
思っていたより厚みがあった。
「依然と変わらず、本人への攻撃的な発言などは載せていません。ただ、技術への指摘や、六人になったことへの反対意見は残しています」
「……はい」
怖くないわけではなかった。
でも、よかったという言葉だけを見せてほしいと頼んだわけでもない。
最初のページを開く。
来場者アンケート、有効回答642件。
「こんなに答えてくださったんですね」
「はい。当日来てくださった方のうち、お答えいただいた人数です」
あの客席にいた人たちが、公演のあとに質問を読んで、答えを選んだ。
文章も書いてくれた。
顔は分からないけど、あの日、同じ場所にいた人たちだった。
その下へ目を移す。
公演全体について、『満足』または『非常に満足』と答えた人は、555人、86.4%。
私は、その数字をもう一度見た。
「……よかったです」
思っていたより先に、声が出た。
早川さんが頷く。
「公演を楽しんでくださった方は、多かったです」
「はい」
最後まで歌って、動いた。
予定していたところで話して、六曲を終えた。
それだけではなく、見ていた人たちにも楽しかったと思ってもらえていた。
息を吐くと、自分が少し前かがみになっていたことに気づいた。
椅子へ座り直す。
早川さんは、何枚か先のページを開いてくれた。
「感想は、こちらから読むことができます」
短い文章が、一つずつ間を空けて並んでいた。
どのメンバーを推しとして登録しているか。
質問にどう答えたか。
その下に、感想がある。
『美月目当てで来ました。今日も客席を見る顔がよくて楽しかったです。新曲は見たいところが何か所もあったので、映像でもう一度見たいです』
美月を見に来た人だった。
舞台の上で、客席へ手を振っていた美月を思い出す。
私にはどこを見ればいいのか迷うくらい広かったのに、美月は、そこにいる誰かを見つけるみたいに顔を向けていた。
『『六つの光』、早く配信してほしいです。帰り道でもサビが頭に残っていました。短い公演でしたが楽しかったです。次はもっと曲を聴けると嬉しいです』
帰り道でも。
私は、そのところをもう一度読んだ。
公演が終わって、会場から離れたあとにも、曲を思い出してくれた。
私にとっては何度も練習して、どこで何をするかまで覚えている曲だ。
でも、この人は、あの日初めて聴いた。
それでも、帰り道まで残っていた。
「このように、音源や映像を楽しみにしているという声も届いています」
音源。
今日は、そのために歌っていた。
何度も同じところへ戻り、自分の声を聞き直していた部屋が、さっきまでとは少し違う場所に思えた。
澪先輩を登録している人の感想で、手が止まった。
『『雨音のリフレイン』がよかったです。澪ちゃんの歌はもちろん、真琴ちゃんの短いフレーズの声も好きでした。あそこは音源でもう一度聴きたいです』
短いフレーズの声も、好きでした。
その一文を、二回読んだ。
「……私の、歌も?」
小さく声が出た。
早川さんがこちらを見る。
「はい。声について書いてくださった方もいます」
表情や、視線のことなら。
そう思っていたのかもしれない。
歌については、足りないところを言われるだろうと考えていた。
今日だって、何度も直された。
言葉をはっきりさせようとすると、音の方が変わってしまう。
前半を保ったまま最後だけ変えることが、すぐにはできなかった。
でも、ここに書かれているのは、八日に歌った声だった。
今よりも、まだできていなかったところがあるはずの声。
それを、もう一度聴きたいと思ってくれたらしい。
「……嬉しいです」
今度は、早川さんも少し笑った。
続きを読んだ。
『発表の時はびっくりしましたが、今日の六人を見て少し安心しました。ひよりちゃんの隣で真琴ちゃんが笑っていたのがよかったです。来てよかったと思いました』
ひより先輩の隣。
曲の途中なのか、MCなのかは分からない。
だけど、隣へ顔を向けて笑ったところなら、何度か覚えていた。
その場面を、よかったと思った人がいる。
さらに下には、玲奈さんを登録している人の文章があった。
『MCのやり取りが楽しかったです。真琴ちゃんは少し緊張している感じもありましたが、話しかけられた時の笑い方がかわいかったです。六人の動画も見たいです』
「……そこまで見えてたんですね」
「笑っていたところですか?」
「はい。そんなに、ちゃんと覚えてないんですけど」
緊張していたことは、よく覚えている。
玲奈さんに話を振られ、答えて、美月や夏希が入ってきた。
途中で笑ったこともある。
でも、どういう顔で笑っていたかまでは考えていなかった。
「結構、ご本人が意識していないところも、見てくださっていますから」
「それは……少し、恥ずかしいです」
早川さんが小さく笑った。
私は、もう一度その文章を読んだ。
緊張していたことも伝わっている。
それでも、楽しかったと書いてある。
ちゃんと話せたかどうかだけを気にしていた私とは、少し違うものを見ていたらしかった。
数字のページへ戻った。
六人での活動を、どう受け止めているか。
肯定的に受け止めている人は、38六人、60.1%。
中間、判断保留が、29.9%。
否定的に受け止めている人は、10.0%だった。
肯定の欄は、さらに二つに分かれている。
積極的に歓迎している。
まだ慣れない部分はあるが、六人の活動を前向きに受け止めている。
「こっちも、肯定なんですね」
二つ目を指すと、早川さんが頷いた。
「はい。慣れないところはあっても、今の六人を応援したい、という方ですね」
私は、さっき読んだ文章を思い出した。
発表には驚いた。
でも、見て少し安心した。
最初から同じ気持ちだったわけではない。
それでも、今は前向きに見てくれている人がいる。
別の感想には、五人の『雨音のリフレイン』には思い出がある、と書かれていた。
そのあとに、今日の六人版もよかった、と続いている。
前の音源も聴くけど、新しい方も聴いてみたい。
私は、その文章をゆっくり読んだ。
五人の曲を好きだったことと、六人の曲を聴くことは、どちらかをやめなければいけないわけではないらしい。
その人の好きなものが、一つ増えることもある。
少し下には、同じ澪先輩を登録している人の、違う答えがあった。
『『雨音のリフレイン』は、まだ前の歌割りの方が好きです。長く聴いてきたからだと思います。新曲はよかったので、六人の曲ももう少し聴いてみたいです』
こちらは、中間・判断保留だった。
前の方が好き。
その言葉には、少しだけ指が止まる。
でも、最後まで読むと、新しい曲はよかったとも書いてある。
どちらか一つに決めて、書いているわけではなかった。
「保留の方にも、色々あるんですね」
「そうですね。まだ一度しかライブを見ていないのですし、白瀬さんのことを、まだよく知らないという方もいます」
早川さんが示した文章には、美月を追っているうちに終わった、と書かれていた。
私は、思わず少し笑った。
それは、何となく分かる気がする。
見ているつもりなのに、美月が顔を上げたところで、またそちらへ目が行くことが私にもあった。
『新曲で目が行ったところはありました。次はほかのところも見たいです』
最後は、そう続いていた。
まだ、よく知らない。
その人にとって私は、今、そのくらいの人だった。
一度のライブで全部分かるわけがないのだから、それもそうだと思った。
もちろん、いい感想だけではなかった。
五人の時のダンスの揃い方や勢いの方が好みだという人もいた。
新人に合わせた結果、五人のレベルも落としているように見えた、と書く人もいた。
新人の歌や動きの差が気になった。
もう少し準備期間を置いてから加入する形がよかった。
その文章を読んだ時には、少し息が浅くなった。
自分でも、まだ余裕が足りないことは分かっている。
見ている人にも、その差は伝わっていた。
「歌や動きについての具体的な指摘は、先生方にも共有しています」
早川さんが言った。
「はい」
私は頷いた。
前の方がよかったと思う人がいる。
今回を楽しめなかった人もいる。
そのことは、なくならない。
ただ、その文章の前にも後にも、好きだった場面や、もう一度見たいものを書いた人がいた。
一つの感想を読んだところで、ほかの文章まで違う意味になるわけではなかった。
次のページを開いた。
白瀬真琴本人への印象。
好意的な印象を持った。
448人、69.8%。
その下には、今後の活動を応援したいかという質問がある。
応援したい。
462人、72.0%。
「……七割」
声にしてから、早川さんを見た。
「私を、ですか」
「はい。アンケートに答えてくださった方の中では、それだけの方が、今後を応援したいと答えています」
もう一度、数字を見た。
自分の名前のすぐ下にあった。
「ただ、最推しを変えたいかという質問ではありません。グループの新しいメンバーとして、頑張ってほしいという気持ちも含まれています」
「……はい」
それでも、462人が、そう答えた。
五人の誰かを見に来た人たちの中にも、私に頑張ってほしいと思った人がいる。
さっき読んだ、私の声が好きだという文章も。
ひより先輩の隣で笑っていてよかったという文章も。
一つずつは短かったけど、ああいう気持ちを持った人は、そこに載っている数人だけではなかった。
少し下には、会社への評価があった。
今回の変更を決めたFOLIOの判断や説明について。
不満があると答えた人は、二割ほどだった。
本人への印象とも、六人での活動への答えとも、同じ数字ではない。
「会社の方は、また別なんですね」
「はい。今の六人を見てどう感じたかと、私たちの決め方や伝え方をどう思ったかは、分けて聞いています」
早川さんが、自由記述のページへ指を添えた。
『六人のライブはまた見たいです。発表から公演まで一週間だったので、予定を調整するのは大変でした。次の公演は、内容や申し込みの日程をもう少し早めに知りたいです』
六人の活動には、肯定。
私のことは、応援したい。
会社への評価には、不満があると答えていた。
「……同じ人なんですね」
「はい。この方は公演をまた見たいと思ってくださっていて、告知の日程には改善してほしいところがある、ということですね」
私たちは前から準備していたけど、見に来る人が知ったのは、一週間前だった。
その違いを、考えてはいたけど、あまり実感できていなかった。
ほかには、まだ五人の続きを見るつもりでいたので、気持ちが追いついていない、という文章もあった。
真琴には頑張ってほしいけど、発表はもう少し余裕を持ってしてほしかった。
それも、一人の人が書いたものだった。
「会社への不満にも、増員そのものへの反対から、こうした告知の進め方まで、違う内容があります。そこは会社側で受け止め、次回以降のスケジュールなどの参考にしています」
「はい」
同じ『不満』でも、全部を私への気持ちとして読むものではなかった。
反対に、私に好意を持ってくれたからといって、会社の決めたことも全部よかったと思っているわけではない。
文章と答えを一緒に見ると、その違いは思っていたより具体的だった。
数字のページへ戻った。
七割。
その数字を見ると、なんとも言えない不思議な感じになった。
「ペンライトのことも、こちらにあります」
早川さんがページを開いてくれた。
月曜日に、聞きたいと思ったところだった。
どうしてピンクにしてくれたのか。
場面ごとの色の大まかな割合と、回答者が選んだ理由が並んでいる。
理由の方から読んだ。
曲のパートや演出に合わせて変えた。
六人体制の初披露を記念して点けた。
私を普段から推している。
推しは別だけど、私本人を応援したかった。
そんな答えが並んでいる。
「会員情報と合わせて確認できた回答では、一度でもピンクを点けた方が108人いました。そのうち、93人は、ほかの五人の誰かを推しとして登録しています」
私は、表を見た。
自分の推しがいる。
いつも振っている色もある。
それでも、公演のどこかで、私の色を点けてくれた人たちだった。
『いつもは黄色ですが、真琴ちゃんのパートではピンクにしました。初めての日なので、記念にという感じです。最後まで頑張っていてよかったです』
その短い言葉で、読む手が止まった。
前の方で、一本の光が下がった。
もう一度上がってきた時には、ローズピンクになっていた。
あの日の動きが浮かぶ。
あれを見つけた時、私は、自分を見て変えてくれたのだと思った。
その先の気持ちまでは、聞けなかった。
今、目の前には、こう書いた人がいる。
この人が、あの一本を持っていた人かは分からない。
席も、顔も、ここには書いていない。
それでも、初めて舞台へ出た私へ、そう伝えたかった人がいた。
私が嬉しいと思った時、向こうも、届くといいと思って振っていたのかもしれない。
胸の辺りが、少し温かくなった。
「ちゃんと、見えました」
誰に言うでもなく口にした。
早川さんが、静かに頷いた。
ほかにも理由はあった。
『増員には反対です。ただ、本人に向けられている言葉を見て、会場でも何も応援がないように感じてほしくないと思い、一部だけピンクにしました。推しは変えていません。真琴ちゃんには頑張ってほしいけれど、会社への不満も変わっていません』
この人の六人体制への答えは、否定。
一度、最後まで読んだ。
五人で続けてほしかった気持ちを持ったまま、ピンクにしたと書いてくれていた。
私が加わったことに納得していなくても、あの場では私へ光を向けた。
この人なりの気持ちがあったらしい。
あの客席には、こんな気持ちで点けられたピンクもあったのだ。
————
水を飲んでから、次のページへ進んだ。
ファンクラブの会員数と、推し登録の推移が載っている。
全体の人数は、発表のあとに一度減って、公演後に少し戻っていた。
その下には、六人の名前が並んでいた。
私の欄は、ほかの五人よりずっと小さい。
今朝の集計で、約1.3%。
隣には、人数へ直した目安がある。
約571人。
私は、そこを見つめた。
さっきのアンケートでは、七割の人が応援したいと答えていた。
こちらは、ファンクラブで一人を選んで登録するところだ。
意味が違うのは、分かる。
それでも、割合を見た時と、人数を見た時では、感じるものが違った。
だって、ここは、皆が長い時間をかけて積み上げてきた場所だ。
既に1%いるというのが、不思議だった。
「五百人以上、いるんですね」
「はい。今朝の会員数と推し登録の割合から出した、おおよその人数です」
自分の名前を選んだ人が、五百人以上いる。
一人ずつ顔を並べようとしても、とても想像できなかった。
前の日付を見る。
八月二日の時点でも、既に私を選んだ人がいた。
まだライブをしていなかった頃だ。
「理由を書いてくださっている方もいます」
先ほどのページを示される。
私を登録している人の文章だった。
『加入発表の写真を見て、顔がすごく好みだったので推すことにしました。曲はまだ覚えている途中です。今日見て、MCの時と曲の中で雰囲気が違うところも好きになりました』
顔が、すごく好み。
この前早川さんに、SNSでの反応を教えてもらった時にも見た感想だった。
早川さんと目が合う。
「……すごく、はっきり書いてありますね」
「そうですね」
少し笑いを含んだ返事だった。
顔が好きだった。
それで、曲を聴き始めた。
ライブへ来て、ほかにも好きなところができた。
順番に読むと分かるのに、自分のことになると、どう反応すればいいのか分からなくなる。
「何だか、照れます」
「これから、慣れていってくださいね。こういう方は、今後増えると思いますので」
「……それは、はい」
否定する理由はなかった。
もう一度読んでも、やっぱり少し顔が熱くなった。
物販のページにも、自分の名前がある。
アクリルスタンド。
写真のセット。
タオルや、うちわ。
会場で当日販売するために用意されていた私のアクリルスタンドは、開演前に売り切れていたらしい。
「ほとんどのグッズの会場分はなくなったので、追加の受注をご案内もしていますよ」
「アクスタ以外も、売切れたりしたんですね」
「そうですね。理由はいろいろありますが、手に取ってくださった方が多かったのは確かです」
アクスタが売り切れたのは聞いていた。
だから、まだ直に挨拶もしていない時に、買ってくれた人がいるのも知っていた。
購入理由のところには、加入の記念、写真が好き、六人分を揃えたい、という言葉が並んでいる。
『5人分のアクスタを持っていたので、真琴ちゃんも買いました。帰ったら隣に並べます。初ステージの衣装で六人揃うのが嬉しいです』
知らない誰かの部屋を、少しだけ想像した。
五人が並んでいた場所に、私も置かれる。
本物の私より、ずっと小さくなったものだけど。
その人は、六人が揃えるに持って帰った。
「……五人と、並べていいって思ってくれたんですね」
「そうですね。SNSでは、実際に並べた写真をあげている方もいましたよ」
早川さんが言った。
私は、その文章からしばらく目を離せなかった。
ステージが終わったあとも、自分が誰かの生活の中に残っている。
「ここまでで、確かめたいことはありますか?」
早川さんに聞かれ、少し考えた。
「あとで読み返したら、出てくるかもしれません」
「はい。いつでも聞いてください」
「ありがとうございます」
紙を揃えかけてから、もう一度顔を上げた。
「見せていただいて、よかったです」
早川さんがこちらを見た。
「歌とか、私のところを好きだって言ってもらえるとは、あまり考えてなかったので」
「そうでしたか」
「はい。あと……ピンクの理由も」
あの光を見て、嬉しかった。
あの時は、見えたもの以上のことは、分からなかった。
でも、今は、あの時には分からなかった気持ちを、言葉で教えてくれた人がいる。
ピンクにしたと書いてあるところへ、もう一度目を戻した。
————
資料をファイルへ戻したところで、早川さんが端末を手に取った。
「アンケートとは別に、公開されている投稿でも、お伝えしたい反応があります」
手を止める。
「何ですか?」
「公演のあとに、候補の頃の動画を見直した方がいるんです。そこで、練習していた期間について話している投稿が出ています」
画面をこちらへ向けてくれた。
資料の後ろにも載っている、SNSの反応を抜き出したものだった。
私は、示された文章を読んだ。
『ドキュメント見返してたんだけど、真琴ちゃんが六人でちゃんと曲合わせ始めたの、六月のPALETTE OF LIGHTの後だよね?二か月もかけずに八日のあれまで仕上げたの?歌もダンスも初心者で??』
二か月もかけずに。
その言葉で、少し止まった。
下には、別の投稿があった。
『基礎は前からやってるみたいだけど、それ込みでも速くない?現地では五人との差も見てたけど、初めての客前で六曲、歌と移動までつないでたんだよな。表情はちゃんと見せ場になってたし。』
読み終えてから、最初へ戻った。
六月のライブのあと。
八月八日。
日付は、間違っていない。
その前にも歌やダンスの基礎は教わっていたけど、実際に六人で一曲ずつ合わせるようになったのは、六月のライブが終わってからだった。
確かに、あのドキュメントを見ればなんとなく分かることだし、それは事実だった。
「……私、そんなに早いんですか?」
早川さんが顔を上げた。
「はい。初心者として、かなり速い進み方です。私たちも、そう評価しています」
返事は、思っていたよりすぐだった。
私は、もう一度画面を見た。
早い。
自分が過ごした時間を思い出しても、その言葉がすぐには合わなかった。
足だけならできるのに、腕を加えると遅れた。
歌うことを考えて、移動する場所が分からなくなった。
どこから崩れたのかを確かめるために、何度も同じところへ戻った。
説明を聞いて、その通りに動いたつもりでも、映像を見ると違っていた。
分けて練習して、もう一度つなげた。
一度できても、次にはうまくいかないことがあった。
タオルで拭いたばかりなのに、また汗が落ちてきた。
そういう場面ばかり、浮かんだ。
「すぐにできたわけじゃ、ないんですけど」
「ええ」
「先生にも、皆にも、何回も同じところを見てもらって。それで、やっと……」
言いかけて、止まる。
早川さんは、そのことを知らないわけではない。
今日も、私が同じところを何度も歌い直すのを見ていた。
「その繰り返しも含めてです。簡単にできたから、早いと言っているわけではありません」
「……今日も、皆より時間がかかってました」
「今日の録音では、そういうところがありましたね」
早川さんは、そこを否定しなかった。
「ただそれは、約二年間やってきた、今の五人と比べた時の話です。白瀬さんが習い始めてから、どのくらいの期間でここまで進んだかとは、見ているところが違います」
今の五人。
五人にも、直されるところはある。
だけど五人は、私よりずっと細かいところを、何度も確かめている。
一緒に練習しているのは、その五人だった。
歌もダンスも私と同じ頃に始めて、同じ曲を覚えている新人アイドルは、隣にいない。
彩花と話すことはあっても、同じ歌割りや振付を、どのくらいで覚えたか比べたことはなかった。
当然だ。彩花は俳優志望なのだから。
前よりできるようになったことは、分かる。
昔の映像を見れば、今は止まらないところで止まっている。
だけど、そこまでに普通はどれくらいかかるものなのかは、知らなかった。
「早いかどうかって、考えたことがなかったです」
口にしてから、それが一番近いと思った。
「一つできたら、次にやることがあって。そっちをできるようにするので、精一杯だったので」
早川さんは頷いた。
それから、端末を少し自分の方へ戻す。
「では、昨日の曲のことを、一つ例にしましょうか。昨日、新しく渡された曲がありますよね」
「はい」
サインを考える前に、練習していた曲だ。
『Afterglow Note』
完全新曲で、二周年で披露予定だと言われた。
「レッスンの最後には、一曲を通せるところまで来ています」
「……まだ、何か所も間違えてますけど」
六人でどういう動きかを丁寧に確かめて、その上で、先生や皆に助言を貰った。
そこまでしてどうにか通しまでいった、というのが私の認識だった。
直すところは、すぐに思い浮かぶ。
二番へ入る前の移動。
歌い出す前に息を吸う場所。
最初から続けると、小さくなってしまう動き。
何か所も、もっと精度をあげないといけない場所がある。
「最後の方は、立つ位置も少しずれました」
「はい。そこは、これから直すところですね」
早川さんが言った。
「ただ、昨日取り組み始めた曲を、その日のうちに最後までつなげられています。歌う場所も移動も覚えて、曲の流れに入れている。その段階まで進む速さを見ています」
それを聞いて、少し黙った。
間違えたところを答えたのに、早川さんは日付の話をしていた。
鞄から、レッスン用のノートを取り出す。
昨日のところを開いた。
曲名の下に、直すところが並んでいる。
その端には、最後まで通せた、とも書いてあった。
玲奈さんに教わってから、できたところも書くようにしていた。
だから、書いてある。
でも、さっき聞かれた時には、その下の注意されたところばかり思い出した。
「その一曲だけを練習していたわけでもありませんよね」
早川さんの声に、顔を上げた。
「十日から、ほかの曲もお渡ししています。そちらの確認を進めながら、昨日の曲にも取り組んでいます」
ノートを少し戻す。
月曜日にもらった曲。
そのあとに、別の曲のページもあった。
通した時に崩れるところを直しているものもあれば、まだ部分ごとに確かめているものもある。
一曲を全部終わらせてから、次へ進んでいるわけではなかった。
その日によって、見るところが変わる。
私は、それを普通に受け取っていた。
「次はこれをやるって言われたので……」
「ええ。ただ、誰にでも同じ日に、同じ数の曲を渡せるわけではありません」
早川さんが、開いたノートへ目を向ける。
「前に直したことがどのくらい残っているか。新しい曲でも使えるか。今の状態で新しい曲を渡して大丈夫か。先生方は、それも見て進めています」
昨日の練習を思い出した。
すぐに全部きれいになったわけではない。
でも、どこを変えなければいけないかは分かった。
だから、そこを繰り返した。
「白瀬さんは、できない時に、何が分からないのか、何が違うのかを細かく確かめますよね」
「……はい」
「その理解を、何度も練習して動きや声にしていく。直したことが次の練習にも残って、新しい曲でも使えるようになる。高瀬先生や鳴海先生からも、そう報告を受けています」
私はノートを見た。
前の方には、今なら書かなくても分かる注意があった。
当時は、それができなくて書いていた。
今は、別のところを直している。
そのことは分かっていたはずなのに、次の曲を渡されることと結びつけて考えたことはなかった。
「何回もやってるから、できるようになっただけだと思ってました」
「何回もやってきたことは、大事な理由です」
早川さんは、すぐに答えた。
「ただ、同じ期間をかければ、誰でも同じところまで進めるわけではありません。白瀬さんがどう考えて、どう練習して、何を身につけてきたか。その全体を見て、かなり速いと評価しています」
私は、ペンで引かれた線を指先でたどった。
一回見ればできるのなら、こんなに書く必要はなかった。
分からなければ聞いて、できなければ、できるところまで戻る。
私には、そうしないと身につかなかった。
そのやり方で進んできたことを、早いと言われている。
「……そうなんですね」
それ以上、うまく言えなかった。
早川さんは、少し待ってから口を開いた。
「八月八日に六曲を披露できることだけで、八月の加入を決めたわけではありません」
顔を上げる。
「二周年は全十六曲で、白瀬さんが参加する六人の曲は十四曲です」
「はい」
その数字は知っていた。
八日に披露した六曲だけでは終わらない。
だから、今、曲を増やしている。
「八日の六曲に、さらに八曲を加える。十日から二周年までの準備期間で、その八曲を本番で担当できるところまで進められると、先生方も見込んでいました」
指が、ノートの端で止まった。
「正式に加入のお話をする前から、そこまで確認しています。その見通しも含めて、八月から六人で活動できると会社は判断しました」
すぐには、返事ができなかった。
十四曲。
八曲増える。
聞いたことのない話ではない。
でも、今聞いているのは、これから何をしなければならないか、という話ではなかった。
「……加入する前から、私が覚えられると思ってたんですか」
「はい」
早川さんが頷いた。
「それまでのレッスンで、どれくらいの時間をかけて、どこまで進んだかを見ています。曲ごとの難しさも、白瀬さんの担当する範囲も違いますから、単純な日数の掛け算ではありませんが」
私は、机の上の端末を見た。
さっきまで、知らない人が書いた『二か月もかけずに』という言葉を読んでいた。
目の前にいる人たちは、それを八日のあとに初めて知ったわけではない。
私が、まだ一つずつ覚えていた時から見ていた。
「録音や撮影もありますし、夏休みが終われば学校も始まります。その中で練習と仕上げの時間を取れるか、六人で合わせられるか。そこまで考えた計画です」
「……はい」
「白瀬さんの表現を六人の中で生かしたいということと、歌やダンスも、今の段階から必要なところまで進められるということ。その両方があったからこそ、この時期に正式加入のお話をしました」
七月、両親と一緒に話を聞いた時のことを思い出した。
これからの仕事。
八月の公演。
九月の二周年。
先に並んでいる予定を見て、忙しくなるのだと思った。
その時の自分には、まだできないことがたくさんあった。
今も、たくさんある。
でも、それを知らずに予定を並べたわけではなかった。
今できることだけではなく、どんなふうに、できることを増やしてきたかも見られていた。
「私は……十四曲やるから、その分を覚えなきゃいけないんだと思ってました」
「もちろん、これから覚えて仕上げる必要はあります」
早川さんは、少し笑った。
「ただ、十四曲と決めたから、強引に何とかしてもらおうと考えたわけではありません。これまでの習得の進み方と、これから確保できる練習時間、歌割りや振付で調整できる範囲を踏まえて、十四曲を本番で成立させられる見通しがあると判断しました」
「……そうだったんですね」
今度は、さっきより少し言葉が出た。
八曲は、これから身につけなければならないもの、としか考えていなかった。
先生たちは、今まで私が身につけてきたものを見て、その八曲を任せられると判断していた。
少しだけ背中を椅子へ預けた。
今日、すぐには直せなかった歌い方が、急に簡単になるわけではない。
次に『Afterglow Note』を合わせる時も、きっと直されるところはある。
それでも、私が進んでいないことにはならないらしかった。
「……私、思ってたより、見てもらってたんですね」
早川さんがこちらを見る。
それから、ゆっくり頷いた。
「はい。できなかったところだけではなくて、そのあと、どうできるようにしてきたかも見ています」
昨日のページをもう一度見た。
注意されたところの上に、自分で書いた一行があった。
先生たちは、この直していく過程も、評価してくれていた。
「投稿の続きもあります」
早川さんが端末をこちらへ戻してくれた。
画面を少し下へ送る。
『八日であそこまで来たなら、二周年ではどうなってるんだろう。推しを見るのはもちろん楽しみだけど、真琴ちゃんの次も気になってきた。』
「……九月、楽しみにしてくれてるんですね」
「はい。こういうことに気づいて、次の公演へ関心を持った方もいます」
五人との差がなくなったと言っているわけではない。
それでも、今の私を見て、次も楽しみにしてくれている人がいる。
「まだ、自分がそんなに早いのかは、よく分からないんですけど」
「そうですね」
「でも……次も見たいと思ってもらえたのは、すごく嬉しいです」
早川さんが笑った。
私は、もう一度同じ文章を読んだ。
目の前の人たちは、これまでの練習を見て、次の曲を任せられると判断していた。
会場へ来た人の中にも、次にどうなるのか見たいと思った人がいる。
見ているものは違うのに、その先に九月の舞台があった。
自分一人だけが、間に合わせなければと考えていたような気がした。
もちろん、覚えるのは私だ。
明日になれば、また分からないところを聞いて、できないところを練習する。
だけど、その予定の先には、待っている人がいる。
「この投稿も、あとで読めるんですよね」
「はい。資料にも同じものを載せています」
「両親に見せても、大丈夫ですか?安心すると思うんですけど」
「もちろん、大丈夫ですよ」
「ありがとうございます!」
私は、ファイルの後ろを少し開いた。
さっきの文章を見つけてから、閉じる。
ノートを鞄へ戻した。
今日の歌詞も、折れないように入れる。
その手前へ、反応をまとめた資料を挟んだ。
持ってきた時より、随分荷物が増えた。
今日はずっと、自分の声を聞き直していた。
今度は、あの人たちに続きを聴いてもらうために、また歌う。
そう思うと、疲れているのに、少しだけ次のレッスンが楽しみになった。