TS少女は演じたい 作:息抜き
本当に申し訳ないです……
48話の冒頭辺りでしていた話がこの47話を受けた流れになっています
流れとしては
46話:ライブアンケートの結果報告
47話:この話
48話:前日更新した話の流れになります
予約投稿失敗したまま放置も申し訳ないので今日は早めに更新します
ストックギリギリなので、10/29の更新は7時のこれで、いつもの時間はなしになります
よろしくお願いします
八月十三日の夜。
夕食のあと、鞄から透明なファイルを取り出した。
帰りの電車でも一度開いたから、見せたいところには既に小さな付箋も貼ってある。
「お父さん、お母さん。これ、ちょっと見てほしいんだけど」
母が食卓を拭く手を止めた。
父も、手にしていたスマホを伏せる。
「今日、早川さんからもらったの。ライブの感想とか、アンケートをまとめたもの」
テーブルが乾いたところへ、ファイルを置いた。
「二人に見せてもいいかも、聞いてきた」
「そう。じゃあ、見せてもらおうかな」
母が私の隣へ座った。
父にも見えるよう、紙を少し斜めにする。
表紙をめくると、最初の集計が出てきた。
昼間は、ここを開く時にも少し緊張していた。
「当日来てくれた人が答えたアンケートなんだけど。満足したっていう人、八割以上いたんだ」
父が、人数の書かれたところへ目を落とす。
「600人以上答えてくれたのか」
「うん。その人たちの中では、私のことを応援したいって答えてくれた人も、七割くらいいた」
「真琴を?」
「そう。推しを変えるっていうことじゃなくて、新しいメンバーとして頑張ってほしいとか、そういうのも含めてだけど」
母が、少し身を寄せた。
「よかったね」
「うん。あと、ここ」
次の付箋を開く。
数字も嬉しかったけれど、二人へ先に見せたかったのは、こちらだった。
『雨音のリフレイン』の感想。
澪先輩の歌と一緒に、私の短いフレーズの声も好きだったと書いてある。
母が読み終えるのを待ってから、口を開いた。
「私の歌も、好きだって言ってくれた人がいたんだよ」
声にすると、昼間と同じように少し照れた。
「音源でもう一度聴きたいって。今日録ってきたのにも、この曲が入るから」
「そうか」
今日も、何度も同じところを歌い直した。
できないところが分からなくなって、説明してもらって、また歌った。
でも、その先には、聴きたいと思ってくれる人がいる。
「真琴、嬉しそうね」
「……うん。表情とか、視線のことは書いてもらえるかもしれないって思ってたけど。歌は、あんまり考えてなかったから」
母が、もう一度その文章を読んだ。
私も隣から目を落とす。
何回読んでも、書いてある言葉は同じだった。
それから、六人の会話が楽しかったという感想や、新曲をもう一度聴きたいという文章も見てもらった。
二周年でどうなっているか楽しみだという投稿のところでは、父が小さく頷く。
「次も見たいと思ってもらえたなら、よかったじゃないか」
「うん。まだ覚えなきゃいけない曲はあるんだけど」
言ってから、少し笑った。
「でも、今日これを見せてもらって、次のライブも、怖いだけじゃなくて、楽しみになった」
母は、紙ではなく私を見ていた。
それから、ゆっくり息を吐いた。
「……よかった。本当に」
さっきとは、声色が少し違った。
嬉しそうなのに、それだけではない声だった。
私は、ページをめくりかけた手を止める。
「……二人とも、結構心配してた?」
母と父が、一度顔を見合わせた。
先に答えたのは、父だった。
「してたよ」
思っていたより、はっきりした返事だった。
「初めてのライブだったしな。それに、発表してから、いろいろあったみたいだったから」
やっぱり、知っていた。
知らないだろうと思っていたわけではない。
ただ、どこまで聞いているのかは、分からなかった。
私は、居間のテレビへ目を向けた。
「この前、朝、テレビが消えてた日あったでしょ」
「ああ」
「……あれって、私のニュースだった?」
父は少しだけ黙った。
「気になってたか」
「うん。消したところを見たわけじゃないけど」
「……加入のニュースだった。ファンの人から反発も出ている、なんて話をして、具体的な話まで始めそうだったからな」
私は、手元の紙へ目を戻した。
あの日、何を見ていたのかまでは聞かなかった。
「自分で調べたわけじゃないんだ」
「朝、いつもの番組をつけていたら、その話になったんだ。わざわざ探したりはしてない」
「そっか」
「これから出かける真琴に、聞かせるべきじゃないと思ったんだよ」
父の手が、伏せてあるスマホのそばへ戻った。
今からそのニュースを探そうとしているわけではなかった。
私も、見せてほしいとは思わなかった。
「お母さんも、何か見た?」
母が頷く。
「ニュースの見出しはね。普段見ているところに出てきたから。それから、親戚からも連絡があったの」
「親戚?」
「最初は、発表を見て驚いたっていう話だったんだけど。あとから、真琴ちゃん大丈夫なのって」
そこまでは、考えていなかった。
「ニュースで、ファンの人が反対しているって見たけど、本人は平気なのかって聞かれたのよ」
「……何て答えたの?」
「練習には通っているし、家でも皆の話をしているって。事務所にも相談できるようになっているから、って」
母は、少し言葉を切った。
「心配してくれてるのは分かったんだけどね。そうやって聞かれると、やっぱり気にはなるから」
私が自分の名前を調べなければ、それで済むわけではなかった。
親戚がニュースを見る。
それを心配して、お母さんへ連絡する。
その途中に、私がスマホを開くかどうかは関係ない。
早川さんがクラスのグループを見ない方がいいと言っていた理由が、少し分かった気がした。
「会社でも、何人かに聞かれたよ」
「娘さん、ニュースで見たって。すごいなって言ってくれる人もいたけど、ファンが反対してるって話も見た、大変じゃないのか、って」
「お父さんの会社でも?」
「あれだけのグループに娘が入ったとなれば、そういう話にもなる」
父の会社は、父が仕事をする場所だ。
私がレッスンへ行って、帰ってくるのとは、別のところにあるような気がしていた。
そこでも、私のことを話していたらしい。
「……というか、お父さんの娘のことだって、分かったんだ。白瀬なんて苗字、珍しくはないはずなのに」
「…………俺がお前の写真を見せて娘自慢したことがあっただけだ」
「あ、あぁ……なるほど……」
思った以上に子煩悩みたいなことをしていたらしい。
……でも、前世の感覚で父の側から考えてみると、分からなくもなかった。
自分で言うのもなんだけど、今の私は、見た目にはかなり恵まれている方だと思う。
顔はアイドルをやれるくらいには整っているし、背は高くないけど……胸は大きい。
胸に関しては、正直、中学の時に嫌な思いをした原因の一つでもあるから、あまり嬉しいものではない。
それでも、似合う服を選んで髪を整えれば、写真でも見栄えはする。
生まれてから少しずつ成長した顔と身体だから、毎朝鏡を見るたびに感心したりはしないけど。
前世の自分が誰かに家族写真を見せられて、そこに今の私が写っていたら、可愛い娘さんだな、とは普通に思った気がする。
……自分のことなのに、かなり変な想像だ。
ただ、お父さんが自慢したくなったのは、見た目だけではないのかもしれない。
私は家で、両親とそれなりによく話す。
学校であったこと。読んでいる本。最近なら、レッスンや五人のこと。
何か話したいことがあれば、自分から二人のところへ行く。
お父さんと一緒に歩くのが恥ずかしいとか、お母さんに話しかけられるのが鬱陶しいとか、そういう感覚もあまりない。
服や小物を買えば見せるし、食事がおいしければそう言う。二人の言ったことがおかしければ、普通に笑う。
私にとっては、どれも特別なことではなかった。
もちろん、何でも素直に頼れるわけではない。
小さい頃から、変に思われないように周りの子の真似をしてきたし、今でも心配をかけたくなくて、つい平気な顔をしてしまうことはある。
それでも、私にとって、お父さんはお父さんで、お母さんはお母さんだ。
二人に何かしてもらって嬉しい時には、ちゃんと嬉しいと思っている。
前世の自分に娘がいて、その子が高校生になっても、こんなふうに話しかけてきたら。
新しい服を着て、どうかなと聞いてくる。
夕食の時には、今日こんなことがあったと話す。
こちらが少し冗談を言えば、呆れた顔をしながらも笑ってくれる。
……それは、可愛いかもしれない。
顔立ちがどうとか、そういうことだけではなく、毎日一緒に暮らしてきた娘なのだ。
職場で子供の話になって、たまたまスマホに写真が入っていたら、一枚くらい見せたくなる気持ちは分からなくもない。
そう考えると、お父さんが私のことを自慢していたのも、少し嬉しかった。
そこまで考えて、父を見た。
父は、私と目が合うと、お茶へ手を伸ばした。
今さら娘本人には聞かれたくなかった、という感じがした。
……気持ちが分かったところで、自分の写真が父の職場で披露されていたと知るのは、普通に恥ずかしい。
これ以上聞くと、私の方まで落ち着かなくなりそうだったから、ひとまずお茶を飲んだ。
「私の職場でも、娘さんの写真見たよって言われたわ。あんなに大きくなったんだねって」
「……お母さんの方はなんとなく想像できるけど、それ何年前の私と比べてるの」
「小学生の頃の写真しか見せてなかった人だから10年近く前ね」
「そりゃ大きくなってるでしょ」
母が笑った。
父も少し口元を緩める。
「私のこと、検索してなくても、色々聞くんだね」
「そうね。探したり一つずつ読んだりはしていないけど、何も知らずにいるのは難しかったかな」
母は、テーブルに置いた資料へ目を向けた。
「ただ、どんな人が、どれくらい言っているのかまでは分からなかったから」
「……家では、そういう話しなかったよね」
「真琴も、自分では見ないようにしていたでしょう。私たちが人から聞いたことを、そのまま全部話してもね」
母の言葉に、父も頷いた。
「反対する人がいるだろうというのは、前に説明を受けていたし、何かあれば早川さんへ聞ける。人づての話だけで、真琴にあれこれ言うことでもないと思ってたんだ」
「心配はしてたのよ。家で仕事の話をしているから、何も気にならなかったわけじゃなくて」
母が続けた。
「でも、今日、こういう感想も届いているって分かったから。少し安心した」
「……うん」
「それに、真琴が嬉しそうに話してくれたからね」
……安心してくれると思ったから、持って帰ってきた。
だけど、二人が何を聞いて心配していたのかまでは、知らなかった。
「六人になることに反対している人も、いなくなったわけではないんだって」
「うん」
「でも、会社の発表の仕方には不満があっても、私には頑張ってほしいって言ってくれる人もいるし。六人のライブはまた見たいっていう人もいる」
前のページへ戻して、該当するところを見せた。
母が読み、父もその横から目を落とす。
一つの『反対』や『不満』の中にも、違うものがあった。
逆に、いい感想を読んだからといって、全部がうまくいったことになるわけでもない。
でも、それを両方知ったあとでも、嬉しかった。
「ニュースで見たのは、加入が発表されたばかりの頃の話だからな」
「うん」
「実際に公演を見て、こう思ってくれた人もいるんだって分かって、俺も安心したよ」
私は、小さく頷いて、お茶を飲んだ。
もうほとんど温かくなかったけど、そのまま最後まで飲めた。
————
紙をファイルへ戻していると、母が思い出したように顔を上げた。
「あ、そうだ。真琴。今日、学校から連絡があったの」
「学校?」
少し、手が止まる。
「何かあった?」
「二学期が始まる前に、一度面談をしたいんですって」
面談。
その言葉で、加入発表前に早川さんと話したことを思い出した。
学校へは先に連絡しておくけど、詳しい相談は、先生方の都合も聞いて改めて行うと言っていた。
「ああ……前に、早川さんが言ってた」
「そう。その続きのお話みたい」
母がスマホを手に取った。
「真琴と、保護者のどちらか一人に来てもらいたいそうよ。これから学校へどう通うつもりなのかとか、卒業後の進路のことも、本人と直接話しておきたいって」
私は、ファイルを閉じた。
「いつ?」
「夏休みが終わる前で、候補の日をいくつか聞いてる。ただ、まだ決まってないの」
母が、電話のあとに書いたらしいメモを見せてくれる。
日付と、午前か午後かという時間帯が並んでいた。
「事務所にも学校から連絡して、調整するって言っていたわ。急なお願いになるから、その前に、まず家族の都合がつきそうか確かめたいって」
「お母さんか、お父さんが行けるか?」
「そう。私たちにも仕事があるでしょう。二人揃わなくてもいいから、どちらかが来られるところはあるかって」
父も、母のスマホを少し覗き込んだ。
「どの日も難しい、ということはないだろう。母さんの方が都合をつけにくいところなら、俺も確認するよ」
「私は、ここなら大丈夫そうだって伝えたんだけど。真琴のお仕事があるから、それで決定にはなってないの」
日付を見ながら、自分の予定を思い浮かべた。
MVを撮る日。
ほかの撮影や、レッスン。
今すぐ全部を間違いなく答えるのは、難しかった。
「次に事務所へ行った時、早川さんに聞いてみる。学校から連絡が来ることも、伝えておく」
「そうしてくれる?私も、日程が決まったら仕事の方をちゃんと調整するから」
スマホが震えた。
母から届いたメモを保存する。
「大学へ行きたいのは、変わってないんだけど」
画面を見たまま言うと、母が頷いた。
「うん。それも先生へ、真琴から話せばいいと思う」
「前にも伝えてもらってるんだよね」
「そうね。でも、お母さんや事務所から聞くのと、実際に活動を始めた真琴から聞くのとは、また違うでしょう」
それは、そうだった。
仕事を始める前には分からなかったことも、ある。
夏休みだから通えている時間に、学校が始まれば授業が入る。
今の学校へ通いたい。
卒業して、大学へも行きたい。
そのつもりは変わっていなくても、どうやって続けるのかは、私一人で考えれば済む話ではなかった。
「……分かった」
スマホのメモへ、早川さんに学校の面談のことを聞く、と書き足した。
「明日は、由佳ちゃんと会うんだったね」
母が言った。
「うん。午後、こっちに戻ってきてから、少し」
「サイン、書いてくるの?」
「そのつもり」
そう答えると、さっきまで聞いていた学校の面談とは、別の緊張が戻ってきた。
「練習はしたのか?」
父に聞かれ、顔を上げた。
「したよ。今日も帰ってから、何回か」
「由佳ちゃんなら、多少失敗しても喜んでくれると思うよ」
「それは、そうだと思うけど」
だからといって、失敗したいわけではない。
部屋へ戻る前に、鞄へ入れるものをもう一度確かめた。
小さな色紙と、ペン。
色紙を持って帰るための、硬いケースもある。
————
翌日の午後。レッスンを終えて地元の最寄り駅まで戻り、駅近くの喫茶店で由佳と会った。
先に来ていた由佳は、私を見つけると、片手を上げた。
いつものように、空いている向かいの席を示す。
「お疲れ、真琴」
「お待たせ」
「そんなに待ってないよ。暑かったでしょ」
「駅からここまでだけでも、結構」
鞄を置き、椅子へ座った。
冷房の風が、まだ少し熱の残っている首元へ当たる。
由佳は、私が持っている薄い手提げへ目を向けた。
「……それ?」
「多分、由佳が考えてるそれ」
途端に、由佳が姿勢を正した。
「本日は、お忙しい中ありがとうございます」
「急にどうしたの」
「初サインをいただく者として、失礼のないように」
「さっきまで普通だったでしょ」
「こういうのはもらう側の態度ってものが——」
「ないと思うけど」
由佳が笑った。
つられて笑いながら、メニューを手に取る。
とりあえず飲み物を頼んでからにしようと言うと、由佳は素直に頷いた。
注文を済ませる。
店員さんが離れたあと、由佳はもう一度手提げを見た。
「……本当に、今日書いてくれるんだ」
「そのために持ってきたんだけど」
「分かってる。でも、何か実感湧いてきた」
「次の仕事で、サイン使うかもって言われたから。今日じゃないと、初サインじゃなくなっちゃう」
「おー……本物の芸能人だ」
「本物も偽物もないと思うけど……」
私は、手提げを膝へ下ろした。
中には、薄い袋へ入れた色紙がある。
文字は何も書いていない。
一昨日、家で練習していた紙とは違う。
これは、今日、由佳に持って帰ってもらうために買ってきたものだった。
飲み物が運ばれてきてから、二人でテーブルの上を少し空けた。
私のカフェオレも、由佳のアイスティーも、色紙から離れたところへ寄せる。
コースターの周りが濡れていないか確かめて、ケースから色紙を取り出した。
由佳が、少し身を乗り出す。
「おお……」
「まだ何もしてないよ」
「準備の段階から、もうそれっぽい」
「何っぽいの」
「有名人がサインするところっぽい」
……有名人かどうかはともかく、サインをすること自体は間違ってはいない。
だけど、それを言われると、余計に手が止まる。
ペンを出し、キャップを外す前に由佳を見た。
「名前も入れていい?」
「入れて。むしろ、ぜひ」
「『由佳へ』でいい?」
「うん。あと、日付もほしい」
「分かった」
スマホを一度見て、今日の日付を確認した。
八月十四日。
分かっていたのに、書くとなると、確かめないと落ち着かない。
画面を伏せ、ペンのキャップを外した。
まずは、上の方へ小さく宛名を書く。
そこだけなら、いつもの字だった。
学校でノートの端へ何か書いて渡す時と、あまり変わらない。
その下へ目を移す。
ここへ、自分のサインを書く。
練習した形は覚えている。
だけど、白いところが思っていたより広かった。
「……真琴」
顔を上げると、由佳と目が合った。
「私も何か、緊張してきた」
「だから、見る方は緊張しなくていいって」
「言ったでしょ。するって」
由佳は、机の上で両手を重ねた。
「よし。静かにしてる」
「なにそれ」
その宣言が、少しおかしくて笑ってしまった。
それで少し力が抜けて、小さく息を吐いた。
ひより先輩にも、考えすぎて止まらないようにと言われていた。
ペン先を下ろす。
最初の輪を作って、一つ目の山を大きく。
次を少し低くして、その先へつなげる。
後ろの文字は、詰めすぎない。
最後のoから下へ回り、名前の下を通って、右へ戻す。
線の端を少しだけ上げた。
一度ペンを離す。
小さな光を、少し間を空けて添える。
……書けた。
見本と全く同じではない。
最初の輪が、いつもより少し丸い気もする。
でも、ちゃんと自分で決めた形になっていた。
「おお……!」
さっきとは違う声で、由佳が言った。
「……今の、ちゃんとサイン書く人だった」
「書いてるからね」
「いや、そうなんだけど。目の前であの形になるんだって思って」
由佳の目は、色紙へ向いたままだった。
私も、もう一度名前を見る。
紙の上をペンで動いただけなのに、さっきまで真っ白だったところへ、見覚えのある形が残っている。
その下に、日付を書き入れた。
2026.8.14。
これで、全部だった。
「……できた」
キャップを戻すと、由佳が手を伸ばしかけた。
「待って。まだ乾いてないかもしれない」
ぴたりと、手が止まる。
「了解」
「そんなに待たなくても大丈夫だとは思うんだけど、一応ね」
「ここまで来て指で擦るのは、私も絶対に嫌」
由佳は手を引っ込め、色紙を見た。
私も、見た。
二人で黙っていると、何だか余計におかしかった。
「……そんなに見つめても、早く乾かないよ」
「真琴も見てるじゃん」
「私は、ちゃんと書けたか確認してるの」
「私は、その真琴を見てる」
「なぜ私?」
「こういう顔もレアだなーと」
「…………別にレアでもなんでもないと思う」
由佳が笑った。
私は少し時間を置いてから、色紙の縁を持ち、向きを変えた。
「はい。由佳」
そう言って、差し出す。
由佳は、今度はゆっくり両手で受け取った。
「……ありがとう」
いつもの少し大げさな声ではなかった。
名前のところを見る。
その上の宛名へ目を移して、日付を見る。
それから、もう一度サインへ戻った。
「本当に嬉しい」
「……そんなに?」
「そんなにだよ」
すぐに返ってきた。
「写真で見た時も、いいなって思ったけど。全然違う。ちゃんと私の名前が入ってる」
「由佳にあげるんだから」
「うん。私に書いてくれたんだなって」
返事に少し迷った。
当たり前のことだった。
由佳に渡したかったから、由佳の名前を書いた。
でも、受け取った由佳は、私が思っていたよりもずっと嬉しそうだった。
「しかも、最初の一枚なんでしょ」
「うん。練習以外で、初めて書いた」
「……やばい。何回見てもにやける」
そう言いながら、また色紙を見る。
本当に、口元がずっと緩んでいた。
「大事にする。すごく大事にする」
由佳が、顔を上げた。
「ありがとう、真琴」
「……うん」
頷いてから、少しだけ言葉を足した。
「由佳にあげて、よかった」
途端に、由佳の目がこちらへ向いた。
「……またそういうこと言う」
「何」
「今、こっちは普通に感動してるんですけど」
「私、何か邪魔した?」
「してない。むしろ、してないから困ってる」
困ると言われても、困る。
そう返そうとして、やめた。
由佳がもう一度色紙へ目を落として、嬉しそうに笑っていたからだった。
私も、少し笑ってカフェオレへ手を伸ばした。
「額、買おうかな」
由佳が言った。
「そこまでしなくてもいいんだけど」
「飾りたいし。机の上、そのまま置いておくのは怖い」
「飲み物、こぼしそうだから?」
「こぼさないとは言い切れない」
「……由佳なら確かにあり得るか」
「納得するなぁ!!……いや、でも、自分でもやりそうだと思ってるから、額が欲しい」
なるほど。
由佳なりに、ちゃんと考えているらしい。
持ってきた袋とケースを渡すと、由佳はまず色紙を袋へ戻した。
端を引っかけないよう、片手で口を広げて、もう片方で少しずつ入れる。
いつもなら一度で済ませそうな動作を、ずいぶん慎重にやっていた。
「……そんなに壊れやすくないと思うけど」
「今日くらいは丁寧にさせて」
言われて、黙った。
そのまま見ていると、由佳はケースを閉じてから、満足そうに頷いた。
「よし。確保」
「言い方」
「大切に保管いたしました」
「急に丁寧になった」
二人で少しの間見つめ合ってから、吹き出すように笑い始めてしまった。
その後は、夏休みの課題の話をした。
「そういうのがあるから、終わったって言えないんだよね」
「由佳は、終わってないのが分かってるんでしょ」
「まだ見つけてない分があるかもしれない」
「先に、見つかってる分をやったら?」
「正論が強い」
由佳がストローをくわえた。
私は笑って、グラスをコースターへ戻す。
由佳の鞄の隣には、さっきのケースが置いてあった。
時々、そちらへ目が動くのが分かる。
「ちゃんと入ってるよ」
「分かってるって。……あ、そうだ。サインで思い出した」
由佳が、こちらを向いた。
「真琴、クラスのグループって、まだ見てないよね?」
「うん。通知切ったまま」
「だよね。この前、サインもらえるかなって話してる子がいたから」
グラスから、手が離れた。
「……誰の?」
「真琴の」
分かっているのに、聞いてしまった。
由佳も、少しおかしそうな顔をしている。
「学校始まったら、頼んでみようかなって。それに、私もほしいって返してる子もいた」
「……そうなんだ」
「うん。変な話じゃなくて、普通に、もらえたら嬉しいなっていう感じだとは思うんだけど」
今日は、自分が渡したいと思った相手へ書いた。
その一枚のことばかり考えていた。
教室へ戻った時に、別の誰かから同じものを欲しいと言われる。
それは、まだ想像していなかった。
「学校で、サイン……」
「そう。色紙持ってくる子、いるかもよ」
「一枚くらいなら、書けるとは思うけど」
言ってから、由佳を見る。
由佳は、少しだけ眉を上げた。
「一枚で済むかなあ」
「……あ」
「誰かがもらったってなったら、私にも、ってなるでしょ。クラスの中だけとも限らないし。だから私も、これもらったの学校では誰にも言わないつもりだけど」
いつもの教室を思い浮かべた。
誰かが、私の机へ来る。
一枚書く。
その隣から、別の人も紙を出す。
……確かに、そこで一枚だけにするのは難しそうだった。
「学校始まったら、絶対めんどくさいことになると思うよ」
由佳の言い方は、いつものままだった。
「サイン欲しいって思うのは分かるんだけどね。私も滅茶苦茶嬉しかったし」
ケースを軽く示す。
「でも、休み時間ずっと名前書いてるのも嫌でしょ」
「それは……ちょっと」
「マネージャーさん、早川さんだっけ?その人に確認しといた方がよくない?学校で頼まれた時、どうしたらいいのか」
私は頷きかけて、少し止まった。
「書いていいかどうかも、聞いてなかった」
「だよね。私も、そういう決まりがあるのかは知らないし。先に聞いとけば、その場で困らなくて済むんじゃない?」
由佳が何でも知っているわけではなかった。
私も、知らなかった。
でも、分からないまま教室へ行ってから考えるよりは、今、早川さんに聞いておく方がよさそうだった。
「……ありがとう。次に事務所へ行った時、聞いてみる」
「うん。それがいいと思う」
スマホを取り出して、メモに学校でサインを頼まれた場合の対応と書いておく。
由佳が、こちらの手元ではなく顔を見た。
「どしたの?」
「学校のこと。学校から面談の話が来て、それでマネージャーさんに聞いたばっかりだったから」
「面談?」
「夏休みが終わる前に、私と、お父さんかお母さんのどっちかで。学校生活とか、進路のこととか学校生活のことを話したいんだって」
「ああ。そっか。先生とも、そういう話になるよね」
「昨日、お母さんから聞いた。それで今日、レッスンの前に聞いたばっかりだったから」
「なるほどねー」
「一応、月末の学校開始前辺りなら予定がありそうだった」
「じゃあ真琴だけ一足早く夏休みが明けるみたいなものか」
「そうかも?」
メモを保存して、スマホを伏せた。
学校へ戻ったら、何か言われるだろうとは思っていた。
加入したことを聞かれたり、動画を見たと話しかけられたり。
だけど、サインを頼まれるかもしれないとは。
さっきまで使っていたペンを見る。
筆箱へ入れてしまえば、いつも持っているペンとあまり変わらない。
「……名前書くだけなのに、考えることあるね」
私が言うと、由佳は少し笑った。
「既に人気もあるアイドルグループのアイドルだよ?サインってだけで価値が出る可能性があるし、そりゃ欲しい人はいるよ」
「そうだけど」
「私もなんだけどね」
由佳が、自分を指した。
私は、つい笑ってしまった。
「それは、分かってる」
「あ!安心してね!私は売ったりするつもりは本当にないから!真琴が名前入り提案しなかったら、自分から名前入れてって言おうと思ってたし!」
「それで日付も言ってきたの?」
「そう!気休め程度だけど、名前が入ってたら、普通のサインより売りにくくなるでしょ?私としては、真琴が初めて書いたサインを私にくれたってだけで嬉しいから、それを強調することにもなるし」
「……由佳が、そんなに深く考えてくれてると思ってなかった」
「おっとぉ?真琴さん、それは私が馬鹿だと申しておりますか?」
「他意はないんだけど……宿題がまだ終わってない由佳よりは、私の方が計画性があって頭いいとは思ってる」
「何も言い返せない!!仕事がある真琴に負けてる私ってなに!?」
大げさな反応に思わず笑ってしまった。
残っていたカフェオレを一口飲んだ。
「そういえば、そのサイン」
「うん?」
「写真、撮らせてもらってもいい?」
由佳が、少し驚いたような顔をした。
「書いた本人が?」
「私も、最初のを残しておきたいから」
「あ。そっか」
由佳は、すぐにケースを取り上げた。
また丁寧に開けて、中の色紙を出す。
透明な袋へ入れたままだと光が反射したので、少しだけ向きを変えた。
「この角度なら、天井の照明が入らないと思う」
「……こう?」
「もうちょっとこっち。そう」
言われた通りにスマホを動かすと、確かに、白く反射していた部分がなくなった。
一枚撮って、確認する。
二日前、自分で考えた名前の形だった。
でも、練習の紙を撮った時とは違った。
宛名があって、日付があって。
もう、持っているのは私ではない。
「撮れた?」
「うん」
「私にも送って」
「本物持ってるのに?」
「写真もほしい」
欲張りだと思ったけど、私も同じものを残そうとしている。
何も言わずに、撮った写真を送った。
由佳のスマホが震える。
画面を開いた由佳は、また少し笑った。
「……いいね」
「私のサイン、そんなに見て楽しい?」
「真琴からの好感度の証みたいなものだから、本当に嬉しいし楽しい」
すぐに言い返されて、今度は私の方が黙った。
由佳は、こちらを見てにやりとした。
「初期の真琴からは、本当に考えられないんだよ。笑顔すらほぼ浮かべてくれないし、最初は何回誘っても応えてくれなくて……人数が多い時だけたまぁに参加してる辺り、避けられてるのかなとか思って心が折れそうになったんだから」
「……その節は、ご迷惑をおかけしました」
「いえいえ。私としても、最初に仲良くなりたいって思った子と仲良くなれて、嬉しい限りなので」
「……そっか」
思った以上に、由佳にとって私は冷たく見えていたらしい。
これは、もしかして、私の高校初期の距離感調整、だいぶ失敗していたのだろうか。
由佳がいたからどうにかなっていただけなのかもしれない。
————
店を出る前に、由佳はもう一度、ケースがきちんと閉じているか確かめた。
その上へ財布を置きかけて、やめる。
鞄の別のところへ入れ直した。
「そんなに気にしてると、持って帰るだけで疲れない?」
「今日くらいは、慎重にならないとね」
「さっきも似たようなこと言ってなかった?」
「今日はそういう日です」
私は少し笑って、椅子から立ち上がった。
外へ出ると、冷房に慣れた肌へ、暑い空気が戻ってきた。
駅の方へ歩き出しかけたところで、由佳が少し先を指す。
「真琴、まだ時間大丈夫?」
「少しなら。何?」
「文房具屋、寄っていい?」
すぐに、何を買いたいのか分かった。
「……今日額買うの?」
「今日飾りたいから」
迷いのない返事だった。
私は、由佳の手にあるケースを見る。
白い色紙は、中へきちんと収まっている。
ほんの少し前まで、私の鞄に入っていたものだった。
「うん。行こうか」
「やった。真琴も選ぶの手伝って」
「自分のサインを入れる額を?」
「書いた人の意見も参考にします」
「じゃあ、あんまり大げさじゃないやつ」
「えー」
「何買うつもりだったの」
「金箔ギンギラで部屋で存在感を放つ——」
「却下」
由佳が笑った。
こちらまでおかしくなって、私も笑う。
「白いのなんか合いそうじゃない?」
隣から聞かれて、少し考えた。
「木っぽい枠のやつも、いいかも」
「お。ちゃんと考えてくれる」
「手伝ってって言ったの、由佳でしょ」
「うん。言った」
由佳は楽しそうに頷いて、鞄を持ち直した。
私も、なんとなく並んでいるものを見てみたくなっていた。