TS少女は演じたい 作:息抜き
八月十七日、月曜日。
レッスンが始まる前に少し時間を取りたいと連絡をもらい、今日はいつもより早くFOLIOへ来ていた。
打ち合わせ室へ入ると、早川さんが机の上の資料を揃えていた。
一つは、文字の多い紙だった。
もう一つには、写真が何枚か並んでいる。
「おはようございます」
「おはようございます。早めに来ていただいて、ありがとうございます」
椅子へ座り、鞄を足元へ置いた。
土曜日の取材で、何か確認することがあったのだろうか。
帰ってから、あれは少し長く話しすぎたかもしれないと思ったところなら、いくつかある。
そう考えていると、早川さんが二つの資料をこちらへ向けた。
「今日は、白瀬さん個人へ来ているお仕事について、二件ご相談があります」
「……個人、ですか?」
「はい。一つは短編ドラマへの出演。もう一つは、雑誌のWeb版での写真企画です」
私は、机の上を見た。
片方には『放課後の余白』。
もう片方には『Frame Note』と書いてある。
その下には、どちらにも私の名前があった。
「グループでの出演ではなく、白瀬さん個人への依頼です。ただ、まだ引き受けたわけではありません。内容を説明したうえで、どうしたいかを伺いたいと思っています」
一昨日も、一人ずつ写真を撮った。
私へ向けられる質問も多かった。
でも、あれは六人で受ける取材だった。
現場へ向かう車にも、撮影の場所にも、話をする椅子にも、五人がいた。
ただ、今回はそうではないらしい。
「撮影時期も、返事が必要な時期も違います。まず、日程が近いドラマの方からお話ししますね」
「はい。お願いします」
早川さんが、一枚目をこちらへ寄せた。
『放課後の余白』。
作品名の少し下にある制作会社の名前を見て、目が止まった。
「……ノートフィルム?」
「はい。二月に『帰り道のフレーム』を撮影した会社です」
思わず顔を上げた。
「あの時の?」
「そうです。今回は、そちらからFOLIOへご相談がありました」
本を開いて座っているだけだと聞いていたのに、いつの間にか顔を撮ることになっていた。
帰り道で、由佳に話が違うと言ったことも覚えている。
「白瀬さんにお願いしたいのは、第四話へ出てくる同級生の役です。作品自体は、高校生の日常を描く、一話八分から十分ほどの短編で、全六話を予定しています」
「第四話だけ、ですか?」
「はい。今お話が来ているのは、その一話の、一つの場面です」
次の紙には、場面の説明と、短い台詞が載っていた。
放課後の教室。
同級生と話している高校生。
台詞は三つだった。
長い文章ではない。
その間に、相手の返事や、表情についての説明が入っている。
「台詞は、これで全部ですか」
「現時点では、この三つです。完成した映像での出番は一分弱を想定していますが、長さは編集によって変わります」
思っていたより短かった。
少し安心してから、その下の文章をもう一度読む。
本当は一緒にやりたいことがある。
だけど、自分から別の方でいいと言ってしまう。
相手に気を遣わせたくなくて笑うが、そのまま帰られると、言い直したくなる。
台詞が短いことと、やることが少ないことは、同じではなさそうだった。
「これは出演場面の抜粋です。前後も含めた第四話の台本は、手直ししたものが今日届く予定なので、お返事をいただく前に読むことができます」
「ありがとうございます」
紙を少し手前へ寄せた。
それから、気になっていたことを聞く。
「……どうして、私に頼もうと思ってくださったんですかね」
「二月の現場で、演出に合わせて表情や視線を変えられたことを、制作の方が覚えてくださっていたそうです」
あの日のことだった。
自分では、言われた通りにできたから、それで終わったと思っていた。
「加入の発表を見て、FOLIOへ正式に所属したと知り、公開された候補期の映像も見てくださっています。二月以降も演技を学んでいることと、今回の役に必要な細かな反応ができそうだということで、出演を相談したいと」
「……覚えていてくださったんですね」
二月に参加の書類に名前を書いた会社から、今度はFOLIOを通して、私の名前を指定した話が来ている。
「加入したことも、理由なんですよね」
聞くと、早川さんは頷いた。
「そうですね。所属先が決まり、仕事として相談していただきやすくなったことや、Lumière Paletteの新しいメンバーということで、作品へ関心を持ってもらえる期待もあると思います」
そこは、違いますとは言われなかった。
私も、全く関係ないとは思っていなかった。
「ただ、今回の場面を白瀬さんに演じていただきたい、というお話です。名前を借りられればそれでいい、という依頼ではありません」
もう一度、台詞を見る。
自分が何かを言うところより、そのあとに何をしているかの方が気になった。
笑ったまま相手を見送る。
その人の顔が見えなくなってから、呼び止める。
三枝さんとのレッスンでも、似たことを考えた覚えがあった。
「オーディションは、ないんですか?」
「今回は、以前の現場での様子と映像をご覧になったうえでの、指名でのご相談です。役の内容と条件を確認して、本人が希望するなら、出演に向けて進めたいというお話になっています」
「そういう頼まれ方も、あるんですね」
「はい。ただ、今回がそうだということで、今後も全て同じではありません」
私は頷いた。
いくつかの段階を飛ばしているようにも思えたけれど、向こうは二月の私を見ている。
私の方が忘れかけていた時間も、判断する材料になっていた。
早川さんが、予定の欄を示した。
「撮影は、八月二十日です」
「……今週の木曜日?」
「はい」
私は、日付を見直した。
今日は月曜日だった。
「そんなに、すぐなんですね」
「相談自体は先週から来ています。制作側と、役の範囲や拘束時間、こちらの日程を確認していました。今日、白瀬さんに具体的な内容をお話しできる状態になったので」
早川さんの指が、二十日のところへ移る。
「第四話の撮影は十九日と二十日の二日間ですが、白瀬さんに来ていただくのは二十日だけです。都内の教室として使えるスタジオで、一つの場面をまとめて撮ります」
「一日中ですか?」
「今の予定では午前中だけですね。八時半頃に現場へ入って、衣装とヘアメイク、動きの確認をしてから撮影。正午頃の終了を目指して、十三時頃までは余裕を見ています」
私は、鞄から自分の予定表を出した。
木曜日にも、レッスンがある。
六人で合わせる時間も書かれていた。
「午後のレッスンは……」
「六人で合わせるのは十五時からです。高瀬さんとも確認しましたが、今の撮影予定なら、その時間は残せます。午前に予定していた白瀬さんの個別確認だけ、同じ週の中で配分を変えます」
早川さんが、もう一枚の予定を見せてくれた。
私の持っているものと、少し違っていた。
ただ、全体の終わる時間が遅くなっているわけではなかった。
「前日は、滞在住戸を利用する案です。朝に自宅から移動するより、睡眠も取りやすいと思いますので。当日は、マネージャーとして私も同行します」
八時半に現場。
家から直接行くなら、随分早く起きなければいけない。
泊まってから向かうなら、少し想像しやすかった。
「撮影が延びたら、どうなるんですか?」
「その時は、こちらでレッスンの内容を調整します。撮影が何時に終わっても、予定していた分を夜まで全部やる、ということにはしません」
「……はい」
「新しい現場へ行く疲れはあると思います。ただ、今回の規模であれば、今進めている二周年の準備を大きく止めずに経験できると考えています」
撮影に半日、その前に台本を読んでおく時間もいる。
でも、何週間も五人と別の場所へ通うという話ではない。
「公開は、いつになるんでしょうか」
「八月二十八日、金曜日の二十時を予定しています。制作側の公式YouTubeチャンネルで、本編を無料公開します」
「撮ってから、一週間くらいで見られるんですね」
「はい。短い作品で、撮影後の編集や仕上げの日程も先に組まれています。告知は、制作側とFOLIOで時期を合わせます。白瀬さんのSNSで案内する内容も、決まってからお渡しします」
二十八日。
まだ夏休みの終わり頃だった。
自分が台詞を言っている映像を、知らない人が開く。
そこまで考えると、紙の上の三つが、さっきより少し長く感じられた。
「早川さんは、どう思いますか」
顔を上げて聞いた。
「私が、今、こういうお仕事をすること」
早川さんは、予定表から目を離した。
「よい機会だと思っています。俳優の仕事も経験していきたいのであれば、今の白瀬さんが準備できる範囲で、外の現場へ入れるお話ですから」
「小さい役でも、ですか」
「はい。大きさだけではありません。今回は、最初から台本にある役の出演者として、指名されて呼ばれます。その役を準備して、監督や共演する方と一つの場面を作る。それは、二月とも、レッスンとも違う経験になると思います」
二月には、背景に座っているつもりで行った。
途中で顔を撮ることになっても、全部終われば、それで帰ってきた。
今回は、行く前から、自分の担当する役がある。
「もちろん、これを受ければ次も決まる、という話ではありません。ただ、得意だと評価されていることを、実際の作品の中で使う機会にはなります」
私は、紙を押さえていた指を少し緩めた。
やってみたいかと聞かれたら。
多分、そうだった。
ただ、その言葉を今ここで答えていいのかは、まだ少し迷っていた。
「もう一件も、ご説明しますね」
早川さんが、写真のある資料をこちらへ動かした。
『Frame Note』
その下には、新人ポートレート企画、と書かれていた。
「こちらは、雑誌のWeb版で、白瀬さんを写真中心に紹介したいという依頼です。撮影は九月上旬を希望されています」
「こっちは来月なんですね」
「はい。ドラマのように、今週すぐ撮るお話ではありません」
少しだけ、頭の中に余裕ができた。
両方とも木曜日までに準備するのかと思いかけていた。
私は、企画名をもう一度見た。
「ポートレートって、人の写真、という意味ですよね」
「はい。人物を主題にした写真です」
「この間一人ずつ撮ったのとは、どう違うんですか?」
土曜日にも、私一人でカメラの前へ立った。
集合写真のあとに、顔や肩の向きを少しずつ変えて撮ってもらった。
あれも、人物の写真ではある。
「この間の写真は、六人の特集に載せるためのものでしたよね。今回は、白瀬さん一人を、何枚かの撮り下ろし写真で紹介する企画です」
早川さんが端末を操作し、画面をこちらへ向けた。
過去に掲載された記事だった。
最初に、大きな写真が一枚ある。
窓のそばに立った人が、少しだけ横を見ていた。
次に、椅子に座った写真。
その次は、顔が近くに写っている。
同じ人なのに、最初に見た時とは少し違う印象だった。
間には、短い文章とプロフィールが入っている。
「インタビューもあるんですね」
「はい。ただ、今回の企画では写真が中心です。表情や視線、立ち姿などを、いくつかの違う写真で見てもらうことになります。今回は、明るい表情だけでなく、落ち着いた雰囲気の写真も撮りたいというお話です」
「……これは、役を演じるんですか?」
「ドラマのように別の人物になるわけではありませんね。白瀬さん本人を紹介するための写真です。ただ、何も準備しない普段の姿を、そのまま撮るという意味でもありません」
早川さんが、企画書の写真を指した。
「服や髪を整えて、撮影する方と相談しながら、どんな印象にするかを作っていくお仕事、というと分かりやすいですかね」
私は、画面へ目を戻した。
本人を撮る。
でも、証明写真とも、友達と撮る写真とも違う。
自分を使って、何枚かの違う写真を作る。
そう考えると、少し分かった気がした。
「どんな服で撮るんでしょうか」
「私服を軸にした二種類ほどを考えているそうです。手持ちの服を使うか、衣装として用意するかも、これから相談します」
「自分で買っておいた方がいいということですか?」
「いえ。今撮影のために買いそろえる必要はありません。先に候補をお見せしますので」
少しほっとした。
何を買えばいいか分からないところから始まると、撮影より前に困りそうだった。
「場所は、都内のハウススタジオ一か所を基本にしています。ヘアメイクと着替え、撮影、短いインタビューを合わせて、三時間から四時間ほどの想定です」
「九月だと、学校が始まっていますけど……」
「はい。学校の予定がない半日から相談します。二周年の合同練習と重ならないよう、こちらでも調整する形ですね」
企画書には、九月上旬撮影予定、とだけ書かれていた。
まだ、日付は入っていない。
「公開も、撮ってすぐですか?」
「九月中旬頃を想定しているそうですが、具体的な日はまだ調整中です。写真を選んで、短い記事をまとめてから掲載されます」
早川さんが、少し画面を戻した。
記事の上に、その人の名前が大きく出ていた。
その場所に、自分の名前が入るらしい。
「こっちも、私を撮りたいと言ってくれているんですか?」
「はい。加入発表の写真と、候補期の映像をご覧になったそうです。視線や表情で印象が変わるところを、写真でも撮ってみたいと」
「映像を見て、写真を……」
「そうです。新人の方を紹介する企画なので、今、新しく知ってもらうのにちょうどいいと関心を持ってくださっています」
早川さんは、私の名前が書かれたところへ目を向けた。
「Lumière Paletteへの加入が、知っていただくきっかけにはなっています。そのうえで、白瀬さん一人を撮りたいというお話です」
私は、さっき見た窓際の写真を思い出した。
あそこへ立つなら、どちら側に顔を向けるだろう。
光が強ければ、少しだけ身体を外へ向けた方がいいかもしれない。
そこまで考えてから、まだどうするか決めてすらいないことを思い出した。
「写真の方も、気になります」
口にすると、早川さんが少し笑った。
「そうですか」
「はい。こういう記事になるんだって分かると、もう少し見てみたくなりました」
「では、掲載例も、あとで確認できるようにお送りしますね」
「お願いします」
二つの資料を並べた。
片方には、台詞がある。
もう片方には、写真がある。
どちらにも自分の名前があるけれど、頼まれていることは同じではなかった。
「ドラマは、明日の正午までに制作側にお返事したいと思っています。全体の台本も確認して、ご家族ともお話ししてください」
早川さんが言った。
「『Frame Note』は、そこまで急いでいません。写真の方向や衣装案も見ていただいてからで大丈夫です。来週前半くらいに、一度ご希望を聞かせていただければ」
「両方、明日決めなくてもいいんですね」
「はい。別のお仕事ですから」
私は頷いた。
同じ日に説明されたからといって、同じ日に答えなければいけないわけではなかった。
「今の時点で、やってみたい気持ちはありますか?」
少し考えた。
撮影の日を見て、レッスンの予定を見て、何とか行けそうかばかり確かめていた。
でも、何も興味がなかったら、さっきの写真をもう一度見せてほしいとは言わなかったと思う。
「どちらも、あります」
そう答えてから、ドラマの紙へ目を戻す。
「ただ、今、個人の仕事まで受けていいのかは、少し考えたいです。二周年でやる曲も、まだ練習している途中なので」
「分かりました。すぐに答えなくて大丈夫です。ご両親や先生方、神谷さんたちにも相談していいので、決まったら教えてください」
「ありがとうございます」
出演料や、作品と告知で使われる範囲を記した別紙も受け取った。
家で確認したいところへ、小さく印をつける。
今日のレッスン予定には、午後に三枝さんの名前があった。
あとで、話を聞いてもらえるだろうか。
私は二つの資料をファイルへ入れ、鞄にしまった。
————
音が止まるまで、朝の話を考える余裕はなかった。
前の人が動くのを見て、自分も場所を変える。
歌い出す前に息を吸う。
昨日うまくできなかったところで、同じ失敗はしたくない。
できていたところもあった。
まだ直すところもたくさんあった。
一つの曲を終えて水を飲んだ時、ようやく、鞄に入れた資料を思い出した。
ドラマは今週で、写真の方は九月。
考えかけたところで次の確認が始まり、ボトルを戻す。
それを何度か繰り返すうちに、午前中のレッスンが終わった。
昼食を食べ始めて少し経った頃、私は向かいの美月と夏希を見た。
「一人で外の現場へ行く時って、どんな感じ?」
夏希が顔を上げた。
「一人の仕事?」
「うん。グループじゃなくて」
美月が、箸を持ったままこちらへ少し身体を寄せる。
「何か来たの?」
「今朝、早川さんから聞いた。ドラマと、写真の話」
「え、ドラマ?」
声が少し大きくなった。
隣にいたひより先輩も、こちらを見る。
「まだ、受けるって決めたわけじゃないんだけど」
先に付け足してから、仕事の内容を説明した。
短編の一場面で、台詞は三つだけであること。
撮影は木曜日の午前。
写真の方は、九月上旬のポートレート企画。
「ノートフィルムって、最初の撮影のところだよね?」
ひより先輩が聞いた。
「はい。覚えていてくださったみたいで」
「そっか。今度は、向こうから声をかけてくれたんだね」
「……はい」
自分でも、まだ少し不思議だった。
美月が、写真の方の企画名を確かめる。
「『Frame Note』?どんな感じで撮るの?」
「私服っぽい服で、何枚か。普通に笑ってるのと、もう少し静かな感じのとか。写真を中心に、私のことを紹介する記事だって」
「なんだ、ほぼモデル仕事じゃん!いいね!衣装、もう見た?」
「まだ。先に買わなくていいって言われた」
「ああ、そこから考えたんだ」
美月が笑った。
「だって、自分の服って言われると、今持ってるので大丈夫なのか分からなくて」
「最初に候補を見せてもらった方が分かりやすいと思う。私も、これ着たいって思ってたのに、背景の色を聞いたら違うのがよくなったりするし」
「背景も?」
「うん。服だけ可愛くても、そこでどう見えるかは別だから」
美月が、自分の袖へ目を落とした。
「でも、可愛いのがたくさんあると、全部着たくなっちゃうんだよねー」
「美月は特に、服選びで無数にパターン考え始めるからね。時間いくらあっても足りないでしょ」
ひより先輩が言う。
「だって、ちゃんと選びたいじゃないですか」
「選んだあとにも、あっちもよかったって言うことよくあるし」
「だって、よかったんですもん」
ひより先輩が少し笑った。
私も笑ってから、美月へ聞く。
「一人の撮影だと、やっぱり緊張する?」
「する時するよ。撮られるのに慣れてても、初めての人ばっかりだと、何をどこまで自分から言っていいか、最初はちょっと迷う」
美月でも。
思わず見てしまうと、向こうも私を見た。
「何、その顔」
「美月は、すぐに普通に話せそうだと思って」
「話すけど、何も考えずに喋ってるわけじゃないからね?」
「……はい」
「今、ちょっと思ってたでしょ」
「ちょっと」
美月が口を尖らせた。
隣で夏希が笑っている。
「でも、分からないこと聞くとそこから話せたりするよ。前にもう少し目線を外してって言われて、どっちの方がいいですかって聞いたら、撮ったの見ながら説明してくれて」
「自分から、見せてくださいって言ってもいいんだ」
「見せてもらえるタイミングだったらね。私、言われた通りにしてるつもりで違ったこと、普通にあるし」
それは、レッスンでもあった。
外の現場へ行ったら、基本的に指示には全て従わないといけないのかと思っていたけど、質問や相談をしてもいいらしい。
「靴の撮影も、踊れたら終わりじゃなかったよ」
夏希が言った。
「靴?」
「あ、私Stride/Oneっていうスポーツシューズブランドのキャンペーン広告とかやってるから、それ関連ね。こっち向きだとロゴが隠れるとか、足を上げるの速いとロゴが見えないとか。普通に踊るならこっちの方が動きやすいのに、ってなったりね」
「それで変えるの?」
「変える。見せたいの、靴だからね。そういうお仕事だし」
当たり前みたいに返ってきた。
「靴のお仕事だからね」
ひより先輩に言われ、夏希は頷いた。
「そう。だから、撮ったのを見た時も、顔よりも靴が見えるように——……って、なにその顔」
「……夏希がプロみたいなこと言ってる」
「プロですけど!?」
「ご、ごめん、少し意外だったから」
「これでも二年近くちゃんと実績積んできてるんです」
「うん、思ったよりもちゃんと先輩でびっくりした」
私も、自分の足元を少し見た。
今、履いている靴を同じように撮られたら、どこを向けるだろう。
「私も、外で歌う時は、いつもと違う言葉で指示が来ることがある」
澪先輩が言った。
「同じ意味だと思って歌ったら、違ったりするから。一度、どういう感じかちゃんと聞くようにしてる」
「先輩でも、ですか」
「うん。分からないまま何回も歌う方が、時間かかるし」
澪先輩は、普通にお茶を飲んだ。
聞いて、試して、違ったら直す。
普段も、そうしている。
ただ、聞く相手が変わる。
その人が何を求めているかを、いつもの先生と同じようにはいかないのだろう。
「真琴が気にしてるのは、現場のことだけ?」
玲奈さんに聞かれ、私は箸を置いた。
「それもありますけど……今、受けていいのかなって」
「二周年の練習があるから?」
「はい。皆より、まだ覚えなきゃいけないことも多いので。私だけ別のことに時間を使っていていいのか、少し」
玲奈さんは、考えるように目を伏せた。
「木曜日の合わせは、そのまま出られるっていう話なのね」
「はい。前の日に泊まって、午前に撮って、午後に戻る予定だって。個別でやるところは、今週の中で調整できるそうです」
「それなら、今の予定を見たうえで、早川さんが相談してくれたんだと思う」
私は頷いた。
「私たちも、それぞれの仕事へ行きながら、一緒に練習しているでしょう。真琴だけ、全部追いついてからじゃないと個人の仕事をしてはいけない、ということはないと思うわ」
全部追いついてから。
そこまで、はっきり考えていたわけではなかった。
でも、まだできていないことがある間は、そちらを先にするべきだと思っていた。
そうすると、いつまでたっても、そちらが先になる。
「二周年のことを気にしなくていいって意味じゃないけれどね。でも、調整できないわけじゃない。それなら、二周年が、とかは考えないで、今回の仕事をやりたいか考えていいと思う」
「……はい」
玲奈さんは、それ以上、受けるべきだとは言わなかった。
夏希が、私の方へ少し顔を傾ける。
「真琴は、どっちもやってみたいの?」
「写真の方は、まだ具体的なのを見てからだけど。気にはなる」
「ドラマは?」
少しだけ間が空いた。
台詞の間にあった、短い説明を思い出す。
「……やってみたいと思う」
口にすると、さっきよりはっきりした。
「台本、全部読んでみたい。あの場面だけだと、その子がどこまで言おうとしてるのか、まだ分からないから」
夏希が頷いた。
「もう、結構気になってるじゃん」
「うん」
否定するところではなかった。
「終わったら、どうだったか教えてよ」
夏希が言った。
今度は、からかうような声ではなかった。
「うん。受けることになったら」
そう答えてから、残っていたご飯へ箸を伸ばした。
————
午後のレッスンには、予定通り三枝さんが来ていた。
カメラで撮ったものを見ながら、顔を向ける順番や、次の人へ視線を送るところを確かめる。
自分では同じようにしたつもりでも、動きの途中だと、見えている時間が違った。
そこを直して、もう一度。
今度は、三枝さんが短く頷いた。
その様子を見ると、朝から考えていたことが少し遠くなる。
今、確かめるところは分かっていた。
レッスンが終わり、飲み物を片づけてから、私はモニターのそばへ向かった。
三枝さんは、今日の映像を閉じかけていた。
「三枝さん。少し、相談してもいいですか」
顔がこちらへ向いた。
「いいわよ。何?」
私は鞄からファイルを出した。
朝、早川さんから二つの依頼を説明されたこと。
話しながら、出演場面の抜粋を差し出した。
三枝さんは受け取り、最初から読んだ。
待っている間、隣の椅子の背へ手を添える。
何度も指導を受けているのに、今日は少し落ち着かなかった。
「全体の台本は、これから?」
「はい。今日、届く予定です」
「分かった。それで、何を相談したい?」
私は、三枝さんの顔を見た。
「今の私が、こういう役を受けるのを、どう思うか聞きたくて」
「私は賛成」
返事は、すぐだった。
続きを用意していた口が、一度止まる。
「……今の段階でも、ですか」
「ええ。これなら、やってみてほしいと思う」
三枝さんは紙をもう一度見た。
「短い場面で、相手に何を見せるかと、カメラに何が残るかを扱う役でしょう。あなたが今、強みとして使えるところがある」
「台詞は、少ないんですけど」
「うん。むしろ、今はそれがいいと思う。長い台詞や何日も続く芝居を一度に抱えるんじゃなくて、一つの場面を準備して現場に行けるから」
三枝さんが、紙の端を揃えた。
「いつものレッスン相手じゃない人とやり取りして、いつもとは違う監督の指示を受ける。その中で、覚えてきたことをどう使うか。これは、今、経験しておく価値がある」
私は、椅子へ添えていた手を離した。
否定されると思って来たわけではない。
それでも、こんなにすぐ、やってみてほしいと言われるとは思っていなかった。
「二周年のレッスンへの影響は、どう思いますか」
「早川さんとは、どういう話になってるの?」
午前に撮って、午後の合わせへ戻る予定を説明した。
前泊すること。
同じ週の中で個別の内容を調整すること。
三枝さんは、最後まで聞いていた。
「そこまで確認して、六人の合わせを止めずに行けるなら、私は見送る理由にはしない」
はっきりした言い方だった。
「歌もダンスも、続けて練習する。それとは別に、今使える力を仕事で使ってみる。今回は、その両方ができる話に聞こえる。苦手なものがなくなるまで、得意なものをやらないでおく必要はないわよ」
少し、笑われた。
でも、からかわれた感じはしなかった。
私は抜粋の紙を受け取った。
今朝見た時には、短いと思った台詞。
それを演じに行くことへ、三枝さんは、私が思っていたよりずっと前向きだった。
「聞けて、よかったです」
「うん」
「最初のカメラテストから、演技も含めてずっと見ていただいてるので。三枝さんがどう思うか、一度聞いておきたかったんです」
三枝さんが、小さく頷いた。
言いながら、新人のレッスンへ通っていた頃を思い出した。
いつもの先生に教わっている途中で、三枝さんが部屋へ入ってくる。
前に撮った映像を見たり、同じ課題をもう一度やったりした。
あの頃は、最初のテストを見た先生が、そのあとも続けて確かめに来てくれるのだと思っていた。
「……そういえば、あの頃も、五人の指導をされていたんですよね」
「……?ええ、そうね」
「新人の方にも来てくださっていたのは、FOLIOから、私を続けて見てほしいってお願いされていたんですか?」
聞くと、三枝さんは少しだけ首を傾げた。
「そこまでは頼まれてなかったわね。二月にカメラテストを見て欲しいとは言われたけど」
「……あの日だけ、ですか?」
「うん。一度見て、どういう子か評価してほしいっていう依頼だったから」
私は、三枝さんを見た。
一度だけのはずだった。
それなのに、そのあとも何度も、カメラの向こうに三枝さんがいた。
「じゃあ、そのあとのレッスンは……」
「私から、また見せてほしいって頼んだの」
返事ができなかった。
三枝さんは、特に大きなことを言ったような顔をしていない。
「五人の指導でこっちへ来る日に、白瀬のレッスンもあるなら、時間の合うところを見たいって。新人側の先生たちと調整してもらってた」
新人のレッスンを見る予定があって、そこに私がいた。
そういう順番だと思っていた。
「……私が、いたからですか」
「そうよ。白瀬がいたから、あっちのレッスンも見に行ってたの」
空調の音が聞こえた。
少し向こうでは、スタッフの人が機材をまとめていた。
三枝さんに見てもらえることが、普通ではないらしい。
それは、彩花から聞いていた。
自分のカメラ表現を高く評価してもらっていることも、何度も説明されていた。
でも、三枝さん自身が見たいと言って、あの部屋へ来ていた。
そのことは、知らなかった。
「どうして、そこまで……」
言いかけて、うまく続かなかった。
三枝さんは、少しだけ口元を緩めた。
「気になったから」
「気に、なった?」
「最初にできたことが、次にもできるのか。それから、別の先生に教わって、覚えることが増えたあとにも、あの表現が残るのか。自分で確かめたかった」
前にできたことが、たまたまではないか。
そういう確認だとは聞いていた。
でも、今の言葉には、もう少し違うことが入っていた。
「教わったら、できなくなることもあるんですか?」
「ある。覚えたことを守ろうとするので精いっぱいになって、元々できていたことまで出なくなることはあるわね」
三枝さんは、自分の肩へ少し目を向けた。
「あなたも、姿勢を直そうとして、顔まで止まったことがあったでしょう」
「……ありました」
別の動作をしている間に、返事をする声まで変わってしまったことは、よく覚えている。
「だから、基礎を入れたあとにも、強いところが残っているかを見たかった。何かを覚えるたびに、前のよさが薄くなるようなら、教え方も考えないといけないから」
私は、三枝さんを見た。
できないことを、できるようにする。
レッスンは、そういうものだと思っていた。
できていたことを、なくさないようにも見られていたのか。
「でも、白瀬は、整理すると戻せた」
三枝さんが続けた。
「最初は、こっちから一つずつ言う必要があった。それが、自分で何に気を取られていたか説明できるようになって、条件を変えても調整できるようになった」
「まだ、先に顔を決めてしまうこともあります」
「うん。それは、今も直してる」
そこは、普通に頷かれた。
少し笑いそうになって、それから続きを待つ。
「でも、直すところがあることと、才能があることは別。私は、最初に見たものを、今もはっきり評価してる」
言葉が、静かに入ってきた。
初めて聞いたわけではない。
それでも、胸の辺りが少し熱くなった。
「最初から、画面に何を残すかを細かく扱えていた。そこに声や身体の基礎が加わったら、どうなるか。その才能が、どこまで伸びるものなのか。指導する側として、すごく面白かったの」
「……面白かったんですか」
「ええ」
返事には、迷いがなかった。
「報告を読んで終わりにするより、自分で見たかった。前と違う条件を渡したら、今度はどうするか。何を教えたら、次に何ができるようになるか」
三枝さんは、そこで少し笑った。
「教える側には、そういう楽しみもあるのよ」
すぐには何も言えなかった。
今日は後半、私も見るからね。
そう言われた日のことを思い出した。
いつもの先生の後ろに、三枝さんがいた。
映像を止めて、もう一度戻した。
私が答えるのを待って、それから別の条件を出した。
その時間を、先生自身が楽しみにしていた。
私は、見てもらえる日に、見てもらっているのだと思っていた。
その日がどうやってできたのかまでは、考えていなかった。
「……知りませんでした」
「言ってなかったものね」
「はい」
少し息を吐いた。
顔が熱い気がした。
土曜日みたいに五人から続けて言われたわけではないのに、何と返せばいいのか分からなくなっている。
「そんなふうに思って、来てくださっていたんですね」
「そう。だから、今回の仕事も楽しみよ。今度は、外の作品の中でどう見えるかを確かめられるでしょう」
私は、手元の紙へ目を落とした。
先生が見たいと思ってくれている。
それは嬉しかった。
でも、それだけではなかった。
私も、あの場面をやってみたかった。
朝から気になっていた三つの台詞を、もう一度読んだ。
「ありがとうございます」
顔を上げて言うと、三枝さんが頷いた。
「……ちゃんと、台本を読んで考えてみます」
「うん。それで、受けるなら——」
三枝さんが、机に置いたスマホを取った。
「台本が届いたあと、一度、私も見ましょう」
「え?」
「早川さんから私にも共有してもらって。今週のレッスンのあと、少し時間を取る」
思わず、三枝さんの手元を見た。
もう、予定を確かめていた。
「個別に、ですか?」
「そうね。今回の場面なら、まず三十分か四十分くらい。一度やって、現場へ行く前に確かめておいた方がいいところを見る」
「……そこまで、お願いしてもいいんでしょうか」
三枝さんが顔を上げた。
「今、私から言ったでしょう」
「——はい」
少し笑ってしまった。
その通りだった。
さっき、先生自身が見たいと思って来ていたと聞いたばかりなのに、また、お願いしてよいかを確かめている。
「台詞は少ないから、長く読み合わせる必要はないと思う。ただ、相手の返し方が変わった時に、同じ顔を出すだけになっていないかは見ておきたい」
「現場でも、相手の方がどう言うかは、分からないですもんね」
「そう。ここで一つの間を決めて、その通りにしてきて、という準備にはしない。いつもの、あらかじめ決めた顔を先に作らないっていうのと同じ。ちゃんと、変えられるようにして行きましょう」
私は頷いた。
そのやり方なら、知っている。
同じ台詞でも、相手が違えば、見る時間は変わる。
カメラの場所が変われば、顔の向け方も変わる。
何もかもを、最初から作り直す必要はない。
全部、三枝さんが教えてくれたことだ。
「明日の終わりなら少し取れそうだから、早川さんと相談しておく。今日、台本を読んで気になったことがあれば、持ってきて」
「はい。お願いします」
「写真の方も、撮影の案が来たら見せて。そっちは日が決まってからでも準備できるから」
「ありがとうございます」
勢いよく頭を下げて、お礼を言う。
朝には、個人の仕事が二件あるというだけで少し身構えた。
今は、それぞれに、次に何をすればいいかが見えた気がした。
「帰ってから、全部一人で完成させてこなくていいからね」
「……考えすぎないようにします」
「考えるのはいい。決めすぎないで」
私は、少し笑って頷いた。
————
帰る前に、早川さんから第四話の台本を受け取った。
三枝さんとの話も伝えると、既に少し相談が来ていたみたいで、明日のレッスン後に部屋を使えるよう確認してくれるらしい。
写真の方は、撮影の方向が分かる資料を、改めて送ってもらうことになった。
電車では、最初の数ページだけ読んだ。
途中で自分の出る場面を探しかけて、一度、最初へ戻る。
そこだけを読んでも分からないから、全体を読みたいと言ったのは自分だった。
家へ着くと、母が台所から顔を出した。
「おかえり。今日、仕事のお話があったんだって?」
「うん。早川さんから連絡来た?」
「資料を確認してくださいって。まだ細かくは見てないけど」
鞄を下ろして、ファイルを出した。
「ドラマと、写真。ドラマの撮影は、今週の木曜日」
「木曜日?」
母も、同じところで驚いた。
私も朝、その日付を見直したと話すと、少し笑われた。
夕食のあと、父にも資料を見てもらった。
撮影するのが、二月と同じ制作会社だと説明すると、父は名前のところをもう一度見た。
「最初に声をかけてもらうきっかけになったところか」
「うん。あの時のことを、覚えててくれたみたい」
「そうか」
父は、撮影の予定へ目を移した。
前泊のことや、午後にはレッスンに戻ること、マネージャーが同行することも話した。
二人とも、まず何をする仕事なのかを聞いてくれた。
「今回は、台詞があるんだね」
母が言った。
「三つだけだけど」
「三つ?」
「短いの。でも、その間に、相手の話を聞いたり、呼び止めるか迷ったりするところがある」
説明しながら、台本の該当するページを開く。
朝よりも、少し詳しく話せた。
「真琴は、どうしたいの?」
聞かれて、顔を上げた。
「受けたいと思ってる。台本を最後まで読んでから、返事をしようと思って」
母は頷いた。
「分かった。こっちの資料も、今夜のうちに確認しておくね」
「うん。ありがとう」
「写真は、急がなくていいのよね」
「うん。来週、もう一度どうしたいか聞いてもらう」
母が資料の写真を見ていたから、私も隣から覗いた。
窓際の写真。
朝、もう一度見せてもらったものだった。
「こういうの、撮るんだ」
「同じじゃないけど。こういうふうに、何枚か並べて紹介するんだって」
「そう。どんな服になるのかしらね」
「まだ分からない。でも、候補は見てみたい」
口にしてから、そのことを少し楽しみにしている自分に気づいた。
母は、写真をもう一度見てから、資料を私へ戻した。
自分の部屋へ戻り、台本を一通り読んだ。
台本を閉じかけて、自分の場面へもう一度戻る。
三枝さんが見たいと言ってくれたことを思い出した。
先生に褒められたことは、これまでにもあった。
でも、先生が自分から時間を取って、次の私を見に来ていた。
そこには、私が知らなかった先生の楽しみがあった。
私の成長を、楽しみにしてくれていた。
明日は、今度の役を一緒に見てもらう。
そう考えると、少しだけ口元が緩んだ。
両親に確認してから部屋に戻り、スマホを手に取る。
早川さんとのやり取りを開いた。
『台本を最後まで読んで、両親とも確認しました。『放課後の余白』の役を、やってみたいです。よろしくお願いします』
一度読み返した。
続けて、写真のことも書く。
『『Frame Note』のお話も、前向きに考えています。衣装や撮影の案を見せていただけると嬉しいです』
二つを、別々に送った。
しばらくして、早川さんから返事が来た。
ドラマは明日、制作側へ正式に回答すること。
三枝さんとの確認は、明日のレッスン後に時間を取れたこと。
写真の企画についても、資料が届いたら共有すること。
私はお礼を返して、スマホを置いた。