TS少女は演じたい 作:息抜き
八月十八日、火曜日。
『高橋さん、今日のレッスンのあと、一時間くらい空いてる?』
午前中、FOLIOの新人育成担当の人から電話が来た。
机の上には、午後のレッスンで使う台本と、まだ終わっていない学校の課題が並んでいた。
私は、持っていたペンを置いた。
「はい。帰るだけですけど」
『三枝さんが指導している子が、映像の仕事に向けた演技確認で、相手役を探しているらしくて。マネジメントの早川さんからこちらに相談があったの』
三枝さんと聞いた瞬間、背中が少し伸びた。
「三枝って、三枝朱里さん、ですか?」
『そう。前に直接見てもらったことがあったよね』
あった。
そのあと家へ帰って、教わったことを忘れないようにノートにまとめた。
何度も見ていた動画の人が、目の前で自分に芝居を指導してくれた。
どこを変えたらいいのか、私に向けて話してくれた。
あの日のことは、今でもよく覚えている。
「相手役って、台詞を読むんでしょうか」
『読むだけじゃなくて、実際に短い場面を一緒にやってもらう感じみたい。今回は、その子……白瀬さんが出るドラマの準備らしいの』
「……真琴の?」
名前が、そのまま口から出た。
担当の人は、いつもの調子で続けた。
『うん。知り合いだし、以前にも一緒に演技の課題をやっているでしょう。高橋さんなら、準備して場面に入れるだろうと新人側の先生からも話があって。三枝さんにも確認したら、ぜひお願いしたいと』
机の上の台本を見た。
余白には、先週直されたところが書いてある。
台詞の終わりで声を落としすぎない。
返事を待っている間に、次の表情を用意しない。
どちらも、一度注意されて終わったことではない。
「私で、大丈夫なんですか?」
『相手の返し方を変えて確かめたいみたいだから、指示を受けてやり直せる人がいいらしいの。最近、そこは安定してきたでしょう』
少し、頬が熱くなった。
たしかに、先週のレッスンでは先生に、前よりよくなったと言われた。
考えてきた通りにできなかった時、最初から全部やり直そうとしなくなった。
相手が違う言い方をしたら、その言い方を一度聞けるようになってきた。
まだ毎回ではないけど、それでも。
『それに、三枝さんは高橋さんのことも知っているから、説明から全部やり直さずに始められる。高橋さんにも、相手役として指導を入れてもらえるそうです』
「受けたいです」
今度は、すぐに答えた。
電話の向こうで、小さく笑う気配がした。
『分かりました。演技指導をする時間は三十分から四十分くらい。準備と映像の確認まで合わせて、一時間弱の予定です。今日の通常レッスンが終わったら、一度受付に寄ってください』
「はい。ありがとうございます」
詳しい集合場所と、事前に読んでおく資料の案内が届く。
まだ外へ出ていない台本だから、扱いについても確認された。
通話を終えてから、しばらくスマホを持ったまま座っていた。
三枝さんに見てもらえる。
それは、本当に嬉しかった。
だけど、その前に聞いた名前も、頭に残っていた。
真琴が、ドラマに出る。
今度は、歌やダンスではない。
私がやりたくて、年明けからずっと勉強している方の仕事だった。
八月一日の加入発表を見た時には、何度も写真を見返した。
見間違いではなかった。
同じレッスン室で、本を返すだけの芝居をしていた真琴が、Lumière Paletteの新しいメンバーになっていた。
驚いて、本人へ連絡して、しばらくしてから、おめでとうと言っていなかったことに気づいた。
伝えると、真琴からは、ありがとうと返ってきた。
そのあとも、時々作品の話をしている。
画面に並ぶ名前が増えても、送られてくる文章は前とそれほど変わらなかった。
でも、仕事の方は、変わり続けている。
私は、まだ新人候補だ。
正式に所属できるかどうかすら決まっていない。
真琴はもう大きなステージに立っていて、今度は役をもらって撮影へ行く。
同じところにいたはずなのに。
そう考えてから、机の上へスマホを置いた。
……同じ部屋にいただけで、同じことができていたわけじゃない。
真琴の表情が、カメラを通すとどれほど違って見えるのかは、私も知っている。
だから、理由のない話ではない。
それでも、少し悔しかった。
私は俳優になりたくて、FOLIOの募集に自分で応募した。
真琴がまだ、何をやりたいか分からないと話していた頃から。
だけど、それを真琴へ言ってどうするんだろう。
先にやりたいと言ったからといって、仕事をもらえるわけではない。
演技や芝居ができることも、その人が出るなら見たいと思ってもらえることも、仕事につながる力なんだと思う。
届いた資料を開いた。
『放課後の余白』、第四話。
放課後の教室で、同級生と話す場面だった。
出演場面の前後に目を通し、相手役の台詞を確かめる。
三枝さんに直接教わる時間をもらえて、友達の役にも立てる。
今日は、私にもいい話が来たのだ。
そう思うと、ようやく手が動いた。
学校の課題を脇へ寄せて、ノートを開く。
何を考えて返事をする役なのか。
まずは、自分の方をちゃんと準備しておきたかった。
————
通常のレッスンが終わって受付へ行くと、担当の人が待っていてくれた。
案内された先は、普段使う部屋とは違った。
「ルミパレの六人のレッスンが、ちょうど終わるところなので」
そう言われ、扉の少し手前で待つ。
中から、笑い声が聞こえた。
聞き覚えのある声だった。
動画で何度も聞いたことがある。
そのあとに、真琴の声もした。
「——それはちゃんと戻した方がいいんじゃない?」
「戻せるって。場所は分かってる」
「今、探してたよね」
「見つかったからいいの」
少し開いた扉の向こうで、桜庭夏希さんが鞄のファスナーを閉めていた。
その隣に、真琴がいる。
首にタオルを掛けて、水のボトルを持っていた。
「私も同じところに入れたつもりなのに、違うところから出てくることはよくあるなぁ」
橘美月さんが言う。
「美月はポーチ多いからじゃない?」
「ひより先輩、それはちゃんと分けてるんです」
「ちゃんと分けたなら、分かるでしょ。いつも探し始めるのは何?」
「あー……えー……それはぁ……そう!確認!他のものも確認してるんですよ!」
真琴が笑った。
口元へ手をやって、少し肩を揺らしていた。
その笑い方は知っている。
でも、隣にいる人たちは、私が一緒にレッスンを受けていた人たちではなかった。
真琴を含めたルミパレの六人全員が、レッスン着だった。
衣装も、照明もない。
それなのに、視線を向けるたび、あの人もいる、と思ってしまう。
真琴は、その輪の中で普通に喋っていた。
次に何を言うべきか迷っている様子も、話へ入る順番を探している様子もない。
夏希さんが言い返せば、真琴も返す。
美月さんが何か見せると、隣から覗き込む。
本当に、馴染んでいる。
公式の写真で六人並んでいるところを見るのとは、少し違った。
写真なら、並ぶ場所を決めてもらえる。
今の真琴は、決めてもらわなくても、その人たちの隣にいた。
「高橋さん、来てくれました」
担当の人が声をかけた。
真琴がこちらを見る。
「あ、彩花」
いつもの呼び方だった。
それだけで少し安心したのに、続けて五人の顔がこちらへ向き、安心した分が全部どこかへ行った。
「お疲れさまです。高橋彩花です。今日は、よろしくお願いします」
頭を下げた。
少し早口だった。
自分でも分かった。
「この後、真琴と一緒にレッスンする子?」
美月さんが、真琴へ聞いた。
「うん。今日、相手役をお願いしてて」
「そうなんだ。お疲れさまです」
こちらを見て、笑ってくれる。
「お、お疲れさまです」
「そんなに緊張しなくても、私たちはそろそろ邪魔しないようにお暇するから」
玲奈さんにまで言われ、私はもう一度頭を下げた。
「い、いえ。こちらこそ、お邪魔してしまって申し訳ないくらいで……」
ひよりさんと澪さんも、こちらへ挨拶してくれた。
夏希さんは鞄を肩へ掛けながら、真琴の方を見る。
「じゃあ、真琴。またね」
「うん。お疲れ」
「彩花ちゃんも、お疲れさま。レッスン頑張って!」
「あ、ありがとうございます。お疲れさまです」
五人が通れるように、少し壁際へ寄った。
美月さんが小さく手を振り、ひよりさんと何か話しながら廊下を進んでいく。
私はその背中を、つい見送ってしまった。
……お疲れさまです、しか言っていない気がする。
「彩花?」
振り向くと、真琴が少し笑っていた。
「大丈夫?」
「大丈夫。ちょっと、びっくりしただけ」
「五人?」
「うん。知ってたけど。いるとは、聞いてたけど」
「うん」
「本当に、五人ともいた」
言ってから、随分ひどい説明だと思った。
真琴が口元を押さえる。
「今日は六人でレッスンだったから」
「それは分かってる」
私も笑った。
少なくとも、真琴には普通に返事ができた。
「今日はありがとう。急だったのに」
「こっちこそ。三枝さんに見てもらえるって聞いて、すぐ返事しちゃった」
「そっか」
真琴は嬉しそうに頷いた。
「私、替えのレッスン着に着替えてくるから。少し待っててもらっていい?」
「うん。大丈夫」
真琴が更衣室へ向かう。
さっきまで五人がいた場所には、ボトルを置いた跡と、床に貼られたテープが残っていた。
ここで、毎日のように練習しているんだ。
あの人たちと。
分かっていたことを、もう一度考えた。
————
真琴が戻ってくる頃には、三枝さんも来ていた。
スタッフの人が机と椅子を寄せ、カメラの位置を確かめている。
三枝さんの手元には、私と同じ台本があった。
「高橋さん、久しぶり。急にお願いしてごめんね」
「いえ。よろしくお願いします」
「場面は読めた?」
「はい。前後も見ました」
「ありがとう。今日は白瀬の確認が中心だけど、高橋さんにも普通に指摘するからね」
それが嬉しい、と言うのも変だろうか。
少し迷って、結局そのまま答えた。
「はい。よろしくお願いします」
三枝さんが笑った。
「そんなに構えなくて大丈夫。前にも一緒にやっているでしょう」
前にも。
本を返す会話を、三枝さんの前で何度もやり直した日を思い出した。
あの時、私も真琴も、相手の言葉が終わる前に反応していた。
同じことを注意されて、帰り道で笑った。
今日は、仕事に行く真琴の相手役として呼ばれている。
「白瀬。昨日、全体を読んでみてどうだった?」
「ここで断るまで、何も考えてなかったわけじゃないんだなって思いました」
真琴は台本を開いた。
「一緒にやりたい気持ちは前からあるけど、自分が入ったら相手に無理をさせると思っていて。だから、聞かれる前に別の方でいいって言うのかなって」
「うん。気になったところは?」
「相手が帰ろうとした時に、何を言い直したいのかです。最初から一緒がよかったって、そこまで言うつもりなのか。それとも、まだ帰らないでって言いたいだけなのか」
「白瀬は、今はどっちに近いと思ってる?」
「止めてから、どう言うか考える方だと思います。言い方が決まるまで待っていたら、帰ってしまうので」
三枝さんは頷いた。
「じゃあ、まずそれでやってみましょう。止める前に、そのあとの台詞まで顔に出さないように」
「はい」
会話が早かった。
台本を読んで考えてきたことを、真琴はそのまま差し出す。
三枝さんも、まず全部説明してから始めようとはしない。
質問して、真琴の答えを聞いて、そこから確かめる場所を決めている。
私は、相手役の台詞へ目を戻した。
見ている場合ではなかった。
自分も、今からやる。
椅子の横へ鞄を置き、立ったまま真琴と向かい合った。
三枝さんが、モニターの前へ座る。
「最初は、二人とも読んできた通りで。一度、最後まで」
「はい」
返事が重なった。
少しだけ、以前と同じ部屋に戻ったような気がした。
でも、始まってすぐ、その感じはなくなった。
真琴がこっちを見る。
さっきまで話していた友達と、同じ顔だった。
それなのに、言い出す前に小さく息を吸ったところで、もう雰囲気が変わっていた。
「私は、別の方でいいよ」
明るく言うほどではない。
ただ、こちらが困らないように、少し笑っている。
私は台詞を返した。
「一緒じゃなくていいの?」
真琴の目が、私を見た。
ほんの一瞬、返事が来るかもしれないと思った。
やっぱり一緒がいい。
そう言われるような気がした。
「うん。大丈夫」
でも、返ってきたのは、その言葉だった。
笑っていた口元が、私の方を見たまま少し戻る。
怒ってはいない。
困っているようにも見せたくない。
そういう顔だった。
私は鞄へ手を伸ばした。
「そっか。じゃあ、また明日」
持ち上げて、身体の向きを変える。
その時、背中へ声が来た。
「……待って」
振り向いた。
真琴は、さっきより少しだけ前へ出ていた。
大きく動いたわけではない。
だけど、止めようとして、身体がついてきたことが分かった。
言ったあとで、口を閉じる。
次の言葉が、まだ見つかっていない。
私は、その顔を見た。
台詞を返さない場面だから、黙っている。
それだけのはずだったのに、真琴が何を言うのか聞きたくなった。
「はい。そこまで」
三枝さんの声で、レッスン室へ戻った。
真琴が軽く息を吐いた。
今の……
そう思ったまま、すぐには次のことを考えられなかった。
以前の真琴も、表情はすごかった。
でも、動きが加わると少し違った。
椅子へ座ることに気を取られて、返事をするまでの間が不自然に長くなったり、顔を保とうとして肩まで止まったりしていた。
私にもあったことだから、よく覚えている。
それが今は、動いている途中にも表情が続いていた。
身体の向きが変わっても、別のことを考え始めたようには見えない。
鞄を持って帰ろうとする私を、目で追った。
そのあとで、足が少し動いた。
どこまで考えてやったのかは分からない。
ただ、前よりも、明らかに滑らかだった。
「高橋さん、最初の問い返しはよかった。前に見た時の失敗もしなくなってる。答えをもらう前に、断られた顔になっていなかったわね」
「あ……はい。ありがとうございます」
私にも、先に言葉が来た。
嬉しかった。
ずっと直してきたところだった。
「白瀬は、最後。自分で分かる?」
「少し、呼び止めるのを待ち構えてました」
真琴が答えた。
「どこから?」
「彩花が『そっか』って言ったところです。そのあと鞄を持つって分かってたので」
「そう。顔の方が、先に次へ行きかけたわね」
真琴が頷く。
私は、手元の鞄を見た。
言われてから思い返すと、たしかに少し早かったのかもしれない。
でも、私はそこより先に、今の芝居をもう一度見たいと思っていた。
三枝さんは、そのもっと先を見ている。
「じゃあ次、高橋さん。帰るまでの間を少し変えてみましょう」
「はい。私の方は、もう話が終わったと思って帰る、でいいですか?」
「そうね。台詞は同じ。相手が大丈夫だと言ったから、その通りに受け取る。気遣ってもう一度待つ必要はないわ」
「分かりました」
「白瀬には、いつ動くか合わせなくていいから」
真琴が小さく笑った。
「合わせてもらったら、練習にならないですもんね」
「そういうこと」
三枝さんも、少し笑った。
それから、すぐにモニターへ目を戻す。
「じゃあもう一度」
「うん。今の方が、相手を止めたあとで迷えてる」
三枝さんが言った。
「ただ、白瀬。最後に顔の向きを少し変えたのは?」
「カメラから見えなくなると思って、最低限調整しました」
「そうね。でも、今の位置なら見えている。もう少し高橋さんへ向けたままでいい」
「目線だけ戻して、顎は戻さないくらいですか?」
「そのくらいから一度見たい。肩はさっきのまま。そこまで戻すと、呼び止めたあとにわざわざ姿勢を整えたように見えるから」
「はい。息は、今のところで止めても大丈夫ですか」
「吸うところはそのままでいい。止めたまま顔を作ろうとしないで、そのあと少し逃がしてみて」
真琴が一度、静かに息を吐いた。
身体の向きを小さく確かめる。
それだけだった。
「もう一回、最後のところからお願いします」
こちらに言われ、私は慌てて頷いた。
聞いていた。
言葉の意味も、分かる。
でも、私なら、一度に全部を言われたら、一つくらいは抜けると思う。
真琴は、さっきの表情を全部捨てて最初から作ろうとはしなかった。
肩を残して、顎の向きだけを少し変えた。
私を見てから、言葉を待った。
そして、次には言われたところが変わっていた。
「そう。それ」
三枝さんがモニターを指した。
「高橋さんも、一緒に見て」
画面の前へ寄る。
真琴の顔は、正面を向いていなかった。
それでも、何か言いかけていることは分かった。
相手を止めたのに、見られると少し困る。
私の方へ向いたまま、その気持ちが画面に残っていた。
「ここ、顔を戻さなくても分かるでしょう」
「はい」
私は答えた。
真琴も頷く。
「戻した方が、説明しすぎてましたね」
「うん。見せようとする動きが一つ増えていた。今は、それがなくても残せてる」
三枝さんが、少し前へ映像を戻した。
「それと、身体。前はここで足を動かすと、口元まで一緒に止まっていたけど」
「最近、踊ってる時にも、それを直されてたので」
「ええ」
「顔の向きを変えても、身体は続けるようにって。でも、こっちは歩くだけだったので、少しやりやすかったです」
歩くだけ。
私にはまだ、その歩くだけでも難しい時がある。
台詞を言いながら椅子を避ける。
相手の方を見たまま、鞄を持ち上げる。
意識すればするほど、余計な動きが入る。
真琴はその間、歌って、踊って、決まった位置へ移動していた。
自分の顔だけを考えている余裕なんて、きっとなかった。
その練習で覚えたことが、今ここでも使われている。
私は演技のレッスンを続けていた。
真琴は、歌もダンスも習っていた。
だから、演技の方まで、こんなふうに先へ進んでいるとは思っていなかった。
そこだけなら、まだ少しは近いかもしれない。
そんな気持ちが、全くなかったとは言えない。
甘かった。
画面を見たまま、そう思った。
でも、何が違うのかを考える前に目をそらしたら、今日ここへ来た意味がなくなる。
私は、もう一度真琴の肩と顔を見た。
さっき三枝さんが残していいと言ったところ。
変えるように言ったところ。
続けて見ると、たしかに違った。
「……身体が動いてても、表情が途中で切れないんですね」
口にすると、三枝さんがこちらを向いた。
「そう。高橋さんにも、そこは見てほしかった」
「私、動作を入れると、一度顔が戻っちゃうことがあって」
「あるわね。ひとつの動作をきっちり終わらせてから、次の演技を始めようとしているから」
自分のことを言われて、少し苦笑いした。
「まず今日は、鞄を持つのを別の動作として扱わないことを意識してみて。会話が終わったと思ったから帰る。その続きで持つの」
「はい」
「手の位置が気になるなら、先に一度確かめておいていい。話しながら、どこに持ち手があるか探さなくて済むように」
私は頷いた。
真琴が、先ほどと同じ場所へ戻る。
その横へ、私も戻った。
今度は鞄を置く位置を一度確かめ、手を離した。
三枝さんに見てもらっている。
真琴がすごい。
どちらも本当だけど、そればかり考えていたら、私の返事はまた遅れる。
ここにいるのは、相手役をするためにきたんだから。
————
それから何度か、同じ短い場面を繰り返した。
一度は、私が先に相手の迷いを察してしまって止められた。
真琴が呼び止める前に、帰る動きを緩めていた。
「今、何を見て止まった?」
三枝さんに聞かれ、私は少し考えた。
「……このあと、呼ばれると思ってました」
「うん。高橋さんは台本を知ってる。でも、その子はまだ呼ばれてない」
「はい」
聞いたことのある指摘だった。
何度も、直してきた。
今日もまたやった。
少し悔しかったけど、さっきよりはっきり、自分が何を待っていたか分かった。
三枝さんは、真琴の方にも顔を向けた。
「白瀬。次は本当に帰ってしまうかもしれないから」
「はい」
「高橋さんを待たせる顔を先に出して、それで間を作らない」
「分かりました」
二人とも、頷いた。
もう一度、始める。
真琴が笑って、大丈夫だと言う。
その顔を、今度はそのまま受け取った。
私も、次にすることがある。
鞄を持って、帰る。
その途中で、声がした。
「待って」
思ったより早かった。
足が止まった。
振り向く。
真琴は少しだけ目を見開いて、それから言葉を探すように視線を下げかけた。
でも、下げきらずに私を見た。
「はい」
三枝さんの声がした。
私は、鞄を持ったまま立っていた。
今のは、止まる場所を先に決めていなかった。
呼ばれたから止まった。
それだけのことが、いつもは難しい。
「高橋さん、今のよかった。振り向いたあとも、何を言われるのか待てていた」
「……ありがとうございます」
声が少し弾んだ。
真琴も、こちらを見ていた。
「今、本当に帰っちゃうと思った」
「帰るつもりでやったから」
「うん。それで、先に声が出た」
三枝さんが頷いた。
「そうね。今回は、その変化を確かめたかったの」
モニターへ戻り、さっきの映像を見る。
自分の姿が映っていた。
肩が、少し上がっている。
帰ろうとする前の台詞は、まだ普段より作った声になっていた。
気になるところはある。
でも、最後に振り向いた私は、最初から真琴の答えを待っていた人には見えなかった。
「前に本を返す課題をやった時は、答えを知っている顔が先に出ていたでしょう」
三枝さんが言う。
「はい」
「今日は、直すと変えられる。最初の問い返しもよかったし、練習してきたのはもちろん、これまでの高橋さんの努力もちゃんと分かるわ」
私は、画面から目を離した。
「……ありがとうございます」
それ以上、うまく言えなかった。
家で自分を撮ったこと。
声が変だと思って撮り直したこと。
次の台詞を知っているのに、知らないつもりで聞くのが分からなくて、先生に質問したこと。
そういう時間が、全部無駄だったわけではない。
それは、今日ここへ来る前にも分かっていた。
でも、三枝さんに言われると、やっぱり嬉しかった。
「じゃあ最後。カメラの位置を少し変えます。高橋さんは、今のままで」
スタッフの人が、カメラを動かした。
三枝さんは画面を確かめてから、真琴へ手を向ける。
「白瀬。こちらだと、さっきの視線の落とし方は少し大きく見える」
「顔は下げないで、目だけにしますか」
「まずそれで。目を戻すのを急がないようにね」
真琴は一度考えた。
「相手が見ている時も、そのまま下げていていいですか?」
「何を隠したい?」
「一緒がよかったって、もう分かってしまいそうなところです」
「じゃあ、隠してみて。ただ、高橋さんがそのまま帰るかもしれないことは忘れないで」
「……はい」
真琴が笑った。
「そっちも気にすると、ずっと下げていられないですね」
「そう。その間を見たいの」
三枝さんも笑っている。
私にも、会話の意味は分かった。
だけど、それを聞いた直後に、自分の顔と身体で試せるかと聞かれたら、簡単には頷けない。
真琴は試せる。
少し違えば三枝さんが止め、真琴もどこが違ったかを聞いて、またやる。
親しげなのに、やっていることは少しも緩くなかった。
前に何を直したか。
今、どこまでできるようになったか。
それを、二人とも知っている。
先生と生徒、と言えばそうなのだろう。
でも、私にはもう、師匠が自分の弟子を撮影へ送り出すために見ているようにしか見えなかった。
三枝さんは真琴の台本を読み、相手役まで探して、短い出演場面のために時間を作っている。
誰にでも、こうするわけではない。
それくらいは知っている。
しかも、その時間を作ってもらった真琴が、期待されたものを何度も返している。
最後の確認が終わると、三枝さんは映像を少し戻した。
「ここ。今のはよかったわね」
真琴が画面を覗き込む。
私も、少し横から見た。
目を伏せたままではいられなくなって、相手を確かめる。
ほんの短い動きだった。
「これは、最初からそうしようとしてた?」
「いえ。彩花が動くかもしれないと思って見ました」
「うん。今の方がいい。そのあとに残っている顔も」
三枝さんの声が、少し明るかった。
何かができたことを褒めるだけではない。
こういうものが出てくるのか、と面白がっているように聞こえた。
私は、三枝さんの横顔を見た。
たぶん、この人は、次も見たいのだ。
真琴が何を覚えて、それを使って何をするのか。
今日できたことが、次の仕事でどう出るのか。
だから、また会う時間を作る。
真琴の才能も羨ましかった。
でも、その才能をこんなふうに見続けてくれる人がいることも、同じくらい羨ましかった。
————
最初に説明を聞いてから、五十分ほどが経っていた。
三枝さんは時刻を確かめ、台本を閉じた。
「今日はここまでにしましょう。短い場面だけど、かなり違う返しでできたから」
「ありがとうございました」
真琴と一緒に頭を下げる。
「白瀬。現場で監督に別の指示を出されたら、今日の形を守ろうとしなくていいからね」
「はい」
「今日の中で一番よかった顔を、そのまま持っていくんじゃない。相手も、カメラも違うから」
真琴は頷いた。
「考えたことは持っていって、どう出すかは、そこで確かめるようにします」
「そう。それができればいい」
三枝さんが少し笑った。
「撮影が終わったら、どんな指示が来たか聞かせて。迷ったところも」
「はい。話せるように、覚えておきます」
「全部を報告書みたいにまとめなくてもいいわよ」
「……そこまでは」
「考えそうだったから」
真琴が笑った。
私も、少し笑ってしまった。
考えそうなのは、分かる。
三枝さんは、それから私へ顔を向けた。
「高橋さんも、ありがとう。こちらのお願いした変化をちゃんと出してくれて、助かった」
「いえ。すごく、勉強になりました」
「最後にできたことは、他の場面でも試してみて。ただ、今日と同じ速さで振り向く、とは覚えないように」
「呼ばれたから、止まった部分ですね」
「うん。その順番」
私は頷いた。
台詞を待つこと。
動作を、会話と別の用事にしないこと。
今日、自分が次へ持って帰るものがあった。
三枝さんがスタッフの人と機材の確認を始めたので、私たちは少し離れて荷物をまとめた。
ノートへ書き足していると、真琴が隣へ来る。
「彩花、今日は本当にありがとう」
顔を上げた。
「私も見てもらえたし。こっちがお礼言いたいくらいなんだけど」
「でも、すごく助かった。相手がいると、台本を一人で読んでた時と全然違ったから」
真琴は自分の台本をファイルへ戻した。
「最後、鞄を持ってから、私の方を見なかったでしょ」
「うん」
「あの時、ちゃんと呼ばないと、話が終わっちゃうと思った」
素直な声だった。
さっき三枝さんが言ったから、私にも同じことを言っている感じではない。
本当に、私を相手にしていて、そう思ったらしい。
「私も、今なら帰るなって思って、ああした」
「うん。分かった」
目が合う。
少し笑った。
私は、書きかけの最後の一行を埋めてから、ノートを閉じた。
「このあと、時間ある?」
今度は真琴に聞かれた。
「あるけど」
「帰る前に、ちょっとお茶しない?久しぶりに、ちゃんと話したい」
「……うん。行きたい」
返事をすると、真琴が頷いた。
さっきまで、どの角度でどこまで見えるかを話していた人が、今は鞄の中のスマホを探していた。
見つからないらしく、一度ファイルを抜いている。
「真琴、それ、横のポケットじゃない?」
「あ」
出てきた。
さっき、そこへ入れるところを見た。
「夏希のこと言えないな……」
小さく呟いた真琴に、私は笑ってしまった。
————
駅へ向かう途中の店で、奥の席が二つ空いていた。
私はアイスのカフェラテを頼み、真琴は少し迷ってから紅茶を選んだ。
椅子へ座った途端、肩が下がった気がした。
「……緊張した」
私が言うと、真琴はカップを持つ前に笑った。
「三枝さん?」
「三枝さんも。あと、五人」
「あー……」
「一度に挨拶されると思わなかったから」
「でも、一人ずつ来られたら、それはそれで緊張しない?」
想像した。
一人ずつ、こちらへ歩いてくる五人。
「……絶対する」
「じゃあ、一回で済んでよかったのかも」
「そういう問題かな……?」
笑うと、少し身体が楽になった。
真琴が、私のノートへ目を向ける。
鞄へしまう前に、テーブルの端へ置いていた。
「彩花、最近のレッスンはどう?」
「相変わらず、聞いてから返してって言われてる」
「今日も言われたね、二人とも」
「うん。でも、前よりは、言われてから分かるようになったし、言われなくても、あ、やっちゃったって気付けるようにもなってきた」
「それ、私もある」
真琴が頷いた。
「自分ではちゃんと聞いたつもりでも、映像を見ると先に顔が変わってる時があって」
「そう。何でそこでもう分かってる顔してるの、ってなる」
言ってから、二人で笑った。
同じ話を、前にもした。
相手が言い終わる前に、本の感想がよかったと分かっている顔になっていた。
私は、最近のレッスンで同じように失敗した話もした。
真琴も、自分はどこで先に顔を変えてしまうかを話す。
聞いているうちに、今日の自分がどう見えていたのかも、確かめたくなった。
「最初の聞き返し、どうだった?」
私から聞いてみた。
真琴が少し考える。
「ちゃんと、私の答えを聞こうとしてる感じがした。大丈夫って言ったら、そうなんだって受け取ってくれそうで」
「そっか」
「うん。だから、余計に止めなきゃって思ったのかも」
カップへ手を添えながら、真琴が言う。
私はストローで氷を少し動かした。
ただ相手役が必要で、私が空いていた。
それだけではなかったのだと、今は思えた。
ちゃんと、今日の場面を一緒にやった。
少なくとも、その部分は。
「そういえば、この間送ったドラマ、見た?」
私が聞くと、真琴は頷いた。
「三話まで」
「三話?」
「うん」
「じゃあ、あの最後の——」
「待って。四話のことだったら、言わないで」
止められた。
私は口を閉じて、少し考えた。
「……四話だったかもしれない」
「危なかった」
「三話と続けて見たから、どこで切れてたか分からなくなってて」
「彩花、それたまにある」
「面白かったんだって」
真琴が口元へ手をやった。
見慣れた笑い方だった。
三枝さんに細かな表情を指定されていた時とは、違う。
次にどう見せるかなんて、考えていないと思う。
ただ、私の話を聞いて笑っている。
今日、羨ましいと思ったものは、たくさんあった。
人に見つけてもらえるほどの才能。
実際に見つけてもらえる場所へ行けたこと。
私が尊敬している先生が、自分から続きを見たいと思ってくれること。
私が欲しい仕事へ、もう向かっていること。
少し、では足りないかもしれない。
正直に言えば、かなり羨ましい。
それなのに、目の前の真琴を嫌いにはなれなかった。
朝からレッスンをして、五人が帰ったあとも台本を開いていた。
できることを褒められても、そこで終わらず、次に分からないことを聞いていた。
特別に見てもらえるからといって、その時間を当然のものとして使ってはいなかった。
そして、私には前と同じように話しかける。
仕事の話を聞いた時だけ急に偉くなったり、私がまだ候補だと気遣って何も話さなくなったりもしない。
さっき誘ってくれた時も、助けてくれた相手にお礼をしておこう、というだけの感じではなかった。
久しぶりに話したい。
多分、本当にそう思って言ってくれたのだ。
「……真琴」
「ん?」
「木曜日、頑張ってね」
言うと、真琴は少し表情を変えた。
嬉しそうで、少し緊張している顔だった。
「うん。ありがとう」
「今日の、ちゃんとやれたらいいね」
「そのままやろうとしないでって、さっき言われたけど」
「あ、そうだった」
二人で笑った。
「じゃあ、今日のをちゃんとうまく使えたら」
「うん。それなら」
真琴は頷いた。
「終わったら、連絡してもいい?」
「して。聞きたい」
それは、考えるより先に返せた。
真琴の撮影の話は聞きたい。
自分もそこへ行きたいと思う気持ちと、一緒にあった。
————
駅で別れてから、電車を待つ間にノートを開いた。
今日の日付の下に、三枝さんに言われたことが並んでいる。
その下には、自分で付け足して書いた部分もあった。
俳優になりたいと思って、FOLIOの新人募集に応募した時は、胸が張り裂けそうになるくらい緊張した。
年明けに初めてレッスンへ来た時は、自分の声を録音して聞くだけでも恥ずかしかった。
普段通りに喋っているつもりなのに、台詞になると声が高くなった。
どこへ手を置けばいいか分からず、同じところで指を動かしていた。
今も、まだ直される。
今日だって、何度も止まった。
でも、全部があの頃のままではない。
三枝さんは、そこも見てくれた。
真琴を見ている間だけ、自分が何もしてこなかったみたいに思うのは違う。
それでも、悔しいものは悔しかった。
同じ頃に始めた友達が、自分よりずっと先へ進んでいる。
しかも、その友達は、今も一生懸命練習している。
真琴には才能があるから、私はその分もっと努力しよう。
そんなふうに簡単に割り切れる相手ではなかった。
真琴だって、努力していた。
今日、それも見た。
本人はなんてことないような顔をしている。
だけど、公開された動画や、今日の様子を見れば、真琴がどれだけの努力を重ねてきたかなんて、分からないはずがなかった。
スマホが震えた。
真琴からだった。
『今日はありがとう。四話、見たら言うから、さっき言いかけたこと教えて』
撮影の話ではなく、ドラマの続きだった。
思わず笑った。
『うん。私も話したいから、見たら教えてね』
送ると、すぐに返ってくる。
『お願いします』
丁寧すぎる返事がおかしかった。
スマホを伏せる。
真琴に負けないくらい、ちゃんとやろう。
次に会った時、私もできることを増やしていたい。
いつか、撮影が終わったよと、自分からも送れるようになりたい。
俳優になりたくて、ここへ来た。
それは今日、誰かのすごい芝居を見たからといって、なくなるような気持ちではなかった。
それを再確認して、ノートの余白に、次のレッスンで先生に聞きたいことをもう一つ書き足した。