TS少女は演じたい   作:息抜き

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51話

八月二十日、木曜日。

 

車の窓に、朝の光が当たっていた。

膝の上には、今日使う台本がある。

昨夜泊まった部屋を出る前にも、何度も確認した。

台詞は、もう覚えている。

それでも、鞄の奥へしまってしまう気にはならなかった。

隣に座る早川さんが、端末から顔を上げた。

 

「着く前に、現場でのことを少し確認しておきましょうか」

 

「はい」

 

「最初は私から制作の方へ紹介します。そのあと、白瀬さんからも名前を言って、挨拶してください」

 

私は頷いた。

 

「監督や共演する方だけではなく、衣装やヘアメイクの方にも。ただ、作業や打ち合わせの途中に、無理に割って入る必要はありません。声をかけられるところだけで大丈夫です」

 

「いつ話しかけていいか分からなかったら、少し待っててもいいんですよね」

 

「はい。私もいますから」

 

挨拶をすること自体は、FOLIOでも教わってきた。

FOLIOでは、先輩やスタッフへの挨拶も、最初から繰り返し教わってきた。

外の現場へ出た時に困らないように、と。

今日がその、初めての一人での外仕事の日。

皆について回って一緒に挨拶をしたライブの時とは違う。

知らない人たちが、それぞれ別の仕事をしている場所へ入っていく。

誰に、いつ声をかければいいのかは、少し気になっていた。

 

「それと、指示で分からないところがあったら、その場で聞いてください。分からないまま返事をして始めるより、確認してもらった方が助かります」

 

「撮影の途中でも、ですか?」

 

「必要な確認なら、その場で聞いて大丈夫です。誰に聞けばいいか分からなければ、まず私へ。待機場所を離れる時も、一言伝えてくださいね」

 

「はい。分かりました」

 

早川さんは、そこで端末へ目を戻した。

まだ何か続くかと思っていたので、少し顔を上げる。

 

「……それだけですか?」

 

「今、全部覚えてもらおうとは思っていません。あとは現場で必要な時に伝えます。最低限、必要なことは教えましたから」

 

そう言って、少し笑った。

 

「緊張しています?」

 

「してます」

 

今度は、すぐに答えた。

 

「台詞より、着いてからのことを考えてました」

 

「では、ちょうどよかったですね。最初は一緒に行きましょう」

 

私は頷き、台本を閉じた。

表紙には、『放課後の余白 第四話』と書いてある。

その下には、昨夜小さく書いておいた自分の名前があった。

 

————

 

スタジオの入口には、作品名が書かれた紙が貼られていた。

早川さんが受付の人へ声をかける。

制作の担当者がこちらへ来て、名前を確かめた。

 

「本日出演させていただく白瀬真琴です。よろしくお願いします」

 

早川さんの紹介に続けて、私も頭を下げた。

 

「よろしくお願いします。朝からありがとうございます。まず衣装とヘアメイクへご案内しますね」

 

「はい。お願いします」

 

案内された部屋は、ライブの控室と、似ているようで少し違った。

ハンガーに掛かった制服と、鏡の前に並べられた道具がある。

学校で着ているものとは、リボンの形も、スカートの色も違う。

担当の人へ挨拶をしてから、衣装を受け取った。

 

『放課後の余白』は、ノートフィルムが制作している全六話のWeb短編ドラマだ。

同じ高校へ通う数人の、なんてことない放課後を描く。

制作会社の公式YouTubeチャンネルで、無料で見られる作品になる。

月曜日に台本を最初から読んだ時、会話が終わったあとも場面が続いているのが気になった。

自分が演じるところも、三つの台詞を言い終えても、まだ終わらない。

 

衣装へ着替えて戻ると、ヘアメイクの人が椅子を示した。

 

「こちらへどうぞ」

 

「はい。よろしくお願いします」

 

鏡の前へ座る。

髪を整えてもらっていると、向こうの扉が開いた。

制服姿の女性が、台本を手に入ってきた。

こちらを見て、少し笑う。

 

「白瀬さんですよね。おはようございます。森川莉緒です」

 

慌てて立ちかけると、髪を持っていた担当の人の手が動いた。

私はその場で止まった。

 

「す、すみません。私から挨拶しないといけないのに——」

 

「座ったままで大丈夫ですよ、私が声をかけるタイミングが悪かったので」

 

森川さんが笑った。

 

「——白瀬真琴です。今日はよろしくお願いします」

 

「こちらこそ。あとで動きを一緒に確認しましょう」

 

「はい」

 

森川莉緒さん。

今日、私の相手役になる人だった。

出演者の資料を見て、昨日、プロフィールも確かめていた。

二十歳で、高校生の頃から俳優の仕事をしている。

テレビドラマの同級生役やWeb広告、小さな映画への出演歴が並んでいて、その中には私も知っている作品名があった。

今回のシリーズでは、毎話登場する主要人物の一人を演じている。

他の中心となる出演者も、若い俳優が多かった。

私のように映像の仕事がほとんど初めての人ばかりではなく、台詞のある小さな役を重ねてきた人たちだと聞いている。

 

ノートフィルムが、自分たちの作品として作り、見てもらう短編。

出演者にとっても、一人の人物を続けて演じる仕事になる。

大きな露出があるわけではないけど、そういう経験を積むために受けている人も多いらしい。

 

二月の現場には、由佳のように制作の手伝いをしている学生もいた。

でも、あの時も、撮影や演出をしていたのは仕事で映像を作っている人たちだった。

今日も、部屋の外から聞こえるやり取りは、私が挨拶をしている間にも止まらず続いていた。

 

森川さんは、入口に来たスタッフの人と、昨日撮った場面の話をしている。

鞄をどちらの手で持っていたか。

机の上には何が残っていたか。

台本を開いて、短く確かめていた。

私は鏡越しに、その様子を見た。

この人は、今日が初めてではない。

昨日もここで、あの役として一日を過ごしていた。

私は今日、その人の物語へ入る。

 

「少し下を向いてもらっていいですか」

 

「はい」

 

ヘアメイクの人に言われ、顎を引いた。

髪を留める小さな音が、耳元でした。

 

————

 

準備が終わり、早川さんと撮影の部屋へ向かった。

扉の向こうには、教室があった。

机と椅子に黒板、後ろの壁に貼られた掲示物。

普通の教室に見えるその部屋に、カメラと照明が置かれている。

窓の向こう側にも、大きな機材があった。

まだ朝なのに、窓際の机には放課後のような光が当たっていた。

 

そんな教室のモニターの側に、見覚えのある人が立っていた。

二月にエキストラで参加した時の監督だった。

監督は、撮影の人と画面を見ながら話している。

早川さんが少し離れたところで止まったので、私も隣で待つ。

会話が切れたところで、早川さんが声をかけた。

 

「おはようございます。白瀬、準備できました」

 

監督が振り向く。

 

「ああ。おはようございます。お久しぶりです」

 

「お久しぶりです。今日はよろしくお願いします」

 

頭を下げると、監督は小さく頷いた。

 

「こちらこそ。今回は、最初からお願いできてよかったです」

 

「……ありがとうございます」

 

「前の時は、その場で急に頼んでしまったので」

 

「はい。あの時は、だいぶびっくりしました」

 

正直に答えると、監督が笑った。

 

「そうですよね。今日は先に台本を読んでもらえているので、そこからやっていきましょう」

 

「はい」

 

モニターの横に開かれた台本があった。

私の持っているものと同じ場面に、何本も線が引かれている。

監督が、机の並びへ手を向けた。

 

「白瀬さんはこちら。森川さんは、ここの机に鞄を置いてください」

 

森川さんが頷き、小道具の鞄を机へ置いた。

私は、示された椅子の横へ立つ。

今日の場面は、文化祭の準備で、どの担当に入るかを話しているところだった。

私は、本当は相手と同じところに入りたい。

でも、一緒にやりたいと言えば、相手は私へ合わせてくれるだろうと思っている。

それが嫌で、聞かれる前に、自分は別の方でいいと言ってしまう。

 

相手は、私のことを嫌っているわけではない。

ただ、大丈夫だと言われたら、その言葉を受け取る人だった。

 

「森川さんは、返事を聞いたら鞄を持って、こちらの扉へ向かいます。白瀬さんは、呼び止める時に一歩出る。大きく追いかけるほどではないですね」

 

「はい」

 

私は、足元の目印を見た。

その先には椅子がある。

歩く位置を、一度だけ確かめる。

 

「すみません。呼び止めたあとは、ここで止まったままで大丈夫ですか?」

 

監督がこちらを見た。

 

「そこから先へは行かなくていいです。森川さんが振り返って、その距離のまま。言葉が出るかもしれないところまで待って、切ります」

 

「分かりました」

 

聞いてよかった。

台本にある動きは分かっていても、この机の間でどこまで進むかは、まだ知らなかった。

森川さんも、鞄を持ち上げてから一度、扉の方へ歩いた。

持ち手へ手を伸ばす動きに、迷いがなかった。

 

「この向きでいいですか?」

 

「はい。顔を残すためにゆっくり振り向く必要はないので、声がした方へ普通に戻ってください」

 

「分かりました」

 

森川さんが元の場所へ戻る。

私と目が合った。

 

「一度、最初からお願いします」

 

「はい。お願いします」

 

台本をスタッフの人へ預けた。

手が空くと、少しだけ落ち着かなかった。

火曜日は、向かいに彩花がいた。

今日は森川さんがいる。

声も、背の高さも、こちらを見る時の間も違う。

でも、何を言いたくて、何を言いたくないのかは、考えてきた。

 

「では、まずはテストで、一度流れを見ます」

 

監督の声に、私は顔を上げた。

 

————

 

「私は、別の方でいいよ」

 

口にしてから、少し笑った。

これで決まったことにしたい。

相手が、私のために何かを変えようとする前に。

森川さんの目が、こちらへ向いた。

 

「一緒じゃなくていいの?」

 

思っていたより、静かな聞き方だった。

私がどちらを選んでも、返事を待ってくれそうだった。

だから、今なら言えるような気もした。

本当は、と。

そこまで考えかけて、口元の笑いを戻す。

 

「うん。大丈夫」

 

森川さんは、わずかに頷いた。

すぐには動かない。

私を見てから、机へ視線を落とした。

 

「そっか。じゃあ、また明日」

 

鞄の持ち手をつかむ。

机の上から、布が離れる音がした。

身体の向きが変わる。

顔が、見えなくなる。

まだ何も言えていない。

でも、さっき、言わなくていい方を選んだのは私だった。

靴が、床を踏んだ。

 

「……待って」

 

声が出て、足も少し前へ出た。

森川さんが止まる。

振り返った顔を見る。

呼べた。

だけど、その先の言葉が出てこない。

目を下げかけて、もう一度相手を見た。

 

「はい、そこまで」

 

監督の声がした。

息を吐くと、教室の奥に立っているスタッフの人が目に入った。

森川さんが、鞄を持った手を下ろす。

 

「流れ、いいですね。二人とも、その位置で大丈夫です」

 

監督が、モニターを見たまま言った。

私は小さく頷いた。

肩の力が、少し抜ける。

火曜日と同じ速さではなかった。

森川さんが鞄を見るまで、私は彩花の時より長く相手の顔を見ていた。

呼び止めた時も、距離が少し違った。

それでも、途中で何をすればいいか分からなくはならなかった。

監督が顔を上げる。

 

「白瀬さん。最後のところだけ、少し変えてみてもいいですか」

 

「はい」

 

「呼び止めて、相手が振り返ってから。今は一度、目を下げかけましたよね」

 

「はい」

 

「そこは、下げずにやってみたいです。相手を見たまま、言うことが見つからない。見返されて困る感じは、残してほしい」

 

火曜日に、最後に見てもらったところだった。

目を伏せて、でも、相手が動くかもしれないと思って確かめる。

あの時は、それがよかった。

今日は、見たまま。

 

「顔の向きも、今のままでいいですか?」

 

「ええ。顎を引いて隠そうとしなくていいです。相手を呼び止めたので、こっちも逃げられなくなった感じですね」

 

少し考えてから、頷いた。

 

「呼んだあとで、何を言うか考えるところは、そのままということですよね」

 

「そうです」

 

監督の返事は早かった。

全部を変える話ではない。

呼び止めたい気持ちも、そのあと言葉に困ることも、同じだった。

森川さんの方を向く。

 

「もう一度、お願いします」

 

「はい。監督、今のカット、最初からで大丈夫ですか?」

 

監督が頷いた。

 

「最初からでお願いします」

 

同じ場所へ戻る。

森川さんが鞄の持ち手を整え、手を離した。

私は一度だけ、息を吐いた。

 

————

 

次は、カメラを回して撮った。

始まる前に、部屋の声が小さくなった。

動いていた人が、視界の外へ下がる。

録音を確認する声がして、それから、監督の合図があった。

 

「私は、別の方でいいよ」

 

森川さんがこちらを見る。

言葉を交わす。

大丈夫だと答える。

相手が帰ろうとする。

今度も、私は呼び止めた。

振り返った森川さんを、見たままでいる。

 

目を外したくなった。

見ていられると、何もないふりは続けられない。

だけど、呼んだのは私だ。

まだ帰らないでほしいのも、私だった。

 

口を少し開く。

言葉がないまま、閉じかける。

 

その間、森川さんは、私を待っていた。

 

「カット」

 

すぐに顔を戻せなかった。

半拍くらい遅れて息を吐き、監督を見る。

 

「はい。今の、いいですね」

 

監督が画面を指した。

隣にいる撮影の人も、同じところを見ている。

 

「呼んだあと、相手を見たまま止まったところ。そのまま使いたいです」

 

「……はい」

 

「ただ、呼ぶ声は、一度目の方がよかったですね。今は少し、自分で驚いて小さくなったので」

 

自分でも、思い返した。

声を出したあと、相手に見られることへ気持ちが向きすぎたのかもしれない。

 

「最初の『待って』くらいで、呼んだあとだけ、今の感じですか?」

 

「そうです。声は相手へ届かせたい。届いて、振り返られてから困る」

 

「分かりました」

 

「あと、『大丈夫』のあとに笑い直したところは残してください。あそこは、さっきのままで」

 

「分かりました」

 

声を戻す。

最後の目は、今のまま。

その前の笑い方は変えない。

三枝さんとやってきた時にも、一つ前と今の違いを確かめることはあった。

でも、今日は、その中から作品に残すものを選んでいる。

監督は、私なら分かると思って言ってくれている。

 

「前も、そこだけ変えてもらうとちゃんと変わったので」

 

監督が、少し笑った。

 

「今回も細かくお願いしていますけど……大丈夫そうですか?」

 

「はい。……言ってもらった方が、分かりやすいです」

 

答えると、森川さんがこちらを見た。

 

「今の最後、変わったよね」

 

「……そう見えました?」

 

「うん。目を見たままだったから、こっちも、続きが気になった」

 

私は、その言葉を少し遅れて受け取った。

モニターの中だけではない。

向かいにいた人にも、違って見えたらしい。

 

「じゃあ、もう一度いきましょう」

 

監督の声がして、森川さんが元の位置へ戻る。

私も、足を戻した。

次の撮影では、呼び止める声が、さっきよりまっすぐ出た。

森川さんの肩が止まり、こちらを向く。

その目を見てから、言えなくなる。

黙っているつもりではなかった。

呼んだ理由を聞かれる前に、何か言わなければと思っていた。

でも、最初から一緒がよかったと言えば、だったらどうして断ったのかという話になる。

さっきの笑顔が、急に邪魔になった。

 

「カット。はい」

 

監督が、画面を見直した。

私は足元へ視線を落としかけて、やめた。

さっきまでの指示が、まだ少し残っていた。

 

「白瀬さん、今ので大丈夫です。最初に言ったことを、自分で取り消したい顔になっていました」

 

息が抜けた。

 

「ありがとうございます」

 

「森川さん。最後、もう少し見たいです」

 

今度は、相手の名前が呼ばれた。

森川さんが、監督の方へ顔を向けた。

 

「振り返ったところですか?」

 

「そのあとですね。白瀬さんを見て、すぐに少し笑って待っていましたよね」

 

「はい」

 

「白瀬さんが今の顔を出せるなら、受ける方も、もう少し細かく撮りたいんです。ただ優しく続きを待つだけではなくて」

 

監督が、モニターを二人の方へ向けてくれた。

呼ばれて近づくと、さっきの映像が流れる。

森川さんが帰ろうとする。

私が呼ぶ。

振り返った森川さんの顔が、少し柔らかくなる。

その先で、私は、言いかけた口を閉じていた。

初めて見る顔ではない。

自分でやったことだ。

それなのに、二人が一緒に映ると、さっき演じている時には考えなかったところが見えた。

森川さんの役は、もう分かっているようにも見えた。

私が言えずにいることを、先に受け取ってくれているような顔だった。

 

「森川さん側は、まだ理由まで分かっていません。呼ばれたので振り返る。さっきは大丈夫だと言っていた子が、今は言葉に困っている。それを見て、初めて、ちゃんと聞こうと思う。それを表現してほしい」

 

監督が言った。

森川さんは、映像を見たまま頷いた。

 

「最初から、待ってあげる顔にしない方がいいんですね」

 

「そうですね。昨日の前の場面でも、この子は、相手が大丈夫だと言えばその通りに受け取っていましたよね。ここで急に全部分かる人にはしたくないです」

 

「はい」

 

「でも、何も気づかない人でもない。振り返ってから、その間で変わってほしい」

 

森川さんが、少し黙った。

私も、止まった画面を見る。

さっきまで、撮ってもらうことばかり考えていた。

自分の目をどこへ向けて、どこまで見せるのか。

でも、その先には、私を見ている人が映っていた。

 

「白瀬さんは、今の最後のを変えなくていいです。森川さんの返しを見て、そのまま続けてください」

 

「はい」

 

森川さんが、こちらを向いた。

 

「もう一回、返事のところから合わせてもらっていい?」

 

「はい。お願いします」

 

戻る途中、森川さんが小さく息を吐いた。

台本を持っているわけではないのに、何かを読み直すように視線を落としていた。

位置へ戻ると、またこちらを見る。

さっきまでの森川さんとは、少し違っていた。

私が大丈夫だと言う。

森川さんが帰ろうとする。

呼び止める。

振り返ったあと、今度は眉が少し動いた。

私の顔を確かめるような目だった。

 

心配させた。

そう感じると、口元に、また笑いが戻りかけた。

何でもないと、言いたくなる。

だけど、そう言えば、せっかく止めた意味がなくなる。

 

「はい。少し止めます」

 

監督の声がした。

森川さんが顔を上げる。

 

「今、心配の方へ寄りましたね」

 

「……はい。何か傷つけたかもしれないと思ったので」

 

「そこまでは、まだ分からなくていいです。自分が悪いことをしたかより、相手が何を言おうとしているか。そちらに意識を向けてみましょう」

 

「分かりました」

 

森川さんは、すぐに元の場所へ戻るのではなく、私を一度見た。

 

「今、白瀬さん、笑う演技しようとした?」

 

「はい。心配されたと思って、何でもないって言い直しそうになりました」

 

「ああ……そっか」

 

小さく頷いてから、監督を見る。

 

「もう一回、お願いします。今の返しだと、この子、また隠そうとしますよね」

 

「そうですね。今度は、続きを聞く場所を空けてみてください」

 

私は、二人のやり取りを聞いていた。

森川さんが心配する顔になったら、私はまた「何でもない」と言いたくなった。

それを聞いた森川さんも、次はどう返すか考えている。

私が変わると、森川さんに求められるものも変わる。

森川さんが変わると、私がやりたいことも、やるべきことも変わる。

 

面白い。

 

そう思ってから、今は、笑う場面ではないことを思い出した。

口元を戻す。

森川さんが鞄へ手を置き、もう一度離した。

 

「最初から、お願いしてもいいですか」

 

監督へ聞く声は、さっきよりはっきりしていた。

 

「はい。では、最初から撮りましょう」

 

私は頷いた。

今度、森川さんがどんな顔で振り返るのか、まだ知らなかった。

 

————

 

教室が静かになる。

窓から入る光は、さっきと同じだった。

机の上に置かれた鞄も、同じ向きに戻されている。

 

「私は、別の方でいいよ」

 

自分から、話を終わらせるための言葉を出した。

森川さんが見る。

こちらの返事を、ちゃんと聞こうとしている目だった。

 

「一緒じゃなくていいの?」

 

一緒がいい。

それは、ずっと思っていた。

でも、今さら相手に合わせてもらうのは嫌だった。

 

「うん。大丈夫」

 

少し笑う。

これ以上、確かめなくていいと思ってもらえるように。

森川さんが頷いた。

 

「そっか。じゃあ、また明日」

 

鞄を取る。

身体が、扉へ向く。

本当に、話が終わる。

自分が言った通りになっているだけだった。

それなのに、相手の顔が見えなくなると、その通りでいいとは思えなかった。

 

「待って」

 

足が出た。

森川さんが止まる。

振り返った時、少しだけ驚いた顔をしていた。

私を見る。

口を開きかける。

何、と聞かれるかと思った。

でも、声は出なかった。

 

森川さんの視線が、私の目から口元へ動いた。

それから、もう一度、目が合った。

急かされてはいない。

分かったと笑われてもいない。

話していいのだと、思った。

 

さっきの言葉を、取り消しても。

何でもないふりを、続けなくても。

 

口が動いた。

何から言えばいいんだろう。

別の方でいいと言った理由からか。

本当は、一緒がよかったことからか。

吸った息が、言葉にならないまま少しだけ抜ける。

森川さんは、まだ待っていた。

 

「カット」

 

すぐには、その顔から目を離せなかった。

森川さんが先に息を吐く。

私も、つられて吐いた。

教室の奥で、誰かが小さく動いた。

監督が画面を確かめる。

その間も、私は、今なら次の言葉が出るような気がしていた。

 

「はい。これでいきましょう」

 

顔を上げた。

 

「今の二人の間、よかったです」

 

森川さんが、少し肩を下ろした。

 

「ありがとうございます」

 

私も続けて頭を下げる。

そのあと、森川さんと目が合った。

さっきまでとは違う笑顔だった。

 

「すごいね、白瀬さん。ちゃんと役をもらった初めての現場って聞いてたから、ここまでできると思ってなかった」

 

「——ありがとうございます」

 

まだ少し、息が落ち着かなかった。

 

「森川さんの演技を見て、私も、もっとできることがあると思って、それで……」

 

「私が返し方を変えた時、白瀬さんの表情もすぐ変わったでしょう。ちゃんと見て返してくれてるんだなって思った」

 

「ありがとうございます……!」

 

褒められた。

プロとして俳優をやって色々な現場を見てきている人に。

その事実に、胸が高鳴るのを感じた。

 

「では、この流れで、それぞれの顔も撮っていきます」

 

「はい」

 

スタッフの人の声がした。

私は頷いて、元の場所へ戻った。

まだ、撮影は続く。

そう思った時、終わっていないことが少し嬉しかった。

 

————

 

そのあとは、カメラの位置が変わった。

私の顔を近くから撮る時も、森川さんがカメラのそばで台詞を返してくれた。

映るのが私だけになっても、相手がいなくなるわけではなかった。

距離を確かめて、もう一度やる。

画面に大きく映ると、同じ動きでも少し強く見えるらしい。

監督から、口を閉じる時に力を入れすぎないよう言われた。

そこを変えて、もう一度撮った。

 

「はい。今のです。目の方は、そのままで」

 

その言葉に頷く。

次に、森川さんを撮った。

今度は私が、画面の外から声をかける。

カメラが自分へ向いていなくても、呼び止めたあとに気持ちを終わらせないようにした。

森川さんがこちらを見る。

さっきの、続きを待つ目になる。

私も、同じ場所から返した。

 

何度か撮り、二人が入る画も最後に確認した。

間に、髪を直してもらう時間や、机の位置を確かめる時間があった。

短い場面だった。

台本では、一枚をめくれば終わるくらいの長さしかない。

それでも、その中に置く顔や声を、一つずつ確かめていたら、時計の針は思っていたより進んでいた。

最後の確認が終わり、監督がこちらを向く。

 

「はい。OKです。白瀬さんはここまでです」

 

一瞬、まだ次があるような気がした。

それから、終わったのだと分かる。

 

「ありがとうございました」

 

頭を下げた。

スタッフの人たちからも、声が返ってきた。

森川さんは、このあとも撮影が残っている。

机の上へ鞄を戻し、私の方へ来た。

 

「お疲れさまでした」

 

「ありがとうございました。何度も、合わせていただいて」

 

「こちらこそ。最後、私の返しを変えたら、白瀬さんも変わったから」

 

森川さんが、少し笑った。

 

「もう一回やってみたいって思えた。ありがとう」

 

返事をするまで、少し時間がかかった。

 

「……私も、楽しかったです」

 

思っていたことが、そのまま出た。

 

「はい。すごく」

 

二度言ってから、少し恥ずかしくなる。

森川さんは笑ったまま頷いてくれた。

 

「公開が楽しみね」

 

「はい」

 

その言葉で、今日撮ったものには、見る人がいることを思い出した。

ここで終わりではない。

編集され、音が入り、ほかの場面とつながって、八月二十八日に公開される。

完成したものを、早く見たかった。

監督が、モニターのそばから声をかけた。

 

「白瀬さん、少しだけ」

 

「はい」

 

近くへ行くと、最後の顔が画面に残っていた。

私は、そこを見ないようにしようとして、結局見てしまう。

口元が、言いかけたところで止まっている。

 

「お願いしてよかったです」

 

監督が言った。

私は顔を上げた。

 

「前の時ので、細かく変えてもらえるのは分かってはいました。今日は、台詞や動きの中でも、それを見ることができた」

 

「……ありがとうございます」

 

「相手の返事が変わっても、そこから変えられたので。それがあったからこそ、こちらももう少し撮りたいところをお願いできました」

 

嬉しかった。

返事をする前から、顔が緩んでいたと思う。

 

「準備で、相手役の子にも付き合ってもらって。返し方を変えて、何度かやってきたんです」

 

「そうでしたか」

 

「でも、本番は練習とは違っていて……最後のところも、あの時と同じにはならなかったんですけど……」

 

少し考えた。

監督は、次の言葉を待ってくれた。

 

「相手にあわせて変わるのが、楽しかったです」

 

口にすると、今度は監督も笑った。

 

「それが撮れて、こちらもよかったです。ありがとうございました。また何かあれば、声をかけさせてもらいます」

 

「ありがとうございました」

 

もう一度、頭を下げた。

顔を上げても、口元はなかなか戻らなかった。

 

————

 

衣装を返し、私服へ着替えた。

鏡の中の自分は、さっきの教室にいた子とは違っていた。

そのことに少し笑いそうになりながら、鞄を肩へ掛ける。

ヘアメイクと衣装の担当者へお礼を伝えた。

制作の人にも、挨拶をする。

 

早川さんが退出の確認を終えるまで、入口のそばで待った。

教室では、もう次の撮影の準備が始まっている。

森川さんの声がした。

別の出演者と、次の場面を確かめていた。

私は、その声を少しだけ聞いてから、早川さんとスタジオを出た。

外は、朝よりずっと暑くなっていた。

日陰にいても、空気が温かい。

スマホの時計を見る。

十二時を少し過ぎていた。

 

「予定どおりですね。先にお昼ご飯にしましょう。十五時の合わせまで、少し休む時間も取れます」

 

「はい」

 

返事をしたあとで、早川さんを見る。

 

「……よかったですか?」

 

聞いてから、何が、を言っていないことに気づいた。

 

「今日の撮影ですか?」

 

「はい。監督には、よかったと言ってもらったんですけど」

 

早川さんは頷いた。

 

「いい撮影になりましたね。頼まれたところを変えて、その次も撮れていましたし。最後は共演する方とも、やり取りが増えていました」

 

「はい」

 

また、同じ返事しか出なかった。

でも、今度は、それで足りないと思った。

 

「最初は、自分がちゃんとできるかを考えてたんですけど。途中から、次はどんな返事になるんだろうって思って」

 

「ええ」

 

「それで、自分の方も変わって。最後、あのあとに台詞があったら、まだ言えそうな感じがして」

 

話しながら、手が少し動いた。

教室にいた時の向きを、指先で示しかける。

早川さんがこちらを見て、笑った。

 

「さっきから、ずっと嬉しそうですよ」

 

「……そうですか?」

 

「はい」

 

頬へ手をやった。

触っても、笑っているかどうかは分からなかった。

 

「楽しかったので」

 

「それなら、よかったです」

 

早川さんの返事は、短かった。

そのまま歩いていたら、今度はお腹が鳴った。

思っていたよりはっきりした音だった。

私は足を止めかける。

早川さんが、何も聞かなかったように前を向いた。

 

「まずはお昼ご飯ですね」

 

「……はい」

 

笑いをこらえて返事をしたら、余計にお腹が空いた気がした。

 

————

 

食事を済ませてから、FOLIOへ向かう車へ乗った。

座席へ背中を預けると、ようやく足が少し重いことに気づいた。

ずっと立っていたわけではない。

でも、気づかないうちに力が入っていたところはあったらしい。

鞄からスマホを出す。

 

彩花との画面を開いた。

火曜日、駅で別れたあとに送った、ドラマの続きを見たら教えてほしいという話が残っていた。

 

『撮影、終わった』

 

そこまで打って、もう一行加える。

 

『監督に、お願いしてよかったって言ってもらえた』

 

送った。

画面を見たまま、少しだけ待つ。

すぐに返事が来るとは限らない。

彩花にも予定がある。

そう思って、スマホを下ろしかけたところで、文字がついた。

 

『お疲れ!よかったじゃん!』

 

口元が緩んだ。

 

『うん。すごく楽しかった』

 

続けて、指を動かす。

 

『最後、目を下げないでやることになった』

 

『練習で最後にやったところ?』

 

『そう。相手の人を見たまま、言葉を探す感じになった』

 

送ってから、さらに付け足す。

 

『相手の人の振り返ったあとの顔も変わって、それを見たら、私もまた変わって』

 

少し間があった。

その間に、もう一通打った。

 

『練習、一緒にやってもらえてよかった。本当にありがとう』

 

今度は、二つ続けて返ってきた。

 

『準備したの、ちゃんとうまく使えたんだね』

『本物の現場の空気とかも、気になること沢山ある。今度会ったら聞かせて』

 

火曜日の店で、彩花が言い直した言葉を思い出した。

今日のを、そのままやるのではなくて。

ちゃんとうまく使えたら。

 

『うん。話したい。多分、長くなると思う』

 

送ると、すぐに返ってきた。

 

『今も結構伝わってきてる』

 

私は、画面を見て笑った。

続けて、もう一つ。

 

『楽しかったの、文字だけでもすごく分かるよ』

 

そんなに、出ているだろうか。

並んだ自分の文章を見た。

短い報告をするつもりだったのに、何通にも分かれている。

返事を待たずに送っているところもあった。

……出ている気がする。

 

『次は会った時に話すね』

 

『うん。待ってる』

 

そこで一度、スマホを下ろした。

窓の外を見たけれど、景色はあまり頭に入ってこなかった。

森川さんが振り返った時の顔と、監督の声が、まだ近くにある。

三枝さんにも、撮影を終えたこととお礼を送った。

詳しい指示の話は、次に会った時に聞いてもらいたいと書く。

 

今度会った時に、三枝さんからもフィードバックをもらうために、忘れたくないところが二つある。

そのメモだけ残した。

相手を見たまま困る。

相手が待つ顔になったら、こちらも言い直したくなった。

そこまで書いて、スマホを伏せた。

 

「少し眠っていても大丈夫ですよ。着いたら声をかけます」

 

早川さんが言った。

 

「はい」

 

返事をして、目を閉じる。

身体は、休みたがっている。

それは分かった。

動きは少なかったのに、集中と緊張のせいか、思った以上につかれている。

でも、頭の中では、まだ撮影が続いているような気がした。

 

皆にも、話したい。

夏希には、終わったらどうだったか教えてと言われている。

ひより先輩たちにも、今日は撮影へ行くと話してある。

何から言えばいいだろう。

監督が二月と同じ人だったこと。

森川さんが、とても現場に慣れていたこと。

その森川さんと、何度も同じ場面をやり直したこと。

最後、監督に言ってもらった言葉。

目を閉じたまま考えていたら、また少し、口元が緩んだ。

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