TS少女は演じたい 作:息抜き
八月二十七日、木曜日。
制服へ着替えてから、鞄の中をもう一度確かめた。
学校から前にもらった進路の資料と、筆記用具。面談の連絡は、スマホに残っている。
レッスン着も、タオルも、室内用の靴も入っていなかった。
持ち上げると、いつもより軽い。
「準備できた?」
母が、リビングの入口から顔を出した。
「うん。お母さんは?」
「あとお茶を入れたら」
母は水筒の蓋を開け、冷蔵庫から麦茶を取り出した。
私も、自分の水筒をその隣へ置く。
「もうすぐ夏休みも終わるけど、レッスンの方はどう?順調?」
麦茶を注ぎながら、母が聞いた。
最近は、ドラマで何をしたかとか、MVのセットがどうなっていたかとか、そういう撮影の話をすることが多かった。
「うん。今のところ、予定どおりだって」
「次のライブは、曲も増えるんだっけ?」
「八日にやった六曲のほかに、私が新しく覚えるのが八曲あるから」
声にすると、やっぱり多かった。
でも、最初にその数を聞いた時とは少し違う。
今は、それぞれの歌い出す場所や、次に移る位置が浮かんだ。
「一通りは、全部皆と最後まで合わせた。そのうち四曲は、だいぶ安定してきたと思う」
母がこちらを見た。
「もう全部覚えたの?」
「順番とか、歌うところは。まだ、全部できあがったわけじゃないよ。残りも通せるけど、移動しながら歌うところとか、直すところが結構ある。今度のライブで初めてやる、新しい曲も二つ入ってるし」
「八曲全部が新曲ではないのね」
「うん。六曲は前からある曲。それでも六人でやるから、皆も立つ場所とか、歌うところを変えてる」
五人が知っている曲だからといって、私だけが覚えれば終わりではない。
誰の前を通るか。どちらへ避けるか。
歌い終えた声を、次に誰が受け取るか。
そういうことを、一緒に確かめている。
「でも、覚えるのは前より早くなったと思う」
「自分でもそう思う?」
「うん。前にやった動きもあるし、どこが分からないかも、前より分かるから」
足だけで動く。
そこへ腕をつけてから、歌を合わせる。
初めは、何を別々にすればいいのかも知らなかった。
今は、一度で全部できなくても、どこへ戻ればいいかは少し分かる。
「前は、間違えたってことしか分からない時もあったんだけど、今は何を間違えたか分かるから」
「そっか」
「最近は、何曲か続けてやるのも増えてる。一曲ずつならできても、前の曲で動いたあとだと、息の吸い方が違ったりするから」
「全部続ける練習も、これから?」
「うん。九月に入ったら、全体の流れも確かめていくって。新しい二曲は、九月の半ばまでに仕上げる予定。そのあと、着替えとか話すところも入れて、本番と同じように通す」
あの時も、六曲を歌えるようになったあとに、覚えることがあった。
マイクを持って出る。
客席へ顔を向ける。
玲奈さんに聞かれたことも、玲奈さんだけを見て答えない。
できるようになった曲の間へ、別の仕事がいくつも入った。
今回は、そのことを知っている。
「じゃあ、学校が始まってからの予定も、今日きちんと相談しておこうね」
「うん」
夏休みの間は、午前中からレッスンへ行けた。
学校が始まれば、その時間には授業がある。
私は、進路の資料が入っていることをもう一度確かめて、鞄を閉じた。
————
学校の門は、開いていた。
校庭の方から、何かを打つ乾いた音と、掛け声が聞こえる。
母と並んで校舎へ向かう。
普段なら誰かを追い越したり、後ろから声をかけられたりする場所で、今日はほとんど人とすれ違わなかった。
「静かね」
「いつもは、この辺に結構いるけど、夏休みだしね」
昇降口で靴を履き替える。
母は持ってきたスリッパを出していた。
廊下の掲示物は、一学期の終わりに見たものとほとんど変わっていない。
職員室で名前を伝えると、少し待って担任の男性の先生、杉浦先生が出てきた。
「白瀬さん、久しぶりですね。お母様も、お越しいただきありがとうございます」
「こちらこそ、お時間をいただいて。今日はよろしくお願いいたします」
母が頭を下げ、私も続いた。
「よろしくお願いします」
杉浦先生は半袖のシャツを着ていた。
母と並ぶと、先生がまだ若い人なのだと分かる。
案内された面談室には、教頭先生がいた。
髪に白いものが混じった、年配の男の先生だ。
全校集会などで話しているところは見たことがあるけれど、こんなに近くで向かい合うのは初めてだった。
「暑い中、ありがとうございます。どうぞ、お掛けください」
母と並んで座る。
机には、資料が二組置かれていた。
一枚目は、二学期の主な予定だった。
「新学期が始まる前に、白瀬さんご本人のお考えを伺って、学校での対応も確認しておきたいと思いまして、お越しいただきました」
教頭先生が、私と母を順に見た。
「FOLIOのマネージャーの方、早川さんと、学業の日程調整を担当されている岡崎さんには、必要な連絡が取れるようになっています。ただ、学校へ通うのは白瀬さんですから。活動を始めてから、今、どうお考えなのかも聞いておきたいと思っています」
「はい」
杉浦先生も、資料をこちらへ寄せてくれた。
「学校が始まってから、その都度どうすればいいか迷うことが少なくなるように、今日、先にお話ししておければと思っています」
膝の上で組んでいた指を、少しほどいた。
何を聞かれるのか分からないまま来たわけではない。
それでも、先生が二人いて、母も隣にいると、普段の進路相談とは違う感じがした。
「芸能関連の制度がある高校へ転校するのではなく、本校へ通い続けて、大学進学も希望されていると伺っています。実際にお仕事を始めてからも、そのお気持ちは変わっていませんか」
「はい。この学校で卒業して、大学にも進学したいです。受験についても、前にお話しした時と考えは変わっていません」
ここは、考え直さずに答えられた。
先生が頷く。
「以前お話ししていた、まず指定校推薦を目指す、ということでよろしいですか」
「はい。推薦で進学できなかった場合は、一般受験をするつもりです」
「分かりました。それでしたら、これまでどおり、その希望に沿って準備を進めましょう」
少し、息が抜けた。
活動を始めたから、前に話したことも最初から考え直してください、と言われるわけではなかった。
母にも家庭の方針を尋ねられ、母は、本人の希望を支えていきたいと答えた。
教頭先生が短く書き留める。
「承知しました。では、本校で学校生活を続けることを前提に、具体的なことを確認しましょう」
杉浦先生が、私を見た。
「白瀬さんが授業や課題にきちんと取り組んでいることは、普段から見ています。一学期の定期考査でも、成績を落とさずに取り組めていましたね」
「……はい」
「二月の終わり頃にはレッスンへ通い始めていて、五月からはグループのレッスンにも参加していたと伺いました。その状況で、時間のやりくりは必要だったと思いますが、学校での取り組みは変わっていませんでしたね」
一学期のことを思い出す。
学校を出て、電車に乗って、練習へ行ったこともある。
帰ってから眠いのを我慢して机へ向かった日もある。
慣れてきたとはいえ、今でも電車の中で寝てしまうことも少なくない。
「試験の前は、レッスンを減らしてもらっていました。休みにしてもらった日もあったので」
「そうやって調整して、勉強する時間を確保できていたということですね」
先生は、すぐに頷いた。
「二学期も、そのやり方を続けられるように相談していきたいと思っています。白瀬さんが学業を続けたいと言っていることは、これまでの様子からも信頼しています」
私は、予定表へ目を落とした。
先生が知っているのは、私が何曲覚えたかではない。
どんな撮影をしたかでもなかった。
教室にいて、授業を受けて、課題を出した私のことだった。
「……ありがとうございます」
顔を上げて言うと、先生は少し笑った。
差し出された予定表には、学校行事や考査の日程が並んでいた。
杉浦先生が、そのうちのいくつかを示す。
「特に考査と進路関係の提出期限は、事務所にも先に伝えるようにしてください。学校側で変更があった場合は、こちらからもお知らせします」
「はい」
ペンを出して、日付に印をつける。
母も、自分の資料を見ていた。
「仕事の時間がまだ決まっていない時も、相談していいですか。授業と重なるかもしれないけど、何時からか分からない、とか」
「はい。その段階で教えていただけると助かります。確定してからでは、動かせないこともあると思いますので」
もらった資料の余白にメモとして書いておく。
「学校へ来られない日だけでなく、遅刻や早退が必要になりそうな日もお願いします。受けられない授業が、同じ教科に偏っていないかも確認したいです」
「一日休むわけじゃなくても、ですか?」
「はい。学校へ来た日数とは別に、それぞれの授業へどのくらい出られているかも見る必要がありますので」
仕事の予定を見る時には、何時にどこへ行くかを先に見ていた。
その時間に学校では何の授業をしているか。
そこまで並べて考える必要があるらしい。
母が顔を上げた。
「日々の欠席や早退の連絡は、これまでと同じ方法で、家庭からお伝えすればよろしいでしょうか」
「はい。通常の連絡は、今までどおりでお願いします」
教頭先生が続けた。
「詳しい日程のすり合わせや、現場の予定をどう動かせるか、活動の負担や安全面の判断が必要な場合などは、FOLIOの担当と確認します」
「撮影の終了時間とか、本人もすぐには分からないことがありますが……先日も、終わる時間は分からないという形で本人から言われたことがあります」
「そうしたことは、必要なら事務所へ確かめます。白瀬さんが、その場で分からないことまで答える必要はありません」
早川さんから聞いた話と、同じだった。
私が学校へ予定を持ってきて、聞かれたことを持ち帰って、また事務所へ聞く。
全部を一人で往復させなくてもいい。
「学校からも、予定を調整してほしいって伝えていただけるんですね」
「はい。考査や進路のことで、学校からお願いしたいこともありますから」
杉浦先生が、予定表へ指を戻した。
「考査は、先に日程を押さえていただきたいです。お仕事が決まったあとで、試験を別の日に、という調整は簡単にはできません。進路関係も、期限を過ぎてからでは対応できない手続きがあります」
「分かりました」
印をつけた日付を、もう一度見る。
「もし授業を休んだ時、進んだ範囲や課題は、それぞれの授業の先生に直接聞きに行けばいいですか」
「普段の連絡で確認できるものは、それで構いません。紙の配布物も受け取れるようにしておきます。教科によって確認の仕方が違う場合は、こちらからも先生方に確認して、新学期には伝えます」
「ありがとうございます」
「誰に何を聞けばいいか分からない場合は、まず私に聞いてください。配布物を受け取れていないと気づいた時も、その時に話していただければ大丈夫です」
私は頷いた。
由佳に教えてもらえることもあると思う。
でも、由佳に全教科の進んだ範囲や課題を毎回覚えておいてもらうなんて、いくらなんでも負担が大きいし、由佳に頼りすぎてしまう。
自分で確認できるところは、ちゃんとできるようにしておきたかった。
教頭先生が、別の紙を手元へ寄せた。
「外部からの問い合わせへの対応についても、お伝えしておきます」
母がペンを置いた。
私も、教頭先生を見る。
「個人の在籍や学校生活に関する第三者からの問い合わせには、お答えしません。在籍しているとも、していないとも申し上げない、という対応です。これは対応を全生徒で統一しています。実際に本校へ通っていない方のお名前であっても、返答は変えません」
机の上の紙へ、指が添えられた。
「『個人の在籍の有無を含め、第三者からの個人に関するお問い合わせにはお答えしておりません』とお伝えします。その先の個別の確認には応じません」
私は、その言葉を頭の中でもう一度繰り返した。
いない時だけ、いませんと答える。
それ以外の時には、答えない。
そうなっていたら。
「通っている時だけ答えないと、それで分かってしまうから……」
「そうです。名前によって対応が違えば、その違いが手掛かりになりますから」
電話でも、メールでも、窓口でも同じだという。
写真や記事を示して、ここではないかと尋ねられても、学校から正誤の確認はしない。
母が、少し身を起こした。
「問い合わせた方を、事務所へご案内することもないのでしょうか」
「はい。事務所名や連絡先をお知らせすることも、そちらへ取り次ぐこともありません。相手の方が先に事務所名を挙げても、こちらから確認はしません」
私は、少し意外な気がした。
仕事のことなら事務所へ。
そう言えば、学校はそれ以上答えなくて済むようにも思えたから。
「事務所へ聞いてください、でも駄目なんですね」
「特定の事務所へ案内すること自体が、学校がそのことを把握している、という受け取られ方につながりますので」
教頭先生は、穏やかな声のまま続けた。
「教職員と事務室で、対応をそろえています。この種の問い合わせで、名簿を確認するためにお待ちいただいたり、特定の担任へ取り次いだりすることもありません」
答える言葉だけではない。
誰へ電話を代わるかも、聞いた人には何かを確かめる材料になるらしい。
「そのうえで、安全面で対応が必要な内容は、学校からご家庭や事務所と相談させていただきます」
私は、そこで頷いた。
私たちの間では、連絡する。
外から聞いてきた人へ、そのつながりを見せるわけではない。
「もし、校門付近で待たれたり、知らない方から学校で会いたいと言われたりした場合には、本人だけで対応せず、職員室に来てください。担任が不在でも、その時にいる教員へ話していただいて構いません」
「……はい。ありがとうございます」
何かが起きていると言われたわけではない。
先に、どこへ行けばいいかを教えてもらっていた。
母も礼を言い、資料へ短く書き込んだ。
杉浦先生が、もう一枚の紙をこちらへ向けた。
「校内での撮影やSNSについても、新学期から改めて指導する予定です。八月の初めにお送りしたお知らせは、ご覧になっていますか」
紙の見出しを見て、すぐに思い出した。
「はい。発表の日に届いたものですよね。母と一緒に読みました」
『夏季休業中の生活について・追加のお知らせ』。
熱中症や交通安全の注意のあとに、写真やSNSの話があった。
撮影してよいという了承と、公開してよいという了承は別だという内容だった。
「写真のところが詳しくなっていて、家でも話していたんです」
母も言った。
「読んでいただけてよかったです。新学期には、全学年のホームルームで具体例を使って説明します。保護者の方にも、改めて同じ内容をお知らせする予定です」
杉浦先生が、資料を私たちの前へ置いた。
友人同士の写真や部活動の動画、SNSへの投稿などが例として挙げられている。
そこには誰の名前も書かれていなかった。
「特に伝えたいのは、写真を撮ることと、SNSへ投稿することは別だという点です。友達同士で写真を見せ合うことまで禁止するわけではありません。ただ、SNSなどに載せる場合は、写っている人の了承を得るように指導します」
「鍵のかかったアカウントでも、ですか?」
「はい。見られる人を限っていても、そこから外へ広がることがありますから。端に写り込んだ人の顔が分かる場合も、本人に確認するか、顔を隠すなどの配慮をするよう伝えます」
先日のMV撮影で、美月が写真を選んでいたところが浮かんだ。
六人で画面を覗いて、載せるものを決めた。
そのあと、文章も含めて確認へ回していた。
「それから、名前を出していなくても、学校名やクラス、登下校の時刻などを組み合わせると、誰のことか分かる場合があります。そうした情報を不用意に投稿しないことも伝えます」
母が頷いた。
「写真以外も気をつける必要があるんですね」
「はい。文章で書いた内容や、会話の画面を載せる場合も同じです。人が嫌がる写真を勝手に広めない、撮影や投稿を断られたら無理に頼まない、といった基本的なことも指導します」
先生が、資料の別の項目を示した。
「また、校内での端末の使用ルールは別に守ってもらいます。授業中の無断撮影や、学校が許可していない校内からのライブ配信なども認めません」
教頭先生が口を開いた。
「こうした指導は、全生徒に対して同じように行います。特定の生徒の名前や事情を挙げることはありません」
「……ありがとうございます」
私は、資料の先を読んだ。
投稿されて困った場合は、担任などへ相談するように書かれていた。
「もし、載せられてしまった後に気付いたら、どうすればいいですか」
「分かった時点で教えてください。どこに載っているか分かれば、こちらでも確認します」
「自分で、消してって言わなくてもいいんですか?」
「はい。ご自分で伝えられるならそれでも構いませんが、難しければ無理に相手と話さなくて大丈夫です。事情を確認して、必要なら学校から削除を求めます。繰り返すような場合には、生徒指導として対応します」
教頭先生も頷いた。
「一度外へ出たものを、学校だけで全て消せるわけではありません。ただ、生徒同士で解決するようにと、任せきりにするつもりもありません」
私は、小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
「白瀬さんが気付いたことや、誰かから知らせてもらったことがあれば、その時に相談してください。もちろん、ほかの生徒についても同じです」
杉浦先生は、資料から手を離した。
「全員へ伝えることは、学校から伝えます。白瀬さんが一人ずつ注意して回る必要はありませんからね」
「……はい」
以前のお知らせのあとにも、先生たちは続きを考えていたらしい。
私は、渡された紙を二学期の予定表へ重ねた。
「白瀬さんの方で、学校が始まるにあたって、気になっていることはありますか」
一通りの説明が終わると、杉浦先生が尋ねた。
ペン先を、紙から離す。
授業のことは、いくつか聞けた。
予定も、どう伝えればいいか分かった。
あとは……
「……クラスの人たちと会った時、どんなふうに話せばいいのかは、少し気になっています」
先生は、急いで言葉を足さなかった。
「由佳……佐伯さんとは会って話したんですけど。ほかの人とは、発表のあと、まだあまり直接話していなくて」
いつもどおりに挨拶をすればいいのだと思う。
だけど、どんな返事が来るかは、まだ分からなかった。
「久しぶりに顔を合わせることになりますから、少し気になりますよね」
「はい」
「友達やクラスメイトとの関係で、困ることがあれば、遠慮なく相談してください。先ほどの撮影や投稿のことに限りません」
私は顔を上げた。
「何かを頼まれて断りにくかったり、したくないことを求められたりした時ですね。親しい相手だからこそ、言いづらいこともあると思います」
そこで、早川さんと話したことを思い出した。
「サインについては、マネージャーさんと相談しました。学校で頼まれた分は受けないことにして、マネージャーさんからの指示だと伝えていいと言われています」
先生は、短く書き込んだ。
「分かりました。そのように伝えていただいて構いません。それでも繰り返し頼まれるようでしたら、私にも相談してください」
「はい」
「その場でうまく断れなかった場合でも、あとから相談していただいて大丈夫ですからね」
返事をしかけて、少し止まった。
「……一回、いいって言ってしまっても、ですか?」
「はい。その時には大丈夫だと思っても、あとから困ることもあるでしょう。何を頼まれて、どこで困っているかを聞いて、どう伝えるか一緒に考えましょう」
「まだ、揉めたりしていなくても?」
「もちろんです。どう返事をしたらいいか分からない、という程度でも構いません。お仕事と関係のないことも含めて、クラスで過ごしにくく感じることがあれば、聞かせてください」
「……分かりました」
「そのうえで、どう対応するか一緒に考えましょう」
母が、隣で口を開いた。
「本人が、先生へお伝えするほどのことか迷っている時は、私からご相談してもよろしいでしょうか」
「はい。ご家庭で気になる様子がありましたら、お知らせしていただけると助かります。学校で気づいたことがあれば、こちらからもご連絡させていただきます」
教頭先生も、静かに頷いた。
「学校で落ち着いて過ごせるようにすることも、私たちの役目ですから」
母が礼を言った。
私もそのあとに頭を下げると、杉浦先生は、また机の上の予定表へ目を戻した。
少し気になっていると話しただけで、急に深刻な顔をされるわけでもなかった。
「では、進学について、もう少し確認させてください」
杉浦先生が進路資料を開いた。
私も、持ってきたものを鞄から出す。
夏休み前に読んだページには、自分で引いた線が残っていた。
「授業に出られないことがあっても、分からないところがそのままになって、受験の準備に響くことは、できるだけ避けたいと思っています」
先生は、こちらのページが開くのを待ってから続けた。
「課題や配布資料等の確認だけでは難しい場合は、教科の先生とも相談します。必要に応じて、補習などで補えるかも検討できます」
「ありがとうございます」
「何の授業を受けられなかったか、どこが分からなくなっているか、早めに相談してください」
勉強が遅れたら、自分で追いつくしかないと思っていた部分もあった。
もちろん、自分でやることはある。
でも、分からないところを家での自習だけでどうにかしようとせずに、先生にも頼っていいらしい。
教頭先生が、資料へ手を添えた。
「そのうえで、指定校推薦を希望されていますので、出欠の扱いは今のうちに正確に確認しておきたいと思います」
声の調子は、さっきまでと同じだった。
「本校では、芸能のお仕事による欠席は、欠席として記録します。補習で学習内容を補っても、欠席を出席に置き換える扱いはできません」
私はペンを置いた。
「授業を受けられなかった分の学習を支えることと、推薦の選考で出欠をどう扱うかは、分けて考える必要があります」
紙の上へ目を戻す。
指定校推薦。
校内選考の基準。
前にも読んだところだった。
「大学側の条件に加えて、本校の推薦基準も満たす必要があります。三年生の皆さんには、すでに説明しているものです」
杉浦先生が、該当する欄を示した。
「こちらです。成績だけでなく、出席についても条件があります」
「はい。覚えています」
教頭先生が、私と母を見た。
「ほかの生徒も、この条件を前提に、学校生活を送り、推薦を目指しています。そのため、白瀬さんについてだけ、お仕事による欠席を数えないという扱いはできません」
私は頷いた。
学校へ来て、授業を受けている人たちがいる。
私も、その一人として推薦を目指すつもりだった。
「決められた集計期間の欠席日数が基準を超えた場合には、補習で学習内容を補えていても、指定校推薦を出すことはできなくなります。その点は、ご理解いただいておきたいと思います」
「はい。分かっています」
私は、もう一度資料を見た。
書かれている条件は、以前と同じだった。
変わったのは、その日付に重なるかもしれない予定を、私が持つようになったことだ。
「その上で、指定校推薦を目指したいです。学校の予定も先に確認して、授業も勉強も続けられるように、頑張ります」
杉浦先生が頷いた。
「はい。そのために、予定が重なりそうな段階で、一緒に確認していきましょう。あとから推薦の条件に関わると分かった、ということにはしたくありませんので」
先生は手元の記録を見ながら、これまでの出欠と、校内選考でどの時点までの記録を使うかを説明してくれた。
母も資料の同じ箇所を見ている。
私も一つずつ確かめ、必要なところへ線を引いた。
「希望票の期限は、前にお知らせした日から変わっていません。条件を満たせば必ず推薦されるということではなく、希望者が重なった場合は校内選考になります。その点も、以前の説明と同じです」
「はい。一般受験の勉強も、続けるつもりです」
「分かりました。志望先や受験方法は、引き続き相談していきましょう」
母が顔を上げた。
「出欠の条件も含めて、事務所と予定を確認します。本人や家庭だけでは判断できない場合は、またご相談させてください」
「はい。遠慮なくご連絡ください」
推薦の基準は変わらない。
それを聞いたあとにも、先生たちは予定の話を続けていた。
どこで相談するか。何を先に知らせるか。
私が頑張りますと言ったからといって、あとは全部任せます、ということにはならなかった。
杉浦先生が、ペンを置いた。
「白瀬さんは、これまでも必要なことを確認して、きちんと取り組んできています。二学期も、その積み重ねを続けていきましょう」
「はい」
「ただ、授業には出られていても、家で勉強する時間が取れなくなってきたり、疲れて集中しづらくなったりした場合は、その段階で話してください。一人で無理をする必要はありませんからね」
返事をする前に、母の方へ目が動いた。
母も私を見ていた。
何かを言う代わりに、小さく頷く。
「……困りそうな時でも、いいんですね」
「はい。まだ調整できるうちに、相談できる方がいいと思います」
私は、余白へもう一つ書き足した。
その上には、時間が未定でも先に相談、とある。
今日聞いたのは、全部決まってから報告するための方法だけではなかった。
面談の終わりに、杉浦先生が確認した。
「ほかに、聞いておきたいことはありますか」
手元の資料を見返す。
学校の予定。連絡の方法。
撮影やSNSについての、新学期の説明。
推薦の条件も、もう一度読んだ。
「今のところは、大丈夫です。家で予定と見比べたら、また出てくるかもしれません」
「はい。その都度、遠慮なく聞いてください」
先生は頷いた。
「学校生活や学習のことは、まず私が伺います。教科の先生方への共有はこちらで行いますし、事務所との調整が必要なものは、教頭と確認して、岡崎さんや早川さんへ連絡します」
教頭先生も、私たちを見た。
「新学期が始まってから、今日のお話だけでは足りないことが出てくるかもしれません。その時は、その都度確認していきましょう」
「よろしくお願いいたします。正直、ここまで具体的にお話ししていただけると思っていなかったので、助かりました」
母が頭を下げ、私も続いた。
「ありがとうございました」
教頭先生が、隣の杉浦先生へ目を向けた。
「今日の面談は、杉浦先生がずいぶん気合いを入れて準備してくれましてね」
杉浦先生の手が、資料を揃えかけたところで止まった。
「こういう質問があったらどうするか、こちらから何を伝えておくべきかと、何度も確認に来てくれました。おかげで、私もよい予習になりました」
「教頭先生、それは……」
杉浦先生が、少し困ったように笑った。
「きちんと準備したことは、隠さなくてもよいでしょう」
母が小さく笑った。
私も、つられて口元が緩む。
杉浦先生の手元には、私たちへ渡されたものと同じ資料があった。
端から付箋が出ていて、余白にも何か書いてある。
さっきから先生が時々確かめていたのは、それだった。
教頭先生は、笑みを残したまま私たちへ向き直った。
「私などと並ぶと、まだまだ若い先生ですから。経験の面で、心配されることもあるかもしれません。ただ、相談されたことを曖昧なままにせず、きちんと確かめて動く先生です。その点は、私も頼りにしています」
隣で、杉浦先生が少し姿勢を正した。
「ですから、遠慮なく相談していただければと思います。少し張り切りすぎて説明が長くなった時は、そこも遠慮なく言ってください」
「……今日は、長かったでしょうか」
杉浦先生がこちらを見た。
母が笑いながら首を振る。
「いえ。詳しく伺えて、ありがたかったです」
「私も、聞きたかったことを聞けたので」
私が続けると、先生は少しほっとしたように頷いた。
「それなら、よかったです」
教頭先生の方へ一度目を向け、それから苦笑する。
「ただ、少し入れ込んでいる自覚はあります。白瀬さんたちは、私が初めて担任を持った学年ですから」
一年生の時、最初のホームルームで聞いたことだった。
あの時の先生は、伝えることを書いた紙を何度も見ていた。
途中で誰かが質問すると、答えたあとで、どこまで話したか確かめ直していた。
「一年生の頃から見てきて、今度は卒業や、その先の進路の話をしているわけですから。できることは、きちんとしておきたいと思っています」
先生は、私を見た。
さっきまでの資料を読む声より、少し柔らかかった。
「白瀬さんが学校もお仕事も続けたいと思っているなら、そのためにどうすればいいか、一緒に考えたいです。ですから、何かあったら、何でも遠慮なく話してください。できる限り、力になります」
私は、膝の上の鞄から手を離した。
「……はい。ありがとうございます」
今までにも、分からない問題や、進路のことで質問したことはあった。
その時も先生は、きちんと聞いてくれた。
芸能活動を始めても、そこは変わっていなかったらしい。
母が、杉浦先生へ顔を向けた。
「そう言っていただけると、心強いです。本人だけではうまく話せない時には、私からもご相談させてください」
「はい。もちろんです」
「それでも、担任だけでは心配なことがありましたら、私のところへもどうぞ」
教頭先生が、少しおどけた調子で言った。
「杉浦先生を通さなければ相談できない、ということはありません。私もおりますし、ほかにも先生はいますから」
「はい。私に気を遣って、ほかの先生へ聞くのをためらったりはしないでください」
杉浦先生は、今度はすぐに頷いた。
「私自身、今日の準備でも、随分相談させていただきましたので」
「ええ。ですから、私への相談の仕方は、杉浦先生が一番詳しいかもしれませんね」
杉浦先生が吹き出しかけて、口元を押さえた。
「それでは、結局、私を通すことになってしまいます」
母が声を立てて笑った。
私も、今度はこらえられなかった。
教頭先生は笑いながら、机の上の資料を揃えた。
「いずれにしても、担任一人に任せきりにするつもりはありません。必要な時には、学校として一緒に考えます。まずは、話しやすいところに声をかけてください」
「はい。よろしくお願いします」
返事をすると、杉浦先生も笑ったまま頷いた。
来た時には、教頭先生が同席すると聞いて、少し身構えていた。
今は、その教頭先生に言われて、杉浦先生が照れている。
隣の母も、まだ少し笑っていた。
杉浦先生が、資料からこちらへ顔を上げる。
「それでは、新学期に会いましょう」
「はい。よろしくお願いします」
椅子から立ち、資料を鞄へしまう。
来る時より、少しだけ厚くなっていた。
————
廊下へ出ると、面談室より空気が温かかった。
母と並んで、昇降口へ向かう。
遠くで、部活の声がした。
「先生、普段のことをちゃんと見てくれてたね」
母が言った。
「うん」
「一学期も、変わらず取り組めていたって」
「……ちょっと、恥ずかしかった」
「どうして?」
「お母さんの前で言われると」
母が笑った。
「でも、嬉しかったでしょう」
「うん。それは」
否定する理由はなかった。
先生には、レッスンのことを詳しく話していなかった。
それでも、学校にいた私のことは知っていた。
「仕事の話を聞く前から、授業のことは見てたんだもんね」
「そうね」
鞄を持ち直した。
学校へ通いたい。大学にも行きたい。
そう言うために来たけれど、それまでの自分まで、全部説明し直す必要はなかった。
靴を履き替え、外へ出る。
フェンスの近くに、休憩中らしい生徒が何人か集まっていた。
その横を通った時、一人がこちらを見た。
隣の人へ何か言う。
手が少し上がって、指先が私の方を向いた気がした。
その相手も、こちらへ顔を向ける。
目が合う前に、私は前へ戻した。
何を言ったのかは聞こえなかった。
本当に私を指していたのかも、分からない。
でも、鞄の持ち手を握る指に、少し力が入った。
「真琴?」
母が歩く速さを緩めた。
「……ううん」
一度そう言ってから、母を見た。
「今、私のことを見てたのかなって」
母は、すぐに後ろを振り返らなかった。
「気になった?」
「少し」
「そう」
そのまま、隣を歩いてくれた。
気のせいだとは言われなかった。
何を話していたのか、確かめようとも言われなかった。
門へ向かいながら、もう一度だけ校庭を見る。
さっきの生徒たちは、別の方を向いていた。
一人が水筒を置き、声をかけられて走り出す。
「学校が始まったら、もっと会うんだよね」
「そうね。教室にも人がいるし」
「……うん」
自分の席へ座る。
隣や前の席にも、誰かがいる。
プリントが回ってきて、授業が始まる。
その前に、何を聞かれるだろう。
考えると、やっぱり少し落ち着かない。
「今日、気になってるって話しておいたし、何かあれば、相談しましょう」
「うん」
「真琴から言いづらければ、私かお父さんに相談してくれてもいいんだから」
母の方を見る。
「先生に話す前に?」
「そう。家で話してみて、先生にも伝えた方がよさそうなら、私たちから連絡することもできるし。一緒に話しに行ってもいいよ」
母は、歩く速さを変えずに続けた。
「何をどう伝えるかも、その時に真琴と考えればいいから」
「……うまく説明できなかったら、手伝ってもらってもいい?」
「もちろん。そのために、お母さんも今日、一緒にお話を聞いたんだから」
少し笑って言われた。
母の鞄にも、私と同じ資料が入っている。
杉浦先生が何を話してくれたかも、教頭先生がどんなふうに笑っていたかも、母は知っている。
家へ帰ってから、あの話なんだけど、と言えば分かってもらえる。
それは、少し心強かった。
「うん。その時は、お願い」
「うん、任せて」
すぐに返ってきた声に、もう一度頷いた。
校門を出ると、風が来て制服の袖が動いた。
涼しいというほどではなかった。
母がハンカチを出す。
「暑いね」
「まだ、全然夏だね」
「夏休みは終わるのにね」
少しおかしくて、笑った。
「帰ったら、うどんにしようか」
「うん。冷たいのがいい」
「何か買って帰るもの、あったかな」
「卵はあった」
「そうね。じゃあ、そのまま帰ろう」
話は、少しずつ家のことへ戻っていった。