TS少女は演じたい   作:息抜き

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58話

九月三日、木曜日。

 

上履きの片方に、白い封筒が立てかけられていた。

靴を脱ぎかけたまま、それを見る。

昨日、帰る時にはなかったものだ。

表には、黒いペンで『白瀬真琴さんへ』と書かれている。

 

「真琴?」

 

先に履き替えていた由佳が、少し戻ってきた。

 

「どうしたの?」

 

「……これ」

 

封筒を持ち上げると、由佳も目を落とした。

 

「手紙?」

 

「みたい」

 

裏返す。

封をしたところには何も書かれていなかった。

周りでは、何人もの生徒が靴を履き替えている。

随分とベタな方法だな、と思わなくもない。

自分の名前が見える方を内側へ向け、いったん鞄へ入れた。

 

「教室で見てみる」

 

「うん」

 

上履きを取り出し、代わりにローファーを置いた。

手紙があったこと以外は、いつもと変わらなかった。

 

————

 

教室へ着いてから、封筒を開けた。

中には、二つに折られた便箋が一枚入っていた。

 

『白瀬さんへ。

今日の昼休み、十二時四十分に二階の渡り廊下まで来てください。

直接話したいことがあります。

三年四組 大野』

 

短い文だった。

読み終えてから、名前をもう一度見る。

……誰だろう。

顔を見れば分かるのかもしれないけど、今のところ思い当たらない。

 

「見てもいい?」

 

隣に来た由佳へ、便箋を向けた。

ほぼ間違いなく、告白のための呼び出しではある。

ただ、アイドルを呼び出してサインをもらいたい、というだけの可能性も否定できない。

告白のための可能性があるものを他人に見せるのもどうかと思ったけれど、由佳なら大丈夫かと思って見せた。

由佳は上から読んで、最後のところで少し指を止めた。

 

「この人、真琴の知り合い?」

 

「ううん。話したことも、多分ないと思う」

 

「そっか」

 

「由佳は?」

 

「顔と名前くらいは。別のクラスだし、そんなに話すことないけど」

 

便箋が戻ってきた。

 

「……何の話だと思う?」

 

「まあ、告白じゃない?」

 

「やっぱり、そう思う?」

 

「直接話したいこと、って書いてあるし」

 

由佳も、私と同じ予想らしい。

高校に入ってから告白されたこと自体は何度かある。

だから、手紙を見つけただけで、何も考えられなくなるほど驚いたわけではなかった。

ただ、今は少し事情が違う。

相手が以前から私を気にしていたのか、ルミパレに入ってから興味を持ったのかも分からない。

もちろん、どちらだからどうというわけではない。

ただ、アイドルになった今も、以前と同じように自分の気持ちだけで返事をしていいのか、それとも決まった返しをした方がいいのか、とかは少し気になった。

 

「今日も、放課後はレッスン?」

 

由佳に聞かれ、頷いた。

 

「うん。二周年の曲を合わせる予定」

 

「昼休みも、あんまりなくなるね」

 

由佳が便箋の時間を見た。

せっかく、落ち着いてお弁当を食べられる場所を借りられたのに。

そう付け足されて、私も少し困った顔になる。

 

「でも、放課後って言われても行けないし」

 

「まあ、それはそうなんだけど」

 

由佳は、すぐには笑わなかった。

 

「行くつもり?」

 

少し考える。

相手のことはほとんど知らないし、今のところ誰かと付き合いたいとも思っていない。

せっかくの昼休みに、断るつもりの告白を聞きに行くというのも、正直、あまり気が進まなかった。

ただ、もし本当に告白するつもりなら、向こうも気軽に手紙を書いたわけではないのだろう。

前世の記憶があるせいか、こういう時は、呼び出す側の気持ちも少し想像できてしまう。

ほとんど接点のない女子を呼び出して、自分の気持ちを伝える。

少なくとも、私なら相当勇気がいると思う。

それなら、断るにしても、ちゃんと話は聞いておきたかった。

 

「うん。多分告白だとは思うけど、違う用事かもしれないし。とりあえず話は聞いておこうかなって。告白だったら、ちゃんと返事もしたいから」

 

「……そっか。じゃあ、気をつけてね」

 

「気をつけるって?」

 

「ほとんど知らない男子と会うんでしょ。人がいないところへ移動しようって言われても、ついていかないとか」

 

私はもう一度、指定された場所を見た。

渡り廊下は、特別教室へ行く時にも使う。

昼休みには人が少なくなるけれど、誰も通らない場所ではない。

 

「うん。分かった」

 

「あと、防犯ブザー持っていきな。私の貸すから」

 

「……そこまで?」

 

「何もなかったら、使わずに返してくれればいいだけじゃん」

 

そう言われると、断る理由はなかった。

由佳は鞄につけている小さなブザーを示した。

見覚えのあるものだったけれど、使うことを考えたのは初めてだった。

 

「ありがと」

 

「うん」

 

便箋を折り直し、封筒へ戻す。

机の中へ入れようとして、一度止まった。

 

「先に、早川さん……マネージャーにも聞いてみようかな」

 

「何を?」

 

「こういう時、仕事の方で何か決まりがあるのかとか、決まった返しをしないといけないのかとか、ちゃんと確認してなくて」

 

由佳が少し考えて、頷いた。

 

「……確かに、それは聞いといた方がよさそうかも?」

 

私はスマホを出した。

早川さんへ、学校で少し相談したいことができたと送る。

授業の間に電話できる時間も、短く書き添えた。

教室の前の扉が開き、杉浦先生が入ってくる。

スマホをしまって、前を向いた。

 

————

 

二時間目のあとの休み時間に、早川さんへ電話した。

先に事情をメッセージで伝え、時間を合わせてもらっている。

人の少ない廊下の端へ移動して、声を落とした。

 

「お忙しいところ、すみません」

 

『大丈夫ですよ。手紙で呼び出されたんですね』

 

「はい。相手は、同じ学年の男子です。でも、ほとんど話したことがなくて」

 

『そうですか。まだ、何のお話かは分からないんですよね』

 

「はい。告白かもしれないとは思ってるんですけど」

 

違う用事だったらどうしよう、という気もするが、今はそれが一番可能性としては高い。

 

「それで、ルミパレって、恋愛は禁止されているんでしょうか」

 

電話の向こうで、早川さんが短く相槌を打った。

 

『一律に禁止する決まりはありません。誰かと交際するかどうかは、本人の意思を尊重します』

 

「そうなんですか?」

 

『意外でしたか?』

 

「はい。アイドルって、禁止されるものかと思っていたので」

 

『そういうグループも確かにありますが、すべてのアイドルが、恋愛禁止を明言しているわけではないですね』

 

言われてみれば、確かにそうだ。

自分には関係のない話だと思っていたから、詳しく確かめたこともなかった。

 

『もちろん、お仕事や情報の扱いも含めて、節度ある行動はお願いしています。ただ、交際するように、あるいはしないようにと、会社が相手を選ぶものではありません』

 

「はい」

 

『白瀬さんは、今回どうしたいと思っていますか』

 

「告白だったら、お断りするつもりです」

 

そこは、迷っていなかった。

相手をほとんど知らないし、今、誰かと交際したいとも思っていない。

そもそも、自分の恋愛対象の性別自体が、まだ曖昧だった。

 

『でしたら、その気持ちを伝えていただいて大丈夫です』

 

「いつもどおり、お断りしていいんですね」

 

『はい。特別な返事を用意する必要はありません。お付き合いする意思がないと伝われば十分ですし、理由を細かく説明し続ける必要もありませんから。ただ、言い方だけ。最低限、罵倒したり、見下すようなことを言わないようにしていただければ』

 

「流石にそれはしませんけど……」

 

『白瀬さんなら大丈夫だとは思っているのですが、そういう方もゼロではないので。白瀬さん自身のイメージに関わりますので、お願いしますね』

 

「はい」

 

私は、廊下の窓から校庭を見た。

体育の授業に向かう生徒たちが、数人ずつ歩いている。

 

『それと、呼び出されたから必ず行かなければいけない、ということでもありませんよ』

 

「はい」

 

『会う場合も、人の通る場所でお願いします。様子がおかしいと思ったら、その場を離れてください。返事の仕方より、安全が先です』

 

「友人にも相談していて、防犯ブザーを貸してくれるとは言われています」

 

『では、一人で向かわず、お友達にも近くまで来てもらえるといいですね。ただ、お二人だけで何とかしようとはしないでください。困った時は、近くの先生にも頼ってください』

 

「分かりました」

 

通話を終えて、スマホを持ち直した。

禁止されているから、と答えることになるのかもしれないと思っていた。

でも、私が付き合いたいかどうか、という返答でいいらしい。

以前の告白への返事も、自分で決めていた。

アイドルになっても、そこまで変えなくてよかったらしい。

教室へ戻ると、由佳がこちらを見た。

 

「どうだった?」

 

「普通に、自分の気持ちで返事していいって」

 

「そっか」

 

「あと、安全には気をつけてって」

 

「そこは私と同じだね」

 

由佳は頷いて、次の授業の教科書を開いた。

私も自分の席へ戻った。

 

————

 

昼休みは、いつもの小さな生徒指導室で弁当を食べた。

職員室で声をかけると、今日もすぐに鍵を開けてもらえた。

窓の薄いカーテンが、冷房の風でわずかに動いている。

私は壁の時計を見てから、残っていたご飯を口へ運んだ。

 

「まだ時間あるよ」

 

由佳に言われ、箸を止める。

 

「そんなに急いでるように見える?」

 

「食べるたびに時計見てる」

 

「……そうかも」

 

遅れたら悪いと思っていた。

相手が待っているところへ、こちらが慌てて行くのも嫌だった。

 

「用事があるって分かってるだけで、落ち着かなくなるね」

 

「そういう感じになるだろうから、あんまり潰してほしくないんだけどね」

 

由佳はそう言って、自分の弁当箱へ蓋をした。

私は最後のおかずを食べた。

食べ終えて、包みを結び直す。

由佳が鞄からブザーを外して、こちらへ渡した。

 

「これ、持っといて」

 

「うん。ありがとう」

 

「私も近くで待ってるから」

 

「……一緒に行くの?」

 

「途中まで。告白を覗きに行くつもりはないよ。話も聞かないし」

 

由佳は自分のスマホをポケットへしまった。

 

「ブザーが鳴ったら聞こえるところにいるだけ。何もなかったら、戻ってきて」

 

「分かった」

 

相手を知っているから大丈夫、とは、私にも言えなかった。

借りたブザーを、すぐ手が届くポケットへ入れる。

その小さな膨らみが、少し気になった。

職員室で部屋を出たことを伝え、弁当を教室へ戻してから、二人で渡り廊下へ向かった。

途中で、別のクラスの女子二人とすれ違った。

こちらを見て、白瀬さんだ、と小さな声がする。

会釈をして通り過ぎる。

階段のそばで、由佳が足を止めた。

 

「じゃあ、この辺にいるね」

 

「うん」

 

渡り廊下は、この角を曲がった先だった。

由佳の姿が見えなくなってから、私は一度だけポケットへ触れた。

それから、前へ顔を戻した。

 

————

 

渡り廊下の窓際に、男子が一人立っていた。

こちらを見ると、壁から背中を離した。

 

「白瀬さん?」

 

「はい。手紙をもらったんですけど」

 

「あ、うん。四組の大野。来てくれたんだ」

 

そう言って、少し笑った。

顔を見ても、やはり話した記憶はなかった。

廊下ですれ違ったことくらいはあるのかもしれない。

 

「あの、話って」

 

「えっとさ」

 

男子は一度、私の後ろへ目を向けた。

つられて振り返りそうになったけど、その前に言葉が続いた。

 

「俺、前から白瀬さんのこと、可愛いと思ってて」

 

「……ありがとうございます」

 

「よかったら、付き合ってくれない?」

 

やっぱり、そういう話だった。

私は、返事をする前に一度息を吸った。

自分の顔立ちが整っていることは、分かっている。

高校に入った頃から、学年で一番だとか、学校でもそうだとか、本人のいるところで言う人もいた。

そういう順位をつけられるのは落ち着かなかったけど、見た目を理由に興味を持たれること自体は、もう珍しくなかった。

中学ではこれも原因になって、面倒くさいことになったわけだし。

 

それに、前世では私も男だった。

顔が好みの女子に目が向いたり、そんな相手と付き合えたらと思ったりする感覚は、理解できる。

前世の私が今の私を他人として見たら、きっと可愛いとは思うだろう。

……自分について考えることとしては、妙ではあるけれど。

実際に告白するかは別として、興味を持つ理由は想像できた。

 

しかも、今はそこに、アイドルという肩書きまでついている。

写真が公開されて、グッズが売られて、大勢の前で歌っている。

同じ学校にそういう女子がいたら、付き合えたらすごいと思う人もいるのだろう。

私自身は、夏休み前と同じ制服を着ているだけなのに。

以前から気になっていたのか、加入してから私を知ったのか。

目の前の人が、どこまで私のことを知っているのかは分からない。

ただ、顔から好きになることだってある。

詳しく知らないから、気持ちまで嘘だと決める理由にはならなかった。

男子の口元は、まだ少し上がっている。

緊張しているのだろうか。

緊張すると、変に笑ってしまうこともあるのかもしれない。

相手がどう返すか分からないまま、直接気持ちを伝えるのは、楽なことではないだろう。

だからこそ、返事はきちんとしたかった。

 

「……ごめんなさい。気持ちはありがたいんですけど、お付き合いはできません」

 

男子は、少し目を開いた。

 

「あー、やっぱ無理か」

 

それから、また笑った。

 

「アイドルだから?」

 

「いえ。そういうことではなくて……お付き合いしたいという気持ちには、なれないので」

 

仕事を辞めればいい、という話ではない。

この先なら、と期待させるつもりもなかった。

 

「そっか。まあ、そうだよな」

 

男子は頷いた。

思っていたより、あっさりしている。

少しほっとしかけたけど、妙な感じもした。

気まずくしないように笑ってくれているのかもしれない。

でも、告白する前から、ほとんど表情が変わっていなかった。

 

「あの、それじゃ——」

 

「あ、待って。白瀬さんさ、この前の配信も見たんだけど」

 

「……はい」

 

「学校で話してる時と、結構違うよね」

 

何と答えようか、少し迷った。

そもそも、この人と学校で話した記憶がない。

私が誰かと話しているところを、見たことがあるのだろうか。

 

「そうですか?」

 

「うん。あとさ、ほかのメンバーと普段——」

 

まだ話が続きそうだった。

私は、廊下の時計を見た。

そろそろ戻って、午後の準備をしたかった。

 

「すみません。このあとも用事があるので」

 

「え、もう?」

 

「はい。失礼します」

 

軽く頭を下げ、教室へ戻る方へ足を向けた。

後ろから、ああ、うん、と返事があった。

ついてくる足音はしなかった。

ポケットの中のブザーへ、指が触れる。

使わずに済んだ。

それは、よかった。

ただ、さっきの笑い方が、少しだけ気になっていた。

 

————

 

角を曲がると、由佳は階段のそばではなく、少し手前の柱の横にいた。

スマホを持っている。

 

「由佳、終わっ——」

 

「真琴、こっち」

 

小さな声で言われた。

由佳が空いている手で私の袖を軽く引き、柱の陰へ寄せる。

 

「……何?」

 

「ちょっと待って」

 

スマホの向きは変わらなかった。

画面の中には、今歩いてきた廊下が映っている。

端に赤い印が見えた。

動画を撮っているらしい。

私がもう一度尋ねる前に、廊下の向こうで声がした。

 

「お前、マジで言ったんだ」

 

別の通路の陰から、男子が出てきた。

続いて、もう二人。

三人とも、さっきの男子のところへ向かっている。

 

「いや、言ったよ。お前ら見てただろ」

 

「見えたけど、何言ったかまでは聞こえねえし」

 

笑い声がした。

 

「どうだった?」

 

「普通に振られた。気持ちはありがたいけど、付き合えません、だって」

 

私が、さっき言った言葉だった。

それを口にした男子は、肩をすくめて笑っている。

周りの三人も笑った。

 

「そりゃそうだろ」

 

「でも、ちゃんと来たじゃん」

 

「な。これでアイドルに告ったって言えるわ」

 

また、声が重なった。

私は柱の横で立ったまま、その方を見ていた。

……何、それ。

振られて、友達に慰めてもらっているようには見えなかった。

誰かが男子の肩を叩く。

本人も、楽しそうに何かを返している。

由佳がスマホを下ろした。

向き直った時には、眉が寄っていた。

 

「……ごめん、真琴」

 

「……何が?」

 

「前に、ちょっと聞いてたんだ。あの人たちのこと」

 

声のする方から、少し離れる。

階段の踊り場まで戻ってから、由佳は話してくれた。

月曜日に、宮野くんから聞いたらしい。

私に告白してみようかと話している男子たちがいたこと。

付き合えれば嬉しいし、振られてもネタになると言っていたこと。

告白された時の反応が面白そうだと、笑っていたこと。

 

「宮野くんが、それを?」

 

「うん。やめとけって言ったら、冗談だって返されたらしいんだけど」

 

私は、さっきまで男子たちがいた方を見た。

ここからは、もう見えなかった。

 

「でも、宮野が教えてくれた名前は大野じゃなかったし。よく一緒にいるってだけで、同じこと考えてるとは限らないでしょ。私が直接聞いたわけでもないから」

 

「……そっか」

 

「先に言ったら、真琴も普通に返事しづらいでしょ。だから、そこは決めつけたくなかったんだけど」

 

由佳の声が、少し硬くなる。

 

「あれは、ないわ」

 

「……うん」

 

私は、もう一度廊下の方へ目を向けた。

あの男子が、断られたあとも笑っていた理由は、何となく分かった。

付き合えたら嬉しい。

断られても、アイドルに告白したという話が残る。

どちらに転んでも、仲間のところへ戻れば笑える。

それなら、私の返事をあまり気にしていなかったのも、不思議ではない。

 

前世でも、男同士で集まって、あとから考えれば何が面白かったのか分からない話で笑ったことはある。

誰かが調子に乗ると、周りも煽る。

一人だったらしないことも、その場では妙に面白いことになる。

そういう空気は、知らないわけではなかった。

……だからといって、わざわざ人を呼び出してやることではないと思うけど。

 

あの人たちが欲しかったのは、私の返事というより、自分たちの間で話せる出来事だったのだろう。

同じ学校の女子に告白するだけでは足りなくて、相手がアイドルなら、少し話が大きくなる。

私はいつも通りのつもりでも、向こうには、試してみる価値のある暇つぶしだったらしい。

そう考えると、随分と分かりやすかった。

分かりやすいから、感じが悪くなくなるわけではなかったけれど。

 

「……真琴、大丈夫?」

 

由佳に聞かれて、そちらを見る。

 

「うん。びっくりはしたけど」

 

相手が本気でも、そうでなくても、私の返事は変わらない。

付き合えない。

そう伝えたことを、後悔しているわけでもなかった。

あの時点では、本当に好きで来てくれた可能性もあったのだから。

変な笑い方をしているというだけで、こちらまで適当に返していいとは思わない。

ただ、何と言えばなるべく傷つけずに済むか、少しは考えた。

その言葉を、あの男子は友達に聞かせて笑っていた。

……そこまで含めて、面白かったんだな。

そう思うと、もう一度顔を見て話す気は、きれいになくなった。

 

「何がしたかったのかは、分かったから」

 

私が言うと、由佳は黙って続きを待った。

 

「でも……そんなに暇なら、自分たちだけで遊んでればいいのに」

 

口にしてから、自分で思っていたより冷たい声だったことに気づいた。

由佳は、少しも笑わなかった。

 

「ほんとだよ。真琴の昼休みなんだと思ってんの」

 

私は小さく頷いた。

それから、由佳の手元を見る。

 

「いつから、撮ってたの?」

 

「少し前。待ってたら、あっちで何人か、何度も顔だけ出してるのが見えて」

 

由佳が廊下の方を指した。

 

「真琴と話してるところは撮ってないよ。声も聞こえてなかった。あの人たちが覗いてるのを見て、何か残した方がいいかもって」

 

「……そうだったんだ」

 

「先生に見せよう」

 

私は顔を上げた。

 

「先生に?」

 

「うん。職員室行こ」

 

由佳はスマホの画面を消した。

すぐに私が動かなかったので、こちらを見た。

 

「真琴?」

 

「……そこまで、しなくても」

 

「私は、した方がいいと思う」

 

声は大きくなかった。

でも、迷っているようにも聞こえなかった。

 

「今回、何も言わないで終わったら、またやっていいと思われるかもしれないじゃん」

 

「……」

 

「真琴が毎回ちゃんと断って、それで終わりってことにされるの、嫌だよ」

 

私は、ポケットからブザーを取り出した。

小さな輪を指で持って、由佳へ返す。

 

「……先生に、話だけしてみる」

 

「うん」

 

由佳は受け取って、私が隣に並ぶのを待ってくれた。

 

————

 

杉浦先生は、職員室の自分の席にいた。

声をかけると、手元の紙から顔を上げた。

 

「どうしたの、二人とも」

 

「先生、少し相談したいことがあるんですけど」

 

由佳が言った。

先生は私たちを見比べ、頷いた。

 

「ここだと話しにくいこと?」

 

「……はい」

 

私が答えると、先生は席を立った。

案内されたのは、さっきまで弁当を食べていた生徒指導室だった。

同じ椅子へ座る。

テーブルの上には、もう弁当も水筒もなかった。

先生が向かいに座り、手帳を開いた。

 

「それで、何があった?」

 

由佳が、昼休みの出来事を話した。

私も、手紙のことや、実際に何と言われたかを付け足す。

先生は途中で何度か確認しながら、メモを取っていた。

 

「白瀬さん、腕をつかまれたり、行く手を塞がれたりはしてない?」

 

「それは、ありません」

 

「追いかけてきた?」

 

「いえ。それも」

 

「分かった」

 

先生は頷いてから、由佳へ顔を向けた。

 

「動画もあるんだね」

 

「はい」

 

由佳がスマホを出した。

 

「撮ったことは、相手には伝えてない?」

 

「……はい。隠れて様子を見てるみたいだったので。先生を呼びに行ってる間に、いなくなるかと思って」

 

「なるほど。告白していた時からではないんだね」

 

「それは撮ってません。待っている途中で、ほかの男子に気づいてからです」

 

先生は、その説明も書き留めた。

 

「校内の撮影については、月曜日に話したとおりだからね。今回は、どういう状況で撮ったのかも含めて確認したい」

 

「はい」

 

「ほかの人に見せたり、送ったりは?」

 

「してません。先生に見てもらおうと思って、そのまま来ました」

 

「分かった。じゃあ、見せてもらっていいかな」

 

由佳が頷いて、再生した。

小さくした音量でも、男子たちの笑い声は聞こえた。

 

『これでアイドルに告ったって言えるわ』

 

私は、机の端を見ていた。

自分の姿は映っていない。

声も入っていない。

それでも、さっき自分が答えた場面まで、一緒に流れているような気がした。

映像が止まると、先生はすぐに何かを決めつけるようには言わなかった。

 

「……これは、本人たちにも話を聞く必要があるね」

 

そのあと、由佳が宮野くんから聞いた話を説明した。

先生のペンが、また動いた。

 

「それは、宮野が直接聞いた会話なんだね」

 

「そう言ってました」

 

「分かった。宮野にも、別に確認するよ」

 

先生は私の方を見た。

 

「白瀬さんは、この話を知ったのは?」

 

「告白のあとです。由佳……佐伯さんと合流してから、聞きました」

 

「うん」

 

先生の声は、いつもより少し低かった。

怒鳴るような調子ではない。

一つずつ、同じ出来事について話しているか確かめているようだった。

 

「先生、こういうの、学校で注意してもらえませんか」

 

由佳が言った。

 

「ほかにも面白がってやる人が出てきたら、困るので」

 

先生が答える前に、私は少し迷ってから口を開いた。

 

「……あの、でも、私としては、もうあの人たちと関わりたくないんです」

 

二人がこちらを見た。

 

「学校で対応してもらえるのはありがたいんですけど、そのことでまた話題になるのも嫌で……」

 

由佳が、膝の上で手を握り直した。

 

「だからこそ、ちゃんと言ってもらいたいんだよ」

 

「……それは」

 

「一回で終わるか分かんないじゃん。今回、来てくれたって笑ってたし。アイドルを呼び出せるってこと自体も、笑いの種にされてるんだよ」

 

私は、少し黙った。

確かに、私があの人たちと関わらなければ、それで全部終わるとは限らない。

別の誰かが、同じことを面白がる可能性もある。

……そこまでは、考えていなかった。

 

「真琴、昼休みくらい休みたいでしょ」

 

由佳に聞かれて、頷いた。

 

「……うん」

 

「だったら、こういうので呼び出されるの、何回も付き合わなくていいよ」

 

先生が、静かに頷いた。

 

「佐伯さんの心配はもっともだと思う」

 

私へ向き直る。

 

「白瀬さんが大ごとにしたくないことも、分かった。ただ、今回何があったのかは、学校として確認させてほしい」

 

「……はい」

 

「告白したこと自体を叱るわけじゃないよ。相手をからかうために呼び出したのか、返事を仲間内で面白がるつもりだったのか。そこを確認したいんだ」

 

先生は一度、手を止めた。

 

「相手が白瀬さんじゃなくても、同じことだからね」

 

私は、少し考えてから頷いた。

何が面白かったのかは、何となく分かる。

でも、分かるからといって、やっていいことになるわけではない。

 

「……告白されたこと自体が、嫌だったわけじゃないんです」

 

「うん」

 

「お付き合いするつもりはありませんでしたけど、本気だったら、ちゃんと返事をしようと思って行ったので」

 

相手も勇気を出して来たのかもしれない。

そう考えて、言葉を選んだ。

それをあとから笑い話にされるのは、やっぱり感じが悪い。

 

「だから、ああいうふうに笑われたのは、正直、嫌でした。最初から遊びのつもりなら、呼び出さないでほしかったです」

 

「そうだね」

 

「でも、どういう人たちなのかは、もう分かりましたし……」

 

私は、少し言葉を探した。

 

「これ以上あの人たちのことで時間を取られるのも、あまり気が進まなくて……」

 

「そこは、私たちがすることだよ」

 

すぐに返ってきた。

 

「話してくれてありがとう。対応の仕方は、白瀬さんがどうしたいかも聞きながら考える。ただ、同じことが繰り返されないように、必要な確認はしておこう」

 

由佳が、隣で少し息を吐いた。

私も頷いた。

 

「……お願いします」

 

先生は手帳を見返した。

 

「相手のクラスの担任と、学年主任にも共有するね。宮野も含めて、それぞれから話を聞いて、指導が必要なら学校側がする」

 

「皆への注意も、してもらえますか」

 

由佳が聞いた。

 

「必要かどうかも含めて考えるよ。ただ、まずは事実を確認してからだね。注意するとしても、今回のことをそのまま皆に説明するつもりはない。白瀬さんのことで、余計に騒がれる形にはしたくないから」

 

少しほっとした。

あの人たちのことは、もう十分だった。

学校で何か対応してもらえるのはありがたいけど、そのせいで今度はほかの生徒から事情を聞かれたり、また話題にされたりするのは避けたかった。

先生は、私へ説明するように続けた。

 

「何をどこまで伝えるかは、関係の先生たちとも相談する。それから、白瀬さんに相手と直接話してもらうようなことも、勝手には決めないから」

 

「……ありがとうございます」

 

今さら、あの男子たちから何か説明してもらいたいわけではなかった。

謝ってもらうために、改めて顔を合わせたいとも思わない。

必要なことは先生たちに確認してもらって、できれば明日からは、いつもどおり学校で過ごしたかった。

 

先生は続けて、男子たちがスマホをこちらへ向けていた様子はなかったかと尋ねた。

私には分からなかった。

由佳にも、誰かが撮影していたかまでは見えなかったらしい。

 

「そこも確認するね。何か撮っていたり、誰かに送っていたりすれば、その対応も必要になるから」

 

先生は、由佳のスマホへ目を戻した。

 

「この動画は、受け取る方法をこちらで確認する。それまでは編集せず、そのまま残しておいて。ほかには送らないようにね」

 

「はい」

 

「これから何かあった時は、相手を追いかけて確かめようとせず、先生を呼んでほしい。二人で無理に対応しなくていいから」

 

私たちは揃って頷いた。

先生が壁の時計を見た。

午後の授業が始まる時間が、近づいていた。

 

「手紙は、今持ってる?」

 

「教室の鞄に入っています」

 

「あとで預からせてもらっていいかな」

 

「はい」

 

「それで、下駄箱に入っていたんだったね。ほかに、なくなっていたものや、変わったところは?」

 

私は、朝のことを思い返した。

 

「……ないと思います。上履きの上に、封筒が立てかけてあっただけで」

 

「わかった」

 

先生は、そのことも短く書いた。

 

「下駄箱の使い方も、一度教頭先生と相談してみようかな」

 

「下駄箱、ですか?」

 

「うん。白瀬さんの物を置く場所が分かっていて、そこへ自由に触れられる状態ではあるからね。今すぐ何か起きると言っているわけじゃないけど、保管の仕方を考える必要があるかもしれない」

 

なくなったものは、何もない。

それでも、先生は手紙だけの話をしているわけではなかった。

 

「学校の方から、ご家庭と事務所にも今回の経緯を伝えていいかな。安全に関わることは、一緒に考えた方がいいと思うから」

 

「……はい。お願いします」

 

「今日も、放課後はお仕事?」

 

「レッスンがあります」

 

「分かった。長く待ってもらわなくていいようにするから、帰る前に一度声をかけてね」

 

先生が手帳を閉じた。

立ち上がる時、由佳が先に椅子を戻した。

私も続く。

 

「ありがとうございました」

 

先生へ頭を下げてから、部屋を出た。

さっきは弁当を食べて、休むために使った部屋だった。

戻ってきて、また出ていくまでに、昼休みはほとんど終わっていた。

 

————

 

放課後、由佳と一緒に職員室へ寄った。

杉浦先生に封筒を渡す。

由佳も、先生に教えてもらった方法で動画を提出し、受け取れたことを確かめてもらった。

 

「関係する先生たちには伝えたよ。話はそれぞれに聞いているところだから、確認できたことは、また知らせるね」

 

「はい」

 

「学校で気になることがあったら、私がいなくても、ほかの先生に言ってくれていいから」

 

先生は、由佳にも顔を向けた。

 

「佐伯さんもね。二人だけで抱えないように」

 

「はい」

 

それから、下駄箱の話になった。

 

「教頭先生とも相談したんだけど、保管場所は事務所とも話して考えようと思う。決まるまでは、袋に入れて履物を教室へ持っていってもいいよ」

 

「……靴を、ですか」

 

「うん。毎日荷物が増えるから、不便だとは思うけど。ほかの方法がよければ、それも相談してほしい」

 

私は、足元を見た。

今朝も、上履きを履く代わりに、下駄箱へローファーを置いてきた。

それを持って教室まで行く。

大変なことではない。

ただ、そんなことを考えたことがなかった。

 

「……とりあえず、明日はそうします」

 

「うん。学校の方でも、ほかに使える場所を確認しておくね」

 

先生へお礼を言って、職員室を出た。

玄関まで、由佳が隣を歩いてくれた。

下駄箱を開ける。

ローファーは、朝置いたまま、左右を揃えてそこにあった。

手を伸ばしかけて、一度、中を見回した。

手紙はない。

ほかにも、変わったものは入っていなかった。

 

「……真琴?」

 

「ううん。何でもない」

 

靴を履き替え、鞄に入っていた予備の袋へ上履きを収めた。

いつもより、少しだけ鞄が膨らんだ。

 

————

 

FOLIOに着くと、レッスンの前に早川さんと話す時間を取ってもらえた。

岡崎さんを通じて、学校から連絡が入っていたらしい。

 

「学校での件は伺いました。先生方が確認を進めてくださっているそうです。こちらでも引き続き連絡を取りますね」

 

「はい。お願いします」

 

「今後、相手の生徒たちと直接話す必要はありませんから。何かあれば、学校や私たちに知らせてください」

 

「……はい。私も、もうあの人たちとは関わりたくないので」

 

「分かりました。その点も学校側と共有しておきます」

 

私は頷いた。

学校で先生に話したことで、今は十分だった。

早川さんは、手元のメモへ目を落とした。

 

「それと、履物の保管についても伺いました」

 

「明日は、袋に入れて教室まで持っていくことにしました」

 

「そうですね。決まるまでは、そうするのがいいと思います。毎日持ち運ぶのは手間ですから、別の保管場所を使えるかどうかも、学校と相談していきますね」

 

「下駄箱を変える、ということですか?」

 

「それも一つの方法です。ただ、同じ玄関で場所を少し変えるだけでは、履き替えているところを見れば分かってしまいます。鍵をかけられるか、誰が管理するかも含めて考えないといけません」

 

私は頷いた。

それから、少し迷って尋ねた。

 

「……靴を盗まれるかもしれない、ということですよね」

 

早川さんは、私の顔を見た。

 

「その可能性も考えておきたい、ということです。今回の男子生徒たちも、盗もうと思えば盗めていたわけですし」

 

「……そう、ですね。でも、靴なんて盗んでも……」

 

「白瀬さんの名前が知られるようになると、私物に関心を持つ人も出てきます。自分で持っていたい人だけではなく、『本人が使った物』として売ろうとする人の存在も、考えなければいけません」

 

「……実際に履いた靴だから、ってことですか?」

 

「そういうこともあり得る、という話ですね」

 

分からない話ではなかった。

前世でも、芸能人の私物に値段がつく話は見聞きしたことがある。

使った人が誰かというだけで、普通の品物ではなくなる。

そういう欲しがり方をする人がいることも、知っていた。

でも、自分が毎朝履いている靴に、その話がつながるとは思っていなかった。

 

机の下へ、視線を落とす。

特別な靴ではない。

毎日履いて、つま先に少し傷がついている。

私には、そろそろ磨こうと思うくらいのものだった。

それが、私が履いたからという理由で、誰かにとって欲しい物になる。

手紙を入れた人が、靴にも触れられたことを思い出した。

私が授業を受けている間、ローファーはずっとあそこにある。

どれが私の下駄箱かは、同じ学校の人ならすぐに分かる。

今まで、それで困ったことはなかった。

 

「……今までは、普通に置いてました」

 

思ったことが、そのまま口に出た。

早川さんは、すぐに頷いた。

 

「学校で決められた場所に置いていたんですから。それを白瀬さんが悪かったと思う必要はありません」

 

「でも、これからは、気にした方がいいんですよね」

 

「一人で全部気にしておくのではなく、安心して置ける方法を、学校と私たちで考えます。幸い、学校の方も協力的ですし、あちらから話を持ってきていただけたこと自体、ありがたいと思っているくらいですから」

 

私は、鞄の方を見た。

さっき入れた上履きの分だけ、形が変わっている。

 

「……お願いします」

 

「はい。負担になっていることも、遠慮せずに教えてくださいね」

 

早川さんが、いつもの声で言った。

私は頷いてから、鞄を持ち上げた。

レッスンへ行かなければいけない。

そのことを思い出すと、少しだけ、いつもの調子に戻れた。

 

————

 

家に帰ると、母にも学校から連絡が入っていた。

夕食のあと、話をして、明日から使う袋を出してもらった。

以前、上履きの持ち帰りに使っていたものだった。

特別に何かを買う必要はない。

 

「これなら、ローファーも入るよね」

 

「うん。ありがとう」

 

「困ったら、学校からでも連絡してね」

 

「……うん」

 

部屋へ戻り、袋を鞄の上へ置いた。

教科書を入れ替える。

明日の時間割を確かめ、課題も入れる。

いつもと同じ準備だった。

そこへ、一枚だけ袋が増えた。

スマホが震えた。

由佳からだった。

 

『明日はゆっくりお弁当食べよう』

 

私は画面を見て、少し笑った。

 

『うん。何か面白そうな映画、見つけた?』

 

返事は、すぐに来た。

 

『ある。来月公開予定のやつ。明日予告とかも見せる』

 

『楽しみにしてる』

 

送ってから、スマホを置いた。

昼休みに話す相手はいる。

先生も、早川さんも、対応を考えてくれている。

それは、ちゃんと分かっていた。

それでも、手紙が立てかけられていた上履きのことを思い出す。

あの場所に私の物があることは、私の名前を知っている誰かには、簡単に分かる。

見られることや、声をかけられることには、少しずつ慣れてきたつもりだった。

でも、私がいない間に置いてある物まで、気にしなければいけないとは思っていなかった。

袋を畳み直して、鞄のいちばん上へ入れる。

明日の朝、それを使うところを想像した。

靴を履き替えて、教室へ行く。

毎日していた、それだけのことなのに。

今は少し、気が重かった。

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