TS少女は演じたい 作:息抜き
「これからの育成内容を考えるために、一度、専門のトレーナーに見てもらいたいと思っています」
新人担当の人が、机へ資料を置いた。
四月も終わりに近づいた頃だった。
私はFOLIOの打ち合わせ室で、両親と並んで座っていた。
最近は一人でレッスンへ通うことがほとんどだったから、三人で向かい合って話を聞くのは少し久しぶりだった。
初めて来た時ほど落ち着かないわけではない。
それでも、いつものレッスンの連絡とは違うことくらいは分かる。
資料には、三人の名前があった。
高瀬直人。
鳴海亮介。
三枝朱里。
最後の名前を見て、少し安心した。
「身体とダンスを高瀬、声と歌唱を鳴海に、それぞれ直接確認してもらいます。三枝には、これまで継続して見てもらってきたカメラ表現について、現在の状態を確認してもらい、正式な所見としてまとめてもらいます」
担当の人は、資料の名前を順に示した。
「三人とも、FOLIOが外部からお招きして、専門的な指導をお願いしているトレーナーです。今回は、これまでのレッスン記録も見てもらったうえで、それぞれの専門分野から、真琴さんを詳しく見てもらいたいと考えています」
父が、資料から顔を上げた。
「これまで教えていただいていた内容を、別の先生に見てもらうということですか」
「はい。それに加えて、その場で指導もしてもらいます。どういう説明で動きや声が変わるか、教わったことをもう一度できるか。そこまで直接確かめてもらい、それぞれが専門としている分野での適性に関して、意見をもらう予定です」
私は、もう一度三人の名前を見た。
三枝さんが外部の先生だということは、最初のカメラテストの時にも聞いていた。
普段の新人レッスンを全部担当するような人ではないことも、彩花との話で少し分かっている。
今度は、他にも二人。
歌とダンスについても、その道の人が私を直接見て、教えたあとの変化まで確かめる。
まだ何の仕事をするかも決めていない私に、わざわざ時間を取ってもらう。
嬉しくない、といえば嘘になると思う。
ただ、資料に書かれた「身体・ダンス」と「声・歌唱」へ目を移すと、少し落ち着かない。
そこは、今までのレッスンでも、何度も止まっていたところだった。
「あの……歌とかダンスは、今までのレッスンでも、あまりできていないんですけど」
「はい。その記録も、先生方へ渡した上で見てもらおうと考えています」
すぐに答えが返ってきた。
分かっていて、その二人に見せるらしい。
「完成したものを見てもらうのではなく、どこが難しいのか、レッスンを受けてどう変わるかを確かめるためでもありますから」
「……そういうところも、見てもらうんですね」
「そうです。今の技術と、これから教えていけるかどうかは、分けて考えていますので」
できるものを用意してから呼ばれるのではなく、できていないところも見てもらう。
そういうことなんだろう。
理屈では分かる。
ただ、詳しく見てもらえると聞いて嬉しくなったばかりなのに、詳しく見られるのが少し怖い。
「歌やダンスを改めて見るということは、映像以外の活動も考えていらっしゃるんでしょうか」
母が聞いた。私も顔を上げる。
そこは気になっていた。
「今後の活動の幅を考えるための確認です。ただ、現時点で何か別の活動へ進んでいただくことが決まっているわけではありません」
担当の人は、私の方も見て続けた。
「映像方面で育成を続けたいという考えは変わっていません。ダンスや歌唱技術を持っていれば、映像方面でもその役者特有の武器になります。もちろん、それ以外の活動でも役に立つものです。それらを踏まえて、声や身体をどのように伸ばしていけるか、もう少し詳しく知りたいと考えています」
少し息が抜けた。
歌やダンスができなかったから他もダメとか、そんな話ではなかった。
「では、実際に受けたあとで、今後のことをまた相談する形ですか」
父の問いに、担当の人が頷いた。
「はい。結果をまとめてご説明します。レッスンの内容や活動の方向を変えるご提案がある場合も、ご本人とご家族へお話しし、ご家族で決めていただくことになります」
続いて、日程の説明になった。
学校のない日に、休憩を挟んで三人から順に指導を受ける。
その日のために、曲や振付を仕上げてくる必要はない。
持ち物は、いつものレッスンとほとんど同じだった。
父は終了予定を確かめ、母は、このあと通常のレッスン回数も増えるのかを聞いた。
今回の評価を入れる週は、他のレッスンも含めて調整するらしい。
費用はこれまでと同様に事務所側の負担。
撮影する映像や音声も、評価と指導のための内部記録だった。
ひと通り聞き終えたところで、担当の人が私を見る。
「真琴さんは、どうですか」
私は三人の名前へ目を戻した。
知らない先生に、できないところを見せるのは怖い。
でも、何ができて、何ができていないのかを、その人たちにも聞いてみたい。
「……受けてみたいです。できていないのは自分でも分かるんですけど、どこから直せばいいのかは、まだ分からないことが多いので」
「ご両親はよろしいでしょうか」
「……これを受けたから、何かがすぐに変わるというわけではないんですね?」
「はい。先程説明した通り、現状から何か変わることがあるならば、その際には必ず説明し、本人とご両親の同意の上で行います」
「それなら……紗江、いいな」
「……はい。そういうことなら」
「ありがとうございます。では、この方向で日程を調整させていただきます」
隣で、母が小さく頷いた。
打ち合わせが終わり、廊下へ出てから、私は母へ声をかけた。
「三人とも、結構すごい先生みたい」
「そうなの?」
「三枝さんは、前にも話したでしょ。他の二人も、ルミパレのレッスンを見ている人だって」
母が少し目を丸くした。
父も、私の手元の資料を見る。
「緊張するか?」
「うん。できないところを見てもらうって、説明されたんだけど……」
「それでも、できた方がいいとは思う、か」
「……思う」
父が少し笑った。
私は資料をファイルへしまった。
できなくてもよいと言われて安心したくせに、できたら褒めてもらえるだろうとも思っている。
せめて、何か一つくらい。
そんなことを考えながら、私は両親と一緒にエレベーターへ乗った。
————
数日後、私は鏡の前に立っていた。
着慣れた紺色のTシャツに、動きやすいパンツ。
室内用の靴も、もう新品ではない。
それなのに、高瀬直人先生が隣へ来ると、急に自分の立ち方が気になった。
「ダンスの経験は、ここでの体験だけか?」
「はい。短いステップを、何回か」
「分かった。じゃあ、基本的なところからやろう」
その声には、聞き覚えがあった。
ルミパレの練習動画で、画面の外から指示を出していた人だと思う。
私には十分きれいに見える動きを止めて、もう一度やらせていた。
今日は、その人の前で私が動く。
なかなか落ち着かない。
身体をほぐし、音に合わせて歩く。
決められた拍で止まる。
一つずつなら、それほど困らなかった。
困ったのは、足と腕と身体の向きを、一緒に変えるようになってからだった。
「次、短い動き。一度見せるから、そこで見てて」
先生が鏡へ向き直る。
左へ一歩。右足を寄せ、その足を斜め前へ出す。
身体の向きを変えて、腕を上げる。
十六まで数えたところで止まった。
短い。
これなら、順番くらいは覚えられそうだった。
もう一度見せてもらい、私もゆっくり動く。
足を出す場所と、腕を上げるところを確かめた。
そこまではよかった。
「じゃあ、音で一回」
音楽が始まる。
左へ動く。右足を寄せる。
その右足を前へ出す。
出す、はずだった。
少し遅れた。
取り戻そうとしたら、今度は向きを変えるのが遅くなった。
腕を上げる頃には、何拍目か分からなくなっていた。
音が止まる。
中途半端に上がった腕を、私は下ろした。
できていない。
自分でも、嫌というほど分かった。
「どこから分からなくなった?」
「右足を前に出すところが遅れて、そのあとが……」
「順番は?」
「分かります」
言ってから、言い訳に聞こえたかもしれないと思った。
でも、本当に分かっている。
頭の中なら、今でも順番を言える。
身体は、その順番を確かめている間に置いていかれていた。
先生は同じ動きをゆっくりやるように言い、右足を寄せたところで止めた。
「そのまま、右を出して」
出そうとして、身体が一度左へ戻った。
それから、右足が離れる。
「今、戻っただろう。寄せた時に、右へ少し体重を乗せてる」
私は足元を見た。
「この動きは、右を寄せても左に残す。そうすれば、次の右がそのまま出る」
先生が横で見せてくれる。
足を置いている場所は、私とそれほど変わらない。
でも、前へ出るまでに、余計な動きがなかった。
その動きを見て、前の身体レッスンで教わったことを思い出した。
足を動かすのが遅いんじゃなくて、その前の重心の置き方で、次の足が出せなくなることがある。
あの時は、そこまで分かったはずだった。
なのに今回は、足の順番と身体の向きと腕を一緒に追っているうちに、また置く場所だけを考えていた。
右足を寄せることは覚えていても、そのあとすぐ動かす足だというところまで身体では残せていなかったらしい。
「前にも、似たことを教わりました。次に出す足へ体重を残さないようにって」
「記録にもあったな」
先生が頷いた。
「足だけなら分かってる。でも、他の動きが入ると、そっちを追って戻ってる」
言われてみれば、その通りだった。
知らなかったわけではない。
分かったことを、別の動きの中でも使えるようにはなっていなかった。
「右足を速く出すんじゃなくて、その前に、出せる状態を残しておくんですよね」
「そう。じゃあ、それを意識して一回腕なし。足だけでやろうか」
正直、その方が助かる。
左へ踏み出す。右は寄せるだけ。
最初は左へ残すことを考えすぎて、上半身まで傾いた。
「身体を倒さなくていい。左足の上に乗るだけ」
「はい」
直してもう一度。右足が出た。
さっきまであった、一度身体を戻してから足を出す感じがない。
「あ、今は出せました」
思わず言うと、先生が頷いた。
「今のはできてた。もう一回」
もう一回も、できた。
前に教わったことなのに、できなくなっていたのは少し悔しい。
それでも、何が抜けていたのかが分かれば、もう一度直すことはできた。
「じゃあ腕も合わせて」
腕を合わせて試す。
すると、思った以上にすぐに崩れてしまった。
腕を上げる方へ意識が向くと、右へまた少し乗ってしまう。
それを気にすれば、今度は腕が遅れた。
先生が音を止める。
足だけならできたのに。
「今ので分かっただろう。重心そのものを知らないわけじゃない。別のことを一緒にやると抜ける」
「はい」
「だから次は一緒に使う練習。少し遅くするから、今できた足を変えないように」
説明には納得できた。
ただ、一つ分かったことが、そのまま何にでも使えるわけではないらしい。
足だけなら思い出せても、腕や身体の向きまで増えると、またどこかが抜ける。
自分の身体なのに、融通が利かない。
「今日はここまで」
しばらくレッスンを続けて、先生が音を止めた。
「自覚はあるだろうけど、ダンスの技術は、今は明確に初心者だ。基礎から積み上げる必要がある」
「……はい」
知っていたはずの言葉が、少し胸に引っ掛かった。
何か一つくらい、と考えて来たのだ。
そうではなかったことも、今日はちゃんと見えた。
「ただ、説明したところは変わった。最後も、自分で思い出して直せていた。見本だけで拾おうとするより、分からないところを確認して、動きの理由と一緒に覚えた方がいい。さっきみたいに」
「何度も聞いてしまったんですけど」
「その質問できちんと正しい動作に変わったんだ。必要な確認だよ」
私は頷いて先生へ改めてお礼を言った。
廊下へ出た途端、肩が下がる。
終わった。
そう思ってから、予定を思い出した。
まだ、一人目だった。
————
次は、声と歌だった。
鳴海亮介先生のそばには、キーボードとタブレットと、小さな録音機があった。
「お疲れさま。息は戻った?」
「はい」
「じゃあ、声を聞かせてもらおう」
これまでの発声のレッスンについて聞かれ、普段の声や、短い音を確かめるところから始まった。
キーボードの音を聞き、同じ高さで返す。
少し上がる。下がる。
短い旋律になっても、聞いた音は分かった。
「うん。音程は取れてるね」
ほっとした。
こちらなら、全部できないわけではなさそうだ。
そんなことを思ったところで、先生が譜面台へ一枚の紙を置いた。
短い練習用の旋律だった。
歌詞も難しくない。
一度歌ってもらってから、私も歌う。
音は、大きく外していないと思った。
歌い終わって、先生を見る。
「最後、もう一回」
私は紙へ目を戻した。
「音、違いましたか」
「高さじゃなくて、長さ。声が先に終わってる」
録音を聞かせてもらうと、本当にそうだった。
私の声がなくなったあとも、キーボードは鳴っていた。
言葉を言い終えたので、自分の中では終わったつもりになっていたらしい。
「ここまで声を残して」
先生が拍を示す。
やってみると、今度は息が足りなくなった。
最後の方だけ、声が薄くなる。
「出だしで使いすぎてる。最初からもう一度」
抑えると、今度は最初から弱くなった。
その次には少しよくなったけど、別の言葉でまた息を使った。
音程は合っている。
でも、それだけじゃ足りない。
しかも私は、先生に止められるまで、何が足りないのか分からなかった。
「声の使い分けも少し聞かせて」
先生が歌詞の一か所を指す。
「この『ありがとう』。まず、台詞として言ってみよう」
私は顔を上げた。
歌詞の意味は、『友達に助けてもらった。嬉しくて、ちゃんとお礼を言いたい』。
それなら分かる。
相手を見て、言葉の最初から嬉しさが伝わるように声を出した。
「ありがとう」
「……次は、同じくらい嬉しい。でも、相手は大したことをしたつもりがない。大げさに受け取らせたくない」
強く言いすぎない。
でも、ただの挨拶みたいに軽くもしない。
声を柔らかくして、語尾を相手へ残した。
「ありがとう」
「うん。今の使い分けはできてる」
胸の辺りが軽くなった。
これは、できる。
何を変えればよいかも、実際に何を変えたかも分かる。
「じゃあ、後の方の声で、旋律に乗せてみて」
「はい」
返事が少し早くなった。
同じ言葉を、今度は歌う。
指示された場所は、さっきと同じように柔らかく。
途中で声が細くなった。
先生の手はまだ拍を数えている。
最後まで続けようとして、力を足した。
声だけが不自然に強くなった。
先生の手が止まった。
今度は、聞き返さなくても分かった。
狙ったものではなくなっている。
「今、最後だけ声を戻したね」
「なくなりそうだったので……」
「柔らかくするために息を混ぜた分、長さを保てなくなった。声色は変えられる。でも、その声のまま歌うところまでは、まだできてない」
同じ言葉なのに。
台詞では、できたって言われたのに。
喋る時なら、言い方に合わせて少し短くできる。
語尾を落とすこともできる。
歌では、音の高さも長さも決まっていた。
声を変えても、そこは残さなければいけない。
「声を変えたあとも、決まった長さで出せないといけないんですね」
「そう。その二つを一緒に扱う技術が必要になる。声色を変えないで歌うという手もないわけではない。ただ、仕事としてどう歌うかまで扱うなら、声色を変えた時にも音程と長さを保てる土台が必要になる」
最初からできないことより、少し悔しかった。
使えるものを持ってきたつもりだった。
実際、持ってはいたのだろう。
ただ、歌にはそのまま使えなかった。
「じゃあ、この声の出し方は、まだしない方がいいんですか」
「声色を使い分ける感覚は、あとで生かせる。ただ、これで分かったと思う。今は、それを歌にする土台が先。基礎をしっかりと積んでいこう」
「……はい!」
指示された短い母音で声を出す。
相手にどう伝えるかも、今は考えない。
決められた長さで出して、終える。
その簡単そうなことも、毎回同じにはできなかった。
一度できると、次は出だしが強くなる。
長くしようとすると、終わりに力が入った。
先生は音を短くし、もう一度やらせた。
「まず、ここまで。さっきと同じ出だしで」
声を出す。止める。
今度は、終わりまで慌てずに済んだ。
「今のくらいを、まず安定させたい」
録音から聞こえてきたのは、特別な表情のない声だった。
嬉しそうでも、悲しそうでもない。
短い音型や、少し身体を動かしたあとの声も確かめてから、先生は手元へ書き込んだ。
「音程を取ることと、台詞の声を変えることはできてる。ただ、曲を使って歌い方を指導するには、その前に揃えたい基礎がある」
私は頷いた。
「歌い方を直すより、前なんですね」
「そう。まず呼吸と発声、音を保つこと。そこから順番にやっていく必要がある」
「……分かりました」
反論の余地がなかった。
正直、うまくできたとは言えない出来だろう。
先生は今日の内容を新人担当にも渡し、普段の発声レッスンと繋げて考えられるようにすると言ってくれた。
発声は演技でも重要だから、歌を扱うかどうかに関わらず、意識するようにってアドバイスとともに。
————
次の部屋のドアを開けると、カメラとモニターがあった。
三枝さんが、相手役のスタッフと立ち位置を確かめている。
それを見ただけで、ほっとした。
自分でも分かるくらい、はっきりと。
「お疲れさま。調子はどう?このままやれる?」
「はい。大丈夫です」
「そう。——前置きも必要ないわね。今日はこれを使いましょう」
三枝さんが、小さな紙袋を持ち上げた。
中には、淡い青色のハンカチが包まれていた。
「友達への贈り物。前に好きだと言っていた色を覚えていて、選んだもの。喜んでほしい。でも、いい返事をして、と催促はしたくない。台詞は相手役と確認して」
「はい」
相手役の女性スタッフと、短い台詞を確認する。
何をするのかが、頭の中へ入ってくる。
さっきまでの二つとは違った。
これならできるはず。
そう、安心してしまった。
……本当に、自分が分かりやすい。
紙袋の持ち手を握り直した。
今は、贈り物をする相手を見なければいけない。
「準備できた?」
「はい」
椅子に座り、相手へ紙袋を差し出す。
「これ。この前のお礼」
「え、いいの?」
「うん。見つけたから」
「開けてもいい?」
「どうぞ」
相手が包みを取り出した。
選んだ色は、合っているだろうか。喜んでくれるだろうか。
それを気にしているのが伝わるように表情を調整する。
その上で、相手の顔を見て、途中で一度、目を外す。
ずっと見ているのも、返事を求めているようだと感じたからだ。
「わ、これ、好きな色」
声を聞いてから、もう一度見る。
「よかった」
撮影が止まった。
「うん。何を気にしているかは分かる」
その言葉で、肩から力が抜けた。
「次は、もう少し相手に気軽に受け取ってもらいたい。渡すところと台詞はそのままで」
私はモニターを見た。
思っていたより、相手の顔を見ている。
一度目を外しても、すぐに戻っていた。
これでは、見られている方も気になるかもしれない。
「顔を見すぎてましたか」
「そうね。いい返事を待たれている感じが少しある」
「相手が下を向いてから、見るようにします」
「うん。ただ、カメラには喜んでほしい気持ちが残ってていい。それを意識して調整してみて」
「はい」
それも分かった。
気にしていない人にはしたくない。
ただ、相手に返事をさせるような見方だけを減らしたい。
椅子へ戻る。
渡し方と、声の大きさは変えなかった。
包みを取り出す相手へ笑いかけ、その人が手元へ目を落としたところで、顔を見る。
その間だけ、口元の力を少し抜く。
相手に見せるための笑顔ではなく、反応を待つ方へ戻す。
顔が上がる頃には、視線を手元へ移していた。
「わ、これ、好きな色」
そこで、相手を見る。
「よかった」
「はい、一旦止まって。白瀬さん、こっちに」
「はい」
二つの映像を続けて見せてもらうと、後の方は、返事を求めている感じが薄かった。
それでも、どうでもいい物を渡したようには見えない。
相手が下を向いている間だけ、気にしていることが分かる。
「今、何を変えた?」
「顔を見るタイミングです。相手に見られている時に待っていると、返事をしてほしい感じになるので。下を向いてから見ました」
「他は?」
「その時だけ、口元を少し緩めました。同じ笑顔のままだと、気にしていることまで見えにくいと思って」
三枝さんが映像を戻す。
その最中で私は、途中で画面を指した。
「でも、ここは、目を戻す動きが目立ってます」
「どうしてそう思う?」
「相手が上を見る前に、急いで外しているように見えるので。見られないようにしているのが、分かりやすすぎる気がします」
狙っていたことは出ている。
でも、そこだけ少し、用意した動きをしているようだった。
「直すならどうする?」
「相手の顔を見る時間を、もう少し短くします。戻すのを遅くするだけだと、相手に見つかる方へ変わってしまうので」
「それでやってみて」
「はい」
指示に従って、定位置に戻って演技を始める。
もう一度、紙袋を渡した。
全部をなくす必要はない。
相手を気にしていることは残す。
目を向けている時間だけを、少し減らす。
撮った映像を見て、三枝さんが頷いた。
「うん。今の方がいい」
嬉しかった。
どこを変えたいか分かる。
変えたあと、どうなったかも分かる。
しかも今回は、自分から直したいところを言えた。
「前より、説明が具体的になったね」
私はモニターから顔を上げた。
「最初から、何を変えたかはある程度言えていたでしょう。今は、狙ったものと実際に映ったものの違いまで話せる。修正も、その説明どおりにできてる」
「……ありがとうございます」
声が思っていたより明るく出てしまった。
————
そのあと、いったん紙袋を脇へ置き、写真のレッスンに切り替わった。
今度は台詞も、物を渡す動きもない。
椅子に座って姿勢を決め、そのまま視線や表情を少しずつ変えて、一枚ずつ撮ってもらう。
身体を斜めに向け、顔はカメラへ。
最初に何枚か撮ってから、三枝さんの指示に合わせて、顎の角度や口元を調整した。
落ち着いた表情から、もう少し親しみやすく。
次は、その柔らかさを残して、笑みだけを弱める。
指示通り、言われるがままにそう見えるだろうと私自身が感じる表情を調節していった。
モニターに並べてもらうと、ほとんど同じ姿勢なのに、ちゃんと一枚ずつ印象が違った。
「写真に関しては、顔はほとんど言うことなし。ただ、身体の向きや見せ方に関してはもっといい方法がある。ここを——」
————
何枚か撮って見比べたあと、スタッフの人が、脇へ置いていた紙袋を持ってきた。
今度は、先ほどの贈り物の芝居に戻るらしい。
私は相手役の人と向かい合い、紙袋を膝へ置いた。
写真の間はカメラへ向けていた視線を、目の前の人へ戻す。
「今度は、相手の間を変えます。返し方も少し変わるから、前と同じ秒数では待たなくていい」
「はい」
それも、分かっているつもりだった。
相手を見る。返事を聞く。
決めた時間で動かない。
前にも、教わっている。
私は椅子に座り、紙袋を渡した。
相手は、さっきよりゆっくり包みを開いた。
紙の端が引っ掛かり、指で直す。
私はその手元を見ていた。
青いハンカチが出てくる。
「あ、これ……」
そこで、間が空いた。
私は、ほんの少し笑った。
「はい、止めます」
三枝さんの声がした。
——やってしまった。
止められた理由を、聞く前に理解できてしまった。
「今、まだ喜ばれてないよね」
「……はい」
モニターの中の相手は、ハンカチを広げているところだった。
好きな色だとも、嬉しいとも、まだ言っていない。
私は、もう安心していた。
そういう芝居なら、悪いことではない。
だけど、今は違った。私が作ろうとしたのは、明確に安心しようとした反応だ。
大きく笑ったわけではない。
ほんの少し、口元が緩んだだけだ。
だから余計に、何をしていたのか分かった。
これは、喜んでもらえたあとに出すつもりだった顔だった。
「何が起きた?」
「……このあと喜んでもらう前提で、進めてました」
「相手は?」
「まだ、中を見ているところです」
「そうね」
また、先に顔を作った。
カメラテストの時から言われている。
さっき、よくなっていると言われたばかりなのに、同じことをしてしまっていた。
三枝さんは、映像を少し戻した。
「ここまでは、相手を見ている。ハンカチが出たところで、先の表情に進んでる」
「はい」
「どう見せるかを先に組み立てられるのは、強いところよ。だから、さっきみたいに一部分だけ変えられる」
画面が止まった。
「でも、相手がまだ反応を返していないものまで自分の用意した通りに進めたら、チグハグな演技になる。相手の芝居とずれていく。タイミングが合わなくなる」
私は頷いた。
相手が喜ぶ。私は安心する。
その流れを、先に作っていた。
実際の相手が何を見ているかより、そちらを使ってしまったのだ。
「台本であらかじめ表情を決め切ってしまう子にありがちなミスと、同じことが起きているの。白瀬さんの場合、少し大本が違うだけで結果は同じ」
「先の表情は、考えない方がいいんですか」
「考えたものを必ずそのまま使わなくていい、の方が近いかな」
三枝さんは言った。
「準備できることまでなくす必要はない。相手を見て、今それを使うのか、変えるのかを決めてほしいの。相手の反応を見て、貴方自身の演技をそれに合うように調整して欲しい」
どう返せば相手が安心するか。
どんな顔で待っていれば、その場をうまくやり過ごせるか。
そういうものを先に用意するのは、昔からしてきたことだった。
うまくいったものほど、次にも使いたくなる。
いちいち考える前に、顔がそうなっていることもある。
演技の世界では、それが役に立つ。
同じものが、邪魔になることもある。
「次は、包みが開いたところを合図にしないで、相手が何を見ているかを見ます」
三枝さんが頷いた。
「それでやってみましょう」
椅子へ戻る。紙袋を渡す。包みが開く。
相手はハンカチの端を指で広げた。
まだ、分からない。
色を見ているのか。
前に話したものだと気づいたのか。
思っていたものとは違うのか。
どんな反応が返ってくるかをしっかりと確認してから……
相手の指が止まった。顔が上がる。
「これ、覚えててくれたんだ。嬉しい」
思っていたのとは、少し違う返事だった。
色が好きだと言われるつもりでいた。
覚えていたことを喜ばれて、私は相手の顔を見た。
「よかった」
息が抜けた。
用意していた表情より、少しだけ笑った。
「はいストップ。今のは相手を受けてから変わってたね」
三枝さんが言った。
「どうだった?」
「待っている間、何かしないといけない気がしました。でも、見ているだけでも、気にしていることは分かるんですね」
「分かる。表情を足さないと何も映らないってわけではないから」
私は頷いた。
「それと、今日は何が早かったのか、自分で説明できたわね」
「同じところを、間違えたんですけど」
「そこはまだ練習が必要」
三枝さんは、曖昧にはしなかった。
「でも、分からないままやり直しているわけじゃない。自分で原因を見つけて、直せるところは増えてる」
「はい」
「今日のレッスンはここまで。それで雑感としては……カメラ表現については、やっぱり才能はあると思っています。そのうえで、二月より自分で扱えるものが増えてる。そこは、前より高く評価しています」
返事が、すぐには出なかった。
今日、一番聞きたかったのは、きっとそれだった。
「ありがとうございます」
少し遅れて、そう言った。
嬉しそうにしすぎない方がいいかと、一瞬だけ考えた。
でも、今は役をやっているわけではない。
三枝さんは私の返事を受け取ると、スタッフの人と残りの映像を確認し始めた。
————
着替えを終えると、新人担当の人が声をかけてくれた。
「お疲れさまでした。後日、先生方からの所見をまとめてお渡しします。今後のことは、もしも既存のレッスンから変更があるようであれば、改めてご連絡します」
「はい。ありがとうございました」
今日の結果が、どういう話へ繋がるのかは、まだ分からなかった。
ただ、自分では気づかなかったところを、いくつも見てもらった。
建物を出てから、母へ終了の連絡を送る。
すぐに返事が来た。
『お疲れさま。どうだった?』
三枝さんに、前よりよくなったと言われた。
まず、それを打ちかけた。
そのことが一番嬉しかったのは、間違いない。
歌とダンスは、正直そこまでうまくできたとは思えない。
それでも、あの時には先生が何を求めているのか少し分かった。
『難しかった。帰ったら話す』
そう送った。
全部できたわけではない。
難しかったことも多かった。
それでも、家で話す時にも、それはちゃんと話そうと思った。