TS少女は演じたい   作:息抜き

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8話

五月九日、土曜日。

鞄にレッスン着が入っていないと、ずいぶん軽かった。

忘れ物をしたような気がして、駅へ向かう途中でもう一度中を確かめる。ノートと筆記用具。前に渡された資料。スマートフォン。

今日は話を聞くだけなので、着替えも室内用の靴もいらない。

 

分かっているのに、少し落ち着かなかった。

 

「何か忘れた?」

 

隣を歩いていた母が聞いた。

 

「ううん。今日は荷物が少ないなって」

 

「いつもは靴まで持っていくものね」

 

母はそれだけ言って、歩く速さを戻した。

少し前を歩いている父は、駅前の信号を見ていた。

三人でFOLIOへ行くことも、初めてではない。先日、専門の先生たちに見てもらう説明を受けたときにも、こうして両親と一緒だった。

それでも、普段のレッスンへ向かう日とは違う。

担当の人から届いた連絡には、追加評価の結果と、今後の育成について相談したいと書いてあった。

高瀬先生と鳴海先生には、できないところをずいぶん見てもらった。

三枝さんには、前よりよくなったと言われた。

その全部を並べると、どういう話になるのだろう。

 

「緊張してるか」

 

信号で足を止めた父に聞かれ、私は少し考えた。

 

「ちょっと」

 

「そうか」

 

「先生たちには、色々言ってもらったんだけど。それをまとめてどうするのかは、まだ聞いてないから」

 

父が頷いた。

 

「じゃあ、そこを聞こう」

 

信号が青に変わった。

私は鞄の口を閉じて、二人と一緒に歩き出した。

 

————

 

案内された打ち合わせ室には、いつもの新人担当の人のほかに、男女が一人ずつ待っていた。

男性の方には、見覚えがあった。以前、レッスンの終わり頃に入ってきて、モニターの後ろにいた人だ。

 

「久世透です。真琴さんの映像は、二月から拝見しています。一度、レッスンにもお邪魔しましたね」

 

「はい。いらっしゃったの、覚えています」

 

「今日は、今後の活動について、私からもご提案があります。よろしくお願いします」

 

隣の女性も、こちらへ向き直った。

 

「マネジメントを担当している、早川理沙です。よろしくお願いします」

 

両親と一緒に挨拶を返し、席に着く。

私の前にも、これまでのレッスンの評価を要約した紙が置かれた。

 

「本日は、先日までの評価と、今後の育成についてお話しします」

 

新人担当の人が口を開いた。

 

「これまでと異なる活動の可能性も含みますが、この場で結論を出していただく必要はありません。資料を持ち帰って、ご家族でご検討いただければと思います」

 

父が頷いた。

私はノートを開く。

 

「まず、映像・演技方面の新人候補として、引き続き育成したいという考えは変わっていません。三枝……アイドルや俳優などのカメラ、演技指導を専門としている外部トレーナーからも、最初に確認したカメラ表現の強みが残っているだけでなく、自分で扱える範囲が広がっていると報告を受けています」

 

「……ありがとうございます」

 

返事をしてから、口元が緩んでいたことに気づいた。

この前、直接聞いていたことだ。

それでも、会社としても同じように見てもらえているのが嬉しかった。

 

「歌とダンスは、基礎から指導する段階です。現在の技術で仕事を任せられるという評価ではありません。ただ、説明を理解して修正できることは確認できました。その点も踏まえて、育成の方向を検討しました」

 

担当の人が、久世さんへ顔を向けた。

 

「そこからは、私がお話しします」

 

久世さんは、手元の資料を一度確かめた。

妙に溜めるな。

それから少しして、久世さんは顔をあげた。

 

 

「真琴さんを、Lumière(ルミエール) Palette(パレット)の追加メンバー候補として育成したいと考えています。今回お呼びさせていただいたのは、真琴さんに、現メンバー五人との合同レッスンに参加していただけないか、というご相談です」

 

私は、ペンを止めた。

 

すぐには、何も言えなかった。

知っている名前だった。聞き間違えるような名前でもない。

けれど、その前後についた言葉が、うまくつながらなかった。

 

「……ルミパレ、ですか」

 

「はい。追加メンバーの候補として、です」

 

隣で、母が資料から顔を上げた。

父も、久世さんを見たまま動かなかった。

 

「最初のお話とは、かなり規模が違いませんか」

 

「はい。違います」

 

久世さんは答えた。

 

「二月には、私も映像・演技方面の新人候補として見ていました。レッスンの記録を追う中で、新たに考え始めた可能性です。私はLumière Paletteの統括プロデューサーを務めており、その立場から、今回の提案をしています。早川は、同グループの現場統括マネージャーです」

 

私は、向かいの二人を見直した。

テレビで見ていた五人を、仕事にしている人たちだった。

その人が、五人のところへ私を呼ぶ話をしている。

母の指が、紙の端をつまんだまま止まっていた。

 

「ただ、今回お願いしたいことは、加入そのものではありません。まず、候補として参加するというのが、どういうことかをご説明します」

 

新しい資料が、一部ずつ私たちの前へ置かれた。

私はペンを置いた。

書きながらでは、聞けない気がした。

 

「参加していただいても、それでメンバーになるわけではありません。こちらが加入を決定したということでも、真琴さんに加入を約束していただくということでもありません」

 

久世さんは、私が顔を上げるのを待ってから続けた。

 

「今の五人と真琴さんの六人でレッスンをしながら、同じグループとして活動していけるかを、私たちも見ていきたいと考えています」

 

六人。

その数には、私の分が入っていた。

 

「技術面では、現在の実力だけでなく、指導を受けてどう伸びていくか。その成長も含めて、一緒に歌やダンス、表現を作っていけるかを確認します」

 

「でも、私は、まだ全然だって、トレーナーの先生方にも——」

 

「それも含めて、今後の成長を見込んでのご提案です」

 

しっかりと目を合わせて、そう言い切られた。

 

「それから、関係の面もあります。一緒に練習する中で、お互いを知って、分からないことを聞いたり、必要なことを伝え合ったりできるか。相談しながら活動を続けていけるか。そこは、実際にともに過ごしてみなければ分からない部分です」

 

私は小さく頷いた。

先生に教わるだけではない。

あの五人と、何かをする。

 

「真琴さんにも、この人たちと活動をしたいと思えるかを確かめていただきたい。候補から正式加入へと切り替えるには、技術的にも、関係的にもやっていけるとこちらが判断することと、ご本人が加入を望むこと。その両方が必要です」

 

母が、一度私を見た。

私はまだ、返せるものを持っていなかった。

 

「候補期間中の参加は非公開です。正式な所属や加入は、その先で改めてご相談します。また、参加したあとでも、中止したいと思ったときは、いつでもお申し出ください」

 

久世さんは、資料の一か所を示した。

 

「学校や体調の事情で続けられなくなった場合だけではありません。やってみて、自分はこの活動を望まないと思った場合も同じです。こちらの判断が出るまで続けなければならない、ということはありません」

 

「ご連絡は、真琴さんからでも、ご両親を通してでも大丈夫です」

 

早川さんが続けた。

 

「私でも、これまでの新人開発担当でもかまいませんので、いつでもお伝えください。次の面談まで待つ必要もありません」

 

私は説明された行へ目を落とした。

やめられる。それは分かった。

でも、それなら、今まで教えてもらったことはどうなるんだ。

アイドルと俳優だと、話が変わりすぎる。

 

「今回の候補への参加を断ったり、途中で中止を申し出たりしたことを理由に、FOLIOでの扱いが悪くなることはありません」

 

久世さんの声に、顔を上げる。

 

「その申し出を理由に評価を下げたり、育成の機会を減らしたりすることもありません。Lumière Paletteとの合同レッスンへの参加と、これまで確認してきた映像・演技の適性は、全く別の話です」

 

新人担当の人が、その言葉を引き取った。

 

「映像・演技方面の育成は、この提案を受けていただけることを条件にしたものではありません。候補としての参加を中止しても、真琴さんが希望されるなら、通常の映像・演技方面の育成を継続できます」

 

私は担当の人を見た。

今まで通っていたレッスンが、頭に浮かぶ。

今日の話を断ったら、それも全部なくなるわけではない。

 

「もちろん、そちらを続けるかどうかも、真琴さんが選べます。Lumière Paletteをやめるなら代わりに演技を続けてください、ということではありません。継続を望まなければ断って構いませんし、続けたあとで中止することもできます」

 

父が、該当する箇所へ線を引いた。

 

「二つの育成は、別に選べる。どちらについても、始めたあとで中止できるということですね」

 

「はい」

 

「分かりました。そのうえで、この提案の先に、どのような活動と生活を想定されているのかも聞かせてください」

 

父はペンを置いた。

母も頷いた。

私は二人の間で、ようやくペンを持ち直した。

 

————

 

「では、グループについてご説明します。皆さんは、Lumière Paletteについては、どの程度御存知ですか」

 

久世さんに聞かれ、私は両親を見てから答えた。

 

「最近、公式チャンネルを少し見ています。歌っているのと、練習しているのとか。番組も何本か」

 

「練習の動画もご覧になっているなら、話が早い。彼女たちの練習、レッスンは、概ねあのイメージで大丈夫ですので」

 

「はい。でも、全部追っているわけではないです」

 

母が口を開いた。

 

「私は、テレビで見かけるくらいです。最近よく出ているアイドルの方たちだな、という程度で」

 

「私も同じです。詳しい活動内容までは知りません」

 

父もそう答えた。

 

「ありがとうございます。では、そこからお話しさせていただきます」

 

新しく配られた資料には、五人の写真と名前が並んでいた。

小日向ひより。

橘美月。

神谷玲奈。

雨宮澪。

桜庭夏希。

公式サイトでも、公式チャンネルでも見たことのある顔だった。

 

「二〇二四年九月に、今の五人でデビューしました。歌とダンスを中心に、ライブ、番組、映像、個人の仕事を行っています」

 

久世さんは、写真を順に示した。

 

「リーダーの神谷玲奈は、歌、ダンス、進行をまとめる総合力があります。雨宮澪は歌唱と音楽表現、桜庭夏希はダンスと身体表現。小日向ひよりは、細かな振付や立ち位置を安定して再現する力で支えています」

 

母の目が、指の動きに合わせて写真の上を移った。

 

「橘美月は、写真や映像で目を引く華やかさと、初対面の相手とも会話をつなぐ力があります。得意分野は違いますが、全員が歌とダンスを担い、曲や場面に応じて中心になる人物も変えています」

 

美月さんがカメラへ顔を向けると、それだけで目が行ったことを思い出した。

一方で、練習動画では、ひよりさんと同じ動きを何度も確かめていた。

明るく映ることと、その前に練習することは、両方ある。

 

「橘と桜庭は、真琴さんと同じ高校三年生です。ほかの三人は大学生で、それぞれ学校と並行して活動しています」

 

早川さんの説明に、私は二人の写真を見た。

同じ高校三年生。

近く感じられるかと思ったけれど、そうはならなかった。

私が授業を受けて、ときどきレッスンへ通っている間にも、この二人は、あの動画の中にいた。

 

「テレビでご覧になっているような仕事以外に、ライブの準備、歌やダンスのレッスン、録音、撮影、取材、公式動画の収録があります。モデルや歌唱、番組出演など、個人の仕事もあります」

 

「学校が終わったあとの時間だけで、全部収まるわけではないですよね」

 

母が聞いた。

 

「はい。週末や長期休暇も使いますし、仕事によっては平日の日中に調整が必要になることもあります」

 

「公式動画も、かなり頻繁に出していたと、思うんですけど……」

 

動画投稿サイトの公式チャンネルは、毎日のように何かしらの動画が上がっていた。

バラエティ番組みたいな企画ものから、動画投稿を専業にしている動画投稿者がしているような一問一答形式の動画とか、普段の練習を最低限編集しただけとしか見えないものまで。

私が記憶を頼りに質問すると、早川さんが頷いた。

 

「まとめて収録したものや過去の素材を分けて公開しています。現状は毎日動画が出ていますが、毎日そのために撮影しているわけではありません」

 

「同じところを、何回もやっていますよね。最初は、もうできているように見えたんですけど」

 

「本番でも同じようにできるか、繰り返して確かめています。完成したところだけでなく、そこまでの練習も、確認したうえで公開しています」

 

早川さんはそう答え、久世さんへ視線を渡した。

 

「そして……こちらが、ライブの映像です」

 

モニターに、照明を浴びた五人が映った。

曲が始まると、一人の声を別の人が受け取り、その間にも並び方が変わっていく。

歌っている人だけを見ていると、ほかの四人を見逃す。

全員を見ようとすると、今度は顔が追えない。

途中で、客席が映った。

いくつもの光が揺れていた。

その一つ一つに、見に来た人がいる。

映像は一分ほどで終わった。

父は、モニターを見たままだった。

 

「この春は六都市を回るツアーを行いました。六月には、一公演八千席で、二日間の公演を予定しています」

 

「八千人が、一度に見るんですか」

 

母の問いに、久世さんが頷いた。

 

「はい。ただ、今回の提案は、その六月公演へ真琴さんを出演させるというものではありません。公演は現在の五人で準備しています」

 

私は、膝へ置いた手を握った。

そう言われたとしても、候補として育てるということは、この話を受けたら、いつかこういう場所に立つ可能性があるということだろう。

母が、五人の紹介へページを戻した。

 

「この五人で、もう二年近く活動しているところへ、この子が入る可能性を考えているんですね」

 

「はい。どなたかが抜けるための補充ではありません。初めから追加の枠を空けていたわけでもありません」

 

私は顔を上げた。

 

「だったら、どうして私なんですか」

 

「理由は、映像を使ってご説明します」

 

久世さんは、三人のトレーナーの所見を配ってから、画面を切り替えた。

先日、紙袋を持って相手役の人と向かい合っていた私が映った。

さっきまで五人の華やかなライブが映っていた画面に、自分が映っている。

同じモニターなのに、急に小さくなったように感じた。

 

「この課題は、友人への贈り物をする場面です。喜んでほしいがよい返事を催促したくはない、という条件で行っています」

 

最初の映像が流れる。

私が紙袋を渡し、相手の顔を見る。目を外して、また見る。

 

「最初はこちらです。続いて、三枝がもう少し気軽に受け取ってもらいたいと伝えたあとのものです」

 

次の映像では、相手が包みへ目を落としてから、私が顔を見た。

その間だけ、笑顔が少し弱くなる。

相手が顔を上げる頃には、視線が手元へ戻っていた。

 

「二つ目の方が、返事を待たれている感じが弱いですね」

 

父が言った。

 

「はい。ただ、どうでもいい物を渡したようにも見えない。相手には負担をかけず、見ている私たちには、喜んでほしい気持ちを残しています」

 

久世さんが、映像を止めた。

 

「真琴さんは、感情を大きくしたり小さくしたりするだけではありません。誰に、いつ、どのくらい見せるかを変えられる。それを、視線や呼吸、表情の小さな違いで作れます。さらに、このあと自分で、目を戻す動きが目立っていると指摘しましたね」

 

「……はい。見られないように、急いで外した感じになっていたので」

 

「直すためには、どうしましたか」

 

「顔を見る時間を短くしました。戻すのをゆっくりにするだけだと、相手に見つかる方へ変わって、指示の意図を果たせなくなるので」

 

久世さんが、最後の映像を再生した。

短くなった視線を、私も目で追った。

 

「説明と、実際の変化が一致しています。狙ったものと映ったものの違いを見つけ、必要なところだけ直せている。他を全部やり直さなくても、演出に合わせて調整できます」

 

父が少し身を乗り出した。

母は画面から私へ目を移し、それからまた画面へ戻した。

 

「これは、二月のカメラテストから継続して確認しています。同じ課題を覚えたという話ではありません。相手も台詞も、カメラの位置も変えて、それでも使えている。基礎を教わったことで薄れるのではなく、自分で説明し、直せる技術へ変わってきています」

 

私は、さっき置かれた評価資料へ目を落とした。

三枝さんの名前があった。

 

「……話を聞いているだけだと、なおさら俳優だけに専念した方がいいように感じますが」

 

「そうですね。社内でもその意見は出ました。ですので、そのうえで、なぜLumière Paletteなのか、ということです」

 

久世さんは五人の紹介資料を手元へ戻した。

 

「五人にも、撮られるときの表現力はあります。今の活動が成立しているのは、その力も含めて積み上げてきたからです。ただ、真琴さんのように、感情を細かく分けて、相手とカメラへ違う見せ方をし、その理由まで説明できることを、一番の強みにしている人はいません」

 

「……皆さんも、三枝さんに教わっているんですよね」

 

「その五人を継続して見ている三枝が、表情という一点に限れば、五人が参考にできるだけの説明もできると評価しています」

 

私は返事を忘れた。

五人が、私を参考にする。

今までとは、言葉の向きが逆だった。

 

「私が、ですか」

 

「はい。演技全般や身体の見せ方まで完成しているという意味ではありません。ただ、表情の細かな調整は、すでに真琴さんから持ち込める強みになっています」

 

言葉を失ってしまった。

同時に、その言葉を両親が聞いていることまで、急に気になった。

前の人生でも、人に頼りにされることはあった。

だけど、自分にしかないものがあって、そんな他人にはできないことを教えられる、なんて言われた覚えはなかった。

もっと聞きたいと思ってしまう。

まだ、怖い話の途中なのに。

 

「例えば、先ほどのライブ映像でも、歌っている本人だけが映るわけではありません。隣の人の歌をどう受けて、次に自分が何を返すか。視線や表情も、曲を届ける一部になります」

 

私は、歌い終えた人から別の人へカメラが移ったところを思い返した。

 

「その受け渡しに真琴さんの表現が入ると、同じ歌詞でも、違う感情のつながり方を作ることができる可能性があります。ミュージックビデオでは、短い場面の意味を担うこともできるかもしれない。五人の誰かに似た人を増やすのではなく、今とは違う表現を、六人で使えるようにしたいと考えています」

 

「……映像の方で育てるだけでは、できないことなんでしょうか」

 

父が聞いた。

 

「映像・演技だけで育てる道もあります。その選択が間違いだとは考えていません。ただ、五人の声や動きと一緒になったときに、真琴さん一人を撮るのとは違うものが生まれるか。それを確かめたいのです」

 

久世さんは、父へ向き直った。

 

「個人の映像や広告の仕事からグループを知る人が増え、逆に、グループから真琴さんの演技を知る人が増える。Project Palette……Lumière Paletteは、そのような広がりも期待しています。ただ、今は役や広告が決まっているわけではありませんし、外の仕事だけで価値を出してもらえばよいという話でもありません」

 

「グループそのものの活動で、役割を持てるかということですね」

 

「はい。歌とダンスを担いながら、その表現を使えるようになることが前提です」

 

私は、ノートの余白へ目を落とした。

カメラの前ですることが、歌やダンスの中でも同じようにできるのか。

それが課題だと突きつけられていた。

 

「さっきのは、座ってやったものです。歌ったり踊ったりしながらは、やってないです」

 

「はい。まだ、できると確認できていません」

 

「この前も、腕をつけただけで、足が分からなくなりました。歌も、声を変えたら続かなくて」

 

「その記録も見ています。高瀬と鳴海に確認をお願いしたのは、まさに、その先を育てられるか知るためでした」

 

久世さんは、二人の所見をこちらへ向けた。

 

「高瀬の評価は、動きを分けて原因を説明すれば、理解して直せるというものです。今回も、次に出す足へ体重を乗せていたと分かってからは、足だけの条件で直せた。終盤には、自分で思い出して修正していた」

 

そこまで、見られていたのか。

 

「別の動きと組み合わせても使えるか、別の日にもできるかは、これからです。今の技量が高いのではなく、どのように教えれば変わるのかが、具体的に分かった。それが、個別の基礎指導を組む根拠です」

 

私は、高瀬先生の名前の下を読んだ。

基礎から段階的に教えていくことは可能。

確かに、そう書いてあった。

 

「鳴海からも、音程を取ることには大きな問題がなく、呼吸と発声、音を保つ長さから教えていけると報告を受けています。台詞の声色を変える力はある。ただ、それを歌へ使える段階には至っていません」

 

母が、所見から顔を上げた。

 

「教えられるということと、五人と同じ仕事ができるようになることは、別ですよね」

 

「別です。必ず追いつけるという保証はできませんし、我々も、現時点での即時加入は認められないと判断しています」

 

母は、ゆっくり頷いた。

 

「一方で、今できないことだけを見て、育成をやめる段階でもない。本人が分からないところを質問し、説明を受けて修正できる。その方法が、不得意な分野でもできていることは確認できました」

 

久世さんは、一度言葉を切った。

 

「学ぶ姿勢だけなら、他にもよい新人はいます。歌やダンスを早く本番へ近づけるだけなら、経験者を選ぶ方が早いでしょう。それでも真琴さんを候補にしたいのは、基礎を身につけた先に、今の五人とは異なるものを持って立てる可能性があるからです」

 

私は顔を上げた。

 

「すでに確認できたカメラ表現の強みと、基礎から育てられるという歌・ダンスの評価。その二つが揃ったので、六人で成立するかを確かめる段階へ進みたいと考えました」

 

父が、しばらく黙っていた。

それから、二人の先生の所見と、三枝さんの所見を重ねずに並べた。

 

「……候補にするという判断の根拠は、分かりました」

 

私はその三枚を見た。

全部が同じくらいよいから選ばれたのではない。

一つを持っていくために、ほかを覚える。

自分に何を期待されているのかは、ようやく分かった。

分かったからこそ、向こうが本気でこの話をしていることも、分かってしまった。

だけど……

 

 

「でも、私、人に見られるのは苦手です。台本があったり、何をするか説明してもらえたりすれば、考えられるんですけど。普段から、自分を見てもらいたいと思っているわけではなくて……」

 

役として困るのと、本当に困っているところを見られるのは違う。

カメラへ向ける顔を考えられるからといって、何を思われても平気にはならなかった。

 

「そんな私が向いているなんて、正直、思えません」

 

久世さんが、少し首を傾けた。

 

「逆なのかもしれません」

 

「逆?」

 

「人に見られるのが得意ではないから、自分がどう見えるかを、よく考えてきたんじゃないですか」

 

返事が、出なかった。

幼い頃、大人に何かを聞かれて、隣の子が答えるのを待っていたことが浮かんだ。

答えは知っていた。前の人生で覚えたことだった。

ただ、この年の子供が、どんな言葉で話すものなのか分からなかった。

他の子の声の大きさや、笑うところを見て、自分も真似をした。

その後、見せない方がよいものや、人との距離も覚えた。

今では、いちいち選んでいるわけではない。

何を誰から覚えたのかも、もう分からないものの方が多い。

それは、自分でも自覚があることだった。

 

「……そうかもしれません」

 

久世さんは頷いた。

 

「ただ、それは、アイドルとしての生活を続けたいかどうかの答えにはなりません。ご本人の希望は、別に伺う必要があります」

 

母が、手元の資料を閉じた。

 

「才能を評価していただけたのは嬉しいです。実際に映像を見て、理由も分かりました。でも、この子ができるようになったら、それで心配がなくなる話でもありません」

 

「はい」

 

「今の五人を応援している方は、大勢いらっしゃるんですよね。そこへ、経験のない子が途中から入るとなれば……」

 

母が、言葉を選ぶように間を置いた。

 

「歓迎されるだけではないと思うんです」

 

久世さんは、五人の資料へ目を落としてから答えた。

 

「はい。それは我々も考慮しています。加入する段階まで進むなら、強い反発は想定しなければなりません。五人のままがよかったという方も、歌やダンスの経験が浅い真琴さんを加える理由に、納得できない方もいるでしょう」

 

強い反発。

私は、膝の上で指を組んだ。

私を知ってから嫌いになるのではない。

私が入ることそのものが、嫌だという人もいる。

 

「ファンの方々には、会社として、なぜ加入を提案したのかは説明します。今まで何を見てきたか、何を期待しているかを示すのは、こちらの責任です」

 

「でも、言われるのは、私ですよね」

 

口にしてから、自分の声の硬さに気づいた。

久世さんは、すぐには続きを言わなかった。

 

「真琴さん本人へ向く言葉はあると思います。会社が説明すれば、すべてなくなるとは言えません」

 

父の手が、机の上で止まった。

 

私は、前の人生の、誰かとテレビを見ていたときのことを思い出した。

画面の中の女の人について、顔が好みだとか、話し方が好きではないとか、そんな感想が行き来していた。

誰の番組だったかは、もう覚えていない。

ただ、本人がいないところで、気軽に言える感じは残っていた。

私も、その人が撮影を終えてから何を考えるのかまで、気にしたことはなかった。

言う側は、次の話題へ移れる。

聞こえた側が、同じ速さで忘れられるとは限らない。

お高くとまってる、付き合い悪い、男に媚びている。

昔投げつけられた言葉が、頭の中で反響する。

……今の私には、投げつけられる側の感覚も、分かってしまった。

 

「本人が受け止めるしかない、ということにはしないでいただきたいんです」

 

母が言った。

 

「大丈夫と言っていても、あとからつらくなることも、あると思います」

 

「その点は、こちらからも確認します」

 

早川さんが答えた。

 

「危険な投稿や個人情報を探す行為は、マネジメントと広報で対応します。本人が全部を確認したり、直接返したりする必要はありません。正式加入の段階になったならば、発表の前には、その対応と相談先も具体的にお伝えします」

 

「防ぎきれないものもありますよね」

 

今度は父が聞いた。

 

「はい」

 

「活動をやめても、知られた名前と顔を、知られる前には戻せません。学校も、進学する先もありますし、本人の周囲へも関心を持たれることがあるのではないですか」

 

私は父を見た。

二月にも、人に見られる仕事について心配された。

そのときより、ずっと具体的だった。

 

「公開後に、すべてを元へ戻すお約束はできません」

 

久世さんが答えた。

 

「非公開で確かめる期間を設けるのは、その前に本人が考えられるようにするためでもあります。公表へ進む前には、改めて意思を確認します」

 

父は、答えを聞いても動かなかった。

納得して心配がなくなった、という顔ではなかった。

母も、すぐに資料を開き直さなかった。

 

「演技の仕事でも、人に見られることは承知しています。ただ、初めからこれだけ知られているグループへ入るというのは、親として、簡単に勧められません」

 

私は、二人の顔を交互に見た。

普段なら、大丈夫だと何か付け足したと思う。

そんなに心配しなくてもいいと、二人が安心する言い方を探したかもしれない。

今日は、それができなかった。

私も、安心できていなかった。

 

「一度、休憩にしましょうか」

 

早川さんに聞かれ、私は頷いた。

 

「お願いします。少し、整理したいです」

 

————

 

水を飲んでから、ノートを見返した。

途中まで書いたままの行が、いくつもあった。

 

父も資料を読み返していた。

母は隣で、コップを両手に持っている。

 

「大丈夫か」

 

父に聞かれて、私は少し考えた。

 

「聞いてることは、分かる。でも、まだ決められない」

 

「今は決めなくていい」

 

「うん」

 

理解が追い付かないことが多すぎて、ふわふわして現実味がない。

今、全部が遠くなっていた。

でも、帰ったら学校の課題もあるし、来週も授業へ行く。

受験勉強もしないといけない。

それなのに、あんな規模の活動をしているグループの候補になるのか?

答えが返ってこない問いが、頭の中でグルグル回り続けていた。

 

————

 

休憩後は、早川さんが予定案を開いた。

 

「まず、候補期間のレッスンについてです。五人の本番用の稽古へ、そのまま入って、ついてこられるかを試すようなことはしません」

 

紙には、個別と合同の枠が分かれていた。

 

「個別に基礎を積みながら、その時点で取り組める課題を一緒に行います。六月の公演が終わるまでは、合同で行うものも基礎の部分が中心です。五人の公演準備は、別に確保する必要があるためです」

 

「皆さんが、教えてくださるんですか」

 

私が聞くと、早川さんは首を横に振った。

 

「教え合うことはあると思います。ただし、五人を講師の代わりにするつもりはありません。高瀬と鳴海……先日真琴さんを見ていただいたトレーナーの二人が指導方針を立て、通常の講師とも分担して進めます。カメラ表現は、三枝の確認も続けます」

 

「私ができなくて、何度も止まったら」

 

一度口を閉じ、続きを言った。

 

「皆さんの時間を使うことには、なりますよね」

 

「一緒に練習する以上、待ったり、やり直したりする時間はあります。そのうえで、何を一緒に行い、何を個別へ戻すかは、こちらで判断します」

 

私は、予定表へ目を落とした。

誰も待たせずに参加する方法は、ないのだろう。

 

「毎回、五人全員がいるわけではないんですね」

 

「はい。課題によって、少人数の枠も使います」

 

「メンバーには、何を一緒に確かめるのか、今どの段階なのかを説明します」

 

久世さんが続けた。

 

「本人たちの意見も聞きますが、五人に合否の採点をさせるわけではありません。練習を通して、やりにくいことや相談したいことがあれば聞いて、進め方を調整する予定です」

 

私は五人の写真を見た。

 

「五人には、このことは……?」

 

「まだ伝えていません。真琴さんの意志を先に確認し、同意が取れた場合に説明します」

 

動画では、相手が私を知らないまま、いくらでも見られた。

今度は、向こうも私を見る。

私に何かを尋ね、返事を待つ。

すぐにできるとは、思えなかった。

 

早川さんは、一週間の予定全体へ話を移した。

 

「今までの演技レッスンに、歌とダンスをそのまま足す形にはしません。残す内容と組み替える内容を、新人開発側と整理しています」

 

表には、学校からの移動と、帰宅するまでの時間もあった。

 

「大学には、行きたいです」

 

私は、顔を上げて言った。

 

「指定校推薦を目指して、駄目だったら一般を受けるつもりです。それは変えていません」

 

「分かりました。学校の成績も、受験の準備も必要ですね。分かっている試験や学校行事の日程から、確認させてください」

 

「……真琴が受ける前提で言っているのはともかく……学校へ出席できれば、それで両立できているとは言えません。家で勉強する時間も必要です」

 

父が言うと、早川さんが頷いた。

 

「はい。移動や、こちらから出す課題も含めて負荷を見ます。学校の負担が高い週は、減らす、休むことも含めて調整します。その管理は、私が責任をもって行わせていただきます」

 

私は持ってきていた学校の予定と、候補参加の案を並べた。

試験の前に印をつけ、まだ分からない予定は、分かり次第伝えることにした。

今までと同じクラスへ、同じ回数で通うわけではなくなるらしい。

彩花と顔を合わせる機会も、減るのかもしれない。

 

「まず六月の公演前後を見直しの区切りにします。技術の変化だけでなく、ご本人と五人の負担、学校との両立を確認して、その後の続け方を考えます」

 

久世さんの説明を、私はノートへ書いた。

 

そこから、参加条件の確認に移った。

候補期間には給与はないが、レッスン費用と交通費はFOLIOが負担する。

事故や保険、欠席連絡についても、参加書面で確かめた。

父が、一項目を指した。

 

「途中で中止したときに、それまでの育成費を請求されることはありませんね」

 

「ありません。育成にかかった費用を、真琴さんの借金として扱うことはありません」

 

父は、そこにも印をつけた。

自分では、聞く前にためらったと思う。

まだ参加するとも言っていないのに、やめるときの費用を尋ねていいのか、なんて。

聞いてくれて、正直助かった。

撮影の説明になったところで、私は口を開いた。

 

「練習動画、たくさん公開していましたよね。練習を撮ったものは、あとから動画に使うこともあるんですか」

 

「将来、使用を相談する可能性はあります。ただ、内部の記録と公開は別です」

 

早川さんが答えた。

 

「評価や指導のための撮影には参加書面で確認を取りますが、それで自由に公開できることにはなりません。使いたい場合は、用途と内容を説明し、編集したものも確認していただきます」

 

母が書面の該当箇所を読んで、頷いた。

一方で、私たちも、候補化やメンバーの非公開の予定を、友人に話したりSNS発信したりしないようにする必要があった。

当然、由佳にも彩花にも、今は伝えられない。

 

「レッスンが変わった理由を聞かれたら、どこまで話せますか」

 

「育成の内容が変わった、という範囲で大丈夫です。Lumière Paletteの候補であることや、一緒に練習している相手までは話さないでください。迷うことがあれば確認してください」

 

新人担当の人はそう答えた。

 

「困ったことをご両親やこちらの窓口へ相談してはいけない、という意味ではありません」

 

私は、連絡先の載ったページを確かめた。

歌やダンスを覚える時間だけが変わるのではない。

学校で何と答えるかも、帰ってから何をするかも変わる。

参加するなら、まずはそこからだった。

 

————

 

「ほかに、今の時点で聞いておきたいことはありますか」

 

説明が終わり、久世さんがこちらを見た。

母が資料を揃えてから答えた。

 

「一度、家で読み直したいです。本人とも、落ち着いて話をしたいので」

 

「はい。あとからのご質問が出た場合でも、遠慮なくお聞きください。こちらに記載されている番号であれば、電話でも対応させていただきます」

 

なぜ私なのか。

その答えは、聞けた。

でも、それを聞けば、どうするか決まるというわけではなかった。

 

「私も、家で考えてから返事をしたいです」

 

久世さんが私へ向き直った。

 

「できるかどうかを、もっと確かめたい気持ちはあります。でも、ルミパレでそれをやりたいかは、まだ答えられません」

 

私は、そこで一度息を吸った。

 

「候補として参加することも、今は決められないです」

 

「分かりました」

 

久世さんは、次の返事を求めなかった。

早川さんが、予定案の最初を示した。

 

「参加をご希望される場合、初回は来週の十二日を候補にしています。ただ、確認が終わらないまま始めることはしません。日程も含めて、ご相談ください」

 

「三日後ですね」

 

父が日付を確かめた。

 

「はい。必要なら、そこから調整します」

 

「分かりました。まず、持ち帰らせてください」

 

私は資料をファイルへ入れた。

参加条件の書面も、一緒に持ち帰る。

今日は、何も署名しなかった。

席を立ち、両親と頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

 

挨拶を返してもらって、部屋を出る。

来たときには、次に受けるレッスンのことを考えていた。

今は、その日付を手元に持っているのに、そこへ行くかを決められなかった。

 

————

 

帰り道では、しばらく三人とも黙っていた。

駅へ向かう人に交じって歩く。

信号で足を止めると、鞄の中でファイルの角が脇へ当たった。

私は持ち手を掛け直した。

 

「お父さん」

 

父がこちらを見る。

 

「反対?」

 

すぐには答えが返ってこなかった。

 

「今は、簡単に勧められるとは思っていない」

 

私は、視線を少し下げた。

 

「だが、反対だと頭ごなしに言うつもりもない。条件を聞いて分かったことと、まだ心配なことがある。真琴の話も、ちゃんと聞きたい」

 

母も頷いた。

 

「真琴は、どうだった?」

 

私は、返事を探した。

面談では、確かめたい気持ちはあると言った。

それは本当だった。

けれど、一番最初に動いたのは、もっと単純な気持ちだったと思う。

 

「……多分、嬉しかったんだと思う」

 

口にすると、少し喉が詰まった。

 

「五人が……もう人気もあるプロが参考にできるところもあるって言われたのが、嬉しかった。そんな風に考えてくれたんだって」

 

母は、途中で何も言わなかった。

 

「でも、不安もある。何も知らない人に、ずっと何か言われるかもしれないのも」

 

信号が変わった。

歩き始めると、二人も私の速さに合わせた。

 

「やってみたいのと、褒めてもらったから、もっとできるって思われたいのと、違いが、今はよく分からない」

 

自分でも、あまり格好のついた話ではないと思った。

それでも、違う理由を作って説明する気にはなれなかった。

母が、前を向いたまま言った。

 

「嬉しかったことは、嬉しかったでいいと思うよ」

 

私は隣を見た。

 

「それも含めて、帰ってから話そう」

 

駅の入口が見えてきた。

父が鞄へ目を向ける。

 

「資料、重いか」

 

「持てる」

 

答えてから、少し考えた。

 

「でも、一緒に読んでほしい。自分でもメモ書いたんだけど、抜けてるところがあると思うから」

 

「ああ」

 

母も頷いた。

私は鞄を持ち直して、二人と改札を通った。

今日もらった答えは、家へ持ち帰れる。

それを読んで、どうするかを決めるのは、これからだった。

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