Oh!クソ人生   作:村上しんご

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第一話 クソ人生

 小学生の頃、授業中にクソを漏らした。

 

 突然の爆音と共に漂う異臭──

 教室の誰もが青ざめ、鼻を摘まんだ。

 中には、悲鳴を上げて逃げ出す者までいた。

 

 穏やかだったはずの教室は、まるで突然の災害に襲われたかのように、一瞬でパニックに陥った。

 

 だが、僕は額から汗をダラダラと流しながら、素知らぬ顔で口笛を吹いた。

 それが、その時の僕にとって最善の選択だと思っていた。

 

 そして、付いたあだ名が『お漏らしくん』──。

 

 その日から僕は腫れ物のように扱われ、クラスの中で一人浮いた存在になった。

 

 こんな時に、なぜこれを思い出したのだろう。

 

 吊り橋から足を滑らせ、谷底へ真っ逆さま──。

 この高さから落ちてしまったからには、万に一つも助かる見込みはない。

 

 窮地に立たされると、時間の流れがゆっくりになるという。

 そしてその時、僕の頭の中を走馬灯のように駆け巡ったのは──よりにもよって、この出来事だった。

 

 そういえば──中学生の時、初めてできた彼女とのデートでも、僕はクソを漏らした。

 最後まで我慢しようと努力したが、やはり生理現象には勝てなかった。

 

 ──頬を赤く染めながら、緊張気味に僕の手を握る彼女。

 馴れないデートに緊張しているのか、片言の言葉しか交わしていない。

 なのに、嬉しそうなのがひしひしと伝わってくる。

 

 一方、その時の僕はそれどころではなかった。

 さっきから、決して出てはいけないものが、お尻の谷間から頭を覗かせたり、引っ込んだりしている。

 

 額からは脂汗がダラダラと流れ、顔面蒼白──必死になってトイレを探していた。

 それなのに、彼女はまったく気付いていない。

 

 迫りくるタイムリミット──

 

 足を一歩踏み出すだけで、便意が急激に込み上げてくる。

 本当は、一歩たりとも動きたくない。

 

 だが、彼女にこのことを知られるわけにはいかない。

 ここで漏らしてしまえば、すべてが終わる。

 

 もう少し──。

 あと少し歩けば、公園のトイレが見えてくる。

 

 景色がぐにゃりと歪む中、僕は必死になって前へ進んだ。

 この小さな森を抜ければ、希望が見えてくる。

 

 しかし──。

 

 人気のない木陰に入った途端、彼女は不意に足を止めた。

 

「……ね、ねぇ」

 

 僕の手を引き、彼女は恥ずかしそうに言った。

 頬は、さっきよりもずっと赤くなっている。

 

 何かお願いがあるのに、なかなか言い出せない──。

 そんな雰囲気がひしひしと伝わってくる。

 

 恋の進展の予感──。

 

 だが、今の僕はそれどころではない。

 限界など、とっくの昔に過ぎている。

 

 今、少しでも気を抜けば、確実に大惨事になるだろう。

 

 それなのに彼女は、辺りに誰もいないことを確認すると、ゆっくり僕の方を向いた。

 

 そして、軽く目を閉じ、僕に顔を近づけてくる。

 

 ゆっくりと迫ってくる、艶やかな唇。

 普段の僕ならば、飛びついていただろう。

 

 だが、今は頭の中が朦朧として思考さえも定まらない。

 プルンとしたピンク色のそれを呆然と見つめながら、心の中で呟いた。

 

(……も……もう……だめだ……)

 

 小鳥のさえずりが響く穏やかな昼下がり──。

 

 悪夢のような轟音が、突然あたりに響き渡った。

 同時に、鼻を摘まみたくなるような異臭まで漂い始める。

 

 その瞬間、うっとりしていた彼女の顔が、みるみる青ざめていった。

 目を見開き、まるで汚物でも見るかのような、引きつった表情。

 

 恋にときめいていた乙女の姿は、跡形もなく消え去った。

 

 僕の初恋は終わったのだ。

 

 その日の出来事は、瞬く間に学校中へと広まった。

 そして僕は、異性と付き合うどころか、まともに話しかけてもらうことすらなくなった。

 

 しかし、どうして僕は、こんな最後の瞬間まで、クソみたいな思い出ばかりが頭をよぎるのだろう。

 

 そういえば──高校の時、修学旅行の最中にも、我慢できずにクソを漏らした。

 

 クラスごとに分かれて乗り込んだバス──。

 

 それぞれのバスには一人ずつバスガイドが乗っていた。

 だが、その中に一人だけ、飛び切りの美女がいた。

 

 高校生だった僕から見ても、かなり大人びた雰囲気で、少し近寄りがたい感じもした。

 

 しかし、彼女は意外にも世話好きで、優しい人だった。

 

 ほんの僅かな時間を過ごしただけなのに、僕は瞬く間に惹かれ始めていった。

 ──いや、僕だけじゃない。

 

 クラスの誰もが彼女に憧れ、できればお近づきになりたいと思っていた。

 

 彼女に話し掛けられた奴は、みんな嬉しそうに顔を綻ばせる。

 そうでない奴らも、その目はキラキラと輝いていた。

 

 まるで、クラス全員が彼女の虜になってしまったかのようだ。

 

 そんな彼女のガイドで盛り上がるバスの中は、笑い声の溢れる和やかな雰囲気に包まれていた。

 だが、その時の僕はまたしても便意に襲われていた。

 

 この場の雰囲気を壊すまいと、何度も襲い来る波を必死に耐え、ここまで持ちこたえてきた。

 しかし、もう限界だった。

 

 小学生の頃や中学の頃の、あんな悪夢はもう味わいたくない。

 やっと、『お漏らしくん』というあだ名から解放されたところなのだ。

 

 あの噂に付き纏われ続けた僕は、高校進学の際、遥か遠くの学校を選んだ。

 

 誰も知らないところに行けば、クソとは無縁の生活が送れる。

 明るい未来が待っている──そう思っていたのだ。

 

 そこまでしたのに、こんなところで台無しにはしたくない。

 僕は最後まで躊躇ったが、意を決して立ち上がった。

 

「あの……すみません。……トイレに寄って下さい!」

 

 突然立ち上がった僕に、バスガイドの彼女が心配そうに近付いてきた。

 

「お腹が痛いの? ……大丈夫?」

 

 かなりの美人でありながら、そんな優しさまで兼ね備えた彼女。

 青ざめた僕を見て、本気で心配してくれているのがひしひしと伝わってくる。

 

 バスの中の誰もが、僕を羨ましく思っただろう。

 

 しかし──。

 

「ごめんね。……今、PAを過ぎちゃったばかりなの。……この渋滞だと、次のPAまで……」

 

 その言葉を聞いた瞬間、僕の思考が停止した。

 そして、次の言葉で──。

 

「一時間ぐらいかなぁ~」

 

 僕は口から泡を吹いた。

 

「だ、大丈夫!?」

 

 心配した彼女が駆け寄り、僕の背中を擦る。

 

(だ、ダメだ! 触らないでくれ!)

 

 だが、今の僕にとって、身体への刺激は死刑宣告にも等しかった。

 

 誰もが僕を羨望の眼差しで見つめる中、そのすべてを台無しにする忌まわしい大音響が響き渡る。

 

 同時に、バスの中へと広がっていく汚臭──。

 思い出を育むはずだった修学旅行は、たちまち地獄と化した。

 

 結局、高校を卒業しても、お漏らしとは縁を切ることができなかった僕は、逃げるように海外の大学へ進学した。

 

 そして心機一転、新たな人生を始めようと入った登山部──。

 

 その活動中、僕は吊り橋から足を滑らせた。

 

 普段なら、こんなところで足を滑らせたりはしない。

 だが、その時の僕は、またしても便意に襲われていた。

 

 落下の最中でさえ、漏らしてはならないと必死に踏ん張っている。

 

 最後の最後に、そんな痴態を晒してしまったら──。

 墓標に『お漏らしくん』という文字が刻み込まれてしまう。

 

 なにより、このせいで僕の人生はクソみたいなものだった。

 

 死んでしまってからまで、そんな汚名を着せられたくはない。

 

 急速に落下する身体に、風が激しく吹き付ける。

 それでも胸に募るのは、恐怖よりも虚しさだった。

 

 結局僕は、どんなに手を尽くしても、クソから逃げ切れなかったのだ。

 

 もうすぐ地面に叩きつけられる。

 

 これで、すべてが終わる。

 

 ──そう思った瞬間だった。

 

 谷底に、大轟音が響き渡った。

 

 そして僕は──最後の最後で、クソを漏らした。

 

 

 

 

 

 

              END

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