誰もがそれに憧れ、求めているのに人生は思い通りにはならない。
人生なんて、案外こんなものなのかも知れない。
小学生の頃、授業中にクソを漏らした。
突然の爆音と共に漂う異臭――
教室の誰もが青ざめ、鼻を摘まんだ。
中には、悲鳴を上げて逃げ出す者までいた。
穏やかだったはずの教室は、まるで突然の災害に襲われたかのように、一瞬でパニックに陥った。
だが、僕は額から汗をダラダラと流しながら、素知らぬ顔で口笛を吹いた。
それが、その時の僕にとって最善の選択だと思っていた。
そして、付いたあだ名が『お漏らしくん』――。
その日から僕は腫れ物のように扱われ、クラスの中で一人浮いた存在になった。
こんな時に、なぜこれを思い出したのだろう。
吊り橋から足を滑らせ、谷底へ真っ逆さま――。
この高さから落ちてしまったからには、万に一つも助かる見込みはない。
窮地に立たされると、時間の流れがゆっくりになるという。
そしてその時、僕の頭の中を走馬灯のように駆け巡ったのは――よりにもよって、この出来事だった。
そういえば――中学生の時、初めてできた彼女とのデートでも、僕はクソを漏らした。
最後まで我慢しようと努力したが、やはり生理現象には勝てなかった。
――頬を赤く染めながら、緊張気味に僕の手を握る彼女。
馴れないデートに緊張しているのか、片言の言葉しか交わしていない。
なのに、嬉しそうなのがひしひしと伝わってくる。
一方、その時の僕はそれどころではなかった。
さっきから、決して出てはいけないものが、お尻の谷間から頭を覗かせたり、引っ込んだりしている。
額からは脂汗がダラダラと流れ、顔面蒼白――必死になってトイレを探していた。
それなのに、彼女はまったく気付いていない。
迫りくるタイムリミット――
足を一歩踏み出すだけで、便意が急激に込み上げてくる。
本当は、一歩たりとも動きたくない。
だが、彼女にこのことを知られるわけにはいかない。
ここで漏らしてしまえば、すべてが終わる。
もう少し――。
あと少し歩けば、公園のトイレが見えてくる。
景色がぐにゃりと歪む中、僕は必死になって前へ進んだ。
この小さな森を抜ければ、希望が見えてくる。
しかし――。
人気のない木陰に入った途端、彼女は不意に足を止めた。
「……ね、ねぇ」
僕の手を引き、彼女は恥ずかしそうに言った。
頬は、さっきよりもずっと赤くなっている。
何かお願いがあるのに、なかなか言い出せない――。
そんな雰囲気がひしひしと伝わってくる。
恋の進展の予感――。
だが、今の僕はそれどころではない。
限界など、とっくの昔に過ぎている。
今、少しでも気を抜けば、確実に大惨事になるだろう。
それなのに彼女は、辺りに誰もいないことを確認すると、ゆっくり僕の方を向いた。
そして、軽く目を閉じ、僕に顔を近づけてくる。
ゆっくりと迫ってくる、艶やかな唇。
普段の僕ならば、飛びついていただろう。
だが、今は頭の中が朦朧として思考さえも定まらない。
プルンとしたピンク色のそれを呆然と見つめながら、心の中で呟いた。
(……も……もう……だめだ……)
小鳥のさえずりが響く穏やかな昼下がり――。
悪夢のような轟音が、突然あたりに響き渡った。
同時に、鼻を摘まみたくなるような異臭まで漂い始める。
その瞬間、うっとりしていた彼女の顔が、みるみる青ざめていった。
目を見開き、まるで汚物でも見るかのような、引きつった表情。
恋にときめいていた乙女の姿は、跡形もなく消え去った。
僕の初恋は終わったのだ。
その日の出来事は、瞬く間に学校中へと広まった。
そして僕は、異性と付き合うどころか、まともに話しかけてもらうことすらなくなった。
しかし、どうして僕は、こんな最後の瞬間まで、クソみたいな思い出ばかりが頭をよぎるのだろう。
そういえば――高校の時、修学旅行の最中にも、我慢できずにクソを漏らした。
クラスごとに分かれて乗り込んだバス――。
それぞれのバスには一人ずつバスガイドが乗っていた。
だが、その中に一人だけ、飛び切りの美女がいた。
高校生だった僕から見ても、かなり大人びた雰囲気で、少し近寄りがたい感じもした。
しかし、彼女は意外にも世話好きで、優しい人だった。
ほんの僅かな時間を過ごしただけなのに、僕は瞬く間に惹かれ始めていった。
――いや、僕だけじゃない。
クラスの誰もが彼女に憧れ、できればお近づきになりたいと思っていた。
彼女に話し掛けられた奴は、みんな嬉しそうに顔を綻ばせる。
そうでない奴らも、その目はキラキラと輝いていた。
まるで、クラス全員が彼女の虜になってしまったかのようだ。
そんな彼女のガイドで盛り上がるバスの中は、笑い声の溢れる和やかな雰囲気に包まれていた。
だが、その時の僕はまたしても便意に襲われていた。
この場の雰囲気を壊すまいと、何度も襲い来る波を必死に耐え、ここまで持ちこたえてきた。
しかし、もう限界だった。
小学生の頃や中学の頃の、あんな悪夢はもう味わいたくない。
やっと、『お漏らしくん』というあだ名から解放されたところなのだ。
あの噂に付き纏われ続けた僕は、高校進学の際、遥か遠くの学校を選んだ。
誰も知らないところに行けば、クソとは無縁の生活が送れる。
明るい未来が待っている――そう思っていたのだ。
そこまでしたのに、こんなところで台無しにはしたくない。
僕は最後まで躊躇ったが、意を決して立ち上がった。
「あの……すみません。……トイレに寄って下さい!」
突然立ち上がった僕に、バスガイドの彼女が心配そうに近付いてきた。
「お腹が痛いの?……大丈夫?」
かなりの美人でありながら、そんな優しさまで兼ね備えた彼女。
青ざめた僕を見て、本気で心配してくれているのがひしひしと伝わってくる。
バスの中の誰もが、僕を羨ましく思っただろう。
しかし――。
「ごめんね。……今、PAを過ぎちゃったばかりなの。……この渋滞だと、次のPAまで……」
その言葉を聞いた瞬間、僕の思考が停止した。
そして、次の言葉で――。
「一時間ぐらいかなぁ~」
僕は口から泡を吹いた。
「だ、大丈夫!?」
心配した彼女が駆け寄り、僕の背中を擦る。
(だ、ダメだ! 触らないでくれ!)
だが、今の僕にとって、身体への刺激は死刑宣告にも等しかった。
誰もが僕を羨望の眼差しで見つめる中、そのすべてを台無しにする忌まわしい大音響が響き渡る。
同時に、バスの中へと広がっていく汚臭――。
思い出を育むはずだった修学旅行は、たちまち地獄と化した。
結局、高校を卒業しても、お漏らしとは縁を切ることができなかった僕は、逃げるように海外の大学へ進学した。
そして心機一転、新たな人生を始めようと入った登山部――。
その活動中、僕は吊り橋から足を滑らせた。
普段なら、こんなところで足を滑らせたりはしない。
だが、その時の僕は、またしても便意に襲われていた。
落下の最中でさえ、漏らしてはならないと必死に踏ん張っている。
最後の最後に、そんな痴態を晒してしまったら――。
墓標に『お漏らしくん』という文字が刻み込まれてしまう。
なにより、このせいで僕の人生はクソみたいなものだった。
死んでしまってからまで、そんな汚名を着せられたくはない。
急速に落下する身体に、風が激しく吹き付ける。
それでも胸に募るのは、恐怖よりも虚しさだった。
結局僕は、どんなに手を尽くしても、クソから逃げ切れなかったのだ。
もうすぐ地面に叩きつけられる。
これで、すべてが終わる。
――そう思った瞬間だった。
谷底に、大轟音が響き渡った。
そして僕は――最後の最後で、クソを漏らした。
END