朝の澄み切った空気が、昇ったばかりの朝日に照らされ、綺麗に輝いて見える。
昼間の慌ただしい人の波も、騒がしい車の音も、今はない。
商店街のシャッターは軒並み閉まり、聞こえてくるのは小鳥たちのさえずりだけだ。
風を切りながら、僕はいつもの道を走っていた。
日課として始めたランニングも、気が付けば一年になろうとしていた。
僕の人生は、まさに順風満帆──。
大企業にも就職し、まさに勝ち組の人生を歩もうとしていた。
しかし──。
今朝飲んできた牛乳がまずかったのか、どうにもお腹の調子がおかしい。
ギュルギュルギュルギュルと音を立て、時折、強烈な痛みが下腹部を走る。
定期的に襲ってくる便意の波は、時間が経つにつれて、徐々に間隔が短くなっていた。
お腹を押さえながら必死にトイレを探すものの、ここは街中。
近くに公衆トイレはない。
三十分も走れば、一番近い公園には辿り着ける。
だが、そこまではとても持ちそうになかった。
この界隈には、二十四時間営業している飲食店もコンビニもない。
この時間でも開いているのは、大きな警察署と救急病院くらいだ。
なんとか頭を働かせ、懸命にこの危機を回避しようとした。
(両方とも、事情を話せば貸してはくれるだろう。……だけど、もしそこで悲惨な結果になれば……)
そんなことを考えると、どうしても気持ちが躊躇してしまう。
どちらも、夜勤の人間や、そこを訪ねてきた人間が大勢いるだろう。
エリートの僕が、そんな姿を公衆の面前で晒すわけにはいかないのだ。
僕は今まで、スマートに──そしてカッコよく生きてきたのだから。
そんなことを考えていると、十三回目のピークが下腹部を襲った。
(うっ! ……も、もう時間がない!)
なんとか走り続けていたが、ついに限界が来た。
これ以上は、少しでも衝撃が加われば、中身が出てしまうだろう。
それを阻止するためには、内股になって、そろりそろりと歩くしかない。
幸い、この時間帯に人が歩いていることなど滅多にない。
そう思っていた、その時だった。
「おはようございま~す!」
全くの無警戒だった。
その女性は、前でも後ろでもなく、ビルとビルの隙間から突然現れた。
しかも、犬を連れた若い女性だった。
一目散に逃げ出したい。
だが、もうそんなことができる状況ではない。
「……お……おはようござぁいまぁ~す」
上ずった声で、必死に引きつった笑顔を浮かべる。
それを見た瞬間、彼女の顔が曇り始めた。
「……だ、大丈夫ですか?」
「……な……なにが、ですかぁ?」
僕は必死に冷静を装っていた。
だが、彼女の声は遠くから響いてくるように聞こえ、目の前の景色はすべて、ぐにゃりと歪んでいる。
頭の中にあるのは、今にも突発的に出てこようとするものを、必死に押さえ込むこと──ただそれだけだった。
会話など、もはや無意識。
「……か、顔が……真っ青ですよ……」
しかし、彼女がそう言った時、ピークはあっさりと過ぎ去った。
「大丈夫。……少し、気分が悪くなっただけです」
これなら、なんとか耐えられる。
この隙にトイレを確保できれば、一安心だ。
だが、目の前の彼女が僕に向けた表情は、まるで不審者を見るようなものだった。
一歩ずつ後ずさりしながら、引きつった笑顔を浮かべている。
挙動不審な僕を、明らかに警戒しているのだ。
──もう、すでに手遅れだった。
そんな僕の様子を見て、連れていた子犬まで「グルルグルル」と低く唸り始めた。
「そ……そうですか。……では、私はこれで」
彼女はそう言うと、唐突にこの場を立ち去ろうとする。
このままでは、勘違いされたまま逃げられてしまう──
だが、イケてる僕のプライドが、それを許すはずがなかった。
「ちょ……ちょっと待ってください!」
彼女を引き留めようと、思わず大きな声を上げる。
しかし、その瞬間──。
過ぎ去ったはずのピークが、またしても下腹部を襲った。
「な、なんですか?」
僕の声に驚き、彼女は青ざめた顔で振り返る。
最初に挨拶を交わした頃の、和やかな雰囲気はもう完全に消え失せていた。
それもそのはずだ。
額からダラダラと汗を流し、引きつった顔でニヤニヤと笑う。
今の僕に、いつもの爽やかさなど微塵もないのだから。
「……家は……ち、近くですか……?」
普段の僕なら、こんなことを初対面の女性に聞いたりはしない。
しかし、もうダメだ。
それをなんとか食い止めていたダムは、もう決壊寸前だ。
考えがまとまらないどころか、意識すら遠のいていく。
ここで倒れたら──
次の瞬間には、爆音と共にクソを漏らしてしまうだろう。
そして呼ばれた救急隊にも、その情けない姿を見られることになる。
薄れゆく意識の中、僕は人生最大の勝負に出たのだ。
「……な……何を、考えているんですか?」
しかし、決死の覚悟を決めた僕を見て、彼女は明らかに怯えていた。
当然と言えば、当然だろう。
今日、初めて会った男が──
切羽詰まった様子で、自分の住まいを聞き出そうとしているのだ。
しかも、目の前の男は明らかに様子がおかしい。
そんな相手に、自宅を素直に教える人間など、そうはいないだろう。
「と……トイレ……」
だが、僕は最後の気力を振り絞って言った。
もう、プライドなど何の役にも立たない。
「トイレを貸して欲しい」──ただ、それだけを正直に伝えるつもりだった。
しかし、意識のすべてが便意に集中していて、まともな言葉が出てこない。
「と……トイレ!? ……トイレに連れ込んで、何をするつもりなの!?」
それを聞いた彼女は、ますます勘違いし、戦闘態勢に入っていった。
吊り上がった目で僕を睨み、ファイティングポーズを取る姿には、先ほどまで心配してくれていた彼女の面影など微塵もない。
連れている子犬も、僕に向かって「ワン! ワン!」と激しく吠えている。
まさに、バトルを始めようとする殺気立った姿──。
だが、今の僕には、そんな雰囲気を察する余裕などなかった。
「と……トイレ……」
ゾンビのように両手を伸ばし、ふらふらとした足取りで、彼女にゆっくりと歩み寄る。
「ち、近付かないで!」
叫び声と共に、彼女が足を大きく蹴り上げた。
そのつま先が、僕の股間を狙って一直線に迫る。
「うーっ!」
僕の呻き声と共に、轟音が響き渡った──。
穏やかだった都会の静寂が、一瞬にして地獄のような空気に変わる。
「チュンチュン」と囀っていた小鳥たちが、一斉に飛び立った。
そして、爽やかな朝の空気に漂い始める異臭。
エリート人生は終わった──。
僕はケツを突き出した情けない格好で地面に崩れ落ち、彼女は真っ青な顔で鼻を摘まみながら、僕を見下ろしていた。
自分のしたことを後悔しているような、彼女の哀れんだ表情は、今でも忘れられない。
しかし──。
悪いことばかりでもなかった。
一年後、僕はその彼女と結婚し、今でも仲睦まじく暮らしている。
END