Oh!クソ人生   作:村上しんご

2 / 2
第二話 成れの果て

 朝の澄み切った空気が、昇ったばかりの朝日に照らされ、綺麗に輝いて見える。

 

 昼間の慌ただしい人の波も、騒がしい車の音も、今はない。

 商店街のシャッターは軒並み閉まり、聞こえてくるのは小鳥たちのさえずりだけだ。

 

 風を切りながら、僕はいつもの道を走っていた。

 日課として始めたランニングも、気が付けば一年になろうとしていた。

 

 僕の人生は、まさに順風満帆──。

 

 大企業にも就職し、まさに勝ち組の人生を歩もうとしていた。

 

 しかし──。

 

 今朝飲んできた牛乳がまずかったのか、どうにもお腹の調子がおかしい。

 ギュルギュルギュルギュルと音を立て、時折、強烈な痛みが下腹部を走る。

 

 定期的に襲ってくる便意の波は、時間が経つにつれて、徐々に間隔が短くなっていた。

 

 お腹を押さえながら必死にトイレを探すものの、ここは街中。

 近くに公衆トイレはない。

 

 三十分も走れば、一番近い公園には辿り着ける。

 だが、そこまではとても持ちそうになかった。

 

 この界隈には、二十四時間営業している飲食店もコンビニもない。

 この時間でも開いているのは、大きな警察署と救急病院くらいだ。

 

 なんとか頭を働かせ、懸命にこの危機を回避しようとした。

 

(両方とも、事情を話せば貸してはくれるだろう。……だけど、もしそこで悲惨な結果になれば……)

 

 そんなことを考えると、どうしても気持ちが躊躇してしまう。

 

 どちらも、夜勤の人間や、そこを訪ねてきた人間が大勢いるだろう。

 

 エリートの僕が、そんな姿を公衆の面前で晒すわけにはいかないのだ。

 僕は今まで、スマートに──そしてカッコよく生きてきたのだから。

 

 そんなことを考えていると、十三回目のピークが下腹部を襲った。

 

(うっ! ……も、もう時間がない!)

 

 なんとか走り続けていたが、ついに限界が来た。

 これ以上は、少しでも衝撃が加われば、中身が出てしまうだろう。

 

 それを阻止するためには、内股になって、そろりそろりと歩くしかない。

 

 幸い、この時間帯に人が歩いていることなど滅多にない。

 

 そう思っていた、その時だった。

 

「おはようございま~す!」

 

 全くの無警戒だった。

 その女性は、前でも後ろでもなく、ビルとビルの隙間から突然現れた。

 

 しかも、犬を連れた若い女性だった。

 

 一目散に逃げ出したい。

 だが、もうそんなことができる状況ではない。

 

「……お……おはようござぁいまぁ~す」

 

 上ずった声で、必死に引きつった笑顔を浮かべる。

 

 それを見た瞬間、彼女の顔が曇り始めた。

 

「……だ、大丈夫ですか?」

 

「……な……なにが、ですかぁ?」

 

 僕は必死に冷静を装っていた。

 

 だが、彼女の声は遠くから響いてくるように聞こえ、目の前の景色はすべて、ぐにゃりと歪んでいる。

 

 頭の中にあるのは、今にも突発的に出てこようとするものを、必死に押さえ込むこと──ただそれだけだった。

 

 会話など、もはや無意識。

 

「……か、顔が……真っ青ですよ……」

 

 しかし、彼女がそう言った時、ピークはあっさりと過ぎ去った。

 

「大丈夫。……少し、気分が悪くなっただけです」

 

 これなら、なんとか耐えられる。

 この隙にトイレを確保できれば、一安心だ。

 

 だが、目の前の彼女が僕に向けた表情は、まるで不審者を見るようなものだった。

 

 一歩ずつ後ずさりしながら、引きつった笑顔を浮かべている。

 挙動不審な僕を、明らかに警戒しているのだ。

 

 ──もう、すでに手遅れだった。

 

 そんな僕の様子を見て、連れていた子犬まで「グルルグルル」と低く唸り始めた。

 

「そ……そうですか。……では、私はこれで」

 

 彼女はそう言うと、唐突にこの場を立ち去ろうとする。

 

 このままでは、勘違いされたまま逃げられてしまう──

 だが、イケてる僕のプライドが、それを許すはずがなかった。

 

「ちょ……ちょっと待ってください!」

 

 彼女を引き留めようと、思わず大きな声を上げる。

 

 しかし、その瞬間──。

 過ぎ去ったはずのピークが、またしても下腹部を襲った。

 

「な、なんですか?」

 

 僕の声に驚き、彼女は青ざめた顔で振り返る。

 最初に挨拶を交わした頃の、和やかな雰囲気はもう完全に消え失せていた。

 

 それもそのはずだ。

 

 額からダラダラと汗を流し、引きつった顔でニヤニヤと笑う。

 今の僕に、いつもの爽やかさなど微塵もないのだから。

 

「……家は……ち、近くですか……?」

 

 普段の僕なら、こんなことを初対面の女性に聞いたりはしない。

 

 しかし、もうダメだ。

 それをなんとか食い止めていたダムは、もう決壊寸前だ。

 

 考えがまとまらないどころか、意識すら遠のいていく。

 

 ここで倒れたら──

 

 次の瞬間には、爆音と共にクソを漏らしてしまうだろう。

 そして呼ばれた救急隊にも、その情けない姿を見られることになる。

 

 薄れゆく意識の中、僕は人生最大の勝負に出たのだ。

 

「……な……何を、考えているんですか?」

 

 しかし、決死の覚悟を決めた僕を見て、彼女は明らかに怯えていた。

 

 当然と言えば、当然だろう。

 

 今日、初めて会った男が──

 切羽詰まった様子で、自分の住まいを聞き出そうとしているのだ。

 

 しかも、目の前の男は明らかに様子がおかしい。

 

 そんな相手に、自宅を素直に教える人間など、そうはいないだろう。

 

「と……トイレ……」

 

 だが、僕は最後の気力を振り絞って言った。

 

 もう、プライドなど何の役にも立たない。

 

「トイレを貸して欲しい」──ただ、それだけを正直に伝えるつもりだった。

 

 しかし、意識のすべてが便意に集中していて、まともな言葉が出てこない。

 

「と……トイレ!? ……トイレに連れ込んで、何をするつもりなの!?」

 

 それを聞いた彼女は、ますます勘違いし、戦闘態勢に入っていった。

 

 吊り上がった目で僕を睨み、ファイティングポーズを取る姿には、先ほどまで心配してくれていた彼女の面影など微塵もない。

 

 連れている子犬も、僕に向かって「ワン! ワン!」と激しく吠えている。

 

 まさに、バトルを始めようとする殺気立った姿──。

 

 だが、今の僕には、そんな雰囲気を察する余裕などなかった。

 

「と……トイレ……」

 

 ゾンビのように両手を伸ばし、ふらふらとした足取りで、彼女にゆっくりと歩み寄る。

 

「ち、近付かないで!」

 

 叫び声と共に、彼女が足を大きく蹴り上げた。

 そのつま先が、僕の股間を狙って一直線に迫る。

 

「うーっ!」

 

 僕の呻き声と共に、轟音が響き渡った──。

 

 穏やかだった都会の静寂が、一瞬にして地獄のような空気に変わる。

 

「チュンチュン」と囀っていた小鳥たちが、一斉に飛び立った。

 そして、爽やかな朝の空気に漂い始める異臭。

 

 エリート人生は終わった──。

 

 僕はケツを突き出した情けない格好で地面に崩れ落ち、彼女は真っ青な顔で鼻を摘まみながら、僕を見下ろしていた。

 

 自分のしたことを後悔しているような、彼女の哀れんだ表情は、今でも忘れられない。

 

 しかし──。

 

 悪いことばかりでもなかった。

 一年後、僕はその彼女と結婚し、今でも仲睦まじく暮らしている。

 

 

 

 

 

                 END

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。