遠いあの日に交わした約束──十年ぶりに会う彼は、今でも覚えているだろうか。
お互いにまだ幼く、あれは単なる口約束に過ぎなかった。
それでも、私は今も忘れていない。
あの頃の思い出は、どれも私にとってかけがえのない宝物のようで、すべてが眩しく輝いていた。
彼は、今どんな大人になっているのだろうか。
待ちに待った今日という日、朝からすべてが違って見えた。
いつもより気合いを入れておめかしし、待ち合わせの公園へと、ウキウキしながら向かう。
「久しぶりだね♪」
遠くに見えた彼は、あの頃とほとんど変わっていなかった。
少し大きめの、キラキラと輝く瞳。
おっとりとして落ち着いた雰囲気も、あの頃のまま──。
その表情からは、優しさが滲み出ている。
彼の姿を見た瞬間、私は思わず声を上げた。
私を見つけた彼は、ニッコリと微笑んだ。
そして、控えめに片手を振りながら、ゆっくりと私に近づいてくる。
「すっかり、大人になっちゃって……綺麗になったね」
そんなことを言いながら、少し照れたようにはにかむ姿も、あの頃と変わっていない。
あの頃なら、そのまま抱きついていただろう。
でも、大人になった今の私たちは、そんなことを気軽にはできない。
二人とも相手をまともに見られず、俯き加減にチラチラと様子を窺っている。
傍から見れば、まるで付き合いたてのカップルのように見えるだろう。
「君も、変わらずカッコいいよ♪」
そう言って笑顔を見せると、彼は照れくさそうに笑った。
「じゃあ、行こうか?」
事前のやり取りで、今日の予定はだいたい決めてある。
まずは食事。
彼の配慮で、私が以前から行きたかったレストランに連れて行ってもらえるのだ。
社会人になったばかりの私たちには、そう気軽に行けるような店ではない。
それでも無理をしてご馳走してくれる彼は、この日のために、どんな努力をしてきたのだろう。
そんなことを考えているうちに──。
ほどなくして、しゃれた雰囲気の店が見えてきた。
「……ここね♪」
私は彼にエスコートされ、その店へ足を踏み入れた。
そして、席に着くなり、たどたどしい会話が始まった。
「ずっと、今日を楽しみにしてたんだ……」
「……私も」
思っていたことや、言いたいことなら山ほどある。
私が海外へ行ってから、十年間、ずっと会えなかったのだ。
それなのに、彼を目の前にすると、思うように言葉が出てこない。
初恋の相手。
それも、幼い頃に将来を誓い合った仲でもある。
今日を皮切りに、新たな未来が始まろうとしている。
緊張やときめき、さまざまな想いで胸がいっぱいだった。
「わぁ~。……美味しそう……」
たどたどしい会話を交わしていると、ウェイターが次々と料理を運んできた。
テーブルに並べられていく料理はどれも豪勢で、思わずSNSに投稿したくなるようなものばかりだった。
「食べようか」
「……うん」
普段なら目にすることさえない、高級な食材を使った料理。
馴れないナイフとフォークを手に取り、恐る恐る口へ運んだ。
そのどれもが、今まで食べたどんな料理よりも美味しい。
今日という特別な日に、これ以上ないほど相応しい料理だった。
「美味しいね♪」
私がそう言って微笑むと、彼は満足そうに笑った。
それはまるで、私を喜ばせることが今日の自分の使命だと言わんばかりだった。
そして──。
一通り料理を食べ終えると、ロウソクに火が灯されたケーキが運ばれてくる。
「誕生日、おめでとう!」
そう。
今日は私の二十歳の誕生日なのだ。
「……ありがとう」
私は感動していた。
彼はこの日のために、こんなサプライズまで準備してくれていたのだ。
そして、きっと──。
あの日、交わした約束も覚えているのだろう。
「プレゼントはこのあと、約束通り最高の場所で渡すよ。……君の気持ちは変わっていない?」
そう言って、彼は不安げな眼差しで私を見つめる。
──私たちが交わした約束は三つ。
一つ目は、私の二十歳の誕生日に再会すること。
二つ目は、どちらかの気持ちが冷めてしまっていたのなら、そのまま別れること。
そして三つ目は──。
お互いの気持ちが変わっていなければ、夜景の綺麗な場所で生涯を誓い合うこと。
「……うん」
私は照れくさそうに返事をした。
なぜか恥ずかしくて、彼の顔をまともに見ていられない。
頬を火照らせながら、ウェイターが差し出したケーキを一口すくい、口へ運ぶ。
口いっぱいに広がる甘さは、今の私にはこれ以上ないほど幸せな味に感じられた。
何もかもが順風満帆──。
まるで、これからの二人の未来を祝福しているようだ。
そんな幸せな余韻に包まれたまま、私たちは店を出た。
「……ついて来て」
彼はそれだけ言うと、私の手を取り、歩き出した。
普段なら鬱陶しくさえ感じる夜の雑踏も、色鮮やかなネオンも、今夜は見違えるほど輝いて見える。
夜空に散らばる星たちも、この喜びを分かち合うようにキラキラと光っている。
そして、到着したのは夜の遊園地──。
昼間の混雑とは打って変わり、夜の遊園地はロマンチックな彩りに包まれ、まるで夢の国のようだった。
「わぁ~!」
私は思わず声を上げた。
目を丸くする私を見て、彼は満足そうに微笑んだ。
これからここで、プロポーズされる──。
そう思うと、胸が熱くなる。
私は恥じらいながらも頬を赤く染め、彼の手を取り、
「よろしくお願いします」
そう答えるのだ。
二人の間にどんな困難が待ち受けようと、彼となら乗り越えていける。
そんな未来に思いを馳せているうちに、私たちはいつの間にか観覧車の列に並んでいた。
「ここから見える夜景は素晴らしいんだ」
「えっ? ……もしかして、事前に見に来てくれたの?」
私の質問に、彼は何も答えなかった。
ただ、自信ありげにニコニコと笑っている。
しかし、前の人たちが一組、また一組と観覧車に乗り込むにつれ、彼の表情が徐々に曇っていった。
そして、私たちの順番が回ってくる頃には、その顔は完全に青ざめていた。
(……緊張でもしてるのかなぁ?)
「ねぇ、大丈夫?」
「……えっ? ……な……なにが?」
「顔が真っ青だよ……」
「……」
私が話しかけても、完全に上の空。
額からはダラダラと汗が滲み出し、瞳孔まで大きく開いている。
明らかに尋常ではない。
しかし、当然と言えば当然なのかもしれない。
人生で一度あるかないかの、すべてを懸けたプロポーズ。
何度も頭の中でシミュレーションを繰り返し、失敗しないように下準備も完璧に整えてきたはずだ。
私だって、心臓がドキドキして、落ち着いてなどいられない。
そして、観覧車が頂上付近に差し掛かる。
彼は、もう最初の頃の面影など完全になくしていた。
滝のように流れる汗。
それをハンカチで忙しなく拭う姿には、落ち着きなど微塵も感じられない。
血の気の失せた顔は、まるで死にゆく間際の病人のように、生気をなくしている。
それでも、彼は震える手でポケットを探った。
そして、そこから何かを取り出す。
「……た……誕生日、おめでとう……」
そう言って、私の前に差し出されたのは、明らかにジュエリーケースだった。
瞳から涙が溢れ、視界が徐々にぼやけていく。
きっと、この中には指輪が入っている。
そう思った、その時──。
ケースが、音を立ててパカッと開いた。
「ぶりっ! ……ぶりぶりぶりっ!」
だが、その瞬間──。
信じられない轟音が、観覧車の中に響き渡った。
目の前に現れたのは、確かに結婚指輪だった。
しかも、大きめのダイヤモンドが付いた、目が眩むほど美しい指輪だ。
社会人になったばかりの彼が、これを用意するために、どれだけ苦労してきたのだろう。
本当なら、感動で胸がいっぱいになるはずだった。
しかし、もう感動している場合ではない。
二人きりの閉ざされた空間は、完全に地獄と化した。
「……だ……大丈夫?」
私は、それしか言うことができなかった。
「えっ? ……なにが?」
しかし、それに対しての彼の反応は、想像を遥かに超えていた。
まるで、何事もなかったかのような、爽やかな態度。
その顔は、心なしか少しスッキリとしていて、悟りでも開いたかのように穏やかだった。
──先ほどの悲劇など、最初から存在しなかったかのように、落ち着き払っている。
「僕と結婚してください……」
(いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや……それは無理だろう)
今までの苦労を無駄にしたくないのは分かる。
この日のために、身だしなみから何から何まで整えて、想像できないほどの努力をしてきたのだろう。
だが、先ほど響き渡った轟音は、明らかにただのオナラではない。
湿り気を帯びたその音は、内容物まで漏れ出したことを嫌というほど物語っている。
しかも、充満していくこの強烈な臭い。
目に見えるものすべてが歪んで見え、息をすることさえできない。
この臭いを少しでも吸い込んでしまったら、今度は私が食べたばかりのご馳走を吐き出してしまうだろう。
そうなれば、この場はますます修羅場と化してしまう。
感動で溢れるはずだった涙は、いつの間にか悶え苦しむ涙へと変わっていた。
「……感動で言葉が出ないんだね♪」
しかし、彼は頑なに態度を崩さなかった。
クソを漏らしてしまった事実など、完全になかったことにしている。
こんな状況にもかかわらず、淡々とプロポーズを続けようとする、その傲慢さ。
私は憎しみを通り越し、殺意すら芽生え始めていた。
そういえば、こいつは子供の頃からこうだった。
自分のミスで希望が絶たれたというのに、物事を無理やり進めていくような奴だった。
あの頃は、そんな姿にヒーローのような憧れを抱いていた。
だが、今は大人だ。
こんな非常事態で、そんな姿を見せられても、感動どころか虫唾が走る。
私は今にも吐きそうなのだ。
「ちょっと黙って!」
プロポーズなど、もうどうでもよかった。
早く地上に降りて、新鮮な空気を吸いたい。
しかし──。
ゆっくりと回る観覧車は、まだ頂上付近だった。
月の光を受け、キラキラと輝く結婚指輪が、私の目の前に差し出されている。
その時、遊園地ではアトラクションの花火までが、パンパンと音を立てて打ち上がった。
(私は、何故こんな目に遭っているのだろう……?)
眼下には、一面に広がる美しい夜景。
夜空では花火まで打ち上がり、その美しさを一層引き立てている。
しかし──。
この密閉された観覧車の中だけは、まるで、ぼっとん式の汚れた便所のような強烈な臭いが充満している。
(こんな人と結婚して、私は本当に幸せになれるのだろうか?)
クソを漏らしながら平然とプロポーズをするような奴と、私は本当に生涯を共にできるのだろうか。
まして、私がこんな辛い思いをしているというのに、奴はまるで他人事だ。
幸せな未来を夢見て、ニコニコ笑っている姿は、まるで脳内がお花畑のようにさえ見える。
そう思うと、無性に腹が立ってきた。
十年間、この日のために待ち続けてきたというのに──。
今日という大切な一日を、台無しにされたような気分だった。
「さあ、返事を聞かせて……」
この期に及んでも、奴は私と結婚できると信じて疑っていない。
ズボンの尻の部分は黄色く汚れ、そこだけこんもりと膨らんでいるというのに。
私は、この強烈な臭いに耐えながら、深く息を吸った。
そして、ゆっくりと目を閉じ、自分に言い聞かせる。
(こんなの、百年の恋も冷める!)
「バチーン!!」
私の手のひらが奴の頬を直撃し、結婚指輪が宙を舞った。
私たちの恋は終わったのだ。
それから彼とは、二度と顔を合わせることはなかった。
END