スコアは四対四。
試合は最終局面──。
ここで点を取られれば、日本にはもう後がない。
長年追い続けてきたオリンピックへの夢も、すべて消え去ってしまう。
女である私が、野球という競技に人生を懸けてきたのも、すべてオリンピックのためだ。
だからこそ、この最後のチャンスを逃すわけにはいかない。
女子野球には、プロとして活動できる環境がない。
三十を目前にした今、引退という文字も現実味を帯び始めている。
オリンピックという舞台で実績を残し、次のステップへと歩み出すのだ。
あいにく、私にはこの美貌がある。
私を見た瞬間、すれ違う男たちは誰もが振り返る。
生まれ持った美しさに、鍛え抜かれたスタイル。
どこを取っても、悪いところなど見当たらない。
スポットライトを浴びる機会さえあれば、タレントとしてだって十分やっていけるのだ。
だからこそ、この試合は絶対に落とせない。
中継ぎとしてマウンドに上がった私の役目は、この回を無失点で抑え、次のイニングへつなぐこと。
そうなれば、次の攻撃で私の打順も回ってくる。
そこで点を取り、勝ち越すのだ。
私は、いつになく力がみなぎっていた。
相手は米国──。
打順は三番、キャサリンから。
パワーと技巧を兼ね備えたこの選手には、すでに三安打を許している。
そのうち一本は、スタンドに叩き込まれた大きな一発だった。
だが、私にかかれば、どうということはない。
150キロを超える自慢の豪速球と、打者のタイミングを完全に外すスローボールがある。
なにより、私の投球フォームは優雅──。
蝶のように舞うその姿に見惚れているうちに、相手は空振りしてしまうのだ。
バッターボックスに立つキャサリンは、完全に打つ気満々でこちらを見据えていた。
バットをクルクルと回し、投球のタイミングをリズムよく計っている。
そんなキャサリンを前にして、私はセットポジションに入った。
そして、声を上げながら、渾身の一球を投げ込んだ。
「刮目せよ! ……この華麗なアンダースローを!」
応援の熱気で賑わっていた球場が、その瞬間だけ一気に静まり返る。
ボールが空気を切り裂く音が響き、キャッチャーのミットに球が収まった瞬間──。
「パァーン!」
乾いた心地よい音が、球場中に響き渡った。
キャサリンのバットは空を切り、身体は大きく泳いでいる。
「ストライク!」
1球目は、外角低めのストレート。
電光掲示板に表示された球速は──151km/h。
その数字が、まばゆく点滅していた。
その瞬間、観客席にどよめきが走り、すぐさま大歓声が沸き起こる。
スタジアムは熱狂の渦に包まれていった。
世界中を探しても、これほどの球速を投げられる女性など、そうそういないだろう。
だが、私はまだ余力を充分に残している。
全力投球を十とすると、今の投球は八割ほどだ。
キャッチャーが返球し、ボールがミットに収まると同時に、私はすぐさま投球モーションに入った。
私にダラダラとした間など必要ない。
テンポよく投げて、相手から三振を奪うのだ。
「蝶のように舞い、蜂のように刺ぁーす!」
大きく声を上げて、二球目を放つ。
キャサリンは慌ててバットを構え直したが、高めに外れたボール球には手を出さなかった。
「ボール!」
球速は、さっきと同じく151km/h。
「振ってくれれば儲けもの」──気楽にそう考えていたが、やはり一筋縄ではいかなかった。
バッターボックスに立つこの女は、一流の選球眼を兼ね備えているのだ。
緊迫した空気の中、ひと筋の汗が背中を伝う。
ボールが返ってきた瞬間、私はまたしても、すぐに投球モーションへ入った。
さっきと同じく、豪快で優雅なフォーム──。
「見よ! ……緩急を自在に操るこのピッチング!」
ボールを投げ込む勢いは、何一つ変わらない。
だが、手から離れた球は大きく弧を描き、縫い目が見えるほどゆっくりと回転しながら宙を舞っている。
タイミングを外されたキャサリンは、ボールがホームに届くより早く、バットを豪快に振った。
その瞬間、バットが唸るような轟音と共に空を切る──。
「ストライーク!」
声と同時に、審判の手が高く上がった。
電光掲示板に表示されたのは、98km/h。
あまりの球速差に、キャサリンは対応できなかった。
苦虫を噛み潰したような顔で、バットで地面を叩いている。
ここまでくれば、後は持てる力のすべてを使った、渾身の一球を投げ込むだけだ。
私はキャッチャーが返球すると、今度はボールの縫い目を確認し、そこを力強く握った。
そして、大きく振りかぶって──。
「ひっさぁーつ! ……全力投球!」
そう叫びながら、球を思いっきり投げ込んだ。
球は唸りを上げて、バッターの胸元をかすめるような軌道を描き、一直線に伸びていく。
その瞬間、キャサリンの目がキラリと光った。
そして、アッパー気味にバットを豪快に振り抜く。
「ズバァーン!」
しかし、バットは大きく外れて空を切る。
ボールがキャッチャーのミットに収まると、乾いた音が爽快に響き渡った。
「スットラァーイク! ……バッター、アウト!」
キャサリンは勢い余って、そのまま尻もちをついている。
途方に暮れた様子でこちらを眺めるその顔は、まるでとんでもない生き物に出会ったかのようだ。
私はキャッチャーからの返球を受け取ると、何事もなかったかのようにロージンバッグへ手を伸ばした。
何もかもが完璧だった。
明日の新聞の見出しには、私の名前──一条寺さやか──とともに、『世界の舞台で奪三振ショー!』という文字がデカデカと踊っていることだろう。
それほどの衝撃を、このスタジアムにいる全員へ与えたのだ。
電光掲示板に表示された球速は──155km/h。
球場全体が熱狂の渦に包まれ、あちこちから大歓声が沸き起こっていた。
しかし、次のバッターは米国屈指の四番、エルザ。
この女には、過去の対戦でも何度かスタンドに大きな一撃を叩き込まれている。
キャサリンのように、そう簡単にはいかないだろう。
しかも、私と同様に美形なのだ。
アスリートとは思えないほど整った顔立ちと上品なスタイル。
モデルだと言われても、疑う者は誰もいないだろう。
実際、モデルとしても世界の舞台で何度か活躍している。
私はネクストバッターズサークルから、ゆっくりと打席へ向かうエルザを、険しい顔で睨みつけた。
しかし、涼しい顔をしたエルザは、表情一つ変えずにマウンドを冷静に見据えている。
不動の構えですらりと立つその姿は、まるで映画のワンシーンから抜け出してきた女優のようだった。
この女には、小手先のごまかしなど通用しない。
実際、過去の対戦で打たれたのも、タイミングを外そうとしたスローボールだった。
私は声を張り上げ、今、出せるすべての力を込めて球を投げ込んだ。
「私の方が、美人だぁぁー!」
球はエルザの膝元へ、一直線に伸びていく。
「カキーン!」
まるでお手本のような、シャープなスイング。
あれほど力を込めたはずなのに、球はあっさりと打ち返されていた。
鋭い打球音が響き渡ると、球場内が一瞬だけ静まり返る。
スタンドへ向かって伸びていった打球は、そのまま大きく外れ、ファウルグラウンドへ吸い込まれていった。
「ファール!」
やはり、この女はただ者ではない。
見た目の美しさに惑わされ、数々のピッチャーたちが敗北を喫してきたのだ。
私は今まで以上に、球を握る手へ力を込めた。
そして、さらに勢いをつけて球を投げ込む。
「このぉ、お高くとまった高飛車女がぁー!」
しかし、エルザはピクリとも動かなかった。
胸元ギリギリを狙った球は、ボール一個分だけ外れていた。
電光掲示板に表示された球速は、さっきと同じ155km/h。
「ボール!」
エルザの顔には余裕すらうかがえる。
それでも、私は逃げるわけにはいかない。
持てる限りのすべてを込め、渾身の球を投げ込む。
「世界に羽ばたくのは私だぁぁー!」
「カキーン!」
エルザのバットが再び球を捉えた。
だが、打球はまたしてもファウルグラウンドへ向かって飛んでいった。
そこからは、まさに一進一退の攻防。
際どく外した球はすべて見逃され、ストライクを取りにいけば、ファウルグラウンドへ叩き込まれる。
そして、いつの間にかカウントはツー・スリー。
(このままでは埒が明かない……)
そう思った私は、こいつを三振に取った瞬間の未来を思い描き、深く息を吸い込んだ。
──沸き起こる大歓声。
球場中の誰もが、見事な三振劇に酔いしれ、惜しみないエールを送り続けるだろう。
世界一の美女が私だと、世間も改めて認識する。
そして、球界を引退した後には、オファーが山のように殺到するのだ。
そんな輝かしい未来を思い描きながら、私はありったけの力を込めて球を投げ込んだ。
「いつまでも、しつこいんだよぉー! ……クソ野郎ぉー!」
まさに、ど真ん中へ向かってボールが伸びていく。
それを見たエルザは、絶好のチャンスとばかりに鋭くバットを振り抜いた。
「ズッバァァーン!」
しかし、その球威は、私でさえ今まで見たことがないほどだった。
エルザのバットは空を切り、ボールはキャッチャーのミットへ吸い込まれていく。
「スットラァーイク! ……バッター、アウト!」
電光掲示板に表示された球速は──158km/h。
騒がしかった球場にどよめきが走り、それは一気に大歓声へと変わっていく。
まるで、日本が優勝したかのようなお祭り騒ぎ──。
球場は一気に熱狂の渦に包まれていった。
しかし、当の私はそれどころではなかった。
あまりに力を込めたせいで、お尻からウンチが漏れてしまったのだ。
少しだけだと思いたい。
しかし、下着にかかるこの重み──。
決して少量ではないことを、嫌というほど物語っている。
確かに、少し前から便意は感じていた。
だが、それほど切羽詰まった感じではなかったし、お腹を壊しているわけでもない。
通常なら我慢できる程度の、許容範囲のはずだった。
試合が終わるまで、何事もなく収まるはずだったのだ。
私は気が動転していた。
世界中の誰もが注目するこの場で、脱糞してしまったなど、美人の私が悟られるわけにはいかない。
ばれた瞬間、私の上品なイメージが音を立てて崩れ去ってしまう。
しかし、お尻の辺りは漏れたもので、こんもりと膨れ上がっている。
さらに、その汚物から染み出した黄ばんだ液体が、アンダーウエアにまでじわじわと滲み出してきている。
しかも、激しい動きをしてしまったら──。
いつ、それがぼとりと落ちてしまってもおかしくはない。
なにより、強烈なこの臭い。
誰かが近くに寄ってきたら、すぐに気付かれてしまうだろう。
すぐにでもトイレに駆け込んで、下着を取り替えたい。
だが、対戦相手を前にして、アスリートの私が逃げ出すわけにはいかないのだ。
打順は五番、アナコンダ。
エルザのような華やかさはないが、こいつも粘り強い打撃で、対戦投手を苦しめている。
だが、この時の私は、打ち気満々のこの女を前にして、早く勝負を終わらせることばかりを考えていた。
ひたすら額の汗を拭っているのは、緊張のせいではない。
下着の中のウンチが落ちてしまうのではないか──。
そのことが気になって、気が気ではないのだ。
もう、あの派手なアンダースローで投げるわけにはいかない。
私はまるで相手を馬鹿にしているかのように、キャッチボールでもするような女投げで、軽く球を放った。
「スポーン!」
「ストライク!」
球場中の誰もが、驚きを隠せなかった。
あの豪快で華麗な投球が一転して、やる気の感じられない力の抜けた投球へと変わってしまったのだ。
手を出すことさえしなかったアナコンダは、怒りで身体中をブルブルと震わせている。
鬼のような形相で私を睨みつけるその姿は、まさに鬼神そのものだった。
しかし、それでも私は、こうやって投げるしかない。
私はまたしても女投げで球を放った。
顔を真っ赤に染めたアナコンダは、怒りに任せてバットを振り抜く。
「カッキーン!」
しかし、彼女はすでに冷静ではなかった。
気負って打った球は、バットに当たった瞬間、ファウルグラウンドへ一直線に飛んでいった。
ここまでは私の計算通りだった。
一球だけ──。
一球だけなら、何とか全力を出せるはずだ。
あいにく、身体にぴったりとした下着を履いている。
例のものは、まだお尻の中心辺りに留まっている。
一度くらいなら、下着からはみ出すことはないだろう。
私は、この一球にすべてを懸けた。
セットポジションに入り、大きく振りかぶる。
「私はクソなど漏らしてなぁーい!」
また、あの豪快で華麗な投球が舞い戻ってきた。
それを見たアナコンダは、顎を引き、グリップを強く握りしめる。
ど真ん中を狙った球は、浮き上がるような軌道を描き、高めいっぱいへ伸びていく。
迫るボールに合わせて、アナコンダがバットを勢いよく振り抜く──。
「ズッバァーン!」
しかし、バットは空を切った。
ボールは音を立ててキャッチャーのミットに収まっていく。
「スットラァーイク! ……バッター、アウト!」
まさに、奪三振ショー。
電光掲示板には、さっきと同じ158km/hが表示されている。
その瞬間、球場全体が大歓声に沸き上がった。
喜びのあまり、勝ったわけでもないのにキャッチャーまでもが駆け寄ってこようとする。
しかし、私は涼しい顔で、それを制した。
近くに寄ってこられ、臭いでウンチを漏らしたことを悟られてはならない。
危機を脱したばかりなのに、ここで気付かれてしまえば、これまでの苦労がすべて水の泡となってしまう。
そろりそろりとベンチに戻りながら、次の対策を考える。
──まだ、トイレには行けない。
この回、私は二人目の打者なのだ。
私はバットだけを手に取ると、すぐにネクストバッターズサークルへ向かった。
そして、この忌まわしい臭いを掻き消そうと、バットをブンブンと振り回す。
「うりゃー! ……うりゃー!」
しかし、下半身をあまり動かすわけにはいかない。
私はウンチを気にしながら、少しでもお尻の辺りの臭いを吹き飛ばそうと必死になっていた。
なぜなら、バッターボックスのすぐ背後には、米国のキャッチャーと審判がいるのだ。
八番打者の川辺が、少しでも時間を稼いでくれればと願う。
そうすれば、この臭いもいくらかマシになるだろう。
幸い、川辺は結構粘ってくれた。
まだ完璧とまではいかない。
だが、これで少しはこの臭いも誤魔化せる。
「あぁ~、便秘が辛いなぁ~。……もう、一週間も出てこない」
私はバッターボックスに立ちながら、便秘のフリをした。
そうすれば、こんな臭いを撒き散らしていることにも説明がつく。
漏らしたことがバレるより、ずっとマシだ。
キャッチャーと審判は、少し怪訝な顔をしている。
だが、私は何事もなかったかのようにバットを構えた。
マウンドに立つのは、米国屈指の本格派投手、ミザリー。
手元で浮き上がるように見えるジャイロボールと、軌道が予測不能なナックルが、この女の武器だ。
普段の私なら、何ということはない。
だが、今の私はバットを振れない。
下着の中心にあったウンチは、徐々に移動し、今にもはみ出しそうなところまで来ているのだ。
下半身を激しく動かすことなど、論外。
すべての球を見逃すしかないのだ。
──一球目、ナックル。
私は少し悩むような顔を作り、ボールを見送った。
際どいコースだったが、判定はストライク。
あと二球。
──二球目、唸りを上げた速球が膝元を狙う。
「ストライク!」
あと一球。
これで、トイレに駆け込むことができる。
これで、この忌まわしい感触ともお別れできるのだ。
だが──。
三球目。
すべての球を見送るはずだった。
しかし、アスリートとしての私の本能が、それを許さなかった。
ど真ん中をめがけて、ゆっくりと迫ってくる球。
誰が見ても明らかな失投だった。
こんな球を見逃せるはずがない。
私は思わず、バットを振り抜いていた。
「カッキーン!」
腰を効かせた、完璧なフルスイング。
しかし──。
「ブリッ! ……ブリブリ!」
まだ腸に残っていたものが、勢いに任せて一気に放出された。
「ホ……ホームラン!」
球審が大きな声でホームランを告げる中、私は涙を流していた。
感動のあまり泣いていたわけではない。
私の夢は、跡形もなく崩れ去ったのだ。
大観衆が見守る中、私のアンダーウエアの尻の部分はクソまみれになり、足首からは内容物がボタボタと落ちている。
先ほどまで一気に沸き起こった大歓声も、次第にどよめきへと変わっていった。
次の日──。
新聞の見出しには、私の名前──一条寺さやか──とともに、
『世界の舞台で脱糞ショー!』
という文字がデカデカと踊っていた。
そして私は、一躍、時の人となった。
END